
<飯島 勲>
文春10月号を見て文春も読み甲斐のある記事がなくなったなと感じたのが率直なところだ。しかしその中に“総裁室に陣取る第一幹事長飯島”という記事があり、ははあ、やっぱりと思った。参院における郵政民営化法案否決以後の淀みない小泉首相の動きはそれを強力に支える裏方の存在を推測させたが、矢張り首相秘書官飯島 勲がそれだった。参院での否決を受けての衆院解散という劇的な処断の裏話こそすっぱ抜いていないが、衆院選挙の候補者選定に関しては、一議員秘書である首相秘書官が党幹事長武部勤や総務局長二階堂俊博をさしおいて、これだけ党の候補者調整に関与したのは自民党五十年の歴史の中で初めてのことと記している。
衆院で法案に反対した自民党議員全員を非公認とし、彼らの立つ小選挙区すべてについて対抗馬を立てることを小泉首相は宣言して、これに対して解散当日のテレビで“時間的な問題もあり、現実的にはどうか”と発言した武部勤幹事長を叱りとばし、武部を“鬼気迫る言葉に全身がしびれた”と小泉教の信者に変身させた。政権発足当時の如き小泉のカリスマ回復によって内閣支持率も党支持率も急上昇、“ここは小泉のやりたいようにやらせた方がいい”という空気が執行部内に広がったという。飯島は教祖の代理人として党本部四階の総裁室を使用し、幹事長室の武部と競うように候補者調整に乗り出した。
中越地震で壊滅した新潟県山古志村(長岡市び編入合併された)の元村長・長島忠美が“できるだけ早く、みんなを連れて故郷へ戻る”目標にこだわって首相官邸に新潟5区(田中真紀子の牙城)からの出馬要請を断りに来たのを、比例名簿1位に据え直して飯島が口説き落とした。元郵政相八代英太は法案に反対したので無所属で東京12区から出馬予定だったが、候補を立てる公明党に配慮して小泉首相が唯一柔軟姿勢を見せ比例東京上位に鞍替えしかけた。しかし“法案反対者に例外を作る”との党内の反対が強く、飯島が改めて“諦めてくれ”と頼み込んだ。結局八代氏は東京12区から立候補したが、出遅れとケチがついたこととで落選した。
その後飯島と武部がどのように小泉劇場の演出を分担したのかは定かでないが、今回の選挙とその結果には明らかに多くの政治への無関心層に政治への興味を惹き付ける効果があった。欧米諸国から中韓両国に至るまで世界を呆気に取らせたドラマの筋書きを作り、他の自民党首脳を蚊帳の外において小泉首相に実行させた張本人が私もひそかに推定したように飯島 勲であったことがこの際ハッキリした。多くの日本人の度肝を抜いたのだから、陰で当人はさぞや会心の思いでいることだろう。国の借金をはじめとして政治課題は山積みで、この際その解決に国民がついていく気になる良案を提示してくれれば、表向きにも名を残すことができるだろう。

<カビ>
ハリケーン・カトリーナの被害は8月29日にニュー・オーリンズを始めとする米国南部をハリケーンが襲ってから1月を越えたが、まだその実態のすべては明らかになってはいない。9月末現在発表された死者の数は1134人だが、その後襲来したハリケーン・リタによって一度は排水した地域が再度冠水したこともあって、調査・復旧ははかばかしく進んでいないようである。
久しぶりに浸水した我が家を訪れた被災者を驚かせるのは壁や天井、家具まで一面のカビに被われていることである。カビは点在といった程度ではなく、黒や黄色、緑と全面に花を咲かせている。水に浸かっていなかった衣類にまでカビが生える。こうなると人はパニックになる。この環境で暮らすとジンマシンになったり、呼吸器系を侵されて肺炎になったりする。とても永くは住めたものではない。
前項に次いでの文春10月号のすっぱ抜きに高松塚古墳の壁画がある。1972年に発見された石室内の青龍、朱雀、白虎、玄武の四霊獣と飛鳥美人と呼ばれる男女の群像は今や発見時の色鮮やかな画面が消失し、特に躍動感ある描線で描かれていた“白虎”は今や全面をカビに覆われてぼんやりとした老猫の姿に変わり果てたという。実は1980年頃からカビの発生が認められ、それを殺すためにアルコールで拭いたり、パラフォルム・アルデヒドで薫蒸したりした。その後の調査によればカビを殺すと死体などの残滓が残り、それが後から侵入してくるカビの栄養源になったようだ。カビは2001年に大発生したが、文化庁はその後も事実を隠し通した。2003年には関係者は頭を抱えていたらしい。この期に及んで(2005年6月)文化庁は石室内での保存を諦め、石室を解体して修理するというが、そのようにこれから金をかけて何が残るのだろうか。国宝に指定されたこの壁画は写真集にも登録されたから、残念でもそれで我慢するしかない。
カビと健康というテーマで調べてみると、カビ(真菌=糸状菌)が原因で発症するケースは皮膚から侵入して病変を起こす表在性のものと、呼吸や経口で体内に侵入して障害を起こす深在性のものがある。前者は頭部のシラクモ、全身皮膚のタムシ、足指のミズムシなどで、後者には脳・中枢神経を冒すカンジダ症、ムコール症、肺を冒すアスベルギルス症、クリプトコッカス症、気管支喘息等10指に余る感染症が挙げられる。これらの多くは空中に浮遊している真菌が原因で発生するもので、またカビを餌として繁殖するダニによるものもあり、その多くがアレルギー性疾患である。カビ毒としてはアブトラキシンの毒性が顕著であり、肝臓ガンなどの発がん性が指摘されている。
カビが好む環境は温度:20〜35degC、湿度:70%以上、栄養源:結露水・垢・食物のかけら・壁紙・壁紙の糊・加湿器の水などである。最近は住宅の断熱性・気密性の向上により、梅雨時のみならず年間を通じてカビ発生の可能性が高まっている。結露や通風の欠如はそれを助長する。
<地震雲> 前月末のテレビ番組“みのもんたS.O.S.”ではいつ来るか知れない大地震の恐怖について特集していたが、その中で関心をもったのは地震の前兆とも見られる異常な形状の雲である。自分には全く経験がないのだが、話を聞いてみるとこれはとても偶然のできごととは思われない。たまたま空に出現した通常とは異なる形状の雲を何人もの人が写真撮影しているが、その後で発生した大地震と関係があるのではないかと整理してみると概ね次のようになる。




<壁紙> 1日中眼前にあるパソコンのスイッチを入れているから、その画面は見るともなく常に眺めている。何かの拍子に以前から見慣れた画面が消え、暗い単調な背景になってしまった。今まではボスポラス海峡のルメリ・ヒサーリの古い要塞を眼下に見下ろし、海峡を通過していく船と対岸の景色を眺める画面だった。その前はヴェネツイア辺りの夕景で水面に屋根付きの橋がかかっており、遙か前方に特徴のある聖堂の尖塔が聳えていた。
そのまた少し前は強風で破壊されて再建された米国のタコマ橋を見下ろす画面で、近代的に設計された吊り橋を多数の車が行き交っていた。無意識に選んでいる画面は自宅の窓からこんな景色が眺められたらよいと感じたものらしい。水面のある欧米の風景が多くなってしまったが、さほどこだわっているわけではない。


<ライシャワー大使> もう多くの日本人の記憶から消えかかっているのであろうが、日本研究の専門家として著名でありハーヴァード大学教授を勤めており、日本人であるハル夫人を妻にもつエドウイン・ライシャワー博士が新たに誕生したケネデイ政権によって駐日大使に指名され、ようやく敗戦の淵から抜け出そうとしていた日本に1961年から1966年まで滞在して日本の国際社会復帰を助けたことは日本にとって極めて幸いなことであった。氏の当時の心境を記述した“ライシャワー大使日録(講談社学術文庫)”を紹介する。
長老派教会の宣教師だった父オーガストは来日後新渡戸稲造らと東京女子大を設立、エドウインともども日米開戦の九ヶ月前までそのキャンパス内に住んでいた。夫人は松方家の出である。この人事が決定するに当たってケネデイ大統領の就任演説が氏の心を強く動かし受諾を決意させたし、日頃親の言うことなどろくに聞こうとしない子供たち、ボブ(長男)とアン(長女)、ジョーン(末娘)の三人とも賛成し祝福してくれた。上院外交委員会ではマンスフィールド副委員長(後の駐日大使)とフルブライト上院議員が強く氏を推し、ハルに関して非常に好意的なコメントを寄せた。ケネデイ大統領と会って就任が決定すると、先例のないことだが訪米中の日本人記者団と駐在の特派員たちをホワイトハウス内のブレアハウスに招いて赴任前の記者会見を行った。当初怯えていたハル夫人も落ち着きを取り戻し、すっかり大使夫人らしくなった。
日本に到着すると、異例のことだが主要国の元首級の歓迎を受けた。天皇に信任状を提出すると、天皇はことのほか親愛の情を示された。30人を超える大使館の切り回しはすべてハル夫人の仕事になった。大使館は米国をはじめとする外国要人のホテルにもなっていた。新任米大使はマスコミの関心の的であり、度々テレビにも出演した。当時日米間には解決すべき多くの政治問題があり、それらすべてに大使は深く関わった。継続中のテーマとしてガリオア・エロア債務(日本・ドイツ・韓国などに支出された米軍事費で、占領地復興支援基金)返還問題、韓国問題(日韓国交正常化の事前交渉、日本政府は直接交渉を禁じられていた)、琉球問題(米国は日本の沖縄への潜在主権を認めていたものの、現実には米国の無期限占領が続いていた。ケネデイは近い将来沖縄が日本に返還されるべきことを明言した)、核搭載米艦の日本寄航問題などがあった。
最初の大仕事は池田首相の初訪米支援だった。お陰で池田首相は自信を持って日米会談に臨み、訪米はあらゆる点で成功を収めた。この結果(大使の意図通り)ケネデイ大統領も池田首相もパートナーシップという言葉を使い始めた。次は沖縄に飛んで高等弁務官キャラウエイ中将と親密な連係を築き、徐々に日本の役割を拡大させるという基本方針を確立した。忌日すると日韓交渉の予備会談として箱根会議を設営した。大使もハル夫人も連日クタクタに疲れていたと日記には書いてある。当時の大使は文字通り八面六臂の活躍をしていた。
翌62年にはロバート・ケネデイが来日し、早稲田大学講堂で4000人の学生と語り合った。急進的な学生との対話はリスクが大きかったが無事成功させ、これを機に大使は日米の友好関係改善に顕著な成功を収めつつあるとハル夫人は記している。この頃から本国政府との意思疎通がうまくいかなくなったことを嘆く記述が増えている。ガリオア債務返還で日米は合意に達し、大平外相と大使は正式に調印した。キューバ危機が発生したが、駐日ソ連大使は米大使に対して一貫して友好的な態度を保持し続けたという。沖縄援助計画についての正式交渉再開に当たり、日本議会が予算をカットしそうなので、ラスク国務長官に声明を出してもらい、大平外相との会談をテレビ放送した。次期首相と目されている佐藤栄作がどうしても会いたいとやってきて、またテレビ収録となる。この頃の米大使は事あるごとに前面に出て活躍している。
63年、沖縄問題で本国政府と話し合い、キャラウエイ中将の“日本人は沖縄に手を出すな”という高圧的・独善的な方針を牽制することになる。国会での核兵器を積んだ米艦の日本寄航に関する質問に官房長官が“日本政府は米国を信頼している”と答弁、心配のあまり夜眠れないほどで、翌日この問題で大平外相を公邸に招き協議し、善処することになった。ケネデイ大統領が暗殺され、初の日米衛星テレビ中継でその実況が奇しくも放送されることになった。実はここでライシャワー大使の書いた原稿をもとに大統領が日本向けの演説をする予定だった。大使館では追悼ミサが行われ1ヶ月間喪に服したが、一方でジョンソン新大統領の下で米国の政策に何らの変化もないことを強調した。
64年初頭、―ワシントンに打電してケネデイ大統領の葬儀に赴いた池田首相をヨーロッパ主要国代表と同等に扱うよう要請、これを受けたラスク国務長官によって池田は真っ先にジョンソンと個別会談をもち、懸案になっていた経済会議の早期開催を約すことができた。池田は空港に迎えに来た私をつかまえて事細かく報告し、感謝した。この3年をふりかえってみると、日本語を話せる大使と日本生まれの妻は米大使館と米国そのものに対する日本人の感情を親しみのあるものに変えた。私の学者としての知識と長年にわたる教師としての経験が来日する米国政府関係者に問題の本質を理解させるのに役立ったし、低姿勢なアプローチをマスコミを通じて日本各方面の人々に理解してもらうことができたーと彼は記している。3月末大使は若い一人の日本人に襲われ、右太股に包丁を突き刺された。直ちに止血処置の上で運び込まれた一流病院で最大級の看護が始まった。日米関係にひびが入らぬよう、大統領と国務長官はすかさず適切な声明を発表したし、池田首相はテルスター通信衛星を使って米国民に直接謝罪した。刺傷による直接の出血とその後の大量の下血を補うために輸血をしたが、それが原因で後になって氏は長期間(一生?)肝臓障害に悩まされた。リハビリを経て7月上旬公邸に帰任。この年東京には高速道路網ができ、オリンピックが開催された。
65年米軍北爆を開始。ベトナム戦争一挙に拡大。米国の対ベトナム政策への日本国内での反撥が高まったと手記では嘆いている。日本の大新聞が共産分子のせいでベトナム戦に反対していると米上院で政府高官が発言し、この“荒唐無稽な失言”の被害を最小限に食い止めるべく、大使は躍起になって奔走する。米国からは否定や謝罪のメッセージが山のように届いた。日本の報道関係者から大使館が絶大な信頼を得ているために騒ぎは大きくならずに収まったと氏は書いている。また氏は自身の撤退を考え始めたとも記している。駐日大使が私でなくてはならない理由が薄らいできたと。だが今は時期がよくない。大阪で“ベトナム問題に関して日本の新聞は均衡の取れた報道をしているとは思えない”という強硬な発言をした。朝日の社説は“親しい友人からの忠告”として反省の弁を記した。日韓条約批准される。
66年、ハンフリー副大統領の来日を受けて日本政府にベトナムに関してかなり親米的な声明を出させた。彼は5年間の成果を次のように総括している。―私たちはアメリカに対して必要以上に鋭敏になっていた日本人の感覚を普通のレベルに下げることに成功した。アメリカの政策への反応としてではなく、日本自身の利害に基づいて世界の問題を考えるように、日本政府や国民を仕向けることをなしとげた。この半年間のムードの変化は驚き以外の何ものでもない。日米関係や日本の対外政策は速いペースで望ましい方向に進んでいる。自分のここ二、三年の予測の正しさが立証され、努力が実るのを見て心から安堵している。― 天皇皇后両陛下にお別れの挨拶をし、大勢の知己と別れの会をもって、夫妻は8月19日帰国。彼は国務省高官への就任要請を断り、ハーヴァード大学に戻ってライシャワー日本研究所を設けた。
ライシャワー氏は心から日本を愛し、大使としての職責を通じて何とか日本人に自信を取り戻してもらいたいと念じ、結果としてそれを実現した。不幸なことにベトナム戦争が激化し、親米派の日本人までもベトナム戦争反対に動いて反米運動が高まった。彼自身立場上表には決して出せなかったが、国の政策に同意できず悩みは大きかったと思われる。氏が自ら辞任を申し出た最大の理由がこれで、第2は彼を選任したケネデイの死去だったと推察する。しかし在任中に日米の経済閣僚会議が実現し、彼の念願である日米のパートナーシップという理想に近づいた。成熟した国際関係は軍事同盟よりも文化交流と人的なつながりにあることを強調していた氏は忘れてはならぬ名大使だったのであろう。昨今日米間に悲惨な戦争があったことを知らない若い世代が生まれたのも、彼の施策の図らざる結果かもしれない。
最後にハル夫人の功績について。彼女の心労とコメントとその評価は実に度々日記に現れる。週末には私もハルも疲れ切っていると度々記されている。彼は戦前戦後を通じて、ハルほど成功し、愛され、アメリカの外交にとって役に立った大使夫人はいないと思うと書いている。大使館スタッフからも好かれているし、日本国民一般には彼女は今や私よりも人気がある、日本人を妻とする男を駐日大使に任命することの正しさを私たちは証明できたとも書いている。刺傷事件の看病も大変だっただろう。ご苦労様でしたと言いたい。
彼の日記には時折人物評が出てきて面白い。賛否相半ばする。日記に登場する順に。
悪い方を挙げると、社会党新書記長成田知巳:マルクス主義の専門用語を振り回す痛ましいほどの空論家。吉田茂元首相:(新駐米大使送別会で)韓国問題で大失言。思わず髪が逆立った。既に状況から取り残されている。もう誰も本気で意見を伺うことはない。河野一郎(自民党首脳)と永田雅一(大映社長):二人とも非常に押しが強く、無遠慮で、全く魅力に乏しい日本人だが、権力の点では抜きんでている。
良い方の筆頭は外相大平正芳:誠実で人柄がよい。彼は西欧人の目から見れば“洗練されていない”人物で、まさに日本人らしい日本人だが、私は大好きだ。グレン宇宙飛行士:教養があり謙虚で気取りがない。非の打ち所のない立派な人物。堀江謙一:一人で太平洋をヨット横断。小柄で魅力的な青年。自民党幹事長三木武夫:主要派閥のリーダーで最も若く前途有望。他力本願でない真の実力者で聡明。

<ロボットの進化> 至るところで新型ロボットが出現している。国際的には工業高校や大学間の国際競技会が毎年ルールを変えて争われている。この間は東京大学チームが中国の北京大学チームを破ったということで大喜びをしていた。以前は工専の専売特許かと思っていたら、この頃は大学同士でやっている。但しやっていることは作戦的には相手の得点妨害など工専と変わりはない。技術的に詳しく見れば速度とか、巧妙さなどは年々進歩しているらしいが。思わぬ故障でなすところなく相手の一方勝ちを許すケースが多いのは相変わらぬ風景である。
今日のテレビでは村田製作所という中堅企業が自転車に乗るロボットを発表した。背の高さ50cmという小型ロボットが小さな自転車を鮮やかにペタルをこいで進む。その内に巾3 cmの梁を渡りだした。正確な操縦で車輪が梁を踏み外すことがないと感心していると、梁の中央部で停止した。遠隔操縦なのだが、安定していて決して倒れない。話しを聞いてみると、基本的な形は既に14年前に出来ていたが、安定性は悪かった。指導者(牧野孝次氏?)が最近の若い人は一人づつ専門の殻に閉じこもってしまう弊があるので、皆で智慧を集めるチームプレイをやらせてみたと言う。キーになる技術は二つで、一つは僅かな傾き(0.1deg)を検知する超小型センサー、もう一つは進行方向に回転軸をもつフライホイールで、これを傾けて姿勢を修正する。
ソニーは先に経営不振のためにロボット事業から撤退すると発表したはずだが、アイボの鼻先に付けたカメラで毎日写真を撮影し、短い日記をつける機能を追加した。語彙は従来の200語を1000語に増やしたという。買い主はパソコンで閲覧できるという。要するに金をあまりかけることはしないということか。別の話としてスタンフォード大学チームが無人のロボット車でネバダ州の砂漠地帯を障害物を回避しながら、212kmを6時間54分で走破したという。


<竿竹屋> 停年退職になり、自宅で大半の時間を過ごすようになって間もなく、静かな住宅街を巡って車を走らせる竿竹売りの呼び声が耳に付いた。丁度この随筆を書き始めたばかりだったので、<商売>というテーマで簡単に取り上げた(1998年12月)。奇異には思っていたが、そのまま打ち過ぎていたところ、この度“さおだけ屋はなぜ潰れないのか”(山田真哉)という新書本を入手した。―身近な疑問から始める会計学―という副題で、中身の大半は“日々の生活に転がっている疑問から会計学の本質を学ぼう”という会計の常識論で、この欄を一読すれば決して改めて買い求める必要のない本であった。
読んで知ったことは竿竹屋のせりふは日本全国の都会で変わりがないようで、“たーけやあ、さおだけえ、2本で1000円、20年前のお値段です”というのと、私のような疑問を抱く人も数少なくないが、さおだけ屋から竿を買った人をほとんど聞いたことがないという人が大半なのも事実らしい。同じ流しの商売でも焼き芋などは寒い冬の夜などに衝動買いをする人が結構多いのとは対照的で、衝動的に竿だけ買う人はまずいないだろう。普通ならこの辺で思考を打ち切ってしまうが、著者は公認会計士の立場から“何故竿竹屋は倒産しないのか”というテーマを更に追求することにした。
答は二つ、一つは滅多にないことだが、たまたまお婆さんなどに呼び止められて、“その2本で1000円のを”と言われると、決して素直に渡さず、“2本で1000円のものもいいけれど、おすすめはこの1本5000円の竿竹だよ。これなら子や孫の代まで長持ちするからお得だよ。2本だったら8000円までまけるよ”と言って高級な竿竹1本を買わせた。その上、庭まで持って行って物干し台にかけてあげるよと入り込み、“この土台だけど、もう腐っていて危ないね。修理した方がいいよ。知り合いの業者に頼んであげるよ”と、結局10万円の修理工事費を払うことになってしまい、息子夫婦に叱られたという。これでは最近流行りの住宅修理詐欺と変わりない。これは度が過ぎるとしても、単価を上げるのはこの人たちの常識である。一旦声をかけた人が“2本で1000円と言うから声をかけたので、それ以上なら要らない”とは、見栄もあってなかなか言えないことを見越している。
もう一つはある人(著者か?)が竿竹屋に普段は何をしているのですかと訊ねたら、“うちは商店街の金物屋だよ。自宅まで配送を頼まれるから、ついでに出張販売しているのだよ”という返事だったという。事実、著者は「たーけやー」とスピーカーで流しながら、猛スピードで目の前を通過していくトラックに遭遇し、あれでは商売にならないではないかと慨嘆したが、あれは単に大急ぎで店に戻ろうとしていただけで、猛スピードで竿竹を売ろうとしていたのではなかったのだと思い返した。こうしてみると、竿竹屋というのは副業で、仕事の合間にやっているのだから、仕入れの費用も人件費も更にはトラック代もガソリン代もほとんど本業の方でまかなっているわけだ。純粋の竿竹屋という商売は存在しないのである。著者は竿竹屋というのは仕入れの費用がほとんどゼロの副業であって、@売り上げを増やす、A費用を節減する という商売の基本をキチンと抑えていて、地味だが継続性のある商売であると結論づけ、会計学の立場から評価している。何をか言わんや。

<満州> なかにし礼の“黄昏に歌え”(朝日新聞社)と“赤い月”上下(新潮文庫)を読む。 なかにし礼というのは作詞家だと思っていた。事実我々が聞き馴染んでいる多くの流行歌が彼の作詞によるものであり、 “黄昏に歌え”を読んで知ったことは、音楽出版社が作詩家と作曲家を結合させて歌を生ませる産婆の役を果たすのだが、その作曲に関しても彼のように売れっ子の作詩家になると自分で作曲家を選ぶようになる。“さくらの唄”を美空ひばりに歌ってもらうレコーデイングの場面が出てくるが、レコーデイングの出来映えについて、ひばりはまずなかにし礼の意見を聴いている。流行歌誕生の主役だったのである。
なかにし礼は立教大学文学部を中退してシャンソン喫茶でボーイのアルバイトをする傍らアテネ・フランセーズでフランス語を学ぶ。シャンソン歌手石井祥子に勧められてシャンソンの訳詞を始める。当時シャンソンの訳詞をする人はいなかった。立教大学文学部に再入学、英文学科からフランス文学科に転科し第1期卒業生となる。シャンソンの訳詞は1000曲に達し、なかにし礼訳詞シャンソン・リサイタルを開く。何とか自活できる収入を得られるメドがついて結婚し、ホテルのロビーで二人はシャンソン仲間に祝福のパーテイを開いてもらうが、たまたまそこへ来合わせた石原裕次郎に外国の歌の訳詞などではなく日本の歌を書けと勧められる。暗中模索を経てたまたまヒット曲を求めていた菅原洋一のために“あなたの過去など知りたくないの”で始まる歌を作った。当初はレコードのB面になり、一向に売れなかった。訳詞を止め作詞に徹しようとする彼はそれに反対する妻と意見が合わず、疲労とストレスで狭心症を起こして入院する。満州からの逃避行の生死の境目の幻影がちらついた。退院後衰えた心臓の回復には時間がかかった。非情にも妻と生まれたばかりの女の子を残して家を出る。その心境を“今日でお別れ”にして加藤登紀子が歌った(4年後にレコード大賞になる)。日時とともに愛唱されるようになってきた“知りたくないの”が遂にA面発売になり、俄然圧倒的な人気を博することになる。飛ぶ鳥を落とす勢いになっていた石原裕次郎から改めて声がかかり、自分のための新曲作詞を依頼される。以後“石狩挽歌”、“時には娼婦のように”、“北酒場”などを生んで、ヒットメーカーに駆け上がった。
この方面にあまり関心のない私がこの人に注目したのはN.H.K.連続テレビ小説“てるてる家族”だった。ランドセルを背負わず胸にかけて突っ走る石原さとみの天真爛漫な演技もあったが、ストーリーの展開が従来の家族ドラマとは異なる新鮮さがあって、一体作者は誰だろうと気にかけてその名を意識するようになった。作詞をやめて小説を書くようになり、2000年には“長崎ぶらぶら節”で直木賞を受賞する。社団法人日本音楽著作権協会会長も務めた彼の現在の肩書きは作詞家・作家・舞台演出家・プロデューサーであり、松坂慶子の写真集“さくら伝説”の監督をしたり、舞台ではオペラ“ワカヒメ”、オラトリオ“静と義経”、歌舞伎・舞踏・オペラを融合した世界劇“眠り王”総合プロデュースなど活躍は多岐にわたる。彼のことばを紹介すれば、“あなたは夢を見るなら大きいほうがいいかも 夢見る力で人は あなたも 私も 誰でも なにかになれる”とある。確かにこの人は小成に甘んじなかった。
“黄昏に歌え”でも出てくるが、“赤い月”には彼の少年時代の体験を通した満州(現在の中国東北部)における関東軍および日本人の生き様が克明に描写されている。彼の父は関東軍将校の手引きもあって、満州の奥地牡丹江に進出して造り酒屋を営む。満州開拓の国策に乗せられた家族は、関東軍の庇護があって荒野の一角から特権的な繁栄を遂げる。日本軍隊に抑圧された原住民の犠牲は行間に察せられる。冊子“赤い月”の巻末に付された地図を見ると、満州国の面積は北朝鮮と韓国を併せた旧朝鮮の凡そ6倍の広大なものであったことに改めて驚嘆した。旅順から奉天、新京を経てハルピンに至る旧満鉄の路線は長大なようでも、未だソ連と境界を接する満州国奥地への半ばには達していないのだ。こどもの頃“コウリャン刈って広いなあ”とどこまでも平坦な満州の広大さを称える歌を耳にしたが、日露戦争の結果満鉄沿線巾数十メートルの管理権を得た日本が、なしくずしにこれだけ広大な領土を我が物にしてしまったのは、どう説明しても不法の誹りは免れない。終戦間際まで空爆によって焦土と化した日本本土とは相違する平穏な別天地だった。
状況はソ連軍の侵攻によって劇的に変化する。開拓民が頼りにしていた関東軍は南方に転戦していて実質的にはもぬけのからだった。予期せざるソ連軍の急激な侵攻を受けて浮き足立って逃避せんとする日本人開拓民は引き揚げのための列車も隔絶しがちで、特に度々ソ連機の銃撃を受けた牡丹江からハルピンまでの列車行の苦労は並大抵ではなかった。取り残された人々は女こどもまでソ連兵に蹂躙された。終戦を迎えたハルピンでは1年余に及ぶ悲惨な避難民生活を強いられ、多くの人が命を落とした。圧政の苦難に耐えていた中国人たちの激しい復讐略奪を受けた。まさに因果応報である。氏は命からがら母姉とともに昭和21年10月長崎に帰着した。父は当時の日本人成人男子一般の宿命の如くいびり殺された。日本を代表した関東軍の存在とその行動については未だにどこに正当性があり、どこが不当だったのか(この要素の方がずっと大きかった筈だ)の歴史的な分析が十分に行われているとは思われない。しかし満州という言葉が死語に等しくなっている現状が正義の所在を暗に示している。一方このようなすさまじい苦難の中から生還したこの人が他人に真似できないような成果を挙げたというのも、人の一生のあり方としての何かの必然性を感じさせる。

<プロ野球2005年> 昨年9月に<プロ野球再編>というテーマで球団オーナーたちの無策ぶりに憤激した文章を書いている。思い返せば選手会のストに世論の圧倒的な支持がつき諸制度の改革に発展したのが、今年の小泉政変劇にも間接的に繋がったように感じられる。人々は在来の仕組みや慣行でジリ貧になるのに苛立ち、時宜を得た革新を支持することに快哉を覚えた。その気運を受けた今年のプロ野球にも目を見張るような様々な事件があったので、衆知のことではあるが改めて総括する。
前記改革の一環として約1月にわたりセパ交流試合が行われた。この間に元気のよかった中日が凋落し、今期それぞれのリーグで優勝した阪神とロッテが元気を取り戻して好成績をあげて優勝の芽をはぐくんだ。最劣勢だった巨人はこの間5割以上の成績をあげて復活の機をつかむかと思われた。交流試合は相互のリーグに刺激が多く成功だった。
その後従来の各リーグ内の試合に戻って中日がジリジリと勝ち星をあげてセリーグの覇権を狙ったが、追い迫られた阪神はギリギリのところで踏みとどまり、中日との直接対決を機に迫ってきた相手を突き放した。堀内の率いる巨人はセリーグ内の試合に戻ってからは終始精彩がなく、広島と最下位を争った。頼りない投手陣の中で現役最古参になった工藤投手の健闘だけが光った。パリーグではロッテはその後も頑張っていたが、ソフトバンク・ホークスがこれでもかというほど勝ち進んでロッテに差をつけた。
パリーグは昨年からプレイオフ制度を採用している。二位のロッテは2-0で三位西武ライオンズを制した。投手戦でキメ細かさに難のある松坂は僅かに及ばなかった。覇権を決めるホークスとの対決はシーズンを通しての両者の勝数差が規定数以下だったので互いに先に3勝が優勝という対等の条件で戦うことになった。ロッテは先にホークスに2勝したが、続いて2敗し(*シーズン内の勝ち数がもう一つ違えばここでホークスが優勝するところだった)、最後の試合を辛うじて勝ち取って覇権を握った。ホークスの王監督は昨年もシーズン中の成績では断然2位以下に差をつけておきながら、プレイオフで3位西武に惜敗しており2年続けて優勝を逸した訳で、残念さは察して余りがある。
日本シリーズは恐らく誰も予想しない極端な結果になった。千葉ロッテは阪神タイガースに10-1、10-0、10-1と圧倒的な差をつけて3連勝、最後こそ接戦になったが結局3-2で無敗の王者になった。観戦した人たちのコメントから察すると、プレイオフで強者ホークスを破った強運に乗り、負けて元々という不要な緊張感のない平常心とシーズンからプレイオフ、シリーズと休みを置かぬ連戦で身体が良く動く好調を維持したロッテの選手たちと、優勝決定後シリーズまで日時があいて、勝って当然という自負が緊張によって思うように身体が動かないタイガースの選手たちとの間で、第三者が考える以上の差異を生んだようだ。シリーズを通してタイガースがリードする場面は一度もなかった。試合の前半は接戦でも後半になると糸が切れたようにホームランなどで大量点が入るという似たような展開になり、最終回にはタイガースの選手たちはいずれの試合も戦意を喪失する屈辱的な状況になっていた。兄貴と呼ばれチームに頼りにされていた4蕃打者金本はシリーズ最後の試合で1安打を放つのみという不振に終始した。
第1戦で井川が先発したが、これを聞いてこのシリーズ阪神は負けるのではないかという予感がし、素人考えだが私なら第1戦を下柳にすると思った。チームのエースということになっているのだが、井川はシリーズ後半突如連打される憂き目に度々遭っていたからだ。下柳はスタミナがないから6回ぐらいまでしかもたないが、素直な球は投げないから決してジャストミートを連打されることはない。果たして井川は中盤連打で火だるまになり、大量点を毎試合奪われるきっかけを作った。一方プレイオフ辺りから見ていてロッテは内外野ともに守備が堅実で、あわやと思われる痛打を好守で救う場面が度々あった。両者の間に得失点で示されるような実力差は決してない。シリーズ中でも連勝を続けて、このチームが負けることがあるだろうかとまで思われる状況から、一転して優れた投手によって打線が沈黙したのを契機に連敗に落ち込むことはよくある。昨年の中日、今年の阪神、またパリーグで両年のホークス、いずれもプレイオフを待っていて敗れている。成り行きによっては逆の展開もあり得たところに野球というゲームの玄妙さがある。
しかし勝因にあたるものは確かにある。その最大と思われるものはロッテのヴァレンタイン監督の存在である。彼は9年ほど前に一度監督を務め、米国へ戻ってニューヨーク・メッツを一度はナ・リーグ優勝に導いた後昨年から2度目の来日であるが、温厚な人柄でチームの選手たちから慕われ、日本語も堪能である。サッカー監督の誰かさんとは違う。人柄だけではない。彼は日本の監督のような定型的なやりかたにこだわらない。第1,2戦に8打数8連続安打を記録し最高殊勲選手に選ばれた今江敏晃内野手は第1戦で打順2番だったのを第2戦では8番に下げ、第3戦は7番、第4戦は6番に変えた。彼のチーム編成では4番を中心に主力打者を並べるのではなく、下位打線も含めてどこからでも打ち出せる打線なのだという。打順編成は1200通りもあるという。一方で投手のロテイションはキチンと守る。バントなど細かく指示せず個々の選手の判断に任せる。ヴァレンタイン監督は選手の調子や相手チームの出方などを四六時中考えていると伝えられる。巨人の堀内監督などは杓子定規の指揮をしていた筆頭だが、こういうキメの細かい配慮をしていればあそこまでチームが落ち込むことはなかっただろう。堀内更迭によって再登場する原巨人監督もこういう点での融通性は見習うべきだと思う。