11月の話題


2005年11月

<ユダヤ教>   旧約聖書は我々日本人には縁遠いものだが、当のユダヤ人はもちろんのこととして、キリスト教、イスラム教にも思想的に多大な影響を与えている。一体何が書いてあるのか、今回は“出エジプト記”を読んでみた。ユダヤ人は過越しの祭りというものを祝うが、それが何を意味するのか知らないでいたが、これを読んでよく分かった。
 この話には天地創造に次いでイスラエルの民が安住の地を求めてエジプトに住み着く過去の話があるのだが、今回はそこには触れない。イスラエルの民がエジプトに仮の住処を求めてから400年以上経過した。最初にこの地に到達したときには70人ほどだったが、非常に人口が増えて大きな集団になった。しかし彼らは分散して原住民たちの中に入り込もうとはせず、エジプト人と融合しなかった。エジプトの王はイスラエルの民が一団になっていて、その数も年々強大になり、一旦戦争にでもなったらこの国を牛耳ることになるのではないかと恐れた。そこでイスラエル人の上に夫役のための監督を置き、強制労働によってこれを圧迫しようとした。圧迫するほど、人の数は増えた。王は産婆に生まれる子が男なら殺し、女なら生かしておけと命じたが、産婆たちは神を恐れ男の子も理由をつけては生かしておいた。パロが王になると、すべての民に命じて“生まれてくるヘブライ人の男の子はみなナイル川に投げ込め”と言った。レビの家どうしの結婚で男の子が生まれ、3月隠していたがそれ以上は隠せず、パピルスの箱船に入れてナイルの岸の葦の間に浮かべた。パロの息女がこれを見つけて取り上げたので、彼はパロの息女の養子になった。彼女はその子をモーゼと呼ぶことにした。やがて長い年月が経ち、イスラエルの子たちはその苛酷な労働のために呻き叫んで、その声は神のもとに達した。

 ある時モーゼが羊の群を追って神の山ホレブに近づくと、神ヤハウエが語りかけた。「私は君の先祖の神である。私は確かにエジプトにいるわが民の苦しみを見、酷使する者の前で叫ぶのを聞いた。そこで私は彼らをエジプト人の手から救い、かの地から導き出して良き広き地、乳と蜜の流れる地に至らせようとして、下ってきた。」と。「もし彼らが私の言うことを信じなければ、杖を地に投げよ」と言った。そうすると、杖は蛇になった。また「その尾をつかめ」と言うので、そうすると蛇は杖に戻った。その後モーゼは参内して王パロにイスラエルの神ヤハウエの言葉を告げた。王は「ヤハウエは誰だというのだ。私はヤハウエなど知らないし、お前たちを去らせもしない。」と言った。パロはイスラエルの民に更に難題を与えて酷使した。ヤハウエはモーゼに「君はこれから私がパロにしようとすることの何たるかを見るだろう。彼はイスラエルの民をその国から追い出すだろう。」と言った。

 先ずヤハウエの命じるところに従って、モーゼはパロの前で杖をワニにした。ワニはパロが召した魔法使いたちの杖を呑み込んだ。しかしパロは頑なになって譲らなかった。次にモーゼが神の命に従ってパロの面前でナイル川の水をたたくと、ナイル川の水は血に変わった。その水を飲むことはできなくなった。しかしパロは頑なになって譲らなかった。1週間経つと、神はナイル川を蛙で満たし、それは陸上に上がってきてエジプトの地をおおった。パロはモーゼに蛙を除いてくれるように頼んだ。蛙は死んで臭くなったが、事態が好転すると、パロは頑なになって譲らなかった。次に神はイスラエルの居住区に隔ての壁を設けた上で、エジプト全土で地の塵をぶよにした。散々な目に遭って、パロはモーゼにあぶを除いてくれるように頼んだ。あぶは一匹残らず消えた。するとパロは頑なになって譲らなかった。次に神は家畜たちに重い疫病を流行らせた。予告と猶予期間を設けた上で、エジプト人の家畜は死んだ、イスラエル人の家畜は死ななかった。パロは頑なになって譲らなかった。次は矢張り予告の上で神は激しい雹を降らせた。予告によって家畜を家に避難させたイスラエル人は被害を免れたが、その言葉を心に留めなかった人の家畜は死んだ。亜麻と大麦も雹に打たれた。但しイスラエルの居住区には降らなかった。パロは神にお願いして雹を降らすのを止めさせてくれ、私は君たちを去らせようとモーゼに頼んだが、雹が止むと頑なになって譲らなかった。次に神はいなごを襲来させ、雹の被害を免れた青草や木の実などすべてを食いつくさせた。パロは神にお願いしてもう一度だけ許しを乞うてくれと言ったが、いなごが消えると頑なになって譲らなかった。遂に神はエジプト全土を3日間暗黒で包んだ。パロはモーゼに「お前たちはエジプトを去れ、但し家畜たちはすべて残していけ。」と言い、モーゼが家畜たちも連れていきたい旨言うと、王は頑なになって譲らなかった。

 パロはモーゼに私の前から消え失せろ、再び現れたら死刑だと言い放った。モーゼは次のような神の言葉を人々に伝えた。「この月は君たちにとって正月である。君たちは14日のたそがれ時に子羊を屠り、その血を家の二つの柱と鴨居に塗り、家の中で食べよ。朝までその戸口から出てはならない。ヤハウエは滅ぼす者が打つために君たちの家に入るのを許さないだろう。」と。その夜にエジプト中で叫び声があがり、死人の出なかった家は1軒もなかった。但しエジプトを打つために通られたヤハウエは鴨居と2本の柱につけた血を見て、その戸口を過ぎ越された。更にモーゼは「君たちは永遠の定めとしてこの祭事を守らなければならない」と言った。民は身をかがめて礼拝した。パロはモーゼに「君たちは家畜ともどもすぐさまこの地を出ていってくれ」と宣言した。エジプト人たちは死人がこれ以上増えるのを恐れ、民をせかせて追い出した。

 イスラエルの子らは女子供を除いて60万人が徒歩で出発したと記されている。エジプトに移住してから430年が経過していた。ヤハウエは昼は雲の柱となり、夜は火の柱となって人々を導いた。エジプトの王は民を去らせたことを早速後悔して軍隊に後を追わせた。民たちは驚き叫んだ。神はモーゼに命じて杖で海の中に乾いた道を作らせた。彼らはそこを進み、水は左右にうず高くなった。追ってきた戦車も騎兵も海の中の道へ入った。すると海水が戻ってきて全軍を覆い、一人も生き残らなかった。イスラエルの子たちは海の真ん中の乾いたところを進んだ。民はヤハウエを恐れ、その僕モーゼを信じた。彼らが荒野を行進し飢えや渇きに苛まれると、神はパンの代わりになる食べ物を野に置き、岩山から飲める水を噴き出させたりした。旅はラムセスを出てスコテ、ミグドル、シュルの荒野からシンの荒野へと進んだ。エジプトを出てから3ヶ月後、人々はシナイの荒野に入って山に向かって営をはった。シナイ山にはモーゼ一人が上り、神と語らった。やがて彼は人々のところへ降りてきて、神の言葉を延々と語った。それは十戒であり、“目には目を、歯には歯を”など人間社会で守られるべき法体系だった。再びヤハウエは雲の中からモーゼを呼び、モーゼは40日間山に上がっていた。今回は神に奉納すべき品々の詳しい仕様が石の板に書かれた形で示された。それは各種の原材料、箱、机、燭台、幕屋、祭壇と前庭、祭司の着物、祭司の任職、香をたく檀、奉納金、洗盤、聖なる香油、薫香、工人の任命などと安息日遵守の指示であった。更にもう一度神はモーゼに山へ登り、もう一つの契約をすることを求めた。神は他の民族と決して協調しないように、また自分は嫉妬深い神であると述べて他の神・偶像類を決して拝する事のないように要求した。安息日を強いた。以下は神を祀る幕屋などが如何に念を入れて用意され、祭礼が盛大に実行されたかが記されている。

 あとは私個人の感想である。欲望を自制し、人倫社会の和を乱すことへの規制はどの宗教にも見られる共通性がある。偶像崇拝禁止の思想はイスラム教でも厳格に守られている。仏教やヒンズー教とは大いに違う。キリスト教もこの点は変えた。安息日、礼拝の仕方など神自身が事細かく要求を出していくところは可愛げがない。仏教の開祖釈迦などはそういう点は何も要求していないので、後世多くの流派が様々な様式を編み出した。だがそんなことよりも、エジプトでこの神が行った原住民への冷淡非道な仕打ちはユダヤ教の他宗教・他民族との協調など決して考えない非妥協的な性格をよく表すもので、現在に至るまでこの宗教を頂くユダヤ人が爪弾きされる所以だろう。あのパレステイナの人々を困惑させている分離壁の起源がここにあったとは驚いた。イスラエルの国に生まれた者でこの精神に違和感をもち、他国・他民族と仲良くつきあっていきたい人も少なからずいるだろうが、このような強烈な神を頂いては如何ともし難く、イスラエルが周辺の国々、特にイスラム諸国と衷心から宥和できる望みはない。

<ボーク> ストーブ・リーグに入ったというのに、プロ野球に騒ぎが持ち上がっている。審判団が野球規則8.01“投手が動作を始めてから途中で停止する”を来期から厳密に反則行為として採用することにしてボークと判定し、走者がいれば進塁、いなければボールが宣告されることになるというのだ。これは多くの投手にとってこれまで長年無意識にやってきた投球モーションにケチをつけられ、打者だけでなく審判を意識しなければいけなくなるわけで、大きな負担になるだろう。ライブドアが、毎日週刊誌記事的なニュースをメール配信してくれるのだが、それによると来期に備えて秋期キャンプを張っている各チームに審判員が訪れて、大声を張り上げて“それはダメ!”とやっているらしい。私が憶えているだけでも、巨人の上原、西武の松坂などが既に異を唱えている。
 この度の報道は中日キャンプで、川上・岩瀬・岡本・中田・高橋聡・山本昌が皆そのモーションを“イリーガル”と指摘され、頭の上でグラブを停める動作も対象になるという。岩瀬は「子供の頃からずっとこれでやっている。練習でできないものが試合でできるわけがない」と憤懣をブチまけ、森投手コーチは「これでは野球にならない。ピッチャーが気持ちよく打たれるだけだ」と言った。落合監督は不快感丸出しで「お前たち(投手陣)が暴動を起こせ」と発言した。落合といえば名打者である。打者の立場で迷惑と思えない行為を長年の慣行に逆らって審判団が規制する根拠は私にも理解できない。
 どういう経緯でこのような改革が企てられたのか、それなりの理由があるのだろうが、その点はまだ明らかにされていない。いずれにせよこの問題は素直に受け入れられ、定着するとは思えない。来春に向けて多くの論議が交わされることだろう。日本シリーズで覇者ロッテは阪神投手陣から4試合で33点も取ったし、現行のルール運用が投手に甘いとは思われないのだが。

<戦争の位置づけ> “あの戦争は何だったのか”(保坂正康・新潮新書)という本がある。この本のタイトルの命題に対して、―戦後60年の歳月が流れたわけだが、我々日本人は未だにこの問いに明確な答を出していないように思われるーと冒頭に書いてある。この本の帯には塩野七生の「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探求することである、とマキャヴェリは言ったが、戦後日本人はそのことをしてこなかった。この本はそれを教えてくれる」という推薦のことばが付いている。また、文春11月号にはーあの戦争になぜ負けたのか^というテーマでの討論会が載っている。保坂氏のほか、半藤一利・福田和也・中西輝政氏などが参加している。戦後の学校教育は日露戦争以降の日本近代史を避けてきた。しかしこの中には目をつぶってはならない人間―日本人研究の最も適した史料がある。この考察を十分に行ってはじめて、靖国参拝問題をまともに論ずる資格が得られると信ずる。
 著書は問題をいくつかの側面から整理している。これを文春の討論内容によって補足する。

 ○戦争をしかけた軍部の実態は何だったのか。 
 軍部とは職業軍人と徴兵制によって一般徴用された兵士から成るが、後者は前者の意志・命令で動くので、軍事活動のすべての責任は前者が負う。但し終戦時には800万人に達した総人員の内で、前者は10万人に満たなかった。職業軍人は将校であり、士官学校(陸軍)・海軍兵学校を卒業した一般将校と、陸軍大学・海軍大学を卒業した高級将校に分かれる。その大学卒業生の内での成績優秀者が軍中枢部に入る特権を得た。軍部には“統帥”という思想があって、陸海軍の指揮・統率は天皇から委任された範囲において各統帥機関の裁量によって実行される。議会も含め他の一切の機関からの干渉を受けないとされた。
 軍部は組織上“軍令”と“軍政”に二分され、“軍令”は通称統帥部あるいは大本営と呼ばれて統帥権をもって戦争方針を決定し、“軍政”は陸軍省・海軍省に分かれる行政機関であって、統治権をもって定められた方針を実行する。統帥部は参謀本部(陸軍)・軍令部(海軍)に分かれて一糸乱れぬ命令系統を保った。中でも参謀本部の作戦部は中枢中の中枢で、狭義の軍部とはこの組織を指した。戦略責任の主体は軍令にあり、軍政は戦術に責任ありと考えられる。しかし組織を分断することによって必ず問題が生ずる。特に軍の組織が陸軍と海軍に分かれていたことで、相互の離反・意思疎通の悪さは日本にとってこの戦争に関する最大の齟齬になった。太平洋を主戦場とし島嶼の支配をするためには海兵隊が必要だったのに、これを海軍との連係の悪く不慣れな陸軍がやった。

 ○何故戦争(満州事変・中国侵攻・太平洋戦争)をしたのか。
 何故強大な米国相手に戦争を始めたのかという命題は先行した二つの戦争と切り離して論ずることができない。太平洋戦争開戦前に欧米はこの二つの戦争の成果を復元するように日本に強く迫っており、この時点での日本は行きがかり上そのような譲歩・屈辱は到底容認できなかった。
 満州事変を始める前に明治以降の勝ち戦続きでの日本人の心のおごりがあり、軍部特に関東軍の独走を許した。陸軍参謀本部は司馬遼太郎の言う魔法の杖としての“統帥権”を振りかざして国の外交政策を壟断した。一方で海軍は軍人勅諭を守って“一切の政治に関与せず”の方針にこもった。青年将校による政治テロ*5.15事件(1932)*2.26事件(1936)が発生し、テロの恐怖が主要政治家の言論の自由を封殺した。新聞・ラジオはテロを糾弾しなかった。軍はこれを機に統制派が皇道派を抑えるが、これを奇禍として言論弾圧を強めた。関東軍は勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建設した。中国の提訴により国際連盟はリットン調査団の報告に基づき日本の撤退を要求するが、日本はこれに反撥して国際連盟を脱退する(1933)。この時すべての新聞が軍部に味方して国連脱退を政府に迫った。満州事変勃発を機に豹変した新聞各紙の論調が以後も引き続いて戦争熱を煽った。
 国際連盟離脱後の日本は国際社会の中で孤立したまま、軍部に牽引されて日中戦争を始め、上海・南京・徐州・武漢へと侵攻、蒋介石政府は首都を重慶に移して抵抗した。更に陸軍はソ連とも対峙してノモンハン事変を起こし、対中戦争は泥沼化した。これを振り払うように国内では建国2600年の奉祝会が催され、神がかり的な大政翼賛会が結成された。大東亜共栄圏が唱えられ、日独伊三国軍事同盟を締結した。中国への米英支援“援蒋ライン”を断つためと称して仏印(仏領インドシナ)に進駐した。海軍は遡って1922年、戦艦保有比率5:5:3のワシントン軍縮条約を強いられてから米英を仮想敵国と見なしており、1934年にこれを単独廃棄して大艦巨砲主義に突き進んでいた。軍政部トップには一部三国同盟反対派がいたが、軍令部を中心に大勢は対米英好戦派が占めていた。一部を除き欧米事情に関する的確な情勢分析が欠如していた。
 開戦に先立ち好戦派に抗しきれず辞任した近衛に代わって首相に就任した東条英機は企画院に必要物資備蓄量の調査を命じたが、海軍は石油備蓄量などを隠し備蓄量不足を開戦の理由にした。陸軍省内々の試算による日米の戦力比は1:10であったが、太平洋近海の有利さを考えて1:4として東条に報告した。東条は物理的な戦力比が1:4なら、日本人の精神力で五分五分に戦えると結論づけた。陸軍は海軍に対して勝手に日中戦争を始めた負い目があり、もし海軍が反対したら開戦できなかったのだが、実は海軍(軍令部)は海軍国防政策委員会を中心に開戦に熱心であり、開戦の責任の過半は海軍にあったと言われる。連合艦隊司令長官山本五十六は日米開戦が無謀であることを十分承知しており、“ぜひやれと言われれば、最初の半年や1年は暴れてみせるが、2,3年先の見通しは全くない”と言ったが、これを受けて早期終結の工夫をする者が不在だった。また国民一般はマスコミの洗脳の結果、反米国民感情としての鬱屈感からの開放指向と暴力の支配下における陶酔感があって、その多くは開戦を肯定した。

 ○戦争の誘因はどこにあったかを要約すると、
1)青年将校による政治テロの恐怖による言論封殺とそれに乗じた天皇の神格化、陸軍参謀本部による“統帥権”の権威付けと軍部の独走
2)ソ連の脅威への対抗策として、かつまた中央の統制不足による関東軍の満州占拠
3)国際協調無視の国家戦略と隣国侵略エスカレーションとしての中国侵攻
4)ヒットラーの台頭に惑わされた三国軍事同盟
5)海軍官僚の反米英感情と好戦性

 ○戦争の敗因はどこにあったか。
 戦略的には
1)国際的に追いつめられて開戦しただけで、自主的に戦争を終結させる目標やそれに必要な国際情報が欠除していた。
2)軍部内で(皇道派の)見識を具えた人材の左遷、陸海軍の連係不足と大局を見た政策・戦略の欠如。戦略目標が不明確なことは海軍が陸軍の南方諸島進出を理解していなかったことにも露呈した。
3)軍中央の情報収集努力不足と視野狭窄・自己過信による情勢分析努力不足。特に陸軍は大陸での戦闘と太平洋地域での戦闘の本質的な差異を研究していなかった。
 戦術的には
1)大使館の不手際による米国への開戦通告遅れによって真珠湾攻撃を“だまし討ち”として米国民の憤激と戦意発揚を招いた。
2)情報戦での敗れー開戦前から暗号電報が米国に解読されていた
3)ミッドウエイ(海軍)とガダルカナル(陸軍)の敗戦。ミッドウエイは情報戦で、ガダルカナルは陸海軍の連携欠如と兵站軽視によってそれぞれ大敗する。
4)海軍大本営の戦果・損失虚報連発で陸軍まで騙された。
5)陸軍の兵站軽視と海軍が制海権を敵に奪われたことのために太平洋諸島での餓死者は全戦死者の70%に達した。
6)実効の上がらぬ玉砕戦法―物量欠乏、増援不能で他に戦う手段がなかった。東条英機は“生きて虜囚の辱を受けることなかれ”という戦陣訓を示達し、太平洋の島々の守備隊に“最後に至らば玉砕せよ”と指示してその通り実行させた。

 ○あの戦争を回避・もしくは早期に終結すべきターニング・ポイントはどこだったのか。
*日英同盟の消滅(1922) 反日気運の生じた米国の画策による。軍縮条約廃棄の伏線が生じた。
*満州事変勃発(1931) 関東軍の独走を中央は抑えられなかった。関東軍に派遣された参謀たちに強い野心があり、統帥部はそれを黙認した。
*青年将校による政治テロ*5.15事件(1932)*2.26事件(1936) この事件を再発防止が徹底できるように断罪できなかったことが国を戦争に傾斜させる大きい要因になった。天皇は政府首脳・側近の暗殺の脅威・内戦勃発の懸念から、以後終戦決断以前は政治的発言を控えるようになり、祭り上げられてしまう。
*国際連盟脱退(1933) 国際協調の重要性を国民は理解していなかった。マスコミに責任の一端がある。
*ワシントン軍縮条約の廃棄(1934) 海軍の米英敵視と大艦巨砲主義へのこだわり。海軍の開戦責任に繋がり、かつまた航空戦重視の戦法に立ち遅れた。
*盧溝橋事件と中国への侵攻開始(1937) 政府の統制の利かない陸軍の暴走。米国の日米通商条約破棄に繋がった。
*三國軍事同盟(1940) 海軍は軍令部を中心に推進派が多数を占めた。反ソ感情を基底にドイツを過大評価して欧米主要国を敵にしてしまう。日米交渉で米国は1)仏印からの軍隊撤退、2)三國同盟からの離脱、3)中国からの撤退と蒋介石政権の承認の条件を譲らなくなった。
*開戦決定と通告(1941) 決定の経緯と通告遅れの失態については前述した。
*開戦直後の戦勝こそ絶好の休戦申し入れの機だったが、上記の失態もありドイツの一時的な優勢もあって、三国同盟による成り行き任せの気分があった。
*ミッドウエイとガダルカナルの敗戦は早期終結の最後の機だったが、実態を明らかにして軍に抗して国民を納得させる人物の登場は期待すべくもなかった。
*ボツダム宣言(1945) 勝利が絶望的な状況にあることは誰の目にも明らかだったにも関わらず、日本がこれに拒絶の姿勢を見せたことが米国に原爆投下の理由を与え、ソ連参戦の時間的な余裕を生んだ。

 この本の記載からくみ取れる問題点は日本の指導者たちがこの戦争をどのような形で集結するかの腹案をもっていなかったことだ。状勢に応じて揺れ動くことはあっても、常に目標をもち、そこへ向かって努力しなければならない筈だが、それが何もなかったらしいというのだ。まさかニューヨークを占拠することは考えなかっただろうが、やっていれば何とかなるさでは徴用される側はたまらないが、実態はその通りで無責任極まるものだった。結果として前線・銃後で合わせて310万人*が死んだ。
 長期的には米国を日本から離反させない穏和な外交感覚が日本に欠除していたこと、短期的には陸軍と海軍を親和させるような、幕末で言えば薩長を結びつけた坂本龍馬のような役割の、ならびに戦争を始めたら如何にそれをうまく終結するかに努める役割の人物もしくは機関が必要だったが、それが欠如していたことが分かる。加えてワグナーの楽曲の如く勇壮な雰囲気に国民が酔って暴力の支配下に陶酔したことも否定できないだろう。それはヒットラー統治下の当時のドイツでも言えたことで、“こんなバカな戦争はやめろ”と言い出せない人間の弱さにつながる救いがたい側面がある。それを悟るのにそれなりの時間と痛ましい犠牲*が不可避だったのだろう。また領土として日清・日露戦争で取得したものをすべて返還し、なお千島4島の帰属は未決である。

<我慢する> ビート・たけしと石原慎太郎がテレビで対談していた。テーマは教育問題だった。この二人は感性に一致する点が多いらしく、慎太郎はたけしを褒めるし、終始楽しそうだった。話はアチコチに飛ぶから詳しく憶えていないが、こどもの頃にはろくに物を知らないのだから、自主教育だとか訳の分からぬことを言わないで基本的なことをキチンと教えればいいんだと言っていた。たけしが因数分解の話をした。数学なんて人生の役に立たないというけれど、“ax+bx+cx=(a+b+c)x”という考え方は物事の基本につながる。あの人は頭がよいと言われる人はこのように物事を整理して考えられる人だというわけだ。これには賛成する。多くの試験では記憶力のよさをテストしているが、それは採点をしやすいからそうしているのであって、頭のよさとは別物であろう。
 話は母親の教育に飛ぶ。昔は日常的に物不足だったから自然に我慢することを覚えた。今はこどもに不自由させず何でも買い与える。だからこどもが我慢する習慣を身につけなくなった。すぐに“切れる”という。学級崩壊が起こる。少年犯罪が激増している。社会生活では思うようにならないことが多いし、それにじっと耐えなければいけないということを母親はこどもにしっかり教え込まなければいけないと強調していた。

 定期的に私が健康診断に行く病院での出来事だ。採血室というのがあって、医師の指示を受けるとそこへ行って採血検査を受ける。私もそこで採血された後、注射針の抜き跡の出血が収まるまでの一定時間椅子で待たされていた。そこへ小学校に入るかどうかという年頃の少年を母親が連れてきた。彼にとって採血は初めての体験だったのであろう。おとなしく椅子に座ったが、注射針が腕に触れるか触れないかで激しく泣き叫び、“すぐ帰る”と言う。看護婦が別の場所へ連れて行くと一旦泣きやむが、矢張り採血は中止されないのだと悟ると“ご免なさい”と泣き叫びを続けた。私はよほど母親に諭そうかと思ったが、場所が少し離れていたので止めた。これは母親がいけない。こどもに注射針のチクリという痛みはあるが、それは我慢しなければいけない、この部屋では皆それを我慢して採血してもらっているのだとキッパリと言い渡さなければいけない。私が採血室を出るまでこどもは泣き叫んでいた。
 一昨日町田で男子高校生が女子高校生の家に押し入ってメッタ切りに刺殺する事件があった。(以前から親しくはなかったのだが)最近声をかけても相手にされなくなったからだという。一寸したことにも我慢できない先のようなこどもが成長して肉体的な能力を具えるとこういう犯罪の予備軍になる。今は修身という科目が小学校にはないが、難しいことでなく、世の中には我慢しなければならないことが多いということを懇々と教え込まなければ少年犯罪は益々多発するだろう。平和な日本を招来し江戸幕府を開いた徳川家康の人生は我慢と苦労の連続だった。織田信長に長男信康の切腹を命じられて家や家臣を守るためにそれも甘んじて受けたのだ。その後もこの種の十指に余る難題を我慢を重ねて乗り越えた。たかが注射針のチクリが何だというのか。

<日はまた昇る> アーネスト・ヘミングウエイのこの小説名は聞いていたが、今まで読む機会を得なかった。舞台は第1次大戦後のヨーロッパ。主人公は復員帰りの米国青年。何故か米国で地道な職業に就く気がせず、根無し草のようにパリで飲み歩いている。モンパルナスのカフェ。彼は戦傷のために性的不能になっている。5人ほどの友人ができた。その一人が美人の浮気女。女に関わるいさかいがあり、口げんかの応酬の会話場面が続く。主人公は思い立って海岸沿いの鉄道でバイヨンヌまで行き、そこから車でスペインとの国境を越えて郊外ブルゲーテへ赴く。ここへ向かう車中からの風景描写は絶品。砂漠・岩山・草原・森林とがらがら状景が変わる。ここで1週間川釣りをする。土手の土をつるはしで掘って餌にするみみずを空き缶一杯獲る。鱒がいやというほどかかる。
 転じてスペイン・パンプローナのお祭り(フィエスタ)を観に行く。パリの友人全員が集まってくる。人々は革袋に入れたワインを誰彼となく勧める。飲み明かして昼になって眠る。闘牛が出し物だが、それに先立って逃げる群衆を追って闘牛が街の通りを駆け抜ける牛追い祭(右)が有名だ。牛の角に突かれて死人も出る。彼女は若い闘牛士と浮気して出奔しまい、彼女にぞっこんだった友人・ユダヤ人の元ボクサーはそれを知って逆上し、彼女を闘牛士に会わせた主人公を殴り倒してしまう。年一度の祭りが終わる。彼は暴力をふるったことを後悔し、謝り、悄然と街を去っていく。やがて彼女は闘牛士と別れ、文無しになって安宿に泊まっている彼女を主人公は救けに行く。
 彼ヘミングウエイはこの草稿を6週間で書き上げたが、その後7月かけて書き換えに没頭し、最初の草稿の三分の一を削り落としたという。彼は二十世紀の特徴である“戦争―戦後”を逸早く取り上げた。心理小説なのだが、心理描写をほとんど割愛して外面描写に終始した。説明を省いた会話の連続。“失われた世代”の複雑な嘆きを酒と喧嘩と闘牛によって処理してしまった。彼らの断絶意識は戦場とならずにむしろ戦争によって利益を得た米国と戦場の惨苦をつぶさになめた米国出身の青年の間のそれであった。この作品によって無名に近かった彼は一挙に名声を得、多くの若い文学青年がこの小説を実生活の中に模倣したという。

<セレンデイピテイ> 年をとって物忘れがひどくなるが、それへのはかない抵抗の一つとして、新たに聞き及んだことばを記録してみる。それは“当てにしていないものを偶然発見する(才能)”という概念で、セレンデイピテイ(serendipity)という。その語源は昔5世紀半ばにスリランカにシンハラデイーパ王国があり栄えていたが、この島国を取り巻く海に住む凶暴なドラゴンが雨季には洪水を、乾期には水不足をもたらすような偏った雨の降り方をもたらした。ジャイヤ王は机上の学習に努めていた三人の王子に武者修行の旅へ出てドラゴン退治の巻物を探して持ち帰るように命じた。三人はペルシャ、インドを通る長い旅を経て次々と困難に遭遇するが、賢明さと慈悲深さと勇気でそれらに打ち勝ち、当初の目的であった巻物は入手できなかったが、実践を通して知識に上回る応用力を身につけて帰国する。王は三人の王子の立派な成人ぶりを歓んだ。長男はシンハラデイーパで、次男はペルシャで、また三男はインドでそれぞれ美しい姫君を妻とし、それぞれの統治する国を得て幸せに暮らした。

 歴史的には紀元前5世紀半ばにインドからシンハラ族が渡来してきて、サンスクリット語で“獅子の島”を意味するシンハラデイーパ王国を建設する。語源として“シンハラ”はシンガポールの“シンガ”と同じ“獅子”(右上 国旗)で、“デイーパ”は“島”である。紀元前5世紀にゴータマ・シッダルタがインドで仏教を起こし、紀元前3世紀にアショーカ王は王子マヘンドーラとその妹比丘尼をシンハラデイーパ王国の首都アヌラーダプラ(右下図)に仏教を広めるために派遣した。この時比丘尼が釈迦の悟りを開いた場所に生えていた菩提樹の枝を持参し、王国の国王はアヌラーダプラに盛大な儀式とともにこれを植えた。2200年を経た今でも菩提樹の樹は青葉を繁らせている。スリランカという国はこのように早くから仏教を取り入れ(日本には6世紀に伝来)、日本と同様四方を海に囲まれた島国であることから親しみを感じる。
 一方でこの話はイスラム文化圏に伝えられ、イスラム文化とともに伝えられたヴェネツイアで1557年に“遍歴 セレンデイブの三人の王子”として300ページほどの大著として出版された。サンスクリット語の“シンハラデイーパ”がペルシャでアラビヤ語に取り入れられた時に“セレンデイブ”になり、イギリスに伝わった時には“セレンデイップ”になった。1754年イギリスの文筆家ホレース・ウオルポールが“セレンデイピテイ”を彼の造語として手紙の中で“当てにしていないものを偶然にうまく発見する才能”として初めて使った。この手紙を受け取ったトスカーナ大公国イギリス公使ホレース・マンはそれに共鳴して“セレンデイピテイ”を完全に理解したと返書をしたためており、この概念は当時の錬金術=現代の科学に有効に適用できると記している。

 1945年にロバート・キング・マートンは“社会学理論”という論文の中で“セレンデイピテイ”を科学の進歩と結びつけて論じ、またこれをトーマス・クーンが言い出した“パラダイム・シフト”のきっかけになるとして世間の注目を浴びた。計画していた研究の途上で偶然に見つかるテーマや手法が改革的で良い研究になる可能性が高いが、そこには常識を越えてそれを見つけ出す察知力が必要になる。興業としては失敗した映画“パリで一緒に”の中で1962年にオードリー・ヘップバーンは口述タイプするタイピストの役で脚本家の言葉が理解できず“セレンデイピテイ?”と聞き返して、脚本家は“それは人生を二度楽しめる言葉さ”と答えている。ノーベル賞を受賞した白川英樹教授は授賞式の演説でセレンデイピテイの活用を強調した。一方で共同受賞者のアラン・ヒーガー教授は“綿密に計画し予想を立てながら実験をした。決してセレンデイピテイではない”と述べ、個人差を示した。日本の製造業を立ち直らせようと産官学の錚々たるメンバーが1994年にまとめた指針では“自主性を保持した複数企業の協力でセレンデイピテイを獲得せよ”と唱えている。
 如何にしてこの才能を向上させ、開花させるか。ぼんやりしていては何事も進展しない。そこにはいくつもの作業要素が必要である。感動とそれをフォローする観察記録、適正なネーミング課題の発想認識ファイリング情報交換行動範囲の拡大、ひらめきを誘う連想仮説検証発見創造(具体的な製品化など)、経験の活用。但し勿論のことだが、このすべてを(順序を踏んで)行う必要などはない。行動範囲の拡大については南極探検隊長を勤めた西堀栄三郎氏は“歩いて得た情報は役に立つ”と言った。三王子の旅行にも通じる。海外旅行など異文化との接触はセレンデイピテイを育てるよい機会と言われる。予め定めた軌道に沿って進むばかりでは人生は味気ない。この項は主に“偶然からモノを見つけだす能力”(澤泉重一・角川書店)から取材した。

<アイヌ神謡> 北海道に嘗てアイヌ民族が住んでいたことは僅かに知っているが、その実体、歴史はほとんど関知しなかった。彼らは文字を持っていなかったようで、彼らの文学は口伝によった。その中には先祖の少年英雄が異民族である敵と幾星霜にも及ぶ戦闘に遂に勝利して敵を滅ぼし故郷に凱旋する物語もあり、それを炉辺(右下)で演ずると一篇を終わる前に夜が明けるほど長大なものであるという。敵対した民族には牛の尻尾のような髪の毛を背後に垂らしていたのも出てくる。これは弁髪で明らかに大陸からオホーツク海を越えてやってきて一時は北海道の一角を占拠したものらしい。これに対して北海道根生いの民族は部族が団結して同族意識を高揚し、やがてアイヌという一つの民族を形成するに至ったのだという。民族の存立興亡を賭けて戦った歴史的大事件を民族的な叙事詩として歌い上げ、子孫代々伝承してきたのが“ユーカラ”であり、その戦闘の終結は今から8〜900年前と考えられている。
 アイヌ文化については金田一京助が詳しく研究しているが、それによるとアイヌ文学は物語文学で、韻文の物語と散文の物語に分けることができ、前者は自然神のユーカラ“カムイユカル”と人格神のユーカラ“オイナ”、更に人間のユーカラ“英雄詞曲”に分けて考えることができる。先に挙げたのがこの英雄詞曲で、これだけをユーカラと呼ぶ人も多い。前二者は神謡と呼ばれ、カムイユカルはクマやオーカミ、シャチなどの動物を崇拝することによって自然からの恩恵の見返りを期待するもの、オイナは人間の始祖である人格神アイヌラックルが支配的な地位を占めて人間生活の幸福を保証する。
 今回手に入れたのは知里幸恵というアイヌ族の女性が13篇のカムイユカルをアイヌ語のローマ字綴りと現代日本語訳の併記として記録に留めたもので、“アイヌ神謡集”(岩波文庫)という冊子である。彼女は身辺の先祖伝来の歌をなお多くこのように文書の形にして後世に遺したかったが20歳の若さで夭折したために、これだけしか入手できない。登場する動物は梟(フクロウ)2件、狐2件、兎1件、小狼1件、蛙1件、獺(カワウソ)1件、沼貝1件などである。神謡に必須の要件として神が自ら語るということと折返(リフレイン)を具えていることが求められており、折返にはしばしば動物の啼き声や動作が写される。またこれらのカムイユカルにはそれぞれ固有の曲がついているというが、それは本では残念ながら察し得ない。この詞の発音は容易にローマ字表記で表示できるから日本語と類似の言語体系を持っているようにも思われるが、動物の啼き声や擬音以外はその言葉の意味を発音から類推しようとしても、全くの徒労に終わる。日本語との差異は朝鮮語より近くはない。彼らは農耕ではなく、狩猟と漁労で生計を立てていたから、それに関わる動物が歌詞に出現する。歌詞の中での動物はしばしば人との関わりに言及するが、決して人を恨んだり憎んだりはしていない。

 一例を挙げると
 梟の神の自ら歌った謡
 “Shirokanaipe ranran pishkan,konkanaipe ranran pishkan.” arian rekpo chiki kane petesoro sopash aine, ainukotan enkashike chikush kor shichorpokun inkarash ko teeta nishpa ne, teeta nishpa tane wenkur ne kotom shiran.
 訳―「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」という歌を私は歌いながら流れに沿って下り、人間の村の上を通りながら下を眺めると、昔の貧乏人が今はお金持ちになっていて、昔のお金持ちが今の貧乏人になっている様です。−以下略
 僅かにainukotan=アイヌコタンという語が分かるだけで、辞書がなければ解読できない。この後梟は運悪く貧乏になってしまったために金持ちになった人々からバカにされながらも健気に生きている家族の住む小さな家(右上)に神の宝物をばらまき、家族に感謝されるとともに部落の人たちが酒宴を開いて仲良くするのを見届ける。動物と人間が激しいいさかいをせずに共存共栄するこの種の話がこの後も続く。一種の童話である。
 詳しい紹介は省くが、とにかくこのような歴史のある独立した言語が自然消滅してしまうのは知里さんでなくても残念なことだ。

<欠陥ビル> これだけ世間で大騒ぎになっていると、この欄でも一言しておかないとバランスが悪い。耐震構造強度計算書偽造問題で姉葉建築士事務所が槍玉に挙がっている。国土交通省での姉葉建築士の聴聞会での供述について、報道されたところによれば“大口取引先の一つから鉄筋量を減らさないと他の設計事務所に頼む”と迫られ、そのような要求は1社に留まらなかったこと、また偽造の耐震構造計算書の審査を行った国指定の検査機関について“イーホームズ”は検査が甘いので選んだことを述べたという。国土交通省は当面判明している強度不足のビルは東京・神奈川・千葉のマンション20棟とホテル1棟に及ぶと発表、その内12棟については建築基準法で1以上であることを求められる強度(指数)が0.5以下であるとしてそのビル名とその所在を公表した。その内4棟ほどは強度が0.26〜0.31で震度5強の地震で倒壊の恐れありとした。 いずれも既に入居もしくは営業開始済みである。これらの内5棟のビルの建設を施工した木村建設は早々に自己破産を申し立てた。その建設主で開発会社“ヒューザー”の小島進社長は“私も被害者だ”と憤慨してみせ、未練がましく建物を補強する方法を検討したいと述べた。
 何にも知らずに長年月のローンを組んで入居したばかりの人々の困惑には心から同情申し上げる。報道によればこのような鉄筋入りのビルの強度計算には公認の計算プログラムがあるのだが、検査機関は審査に際してこのプログラムを使用していなかったという。データ入力の手間など大したことはあるまいに、何故それを使わなかったのか、よほど使いにくいプログラムなのか、部外者にはよく分からない。この強度計算結果とその評価については内容を承知しないながらも二つの疑問がある。専門家の意見を読むと、係数が0.8程度以上なら建物を補強するなど建設済みの建物への対処の方法があるが、0.5以下では絶句するだけで手の打ちようがないと述べている。

 第1に安全係数という思想はこの強度評価には存在しないのか。建物が破壊するには局部的な応力集中とか長年月の負荷による部材の疲労などいくつもの要素があるから、地震の震度と強度が直結するとは考えにくい。地震の加速度は不規則で正弦振動とはほど遠いから、建物が共振するか否か振動の周期など地盤の特質まで含めてプログラムが考慮しているとは考えにくい。機械の部材強度には通常数倍の安全係数が取られていて、容易に破壊などするものではないのだが、0.5以下では絶望だという建物強度の考え方はよく理解できない。もう一点は建物の形状がどう評価されているかだ。同じ建物の平面積でも上から見て縦横比が1と大きくかけ離れた長方形と正方形では倒壊の危険は相違する筈だし、もし“口”の形で内部に大きな中庭のある形状なら倒壊の危険はかなり軽減するに違いない。逆に港町中央ビル(写真)―これは上記危険物件の一つで評価係数が0.31なのだそうだがーのように細長いと、見た感じからして倒壊しやすい。要するに高層ビルで懸念される地震による破壊の態様としては上から押し潰されるような圧壊ではなくて、ユラリユラリバタアンというような地震の振動数に共振する倒壊なのではないか。前記強度評価のプログラムは果たしてそのような破壊モードに対応したものなのだろうか。

 こういう建物はもうなまじな補強などでは救えず、建て直すしかないというのが建築の専門家の意見なのだそうだが、もし地上構造物を撤去するだけでなく地下の杭や基礎構造までやりなおさなければダメということになると、新築を大幅に上回る費用がかかる。再び強度評価の話に戻るが、中東のイランとかパキスタンとかの地震では8階ぐらいの建物が真下に崩れ落ちて瓦礫の高さが2階以下にうず高く積もっている写真を見るが、例の係数が0.3程度でそんな壊れ方をするとはとても私には思えない。できればそのプログラムの原理を公開してほしいものだが、多分そういうのは0.1以下で生ずるのではないか。第3者の無責任な立場での評論で申し訳がないが、指摘されるビルが震度5強の地震に遭っても多分致命的な被害は実際は半分に達しないと思う。でも長期的には建物に大きなヒビが入ったり雨漏りやビルの傾斜が生じたりして居住不適になる危険は大きいから、所詮は退去するしかないが、居住者がインタビューを受けてヒステリックに叫んでいる生命の危険に関する懸念は建物にもよるが少し誇張されているのではないかと思う。また姉葉建築士の口ぶりからすると、国内の懸念すべき欠陥ビルの総数は今回発覚したのは実は氷山の一角で実際に調べるほどに増えて、重大な社会問題に発展する懸念がある。それはビル経営の過当競争とずさんな検査機関の運営がからんでいる可能性が感じられるからだ。日時とともに真相が明らかになるだろう。

 ―続報―
 衆議院の国土交通委員会で29日公聴会が開かれて、事件に関わった組織の責任者が国会へ喚問された。但し姉葉建築士は同事務所に構造計算書を発注していた森田設計事務所長が24日自殺したことも影響したのか、精神的に落ち着く時間が欲しいという理由で欠席した。出席者たちは世間を騒がせた点では皆謝罪したが、混乱する事態を招いた基本的な責任については誰も認めようとしなかった。指定確認検査機関“イーホームズ”の藤田社長は作為的に捏造された構造計算書の欺瞞を限られた時間の審査で見抜けなかったのはやむを得なかったことで、当社の業務遂行に疚しい点はないと開き直った。施工者の木村建設社長・同東京支店長ならびに建築主の篠原シノケン社長は姉葉事務所に経済設計を求めたことはあっても、鉄筋数量を具体的に指示したことはなく、法に反してもやれと要求したことはなかったと言明した。小島ヒューザー社長はマンションの買い主に対して買値の103%(2日前には106%と言明)で払い戻すと言明した点について、手持ち資金が多くないために公的資金援助がなければ倒産の恐れがあることを否定しなかった。また藤田社長が事前の関係者間の協議で小島社長に公表しないように圧力をかけられた旨発言した際に小島社長は藤田社長に激しい罵声を浴びせた。
 国土交通省12月半ばまでに震度5強の地震で倒壊の恐れがある建物の住人に自主退去勧告を行う方針を示唆した。建築基準法に基づき、横浜市は“コンアルマーデイオ横浜鶴見”に、また川崎市は“グランドステージ川崎大師”に使用禁止命令を出した。国土交通省は改めて震度6強で倒壊しない耐震強度の基準値を1.0として、姉葉建築事務所がデータを偽造し完成済みの建築物14棟について改めて各階ごとの耐震強度を計算した結果、0.26〜0.31と危険性の高い部分は1〜3階の低層階に集中していたと発表した。

 果たして日時の経過とともに判明した姉葉がらみの不良建築物の物件数は拡大して12月6日現在57棟に達し、その範囲も愛知県など広域に及んでいる。当初から姉葉建築士は自分の思惑だけでなく(複数の)外部の圧力があったことを示唆していたが、このほど事件の黒幕として総合経営研究所(内河 健所長)が浮上した。総研は“フルターンキー・システム”*と称する“経営指導・発注・設計を総て組織内で行う”工法で安価なホテル・マンション建設を売り込んでいた。この*宣伝は偽造問題発覚直後に総研のHPから削除されたが、内河氏は当業界でカリスマ的な存在であり、2000年頃から“コストダウンは構造の問題だ。セメントの量、鉄筋の量、鉄骨の量を計算し、設計の指示をしている”旨雑誌にも載せていて、姉葉氏の言明を裏付けている。内河氏は姉葉氏とともに“体調不良”を理由に12月7日の国会委員会の参考人としての喚問を欠席した。事件発覚後速やかに計画倒産を発表した木村建設も総研の一味と見られる。



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