
<日本語の変転>
7月にも書いたからまたかというテーマだが、文春12月号に“消える日本語”という題で多くの著名人がそれぞれ勝手なことを書いているので、そこで採りあげられた言葉を中心にもう少し付き合うことにする。N.H.K.の“ことばおじさん”(梅津アナウンサー)もまだ“気になる言葉”で頑張っている。皆日本語を愛する人たちである。
消えていく言葉はいくつかのジャンルに分けて考えられるが、まず言葉としては決して死んではいないが、現代社会ではもう浮いてしまった概念、これを改めて突きつけられると“ウム、そうなのか”と胸にこたえる。時代と世の環境が変化した。○立身出世○愛社精神○義理人情○おてんと様に恥ずかしい○夜なべ○粋と野暮。
冒頭の“立身出世”は卒業式に誰でも“身をたて 名を挙げ やよ はげめよ”と唄わされたが、今や違和感紛々でどこの学校でもこの歌は消滅したようだ。昔の青年は志をもって農村から都会へ出てきたが(かく言う自分もそうだった。岡崎から蒸気機関車の牽引する普通列車で8時間もかけてはるばる東京に出てきた)、今は若い人は生き甲斐を求めN.G.O.などに参加して人の行かないところへ出向いていく。“愛社精神”これは少しニュアンスが違う。キャノン社長御手洗富士夫がこれを声高に唱える経営者が少なくなったと嘆いている。年功序列廃止が唱えられ、終身雇用制は企業の倒産やI.T.技術の発達で常識からは遠ざかりつつある。企業の経営者も多くが外部から招かれるようになった。徐々にではあるが、一生一つの会社に埋没するのをいさぎよしとしない人口が増えてきたのは事実だろう。“義理人情”この崩壊はもっと新しいかもしれない。小泉首相の“自民党をぶっこわす”と衆院解散・対立候補擁立、また村上ファンドや楽天によるマネーゲーム。人の上へ行くためには旧来の日本人の常識や人情などにこだわっていてはダメだと主張しているに違いない。“おてんと様”この言葉の消滅はもう少し古い。都会にスモッグが立ちこめるようになると、朝日を拝むことも物理的に不可能になるが、“罰が当たる”という謙虚な心も次第に失せていったのは損得勘定だけで生きる人が増えたせいだろうか。“母さんは夜なべして靴下編んでくれた”という歌は囲炉裏・副業・手仕事などを連想させるが、マンションに住みコンビニで日常品を買い求める現代の生活環境とはかけ離れている。“粋と野暮”この言葉が使われなくなったと言うのが歌舞伎役者の中村勘三郎。これは江戸時代から伝わる美学なのだが、グローバリゼーションの進展やマニュアルに従う生活習慣がこういう思想から離反していくのだろう。古き良き日本の消滅を嘆くのは同年輩の人たちばかりか。
次は久世光彦氏の意見でもう少し繊細な感覚で日常会話の中の含みや味のあることばが日に日に半死語になりつつあると嘆く。“昵懇”とか“辛抱”とか“按配”、“冥利に尽きる”などである。色にも日本らしい表現があると言い、“桜色”・“朱鷺色”・“鳶色”・“鶯色”・“臙脂”・“萌黄色”・“茜色”などカタカナで表せないとする。また明治以前からあることばで“目論見”・“堪え性”・“陳腐”・“丹念”・“剣幕”・“気働き”・“依怙地”・“養生”・“拵える”・“叱言”・“息災”・“埒があかない”・“抜かりがない”・“しこりが残る”・“間尺に会わない”・など知ってはいても若い人は使えなくなった。
佐藤愛子は“あーらいやだ”・“オホホホホ”という女の愛嬌笑いが消えてしまったという。“ワーハハハハハ”で口の奥まで見せては色気も失せると嘆く。
国語学者北原保雄の“問題な日本語”では、省略語を気にする。“なにげに”・“キモい”・“きしょい”・“むずい”・“けばい”などである。私も同感な耳障りなことばとして“すごーい!”という女の叫び。語彙不足を露呈している。“立候補させて頂きました”―これも嫌味だ。“襲名させていただくことになりました”にも怒っている。“襲名することになりました”でよいではないか。最後に氏は大事にしたいことばとして、“たそがれ時”、“おくゆかしい”を挙げる。
作家夏石鈴子は“新明解国語辞典”から消えてしまった言葉を以下のように挙げている。“あめのむらくものつるぎ”(三種の神器の一)・“ウオッチ”・“うろぬき大根”・“シース”・“ずっこけ”・“つままれる”。私はこれを卓上電子辞書で確認しようとしたら、いつの間にかこれはスイッチが入らぬようになって(寿命) いた。
著述業の樋口裕一氏はある種の和語に心惹かれるという。“ほの暗い”・“うそ寒い”・“もの悲しい”・“うす暗い”など接頭辞が利くのだそうだ。
日本画家の平松礼二氏は専門家だけに色に関して久世氏よりずっと細かい。“朱色”から始まって“弁柄色”・“代赭色”・“撫子色”・“牡丹色”・“躑躅色”・“羊羹色”・“小豆色”・“緋色”・“茄子紺”・“蜜柑色”・“瑠璃色”・“鉄色”・“蓬色”・“玉虫色”(?)・“緑青色”・“青丹”・“柿渋色”・“亜麻色”・“鉛色”・“薄墨色”・“芥子色”・“山葵色”・“白緑”・“浅葱色”・“裏葉色”・“若竹色”・“鶯色”・“鶸色”・“松葉”・“苗色”・“山吹色”・“柑子色”・“石榴色”・“女郎花色”・“曙色”・歌舞伎の“梅幸茶”・“団十郎茶”など。
最後に漫才協会会長の内海桂子。江戸っ子だけに歯切れがいい。“ごめんなさいよっ!”で通してしまう。あからさまな言い方を避けて“この唐変木”・“おとといきやがれ”、身の程知らずには“おたまですくうものは、スプーンじゃすくえないよ”なんて啖呵も忘れてくれては困るという。
なお、テレビドラマ “風のはるか”で主人公はるかは心を動かされるせりふに会うと「なにそれ」と言い放つのが口癖である。流行るかもしれない。

<呂氏春秋> 昔中国が秦によって統一されるのに先立って、戦国時代末期の動乱の中で社会不安を鎮める新たな王者の出現と広域な世界の安定した支配を待望する空気があった。その頃魏には信陵君、楚には春申君、趙には平原君、斉には孟嘗君が戦国の四君子とよばれて名声を馳せていた。秦の宰相呂不韋は自国が強大にはなったが、その勢威が中原諸国の彼等に及ばぬのを残念に思い、3000人の賓客を招致しその中の上客の聞き知っている事柄を記録に取らせた。それは20万言にも及んだが、呂不韋はそれを編集して一書とし、“天地万物古今の事を備えたり”と称して“呂氏春秋”と名付けた。更にこの書を咸陽の市場の門に掲げて、この書の一字でも欠点を指摘し修正するものがあれば千金を与えると賞金をかけた。誰も応ずる者はなく、呂不韋は得意であった。
これに先立って趙の都邯鄲に秦の王子の子楚が人質として暮らしていた。河南の商人呂不韋はこの子楚と知り合い、絶好の投機対象と考えて大金を投じ名士たちと交際させ社交界に名を売らせた。本国でも遂にそれに注目して彼を呼び戻した。呂不韋は猛烈な子楚売り込み運動を行い、陰の実力者で昭襄王の太子の妃華陽夫人の薦めで子楚は秦の正嗣となった。王位継承権を得たのである。呂不韋はそれに先立ち、望まれるままに子楚に自分の愛人を献上していた。彼女は呂不韋の家の踊り子で既に呂不韋の子を妊っていた。紀元前259年生まれの子は正月なので“政”と名付けられた。昭襄王が死に父の孝文王が即位すると、子楚は皇太子になった。ところが即位の三日後に孝文王は急死し、皇太子の子楚は即位して荘襄王となった。功労者である呂不韋は秦国の宰相になる。この荘襄王も即位三年で死没、政が王位につく。後の始皇帝である(右上の写真は陵墓)。呂不韋は引き続き相国即ち総理となり、王が幼少のため政治の実権を握った。この頃呂不韋は嘗ての愛人だった秦王政の母太后と関係を戻したが、露見を惧れて別の男ロウアイを彼女に近づけた。時が移り即位9年後王政が成人式のために秦の旧都雍へ赴いた留守にロウアイは短慮にも反乱を企てたが、政は密告によってこれを知り都咸陽を攻めてロウアイを捕らえ、梟首車裂の極刑に処した。この事件の結果、呂不韋と太后、ロウアイの関係が暴露され、呂不韋は蜀に流罪となって後に自殺という悲劇的な最期を遂げる。以上は司馬遷による“史記”の記述であり、始皇帝の父は呂不韋の如く伝えられるが、真相は明らかでない。政が全国を制覇して皇帝に即位するのは後のことである。
話を“呂氏春秋”に戻す。これは古代中国の英知の結晶であり、内容は万端にわたる。全体を四分して春・夏・秋・冬の節から構成している。また1年を十二月に割り各月の冒頭にその性格を規定してそれに見合う人事教訓四篇を付し、自然を見つめながら天子・民の行動指針を定めている。呂不韋の最もあぶらの乗り切った頃の作品である。
○春の節には ―春の陽気に誘われて、万物は発芽し生育するーと述べて、生を全うするには貪って(奢侈)はならない、政治は公正にやれ、人を用いるには個人的な感情を捨てよ、まずその身の全うをはかり余力あれば天下を治めよ、節度を欠く人は動くたびに失敗し遂に破滅する、天地自然の理法に従うのが長生きの秘訣である、君主は筋目正しく政治の要点を抑えよ、君主の徳が高ければ人は服する、天寿を全うするにはすべての害を排除せよ、動かぬと鬱結する、まず身を治めその後に天下を治めよ、まず自身を振り返って求めその後に人に求めよ、人物を見分けるにはその人の周囲の人を見よ と長寿の秘訣・人物の見分け方などを記している。
○夏の節には ―夏の気は成熟と繁栄、草木もいっせいに華ひらくーと述べて、道理をわきまえるためにまた判断力を増すためによき師につき学べ、優れた教師は弟子を見るのに自分を見るようにし自分に振り返って教える、節度のある感情や欲望の下に音楽は創作できる、音楽が人を楽しませなければ災害を招く、堯・舜・禹は音楽を工夫して帝徳を明らかにした、殷や周でも音楽により人心を安んじた、聖人たちは四季に合わせて十二の音調を作った などと教育と音楽の重要性を説いている。
○秋の節には −秋の気は粛殺、政治は厳しく邪悪を正すーと述べて、軍備は廃止できない、愛の鞭はなくせない、正義のためには武力行使もやむを得ない、兵は凶器たるを知れ、用兵は急を要す、気力こそ勝敗のもと、用兵は相手を利用せよ、人に徳を施す君主は報われる、誠実は形に表れる などと軍事や心がけを中心に説いている。
○冬の節には ―冬の気が推移し、万物は徐々に活動を開始するーと述べて、死は不可避であり生きている人の心で死者を葬れ、かねめのものは入れず埋葬後は墓を暴いてはならない、人の器量によって珍重するものは異なる、人には自らの生命をかけてすべきことがある、優れた人が周囲に理解されるとは限らない、此の世には序があるから理法に従え などやや雑多な内容が説かれている。
以上取材は“呂氏春秋”(町田三郎・講談社学術文庫)によった。原典は勿論漢文であるが、漢詩の如く主に四字前後に“、”で区切られて見やすい体裁を取っている。一例を挙げると、
―天生陰陽、寒暑燥湿、四時之化、万物之変、莫不為利、莫不為害。―
といった具合であり、その読みと現代語訳とを添えている。内容に強烈な主張はなく、独創性には乏しいが、その広博さは中国学問の伝統を形成する基となったようだ。編者はこれから王政が多くを学んでくれるように密かに念じていたことだろう。

<地磁気> “心の旅”(再放送)で招かれて俳優仲代達也が夫人で女優の宮崎恭子(故人)を伴いイギリス最西端の荒涼たる海岸に50年をかけて築造された石積みのミナック野外劇場に赴く。一人の英国女がその一生をかけて営々と舞台と観客席を天然の海岸の傾斜面に作り上げた。もちろん重機などは一切使わず人力だけでやりとげた。観客席から見下ろす小さな舞台の先に広い海が見渡せる。招いたのはその造営者の家族(子孫?)で、そこで仲代にシェークスピア劇を演じて欲しいということだったようで、その催しが実現したかどうかは知らない。
その付近は海面より一段高い平原で、見渡すかぎり起伏はなく人家もない。山は見えない。牧畜を行う草原で、遙か先の方まで人の背丈の半ばほどの石垣が一列に積んである。こういう風景は日本では見られないものだ。その一角に背の丈ほどのブッシュが生い茂っていて、そこを掻き分けて進むと視界が開けて海に面した(ブッシュに囲まれた)空き地へ出る。そこに黒い衣装の一人の女がいて、ゆっくりと歩いている。何をしているのか訊ねると、直角に曲げた細い真鍮の棒を二本持っているのだが、その直角に曲げた先が前方に向かうように両手に一本づつ軽く持って、その二本を平行に保ちながら静かに前方に歩みを進める。するとある地点で急に平行だった二本の棒が互いに内側に交叉するように動く。女はこれはこの地点に強い磁力線の乱れがあり、それに感応して棒が動くのだと言う。仲代もやってみると確かにその通りに動く。夫人が不思議そうに自然にそうなるのかと夫に尋ね、そうだと答えている。
私にはこれは初めての話ではない。40年前にカリフォルニアに駐在していたある休日に職場で知り合った男の家を訪ねた時に、その男が自宅付近の林の間の開けた草地でこれと同じ事をしてみせた。直角に曲げた二本の棒までは同じだが、棒の材質は真鍮ではなかったが、何だったかはっきりとした記憶にない。その男も棒が交叉するのは磁力線のせいだと言った。お前もやってみろと言ったが私はやらなかった。しかしその事実を疑う気にはならなかったことは憶えている。
鳥を遠方に運んでいって放つと空中を飛んで一直線に自分の巣へ戻るのは地磁気を感じるからだという説がある。ミツバチの帰巣能力もそれだと言われる。蝶も渡り鳥のように目的地を決めて長旅をすることが分かった。人間の脳にも鼻孔上方で脳下垂体の前に磁気器官があり、松果体で磁気を検知する機能があったと言われる。しかし実生活でその必要性が減ったためか、文明の便益を受けるようになった代償にその機能が退化したらしい。昨年末のインド洋大津波の際にスリランカで象の群れがいち早く異変を察知して慌てて高地に逃げのぼり、難を逃れたという話が伝えられている。これは大津波発生時に生じた超音波を象が感知したのだということになっているが、地磁気の変化も無関係ではないかもしれない。いずれにせよ人間様の能力は禽獣や虫にも及ばぬことがあり、その事実や詳しい理由さえロクに知らないでいるらしい。

<紙のハンドリング> 機械学会誌11月号は“紙ハンドリングのからくり”小特集になっている。ロボットの発達は近年目を見張るものがあるが、人間の代りをするあらゆる機構は工夫を重ねたいくつもの要素技術が積み重ねられている。自分の勉強を兼ねて、紙を扱うそのような新技術をピックアップしてみる。
○A.T.M.による紙幣の扱い A.T.M.には入金処理と出金処理がある。迂闊だが自分の必要とする機能しか関知しないので、A.T.M.の入金処理手続きは知らなかった。利用者が入金目的で投入した紙幣には、折れ曲がったもの、湾曲したもの、皺のよったもの、テープで破れを修復したものなどがある。こういう紙幣を1枚づつ分離して繰り出し、表裏反転して鑑別し、紙詰まりを起こさぬように搬送し、衝突しないように集積する機構が搭載されている。この繰り出し機構にはピックアップローラ、フィードローラ、ゲートローラという3種類のローラがあって、それぞれのローラのゴムと紙の摩擦係数の差を利用して、1枚づつに分離して繰り出すように工夫されている。集積機構には搬送ローラとシートローラがあって、シートローラは紙幣を波形に変形させてコシをつけ、集積された紙幣の後端と放出される紙幣の先端との衝突・折れ癖により途中で落下する集積不良を防止する。
○複写機 やはり問題になるのは給紙カセットに積載された用紙の上から1枚づつ供給する仕組みで、不送りや重送は避けなければならない。これには用紙裏面を摩擦部材で擦り分離する摩擦部材方式と摩擦部材を逆回転するゴムローラに置き換えたF.R.R.給紙方式とがある。後者の方が高級である。私の家のプリンターはエプソン製だが、旧式のために給紙トレイへの用紙の入れ方に注意しない限り給紙不調による印刷失敗が発生する。新品に換えた方がよさそうだ。
○自動改札機 駅の自動改札機に乗車券を挿入すると、磁気情報の読み取りと書き込み、入鋏(パンチ)、印刷という一連の処理を0.6秒で行って取り出し口に排出する。近年では最大3枚の乗車券を重ねて挿入でき、新幹線では5枚まとめて挿入できるという。もちろん分離繰り出しして処理する。処理できる乗車券はサイズの大きい定期券*、特急券など、SFカード*とサイズの小さい切符とがある。また材質は*印がPET材で、他は紙である。10組の光電センサが挿入された乗車券の位置とサイズを判別する。乗車券は上下のベルトにはさまれて移動するが、下ゴムローラの回転を早く、上ゴムローラの回転を一時的に遅くして重なった乗車券の下側を先行させる。光電センサがまだ残券を認めれば分離繰り出しを繰り返す。
○書籍自動頁めくり機 これは二本の細長いローラーを指とする手首のモジュールで、頁をめくるときは二本並んだローラーをもつ手首が本の右端に移動し、左側のローラーは回転せず紙を抑え付けるが、右のローラーは回転して紙に接線力を与え紙の右端をめくりあげて紙の裏側に入り込み、紙は左右のローラーに挟まれる。ここでモジュール(手首)を上昇し左に回転して頁をめくる。ローラーを左に回転して頁から抜く。紙質に影響されずにめくり判定を行うために回転差検知ローラが考案された。ロータリー・エンコーダ−で回転速度差の極小値・極大値を捉えることで、めくり上げ失敗や2枚めくりを防ぐことができるようになった。だぶる技研(株)の“りーだぶる”は身障者にとってのヒット商品になった。私の場合は右手が利くからページめくりはできるが、左手が利かないので読書に銅の文鎮を使っている。文庫本などではそれで抑えておかないと本が紙の癖で閉じてしまうのだ。多分上記の発明も文庫本はもてあましているのではないか。

<東京の地理と歴史> 昔太田道灌が江戸城を築いたのは関東の巨大な台地が海に向かって突き出した岬の先端であった。江戸幕府を開いた徳川家はその城を都市の中心に変えるべく、永年にわたり江戸前の海の大規模な埋め立てを行った(2004年9月“佃島”参照)。これを遙かにさかのぼる縄文時代には地球温暖化のために海水面が上昇し、内陸部まで海水が進入して入り江が複雑な切り込みを作った。やがて海水面が後退して陸地が増加したが、山手の至るところにある急な坂道は昔海水の流れ込んでいた渓谷に降りる道なのである。主たる河川は現在も残っている神田川・善福寺川の他に渋谷川・目黒川も目立つ存在だった。
この特異な東京の地理事情に着目したのは“アースダイバー”(講談社)の著者・中沢新一である。彼はこの著書の中で山手線を包んで東は隅田川から西は吉祥寺近辺までの現在の東京の地図を洪積時代からの台地と沖積低地(縄文時代は水に漬かっていた)の二つの区域分けを黄色(台地)と青色(水没地域)に分けて表示した。これによれば山手線の品川から日暮里・田端を経て王子までは完全に水没していて、それ以東の隅田川流域はすべて広い海の中にあって奥東京湾を形成し、またそれより西の台地の区域内でも現在の神田川・善福寺川・渋谷川・目黒川流路に沿って広い水路が大きな渓谷を形成していて、台地の少なくとも1/4の面積は水面下にあった。その状況を要所ごとに詳細図で個別に示している。洪積地を山の手、沖積地を下町と呼び慣わしてきたのは、このようなまがうことなき歴史的な裏付けによっている。
○新宿 現在の副都心である旧淀橋浄水場跡とその西方は昔角筈村と呼ばれる沼の多い地域(右上)で、十二社のあたりには暗い森に包まれた池と滝(右下は北斎・十二社の滝)があって北方へ流れて神田川へ合流していた。甲州街道や青梅街道、そして後の中央線(鉄道)も高い乾燥地に造られたが、その南一帯は永らくじめじめとした湿地だった。


<ケ小平> この人については多くの知識をもっているつもりでいたが、未だその生涯を通した伝記を読んだことはなかった。今回は文庫本(矢吹晋・講談社学術文庫)からの抜き書きを主体にケ小平の生涯と政治家としての業績を回顧する。毛沢東は彼を“綿中に針を蔵す”と評した。またフルシチョフに彼を紹介して“あのチビ(ケ矮子)を甘く見てはいけませんぞ。彼は蒋介石の精鋭百万をやっつけたのです” と言った。身長は150cmしかなかったからだ。毛沢東より10歳若く、周恩来、劉少奇より6歳若い。彼は三度失脚し三度奇跡の復活を遂げた。指導部における権力の過度の集中と後継者養成の欠如が一党独裁体制の最大の弱点の一つであることを熟知していて、決して表向きのナンバー1 の地位には就かなかった。
ケ小平は四川省広安県の中程度の地主農家に生まれた(1904年)。ケ氏一族は人事院総裁や最高裁長官も出す名家であり、客家の伝統を継いでいた。ケ小平は四男三女の長男で、ケ希賢という名だった。中学卒業後、フランス語予備校を経てフランスに渡り、働きながら学んで“工業救国”に役立とうとした。この後一度も故郷に戻っていない。工場労働者として働き、周恩来(26歳)の下で同人誌(中国社会主義青年団欧州支部機関誌)を編集して周恩来の高い評価を得る(20歳)。やがてモスクワに行き大学で唯物史観・革命理論・軍事論を学んだ。1927年モンゴル経由で砂漠を越えて帰国。
馮玉祥の中山軍事学校で政治処処長兼政治教官を務めた。同年蒋介石が共産勢力一掃を狙うクーデタを起こし、この時ケ希賢はケ小平と改名して地下に潜った。彼は若年ながらその有能さを買われて中共中央の秘書長の大役を与えられた。李立三の極左冒険主義の指示によってケ小平は1930年10月から1931年7月まで桂林地方で難行苦行のミニ長征を行った。李立三の指示は彼我の戦力差を無視した無謀なものだったが、ケは状況をよく判断して生き抜いた。彼の体験は後の紅軍大長征に役立った。江西ソビエトに着くと瑞金県委員会書記を命じられた。この時期“内部の敵”のデマに幻惑されて毛沢東も仲間殺しを行い、ケ小平は行き過ぎた粛清の是正に努めた。
1932年7月会昌県ではゲリラ闘争の主導権を巡り毛沢東とモスクワ帰りの指導者たちの間で鋭い権力闘争が起こり、これに巻き込まれてケ小平も失脚した。このコミンテルンから派遣されたグループは観念的な指令を連発してゲリラ闘争を混乱させたために、長征を終えた3年後には毛沢東・ケ小平は復権した。その後の八路軍において毛沢東・ケ小平だけは将軍でない党の代表として指導部に参加した。1948年末の准海戦役で解放軍は国民党政府軍55万人を殲滅し、長江中・下流の広大な地域を解放した。1949年4〜6月前線委員会書記としてケ小平は南京・上海・杭州戦役実施要網を作成し、長江渡河、大都市の奪取を計画通り成功させた。大軍功である。
1949年10月中華人民共和国が成立した。ケ小平は祝典が終わると直ちに雲南・貴州・四川・チベットを含む大西南を解放する戦いに赴き(第2野戦軍)、これを成功させた。52年毛沢東に呼ばれて中央に戻り、政務院の常務副総理、国務院副総理、国防委員会副主席に就任した。56年9月の党大会で52歳のケ小平は政治局常務委員、中央委員会総書記に選ばれ、党内序列6位まで昇進した。毛沢東63歳、劉少奇58歳、周恩来58歳、朱徳70歳、陳雲51歳に次ぐ地位であり、下に林彪49歳がいた。その後10年にわたり中国共産党中央委員会総書記を務め、抜群の行政能力を発揮した。
1957年モスクワで開かれた“共産党代表者会議”から帰国した毛沢東はソ連からの援助があてにならないことをふまえて生産の大躍進運動を開始した。しかし人民公社造りに象徴されるこの運動は大失敗に終わった。62年毛沢東は自己批判を行ったが、彼自身はその意図の正しさを依然確信していて失敗は部分的なものに過ぎぬと楽観していた。これに対して劉少奇・ケ小平は1000万人を超える餓死者その他のマイナス現象をより深刻に受け止め、毛沢東と対立するに至った。毛沢東はソ連修正主義を批判し独自の社会主義建設の道を模索する中で探り当てた道であって、階級闘争を忘れるなと理念からの乖離を危惧し、一方ケ小平は党機関の実務者として空想論は許されないとますます現実路線に傾斜して白猫・黒猫論*1を口にする。65年9月毛沢東は劉少奇・ケ小平を党内の実権派と認定しその打倒を決意する。世に言う文化大革命の始まりである。
劉少奇・ケ小平ラインは工作組を派遣したがこれは造反学生との対立を激化させ、66年10月中央工作会議で両名は自己批判を迫られた。ケ小平は工作組の派遣が“ブルジョア反動路線”であることを認めさせられ、北京街頭に劉少奇・ケ小平打倒の標語が公然と貼られた。68年12月の中全会は97名の中央委員の内40名しか出席しない異例の会議となった。実権派として出席の権利を奪われた者が47名に達し、中央委員候補は73名中54名が出席の権利を奪われた。劉少奇は裏切り者として党籍を剥奪され、ケ小平は党籍こそ留保されたが一切の職務を剥奪された。
康生、江青、林彪は迫害計画を作成し、劉少奇・彭徳懐・賀竜は周恩来の庇護にも関わらず迫害致死を免れなかった。劉少奇は南昌に配されトラクター工場で金属加工をさせられた。彼は3年余にわたり文革期の動乱を耐え抜いた。71年9月、林彪搭乗の飛行機が不時着に失敗・炎上した。ケ小平はこの時と72年8月の二度毛沢東に手紙を書き、“68歳になるが、まだ健康はよい。機会があれば過ちを改めて党と人民のために働きたい”と述べた。林彪事件後、毛沢東は文化大革命の失敗を自覚して軌道修正を図ろうとした。それは文革に妥協しなかった陳毅の葬儀が契機になった。彼はケの軍功やモスクワ派との対立で彼が自分を助けてくれたことを思い出した。周恩来のキメ細かい裏工作があって、73年3月ケ小平は国務院副総理の職務を回復、8月の党大会では中央委員に選ばれた。12月の政治局会議で毛沢東は改めてケを政治局委員、軍事委員に任命して二人の蜜月関係が回復した。
復活したケ小平は“巻き返しはやらない”と言った前言をひるがえして再び脱文革路線を進めた。彼の態度は四人組*2との全面的な対立になり、病床の毛沢東は75年11月ケの再追放を決意する。四人組は“悔い改めない実権派”として彼への攻撃を強めた。76年4月周恩来の追悼集会は天安門広場で群衆と警察の衝突になり、政治局はこれを計画的な反革命事件とし、黒幕はケ小平であるとして彼を一切の職務から解任した。
1976年9月毛沢東は死去した。天安門事件直後に“あなたがやってくれれば私は安心だ”という毛のメモによって華国峰は毛の後継者になった。彼は文革期に昇進したが、四人組とは立場を異にしており、周恩来に近かった葉剣英や李先念の示唆を受けて主導権争いの中で四人組の逮捕に踏み切った。一方で華国峰は自らの正統性を印象づけるために毛沢東指示のすべての遵守を宣言した。そうであればケの復活はあり得なかったし、華国峰は復活に難色を示したが、77年3月の党中央工作会議では若手から強い復活要請があり、葉剣英・李先念の条件付き復活容認論もあって5月に復帰が実現した。8月の中全会で党主席に華国峰、副主席に葉剣英、ケ小平、李先念、汪東興が選ばれてこの五人で最高指導部が形成された。
ケ小平は毛沢東から学ぶべきものは“実事求是”の態度であり、個々の発言や指示ではないとして、語録*3の呪縛から思想を解放するように説いた。この哲学を先取りし、“実践は真理を検証する唯一の基準である”と読み替えたのは当時中央党副校長だった胡燿邦であった。78年末になってようやくケは指導部内の地位を本格的に固め、毛沢東路線とは異なる独自の社会主義建設路線を提起できるようになった。78年12月の中央委員会では思想・政治・経済・組織すべての面で大転換が決定された。これは党内に大きな混乱と動揺を惹き起こしたので、ケは79年3月四つの基本原則を提示した。即ち、1)社会主義の道を堅持、2)プロレタリア独裁を堅持、3)共産党の指導を堅持、4)マルクス・レーニン主義、毛沢東思想を堅持―であり、民主化への急傾斜にブレーキをかけた。農業の生産性を高めるために人民公社を解体し、農業の戸別生産請負制を推進した。趙紫陽はケの方針を体して現場で指揮を取った。ケは日本の大平正芳首相との会談からヒントを得て所得四倍増計画を立て、経済体制改革としては自力更生として対外開放政策、具体的には経済特区の設立・合弁企業法の採択を行なった。企業への党委員会の指導を撤廃して企業自主権を拡大した。
ケの経済改革は時に曲折はあれ、順調に進んだ。しかし政治改革の面では混乱を繰り返した。当初のケの敵は毛沢東路線の継承を唱える華国峰だった。この旧勢力退場の次の混乱は改革派と保守派の分裂だった。彼には保守派の隠然たる力を抑えきる力はなく、ある時は改革派の旗手として奮闘しながら、ある時は改革派の一角を切るジグザグ作戦を強いられた。保守派が用いた“精神汚染”という語を利用してブルジョア自由化の風潮にブレーキをかけた。しかしそれによって深刻な動揺を生じた深せんなどの経済特区を視察して対外解放を決定した。建国以後92年までに政治局常務委員になった者は29名だが、その内13名は権力闘争に敗れて失脚している。その中を生き抜いたケの権謀術策はただものではない。1982年にケ小平は遂に自らデザインした体制をスタートし、胡燿邦を後継者に据えた(その後を趙紫陽)。日本から訪中した中曽根首相に“天が落ちてきても胡燿邦と趙紫陽が支えてくれる”とケは語った。
しかし改革に困難が発生した。保守派は改革開放の進展によりみずからの既得権益が損なわれるようになることを危惧し、これに抵抗するようになった。ケの意向を受けた胡燿邦の若返り構想は長老たちの強い反発を買った。胡燿邦側には主として若手から改革への歩みを速めるように改革の功の面が報告され、ケ小平側には改革の罪の側面が集中した。保守派はケ小平を留任させてみずからの地位も保全しようとし、急進派はケ小平も含めた若返りを主張して、ケ小平・胡燿邦間に溝が生まれ、隙間風が吹いた。党は玉虫色の決議をするしかなかった。党中全会が目覚しい政治改革を進展させなかったことに失望した安徽省の学生がデモを行なうとそれは全国150大学に波及した。87年1月政治局拡大会議はデモに甘い胡燿邦を辞任させる決議を行なった。トラブルの発端はケ小平が経済改革を効果あるものとするための”権限の下放“を呼びかけたとき、学生たちがこの呼びかけを政治的民主化全般に及ぶものと考え、共産党の下野まで要求する者が出てくる始末だった。この学生たちに柔軟な対応を模索した胡燿邦はケからすれば”ブルジョア容認“にほかならず、総書記として許しがたき怠慢であった。ケは泣いて馬謖*4を斬った。
胡燿邦の電撃的辞任強要で意気上がる保守派は新たな標的として総書記代行になった趙紫陽を狙った。ケは改革開放路線を堅持することに腐心していたが、保守派をなだめるために李鵬の総理就任を容認した。一方で趙紫陽はケの支持を取り付けた上で保守派の悪乗りをキッパリと批判した。87年10月の党大会では趙紫陽報告草案が事前に公開された。ケの演出で保守派の攻勢への巻き返しが成功した。中央委員の選挙では従来とは異なって差額選挙(候補者数が定員より多い選挙)が実施され、胡燿邦・趙紫陽は高位で当選したが保守派の筆頭は落選した。趙紫陽は“代行”が取れて正規の総書記になった。改革派と保守派の綱引きは相変わらず続いていた。
解任された胡燿邦は以後の会議では一切発言しなかったが、89年4月の政治局会議で心臓麻痺を起こして倒れた。学生たちは追悼集会を開いた。ケ小平は政治改革の行き過ぎを抑えつつ経済改革を加速しようとしていたが、学生たちは経済改革と政治改革の同時展開という簡明な戦略を構想し、それを妨げ胡燿邦を処分したケ小平批判に固まっていった。党の常務委員会は情勢を分析し、学生運動の矛先は党中央に向けられたもので、共産党の指導を転覆せんとするものと断定した。ケは講話を行い、“胡燿邦は誤ったのだ。この学生の動きは動乱であり、断固として制しなければならない”と述べたが結果は学生運動の火に油を注ぐことになった。趙紫陽はピョンヤンから帰国して事態を知り胡燿邦が如何にしてケの怒りを買ったか熟知していたにも関わらず胡と同じ方向に変身を始めた。当時中国を訪れていたゴルバチョフに彼は柔軟路線を選んで学生運動に対処したいが、皇帝ケ小平の決裁が得られないと語った。これは彼が総書記であっても最重要な問題については依然ケが舵取りを行っていることの告白だった。ゴルバチョフのペレストロイカを趙は新たな世界の潮流と捉えていた。
趙紫陽はケに翻意を促したが聞き入れられず、問題を世論に投げかけて世論の圧力を利用する手段を取った。ケ小平―趙紫陽枢軸は分解した。大衆は“老いて愚昧な独裁者”の引退を要求し、5月17〜18日北京での100万人デモにつながった。ケ小平宅で行われた政治局常務委員会でケ小平は趙紫陽の提起した妥協路線を拒否した。ケの主張は明確で経済面でのブルジョア自由化は推進するが政治面での自由化は許さないという二元論だった。ケは戒厳令の布告を提起したが、趙は受け入れず民主化運動側に組みして総書記辞任を申し出た。5月19日趙紫陽不在の会議で戒厳令の正式布告が決定した。党中央の分裂は公然化し、ケ小平・楊尚昆・李鵬は趙紫陽処分の方針を固めた。後にケ小平は“私の一生で多くの誤りを犯したが、最大の誤りは胡燿邦・趙紫陽の二人を用いたことである”と述べた。後任についてはケには既に持ち駒がなく、李先念・陳雲ら長老に受けのよい江沢民を抜擢した。6月3〜4日天安門広場では武力鎮圧の惨劇がくりひろげられた。政府公表による死者は319名だが、これが過小報告という証拠はない。ケ小平は中南海懐仁堂で軍幹部に接見し鎮圧の苦労をねぎらった。中全会で李鵬は激しい趙紫陽弾劾演説を行い、彼の党内のすべての職務は解任されたが、ケの指示で党籍は留保された。
ゴルバチョフのペレストロイカは改革を進めるケには援軍だったが、天安門事件後2年でゴルバチョフが失脚しソ連を混迷に陥れたのに比し、ケの“社会主義”体制は健在であり経済は繁栄を続けている。彼はこう言いたいに違いないー“改革しなければ活路はない。しかし改革を成功させるにはなによりも政治的安定・秩序の安定が必要だ”と。事件後江沢民ら新指導部の権威を高めるためにケ小平は正式に引退を宣言した。しかし1991年旧ソ連が解体し、中国国内でも国営企業の半分が赤字に転落して保革抗争が激化した。マスコミから中央指導部まで保守派主導になった。ケ小平は逆襲に出ざるを得なくなった。1992年1〜2月ケは家族を連れて南巡の旅に出た。彼は旅先で講話を発表し、人々がソ連解体の中で改革開放の行方に危惧の念を抱くのに対して@“生産力の増強に資するか、人民の生活向上に資するか”を判断の基準にせよと説き、A保守派の安定成長論を斥けて高度成長論を対置し、B地域格差・所得格差の拡大を容認した。この点は世紀末までは沿海地区しか発展は望めない、格差問題に当面有効な解決策はないことを認めた大胆率直なものだった。
この講話の効果は大きく人々は政治には口を閉ざしひたすら経済発展による生活向上へ向けて走り出した。経済建設の成果をGNPで比較すると、毛沢東時代(1952〜1976)の成長が年率5.61%であるのに対して、ケ小平時代(1978〜1997)のそれは年率9.2%であった。周知の如くこの急成長は止むことなく現在にまで続いている。彼は1997年に静かに消えた。
ケ小平をどう評価すべきだろうか。彼の役割は毛沢東時代には執行に限られていたが、毛沢東からは戦略を学び、周恩来からは行政の手腕を学んだ。彼の哲学は恐らく理想論を掲げる毛沢東を憤激させただろうが譲らなかった黒猫白猫論であり、彼の智慧は大躍進の失敗で毛沢東の実践論が空を漂い始めた時にその観念論に痛撃を与え実事求是を換骨奪胎して現実論に引き戻し、“経済特区”や“一国二制度”構想を打ち出した独自性に見られる。彼には玉虫色の折衷策も多いが決して単純な中間を取っているわけではなく、所得四倍増論は時宜を得た。冷戦体制の終焉を予感して毛沢東の“第3次大戦不可避論”を修正、85年には解放軍を400万から300万に減らした。また一人っ子政策を推進して人口抑制を図った。天安門事件直後の大悪人のイメージは消え、今や中国再生の偉人と称えられている。
私の感想を一つ。この人の生涯は死ぬまで苦労し、その果てに何とか大きな人生目標を達成できて満足のうちに死んだ点で徳川家康に似ている。それにしても切実に希求し、一時は自分に代わって天を支えてくれると信頼した後継者二人ともに裏切られた心境はいかばかりだっただろうか。しかし周囲の環境が変転する中で常に自分と同じように考える人間などいはしないのだ。政治は難しい。現状維持だけではいけないという思いが毛沢東をも変調させた。凡そ人の頼りなさに粛然たる心持ちを抱く。
*1 白猫でも黒猫でも鼠を捕る猫がいい猫だ(当初は白猫でなく黄猫で、これを言い出したのは劉伯承だった)
*2 江青、張春橋、姚文元、王洪文ら4人の政治局員。紅衛兵を使って反対派を徹底的に弾圧した
*3 文革の間は毛沢東語録の赤い手帳は紅衛兵の必携品であり、国民の聖典だった
*4 三国志で諸葛孔明が見通しの甘さから大敗した将馬謖を制裁した故事

<携帯電話事業> 道を歩いていると、後から何やらさかんに話しながら来る人がいる。連れは誰かとふりかえると大抵は一人で、耳に携帯を押し当てて歩いている。話し相手も同様な格好で街を歩いているのだろうか。これは21世紀になってどこにでも見られる風景になった。自分では端末を持ってもいないし、その必要も感じない今やこの世界に最も疎い人種に属する自分ではあるが、その世界についての最小限の知識は取り込もうと多少の努力はしたいと考えて、情報収集を試みた。
現在の既存事業者の契約数(2005年8月末現在)
全国 8883万件
NTTドコモ 4978万
KDDI・au 2054万
KDDI・ツーカー 353万
ボーダフォン 1499万
新規参入事業者(9月末の締切までに周波数割り当てを総務省に申請した事業者)
ソフトバンク
イー・アクセス
アイビーモバイル
現在は契約事業者によって新たな電話番号を取得しなければならないが、来年秋には携帯電話番号を替えても番号が変わらない“番号ポータビリテイ制度”が導入される。
周波数
800MHZ NTT:ドコモ:FOMA:au
1.5GHZ ボーダフォン:ツーカー:NTTドコモ:
2GHZ NTTドコモ:ボーダフォン:auの一部


<失敗学> 「失敗百選」(中尾政之・森北出版)という本を入手した。著者は東大・機械の教授である。これまで発生した事故で、同様な失敗を今後起こさぬために参考になりそうなことがあれこれ書いてある。事故の起こった原因を41に大別し、それらを更に12の大分類でくくっている。
12の大分類だけを改めて紹介すると
@材料の破壊 A構造の倒壊 B構造の振動 C想定外の外力 D想定外の制約 E火災・天災からの逃げ遅れ F連鎖反応で拡大 G冗長系の非作動 H作業で手を抜く I設計で気を抜く J個人や組織の怠慢 K悪意の産物
著者は具体的な事故の記述に先だって何故このような失敗ライブラリーを作る気になったか、またこのようなライブラリーは後進の人たちにとって有益であろうかという問題を論じている。著者の先輩に畑村洋太郎という教授がいて、“失敗学”を提唱し、六本木ビルの回転ドアの事故でも原因分析をやってこの世界の評論家として知られている。この本に参考書として畑村氏の著書も載っているので、いずれこれも読んでみたいと思っている。
ところで著者の内省にも関わらず、私の感想としてはこの著書はデータベースとして十分に整備されているとは思えない。勿論個々の記載は興味を惹くが、これを読んで事に当たれば(計画・設計・運用・保守点検)事故の発生を未然に防止できる、あるいはその機会を著しく減らすことができるとは容易に思えない。以下勝手な感想を述べさせてもらう。まず採り上げた事例が玉石混交である。著者の実験室で起こった些細なトラブルから世間の耳目を揺るがした大事件まで多岐に渡っている。事故の原因が後になって詳しく調べてみれば明確で予め対策を建てることが十分に可能だったものと事情が不明確もしくは調査不足で事故原因も推測に過ぎず従って明確な対策立案もできないものとが混在している。
大体先に掲げた12の大分類の多くがデータベースの索引として適切とは思えない。“想定外の”原因だったら対応できなくても仕方がないし、“個人や組織の怠慢”では事故が起きても仕方がない。もう少し別の捉え方を工夫すべきだ。 “悪意の産物”(例:地下鉄サリン事件)に至っては失敗とは違う。従ってケチをつければデータベースとして採用する事例ももう少し精選すべきではないかと思う。しかし人間のやることはそう単純に割りきれない事が多いのだから、納得できない事例が多くてもそれはそれでよいのかもしれない。
では数件の事例についてコメントしてみる。
○宇宙船コロンビアの事故 これは想定外の制約―落下物・付着物の分類に入っている。打ち上げ時に外部燃料タンクの断熱材が落下してスペースシャトルの左翼のRCC(Reinforcrd Carbon-Carbon)パネル#8が損傷、直径10インチの穴が開いた。スペースシャトルの断熱材で外部燃料タンクについては使い捨てなので、打ち上げ直前に消えてなくなっても差し支えないのだから、剥離をそれほど気にしなかったのだろう。一方RCCは炭素繊維強化プラステイックに樹脂を含浸させて焼成すること10回という手のかかったものだが、セラミックの如く衝撃による脆性破壊を起こす恐れがある。今までも小さな剥離はあったように聞いた憶えがあり、このシステムの基本的な弱点になっていた筈だ。そうであれば、外部燃料タンクより上部にシャトルを配置して落下物による損傷の恐れを排除すべきだ。
○台風21号で送電鉄塔倒壊 これは想定外の外力―強風の分類に入っている。2001年10月1日茨城県水田地帯の275Kv送電線を台風が直撃、付近の瞬間最大風速は56.7m/sだった。8基が連鎖して6基が倒壊、2基が折損。20万世帯で5時間45分の停電になったというもの。主因は基礎不良で地盤・台座間のグラウト層形成不足のために基礎の台座が浮き上がり、風上の鉄塔が風下側に倒壊、連鎖現象を起こしたというのだが、新聞報道写真では倒壊した鉄塔はグシャグシャに潰れており、鉄塔強度も限界を超えていて、水田地帯に地盤に関わらず等間隔に建てた鉄塔が送電線の設計風速60 m/sに近い暴風に耐えられなかったといって設計・施工を責めるのは当たらないし、失敗事例には当たらないと思う。
○諫早湾干拓事業の反対運動 これは悪意の産物―企業変更の不作為の分類に入っている。1952年長崎県知事が農地造成のために諫早湾締め切りを表明。農林省は有明海の淡水化と干拓を目的に有明海地域総合開発計画を策定、漁業民の反対に関わらず工事を続行、1997年全長7kmの潮受け堤防で締め切り完了、2001年海苔漁業者が排水門開放を求めて海上デモ、2004年佐賀地裁は漁業被害を認めて工事中止の仮処分を決定するが、当局側は上告、未だに水門開放は実現していない。しかし干拓地での大規模機械化農業は今や時代遅れであり、ニーズは消滅しているが、官僚は一旦定めた方針を変えない。これなどはダムの建設工事と同様で付随的な害悪の方がクローズアップしても、一旦建てた方針を撤回しない。―機械科の教授が失敗の事例としてこういう問題を採り上げるのは奇異な感じもするが、現実社会における軽視できぬテーマとして問題提起する心情には素直に同意する。
○パトリオット・ミサイルの防御失敗 これは想定外の制約―誤差蓄積という分類に入っている。湾岸戦争中、米軍はイラクのスカッド・ミサイルをパトリオット・ミサイルで迎撃しようとしたが、弾道計算で切り捨て誤差が蓄積してほとんど打ち落とせなかった。パトリオット・ミサイルはマッハ2の飛翔体を同時に100ヶまでフェイズド・アレイ・レーダーで捕捉し、同時に9本のマッハ5のミサイルを誘導して、目標物に近づくと自分で反射レーダーを発信し、自らの航路修正を行って目標物を撃墜するという能書きになっている。しかし弾道計算をする24ビットのコンピュータは23桁以下を切り捨てるために丸め誤差が生じ、その飛行時間中の集積誤差は大きな距離誤差になるので命中率が大幅に低下するという。著書の文中の説明はことばが省かれていてよく理解できない。湾岸戦争当時の話だけなら笑い話だが、現在でも米軍の仰撃ミサイルの命中精度は著しく悪いという噂がある。北朝鮮からのミサイル攻撃を気にする日本の防衛庁は共同研究費と称して毎年莫大な予算を米国に供与しているが、一向にその命中精度が向上し使い物になるようになったという話を聞かない。こういう世界は軍事機密のヴェールが被せられているが、中身を暴露すればバカバカしい金の無駄遣いになっている恐れがある。
○10000m級無人探査機“かいこう”の亡失 これは材料の破壊―高分子材料という分類に入っている。296回の深海調査を終え、高知県室戸沖の水深4675mで調査を終え、ビークルとランチャーを結ぶ二次ケーブルを巻き上げたところ、二次ケーブルのアラミド繊維編組が切断、漂流するビークルが回収できなかった。ケーブルの伸縮でアラミド繊維編組が屈曲し、編組が乱れ繊維が損傷して切断に至った。事前の点検で繊維編組の一部切断を発見したが、無視した。ランチャーを介してビークルと母船を繋ぐのに信号・電力線ケーブルをワイヤと兼ねた点に無理があった。コンセントを抜くのに遠くから電線ケーブルを引っ張るような乱暴なことを調査作業の度にやっていたことになる。このビークルは打ち上げに失敗したH2ロケット(この事故については著書でも採り上げているが、2000-4“ロケット”参照)のエンジンを回収(広い太平洋からよくも見つけたと当時感心した)して失敗の原因究明を成功させたり、“えひめ丸”の遺留品を回収するなど大活躍をした。
○オーストリアのケーブルカー火災 これは火災・天災からの逃げ遅れー火災避難という分類に入っている。標高2400mトンネル内でケーブルカー車両後部で火災発生、過熱でケーブル1本が切断、自動停止装置が作動、180名の乗客はパニックになる。風は下から上へ流れていた。乗客の多くは出口に近い上方に階段を昇ったが155名が煙に巻かれて窒息死。トンネル下方へ階段を降りた乗客は無事避難できた。こういう際は二重の意味で下方へ避難すべき。上り下りの歩行速度の差と煙の流れ。―こういう知識はどこかで役に立つ可能性があるから、失敗データベースとして適切。
もし最近の世間の騒ぎを考慮するのなら、“高層建築の耐震強度偽装”を追加すべきだろう。このような事件を起こす者への法令上の配慮不十分が最大の失敗である。人間の心には真面目な人間と悪魔の両方が棲んでいることを考慮して、建築基準法に違反するような建築設計に直接関与した場合の罰則を現行の罰金50万円から体刑も含めて大幅にアップするだけでなく、それを直接間接に教唆・強要した者にも同等の罰を加えるように法令を改正することがまず必要。計算・チェックのしやすい強度評価プログラムの認定・普及もぜひ推進すべきだ。
<耄碌した話> 妙な夢を見たので記録に留めておく。碁を打っている。ややこしい左辺の折衝を先手で切り上げて右上隅の三々に向かおうとする。先着するつもりだったがよく見ると既に相手が肝心の右上隅に手を付けている。俺の注意力・記憶力も当てにならなくなったと慨嘆しつつ、それでも何とか手にしようと考えるのだが、急所に打たれた相手の黒の一着が邪魔でどうにも手にならない。「俺の知らぬ間にこっそり打ったな。けしからん」という気がある。だがその石は剥がされないようにいつの間にかテープで盤に止めてある。そこでその黒石を剥がしにかかる。ところが石は縦横斜めにガッチリ強靱な粘着テープで止めてあり、容易に剥がせない。しかし、ここで諦めないのが肝心だと指先に力の入らぬもどかしさに耐えつつ、時間をかけて何とか一枚づつテープを剥がすのに成功した。そこで私の今回の一着はこの石を剥がす一手に替えたのだと宣言する。隣に審判役のような人がいて、この私の行為を正当な着手と認定すると宣言してくれた。不思議な事に碁盤の向こうに座っている筈の相手はいない。やれやれと思ったら目が覚めた。
碁を打つことを少しでも知っている人には理不尽極まる夢だった。自分は人の考えないことをやったつもりでいたが、次は相手の手番だ。相手が改めてその位置に黒石を打直したら何にもならないではないか。妙手でもなんでもない。夢というのは目覚めて考えると、かくも間が抜けている。それにしても一瞬は意味のある行為をしたつもりだったのだから耄碌したものだ。毛沢東のような英雄でさえ晩年は耄碌したのだから諦めるか。

<山形・特急脱線> 12月25日午後7時14分、JR東日本羽越線で秋田発新潟行き特急“いなほ14号”が砂越―北余目間の“第2最上川橋梁”を越えた地点で突風に煽られて脱線転覆した。この場所で軌道は約7mの盛り土上に敷設されていて、列車は6両編成だったが車両右下方から吹き上げたみぞれまじりの突風が先頭車両を持ち上げ、前の3両は左側斜面下に転落した。走行の慣性で後の車両はそのまま前進を続けたために、列車は4両目で折れ曲がり、先頭3両は横転したが先頭2両は後ろ向き、3両目は前向きのままである。特に先頭車両は左側土手下の小屋に頂部が折れ曲がって巻き付く形になった。軌道上にそのまま台車ごと残っていたのは最後尾の6両目だけで、5両目前部は右側の反対車線まではみだしており、4・5両目の台車は車両から外れてレール上に残っており、先頭3両の台車は土手下に散乱していた。現場の積雪量は当時約28cm。先頭車両に乗っていた4人が死亡し、負傷者は33人、内23人が入院した。
鈴木高司運転手は軽傷で業務上過失致死の疑いで山形県警の事情聴取を受け、制限速度120km/sのところを風が強いので速度設定を105km/sにしていたが、鉄橋を渡った直後に右から雪交じりの突風を受けて浮き上がり同時に左側に傾いたと述べた。JR東日本によれば風速が30m/sに達すれば列車を停止し、風速が25m/s以上では列車を徐行運転する規定になっているが、当時現場から930 m離れた位置の風速計は5〜20 m/sで規定値には達していなかったという。しかし局地的・突発的な強風をこういう形で適正に捉えられるか疑問は残る。
毎日新聞でも指摘しているが、右上図の如く高い盛り土の箇所では風は水平ではなく下方から車両の下に入って持ち上げるように吹き上げるから、転覆しやすいと言えそうだ。ニュースでは脱線事故というが、平地で脱線しただけなら人命に関わるような事故にはならないならないで済む可能性が大きいが、高所から転がり落ちたり、先日の福知山線のように堅固な構造物に衝突するから柔身の人体には耐えられない衝撃になる。もう一つ推定される間接要因として最近の車両の軽減化と強度低下がありそうだ。“吹けば飛ぶような”というが、昔の蒸気機関車に曳かれた客車なら頑丈だったからそう簡単に持ち上がったり、折れたり、潰れたりしなかったのではないだろうか。1両の重量は44tonという。通常の使用では強度・剛性に不足はないのだろうが、こういう事故を起こすと少し引っかかる。運が悪いと諦めるべきことだろうか。
行方不明者の問い合わせがあって、27日も吹きつのる吹雪の中を大勢の作業員が転覆した先頭車の下部を掘り出す困難な作業に従事して新たに1人の遺体を発見した。転倒している車両の下を人力で掘ったりしないで、クレーン車で車両を持ち上げるべきなのだが、恐らく付近には大きな道路はないようだし、鉄路では上下線とも不通になっているレール上には立ち往生している車両があって、なかなか現場にクレーン車が近づけないのだろう。緊急事態への対応というのは必要な車両を速やかに現地へ送り込む手段を確保するのが肝心だ。大勢の人が現場に駆り出されてご苦労ではあるが、このような現場にありがちな事で、なすすべなくウロウロしている人が多いのではなかろうか。
専門家の後日調査によると、当日現地では発達した積乱雲から瞬間風速40m/sを超えて吹き下ろすダウンバーストが発生し、高い土手に沿って反転、斜め上方に吹き上げたと推測されている。半球形3ヶの通常型風速計はこのような激しく変動する風速の最大値を捉えるのには適当ではないと言われだした。それでもこの地域では過去に30回以上強風による列車の運行中止がなされているという。JR東日本松田社長は全責任を負って辞任することを表明した。