2月の話題


2006年2月

<テレビ放送雑感>   N.H.K.のテレビ放送への不満は丁度1年前にこの欄でぶちまけた。それは現在に至っても全くと言ってよいほど改まっていない。この頃橋本会長は放送の合間に画面に現れては、事務的な表情で呪文のように「一層信頼されるN.H.K.になるよう努めて参りたい」と同じ言葉を繰り返している。わざわざ画面に登場するのなら、人の脳裏に残る言葉を発して欲しい。視聴者の意見をどのように取り入れ、どのように変革に反映したのか。皆に愛されるように改革に努めている具体的な事実を説明してもらいたいものだ。大体視聴者の声を取り入れ、具体的にそれに反応するような最近流行りのブログの場ぐらい設けたってよいではないか。我々には欲求不満解消の場がない。永井多恵子副会長もたまに視聴者の声を聴く会を開催しているようだが、限られた時と場所でなおかつ管理され自由な意見表明が限られた状況でそんなことをしても、ジェスチャーに過ぎないと感じてしまう。
 国会中継の放送が増えた。議員先生たちの支持をもらえなければまずN.H.K.予算の承認も貰えないから、これはN.H.K.としては民放のコマーシャルと同様に大事で、当然の仕儀ではあるし、発言する議員たちも今日はテレビ中継をやっていると十二分に意識した風情で熱演している。しかしこれが始まるとN.H.K.第1放送も衛星第一放送も時間を揃えて国会中継一色になってしまう。私など今日のテーマはジックリ論戦を視聴したいと思うことがたまにはあるが、大抵は後でニュースで大事な場面を要約して見せてくれればそれで十分なのだが、大相撲を見たいと思っても民放はやっていないし、先日は終盤の熱戦を午後5時過ぎまで見せなかった。臨時ニュースを除き衛星放送は別番組に徹するというわけにいかないものか。N.H.K.がこのように別チャンネルでも同じ内容を放送するのは手抜きであって、放送料収入が減ったために極力番組制作費を節減しようとしているのではないかと勘ぐりたくなる。せめて時間をずらし内容を要約編集の上の再放送にしたらどうか。そう言えば最近再放送も増えた気がする。良い内容であれば2度ぐらいは良いが、それ以上はまたかと思い腹立たしくなる。

 最近遅まきながら放送大学(関東地方では5チャンネル)というチャンネルの存在とその良さに気が付いて、前記のようにN.H.K.の番組に飽き足らない時は専らこの番組を選択している。内容はあらゆるジャンルに及ぶから、行列式の解法など今更脳みそを絞る気がしないものもあるが、そういう時はテレビは点けたままで手許の本を読んでいる。民放のお笑い番組のようにギャーギャー騒いでこちらの思考を乱すようなことはない。一般に現代社会が必要とするあらゆる知識を凝縮して限られた時間の中で明快に解説してくれるので、話を聴いて有益だったと感ずることが多い。この放送を始めた当初は講師側での不手際も少なくなかったと想像するが、今ではグラフや映像を必要に応じて駆使してそれぞれの講師が分かりやすい講義をしてくれるのに感心する。1単元当たりの時間が長からず短からずで、また次の講義内容がガラリと変わるので、続けて視聴して飽きることなく、仲々よろしい。
 欲を言えば自分が受講したい講義を即座に選ぶことはできないが、特定の内容を短時間に習得する必要のない身の上では、そういう環境はいずれ実現すればよいと希望するだけだ。不思議に思うのはこのような番組がN.H.K.のように政府に予算を組んでもらわずに成立していることである。大学卒業の資格を得るためには申し込んで必要な手続きをしなければいけないらしいが、その際に授業料を払う人がいるのだろうか。私のように漫然と授業料も払わずに聴講させてもらえるのは大変有難いことだ。たまには知悉している内容の講義もあるが、それでもそういう知識を如何に巧みに伝授しようとするか、聴取するのはそれなりの満足感を受け取ることができる。その内に今まで知らなかった分野の特に興味の深い対象を選び、集中して聴いて内容の要約紹介を試みたい。

 民放については目下の所視聴するのはごく特定の番組に限っている。忙しい勤め人が帰宅してから気休めに楽しむ娯楽番組が多いし、癖のある番組は往々にしてワンパターンになりがちだ。コマーシャルによって思考をぶち切られる環境にはいつまで経っても慣れない。但し日本列島のどこかで中規模以上の地震・津波が発生した場合にはどこかの民放に逃げ込むことにしている。N.H.K.の報道はこういう場合画像・音声ともに同じ情報を何十回となく繰り返し、津波到達時刻を過ぎても同じせりふの津波警報を繰り返すような一種の痴呆状態に陥ってしまうが、そのような時に民放では本来の番組の合間に最小限知っておくべき情報だけはチャンと流してくれるからだ。台風上陸でも似たようなもので、トップから通常の放送番組はカットして非常事態に切り替え!と命令が下ると途端に融通が利かない状態に飛び込んでしまうようだ。公共放送のあるべき姿とは違うのではないか。
 28日に放送したN.H.K.の経営計画の宣伝番組では組織とは独立の経営委員会が皆様視聴者の声をN.H.K.に届けてそれに基づいた改革を致しますと経営委員長が声明を出した。まことに固い雰囲気で、3年の経営計画を建てているのだそうだが、状勢が改善されてきたとはとても思えない。どういうふうに声を聴いているというのか。個々のアナウンサーたちが自分の番組を盛り立てようと精一杯頑張っているのは判るけれども、橋本会長以下の経営陣やこの経営委員会のユーモアのかけらもない教条主義は寧ろ受信料不払い運動を助長させてしまうのではないかと危惧感を抱いた。

<医学の歴史> 標題の冊子を入手した。著者は梶田昭という人で、1922年生まれ、1945年東大医学部卒だが、1942年に入学して1943年10月には有名な神宮競技場での学徒出陣会に参加、丙種合格で徴兵を免れて45年9月には繰り上げ卒業というのだから、戦争のドサクサでろくに勉強できなかったことだろう。46年7月古河鉱業所足尾銅山付属病院医師として赴任、47年7月東京都清瀬村国立療養所東京病院医官として赴任、以後5年間引き揚げ者のために病院船で舞鶴―大連間を往復。メーデーで検挙されたりしたが、転向。1957年東北大助手、1961年東京女子医大助教授、1964年東京女子医大病理学教授となる。1988年定年退職。1999年に思いついて“医学史”の執筆を開始、2000年秋に脱稿。2001年1月大動脈瘤破裂により急死。彼は以前から動脈瘤の存在を知っていたが放置していた。覚悟の死と言えよう。この書は梶田氏の後半生の知見を注ぎ込んだ大著であると解説には書いてある。それ以前の著書として“旧約聖書の医学”・“新約聖書とタルムードの医学”・“古代インドの苦行と癒し”・“民俗学”があり、最後の著書はそれらの集大成であることが理解できる。

 ―医学は人間の“慰めと癒し”の技術であり学問である。―という文章で著書は始まる。猿にとって毛づくろいをしてやることが医療の始まりだが、原始時代の人にとっても理髪師が外科医を兼ねるようになった。理髪店の店頭にある赤・青・白のねじりんぼうは動脈・静脈・包帯のシンボルで、床屋が医者をやった名残が残っている。また原始社会では一人の人物が医師・僧侶・呪術師を兼ねていた。この複合人格がシャーマンであるという。中国においても巫(みこ)が医を兼ねており、巫医(ふい)と称した。孔子の時代には賤業であった。ギリシャの代表的な治癒神はアスクレピオスで、蛇を従者とし薬草をもって医療行為を行った。杖に一匹の蛇がからまる図案はアスクレピオスの蛇杖と言い、医学のシンボルとして今でも用いられる。中国の古い時代には皇帝たちが不老不死の薬を求めた。秦の始皇帝は空しかったが、唐代の天子六人までが不老長生の目的で服用した水銀中毒で死んだ。

 医療に貢献した様々な人物を時代の順に紹介する。
 ○ヒポクラテス(ギリシャ、前460〜前375) 治癒は人間の本性に潜む力による。身体は体液の乱れを調理し、悪いものは嘔吐・下痢・排尿・膿などいろいろなルートで排出される。医師の仕事は自然治癒にチャンスを与えることで、これを妨げるものがあれば取り除けばよい。自然は教えられずに何でもやる。彼は病名を特定することを重視せず、治療は“良いことをするか、少なくとも悪いことをするな”という消極的な方針だった。
 ○ガレノス(小アジアのベルガモン、129〜199) 解剖学の価値をよく認識していた。肝臓・心臓・脳を特に重要な器官と考え、ヒポクラテスと同様に自然治癒を重視し、化膿を賞賛したが、併せて食餌・マッサージ・運動を重視し、多くの植物生薬を作った。
 ○古代中国医学 鍼灸治療が古くから行われた。神農は百草を味わい、どれが人民の病に効くか試し、“神農本草経”を遺した。扁鵲は遍歴医として呪術でなく経験を重んじ、人を見るとその五臓の状態を透視することができ、屡々鍼などで重病人を治したが、“彼は当然生きているべき人で、私は彼を起きあがらせただけだ”と言った。後漢末の張仲景は“傷寒論”を著し、症状や脈診によって病源を知ることを説き、諸病を治すわけにはいかないが薬方と結びつけた。傷寒というのは腸チブスのような疫病らしい。

 ○宗教 前6世紀から7世紀まで時代は多少ずれるが、中国の儒教と道教、インドの仏教とヒンドウー教、西アジアのキリスト教とイスラム教など人間の魂の解放を目指した宗教・哲学が生まれ、それは物質面・精神面で医学に多大な影響を与えた。インドでもチャラカ、スシュルタなど遍歴の医者が医学を呪術から解放した。仏教教団の医術は経文にもなった。大乗仏教の菩薩は衆生の救済を目指して中国・チベット・朝鮮・日本に伝わった。玄奘は仏典とともに医術を中国に持ち帰った。中東のイエスは説教師であるとともに巡回治療師だった。その頃病気は一般に罪と考えられており、祭司の供犠か民間の治療師に助けを求めるしかなかった。キリスト教はローマ帝国の国境を越えて伝えられ、ネストリウス派は病院を建て医師も移ってきた。ムハンマドは600年代に預言者となった。イスラム教は科学書とともに医学書をアラビア語に翻訳し、イスラム教徒の中にすぐれた医師が現れた。アル・ラーズイーは臨床家で“痘瘡および麻疹について”という著書を遺し、イブン・スイーナーは5卷から成る“医学典範”でアラビア医学の体系化を行って全ヨーロッパに影響を及ぼした。アヴィセンナ(スイーナーの別名)は後世の人々によってアリストテレスの再来と見なされ、現在に至るまでヨーロッパ大学カリキュラムに組み入れられている。

 ○ルネッサンス 1400年代に芸術家であり万能の人が学芸復興の一環として医学の進歩に貢献した。この時代の有能な知識人は決して専門の殻に閉じこもることがなかった。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロである。いずれもフィレンツエで活躍した。彼等の新しい医学の芽は解剖学にあった。パドヴァでは同じく全能人フラカストロとポーランド人コペルニクスがいた。フラカストロは疫病が異なる種子によって伝染し人体内で増殖すると説き、水痘・麻疹・ペスト・結核・らい病・梅毒・発疹チブス・複数の皮膚病を区別・個別化した。パラケスススは“鉱夫病”を著して初めて職業病に触れた。ピサのガリレオ・ガリレイは生き物の形態に潜む力学的な原理に注目し、解剖学を形態学に発展させた。
 ○近世 17世紀にはウイリアム・ハーヴェイが人体の血液循環の機構を解明した。天然痘の蔓延を防ぐためにイギリスの医師ジェンナーは種痘を考案した(1780)。フランスのラエンネックは聴診器を発明した(1816)。彼は肺結核を研究しそのために罹病して命を落とした。ドイツのレントゲンは内臓器官検査のためにX線検査装置を考案した(1895)。ハンガリー人のゼンメルワイスは塩素水による消毒を励行して産褥熱による死亡率を激減させた(1847)。しかしこの時点では病原菌はまだ発見されず、彼は多くの医師に支持されず失意の内に精神病室で死んだ。フランスのパストウールは病原体を研究し、弱毒化した病毒をワクチンと名付けてニワトリ・コレラ、脾脱疽、ブタ丹毒、狂犬病などの伝染病の予防に効があることを確かめた(1880)。ドイツのコッホは特定の細菌が特定の病気を引き起こすことを明らかにし、結核菌・コレラ菌を発見した(1884)。アニリン染色が発見を助けた。これに触発されて他の人々が次々に淋菌・チフス菌・らい病の病原体・マラリアの病原体を発見した。イギリスのダーウインの“種の起源”に次いでドイツのヘッケルは“個体発生は系統発生を繰り返す”という反復説を唱えて(1900)、発生学への関心が高まった。

 ○現代 クリミア戦争の後負傷者の惨状に衝撃を受けたスイス人アンリ・デユナンの提唱で12ヶ国による国際赤十字社が発足した(1864)。20世紀医学の成果の一つにビタミンの発見がある。明治時代日本陸軍は森鴎外が頑迷に白米に固執したために脚気による多数の犠牲者を出した。ビタミン一連の系列が発見されたのは1922である。第2次大戦後の日本では肥満児の出現、糖尿病や痛風が増加して栄養過多が問題になりつつある。20世紀終盤の新たな事態は抗生物質が効かない耐性菌の出現である。院内感染の原因にもなる。ウイルスが病原微生物の新顔として加わった。ヒト免疫不全ウイルス(H.I.V.)の感染が急速に拡大している。有機物による環境汚染、放射性廃棄物による放射能汚染も新たな問題になっている。人間の増加の蔭でひっそり地球から消滅していく動物種が多いことが懸念されている。―以上はしょりにはしょって梶田医学史を概観した。不十分な点はすべて私の責任である。
 アスベスト繊維が肺にからむ致命的な障害や鶏のインフルエンザ・ウイルスが人をも死に到らせるウイルスに変質するなどが問題化する前に著者はあの世へ行った。医薬品の増加は複数の薬の相互作用を十分には検証できない状況を作り出している。人類はこの後も新たな医学上の難題を次々と突きつけられるだろう。

 ところで一つ言いたいことがある。最近低侵襲の外科手術と称して、体組織の一部である細い管や新たに設けた小さな開口部から内視鏡と微細な器具を体内深く挿入して組織の一部の切除や結索などの作業をどこの病院でもやるようになったようだ。この種の外科用の器具の発達は近年目覚ましいものがあり、その機能向上は評価に足りると思うのだが、懸念すべきはそういう器具を操作する医師の技術不足である。大学の医学部を出て短い研修を終えたばかりの若い医者がこういう手術を担当すれば、絶対に失敗をしないなどということは考えられない。作業は目視と手先の勘で行われるようで、術後に適正な施術がなされたかを確実に検査する方法も十分ではないようだ。この種の事情で医療事故が多発している。公表されているのはそのごく一部のようだ。こういう手術はその作業指示は医師が行うべきだが、作業そのものは器用な専門の職人が慣れた手順で行うのに任せるべきではないか。またそういう職人は資格を取得するために前述の精巧な器具と同様に巧みに工夫された練習設備で訓練し、且つ十分その技量が実証されるような試験に合格することが求められる制度にすべきだ。そういう名人芸に近い腕をもつ職人はなまじな医者よりずっと高い給料を払い、資格をもつ職人が何人いるかで病院を評価するようにするとよい。
 今仮に私がどこかの疾患で入院して低侵襲手術を告げられたら、現状では断固それを拒否したくなる。それは私の過去の経験によるものだが、事情を話すと長くなるので別の機会に譲る。しかし識見のある医者が有能な術者ではないのだ。

<ルールの定め方> 2月1日午後8時過ぎに関東地方で最大震度4の地震があった。我が家でもグラッと揺れ、これ以上大きくならぬようにと一瞬念じたが、それきりで収まった。数分後にN.H.K.の放送モードが準危急事態(多分)に切り替わり、アチコチの震度や人々の感想の報道を立て続けに流し始めたので、早速私は放送大学にチャンネルを切り替え退避した。1時間半ほどしてN.H.K.に戻ってみると、通常番組に戻ってはいたが、画面上方には未だ地震関連のニュース情報を2行ほどで伝える文字の帯が残っていた。ところがそこで伝えていることは京浜東北線・横須賀線・東海道線・横浜線などのJ.R.主要各線が不通になっており、まだ復旧予定がハッキリしないというものだった。
 利用客はとんだ迷惑だなと思いつつも私は早々に就寝してしまった。翌朝のニュースによるとこの不通時間は3.5〜4時間に及び、250本の列車が運休し23万人の利用客が影響を受けた。その理由は地震後レール・架線に異常がないかを係員が延べ120kmを徒歩で点検したためだったと報告された。当時は冷雨が盛んに降っていた。これに対してマスコミ側からはそれ以上追及の声は聞かれなかった。鉄道側からの特段の反省の言葉もなかった。雨の寒夜に長時間駅で待たされた勤め帰りの人々の困惑は随分なものだっただろう。雨合羽や懐中電灯を調達して線路を歩く人たちは勿論、運転手・車掌・駅員全般も安全が確認されるまでの待機に予定外の深夜勤務を強いられる。平行して走っている京浜急行では6分後に通常運行に復帰したし、小田急・東横など他の私鉄も同様で大きい混乱はなかった。“あの程度の地震でこれだけの大騒ぎをしなければならないのか”ということはJ.R.を利用してこの混乱に巻き込まれた人すべてが思っただろうし、大半がそれを口にしただろうと察する。

 24時間近く経過した2日夕方、J.R.関東の責任者は複数の地震計のデータが基準をオーバーしたので、全線を歩いて点検することにしたと言明、他の私鉄などではそんなことはやっていないという指摘に対しては、数年前から地震時の揺れが構造物に与える影響を数値化したS.I.値によって対応を決めているので、震度で判断している私鉄とは対応が異なるのはあり得ることと突き放した。復旧に時間がかかり過ぎた点については、決してご迷惑をかけたとは謝らなかったが、今後沿線の地震計を増設し、点検作業用車両を増やして対応すると言明した。
 前にも同様な騒ぎがあったと記憶するが、地震への対応におけるJ.R.と私鉄の差異はまさに地震のテレビ報道におけるN.H.K.と民放の差異に対応すると思われる。京浜急行では地震計で震度3以上になれば急停止はするが、路線の歩行点検を行うのは震度6以上からと言っている。S.I.値が震度とどう違うのかは知らないが、あの程度の揺れで路線に異常が発生して全線にわたり点検する必要があったとは全く思えない中規模の地震だった。大きい会社の業務運営方針は上部で決めるが、福知山線の事故もあったし、安全第一でいわゆる“あつものに懲りてなますをふく”事なかれ主義でJ.R.関東はルールを極度に安全サイドに決めているに違いない。

 私たちの世代は戦争を体験し、ギリギリの環境で育ったから、諸般の状況においてどの辺りから危ないかを見極める動物的な勘は鋭くなっている。大袈裟な言い方をすれば、自分の行動規範を定めるのに当たりそういう勘を大事にしなければ生き抜いていけない環境に育っている。前記の如きニュースを知って感ずるのは現今のJ.R.幹部は我々より1世代以上若く、自分たちの運営ルールを定めるにあたってそういった動物的な勘は希薄で、ある程度利用客に迷惑を掛けても申し開きの理由さえあれば構わぬが、万一の事故の発生で自分らに責任を問われるような事態だけは避けたいという気持ちがこのような従業員いじめでへっぴり腰のルール設定になってしまう。多数の人々の貴重な時間を無駄遣いさせても損害賠償請求さえ起こされなければ構わない。ルールを決するにあたり最大多数の損失総体を如何に最小にするかという悩みが感じられない。
 J.R.もN.H.K.も今は“官”ではないが、私鉄や民放と比べて異常事態における対応が大袈裟過ぎるのは実務的であるよりは責任逃れだけはキッチリしておきたいという悪しき官僚気質が未だに残っているからではなかろうか。それが福知山線事故の前の運転手教育に見られるような行き過ぎたしごきをも生むし、今後も形を変えて常識を逸脱したルール運営をやらかす基になるだろう。

 ついでに指摘しておきたいが、今回J.R.関東が言明した地震後に“点検作業用車両を増やして対応する”という案は多分うまくいかないだろう。というのは地震発生時には長大な路線上には何本もの列車が走っており、それらは信号によって非常停止するのだろうがそれらを運行再開して一時退避線か車庫にでも収めなければ、邪魔で点検作業用車両は走行できないからだ。私案は地震が収まったら直ちにこれらの路線上の列車に通信連絡してその現在位置を確認の上で、前方の列車の停止位置までは点検車となって運転手が前方のレールや架線に異常がないか徐行で確認しつつ走行を開始するものだ。勿論途中駅には停止する。万一確認不十分で脱線や架線事故が発生しても徐行運転なら致命的な事故にはならないだろう。徐行はどのぐらいの速度が適当かは素人で明言しかねるが、こうすれば通常状態への復帰に30分以上かかるとは思われない。点検作業用車両にどれほど特殊な機能を設けるのか知らないが、私にはムダな投資でありムダなルール変更としか思えない。実務をろくに知らぬ人が頭に浮かべた愚案であろう。

<涅槃経> 仏教経典には編纂経典と創作経典とがある。編纂経典の原典はパーリ語(俗語)で著されていて、釈尊が身近な人々に説法した内容を弟子たちが口述筆記したものを持ち寄って何度か編集会議を開いてまとめたものである。現代語訳で読んでも直ぐ理解できるほど分かりやすい。創作経典はサンスクリット語(雅語)で著されていて、内容は高度の哲学書ではないかと思わせるほど難しく、現代語訳を読んでもなかなか分からない。我が国の寺院で読まれる経典はすべてこの創作経典である。
 釈尊の死後、だれも釈尊のようにブッダにはなれないという説が一般化した。しかし暫く後(西暦紀元頃)に経典を読めば誰でもブッダになれるという大乗仏教が興った。編纂された経典をもとにして数々の新しい思想を展開し、その教えを既に亡くなっている釈尊に語らせた。実は作者の考えを披瀝しているのに、如何にも釈迦の説のように書かれている。これを偽経と言い、創作経典と呼ぶ。
 死に面したブッダはいくつかの教えを説き示した。これは涅槃経に示されている。涅槃経にも編纂経典と創作経典とがある。前者を原始涅槃経、創作された涅槃経を大乗涅槃経と呼ぶ。原始涅槃経では臨終の場にはアーナンダとアヌルッダなど数人の弟子が付き添うだけの静かな状況だったと記すが、大乗涅槃経では菩薩たち、天上の神々、餓鬼・畜生など大勢が集い、悲しみに暮れる情景が描かれている(右上の涅槃図)。
 原始涅槃経で釈尊が説く思想は@諸行無常、A一切皆苦、B諸法無我の三命題に尽きる。すべての形あるものは千変万化して同じ形や状態を保っているものは何一つない。すべてのものは自分の思うようにはならない。すべての事象は私のものではない。それらは衆縁和合(みな縁りかかって存在)している。釈尊は創造主や神や常住不滅の実体を認めない。

 大乗涅槃経の漢訳本はあるが、現在サンスクリット語の原典は見つかっていない。その原典の成立は西暦紀元300〜350年とされる。“仏性”という用語は原始涅槃経になかった大乗仏教特有の思想で、後の仏教思想に多大な影響を与え一つの思潮を成した。大乗涅槃経ではそれまで礼拝の対象と考え、遙か遠くの存在として信仰してきたブッダが自己の身体に内在していることに目覚め、そのブッダを具現するように努めなければならないと説く。“仏性”の原語は明確ではないが、“buddhavamsa”あるいは“buddhadhatu”で、本来は“ブッダたちを生み出すもと”あるいは“ブッダになる素地”を意味したが、経典の趣旨から言えば“ブッダになる可能性”と解するのが論旨に最も忠実になる。
 大乗涅槃経では“一切衆生悉有仏性”と言い、一切の生類にはみな仏性があるので(修行によって)無量の煩悩を断てば必ずブッダの覚りを得ることができる、但し一闡提(仏性を信じない者)はその限りではないーと説く。即ち、仏性は身体にあり、仏性があるのでいつかはブッダになれる、仏性があることを公言してもそれは嘘をついたことにはならないと言う。また心と仏性とを区別し、心は多様で衆縁和合によって生じかつ壊れる無常のものだが、仏性は常住で生滅するものではないとする。
 仏教徒の信仰の基本は三宝に帰依することである。三宝とは仏(ブッダ)と法(教え)と僧(出家者の共同体)の三つを言い、仏法僧と呼ぶ。三宝を信仰するのが仏教であり、修行の中心である。“南無”という言葉はブッダになりたい、ブッダになるために修行している出家者のようになりたいという意思表示で、サンスクリット語の“ナマス”の音訳で“屈する、礼する”を意味する。“南無三宝”とは三宝への絶対信仰を意味する。大乗仏教経典にはこれを唱えると最高の覚りを得られると説くものがある。大乗涅槃経をはじめとする大乗仏教の信仰は“南無”に基づいており、“ゆだねる”信仰である。

 原始涅槃経では釈尊の色身は火葬に付されたと記しているが、一方で最高の瞑想の境地から涅槃に入ったという記述もあり、これを受けて大乗涅槃経では法身という言葉で永遠の釈尊を表現し、釈尊は生き続けていると教えた。この大乗涅槃経の記述を眼に見える形で表したのが涅槃像である。わが国の涅槃像は眼を閉じているのが一般的だが、ほかの仏教国にある涅槃像はみな眼を開いている。経典では釈尊は迦葉菩薩に対して次のように語っている。“私の身体(法身)は不滅の身体である。私はクシナーラで深奥な三昧の洞窟に入り、人々の善行を成就させ、修行中の者を最高の覚りに至らせるために三昧の境地に遊んでいる”と。釈迦ご本人は決してこんなことを言ったはずはないが、後世の人が大乗仏教発展のためにこういう話にしてしまった。
 宗教というものはその創始者の死後に大勢の支持者と信者によってその説くところが変わり発展していくのは本来あるべき姿なのかもしれない。ブッダの境地が遠くただあがめるだけの存在だったのが、心の持ち方次第で誰にでも到達できるように変じたのは釈迦自身が考え望んだことではなかったかもしれないが、仏教の発展に寄与するところは大だったに違いない。
 この項の内容は“涅槃経を読む”(田上太秀・講談社学術文庫)から取材した。

<M.O.T.> 放送大学のテレビ放送にチャンネルを合わせるようになって、多くの雑学が学べるようになった。専門学科の履修生にとってこれほど広汎で漫然とした講義内容から自分の志望する専門分野について果たして効率的に求めるものが吸収できるものか、甚だ疑問に感じてしまうが、私のように世の中の新知識を漠然と求めている人間にはその欲求を満足させてくれる意味で格好の環境である。またアナウンサーが主導する雑駁なトーク番組とは違う論点を絞った集中的な講義を聴く快さを感じることができる。折から今は冬季オリンピックの最中で勝てもしない日本選手の出場を何度も視聴させられるやりきれなさから逃避する意味もある。
 そういう放送大学の講義の中で“M.O.T.”という言葉を知った。略号の基は“Management of Technology”で、何も目新しい概念ではなかった。Innovationを効果的に推進するためのManagementということで、企業のあり方として既存テーマの改良・改善という敷かれたレールの上をひたすら走るのではなく、戦略目標を新たに設け、Innovationを体系的に捉えて、技術開発・製造・販売のシステイマテイックな統合を図る経営手法*というわけだ。言われてみると、起業、新産業の創出というのはそういうことだし、以前から唱えられている日本の産業競争力強化には欠かすことができない要素であるべきものだ。

 私が知らなかったのはこういう事柄が既に暫く以前から体得すべき経営手法として大学での受講教科で採り上げられていることだった。我々の学んだ大学工学部にはこういった教科の片鱗もなかった。第一こういうテーマを論ずることのできる講師はどこの大学にも存在しなかった。優れた企業にはそういう人材が育っていただろうが、それにしても彼等は自分の置かれた環境の中で何とかそれをまとめようとしていたのであって、そういう経営手法を応用が利くように一般化するまでの余力はなかったであろう。考えてみると我々の世代の人間は多少応用の利く工学的な技術を身につけただけで企業の現場に放り込まれ、主に在来の企業文化を引き継いで年功で人を働かせる立場になっただけで、新規事業を立ち上げるような厳しい経営を強いられることはなかった。また若い年代で身障者になった私にはそのような機会もつかめなかった。しかし本来であればこういう教科を受講し、それを如何に企業の中で実践するかに苦労するのが本来の経営というものだろう。

 その時間のM.O.T.の講座では新会社が発展できるような環境を整えること、リーダーには構想力・行動力・誘いかけのうまさが要求されること、創造的・挑戦的な人物を集めること、事業活動と研究開発活動の有機的連係などを断片的に挙げる程度の軽く触れる話に留まったが、具体的な事例を豊富に取り込んでこの分野のノーハウをうまくまとめれば興味を惹き有用な講座になると思われる。これは在来分化した文科と理科(工科)を統合するもので、技術経営戦略学(T.M.I.)と呼ぶのだという。
 尤も東京大学のM.O.T.講座は来年度には閉鎖されるのだという。多分よいInnovationのネタがなければ能書きばかり言っても絵に描いた餅に過ぎないという認識が広まったか、適当な講師に事欠く事態になったのだろう。トヨタは“カイゼン”一本槍で世界一の企業になりつつある。

<古代中国の名士たち> “諸氏百家”(浅野裕一・講談社学術文庫)には西暦紀元前の中国で活躍した名士たちの言行が紹介されている。名は聞いたことはあっても詳しいことはほとんど初めて聞く話だが、広大な中国の地に盛衰を繰り返す戦国時代の諸国家をめぐってある者は政治を支配する思想家として、またある者は競合する他国を抑える戦略家として、それぞれが個性的な活躍をしている。遠い昔に生きた人々だが、人間社会の中での生き方には現今に通ずるものが多いし、それぞれの物の考え方は人間研究の格好の材料になる。この本の著者の名士たちに対する見方は通説とは異なる独特なものもある。ここではなるべく私見を交えず、この著書の論旨に沿って紹介する。

 孔子 春秋の後期に魯の都曲阜で礼学の師匠を名乗り、多数の門人を集めて一つの学団を開いた(写真は湯島の孔子像)。古代の王たちはそれぞれ固有の礼制や儀式の音楽を制定したようだが、孔子の時代にはほとんどの人々には忘れられてしまった状態だった。孔子は自分だけは夏・殷・周三代の王朝の礼楽に精通していると宣伝し、父兄は子弟を学団に入門させて仕官の道を求めた。孔子は先王たちの教えの上に彼の個人的な教えを乗せて説いた。孔子は周王朝の衰退が招いた乱世を嘆き、本来あるべき世界秩序の回復を唱え続けた。しかし彼自身周初の礼制など何一つ知らず、その点では詐欺的な性格が強かったが、魯に周に代わる新王朝を樹立して自ら王者となり、周初の礼制を復活したいという妄想にとりつかれた。この誇大妄想はもとより実現しなかったが、孔子の夢想が現実世界に阻まれて挫折したという怨念は孔子の後学たちの間に深く浸透し、以後儒教の中に深い陰翳を刻むことになる。孔子の死後、子貢、子夏、子張、曽参など直伝の門人たちは孔子が新王朝を創始すべき聖人だったのだとして、三代の礼楽に関する文献を創造し、かつそれを孔子が門人たちに伝授した形で叙述した。また彼等は孔子が魯の歴史記録“春秋”に筆削を加えて孔子王朝の理念を込めたという虚構を考え出し、それを考究する流派まで作り出した。
 しかし存命中“子曰く、鳳鳥至らず、河は図を出ださず、吾は已んぬるかな”と嘆いた。これは“いくら待っても天から鳳鳥が舞い降りて来ないし、黄河から背中に図を載せた龍馬は現れない、わしはもうおしまいじゃ” という意味で、こういう瑞兆が現れないのは、孔子は天子になり損ねたわけだから人生の失敗だというわけである。これは孔子の説いた儒教にとって深刻な矛盾であった。というのは儒教では有徳の聖人は天から受命して天下を統治することになっており、これまでもそのように推移してきたと説いているので、孔子に天命が下らなかったことで孔子は有徳の聖人ではなかったことになってしまうのである。
 江戸時代になると、幕府は上下の秩序を重視し封建制度を支える朱子学を官学に指定し、その基となった儒学を奨励した。日本人にとって俄に論語や孔子が馴染み深い存在に変化した。猫も杓子も論語を口にし、“論語読みの論語知らず”とからかわれる事態になった。著者は漢学の先生のプロパガンダで日本人は論語を感動して読むようにしつけられてしまったと皮肉る。論語は詐欺師の空虚な精神訓話に過ぎないのに、孔子の挫折の人生にまで同情し、不遇な自己の人生を生き抜く糧にするようになったと指摘する。

 老子 前300年頃の墓から3種類の抄本が出土していて、遅くもその50年以上前の著作と見られる。作者は不明である。“見つめても見えず、耳を澄ませても聞こえず、手探りしても掴めない。この「道」が宇宙の起源であり、万物の生成者である。道と天地とは同義である。世の多くの宗教と異なり、恩や罰を与えることはなく、ただ冷ややかに万物の生成・消滅を見守る”というもので、君主に求められる道のあり方は“無為の治”である。多くを望まず、やたらに動かず、自重していれば、破滅を免れる。尊大さ・名誉・多欲はすべて敵である。この思想は道教とよばれる。

 孟子 戦国前期、前370年頃魯に隣接する小国家鄒に生まれ、前290年頃この世を去った。孟子は王道政治を掲げ、覇道を斥け、民を保んずる徳で天下を統一することを説く。孟子は斉の宣王の顧問として一時は国を隆盛に導くが、その後宣王は孟子の言うことを聞かず国を衰退させ、孟子は愛想を尽かせて小国鄒に引き揚げ、著作に専念して一生を終える。孟子の性善説は荀子の性悪説に対抗するもので、本来人間の本性は善なる方向に固定されており、時に不善の行為が生ずるのはたまたま本来指向すべき方向が妨げられたからに過ぎないと言う。しかしその説くところの王道政治は夢物語の域を出ず、強力な軍事国家に攻められるとひとたまりもない。後に秦王政は法術思想を採用し、王道政治の正反対を実行して天下を統一した。
 孟子は王朝交替には二つのパターンがあるとした。第一は禅譲で、舜から禹への伝承がこれに相当する。第二は放伐で、仁政を施さぬ暴虐な君主はその位を保持する資格がないので、その王朝を倒す武力による易姓革命は肯定されるべきであるとした。このように革命を天の意志として是認したことが目立ったために、実質以上に過激思想と見なされた節がある。一方日本は原理的に革命のない国であって、天皇制は有史以来保持されており、中国から“孟子”を積んで出港し日本に向かった船は途中で必ず沈没して日本に辿り着けないという伝説があるという。

 墨子 春秋末から戦国の初め。孔子、孟子の後。魯国内に学団の本拠地があった。墨子の思想は大国による侵略と併合によって周の封建体制が破壊される事態を阻止して、天下の諸国家が相互に領土を保全し合いながら、安寧に共存する体制を再建しようとした。それは十の主張から成り、十論と呼ばれた。能力主義・統治者への服従・自他への愛・侵略戦争の否定・節約精神・天、鬼神への敬服・音楽への耽溺の戒め・宿命の否定などで、相手に応じて使い分けるべきとした。
 墨子の死後の学団の顕著な動きとして、楚国内紛の一方に荷担し敗れた時、その責任を取って墨者180人が集団自決した。墨家の信用と理念を守る烈しい使命感がある。怠惰で不誠実な弟子ばかりだった創設時に比して格段に先鋭化し、質素な生活に甘んじつつ、ひたむきに刻苦勉励する。この質的変化は二代目になされた。その命令は軍律として受け止められ、以後墨家の勢力は日増しに増大していった。“世の碩学”と称され、“天下に充満す”と言われた。しかしこの墨家も組織の膨張とともに分裂し、やがて秦国の成立後忽然と姿を消す。恐らく墨家思想が封建制度の復活をたくらむ一味として、始皇帝の強烈な弾圧の対象となったためであろう。その集団性・組織性が災いして一網打尽となり、漢代以降諸学派が復活を遂げる中で、再生することなく絶学の道を辿った。“墨守”という語はこの学派のために生まれたものであろう。

 荘子 荘周は孟子と同じ頃前4世紀後半の思想家。宋の都商丘に住んだ。現在伝わる“荘子”のテキストは内篇7、外篇15、雑篇11の計33篇の体裁を取り、内篇は荘周の自著、その他は後学の手によるものとされる。世界の正体を思索したあげく、荘周が到達した結論は“混沌”である。混沌なる世界にはもとより如何なる体系も存在せず、個物は全体に対して果たすべき如何なる役割も持ち合わせていない。混沌の世界を生きるにはどうしたらよいであろうか。それは万物が形作る無限連鎖の網が人間の努力などでは決して解けないことを徹底的に思い知る必要がある。その上で自ら鎖に繋がれて、行方も知らず漂うのだ。その時はじめて人は鎖から解き放たれる。たとえ不幸が襲ってこようと、すべてを已むを得ざる必然、大いなる運命と心得て受け入れる、それこそが天に自我を通そうとする迷妄から脱却し、真に目覚めた者として混沌の世を生きる術なのだ。

 恵施 宋の国出身で前4世紀の思想家。荘周の友人・論敵としても有名。彼の思想は“荘氏”の中に独立した恵施篇によって知ることができる。万物を既成の判断や差別から解き放ち、白紙還元する。その上で恵施の卓越した才能と新構想によって各々の特性・分限に応じて新たに安寧の居所を与えられ、世界を再認識することができる。
 恵施は孫氏の詭計によって大敗を喫した魏の恵王が軍事的に斉に復讐せんとするのを押しとどめ、外交戦略によって斉を破り、恵王の信任を得て宰相となる。彼は王の依頼を受けて国法を制定するが、理想倒れで実用性に乏しいと不評であった。やがて張儀が乗り込んできて、秦や韓との連衡策を唱えて恵施を孤立させ、彼は生国の宋に追い戻される。遂に彼の理想は実現できなかった。

 孫子 孫子は歴史上に二人存在した。春秋末に呉王に仕えた孫武と戦国中期に斉の威王と将軍田忌の軍師になった孫ビンである。司馬遷は二人がそれぞれ兵書を世間に流布したことを伝える。現在残っている孫子の兵法については諸説あるものの、その主要部分は孫武の兵学を伝えているという説が有力になった。孫子の兵学の特徴は戦争が経済に及ぼす悪影響を強調する点にある。戦争とは敵を騙す行為で、将軍が信義を貫く対象は敵軍ではなく、ただ国家の利益だけである。最高の用兵は敵国の策謀を未然に打ち破る。その次は敵国の同盟関係を断ち切る。次は敵の野戦軍を撃破する。最低の用兵は敵の城を攻撃することである。拙速を旨とせよ。戦争が長期化して国家の利益になった例はない。開戦するか否かの判断は勝算の多寡にかかる。勝敗は時の運などと言って戦争に突入する者は愚将である。君主や将軍は決して怒りに任せて開戦してはならない。―“孫子”は兵書であるが、決して好戦的ではない。君主や将軍に国民に対する重い責任を説いている。

 管子 斉の宰相管仲の著書。管仲は鮑叔牙とは親友で度々助けられ、管鮑の仲という言葉まで生まれた。斉の桓公は管仲の補佐もあって富国強兵を実現し、天下に秩序を回復する。この頃斉は東方の強国として西方の秦と対峙していた。仁義だ礼節だと倫理・道徳を振り回しても、日々の生活に困窮している民衆は聞く耳を持たない。具体的に産業を興し物資を増産して目に見える形で民衆の生活を安定させるのが先決である。このような方針を各分野にわたって推進するのが管子の立場で、兵法でも戦意の高揚より軍需物資の蓄積、兵器の性能向上など物質的要因を重視する。

 韓非子 韓非は自国韓が強国秦によって侵略され衰弱していく様を憂えて著述に専念し、富国強兵の法理論を完成させた。秦王政はその著書に傾倒していて、韓非を自国に招く。後に讒言によって投獄され、服毒死させられる。儒家が君主の徳によって国家を治める徳治を唱えたのに対して、韓非子はそれを否定し法による支配、法治主義を唱えた。従って法家ともよばれる。法の目的を君主権の強化・富国強兵・治安維持においた。韓非子は民衆は安楽な生活を送ることしか考えないが、強大な権力の前には容易に服従する卑しい性質を持つので、人間の善意に期待するのではなく、法治こそが民衆を支配できる“必然の道”であると説いた。また君主権の強化のための具体的な技術として賞罰による威嚇を伴う“形名参同術”(考案したのは申不害)を採用して官僚の統制を計った。英明な君主のやり方は法の規定を唯一の判断基準にして、個人的な賢知に判断を任せたりしない。形名参同術を固く守って、臣下の誠意に期待したりしない。始皇帝は韓非子の死後もこの理念を継承したが、この偉大な明主の死後帝国は急速に崩壊した。

 上記の他に快楽主義を説いて多くの民衆の支持を得た楊朱、弁者の雄として名を馳せ、白馬は馬ではないと主張した公孫龍、君主一人の能力に依存する不合理を避けるために民衆や官僚への業務委託を唱えた慎到、民衆のエネルギーを軍国体制に注ぎこみ、巨大な戦闘マシーンに変貌させた商鞅などの主張が紹介されているが、いずれも死後長く敬愛されることはなかった。

<杉本博司> 1948年生まれのアーテイスト。写真家。最近六本木ヒルズの森美術館で“時間の終わり”展を開催した。ここで彼は「自分の意図したことを確実に伝えること、それがアーテイストの使命だ」と宣言している。この展示のシンボルは壮大な劇場にしつらえた映写幕の白い横長な長方形の画像である。幼い時に彼はここに日常性からの離脱の感覚を味わった(右下)。74年から米国ニューヨーク在住。日本の伝統的な古美術追及を一生のテーマにした。89年毎日芸術賞受賞。

 彼は9.11の朝、通報を受けてW.T.C.のビルが火災に包まれ、やがて崩壊していくさまを間近に実見した。彼は方丈記の平安の火災の描写を思い出し、また一昔前に鴨長明の方丈庵跡の小さな石畳を探し当てたことを思い出した。周囲の雑木林は800年前の方丈記に記された情景と変わりないように感じられたという。“最も古いものが、最も新しいものに変わる”と称して論考集「苔のむすまで」(新潮社)を出版した。克明な図版が豊富に添えてある。在りし日のW.T.C.ビルの影を映したカバーの説明には“考古学から現代美術まで世界のアートシーンを沸かせつづける美術作家の時空を超えた初評論集”とあり、文章もなかなかのものである。

 10篇余の独立な小文がある中に小題“異邦人の眼”という部分を引用する。著者は明治維新が一つの宗教革命であった点を重視する。国家神道の名のもとで吹き荒れた廃仏毀釈運動で、数知れない仏教美術が破壊された。最近のタリバンによる仏教遺跡破壊以上の蛮行がこの日本で当然のように行われたのである。興福寺は大きな損害を蒙り、仏像・経巻・仏器が捨てられた。法隆寺では飛鳥時代から白鳳時代の金銅仏を賢明にも朝廷に献納してしまった。お陰でこれらの仏像を東京国立博物館・法隆寺宝物館で見ることができるという。考えると奇妙な話で、聖徳太子は仏教を国教化して法隆寺を建立した。その遙か子孫の天皇家が廃仏毀釈を推進し、そのまた天皇家に仏像を守ってもらったのだと著者は皮肉る。話を尊皇攘夷と毛嫌いした外国人にこの騒ぎで散逸しかけた日本美術を守って貰ったことに戻す。

 アーネスト・フェノロサは25歳の若さで明治11年東京大学の哲学・政治学教授として迎えられた。もともとハーヴァードで美術の勉強もしていたフェノロサだが、狩野探幽の絵を見て衝撃を受け、以後日本美術の研究に没頭した。フェノロサは日本人が顧みなくなってしまった日本美術を滅亡から救うために講演や著述で訴え、政府にも働きかけて文部省の美術行政に携わるようになった。明治17年には文部省主催で京都・奈良古寺の調査を行い、仏教美術を通じて仏教哲学の虜になって、翌年キリスト教を棄教して仏教徒になった。教導したのは三井寺の阿闍梨、桜井敬徳であった。フェノロサが救い出した名品の数々はボストン美術館に収められている。
 日本には第2次大戦というもう一つの混乱期があり、財閥解体と財産税導入の影響を受けて耐えきれず、戦前の収集家が名品を市場に放出した。この時期に活躍したのが米占領軍の情報将校として来日したハリー・パッカードで、ニューヨーク・メトロポリタン美術館には彼のコレクションが日本美術の中核をなす。その他に“那智滝図”を見て衝撃を受けたアンドレ・マルロー、日本語の読み書きもできないのに日本の書に興味を示し、彼等のコレクションを展示したシルバン・バーネットとウイリアム・ブルトなどを紹介している。彼等は書のもつ精神性を理解し文字の格調の高さに惚れ込んで、例えば驚くべき高額で夢窓疎石の墨跡を買い取った。その詩は
 題雪
氷蘂天に翳して碧落無し
玉塵地を埋めて、青山を没す
太陽一たび出す、弧峯の頂
徹骨の寒来る、また閑なり
 ー写真撮影された草書の字体は私にもよく読めない。
 この人たちは日本美術の類い希な美しさを改めて著者に知らせてくれた異邦人だという。

 著書の最後の章は小題を“苔のむすまで”として、端座する昭和天皇の大きい写真を掲げ、次のような自問自答を載せている。
Q:昭和天皇についてどう思われますか。
A:戦後人間宣言をして神から人になられました。
Q:どのような人でしょうか。
A:地道な生物学者ですが、神の視点をお持ちです。
Q:と言いますと。
A:私の好きなお言葉にこういうのがあります。
「世の中に雑草という植物はない」
もちろん人を草にたとえたものです。
Q:恐れ入ります。

 この人のように祖国を離れていると、日本の中に四六時中入り浸っているよりも古い日本のよさがよく見えるのだろう。


総目次
ホームページに戻る