3月の話題


2006年3月

<日本人の起源> 表題の本の読後感を記す。著者は中橋孝博・九大理学部卒の医学博士で専攻は人類学。読んでみると、古人骨からルーツを探すという仕事は想像以上に大変な仕事のようだ。結論から先に言ってしまうと、多くの先人たちの調査をふまえた260ページを越す論証によっても、日本列島に居住した日本人の先祖がどのように大陸から移り住んだかの大勢が明確になってはいないのである。一読しただけではそういう漠然とした知識を得たような、得なかったような状態で過ぎ去ってしまうだけだし、著者が取り組んでいる熱意は相当なものなので、記録に留めるに足ると思われる事項だけを改めて本の中からおさらいしてみる。
 今から1万8000〜2万年前、寒冷な気候が地球を覆っており、海水面は現在に比して100〜120m下がり、大陸棚のかなりの部分が干上がっていた。北では間宮海峡が完全な陸橋になってシベリアと樺太をつなぎ、オホーツク海峡も陸化して北海道と一体化していた。津軽海峡と朝鮮海峡は水深が深いので、日本の本州・四国・九州(これら相互間はほぼ陸続きだった)と大陸は一応海で隔てられていた。大陸やシベリアで典型的なマンモスの骨は北海道で発見されるが、本土では発見されていない。著者は日本人のルーツを論ずるにあたり、日本列島の大陸との間の付かず離れずの地理的配置が絶妙であると評する。人類の発祥の地がアフリカ大陸にあるとすれば、いずれ人々は様々なルートで海を渡って来たのであろうが、それはさほど容易ではなかった筈だからこそ、未だに渡来についての謎が解ききれないのだという。

 縄文時代の遺跡からの人口規模算出によると、8000年前の縄文早期には全国で2万人だったのが、前期には10万人、4000年前の中期には26万人に増える。但しこの時期にも近畿以西には1万人以下で、大半が東日本(東北南部から関東、中部地方)の落葉広葉樹林帯に集中していた。人口密度は100平方キロあたり200〜300人で、米国西海岸のインデイアンの100〜150人より多い。本格的な農耕導入前の狩猟採集社会としては異例の多さだという。この東西間のアンバランスな状況は縄文時代の後半期、気候の寒冷化が深刻な影響を与え、関東・中部地方では人口が1/10にまで減り、全国の人口が7万6000人程度に激減した。落葉樹類の堅果類は異常気象に大変弱いので森の恵みが激減し、一種のカタストロフィーに陥ったと推定される。縄文人の虫歯発生率は本州各地平均で8.2%の高さである。これは世界の狩猟採集民としては異常な高さで、彼等の食生活の植物性資源への依存の強さを示している。現代人にとって虫歯は厄介でも致命的な病気ではない。しかし縄文人の顎を見ると、虫歯や歯周病で歯髄が露出し、炎症が歯根部にまで及んで顎の骨が溶けてしまった例が珍しくなく、彼等は激しい痛みで日夜苦しみ死んだのかもしれない。縄文人にとって虫歯や歯周病は死にもつながる危険な病だったのである。歯ブラシはなく、歯磨きの習慣はなかった。
 縄文人骨の特徴として、歯のすり減り方は激しく、中年以降になるとほとんど歯根しか残っていない例も珍しくない。顎のエラが張り出していて、現代人に比べてはるかに物を噛む回数も多かったしその力も強かったと見られる。それが顔全体にも影響を与えていて眉間や眉弓部もよく発達している。著者は興味のある比較として歴代の徳川将軍の遺骨がわずか数代の内に遂げた特異な変化を挙げている。後代の将軍の歯はかなりの年配で死去しても若いときと同様に殆どすり減っていなかった。幼い頃から過保護で育ったために歯を摩耗させるような硬いものをほとんど食べたことがないらしく、顎がひどく脆弱化して顔巾の減少―極端な細面、狭鼻に変化した。婚姻相手がしばしば京都の貴族階級の細面の娘だったことも影響したらしい。このように人間の形質が生活環境の変化によって短時日のうちに急変し得ることを特記すべきだと著者は指摘する。

 一方で日本人の祖先として見る時の縄文人と弥生人の骨格の顕著な相違が述べられている。弥生人は人骨が発掘される地域によってかなりの差異が認められるが、それでも形質的に北海道アイヌと近い縄文人とは大きく異なり、モンゴル・北中国・朝鮮と近い関係にあって、弥生人を後世の日本人の祖先と見ることに無理はないが、縄文人を弥生人の祖先と見ることにはかなり無理があるという。結局弥生中期の人々を生み出すに当たっての縄文人の寄与は極めて少なく、植原和郎のいわゆる“100万人渡来説”の根拠として、縄文時代末期の人口7〜8万人が1000年後の7世紀に540万人に達していることは自然増ではとても説明できない事が挙げられる。中国の長江下流域では諸所で紀元前5000年以上昔からの水田跡が発見され、予想以上の昔から水稲農耕が営まれていたことは疑いない事実になった。この稲作技術は朝鮮半島経由もしくは山東半島から直接に九州に上陸したと考えられる。こうしてみると古代中国文明は日本とは格段の差異があったことが明白だ。バカにするなどとんでもないことだ。
 考古遺物の変化を見ると、まず弥生初期の水稲耕作の開始があり、弥生前期末には銅鏡や銅剣などの大陸性遺物が急増する。最初に北部九州にやってきた水稲耕作集団は狩猟・採集を主としていた縄文人が希薄な沿岸低地で水田を作り始め、やがて世代を重ねる内に人口増加が移住を促して瀬戸内から近畿、更には東日本まで適地を求めて拡散していったと推定される。。縄文人と弥生人の人口増加率は生業が狩猟か農耕かによってかなりの差異があったと思われる。平均寿命は縄文人が僅かに15歳、弥生人は25歳と推定されている。生息域(訂正!人間だから居住域と言うべき)も違っていたのだろう。因みに水争いや土地争いが原因で弥生人同士の戦闘の形跡は少なからず見られる(遺跡の人骨の受傷)が、弥生人と縄文人の顕著な戦闘跡は見られない。
 著書には書いてないことで思い当たる事がある。2002年3月の<遠野物語>は柳田国男の作品について触れたものだが、この時に詳しく紹介しなかった小話の一つに山男の話がある。山奥に住んでいて里人が山深く入ったときにたまたま出合うことがあるが、決して里人と交わることはなく孤絶した世界を保っていたという。これはほとんど消滅した縄文人の稀少な生き残りだったのではないか。このように逃避すれば(弥生人との)諍いも起きなかっただろう。

 弥生人と違って縄文人のルーツは明確ではない。縄文人の古人骨情報が蓄積されるにつれ、縄文人は当時の東アジアではかなりユニークであることが明らかになってきた。弥生人が扁平顔で、縄文人に比すると高身長だが四肢末端が相対的に短く胴長短足の傾向はその祖先が寒冷地に適応した特徴であると言われるのに対比すると、縄文人の彫りの深い顔立ち、長い四肢末端という特徴はどちらかというと暖かい地域に適応したものであろうが、未だに現存する類似体型の人種が見出されていない。但し最近北米でインデイアンの祖先の骨が発見され、アイヌとの類似性が論じられている。インデイアンの祖先は更新世末期にシベリアから凍結したベーリング海峡経由で北米に流入したと考えられており、この旧石器人類と縄文人に繋がりがあるのかもしれない。

<渡邊あゆみ> N.H.K.平日午後1時5分からの“スタジオパークからこんにちは”に現れる女性アナウンサー。旧姓黒田。昨年再婚した。毎日話題の人をスタジオに招き、生い立ちを紹介して経歴から近況までいろいろな角度から聞き出している。後藤理という男性アナウンサーと共演しているのだが、招待者の略歴を説明するイントロを(その一言ごとにうなずきながら)彼に喋らせた後は、彼女の独壇場になる。彼も結構しっかりした男なのだが、彼女の相棒ではなく遠慮がちな部下のようだ。招待者との対談なのだが毎回2/3以上を独特の高い声音で彼女が喋っているような印象がある。ホステスというのは悪い意味もあるが、ここでは場を取り仕切る有能な女主人という意味で使ってもいいだろう。大勢のスタジオパーク見学者に招待者を「○○さんですう」と紹介し、招待者を先頭にし、その後に付き従って見学者の間を対談の席まで案内する。
 招待者が女性だとやや地味な服装で現れるが、魅力的な男性だと飛び切り派手で目立つ服装になる。45歳だそうで、美人で賢い人という風情を隠さないが、先日の招待者桂文珍が「相変わらず、お美しくて」と言ったら、言葉は聞き洩らしたが二の句が継げぬように撃退してしまった。嬉しくないはずはないのだが、そんな隙は見せるものかという風だった。それまでは知らなかったが、彼女はN.H.K.らしからぬ自分の意見を言う毒舌アナウンサーとして有名なのだという。東京大学教養学部教養学科出身。
 話し方は黒柳徹子の向こうを張って立て板に水で、多くのインテリが言葉の選択に気を遣いながら訥々と話すのに比較すると、まるで頭脳の構造がまるっきり違うのではないかと思うほどである。毎回番組の終わりには対談の総括と招待者への餞の言葉を凄い早口でやってのける。職業とは言え、これはかけがいのない呆れる程の才能だと思う。

 そんな彼女が珍しく失敗をした。招待者は“おすぎ”。当日は現れなかった相棒は“ピー子”。対談の中で彼はファンに時たま“ピー子”と間違って呼ばれるのが大変不愉快だと述懐した。その暫く後で、彼女はそのおすぎをピー子とつい誤って呼んでしまい、一瞬おすぎは絶句した。司会者である彼女は“アッ”と頭を抱えてしまい、暫くして“やってしまった!”とバツの悪い顔をして顔をあげた。先日は相棒の後藤アナの言い間違いに真っ先に腹を抱えて笑い転げていたが、こういう喋りを得意とする人は言い間違いに関して独特の鋭い感性をもっているのかもしれない。
 2004年1月に<バカの壁>で紹介した養老孟司氏が2月1日のスタジオパークに登場した。最近氏は“壁”2作(“死の壁”と“超バカの壁”)を追加してすっかり著名の度を加えた。渡邊アナは氏には傾倒している風だが、氏の夫人の近況と“夫婦仲良くいく秘訣”を訊ねていた。氏の答は自分の場合もそうだが二人のヴェクトルが直角に近いとよいというもので、同じ方向だと向きが同じでも大小の比較になるからよくない、まして向きが逆では完全に反撥してしまう、直角だとお互いに関係ないから支障が生じないし、ヴェクトルの和は個々のものより大きくなるという。養老氏独特の分かりやすい説明に彼女も“勉強になりましたあ”とすっかり感心した様子だった。
 ―なお3月13日をもって彼女は番組を降板した。理由はN.H.K.に訊いてください。ー

<源頼朝> 目下山本七平の著作をあれこれ読みあさっている。今回の主題はその“日本の歴史”から天皇制に対決する源頼朝である。山本七平は言う。源頼朝は一貫して徹底的な天皇家不信を貫いた。彼は終生一度も天皇家を信頼したことがない。彼の祖父も彼の父も朝敵として殺された。彼自身も当然朝敵として殺されるべき運命にあった。武家の頭領としての彼の道徳律は“源氏の主従関係は天皇の命令に優先する絶対なもの”であり、この主従関係を破壊できるものが天皇だけであることを知っていた頼朝は天皇と名目的な主従関係に入ってしまうと同時に、彼の部下が天皇と主従関係に入ることを禁じた。前者の表れが彼の尊皇であり、後者の表れは“下文”(1185)である。これは実に峻厳な命令で、関東ご家人のうち征西の陣中にあるものが頼朝を経由せず直接に天皇家より衛府の官を拝任した場合には、京都に永住させて帰国を許さず。もし美濃墨俣以東に来るならばその者の領土は没収し死刑に処すると申し渡している。これは武家の自治権の宣言であって、下文の2年前に朝廷に送った“三ヶ条”によって公家権、社寺権というべきものを認めると同時に、朝廷による武家への自治権侵害は絶対に容認しないという態度を明確にした。これは朝廷に対する一種の“権利宣言”であり、“一朝の万物悉く天皇のもの”という前期天皇制の基本的な考え方の拒否である。これが幕府というものの基本的性格を構成した。

 三ヶ条を提出する時も後白河法皇の上京命令を拒否した。天皇家は彼を京都に呼び寄せておいてその留守に奥州の藤原氏辺りに院宣を下して鎌倉に攻め込ませないという保障は何もないという事を堂々と拒否の理由にして公然と不信感を露にした。
 “三ヶ条”は形は奏請であるが、実質的には日本史上重要なルールになった。
1)平氏の滅亡は平氏がその領国の神田・寺戸を奪取したための神仏威罰の故であるから、朝廷は社寺の田戸を復旧すべきである。
2)公家の荘園で平氏のために奪取されたものは本来の持ち主に返還すべきである。
3)平氏の一党で帰順したものは寛大に処置してほしい。自分らに見るように嘗ての朝敵が他日には功臣になることもあるので、処分(干渉)は慎重にすべきである。

 これらは法皇の許可を得、これを実施するための公文所と荘園関係など民事訴訟の裁定のための問注所が設立された(1184)。山本七平は頼朝が優れた政治天才であると評する。この改革によって当時の朝廷の中から非政治的要素は敬遠してそのまま朝廷に残し、“政治”と言い得る要素だけを巧みに抽出して把握してしまった、即ち当時の社会では想像も難いような簡素で能率的で安価な政府を創りあげてしまった。前期天皇制は末期的な症状を呈しており、これをそのまま引き継ぐことは彼にとって容易ではあったろうが、それでは不良債権をも引き継いで自ら破滅しかねない。やや婉曲な表現だが前記三ヶ条で彼は公家権(=朝廷権)・寺社権・武家権というべき既存の権利を承認し、その権利者の所有権は政権の交替によっても侵害されることはないと保証し、彼自身はこの権利への保護権と監督権ならびに権利者間の争いへの裁定権を得た。彼は後白河法皇崩御の半年後に征夷大将軍に任じられている。その後鎌倉幕府は諸国に守護・地頭を置き、警察権を掌握していった。

 頼朝は生涯絶対に楽観せず、自己の子孫についても大きい希望を持たず、すべての人を信じない冷徹の人であった。しかしこの三ヶ条が幕府というものの性格を決定付け、天皇家を政治から切り離す役割を果たし、後世の日本の進路を決めたと言っても過言ではない。北条泰時は後に記すようにその精神を継承して日本人の政治哲学の根本を作り上げたし、幕府を再興した徳川家康も豊臣秀吉によって曲げられかけた武家政治の根幹を修正して頼朝の希求した日本のあり方に戻そうとした。七平氏は敢えて言及していないが、判官びいきと言われる人々の追慕する源義経には、兄頼朝のぶれることのなかった政治思想は到底理解できなかったのであろう。武略はあっても、あの下文が半ば自分に宛てられたこととその意図さえ理解できなかった義経はアドバイザーのいなかった不幸はあるにしても、政治的音痴と断じられても止むを得ない。

<後醍醐天皇> 次は同じく山本七平の“日本の歴史”から後醍醐天皇を採り上げる。まず彼の登場前の朝廷と幕府の関係の推移を概観する。
 頼朝の死後、不幸が続いて源家は三代将軍実朝の暗殺で早々に断絶したが、頼朝の正室政子の実家北条家が鎌倉幕府を引き継いだ。状勢の変化に疎い天皇家では後鳥羽上皇が白拍子亀菊の申請によって、その所領である摂津の長江と倉橋の2庄の持統職の職権を停止した上で、これに対して何らかの処置をするよう二度にわたって北条幕府に命じた。北条義時はこの命令を拒否した。理由はこの者たちは頼朝の時に勲功によって補せられたのであり、何も罪過も失態もない、従って現状を改めるべき何の理由もないというものだった。これは前期天皇制の旧思想と鎌倉幕府の新思想の衝突だった。義時の子泰時はこの事態を王難と呼び、天皇が民生の安定という彼の義務の遂行を阻害したから、排除せざるを得ないと父義時を支持した。泰時即ち北条幕府は明確に頼朝の思想を継承している。
 1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、諸国の御家人、地頭らに北条義時追討の院宣を発する。積極・消極論ある中で政子の裁断で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には北条泰時と北条時房の軍勢を東海道(大将軍泰時、時房ら)、東山道(大将軍武田信光ら)、北陸道(大将軍北条朝時ら)の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を出たが、徐々に兵力を増し、『愚管抄』によれば最終的には19万騎に膨れ上がったとされる。14日には宇治・瀬田において宮方が敗れ、翌15日に幕府軍が入京する。7月には首謀者である後鳥羽は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐へそれぞれ配流。後鳥羽皇子の六条宮、冷泉宮はそれぞれ但馬、備前へ配流された。行助法親王の子後堀河天皇が擁立され、倒幕計画に参加した上皇方の公卿や武士が粛清された。これを承久の変という。乱後には総大将の泰時、時房らは京都の六波羅に滞在し、朝廷の監視や御家人の統率を行う。新補地頭が大量に補任され、東国武士団の西国進出が進み、朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになった。
 寛元4年(1246年)後嵯峨天皇の次の皇位継承にからみ、後嵯峨天皇の皇子である、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の対立が深まり、事態を重く見た鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統を交互に即位させる事とした。両統迭立である。両派の和談が決裂したので、やむなく鎌倉幕府は花園天皇の皇太子を大覚寺統の後二条の弟・尊治親王(後醍醐天皇)に、後醍醐天皇の皇太子を大覚寺統の後二条の皇子邦良親王、その次を持明院統の後伏見の皇子量仁親王にすることで調停する。この後も幕府は両統の“御和談”による継承問題の合意を求め続けるが、それは決してうまく行かず、人々が“競い馬”と称したように両統から絶えず鎌倉へ嘆願の使者が絶えないことになる。 1226年、後醍醐天皇(大覚寺統)の後継だった邦良親王(持明院統)の急死で話がもつれた。任期が来て持明院統は代わりに量仁親王への譲位を迫ったが、後醍醐天皇はこれに応じず武力を発動して契約を一方的に破棄した。天皇御謀反である。
 これに先立ち1324年後醍醐天皇は鎌倉幕府の皇位継承への干渉に立腹して側近の日野資朝、俊基らと諮って倒幕を企て、諸国をめぐって武士らの蜂起を誘っていた。これは事前に六波羅探題の知るところとなり、密議に参加した武将は討伐される。俊基らは赦免されたが資朝は鎌倉へ連行され佐渡島へ流刑となった。後醍醐天皇は幕府に釈明して赦される。これを正中の変という。
 1331年後醍醐は、正中の変で処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。しかし、後醍醐の側近中の側近である吉田定房が六波羅探題に計画を密告し、またも計画は事前に発覚する。探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出して、比叡山に向かうと見せかけ、笠置山で挙兵する。後醍醐の皇子・護良親王や河内国の武将・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵する。しかし幕府は大規模な軍勢を派遣し、笠置山・吉野・下赤坂城とも陥落させる。護良、正成は逃亡して潜伏し次の機会を伺うが、後醍醐は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられる。幕府は両統迭立の取り決めに従って持明院統の光厳天皇を即位させるが、後醍醐は退位を拒否し、2人の天皇と、後醍醐が用いた元弘、光厳が用いた正慶の2つの元号が並び立つ事態が発生する。これを元弘の変という。
 変後の1332年日野俊基や北畠具行、先に佐渡島へ流罪となっていた日野資朝らが斬罪となり、後醍醐は隠岐島へ流される。しかし、1333年(元弘3年/正慶2年)には、護良親王、楠木正成、赤松則村(円心)らの反幕勢力が再び蜂起し、後醍醐も伯耆国の名和長年一族の働きで隠岐島から脱出して挙兵し、幕府が西国の反幕勢力を鎮圧するために派遣した足利高氏(尊氏)が天皇方に寝返って六波羅探題を陥落させ、上野国の御家人・新田義貞が鎌倉を攻略した(北条幕府倒滅)。新田義貞の鎌倉攻めについては2004年5月の<切り通し>で記した。敗れて自刃した北条高時は無策であったかも知れないが、決して責められるような大過は犯していない。多数の部下は逃避することなく彼と運命を共にした。敢えて言えば、高氏の祖父である足利家時は、三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃しており、家内の北条氏に対する反感意識の中、尊氏は育ったと考えられていて、裏切りの素地があるのを高時は見逃した。
 帰京した後醍醐は光厳天皇の皇位を否定し、建武の中興と称して自ら新政を開始する。新政は表面上は復古的であるが内実は中華皇帝的な天皇独裁を目指し、性急な改革、土地訴訟への対応の不備や恩賞の不公平、武家を排除した政権運営、大内裏建設計画などは各方面の不満を呼び、政権の求心力は失墜した。建武2年(1335年)に中先代の乱の鎮圧のため勅状を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐に尊氏との和睦を進言するが後醍醐はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃げ帰る。
 尊氏は延元元年/建武3年(1336年)、持明院統の光厳の弟豊仁親王を光明天皇として擁立した(北朝)。また建武式目17条を定めて幕府の基本方針を示し武家政権の成立を宣言する。室町幕府である。後醍醐は足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡したが、京を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(奈良県吉野郡吉野町)の山中にて南朝を開き、京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を陸奥国へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年/暦応2年(1339年)8月15日、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で崩御(死去)する。後村上天皇は後醍醐天皇の大法要を行い、尊氏は後醍醐天皇を弔い京都に天竜寺を造営している。なお尊氏については2004年6月の<足利尊氏>で詳しく述べている。
 この並立は、元中9年/明徳3年(1392年)に足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡すことでようやく解消された。この南北朝合一の“明徳の和約”により以後は両統から交互に天皇を擁立する事と決められたが、この約束はすぐに反故にされ、以後皇統は持明院統に統一される。このことに反発した南朝の遺臣が、南朝の後裔を担いで北朝の皇室および室町幕府に対する反抗を15世紀半ばまで続けた。これを後南朝という。

 ―以上は主として百科事典“Wikipedia”による関連する歴史的事実の羅列であるが、山本七平による後醍醐天皇の記述は細部にわたり、散々にこきおろしている。以下その要点らしき事項を紹介する。
○後醍醐天皇は稀に見る英才であり、刻苦精励の人であり、強烈な意志の人であり、あの時代の最高の教養人の一人であった。“神皇正統記”を書いた北畠親房は“終始変わらざる修養”を挙げて彼の人格を称えている。
○後醍醐天皇は“文保の御和談”という契約を一方的に破棄する。彼はこの契約により幕府の後押しで登位したのだから、幕府はその養家にあたる。この養家を欺くに等しいことをしたために、実家に当たる朝廷・公家集団から勘当され、隠岐や吉野という辺地に追いやられ粗末な食住環境で、敗北感もなくむしろ傲然と振る舞う。彼には契約破棄の罪悪感はない。
○彼は自分の生まれる前から取り決められていた諸体制に強い不満を持っていた。両統迭立の制度とこういうことを強いる頼朝以来の幕府体制もこれに含まれる。後醍醐帝が排除しようとしたものは三つあり、それは第一が院政、第二が摂関政治(摂政や関白が天皇の代理になって政治の実権を握ること)、第三が幕府であった。
○建武の中興の失敗は後醍醐帝その人の政治的無能にいるものであり、公卿の無能は付随的な原因に過ぎない。
○“太平記”が辛辣にも“叡智浅カラズト申セドモ、欺クに安カリケリ”と記したように、後醍醐帝の感情的速断に基づく決定は常に次々と新しい問題を惹起してしまう。後醍醐帝の約2年半の全く安定を欠いた親政は“公家一統・天皇親政”は今後絶対に御免蒙るという気持ちをすべての人に起こさせたであろう。帝は真剣であったにも関わらず。彼の処断には必要な慎重さや政治的な手順が欠落していたのみならず、発作的決定の連続であった。
○帝は即位の三年後御宇多法皇の院政を廃して院政に終止符を打ち(これは上皇が天皇の上に立って絶対の権力を奮っていた時代としては大改革ではある)、建武中興と同時に摂政関白を廃止した。このような施策は彼の理想の追求であり、そのためには天下の動乱も身の破滅も考慮していなかった。これは結局動乱を収拾して権力を手中に収めるという点では帝は全く無能であり、最終的には日本全国のどこにも身の置き所がないという状態を招来するだけで、彼が指示すれば指示するだけ事態は混乱していった。

 明らかに尊氏はこれではとても後醍醐にはついていけないと、再建を目論んで蜂起した北条時行を抑えるための独自行動を開始し、自分にはその覚えがないのに裏切り者扱いをされるに及び持明院統に組みしたのはやむを得ない仕儀だったのであろう。新田氏が徳川幕府の先祖に当たるために徳川光圀が南朝を正当化し後醍醐天皇を崇敬したし、北畠親房が“神皇正統記”で盛んに南朝を弁護してはいても、七平氏の叙述を読む限り理想主義者ではあっても政治の実務には全く不適格だった後醍醐天皇は一種の人格破綻者で、彼の仕儀が天皇は政治の実務にはかかわるべきではないという後期天皇制の路線を決めたというのが実情のようだ。

<イスラム教徒> 2005年5月の<イスラム教>で、この宗教全般についての知識を仕込んでその概説を試みた。今回は山本七平の著作集から“イスラムの読み方”(祥伝社)を読む。加瀬英明氏との対談の形式を取っている。原本は“イスラムの発想”で1979年に発行されているからイランからパーレビ国王が去ったホメイニ革命直後である。山本氏は1991年に没しているが、最終章に加瀬氏の国際情勢のその後の変化をふまえた昨年の所感が加えられている。
 日本人には彼等(中東のイスラム教徒)と容易に理解し合えるように錯覚している人が多いが、そう簡単なものではないという。日本人にとって彼等とは在来殆ど交流はなく、明治以後欧米人(キリスト教徒)を介して間接的に、それも主として戦後に知ったのに過ぎない。地理的に言えば彼等にとってイスタンブール以東がアジアだが、そのアジアの最東端にある日本など全くといってよいほど縁がなかった。それに比べるとヨーロッパは歴史的に長く近しい関係にあり、彼等の最盛期(西暦800年代)以降、16世紀にオスマン・トルコ帝国(上図は1683年の領土)が成立する頃まではキリスト教文明を圧倒していた。西欧に啓蒙時代の光が射し込んできたのに、イスラム世界は逆に暗黒時代に入ってしまった。それまでヨーロッパは永らく彼等を恐れており、その後急速に彼等を追い越すと今度は彼等を嫌悪するようになった。そういう感情はすぐ伝わるから、彼等も欧米に強く反撥している。イスラムの人々は近代に入ってから追い越されてしまったという癒やしがたい劣等感が混じった屈折した感情を欧米人に対してもっている。それは丁度朝鮮半島の人々が日本人に抱く感情に似ている。中国人にもそういうところがあるが、最近は人工衛星を飛ばすなど大分経済が発展したという自意識が生まれたので、イスラム教徒の場合より尊大になりかけてはいる。

 宗教でいうとユダヤ教・キリスト教・イスラム教が順に生まれたわけで、前者の影響は強く、同一の神(唯一神)が異なる予言者によって異なる発現の仕方をしたとも解されている。キリスト教が地縁社会の宗教であるのに対してユダヤ教とイスラム教は血縁社会の宗教である。遊牧民など常に移り住む人たちにとって地縁は生じない。遊牧民は人口が一定量以上になると外へ溢れ出る。こうしてイスラム教は600年以降急速に膨張を続けた。トルコ時代には各宗教宗派の最高裁判所はすべてイスタンブールにあって、同一国家内に三つの別の法体系が生きて併存しているのだから、一つの国に三つの国家があるようなものであった。但しこれはトルコが以前からあった状態をそのまま継承したのに過ぎない。ヨーロッパは法を宗教から切り離して法の下の平等を進めた。イスラムの世界では今も法は宗教と一体で運用されている。

 この本で論じている最大のテーマは“イスラムの近代化は可能か”というものだが、ラマダンに代表されるような宗教法を守るということと近代化とは水と油で、うまくいくはずがないと二人とも口を揃える。イスラム教には神から与えられた世界をよりよくしなければならないという進歩の思想がない、コーランにすべて書かれているから、それを改訂するとか超克する必要はない。これは近代化への抵抗になるだろう。イスラムの聖典は法律である。それも憲法と考えればよい。そういう宗教法体制を維持しつつ近代化を計るということには無理があるという。文明のよいところは彼等も採り入れるだろうが、そのすべてが人類にとって望ましいこととは限らない。ユダヤ教を奉ずる人が大部分のイスラエルも憲法がないという悩みを抱えている。シオニストというのはユダヤ人だがユダヤ教の信者ではない人の呼称だが、彼等が憲法の必要性を説いても、イスラエルでは少数派である。その理由は少なくともこれまではイスラム教と同じくユダヤ教も基本法の役割を果たしてきたからである。
 近代化を政治的に “民主化が可能か”と置き換えてみよう。イスラエルだけは民主主義形式の議会を有している。他には北アフリカから中央アジアまで民主主義国は一つもない。ブッシュ米大統領が説くようにイスラム国家が民主化する必然性はない。イラクはシーア派とスンニ派という抗争する宗派とクルド人という異なる民族を抱えて、今後民主政体を平和裡に共有できようになるのか極めて懸念が大きい。アフガニスタンも同様である。いくつかのイスラム国家は現在でも石油資源のかなりの部分を所有しており、原油価額の高騰で彼等の地位が脅かされるのを防ぐことができる。他界された山本七平氏はこの問題(民主化)に否定的であったが、加瀬氏は50〜60年かければ可能かも知れないという。

<帝王学> まだ山本七平である。彼は“貞観政要(じょうがんせいよう)”を一読に値する書物として推奨している。まずこれが生まれた歴史的背景を見ると、隋の煬帝は大運河造成だけでなく、大宮殿や長城などの土木事業や外征に国費を浪費し、人民に重税や労役を課した。彼は享楽的な性格が強く、晩年は政治を放任して長安を離れ江都で遊楽の日々を送って遂に部下に殺害された。その子恭帝は乱れた世を建て直す力がなく、唐王李淵に位を譲った(禅譲)。この事態は高祖李淵にもまたその子太宗にも大きな衝撃であった。隋は煬帝の父文帝が創立したのだが、それまでの中国は400年に及ぶ戦国時代で民は疲弊しており、民力の休養が要請されていた。そこへ大運河だけでなく次々に大事業に着手したので、民衆から怨嗟の声が強まったのだ。高祖も太宗もこれを反面教師として慎重に永続性のある政治を目指した。後継争いで長男で皇太子建成と三男元吉は実力と声望のある次男李世民(後の太宗)殺害を企てるが、これを知った世民は動かず部下たちの意見を徴し、躍起になった部下たちの意見が反撃に一致してから腰を上げ、高祖に訴えた後に両名を討った。

 父から全権の委譲を受けた後に太宗はそれまで建成に仕えていた魏徴を召し出し、糾問して言った「我々兄弟の間を離間したのは何故か」。皆が殺されるだろうと危惧した魏徴は平然と「皇太子建成が私の言葉に従っていたら、今日のような悲運はなかった」と答えた。太宗は態度を改め、魏徴と王珪を登用して自分の諫議大夫とした。もちろん太宗の腹心であった房玄齢と杜如晦も重用された。一方は思索・探求・計画の人であり、他方は決断の人だった。両者ともに相手の長所と自己の短所をよく知っており、太宗はそれを補うように二人を活用しており、行われる事が自然で抵抗がないために二人が何かしたという感じさえ残らなかった。

 唐の太宗の24年間の治世の後、帝位を継ぐべき中宗は幼少だったために、即天武后が自ら皇帝と称し、国号を周と改めた。唐の元老たちは雌伏しつつ時期を待った。23年後武后に迫って帝位を幽閉されていた中宗に譲らせた。ここで史官の呉兢が太宗の時代のような立派な政治を望んで、この貞観政要を編纂し中宗に献じた。呉兢は硬骨の史家で、決して太宗を美化はしなかったが、彼は自己の欠点をよく知り諌臣の言葉をよく入れて直言に決して怒らず、改めるべき事を速やかに改めた人と述べている。この書は太宗と前記の太宗を取り巻く人々との問答をも記した。この呉兢の願いは直ぐには効果を発揮しなかったが、後世には大きい影響を与えたという。

 本書から強い影響を受けた日本人が二人いる。尼将軍北条政子と徳川家康である。政子は自分が漢文に習熟していないことをよく承知していて、菅原為長に日本語に翻訳させた。家康の場合は関ヶ原(1600年)の7年前に藤原惺窩を呼んで講義させており、またその半年前には出版させている。政子が読んだのは頼朝が読んでいたからではないかという説がある。家康の場合は信長・秀吉という反面教師が目の前にいた。貞観政要に唐289年の維持の基本を学んだことが鎌倉140年、徳川270年の重要な要因といえるだろう。

 書の冒頭に“草創と守文のいずれが難きか”というテーマが掲げられている。創業(草創)は大変でも陽性であり、頑張れば結果が付いてくる。一方で守文(維持)は陰性であり、根気よく続けてもすぐには成果が現れないが、油断は禁物である。明治は一種の創業だった。正確には継承的創業というべきだが、確かにこれに成功した。しかしここからは守文だという明確な意識がなく、創業的発展がいつまでも続くような錯覚に陥っており、昭和はその錯覚を継承して破綻したのだと七平氏は指摘する。人々は安易に“初心を忘れるな”とか“創業の精神に戻って”などというが、草創と守文は同一基準ではないどころか、全く異なる心がけが必要になる。創業的体制を守成的体制に切り替えねばならない。創業の能力者は守成の能力者ではないのだから、功のあった者だからと横すべりさせてはいけない。

 説かれているのは帝王学だが、民主主義の世では至る所に小さな権力が生じている。守文とは“組織ができてしまった”状態をいう。大きな組織から小さな組織まで上は下の運命を左右する権力を持ち得る。“権力を握ると三年でバカになる”という言葉がある。人は権力をもつと奇妙な全能感をもち、それが拡大していく。誰でもそうなるという認識をもって、諫議大夫のような人の言葉に謙虚に耳を傾けなければならない。あるいはその代りに貞観政要の説くところに従わなければならない。

 魏徴は組織に属する人物の評価法として“六正六邪”を唱えた。まず六正の良い方から挙げると、○聖臣 きざしが見えず、兆候が明確でない内に存亡の危機を見て未然に封じて主人を超然と尊栄の地位に保つ、これは凄いがそのほかに○良臣、○忠臣、○智臣、○貞臣、○直臣などがある。次に六邪としては○何もしない見臣、○主人に迎合する諛臣、○適正な人事を妨げる姦臣、○不和を増幅する讒臣、○派閥を作る賊臣、○意図的に主人を裏切る亡国の臣などを挙げる。六邪は六正を抑え込んでしまう。この評価法を人材登用の基準にしなければならない。

 太宗は官吏は少ないほどよいと考えて“定員法”を制定し、更にどうしても才能のある者が見つからない場合は欠員にしておいた方がむしろ害が少ないと考えた。少数精鋭主義である。無能にして六邪の人はいない方がよいが、有能で六正な人物をどうして見つけるか。スカウトはなかなかうまくいかないので、試験になるがペーパーテストの弊害が現れる。それは六邪でないという保証にはならない。太宗はその人物が生活している共同体の中でどのような評価を受けているかを採用の基準の一つにした。具体的な方法は記述されていない。

 組織全般の悪弊として○情報の遮断(寛怠を欲する主人はこれに見舞われる)、○相惜顔面(相手の面子を潰すのを厭がる)や付和雷同(日米開戦を決定した日本軍部)を挙げている。“コンスタンチノーブルの陥落”を書いた塩野七生と七平が対談したときに、女史は日本の亡国の原因は“和”だったと指摘したという。隋の破滅もそうして起きた。

 巻末にこの貞観政要の目指した帝王学について評論家守谷洋氏は次のように要約している。
@安きに居りて危うきを思うー緊張感の持続
A率先垂範、我が身を正すー自戒
B臣下の諌言に耳を傾ける
C自己コントロールに徹するー主人たるものは安易を求めてはいけない
D態度は謙虚、発言は慎重に

 この書で扱っているのは古い実話であるが、それはまた人間社会に常在する極めて現代的な課題である。はっきりしていることは常に油断は禁物なのだ。

<吉田 茂> 昭和21年5月から昭和29年12月まで首相を務め、戦後多難であった日本の復興を実現した功労者。昭和26年には米国との講和条約、安全保障条約に調印している。引退後の随筆“大磯随想”(中公文庫)を読んだ。小品であるが、当時(昭和36年)の彼の心境がよく分かる。
 まず米国と日本の関係について、安保については自分の国は自分で守るべきという勇ましい議論があるが、今は世界中でそんな国はない、国防というのは大規模になったから協同防衛は当たり前である。米国も安保は日本が可愛いから結んだのではなく、自国の太平洋戦略上の見地から結んだのだ、ソ連に対する自由国家の協同防衛は時代の要請だと明言している。

 彼のソ連嫌いは有名だが、大戦直後ソ連は北海道に進駐しようとしたが、マッカーサーが蹴ってくれた、もし北海道にソ連の兵隊が入ったらポーランドと同じ悲惨な目にあっただろう、大学の先生や自称文化人と称する日本人は共産主義の恐るべきことを知らないと書いている。彼はハンガリーやポーランドは未だに食糧を得るために人々が行列をしていると指摘し、共産主義国家はいずれ自壊すると言い切っている。貧乏な、物資の乏しい国でこそ共産主義は存在し得るが、ある限度以上に乏しくなれば反乱が起こる、また経済が繁栄状態になれば共産主義は勢力を失うからだ。中共やソビエトは今から5〜10年先にはアメリカの生産を追い越すとか言っているが、そんなことはあり得ない。
 中共についてはソ連とともに共産主義の枢軸になっているが、支那は歴史的にも地理的にも非常に近い関係にあるのだから縁をきるわけにはいかない、ソ連と中共の分断を真剣に考えるべきだと説いている。支那は未だ目覚めていない、今なお眠っている、人民公社というべらぼうな制度を布いて、飯も食わさずに働かせた結果を国家が取ってしまう。これじゃ生産意欲が起こる筈がない。私は支那大陸を経済的に解放して、もともと自由主義的な商取引を好む支那人に自由経済のよさをもう一度十分に味わわせることから考えを出発させるべきだと思う。その方法を慎重かつ巧妙にやれば支那人は必ずや自由主義経済の繁栄に身を寄せるようになるだろう。

 日本の政治については、社会党・総評は中共の手先になって革命の手先になるようなことを言っているし、浅沼の如きはアメリカは日中の敵だというようなことを言った。民主主義の行き過ぎで外国人の言うことを一から十まで信用するから見識がない。二院制度は衆議院で一回戦をやった後でまた二回戦を参議院でやるだけで馬鹿馬鹿しい。選挙法を改正して国民の知能を代表する人を議席の1/3か1/4選挙によらず参議院に送り込む方法がないものか。全国区を設けたから、全国的な組織をもつ教員・労組・商業組合などの職能代表が参議院を毒していると。後継の鳩山一郎内閣については非効率、無能力と酷評し、こんな内閣が続くと専制独裁政治を招いてしまうと嘆き、吉田内閣の方が能率的だったと自負している。後継者としてチラと池田の名が出てくるが、岸・佐藤の名はまだない。

 中国と言わず支那と言っているのは面白い。ソ連の自壊とケ小平の取った経済開放路線を予言したのは流石である。共産主義について今となっては当然と思える元首相の見解も戦後10年余の当時としては相当に思い切ったものであった。戦前、外交畑の第一線を歩き英国大使まで勤めた人の見識である。今では知る人も少なくなったが、米国大使時代に日独伊の三国同盟に反対して罷免された経歴をもつ。外交にはカンが大切ということと、戦後10年での日本の復興を驚異的と自讃し、日本人はもっと自信を持って良いと語る愛国の人であった(1878―1967)。読み終わって清涼感を頂戴した。

<W.B.C.> ワールド・ベースボール・クラシックは日本の優勝で閉幕した。山あり谷ありのシリーズにはいくつものドラマがあった。最大のピンチは米国に渡っての2次リーグ戦で日本が米国に続いて韓国にも敗れ一勝二敗に追い込まれた時だった。王監督は「日本の勝とうとする意欲を韓国の執念が上回った」と悲痛なコメントを残した。皆がほとんど諦めた後でもう二敗して先へ進む見込みがほぼ断たれていたメキシコが米国に2:1で勝った。同じ一勝二敗になった3チームの中で得失点差で日本が2位に浮上した。米国が勝つか、メキシコが米国に大勝していたら、日本にチャンスはなかった。この試合前にメキシコにチャンスはなかったように言う人がいたが、メキシコにもチャンスはあったのだ。

 この2次リーグでは同じ米国人の審判が二度にわたって米国チームの試合で明白な誤審をやらかして米国を有利に導こうとした。一度は対日本戦で球審を務めていて、外野フライでタッチアップした日本走者の三塁離塁が早すぎたと米国チームのアピールに応じかつ三塁塁審のセーフの判定を覆して走者アウトで得点(勝ち越し点)を認めない判定をした。日本チームは意気阻喪しこの後米国の勝ち越し点を許してしまう。「野球の本場米国でこういうことがあってはならない」と王監督はコメントした。次は前記の対メキシコ戦で一塁塁審を務めていて、メキシコ打者の打球が右翼ポールを直撃したのを二塁打と判定した。この時メキシコチームはその打球に右翼ポールの黄色い塗料が付いているのまで示したというが、彼は判定を覆そうとしなかった。憤激したメキシコは次打者が二塁打で続き、先の走者を生還させ、結果的にも勝利した。

 これをさかのぼる1次リーグでは日本は自国日本に韓国・台湾・中国を迎えて台湾・中国には大勝コールド勝ちしたが、韓国には終盤せり負けて一点差で敗れてしまい、二位で次のリーグに進んだ。同様に1次リーグで米国はメキシコに敗れ、番狂わせと騒がれたが二位で次のリーグに進む日本と同様な経過を経た。従って1次,2次リーグを通しての通算成績は日本も米国も三勝三敗で、日本は韓国、米国はメキシコに二敗したところまで類似した結果になった。僅かな差で準決勝進出を逃した米国は審判のミスジャッジを敢えてしても敗退したというケチがつき、勝負は運というけれど実力世界一がもう名目になった感を与えた。

 かくして準決勝に進んだ日本だが、テレビは「韓国にもう一度敗れるなどということはあってはならない!」という憤然たるイチローの顔を大写しにした。彼は1次リーグでは今ひとつ調子に乗りきれなかったが、2次リーグ対韓国戦では先頭打者ホームランを放つなど米国での試合では慣れた球場ということもあって、試合に適応しつつあることを感じさせた。準決勝対韓国戦では上原の好投と王監督の打順変更・代打作戦など選手起用が当たり、6:0で快勝した。決勝対キューバ戦では松坂は前半好投したが、内野のエラーが続いて緊張感で浮き足立つ感があり、継投が打ち込まれて8回には6:5まで迫られた。その9回表に落ち着いたイチローの鮮やかなライト前ヒットで得点し、その後イチローまでホームに(鮮やかではなかったが)すべりこんで加点して勝利を確かなものにした。プロ野球選手がいないのにしぶといキューバは9回裏に1点を返している(最終的に10:6)から、イチローの一打がなかったら試合はどうなっていたか分からない。

  “予想以上の緊張感に襲われた”という王監督とともにこの優勝を一番喜んだのは“最高に気持ちいい”と子供のようにはしゃいだイチローだった(写真は巨大な国旗を選手全員とともに持ちながらウイニングランをするイチロー)。イチローは「このチームのままメジャーでやりたい。今日で別れなければならない淋しさが喜びとともに沸いてくる」と試合後のメジャー流のシャンパン・ファイトの後で語った。5年前に大リーグに渡り、シーズン最多の262安打の大記録を打ち立てたイチローだが、英語は未だに自由ではないようで、日本からの期待に応えて頑張る日常ではあっても、チームの成績も盛り上がらずワールドシリーズに出る機会もない年が続いて、野球は結局はチームプレイだから淋しさは人一倍なのだろう。今年から城島が行ったから二人でチームを盛り上げられるとよいが。なお、週刊誌的トピックニュースによれば、イチローのC.M.ギャラは3倍に急騰したという。

<選挙> 日曜日は横浜市長選挙の投票日なので、朝早めに家内の車で小学校の投票所へ出向く。今回様々な点で周辺環境に改善がなされていることに気が付いた。前回(例の小泉首相による郵政改革で国民に信を問う衆議院解散・選挙)はその直前に日本のどこかの小学校で校庭に職員が乗り入れた車が児童を誤って轢いた事故があったために、学校の構内への車の乗り入れが禁止になっていて、校門の近くの路上に臨時駐車して少なからざる距離を杖を突いて歩く仕儀になった。今回は校門が大きく開かれていて、私のような身障者を乗せた車は自由に構内に乗り入れでき、投票所の建物の付近で乗り降りが許されるように戻った。

 有難いことだと投票所の建物に入ろうとすると二段のステップがあるが、ちょっと躊躇する私にさっと係の人が手を差し伸べてくれる。投票所の受け渡し所では近づく私の歩みが遅いのを見て、別の係の人がさっと出てきて引き替え券を受け取り、投票用紙を手渡してくれる。5、6歩の距離に過ぎないがその心遣いが有難い。

 候補者の氏名を用紙に記入する場所へ行くと、用紙を抑えるための文鎮を係の人がさっと差し出してくれた。これは前回(或いはその前からか?)私が左手が不自由で用紙記入の際に用紙を左手で抑えられずに苦労しているのを後方で注視していた人に違いない。2003年1月に<筆記用具>で投票時の鉛筆の使用についての不満を記したが、実を言えばボールペンなら用紙を左手で抑えなくてもなんとか記入できるが、鉛筆では用紙を左手で抑えないと記入が困難だということに無意識に反撥していたことに気が付いた。事によると前々回投票ボックスで手持ちの鞄からボールペンを取り出した時に後からさっと新たに削った鉛筆を差し出した人かもしれない。そういうふうに気を遣わせるのではまずいとそれ以後はボールペン使用をやめた。身体のバランスがよくないのでそういう際に私に働きかけた人の顔を一度も振り返って見て挨拶していないのだが、これらすべてが同一人であった可能性が高い。いろいろ気を遣って頂いて有難いことだ。

 最後に会場の出口には6段ほどの下りの階段がある。従来ここには手摺がなく(小学校には身障者の児童などはいないのだろう)、ここだけは危険で自力だけでは降りられないので今までは家内に左手を支えてもらっていた。強い力は不要で、ただステップを降りる度に身体が左右に揺れるのを防止してもらう必要があるのだ。今回はここにステンレスの手摺が降りきる位置まで十分な程度に設置されていた。これは今回の様々な配慮の中で最も有難く感じたことだ。今までも出口に人が立っていて私に手を差し伸べようとしたが、家内がするので遠慮していた。身障者というものはこういう場合に自力でやれる範囲はそうしたいという気が強いものだ。

 昔に比べて私のような老人で身障者への配慮を社会が高めてくれていることを実感する。横浜市あたりはその先端を行っているのかもしれない。日頃何かにつけて世の中の事柄に不満を述べる癖がついているが、午前7時から午後8時までの長時間さしたる報酬もなく無事に快く選挙が行われるように気を配っている関係者の皆様に改めて感謝を申し上げる。選挙結果の集計の迅速さ正確さも含めて日本ほど選挙事務が円滑に行われている国は世界でも稀有ではないだろうか。投票率はさほどではないかもしれないが。


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