
<量子力学> たまたま最近いくつかの動機が重なって、今まで縁の薄かったこの小難しい世界をこの際少しかじってみようという気になった。その一つは最近ネタ集めの分野の一つにしている講談社“ブルーバックス”で“高校数学でわかるシュレデインガー方程式”(竹内 淳)を入手したこと、次はアルバート・アインシュタインの論説集“科学者と世界平和”*(中央公論新社)、そしてもう一つは最近テーマを選ばずになるべく視聴しようとしているテレビの放送大学講座の中で量子力学入門として“シュレデインガー方程式とその応用”が採り上げられたことによる。
話の順序を整えるために、アインシュタインの前述の小冊子*から話を始める。第2次世界大戦でドイツから米国へ逃れたアインシュタインは物質がエネルギーに変換できることに着目してルーズベルト米大統領に原子爆弾の製造を進言した。これはオッペンハイマー率いる科学者グループによって実現されるが、ヒロシマ・ナガサキにおける非人道的な惨禍を生んだのに留まらず、水爆製造の果てしない米ソの開発・製造競争にエスカレートするに及び、彼は自己の愚かな進言の償いの気持ちもあって国連総会への公開状を発して、安全保障理事会でなく世界政府を樹立して地球上の恒久平和を確保すべき事を説く。しかしこれは当時自由主義の米国と共産主義ソ連の二極対峙構造を反映してソ連科学者たちの“世界政府構想は米帝国主義者の独善である”という反論を受け挫折してしまう。こういう公開討論を政治家たちをさしおいて両陣営の物理学者が行ったのは、当時の科学者の人類社会への強い影響力を示す意味で感嘆する。
小冊子*の後半は“物理学と実在”にテーマを変えて二十世紀に入って急速な進展を遂げた物理学に言及し、@まず科学のあるべき方向および物理学は感官体験に立脚した理解の範囲に留めるべきことを説き、Aニュートンの古典力学が果たした役割を高く評価し、B光学・電磁気学を解明するマックスウエル理論と場の思想に触れ、C自らの作り出した光速不変の原理があらゆる慣性座標系に適用されるべき特殊相対性原理と、電磁場と重力場による空間のゆがみを考慮する一般相対性原理を解説する。Dは量子力学の展望と批判で、ハイゼンベルグ、デイラック、ド・ブロイ、シュレデインガーの業績を評価し、彼等の理論が多くの物理現象を新たに説明できるようになったことを認めるが、ミクロの世界の粒子の振る舞いに確率論的な記載がある点を容認できないと指摘している。@の序論もこれを言いたいがためにしつこいような表現になっている。
次いで竹内 淳氏の教材に移る。この本はアインシュタインが(特殊および一般)相対性理論で有名だが、彼はその前に19世紀に光は波であるというのが定説だったのに逆らって光は粒子から成るという“光量子仮説”を唱え、光電効果(金属に光を当てると電子が飛び出す現象)でエネルギー保存則と運動量保存則が成立することを実証したことにまず言及する。彼のノーベル賞取得(1921)は“光量子仮説”に対応するものである。アインシュタインは光は波であるとともに粒子でもあることを示したが、それを受けてド・ブロイは電子も粒子と波の二重性があると説き、後に実証された。シュレデインガーは光や電子の波動性を表す方程式を立てた(1926)。これは時間に関しないものと時間に関係するものの二つの偏微分方程式から成る。これを基にしてハイゼンベルグは位置と運動量について一方を正確に求めると他方は不明確になるという不確定性原理に従うと唱えた。ニュートン力学では位置と運動量の双方が明確に求められなければ物体の運動は定義できない。アインシュタインは統計力学では多数の分子や原子を扱うので、物理量を確率的に扱うことを認めるが、このように個々の粒子について述べられた本質的な不確定性には“神がサイコロを振るはずがない”と言って断固反対した。アインシュタインは不確定性の影響を受けないと思われる実験を次々に提案して、ボーアとハイゼンベルグを苦しめたが、二人はその度に提案された実験の不備を見出して、遂にハイゼンベルグの不確定性は量子力学の世界では本質的なものと理解されるに至ったと書いてある。
我々は学校教育でこういう20世紀前半の物理学の急速な発展の成果をあたかも人類の祖先からの常識だったように錯覚するほど繰り返して懇切丁寧に教え込まれている。しかしそういう常識に定着する前にはこんな激しい論争のドラマがあったのだ。アインシュタインは事によると死ぬまで不確定性原理を心底からは納得していなかったのかもしれない。天才は頑固でもある。ところで問題への介入方法が唐突だったので、私にはそこから先のシュレデインガー方程式の利用方法についての知識がなかった。そこへ放送大学の量子力学の講座が始まり、水素原子から始まって電子の数が増えていく諸原子の原子核と電子の間の安定な関係がこの方程式を解くことによって求められることを知った。メンデレフの周期律表はシュレデインガーによってその理論的な根拠が与えられたのだという。
教材に戻って原子核の構造についての知識を得たユダヤ系の物理学者たちがウラン235に中性子をぶつけることによって核分裂と化学反応とは桁違いのE=mc2で表されるエネルギーを得られ、且つ連鎖反応を誘発することを知り、ヒットラーを避けて亡命した米国で原子爆弾を開発した経緯が述べられている。次は近年のナノテクノロジーの進展によって量子力学がトランジスターや半導体レーザーなど電子工学(エレクトロニクス)の応用面で非常に役立つようになってきたことを述べ、その基本であるシュレデインガー方程式を用いた実用計算が表計算ソフト・エクセルを用いたパソコン上で数値計算として行うことができる具体的な実行例を詳しく説明している。対象となる加工溝の巾を10nm(ナノメートル)とした。2階偏微分方程式というと面倒な気がするが、これを二つの1次の差分方程式に分け、境界条件を適切に入れ込むことで、トライ・アンド・エラー方式を含む逐次計算という手間はかかるが単純な作業に替えて、高度の数学的知識なしに実行可能な計算として示している。エクセルはまことに実用的で万能の計算ツールだ。

<シュレーデインガー> 前項で波動力学の理論を立てて量子力学の発展に貢献したとして紹介したエルヴィン・シュレーデインガーの“わが世界観”という著書がある。彼の経歴を大まかに述べると、1887年オーストリアの首都ウイーンで学術を愛する父母の間に一人息子として生まれ、母国語であるドイツ語だけでなく母の母国語・英語やギリシャ語・ラテン語などの古典語を学び、父に進化論など生物学を学んだ。1906年ウイーン大学に入学、彼の慕っていたボルツマンは直前に他界(自殺)していたが、若いハーゼンエールが教室を継ぎ、その指導と影響を受ける。この後第1次世界大戦で4年間の兵役の後に1918年に敗戦、困窮の中でドイツの大学を転々とする中で波動力学を創設、この世界観も書き上げた。1933年にヒットラーが政権を取るとこれを逃れてイギリスのオックスフォードからダブリンに移る。1956年復興後のオーストリアに戻り、“わが世界観”を出版し1961年永眠した。
彼は30歳近くになってショーペンハウエルの思想を学び、次いで古代インド哲学ウパニシャッドの単一の教義を知って“このうえもない喜びを感じた”と自伝に記している。それは“梵我一如”を意味し、“梵”=一切の根本原理、一切世界と“我”(私自身)との同一不二を説く。彼はこの教義に会って歓喜にむせび、心底から安心し、生涯を通じてこの教義に近づこうとし、これは万人に共有されるべき思想として人にも説いて、死の一年前に著書を完成させた。
その著書からポイントらしき部分を引用してみる。
―アルプスの山岳地域における、とあるベンチに君が座っていると仮定しよう。君のまわりに一面に草の茂った斜面があり、あちらこちらに突き出た岩がいくつも見えている。谷の向こう側の、ごろた石で覆われた斜面には、榛の木の藪が低く茂っている。木々が険しい谷の両側をはいあがり、木のとだえた牧草地の境界線にまで達している。そして君と向かい合って、深遠の幽谷からそそり立っているのは、万年雪を頂いた高く力強い山頂である。そのなめらかな雪原と鋭く切り立った岩山の頂きは、この瞬間に落日の最後の光線によって、この上もなく淡いバラ色に彩られている。ものみなすべてが、明るく淡い透き通るような空の青さを背景に、不思議なくらい新鮮である。
君が見とれているものすべては君が存在する以前から、少しの変化はあったものの、幾千年の間ずっとそこにあった。しばらく後に君はもはや存在しなくなるであろう。それでもその林や岩や青空は、君がいなくなった後も、幾千年も変わることなくそこに存在し続けることであろう。恐らく百年前にも誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔でもの悲しい心持ちで、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。君はほかの誰かと本質的に違うものなのか。君はかのヴェーダンタ哲学の根本的確信に十分な妥当性があることを理解するだろう。即ち、君そして意識をもつすべての他の存在は万有の中の万有なのである。君の生命は世界の現象の単なる一部ではなく、現象全体をなすものである。確かにあした大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を生み出すだろう。−
また言う。ー私という人間は、誕生をもってはじめて創造されたのではなくて、このときまさに深い眠りから目覚めたのであり、私の希望と努力あるいは恐怖と不安は、私より以前に生きた幾多の人々のものと同一であると考えられる。そして私は、幾世紀も前に私が初めて抱いた願いが、幾千年を経た後に成就されるに違いないと信じることができる。先祖からの継承なくしては、どんな思想も私の中で芽生えることはない。それゆえに思想というものは、決して萌芽ではなく、太古からの生命の樹にやがて花開く芽であると言えよう。―
シュレーデインガーの願いは“自我と世界の合一”であった。仏教の伝統のある日本ではさして奇異ではないかもしれないが、自分の自我と外的世界とは全く独立した別の存在であるというヨーロッパの伝統的な考え方ではとても受け入れられるものではなかった。しかし彼は若い頃からそういう考え方の行き詰まりを強く予測しており、それを確信に満ちて世に残した。量子力学の基礎をなし、それによってノーベル物理学賞を受賞(1933)した波動力学理論を樹立したこの科学者にとって欠かすことのできない信念であった。その卓越した思想も彼個人の所産ではないことになる。私自身の感想は暫く控えたい。

<日米開戦> 日本が米国に向けて開戦して第2次大戦に突入した事については、今ではすべての日本人がバカなことをしたものだと思っているだろう。だが、当時の日本はやむにやまれずそうしたのだという弁明があの時代を過ごした少なからざる人々によって残っている。ここで取りあげるのは“陸軍省軍務局と日米開戦”(保坂正康・中公文庫)である。ここでは陸軍省軍務局高給課員石井秋穂に焦点をあてて、昭和16年10月半ばから同年11月末までの実質1ヶ月半の期間に中枢部がどのように考え、動いたかを克明にレポートしている。石井は陸軍の事務局担当官僚として最終的に日本が対米開戦に至る政策を起案する立場にあり、必要な情報もすべて知り得る立場にあった。軍務局軍務課というのは2.26事件以後に生まれた組織で、従来軍人勅諭によって“軍人は政治に関与すべからず”とされていたのを、陸軍大臣を補佐するという名目で実質的には陸軍の意見を各方面に押しつける政治将校集団と化していた。
それまでの状勢として、ドイツの電撃作戦に刺激された日本は南部仏印に武力進駐し、日本側の甘い予測に反して米国は日本の資産凍結令を布告した。英国・カナダ・フィリピン・蘭印も呼応して対日経済断交となっていた。9月6日の御前会議においは政府と統帥部の責任者が集まり、“帝国国策推進要項”として「外交交渉ニヨリ十月上旬ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於イテハ、直チニ対米(英・蘭)開戦ヲ決意ス」と定めたが、その後支那撤兵を受け入れても日米交渉妥結の目途は立たないからとこの決定遵守を迫る陸軍省と参謀本部および軍令部は主戦派と呼ばれ、これに対して支那撤兵を受け入れれば日米交渉妥結の目途はできるとする近衛首相・豊田外相は和平派と呼ばれ、抗争は続いた。陸相東条英機は閣議で“支那撤兵は陸軍の士気に影響する”と強硬に反対、遂に10月17日閣内不統一で近衛内閣は倒れた。即日東条陸相は宮中に呼ばれ、予測に反してお叱りはなく、内閣の組閣を命じられた。但し“海軍と協力し、9月6日の政策を白紙に戻し、広く深く国策を検討せよ”とのご指示であった。別の本ではこの直前の重臣会議で昭和天皇が“虎穴に入らざれば虎児を得ずだね”と言われたとある。
宮中から戻った東条は陸相および不測の混乱に備えて内相も兼任することとし、石井に国策再検討の草案作りを命じた。東条は天皇の意向には忠実だが、日米交渉を積極的に進める以外の政策の具体案は何も明示しなかった。石井の上司、軍務局長は武藤章であった。彼は嘗て廬溝橋事変以来の事変拡大派の旗頭であったが、実戦を指揮してみて相手の手強いのを実感し、直属部下の石井に“この戦争は考え直す必要がある。早い機会に収拾しなければならん”と洩らすようになっていた。彼は“大臣(総理)の白紙還元は本気だ。日米交渉の経緯は君が一番詳しいのだから、一存で考えてくれ。今晩中に頼む”と石井に言った。
石井の思考は循環した。結論は“検討すべきデータは提示するが、国策再検討の項目にいささかでも特定の結論に達する含みをもたせてはいけない”というもので、事態が複雑になると観念論に落ち込む日本官僚の陥穽に彼も落ち込んだ。また彼は統帥部が怖く、“統帥事項に口出しするな!”という彼等の恫喝が怖かった。彼は統帥部を中心に第8項目までで対米英蘭戦争が可能なのかどうかを徹底的に論じさせることにした。第9項目では開戦の時期と開戦を差し伸べにする方策(これに関連して米国の対日禁輸措置に対抗して人造石油を開発する案が真剣に検討されていたらしいが、何を原料にするのか正気の沙汰とは思えない)。上司の決裁を受けた石井はこの案を組閣を終えたばかりの東条の検閲を求めた。東条はこれで落ちはないかと訊ね、石井は“間違いありません”と答えた。東条が部下の断定的な応答を好むのを知っていたのだ。了解を取り付けた再検討項目案は海軍および参謀本部に回され、予想外に無事通過した後に、東条は初閣議の席では国策の白紙還元を伏せた(彼は司法・文部・商工・農林大臣などにはそういう機密を漏らす必要はないと考えていた)上で、嶋田海相、東郷外相、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁に数日後に会議を開くから検討してくれと案を手渡した。東条は“国民は灰色である。指導者が白と言えば白、黒と言えば黒になる。”と言い、そのエネルギーを恐れていた。
東郷新外相は野村米大使に改めて交渉継続の電報を打った。彼は久しぶりの外交官出身の外相だった。参謀本部は田中新一作戦部長が日米交渉を中止せよと陸軍に圧力をかけてきたが押し切った。10月23日から政府・大本営連絡会議が開かれた。これは事実上の国策決定最高機関である。正式メンバーは首相(陸相)、外相、海相、蔵相、企画院総裁、参謀総長、軍令部総長。軍務局長はオブザーバーである。軍務局長の報告によると、参謀本部は初期にフィリピン・マレーの奇襲作戦を主張、軍令部は長期戦になれば国民の覚悟が肝要と言い、企画院の試算は長期的な見通しは立たないと言いつつも、戦争に活路を求めずこのままジリ貧で行く方が危険と述べて統帥部を喜ばせた。27日蔵相が企画院の数字の根拠を糾すと、統帥部が作戦計画を明らかにせず、陸海軍が備蓄量など正確な数字を開示しないので、正確な試算ができず信憑性に欠けることが明らかになった。
ドイツ軍とソ連赤軍はモスクワをめぐり死闘をくりひろげていた。ソ連軍は当初の“敗北は時間の問題”という観測を覆しつつあり、ソ連国民の国論統一と米英の支援を得てソ連は巻き返しの気配を見せていた。独ソ開戦に伴い陸軍省は会議を開き、参謀本部の“最終的にドイツは勝利する”という観測に反して、石井は“緒戦はドイツ有利でも、ソ連は一党独裁が徹底しているから容易に屈しない。丁度支那に手を焼いている日本と同様な状況に落ち込むだろう”と発言してこれを陸軍の認識にしていた。これにも関わらず統帥部は連絡会議でもドイツ有利を前提に発言を続けた。参謀本部でも尉官級の青年将校には開戦にからみ過激な発言を振りまく者が少なくなく、重臣たちには護衛の憲兵が終日立つことになった。連絡会議の出席者たちは聖慮のもつ曖昧さを意識しながら、究極まで思考を進めようとはしなかった。聖慮が9月6日の決定の全面撤回を望むものであれば、統帥部にもその意を伝えるべきだった。白紙還元は東条内閣を拘束したが、統帥部を拘束することにはならなかった。統帥部は手枷を嵌められていなかったので、自らの強硬意見を引き下げる理由はなかった。東条の見通しは甘かった。
27日の会議の後で武藤軍務局長は思い詰めたように田中を更迭したらどうかと東条に申し出た。上下一体になって主戦論に傾いている参謀本部にくさびを打ち込んだらどうかというのである。“私も身を退く。相討ちということにしてほしい”と。“今はそれほどの時間がない”と東条はうやむやにした。東条は“首相は軍人を退くべき”という慣例の負い目があり、そういう処断を機に陸相兼任を問う声が統帥部に高まることを恐れたのだが、開戦か避戦かの劈頭ではそんな負い目は捨てるべきだった。彼は木を見て森をみていなかったと著者は指摘する。一方で海軍も嶋田大臣は永野修身軍令部長の強硬論にまゆをひそめていたし、軍令部作戦部長の福留繁が彼を支えているのを知っていたが、結局何一つ手を打たなかった。
連絡会議が終局を迎えつつあるのは誰の目にも明らかだった。28日には日時の経過とともに日本が不利になることが論じられたが、人造石油の話が出て頼りにならないという技術論で終わった。29日は午後1時から9時まで統帥部と文官の開戦・避戦の応酬に終始した。おとなしい東郷外相が支那撤兵で顔面を紅潮させて統帥部に挑んだ。参謀本部は“支那からの全面撤兵反対。支那事変は勝利に向かっている。駐兵は勝利の代償、敗者が代償を払うのは当然”と言い切った。そこには武力で獲得したものは手放したくないという軍人特有の心理があった。海軍は多くを言わなかった。避戦と言えば陸軍に資材・戦備の割り当てを取られてしまう。彼等には陸軍への対抗意識が先行していた。結局三案に絞って結論を出すことになった。第1案は戦争を避け臥薪嘗胆。第2案は即時開戦。第3案は戦争の決意の下に作戦と外交を平行する。統帥部は第2案にこだわった。東条は佐藤賢了軍務課長を呼び、参謀本部を第3案でまとめるよう説得を命じた。11月1日の連絡会議は延々と続いて遂に翌日の2時に及んだ。結局第3案で交渉期限は12月1日午前0時と限定し、交渉が成立すれば武力発動は中止するとしたものの、武力発動の時機を12月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整すると文書化することになった。東条は杉山と永野を伴い連絡会議の結果を上奏した。天皇の望む避戦になっていないことで、東条は報告中に涙をこぼしたと伝えられる。
最後の対米交渉が始まったが、平行して国民の反米感情を煽る世論操作が開始された。国民は強く反響を起こし、陸軍省の将校たちは反米ムードが国民の声だと錯覚するまでになった。日米交渉の窓口である米国務長官コーデル・ハルは日本にいささかの好意も抱いていなかった。国務省の方針は8月9〜12日のチャーチルとルーズベルトの密約“ドイツ壊滅のためのソ連援助。日本には武力行使しないで適当にあしらっておくが、その後は機を見て戦争に応じる態度を整える”を守ることであった。ハルは東郷外相と野村米大使の往復電報解読文を注意深く読んでいた。それは米諜報機関の2年間の成果だった。彼は11月7日東郷から野村に宛てた電文の中に“遅くも12月25日迄に調印を完了する必要がある”という期限が切られていることに着目し、これに合わせて日本は戦争機械の車輪を回し始めるつもりだと考えた。石井は入手する電報の束を読みながら、もしかしてこれらの電報が米国側で解読されてはいないだろうかと懸念をもったが、対策の立てようもなかった。ハル国務長官は既に4月に日本側に米国の四原則を提示していた。即ち@両国およびあらゆる国民の領土保全と主権の尊重、A他国の国内問題への不干渉原則の支持、B通商上の機会均等を含む平等原則の支持、C平和的手段による変更以外は太平洋は現状不攪乱。であった。その後の日米交渉は日本側から4回の提案を行ったが、詰まるところこの四原則に帰着し、全く進展していなかった。
交渉の新提案は東郷外相を中心に外務省で原案が作られた。@日米両国は仏印以外の東南アジア、南太平洋地域で武力不使用。A日米両国は蘭領印度で互いに必要とする物資の確保に相互協力。B米国は年間百万トン航空揮発油の対日供給を約束するーであったが、統帥部の意向でB日米両国は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰する。C米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与える行動に出ないーと改められた。更にはこれで妥結の見込みが就いたら次項を追加せよと参謀本部と軍令部の追加要求が出た。@日米交渉の成立から三日以内に相互に資産凍結を撤廃する。A米国は鉱油年額600万トンを月に均分して日本に供給する。B援蒋行為の中止を内外に闡明する。―以上を一週間以内に実行しなければ開戦に踏み切るというものだった。軍務局ではこんな話を出せばまとまりかけた話でも壊れると意見が一致したが、断固反対はしなかった。
石井は野村大使が交渉の状況を報告する長文の電報に空虚さを見た。彼は大佐に昇進し、参謀として南方軍への赴任命令を受けた。日米交渉の窓口だった石井が陸軍省の古い建物から消えたことを知った彼と親しかった新聞記者は対米平和工作の終焉を知った。戦後10年経って石井がハルの回顧録で知ったのは日本の提案を見てハルが抱いた感想は“日本の提案を受諾することによって米国が負う義務は降伏に等しいものであった”であった。この時ハルはこれが日本の最終提案であり、これを受け入れなければ日本は直ちに軍事行動に走るだろうと感じた。それ故交渉の破局を引き延ばし米国の同盟国との信義は守りながら日本に有利な立場を与えない暫定協定案を考え、英国・豪州・中国・オランダに打診した。しかし中国大使の胡適は米国は弱腰過ぎると噛みついた。結局ハルが日本側に手渡した文書は四原則と変わりないものだった。野村は交渉成立見込み無しと打電し、これを受けて参謀本部は喜びに沸いた。
以上が開戦直前の経緯報告である。このような詳しい事情を知って強く感ずるのは東条英機の天皇からの信託への不誠実である。どのぐらい国際情勢についての情報を入手していたのか知らないが、かくも日米交渉に不熱心であったとは歴史に残る不忠者のそしりを免れない。今の若い人にはピンと来ないかも知れないが、戦前日本の社会道徳において、君に忠、親に孝というのが最大の徳目であった。それに背く者は人の風上にもおけないとされた。彼は秀才ではあっただろうが、軍部の暴走の波に乗り、無為に押し流されていただけではないか。戦後彼が靖国神社に合祀されたことについては強い違和感を覚えている。

<箱庭療法> 2005年4月に河合隼雄の思想の一部を紹介した。今回は放送大学での彼の箱庭療法の話からの連想である。既に述べたように、彼はユング派のクロッバーの下で学んだが、同じユング派のドラ・カルの考案による箱庭による心理療法(SAND CRAY THERAPY)を見学して、日本には元々箱庭というものがあって、類似点があるので日本人になじみやすいのではないかと考えてこのシステムを日本に持ち帰った。1965年のことである。果たしてこれは有力な心理療法ともてはやされるようになり、今では国際学会も開かれている。この方法には若干の決まりがあって、使用する木箱のサイズは縦57cm、横72cm、高さ7cmでこれの下に台を置いて腰の辺りの高さにセットする。木箱には白い砂が布かれているが、これをかきわけると木箱の底の青く塗られた水色が現れる。従って砂の置き方によって丘陵や川、池、海岸なの陸地や水面を自由に形作ることができる。人形や動物、乗り物、建物、橋・道路・塀・門、樹木、標識などさまざまな素材が棚に区分けされて用意されていて(下の写真)、自由に使うことができるし外から別の素材を持ち込むことも許される。必要があれば木箱は複数を同時使用してもよい。
通常のケースではカウンセリングに訪れた患者に“箱庭でも造ってみますか”と呼びかけ、約50分の時間の内で訪問者は箱庭を作った後にセラピストと話をする。その日はそのまま帰るが、来週も来てその続きをやる。次第に表現する世界が変わっていく。河合の場合ほとんど指導などはしないで黙って傍で見ている。すると患者は毎回変わり、多くの場合自力で治っていく。最近は自閉症のこどもが不登校になるケースが増えている。こういう場合にこの療法は効果を発揮することが多いが、これを親が自宅でやらせてもうまくいかない。どんな人がどんな態度でやらせるかは重要なポイントで、自由にやるという人間関係が必要である。何回かやっている内に物語がまとまってくれば成功である。


<鯨> 2006年4月9日、鹿児島県佐田岬沖で鹿児島商船の高速水中翼船“トッピー4”号(281トン)が何かの物体と衝突、乗客乗員109人中104人が負傷した。事故当時船は鯨の嫌がる音波を出しながら、43ノット(時速約80キロ)で航行中だった。この音波は“アンダーウオーター・スピーカー”で進行方向180度の角度に1キロ先まで届く高性能のものだという。船は自走できなくなり、曳航されて到着した港からは重傷者を運ぶ救急車が何台となく病院に向かう悲惨な状況になった。また昨年4月29日に韓国釜山発博多行きの高速旅客船“コピー5”号(267トン)が何かの物体と衝突し、多数の負傷者が出たが、事故後に後方の海面が赤茶色になり、鯨に衝突したものと見られている。国土交通省は有識者を含む委員会を近く設置し、乗客のシートベルト着用義務化を含む安全対策を検討する方針を決めるという。
専門家によれば鯨の遊泳速度は通常の貨物船の20ノット(時速37キロ)と同程度で、その2倍のジェットホイルの高速では1キロ先で気付いても避けきれないのではないかと言う。別の専門家は春先に沖縄近海で出産した鯨が北上しているが、捕鯨禁止で数が増えていると言い、事故防止の困難さを指摘している。衝突したのは九州近海に生息するザトウクジラやマッコウクジラ、ニタリクジラと見られ、いずれも15トンを超す大型種。親鯨は1度の息継ぎで1時間ほど潜れるが、子クジラは頻繁に息継ぎが必要。そのために春は親子連れで海面近くを泳いでいる。




<虜人日記> 先の<日米開戦>に次いで山本七平の“日本はなぜ敗れるのか”を採り上げる。彼の論説は2004年11月の<敗因>で一度引用したが、今回は彼が共鳴した“虜人日記”* の紹介とその記事に関する山本氏の随想である。この*手記の著者である小松真一氏は軍人ではなく、陸軍専用嘱託として徴用され、ガソリンの代用となるブタノールを粗糖から抽出する技術者として、敗色が濃くなった昭和19年1月からフィリッピンに派遣を命じられ、山本氏と同様に辛酸を舐めて終戦を迎えた。彼は昭和20年9月1日ネグロス島での投降後、レイテの収容所からルソン島の労働キャンプに移され、毎日の仕事が終わった後の時間に記憶を呼び起こして書き連ねた。手記は乏しい身の回りの材料を用いた手製和綴じの8冊のノートで、氏はこれを骨壺に入れて日本に持ち帰った。彼が不測の事態で没収されることを恐れて骨壺に隠したのは正しい判断だったであろうと山本氏は評している。小松氏は軍隊の中に組み込まれ、その内部の状況を具に知り得る立場にありながら、一方で組織に組み込まれていないために組織への配慮、責任、関係者への思惑などから解放されている稀有の立場にあった。そういう意味でこの種の回顧録にありがちな不自然な作為や秘匿がほとんどなく、素直にその報告を受け取ることができる。
小松氏の挙げる“敗因21条”(初めから無理な戦いをしたからだと言われればそれに尽きるが、その内に秘められる諸要素を分析すると)とは
1 精兵主義の軍隊に精兵がいなかったこと。しかるに作戦その他で兵に要求されることは総て精兵でないとできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物を言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
2 物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった。
3 日本の不合理性、米国の合理性
4 将兵の素質低下(精兵は満州事変・支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
5 精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)
6 日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
7 基礎科学の研究をしなかった事
8 電波兵器の劣等(物理学貧弱)
9 克己心の欠如
10 反省力なきこと
11 個人として修養をしていないこと
12 陸海軍の不協力
13 一人よがりで同情心がないこと
14 兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事
15 バシー海峡の損害と戦意喪失
16 思想的に徹底したものがなかった事
17 国民が戦いに厭きていた
18 日本文化の確立なきため
19 日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
20 日本文化に普遍性なきため
21 指導者に生物学的常識がなかった事
この中には多くのポイントが指摘されているが、山本七平氏はこの内一つだけを取るとすれば、バシー海峡だという。小松氏は昭和19年3月2日重爆機で台湾からルソン島までバシー海峡上空を通過して3時間で無事に到着している。その小松氏が21ヶ条の中に具体的な地名として、ミッドウエイでもレイテでもインパールでも沖縄でもなくバシー海峡を挙げるのは何故か。七平氏は自身の体験も含めてその理由を以下のように解説している。
―太平洋戦争初期にフィリッピンを占拠していた米軍はマッカーサーが“アイ シャル リターン”の言葉を残して一時退去した。その後米軍が着々と太平洋の島々を奪回して迫ってくると、日本軍は“戦備を整え、ルソンの山野に大兵力を展開して米軍に決戦を挑み、これを包囲殲滅した上で対等の講和にもちこむ”という大本営の戦略に従って大兵団を比島に送ろうとした。しかしこの時期には本土―台湾―フィリッピンの海域の制海権は完全に米海軍に握られており、輸送船は片っ端から米潜水艦の雷撃を受けた。―
七平氏の表現によれば、―制海権のない海を兵員を満載したボロ船が進んで行く。それは心理的に見れば、恐怖にわけが分からなくなったヒステリー女が、確実に迫り来る妖怪に手当たり次第に何かを投げつけている姿を想像させる。だが、大本営が無我夢中で投げつけていたのはものでなく人間であった。結局アウシュヴィッツのガス室よりはるかに高能率の、溺殺型大量殺人機構の創出であった。このことは誰も語らない。しかし窮地に陥った日本軍がバシー海峡で自滅していったのは冷厳な事実である。“虚構の子守歌”で“脱出路の入り口”まで眠らされていた人たちが目覚めた時、一切は虚構で、現実はすべて終わっており、自分たちはただ清算されるためにそこにいる事を悟り、慄然とする。それがバシー海峡であった。−となる(冒頭の絵は富山丸:昭和19年6月19日、徳之島沖で雷撃を受けて沈没。死者3700名)。
七平氏は更に自分の体験を語る。―門司の宿舎では、電話も手紙も町の人と口を利くことも禁じられていた。乗船命令を受け取るように指示があり、その直前に桟橋に行った。近づいて見ると恐怖すべきボロ船であり、一見してスクラップであった。それも道理、後で聞くと船齢既に27年、最高速度5ノット半という、当然廃船にすべき代物だった。だが既に何回かニューギニアへ兵員を運び、不思議に常に無事帰航したという奇跡の船だった。乗船してから船員が語るところによると“5ノット半の船が戦場をウロウロしているなどということは米国人の常識からは考えられない。そこでいつも魚雷の照準を間違えるから無事なのでしょう”ということだった。七平氏は船側にベトベトに汚れた感じの木造の小さな小屋(便所)がズラリと並んだその船に船倉1坪当たり14人蚕棚に詰め込まれて、長い待ち時間の後で出港した。彼は書いている。―人々は自分たちが大洋に導かれた巨大な“死のベルトコンベア”に載せられたことを知っていた。この船に魚雷が当たると3000人を15秒で大量殺戮できる。であればコンベアの動き出すのが遅い方がよい筈なのに、早く船が動き出して欲しいと願うのである。いるだけで玉の汗が流れる船倉。“たとえどうなってもいい。何でもいいからこの状態に早くけりをつけて欲しい”と。そう願った時には一切の秩序は崩壊していた。もちろん士気などというものは消えていた。これが小松氏が正しく指摘している“バシー海峡の損害と戦意喪失”の意味である。我々がバシー海峡と言う場合、それは単にこの海峡で海没した何十万の同胞を思うだけでなく、このバシー海峡を出現させた一つの行き方が否応なく頭に浮かんでくるのである。太平洋戦争自体が一方法を一方向へ拡大しつつ繰り返し、あらゆる犠牲を無視して極限まで来て自ら倒壊した行き方そのものであった―と。奇跡的にもあるいは例の異常に遅い船速のお陰か、
七平氏は無事にフィリピンに到着した。我々銃後の日本人は報道管制によってこのバシー海峡の悲劇を報らされなかった。それは戦後も続いた。語るべき人がほとんど死んだからである。恐ろしいことである。
虜人日記には小松氏が本来命じられたアルコール燃料の製造事業についての記述ももちろん有る。ネグロス航空要塞強化に伴い酒精が絶対的に必要となり、酒精の製造指導と大増産の使命を帯びてネグロスに行く。着くやいなや毎日爆撃に会い、防空壕生活になる。対空火器はほとんどない。当時フィリッピンではルソン島はダメ、セブのメデリン工場も火災で焼失、ネグロス島だけが原料糖が豊富にあって唯一酒精の製造できるところだった。空襲以来生産は激減、おまけに糖蜜タンクをゲリラに狙われ、糖蜜を全部川に流されるという事件が起きる。糖蜜に煮詰めるための薪の収拾も現地人は空爆で逃げてしまい、ままならなくなった。以後はゲリラの跳梁が激化し、平地は危険になったので山岳地区に逃避することになる。これでは生産どころではない。
綿々と悪化する状況の記述があるが、詳しく紹介しても仕方がない。ただ自分らの山中を逃げ回る様を、西南戦争で田原坂で敗れて以後の敗残の西郷軍の山中彷徨に例えている箇所がある。彼等は近代戦における火力と補給の問題を閑却視していた。西郷軍は官軍の物量攻撃に負けた。物量さえ同じなら負けなかったと言いつつ、次々に玉砕戦術を繰り返していった。彼等の戦前の思惑とは状況が異なっていて、前提が異なれば、前提を絶対視した発想・計画・訓練はすべて無駄になるということがどうしても認識できない太平洋戦争中の日本軍と同じだったと書いている。
次は食糧。中国軍は延安に逃避したときにまず農地を整備して食を確保した。米比軍も同じで、米軍の再来まで頑張り続けた彼等は山中のジャングル内に隠し田ならぬ隠し畑を焼き畑農耕の方法で作り上げ、それで食を確保してからゲリラ戦を展開した。人間が生物であるという認識に立てば日本軍にもこれが出来たはずだと指摘している。小松氏はありとあらゆる山中の植物を試し食いしながらさまよう内に、米軍の作った畑地に辿り着きここで甘藷やキャッサバを腹一杯食べることができて人心地がついたという。それまで山中では例外ではなく戦友を殺して食うようになり、常に警戒していなければならなかったという。こうなると上官も階級もなくなってしまう。部下に殺された連隊長・隊長はざらにあったという。
最後に小松氏は終戦決定の報に接した時の軍司令官・参謀といって人々の態度が印象的だったと述べている。誰も驚かなかった。一切の責任を天皇に帰し自己を免責にした。一切の公務を放棄し私物を確保した。帰国後の生活を懸念した。彼が許せないと思っていることは、自己も信じない虚構の世界を口にして虚構の世界を作り上げ、人々にそれを強制することだ。戦争が終わって初めて出てきた本音を初めからしていれば、この戦争はあり得なかったと述べている。小松氏は天性の自由人だったし、彼の立場もこのような発言を許したが、真の意味でのフリー・トーキングは本来あり得ないのだと七平氏は言う。彼は日本陸軍を貫いていたある力が軍人にこういう組織や行動をとらしめていたのだと言い、その力は軍人だけでなく全日本人を、また昔も今も変わりなく、各人の自由を拘束していると断言している。
過去に学ぶということは決して無駄にはならないことなのだが。
<E.S.細胞> 何やら韓国の某教授がノーベル賞級の仕事をしたというニュースが先行して、国中がこの人を称えるムードになったところで、あれは真っ赤な嘘ですと暴露する仲間が出現して一巻の終になった。この優れた科学者を国家褒賞しようと提案したエライ人たちがばつの悪い思いをしたーというわけでその幻の仕事の中身を私は知らないのだが、バイオテクノロジーの世界にも革新的な新技術が進展しつつあることは疑いないようで、この際また受け売りを試みる。教材は“E.S.細胞”(大朏博善・文春新書)、著者はこの方面の専門家ではないジャーナリストである。
