
<超バカの壁>
3004年1月に<バカの壁>*でこの養老孟司氏の著作を紹介した。この本は400万部を超えるベストセラーになったという。今度はその続編みたいな本を読んだ。彼の取りあげるテーマは比較的日常の事柄ではあるものの、簡単には割り切りにくい性質のものとして日頃やり過ごしている事柄を独自の論理で真っ向上段から斬り下げる趣があって、溜飲の下がる思いがする。そこまで行かないテーマでも、彼なりに割り切る思考方法は大いに得るところがある。先の著書*では戦争の原因は当事者の少なくとも一方が自分の頭の中に“バカの壁”を築き、その向こう側のことなど想像もしないで自分の意識だけが世界のすべてだと思ってしまうためだと書いている。私などは物事の原因というものはそう簡単ではないとつい言ってしまう癖があるが、こういう大局の掴み方は大切なのだ。
今回の著書においては12ほどのテーマについて随筆風に論じている。第1節の若者の問題では、まずフリーターやニートは今に始まったというわけではないとかばい、夏目漱石も“高等遊民”と言ったではないか、自分もそうありたかったが諦めて今に至ったと書いている。しかし本気で働かないのは“自分に合った仕事を探しているから”という弁明に対しては、(20歳やそこらでからっぽな)自分に合った仕事などある筈がないと斬り捨てる。そして仕事というのは社会に空いた穴だ。道に穴が空いている。そのままでは皆が転んで困るから、ともかくその穴を埋めてみる。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いている筈だなんて、ふざけたことを考えるなと一喝している。 仕事は自分に合っていなくて当たり前。養老氏は自分が長年遺体解剖の仕事に携わった例を挙げる。生まれつき解剖向きの人間などいる筈がない。然し社会がそれを必要とし、その対価として大学を通して給料を呉れたのだという。しかし一旦引き受けたら半端仕事をしてはいけない。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていく内に自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういうふうに仕事をやりなさいと言う。これは非常に分かりやすい話だ。自分にも大いに思い当たるし、若い人にぜひ聞いてもらいたい。
仕事は世襲ならその方がよいという。政治家でも医者でもあるいは役者でも地盤・看板が必要な職業は親の跡を継ぐのがよいのだと言っている。尤もである。小泉首相も三代目だそうで、だからといって非難される言われはない。私の父はしがない農家の次男に生まれ、分けてもらう田畑がなかったから都会へ出て教師になった。父なりに努力して昼間は勤めながら夜間の大学まで通った。それが役立ち戦時中に東京の小学校から生まれ故郷の岡崎に疎開したが、高女の国語の教師の職を得た。そういうふうだから私には親の職業を継ぐ必然性はなかったが、それでも親の職業にからむ本が家にあったことはこの年になってこんな風に文章を書くという影響を残している。
“いじめ”について こども社会でいじめの被害の深刻さが大きい問題になっている。著者はいじめを受けている人の述懐を聞いて気付いた事があると言う。そういう人の話には花鳥風月―即ち自然への関心が感じられないという。人間世界にもプラス面とマイナス面がある。都会ではなかなか自然と向き合う機会が少なく、嘗ての時代には自分の世界の二分の一を占めていた自然の世界へ逃げ込めなくなっているのも一因だと指摘する(著者は虫の蒐集がこの上もない趣味である)。
いじめられる人には共通のタイプがあるという。自分の筋でしか物事を見ていない。自己中心的で、相手の反応を見ていない。だから相手をいらいらさせる。自己中心的に行動するということはある意味で相手を無視していることになる。そういう相手にしてみれば、潜在的に自分の方が被害者になる。だから反撃として加害行為に出て、その部分だけを見るといじめになる。こういう流れについて鈍感で自覚のない人がいじめられっ子になるのですと言う。これも一種のバカの壁であろう。よい話だ。こういう心理学の要諦を体得し、それとなく教え子を諭す教師のクラスにはいじめられっ子は少ないだろう。尤もこういうことは教えても容易に分からない子(あるいは成人)が必ずいる。
金の問題 “世の中にお金で買えないものはない”ということばがある。ライブドアの前社長ホリエモンもそう言ったそうだが、これは文明や都市がもたらした錯覚であると著者は断ずる。現に死体は金では買えないという。この人は長年遺体を扱って来ただけに引用例に否定を許さない迫力がある。“金で片づくのならば楽なものだ”ということばなら、自分の苦労に即してその通りだという。学者の場合、往々にして“頭の中がすべてだ”と思ってしまうが、そうはいかない。人間の社会は極端に分業化した結果、そういう偏った人がでてくる。こういうことは人間は何のために生きるのかということと直結している。自分の行為が金になるかならぬかということは一種の偶然に左右されるという。総じて“何々がすべて”という言い方は怪しいと思っていた方がよいと教えてくれている。
システムの問題 このテーマで著者が言いたいことは世の中の多くの複雑なシステムについて、人々は往々にして客観的な前提で科学的な調査をすれば、客観的な真実が明らかになると思っているが、そう簡単にものごとは分からないということらしい。N.H.K.は客観・公正・中立を守っているなどというのは大嘘だと氏が批判したら、N.H.K.の前会長は「養老なにがしをN.H.K.に出すな」と言ったという。先方は何かN.H.K.に怨みがあって悪口を言っていると思っているらしいがそうではない。一般論でいえば“理路整然とした話くらい嘘はない”ということで、その理由は自然や人間社会が理路整然としているはずがないからだという。理路整然とした秩序がどこかに立てられたら、別のところへ無秩序が引っ越している。エントロピーは常に増大しているのが不変の真理だからだーとおっしゃる。ご尤もだし、N.H.K.には私も同様な感想をもっているが、こういうことを度々発言する大学の先生はやはり物議をかもすだろうとも思う。本気でそう思っていたら講義などできなくなる筈だから。
12のテーマでくくった話はそれぞれ面白い。しかし100%共鳴するわけでもないから、それをここで逐一紹介する気はしない。―こういう本を書くのは人前でハダカになるのに近い。つい本音がでてしまうからであるーと著者は書いている。お説ごもっともと全面賛意を表してくれる人ばかりではなく、不穏当な意見だと異議を述べ、東大教授がああいうことを言ってくれては困るという苦情も少なからずあるらしい。そのせいもあって著者は東大をさっぱりと辞めてしまった。年寄りが世間に対してものを言っておくのも意味があるだろうと3冊の“壁”の本を出版した(残る1冊は“死の壁”)が、もうこれで日頃言いたいことは言ったから後は好きな昆虫採集に専念したいそうだ。

<琴欧州> 5月3日“徹子の部屋”に出演した。常時ニコヤカで落ち着いていて、いささかも慌てたり躊躇する様子がない。来日3年半だというのに、あの早口の徹子と五分で渡り合う日本語は淀みがなく、立派なものだ。総じて外国からやってきた相撲取りは皆十両に昇って来る頃にはそれまで全く馴染みのない日本語を何とかモノにしているのに感心している。対照的にサッカーのジーコ監督は試合後毎回テレビのインタビューにポルトガル語で感想を述べているが、誰も通訳しないからサッパリ分からない。年のせいで日本語を憶えられないのだろう。それにしても琴欧州の日本語は立派だ。最近幕内に上がってきた外人力士の中でも卓越している。
琴欧州勝紀(かつのり)。佐渡ケ嶽部屋所属。本名カロヤン・ステファノフ・マハリャノフ。ブルガリア・ヴェリコタルノヴォ出身。1983年2月19日生。レスリング出身で元欧州ジュニアーチャンピオン。身長203cm、体重144kg。初土俵2002年11月。2005年11月場所終了後大関に昇進。端正な顔立ち、性格はマジメで稽古熱心と日本の相撲ファンに好かれる要素を揃えている。得意は右四つ。長い腕で肩越しにまわしを掴まれると横綱朝青龍も敵わない。但しここ一番という場面ではプレッシャーからもろい負け方をすることがある。春場所直前に右膝を、また場所中に右足首を痛めた。親方は大関昇進直後ということもあって一場所休場を勧めたが断然これを拒否し、何とか勝ち越した。この男は感情が直ぐに顔に出る。口惜しい負け方をすると報道陣に口も利かない。ムキになる。だから感情を押し殺した力士より見ていて面白い。大事な一番と意識すると硬くなり動きが悪くなる欠点があるが、人一倍努力してそれを克服しようとしている。
欧州連合は琴欧州に7色の化粧まわしを贈呈した(写真は授与式前に化粧まわしを見る小泉首相と琴欧州 首相官邸にて)。夏場所7日目の土俵入りで披露されるという。ヨーロッパで初めての大関ということで相撲人気が高まるのはまことに結構である。ブルガリアと言えば日本ではヨーグルトぐらいしか知られていない。大関昇進を契機に今度からブルガリア・ヨーグルトのコマーシャルに出演することになったという。日本食で唯一の苦手は納豆。親孝行な琴欧州は親に自動車を買ってあげたそうで、今ではブルガリヤでも毎日大相撲の実況放送が見られるのだそうな。
白鵬と並んでの次の横綱争いは互角と見る。早ければ今年中に実現するかもしれない。注意すべきは本人も再三口にしているが、大怪我をしないことだ。それと誘惑に乗ったり慢心して初心を忘れると期待外れになる。そういうことがないようにと応援している。

<中国歴史教科書> 中国政府は江沢民以来共産党独裁に対する国民の批判をかわす目的もあって事あるたびに日本の教科書を取りあげて歴史歪曲を攻撃する姿勢を強めてきた。これに対して今までは相手の言うに任せ、日本側から相手の姿勢に踏み込む動きはなかった。ここへ来て遂にそれが現れた。“逆検定―中国国定教科書”(祥伝社)。著者は歴史作家の井沢元彦と中国瀋陽生まれの韓国系三世金文学。対象となる教科書は中学校用「中国歴史」全4冊および高校用「世界近代現代史」全2冊で、いずれも人民教育出版社刊。
1992年発行の教科書からは中国の歴史教育が”理想の社会主義を建設するための手段として”行われることを明記している。曰くーわれわれは誰もが、社会主義祖国のために貢献したいという美しい願望を持っています。では、どうすればこの願望を実現することができるでしょうか。それにはまず、自主的にすばらしい思想と品位を身につけ、自分を錬成することです。歴史の学習は、思想、品位の育成に大切な役割を果たすのです。祖国が貧困で立ち後れていたために、たびたび外国による侵略を受けてきた歴史を知ることは、奮起して前進しようとする気持ちを起こさせるばかりでなく、強大で近代的な国家の建設に貢献しようとするわれわれの決意をうながすことでしょう。新中国の誕生以来、日進月歩の速度で発展を続けてきた歴史は、われわれに中国共産党に従って、社会主義の輝かしい道を歩もうとする信念を、確乎としたものにしてくれますー
このような明確な政治目的を掲げている歴史教育は、真実を正しく伝えるのではなく、目的に合致する要素は強調・誇張し、目的に不都合な要素は隠蔽・秘匿するように働くことが明らかである。中国政府は歴史教育を報道と同様に真実を伝える手段としてではなく、現在の共産党による政治支配を支え、国民に反逆や批判を許さずに共産党独裁を賛美・支持させるための方策として用いている。先に述べた教科書は現在地方別に8の教科書出版社で作成されており、国定教科書が1種類しかない韓国とは違うが、いずれも中国政府が作成した“歴史教学大綱”によっており、その拘束力は日本の文部科学省指導要綱の比ではない。従って一部の日本人が主張するような日中で歴史の共通認識を持とうとか、共同研究会を開こうというのは中国政府の意向に鈍感な無知で非現実的な発想ということになる。以下は著書らの指摘に従った事実歪曲の分析を年代順に見てみる。
古代から近代まで 朝鮮半島の歴史が唐代に高麗・百済・新羅の並存を記しているが、唐が新羅と組んで高句麗と百済に侵略しこれを滅ぼしたことを含め、中国が朝鮮半島に侵略的行為を行ったことを一切記していない。また元の時代に朝鮮半島を征服し、日本にまで攻めかかり(元寇)、遠くヨーロッパにまで侵攻した事実や数多い残虐行為を一切記述せず、ただー西方へどんどん発展し、ヨーロッパのドナウ河流域にまで到達しましたーとだけ書いている。また和冦の害には随分触れても、その数倍にも及ぶ自民族による海賊行為を始めとして、明や清がその隆盛期において周辺諸国を大いに侵略した好戦的な過去を侵略行為としては一切記述していない。もちろん清朝以後チベットのダライ・ラマを弾圧・征服し続けたことなど触れるはずもなく、チベットは昔から我が国固有の領土としている。書かれていることは周辺諸国には朝貢外交で恩恵を与え続けたことだけである。
明治以降 高校生用の教科書に明治維新を4ページにわたって記載しているが、―日本は封建制を脱皮し、資本主義の道を進むことにより、徐々に不平等条約を改定、国家主権を取り戻した。経済・軍事の増強によってアジアで最強の軍国主義的国家になり、帝国主義国家として隣国への侵略拡張を始めた。ーとあり、次にー中国征服の第一歩として朝鮮征服を図った。日清戦争の結果、馬関条約で清政府は台湾・遼東半島の割譲を強いられ、日本は中国の植民地化を一歩進めた―として日清戦争を記述するが、この戦争によって日本が朝鮮を中国の支配から解放したことは一切記述していない。またその後起こった中国近代化運動:戊戌の変では有識者が明治維新を手本にしたことについては記載がなく、その後日本への留学者が続出したことは記してもその理由は書いていない。明治維新後福沢諭吉らが西洋文化を吸収するために鋭意西洋の言葉を漢字熟語に翻訳した。この厖大な数の言葉は当時の留学生によって中国へ輸入され、現代の中国人たちもそのまま使っているが、その経緯についても一切説明はない。例えば“革命”も“共産主義”もその種の日本語なのである。
―1905年、日本は日露戦争に勝ったことによって、アメリカの支持を得て、朝鮮を実際的に植民地化した。1905年、ロシア政府はアメリカの斡旋のもとポーツマス条約を結び、朝鮮が日本の勢力範囲にあることを認めた。またロシアは中国から租借していた旅順、大連の租借権ならびに長春から旅順に至る鉄道の建設権などを日本に譲った。また日本は樺太南部と付近の島々を獲得した。日露戦争以降日本は武力をもって朝鮮にさまざまな条約を結ばせ、朝鮮の外交事務を全て監督し、日本の軍隊は朝鮮の地方官吏を指揮する権力をもった。1910年、日本はまたもや朝鮮政府に脅迫的に日韓併合条約を結ばせ、朝鮮全土を飲み込んだ。日本は軍国主義が発展して、中国を中心に大陸政策を進めるため、朝鮮征服を中国征服の第一歩とした。― これが日露戦争の記述である。中国はロシアにやられてばかりで一度も勝ったことがない。ここでもこの時期までのロシアのアジア侵略については非難していない。それに触れるとロシアを抑えた日本を正当化することになるし、日本がロシアに勝ってしまったことを評価しないのは、未だに口惜しい中国のコンプレックスだと著者らは指摘する。
途中を略すが、廬溝橋事変に次いで日本軍の中国侵攻の記述に移る。 ―日本侵略軍は、至る所で殺戮、強姦、略奪を行い、極悪非道の限りを尽くしました。特に南京占領後は南京市民に対して血なまぐさい大虐殺を行い、天に昇る大罪を犯しました。日本軍は南京占領後6週間のうちに徒手空拳の中国人民と武器を捨てた中国兵士を虐殺し、その数は30万人以上に達しました。国民政府は、人民たちが抗日戦争中に戦闘力を増強することを恐れ、民衆たちには参戦させず、国民政府と軍のみで抗日戦にあたるという、一面的な抗日路線をとりました。―
戦争の終結について ―1945年8月、アメリカは日本の広島、長崎に2個の原子爆弾を投下しました。ソ連政府も日本に対する宣戦を布告した後、赤軍を派兵し、中国東北部に駐屯していた日本軍に対して、攻撃を開始しました。それと同時に毛沢東は“日寇との最後の一戦”を指示し、朱徳総司令官も、八路軍、新四軍、およびその他の抗日軍に、日本軍に対して大攻勢をかけ、投降を拒否する敵を殲滅するよう命令を発しました。これにより、抗日戦争は大反撃戦に入りました。日本帝国主義者は、中国人民と世界反ファッシズム勢力から大きな打撃を受け、8月15日に無条件降伏を受け入れました。8年にわたる抗日戦争を経て、中国人民はついに偉大な勝利を手にし、台湾も祖国の懐に戻りました。−とある。著者たちは当時日本が戦っていたのは蒋介石率いる国民党で、これもびびっていてほとんど反撃できなかった。日本が降伏したのは連合国の一員である中華民国、つまり国民党政府に対してであって、共産党が内戦に勝利して政権を奪取したのは1946年以降だから、日本は共産党には降伏していないと指摘する。戦いに勝ったのは米国で、この点に強いコンプレックスのある中国共産党は“我々が勝った”と長々と嘘をつく。
朝鮮半島に関する記述では ―1950年、朝鮮内戦が勃発しました。アメリカ帝国主義者は、いわゆる“国連軍”のリーダーとして、公然と朝鮮半島を侵略しました。彼等は38度線を越え、わが中国の辺境まで侵攻し、我が国の安全を大いに脅かしました。同時にアメリカ帝国主義者は、海軍第7艦隊を中国の台湾海峡に派遣し、人民解放軍の台湾解放を阻止し、我が国の内政に干渉しました。― 当時北朝鮮の金日成がソ連スターリンの支持を得て、韓国を武力で併合せんと突如奇襲攻撃で釜山近くまで侵攻したのが朝鮮動乱の始まりで、米国が国連軍を組織して押し返し、更に中国が参戦して元の38度線を国境に再設定したのは公然たる事実なのだが、朝鮮半島の実質属国化の復元に失敗した憤懣をこういう表現で偽る。
文化大革命についてはー残酷な迫害を受けた幹部・大衆70万人余。連座させられた人1億人―という記述だけで死者の数の表記はない。中国に好意的なメデイア:朝日新聞でさえ2000万人の死者が出たと認めているのに。毛沢東は70%正しかったが、30%は過ちがあった。しかし殆どの罪は四人組にあるとしている。実際には毛沢東の率いる共産党にすべての責任があるのに、共産党は四人組に利用されたのだということになっている。
教科書以外でも江沢民政府は過激な歴史教育を行った。特にそれが激化したのは1994年以降である。反日記念施設として、南京大虐殺記念館には300000という虐殺被害者数とガラス張りの人骨展示で見学者を圧倒する(遺骨の素性は今や全く不明。またここには雰囲気を盛り上げるためにナチスのホロコーストの写真も飾ってある)ほか、瀋陽の“9.18”事変博物館(柳条湖事件を取りあげる巨大なモニュメントがある)、ハルピンの日本軍731部隊罪障陳列館、その他多くの八路軍関連記念館(これらすべてが抗日戦記念に化けている)など中国全土で二十指に余る。欺瞞や誇張満載の諸施設を決して風化しないように子孫に伝える姿勢には、嘗て日中国交回復時に周恩来首相が示した恩讐を超えた友好の気配は消え失せている。南京の30万人と並んで“日本との戦争で3500万人が殺された”という数字がある。日本の研究者がこれらの数字に異議を申し入れたところ、中国の友好協会からは“数字は政策決定なので変更は絶対に不可能です”という返事が返ってきた。中国にとって歴史とは人民を統治するための一つのカードに過ぎない。真実の追究などは問題にもならない。著者たちは「こんな教科書で教えている国に、日本がとやかく言われる筋合いはない」と言っているが、尤もだと思う。
今般ドイツとフランスが長い闘争の過去を越えて歴史の共有を図ることで合意し、両者の折り合わぬ点は両論併記の形で1冊の書物にまとめたと伝えられる。中国は日本の歴史認識を事あるごとに非難しているが、前記の如き中国側の実情や焦りにも似たあがきを前にしては、共有の歴史書編纂などは望むべきもない夢であることを悟らされる。

<光合成> 地球上の炭酸ガス濃度が人類の生存活動の活発化のために地球温暖化をもたらし、南極などの氷の溶け出しによる海水面の上昇や竜巻など各種異常気象を誘発して人類社会に有害な影響を強めることが懸念され、総合的な温暖化対策が求められていることは常識になった。放送大学の講座の中に植物の光合成の仕組みについて詳しく説明する番組があり、全く知らぬ世界だっただけに特に興味を覚えた。それは容易には理解出来ないほどの複雑な仕組みであって、太陽光や水などの与えられた環境を巧みに利用するさまは自然の摂理の玄妙さに感嘆させられる。
地球の誕生後、動物類ましてや人類が出現する前の遙かな昔、地球上に各種の植物が生まれて上図に示すように炭酸ガスばかりだった大気の中に営々と酸素を生み出してきた。植物の太陽エネルギー利用は光合成作用によってこの炭酸ガス固定・酸素の産出のみならず、澱粉などの豊富な資源を生み出して自らの生育・繁栄に役立てるだけでなく、後に生まれてきた動物たちにその生存のための糧を与えることになった。酸素と食糧なしには動物は自活できないのに比し、植物は太陽と水と空気(炭酸ガス)さえあれば自活できるのだから、偉大である。自ら動き回る能力がないから、愚かな人類に伐採されてしまえば抵抗はできないが、人類の懸念する温暖化は植物にとっては何の障りもない。むしろ必要な二酸化炭素が大気中に増えることは歓迎すべきことでさえある。長大な年月をかけて整えてやった環境を自ら壊そうとする人類を、自滅しようというのかと憐れんでいるのかもしれない。
光合成というのは植物が太陽光と水を利用して太陽光のエネルギーを資源に変える仕組みであって、植物は他の助けを借りずに自力でそれを行う。緑色植物の光合成は葉緑体で行われる。葉緑体にはチラコイドという組織があり、その膜内で太陽光を利用した明反応(チラコイド反応)と膜の外のストロマ(葉緑体基質)で明反応で得た物質を用い光を利用しない暗反応(発見者の名を取ってカルビンーベンソン反応とも言う)とが行われる。
明反応ではクロロフィルが光エネルギーを使って水を分解し、陽子+酸素分子+電子を作り、この電子によってNADPH(脱水素に関する補酵素)ができ、更にチラコイド膜内外の陽子(プロトン)の濃度勾配を利用してアデノシン三リン酸(ATP)が作られる。詳しく説明すると、集光色素が光を収集し色素分子を励起する。光化学系反応中心に電子伝達が行われ、電荷分離反応が起こる。酸化還元反応が誘起され、還元物質を生ずる。電子伝達の結果、葉緑体基質からチラコイド内腔に陽子が移動し、陽子濃度勾配を生ずる。ATP合成酵素がATPを造成する。明反応はチラコイド膜上の4種類のタンパク質複合体によって実行される。
暗反応では二酸化炭素の存在下でチラコイド反応で得られたNADPHとATPを酸化および加水分解してブドウ糖が作られる。これは10以上の酵素から成る複雑な回路で、二酸化炭素の固定を行い、葉緑素内にデンプン粒を蓄積する。また中間代謝物であるジヒドロキシアセトリン酸は葉緑素外部に移送される。
明反応と暗反応の収支式をまとめると、
6CO2 + 12H2O → C6H12O6 + 6H2O + 6O2
この式は好気式呼吸の収支式の逆反応である。植物は常に呼吸をも行っており、暗い時でも大気中から酸素を吸収して二酸化炭素を放出する。しかし全体としては明るい時に行われる光合成による酸素放出・二酸化炭素消費の方がずっと優勢である。それがこの化学式に象徴されている。即ち光合成とは光エネルギーを利用して炭酸ガスと水をブドウ糖と酸素に変える化学変化であることが示されている。
以上講義とWikipediaの受け売りだが、何の事やら詳しい事情は実感としては理解できない。もっとマクロな話として光の強さが一定なら、二酸化炭素濃度が高いほど光合成は盛んになる。しかし二酸化炭素濃度が一定値以上になると、それ以上濃度を高くしても光合成は盛んにならない。葉緑体の集光色素には太陽光の異なる波長の光に対応する多くの種類があるが、緑色だけは少ないのでこの色は吸収せず、植物の葉は概ね緑色に見える。人間は万物の霊長などと威張っていても、ハラが減ったらイクサもできぬ人間は自活できる植物サマのお陰で生かされていることを忘れないように。

<古代日本の歴史> 古代日本は西の中国と朝鮮から渡来した中華文明の洗礼を受けた。それは決して盲目的な受容ではなかったが、6世紀から9世紀の400年はそのような異文明をどのように我が国に取り込んで消化するかという先祖たちの苦闘の時節であった。今回の教材は“律令制の虚実”(村井康彦・講談社学術文庫)で、舞台は極東文化の終着駅・我が国の近畿地方である。
538年当時、三輪山の麓、金刺宮(奈良県桜井市金屋)にあったみやこに百済の使者がやってきて、仏像・経典などを献上した。この当時宮殿は天皇の代ごとに作られたが、規模はごく小さかった。天皇を取り巻く人々は崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏と中臣氏)とに分かれた。三輪山そのものをご神体とあがめる国つ神への信仰があったのだから当然でもある。仏教の伝来を受け入れた渡来氏族である蘇我氏はその後法興寺(飛鳥寺)を建てる。592年推古女帝はみやこを飛鳥の地に移す。聖徳太子は607年小野妹子を遣隋使として派遣する。また太子は飛鳥を起点として、難波に達する東西の横大路と北へ向かう上ツ道・中ツ道・下ツ道という三本の平行道路を造成した。これは我が国初の官道である。隋の煬帝は殺害されて618年李淵が唐を建国した。聖徳太子はその4年後の622年に没した。
遣唐使たちの比類なき集権国家での見聞は新鮮な驚きと共に帰朝後の日本に伝えられた。中臣鎌足と中大兄皇子は謀って蘇我入鹿とその一族を倒した。改新派の守旧派へのクーデターであった。唐・新羅連合軍によって百済は滅亡した。百済の要請によって出撃した日本は白村江の戦いで大敗し、多数の百済遺民を船で連れ帰った。3000人を越える百済人が近江に移り住んだ。一方でみやこの度重なる移転が始まった。飛鳥板蓋宮から難波豊碕宮へ、再び飛鳥板蓋宮、飛鳥岡本宮、近江の大津宮と転々とする。壬申の乱に勝利を収めた大海人皇子は天武天皇として即位した。飛鳥浄御原宮を営んだが、その没後持統女帝が皇位を継承、天武天皇の遺志を継いで我が国初の条坊制を採用した藤原京の造営を開始した(690)。中央部北寄りには一辺920mの宮城域を設け、中ツ道と下ツ道を東西の京極としてその中を東西各四坊に区切り、上辺を横大路、下辺を山田寺前道を利用して南北に十二条を区切った(上図は藤原京の模式図)。小さいながら唐の都を真似たのである。併せて大宝律令の制定・施行が行われた。これを藤原京時代(694-710)と呼ぶ。
このようにしてようやく本格的なみやこを築いたばかりだというのに人々は再び遷都を論じ始める。平城遷都=造都事業である。708年元明女帝は“京師は百官の府であり、万人の帰するところである。自分の本意ではないが、衆議が望むので遷都を実行する”と詔勅を発した。この世論形成の演出者は急速に台頭してきた藤原不比等であった。“この世をばわが世とぞ思う”と後世に詠った藤原家栄華の階段を駆け上がろうとしていた。遷都が実行されると、それに伴って新しい体制=貴族官人社会が編成され、それが律令制の具体的な実現形態になることを不比等は熟知しており、それを実現させた。
私はこの本で奈良盆地の地理的な状勢の概要を知った。盆地の南端に近く飛鳥と藤原京があり、藤原京から真北に約20km距てた盆地の北端に平城京が設営された。両者の間は聖徳太子が布設した等間隔の三本の道路が結んでいる(但し上ツ道は二つの都から東へ外れている)。東西約4.3km、南北約4.8kmの新都市は中央の朱雀大路を下ツ道に、中ツ道を東京極に、その間隔2.1kmをそのまま西へ折り返して西京極を設定した。平城京は藤原京に比して東西の巾で正確に2倍、南北で約1.5倍、即ち3倍へと拡大された。但し日ならずして2条から5条までは東へ3坊分の出っ張りができた。地形的な平坦さが東へ続いていたためで、興福寺、東大寺、春日神社がこの方面に建てられた。
さかのぼって698年不比等は藤原姓を受けて中臣氏と分離、氏族の伝統である神祇官の役割を中臣氏に残して自由になり、蘇我氏の衣鉢を継ぐように仏教界に深く関与するようになった(廃仏から崇仏への変身)。これによって進行しつつあった律令官司制の二本柱―太政官と神祇官に藤原氏と中臣氏をそれぞれ対応することができた。一方で大伴氏は中臣氏と同様に天皇に近侍護衛することを任とし誇りとしてきたが、佐伯氏などと共に時代の変化についていけず、没落の道を辿る。因みにかの“海ゆかばみずく屍、山ゆかば草むす屍、おおきみの幣にこそ死なめ、のどには死なじ”というのは大伴氏の歌であった。
奈良時代とは710年の平城遷都から784年長岡京へ都が移されるまでの75年間をいう。この時代の特徴は女帝の相次ぐ登場と皇親勢力の後退・藤原家の台頭・天皇権力の弱体化である。女帝に立てられたのは先帝の皇后であるが、即位にあたり所生の皇子の皇位継承を認めないのが女帝の条件であった。一方で推古女帝には聖徳太子が、皇極には子の中大兄皇子が政治を代行した。740年に藤原広嗣の乱で山城みかの原の恭仁京に5年間一時的に遷都した。この間聖武天皇は恭仁京の造作が続いているのに近江に紫香樂宮を営んだり、難波京を整備したり、みやこはどこがよいか世論調査をした。市人はほとんどすべて恭仁京を望んだが、藤原氏を中心に難波京に傾き、一旦は難波遷都の詔勅まで出した。何人が難波に移ったかは定かでない。その後平城還都を匂わせつつ再度世論調査をし、その結果をふまえて天皇以下の官人は平城に戻った。何故こう腰が落ち着かなかったのか、理解に苦しむ。遣唐使は630年から834年までに不慮の事故による中止を除き16回派遣された。難波宮の整備に関心が持たれたのもここが門戸だったからである。
784年長岡遷都によって遂に天皇は奈良盆地に訣別した。一説には大河川に隣接していなかった不便のためとも言われる。造都の中心人物であった藤原種継が暗殺され、793年また葛野郡に遷都が決まった。遷都後3日経ってこのみやこを平安京と呼ぶことになった。当時蝦夷経略の軍事と都市造営の工事が重なり、民衆の負担が増大したので桓武天皇は造都工事の中止を発表した。これは世の乱れを抑えるためのスタンドプレイであり、次代の平城天皇は先帝の建てたこのみやこを去ったり新宮を建てて民百姓を苦しめる気はないと宣言した。しかしその次代の嵯峨天皇に譲位した後、嵯峨天皇と対立して貴族官人に平城還都を命じた。事実上皇は少なからぬ官人とともに平城京に戻ってしまったが、上皇側が敗れたために平安京は安定した。従って嵯峨天皇の時代になって平安京が都として定まった。この辺りの事情を後世の鴨長明は正確に知っていて、“方丈記”に記した。嵯峨天皇の時代、隋・唐の首都は長安で、洛陽はその東にある陪都だった。唐風文化に深く傾斜したみやこの人々はこれを平安の左右両京の呼称に借用し、左京を洛陽城、右京を長安城と呼んだ。後に右京は低湿地が多くさびれたのに比し、左京は発展したので、後に平安京は“上洛”・“洛中洛外図”などと長安ではなく洛陽の名で呼ばれるようになった。しかし京都の名で呼ばれるまでには年月を要した。この時代の我が国の人々の素直な中国への憧憬の感情は現代人とは隔絶している。
但し古代国家として我が国は中国王朝の諸制度、中でもその根幹をなす科挙の制、ならびに宦官の制を受け入れなかった。これは中国皇帝の独裁を支える権力基盤であったが、日本は等質性を指向せず、習合的・選択的な外国文化の受容を図った。日本では古い氏姓制度が根強く残り、門地に関わらず人材を登用する律令制度の建前は無視され、官・職は特定の氏・家に固定され、家業となった。また日本の天皇制は宦官という体制を必要としなかった。日本が自らの体質に合うもののみを採り入れたのは当然だろう。菅原道真が遣唐使を中止したのは一時的な都合によるものであり、その時期(894年)にはもう日本に中国との交流の必要が薄れてきたという認識があったという説は誤りであると著者は力説している。

<義足登山> 凄い人のニュースを紹介させてもらう。―20年以上前に雪山で遭難し、両足のひざから下を切断したニュージーランドの登山家マーク・イングリスさん(47)が、義足をつけて世界最高峰のチョモランマ(エベレスト、8848メートル)の登頂に成功した。2006年5月15日夜、ニュージーランドで待つ妻の元に連絡があった。両足を失った人がチョモランマ登頂に成功したのは初めて。両足義足で初のエベレスト登頂に成功したニュージーランドの登山家マーク・イングリスさん。 ニュージーランドからの報道によると、15日、頂上から約450メートルの地点に構えた第4キャンプをパートナーとともに早朝に出発。妻の元へは同日夜、第4キャンプに戻った2人から「登頂に成功した。意気盛んだ」と電話が入ったという。登山途中、6400メートルの地点で義足の片方が折れるトラブルがあったが、修理をして登頂を目指していた。
山岳救助・ガイドとして働いていたイングリスさんは82年11月、ニュージーランド最高峰のクック山を登山中に雪嵐に見舞われ、氷の洞穴に2週間閉じこめられた際に凍傷にかかり、両足を失った。―
片脚ではなく、両脚の義足である。日常生活でさえ楽ではないだろうに、登山、しかもエベレスト! 話を聞いただけで絶句してしまう。無論複数の人たちの介助があっただろうが、最後は自分だけが頼りだ。昔からの登山家だったというから、心肺機能や体力、それに高度順化能力は抜群なのだろう。それにしても腕力を頼りに最高峰を制するとは、やる気になれば人に出来ないことはないという事実と、この成果の蔭の日常の節制と鍛錬の努力に衷心からの敬意を表する。まだ麓まで無事下山したというニュースは確認していない。高山からの下山の困難も健常者より格段に大きいだろうから、それを聞くまでは安心できない。

<アリストテレス> 紀元前384年から322年までギリシャに生きた人である。ラファエロの描いた“アテネの学校”というフレスコ画には、大広間に多くの学者たちが蝟集する中で中央にプラトンとアリストテレスが並び立っており、二人の哲学者がそれぞれ万学の祖として古典ギリシャの知性の中心であることを示している。プラトンはアリストテレスの師であったが、彼は師の所説を少なからず反論・否定した。この絵は1502年に作られたものだが、西暦紀元後ローマ皇帝アウグステイヌスがキリスト教を容認した後に、暗黒時代が訪れてアリストテレスらの業績は西欧社会から忘れ去られ、イスラム世界でのみその研究が続けられるという事態に陥っていた。13世紀に至ってようやくこれに気付いた西欧が改めてアラビア語から、更にはギリシャ語原典からアリストテレスの研究に取り組み、直接これを受容するに至った。暗黒の中世がルネッサンスによって開かれていき、科学の進展が天文学をはじめとして次第にアリストテレスの知見を無用のものと化していったが、その通過過程には明らかに彼の業績の基礎があったし、彼が形而上学において詳述した術語や思想がなければ近世哲学の発展も順調には進まなかったことを万人が認めている。論理学も同様であった。彼の仕事は広範囲の学問において20世紀に至るも有用な踏み台になり続けた。日本には幕末から明治維新にかけて、西周によってアリストテレスに代表される西洋哲学が日本思想界へ移入された。
万学の祖として称えられるアリストテレスの著作は大別すると次の六つの部類に分けられる。
@論理学、修辞学
A自然学(総論としての自然学、天体論、生命哲学としての心理学)
B動物学
C形而上学(自然学の後に学ばるべきとする第一哲学)
D倫理学、政治学
E芸術論、美学
○論理学 彼は独創的な論理学体系を打ち立て、その著作は形式論理学に関しては現代でも最高の書物と評される。彼が生み出した術語(概念)の著名なものにはカテゴリー(範疇)、主語と述語、三段論法、実体、帰納と演繹などがある。彼はカテゴリーとして様々な術語の文法的な整理を試みた。カントは“純粋理性批判”で三段論法に触れ、“論理学はアリストテレス以来一歩も進歩していない”と断言した。またアリストテレスはプラトンの思想を発展させて、物事の原因を四つ挙げ、事物の材料、原型、起点、目的とした。論理学の分野の著作として“範疇論”・“解釈論”・“分析論”・“トピカ”がある。
○自然学 自然学は自然的存在者の運動変化についての原理的研究である。今日の分類に従えば、天文学・気象学・力学・物理学・化学・生物学などの自然科学と自然哲学の総合とみればよい。個々の対象の原理・原因・構成要素を知悉することを主眼とする。自然を扱うのに当たって彼は運動・場所・時間を論じた。天文学は当時天動説だったが、別人が既に精緻な計算に基づく日食の予測もしていた。自然学の一部とも見なされる動物学については、自然現象のこの部分の組織的研究としては世界最古のものであり、その成果は分類学・生理学・生態学・更に胎生学において古典的典型としての価値がある。動物学の自然観察に関して訓練された多数の助手を組織した総合研究が著作に盛られている。“霊魂論”は自然学の一部として人間を扱うもので、心理学である。
○形而上学 原語のmetaphysicaとは自然学(physica)の後(meta)に論ずべきものという意味で、そもそもは学問のジャンルでは編集上の秩序を指定するものだった。彼はこの分野を第一哲学と呼び、その形而上学の冒頭で“すべての人間は生まれつき知ることを欲する”とし、人間は経験を通じて普遍的な判断を求めるとして、普遍化を学問の根本志向においた。知識論・存在論・神学を展開する。知識論(普遍学とも呼ぶ)ではプラトンの永遠不滅のイデアを否定し、知識は感覚<記憶<経験<技術<学問というように段階的に純化されると説く。存在論では実体を形相と質料として捉え、述語化によって認識すると言う。その一つの原理は矛盾律と呼ばれるもので、“あるものが、同時にそして同じ点で、存在しかつ存在しないことはありえない”とする。神学では七段階にわたって発展させて神の存在証明を行う。彼はその対象は離れて存在する上に不動であると述べている。もちろんそれは神的存在を指す。
後年、根源的に形而上学的と考えられなかった問題が、次々に形而上学に加えられてきた。何世紀にも渡って形而上学的と考えられていた他の分野としては宗教哲学、心の哲学、知覚の哲学、言語哲学、科学哲学などがある。
私たちの若い頃にはこの形而上学的という語が屡々用いられた。私にとってそれは当面縁のない世界、ウサンくさいものの総称のように感じられた。最近はあまり見受けなくなった。ところで、この形而上学という語をこれまで私は“けいしじょうがく”と誤って読んでおり、この際その定義を確認しようとしてして、電子辞書にも出ていない、パソコンの仮名・漢字変換も利かない、もう死語になったなどと書いて友人に注意された。そこで“けいじじょうがく”と読むことを知り、思いこみは恐ろしいと不明を恥じ入りつつ改めて訂正します。
○倫理学 アリストテレスの著書には“ニコマコス倫理学”、“エウデモス倫理学”、“大倫理学”というものがある。これらのすべてがアリストテレスの著作ではないという説もある。それには行為の目的、幸福の追求について論じているものの他に、危機が迫った時の勇敢さ(勇敢の徳)やポリスのための戦死も多々論じられている。これらは一般論というよりはマケドニアやエーゲ海をめぐる当時のギリシャの政治状勢と大いに関係がある。死への恐怖と覚悟は倫理学の大きな主題であった。なお最初の“ニコマコス倫理学”は現今単に倫理学といえばこの書物を指すほど、西洋倫理学史上重要な著書である。
我々現代人はこの人の恩恵に大いに預かっていることは間違いないことであるし、目覚しい発展を遂げつつある天文学においてもその歴史をアリストテレスより説き起こすのが常態なのだから、科学全般における貢献も大したものであるわけなのだが、私にとっては我々の住む日本と隔絶したギリシャに、ローマ帝国以前の時代に生きたこの人には形而上学の項で記したマイナス・イメージがつきまとって、今ひとつ敬愛する気にならない。この記事に引用させてもらった“アリストテレス”(今道友信・講談社学術文庫)を読んで改心しようと思ったが、理屈では肯定したものの、気分としては納得していないので未だそれを果たせていない。形而上学の読み違えをしているぐらいだから、罪は私にあるはずだ。この人の論説ぐらい知らないうちに間接的に多大な影響を受けた人はないらしい。

<高松塚古墳> 国宝の極彩色壁画にカビやバクテリアが繁殖するなど、危機にひんしている高松塚古墳(奈良県明日香村)では、墳丘が銀色の断熱シートに覆われ、冷却水を通す鋼製パイプが幾重にもからみつく痛々しい姿になっている。現在、石室内の温度は18・3度で、来年3月末に10度まで下げる予定だ。2007年1月以降には、石室を解体して壁画を取り出す最後の「大手術」が待っているという。
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県明日香村に存在する古墳。直径23m(下 段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年(昭和47年)3月21日、奈良県立橿原考古学研究所の網干善教氏らを中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによる発掘調査が行われた際に鮮やかに彩色された壁画が発見されたことで知られる。古墳は1972年6月17日特別史跡に、また極彩色壁画は国宝に指定されている。古墳の年代は平成17年の発掘調査により、藤原京期(694年〜710年)の間だと確定された(今月の話題<古代日本の歴史>参照)。被葬者は左大臣石上朝臣麻呂(いそのかみあそんまろ)と推定されている。“続日本紀”によれば 717年3月3日没(享年77)。死後元正天皇から臣下として最高の位である従一位を贈られている。587年蘇我氏に滅ぼされた物部氏の後裔である。
石室・壁画 玄武石室は、平面の内寸は103.5cm×265.5cmで、高さが113.4cmある。壁画は、北壁の中央には玄武が、南壁に朱雀のはずだが鎌倉時代の盗掘にあい上の方に大きな穴が開けられている。東壁の中央に青龍が、その上の方に太陽、そして、左側に女子群像が、右側には男子群像が描かれている。また西壁の中央に白虎が、その上の方に月が、そして、右側に女子群像が、左側には男子群像が描かれている。 人物群像の持ち物が“貞観儀式”にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。天井には天体図や星宿が描かれており、極めて精度の高いものであって、中国の唐の壁画墓の影響が見られるという。


<脳のはたらき> 今月の冒頭に取りあげた養老孟司先生は言いたいことを三冊の“壁”の本に書いたからもう気が済んだなどと書いているから、他にはないのかと思ったらさにあらず、以前に“唯脳論”をはじめとして何冊もの著書を世に出している。ここでは“カミとヒトの解剖学”(ちくま学芸文庫)の中から共鳴できる部分だけを抽出する。著者は人が死んだ後にその心が残存することについての生きている人たちの思いについて、随分あれこれと書いている。解剖学者として数多くの死体に接し、脳の死とともに心が消滅することを十分に承知しながら、人類が永らく宗教にこだわってきたことをも容認して多面的に論じているのである。この辺については多くが私にとって冗言に感じられ、読み流す以上の価値を覚えない。
人間の具えている五感が脳の中に占めている位置とその関係の深さについての論述は専門家としての見解があって興味深い。目(視覚)と耳(聴覚)のいずれが脳の根源的な部分と関係が深いかという議論である。脳の中心位置付近に松果体という器官があり(図の赤い部位)、この器官はサカナからトリまで、即ち哺乳類以外の脊椎動物では、すべて光受容細胞を持ち、それが神経細胞を介して脳と連絡している。カエルでは松果体は前頭器官と呼ばれ、頭の皮膚を通して外界の明暗を感じている。哺乳類においてのみ、松果体の光受容細胞と脳細胞を結んでいた神経細胞は退化消失し、松果体は完全な内分泌器官に変化した。従って “陶酔”に関連するような生に対してより根源的な部分を松果体が受け持っていたのに、哺乳類では視覚系においてその機能が失われた結果、耳(聴覚)だけにその根源的な部分が残存することになった。宗教において音楽や読経やアザーンの声音が人の心に直接訴えるのはそのためであろうと著者は言いたい。
著者は三島由紀夫を“目の作家”と言い、宮沢賢治を“耳の作家”と言う。三島は“仮面の告白”の中で自分が生まれたばかりで産湯を使わされた盥の中の水面のゆらぎを描写している。しかしそれに伴った筈の水音は記憶にない。“金閣寺”では主人公は金閣寺の幻(影像)に悩まされる。著者は三島を“根源的な生を視覚に依存した”特異な人物として、動物的な生とはある意味で縁が切れている欠陥のある人物で、こういう人は屡々悲劇的な生を送るーと評している。一方で宮沢賢治は“どっどど どどうど どどうど どどう”、また“北風ぴいぴい、かんこかんこ 西風どうどう、どっこどっこ”の風の又三郎の詩に代表されるように日本でも珍しい耳の作家である。彼の作品における特徴的な擬音、擬声語の使用、また音声上の感覚とつながる“グスコーブドリ”などの異国風の人名は彼の童話を特徴づける。平易な言葉で書かれた耳の物語は深い印象を与え、宗教性と結びつく。耳から得られるものは目から得られるものより下等で、より動物的である。それゆえに下位の中枢に視覚よりは強く直接的に連係する。
宗教は視覚に比しより多く聴覚に依存するというのは養老氏のユニークな主張だが、解剖学の立場から人間の本質を突いた真理かも知れない。イスラム教の偶像禁止の教義はこれと関連があることが推測される。脳の構造と機能がもう少し解明されると、著者がまだ歯切れ良く言い切れないでいる生命と心の問題がより分かりやすく説明できるようになることも期待される。