6月の話題


2006年6月

<藤沢モト>   囲碁棋士藤沢秀行夫人が破天荒な夫と過ごした50年の手記を著書にして発行した。“勝負師の妻”(角川oneテーマ21)である。私は囲碁ファンとして藤沢秀行を結構知っているつもりでいたが、妻の立場から見た秀行を克明に知らされて唖然となった。併せて男には欠けている女性の強さというものをつくづくと実感させられた。この人がいなかったら、皆に愛された棋士藤沢秀行の活躍は決してなかっただろうし、若くして破滅の道を辿ったことは間違いない。天才と言われる人につきものの人間的な欠陥を極端なほどに有していた5歳年上の秀行を常時は必要最小限の匡導で、また緊急時には有無を言わせぬ強制で、かつまた男まさりの感情の自制で50年間支えきった彼女の人生に感嘆するとともに、要点をキチンと抑えた彼女の文章表現力に衷心から満足した。

 彼女は雪国の新潟の農家の長女に生まれ、祖父と祖母が早く死に、父は軍人、母は労働のできない弱い身体だったので、幼いときから台所仕事と農作業を一人でやった。農繁期には近所から手伝いを頼んだが、学校も休み勝ちになるような状況で彼女は毎日の仕事をやり遂げていた。負けん気は強く、どんな時でも諦めず自分で解決する習慣がついた。彼女は雪の中で諦めることは死を意味すると書いている。父は終戦の2年前に病気で除隊になって帰宅したが静養の日が続き、相変わらず一人でやるしかなかった。仕事と学校の合間を縫って近所に洋裁と編み物を習いに行った。縁談は多く来たが農家の嫁の口で、もう農業は懲り懲りだと思っていた。戦後信濃川堤防の決壊で田が半減したのを機に東京の叔母の家に出て家事手伝いをした。叔母と夢のような気楽な日々を送る内に近くの高輪の日本棋院の藤沢秀行に見染められ、やがて結婚を申し込まれる。碁は暇人の道楽と思っていた母は猛反対するが、叔母がかばってくれ、彼女は藤沢の碁に対する一途な姿勢と“苦労しても農家の生活より楽だろう”という思惑から母に反抗する気になった。叔母は“この娘を泣かせるようなことがあったら承知しないよ”と言い、藤沢は“そういうことは絶対にありません。それはもう大事にします”と宣言したが、今から思えばそれは大嘘でした。そんな約束は結婚後数ヶ月しかもたなかったのですからーと彼女は書いている。

 気分転換に始めた賭け事が次第にエスカレート、“寝ても覚めても頭の中は碁でいっぱい、これを消すにはギャンブルしかない”と特に競輪にのめりこむ。その内に政治家の囲碁ファンから“男は酒くらい飲めなければダメだ”と勧められるようになり、クラブやバーにも出入りするようになる。“私は囲碁のために必要なことだろうと一切口をはさみませんでした”とある。収入が少ない上に外で使ってしまうので生活費は不足しっぱなしで、米と野菜を常に実家から送ってもらい、衣類は質に入れた。長男が生まれてしばらくして藤沢は家を空けるようになり、一人ならず女性ができた。暮らしが逼迫していることは分かっていた筈で、棋院で前借りしたりするのだが、現金が懐に入るとつい競輪場に行き、やっている内にカッカして使い果たしてしまう。もう質に入れるものもなくなり、布団屋の下請けの裁縫仕事をするようになった。たまたま帰宅してそれを見つけると、“俺への面当てのつもりか”と破こうとするのでさっさと片付けなければいけない。家長としての自尊心が傷つけられる繊細な人でもあったと言う。几帳面に仕上げないと気が済まない性格のお陰で彼女の仕立物は評判がよかった。三男が生まれた頃には家をあけることが多く、いつ子供が生まれたのかも知らない状況だった。その頃家にまた空き巣が入ったがもう取られるようなめぼしい物はなかった。普段はあまり帰宅しない藤沢は対局前には家に帰ってきた。神経がピリピリしているので、子供が泣くとおぶって何時間も外を歩いたりした。彼女は身体は丈夫だったが、この頃しつこい胃痛に悩まされ、病院通いをしてモルヒネを常用するようになる。

 秀行は家庭は顧みなかったが碁の若手を育てるのには熱心で、自宅で勉強会を度々開いた。謝礼は受け取らないし、内弟子も置かなかった。曜日によって来るメンバーも異なり、集まったら何日でも夜明かしするグループもあった。いちいち構っていられないが、ご飯にコロッケを沢山作ると皆おいしいと食べました。碁の合間に台所に来てつまみ食いする人もいました。藤沢は突然誰かを連れてきて、“大丈夫だ、うちの母ちゃんは魔法使いだから”と言っていました。お金はありませんでしたが、食べることに困ることはありませんでしたーと。

 彼女は内職で稼いだ金で華道のお稽古に通い、10年ほどで人に教える免許を得た。秀行は彼女が独力でやるのが面白くなく、随分邪魔や意地悪をした。競輪はいよいよ泥沼にはまり、持ち金を使い果たすだけではなく、高利貸しに手を出すようになった。貸す方は有名な人だからとりっぱぐれはないと群がってきたらしい。彼女は諫めて止める人ではないので、堕ちるだけ堕ちるしかないと抛っておきましたーと言う。昭和35年日本棋院渉外担当理事として名人戦契約を新たに読売新聞と結んだ直後に、名人リーグ戦のタイトルが棚ぼた式に秀行に転がり込んだ。彼は最終局に敗れ自分で諦めて飲みに行き正体なく酔っぱらっていた。しかし当時高額だった300万円の賞金も対局料も全く自宅には入れなかった。彼女に言わせると本格的な借金はこれを契機に始まったという。

 毎晩新宿・銀座・赤坂と飲み歩き、毎晩大トラになって帰ってくる。帰宅時間が分からないので玄関に鍵をかけたりすると、慌てて起き出しても間に合わず、“この野郎”と怒鳴りながら玄関のガラス戸を破り、ついでに革靴を履いたまま家中のガラスを割って歩く。手は血だらけ。バスタオルを巻き付け、紐で縛って布団の中に押し倒し、翌日いつもお世話になっている近所の医者に連れていく。地方へ出かけても留置場に留められる。家中のものを壊した狼藉が続いてもう我慢できなくなり、知り合いの料亭に住み込みで働かせてもらう話をつけて、荷物をそっとまとめていると、帰宅した秀行は動物的勘が働くのかじっと家にいる。何日も競輪にも飲みにも行かない。家にいれば用事もあり、つい家を出る機会を逃してしまう。

 誰か無責任な人の甘言に乗って会社を始める。皆を呼び集めてお山の大将になり、“常務にしてやる”、“儲けさせてやる”などと言う。大言壮語だけで具体的な計画はない。段取りも踏まなければ収支の計算もない。増えるのは借金ばかり。借金取りや税務署が次々とやってきた。相手はすべて彼女がした。命まで取られるわけではないと開き直った。“人の家に入るのに靴ぐらい脱いでください”と言ってやる。藤沢は朝から酒を飲んでいて、もうアルコール中毒と言ってよい状態だった。遂に家が競売に付せられた。借金総額は億の単位になっていたと思う。遂に阿佐ヶ谷の家を出る。45歳の夏。 方南町に小さい家を借りて親子三人で住む。次男は少し前から父に反発して親戚へ行ったまま。秀行も立ち寄らない。生け花教室を開き、平和な三年間を過ごす。秀行は江古田の愛人の家に入り浸りで二人こどもが生まれ、“あちらを籍に入れたいと思う”と言ってきたので“どうぞそうして下さい”と答える。人生をやり直すつもりで京都の池坊学院に通うことにする。3日京都で4日東京の教室という往復生活。厳しい草創期の学院で負けん気を出して懸命に勉強、実力をつけた。一度だけ秀行が酔ってやってきて長男の悪口を言うので三男と取っ組み合いの喧嘩になり、近所の人が110番通報する騒ぎになる。下の二人は親代わりをしてくれた長男を敬い、彼が号令を掛けるとどんなに都合が悪くてもキチンと集まる。兄弟の結束の堅さは私の自慢ですーと言う。

 いつまでも借家住まいでいられないので長男の名義で読売ランドに家を建てる。借金取り対策でもあった。間もなく江古田から迎えにきてくれと連絡があり、行ってみると完全なアルコール中毒になっていた。江古田では手に負えないので引き取る。折から棋聖戦があり、対局中は本人も必死の思いで酒を抜き、禁断症状と闘いながら昭和57年まで六連覇した。大事な対局の前には家に来て、それが終わるとふらふらとどこかへ行って酒浸りになるという生活に逆戻りした。いつの間にか愛人たちにも愛想を尽かされ、出かけて行った日に追い返されてくるようにもなった。

 昭和58年、7連覇がかかる棋聖戦で7番勝負を先に3連勝した後、挑戦者の趙治勲に4連敗してタイトルを失った。“碁盤が見えなくなって、打とうと思っていたところと見当違いのところに打ってしまった”と言った。対局中の集中度は極端なほどで、食事ものどを通らない。間をおかず強い酒を飲まされた筈の中国から帰ってくると大量に喀血して倒れた。血の色を見て厭な予感がしたが、入院検査するとガンが発見された。“手術なんかするか”と頑張るから、“あなたはガンです!”とハッキリ告げた。病院では有名な人と知り、高名な長老の先生に執刀して貰う話になりかかったが、彼女は“偉い先生でなくていいから、とにかく腕のいい方にお願いします”と頼んだ。後に胃のレントゲン写真を見た別の医者が“すばらしい!こんなきれいな手術、誰がしたんだ”というほどだった。手術後医師の言うことを聞かずわがままを尽くすので、早々に病院から追い出される。家に人を呼んでは来客にかこつけて飲もうとするので、見舞客をすべて断った。食生活には気を遣い野菜を中心に栄養のバランスを取った。還暦の祝いの時には皆に強く請われて出席し、希望を聞かれてお玄猪という花器を頂戴した。棋聖戦5連覇を果たし名誉棋聖の就位式の時は“母ちゃんも来なくてはダメだ”と皆に言われ、会場の三越に着くと大竹さんが“やあ、母ちゃん来たか、よかった、よかった”と言い、しばらくすると三越の包みを抱えて戻ってきて“母ちゃんへのプレゼント”と言って手渡してくれた。ハンドバッグだった。藤沢は“お前は皆に好かれていいねえ”と小さくつぶやいた。

 昭和62年顎に悪性リンパ腫が見つかり、緊急措置が必要だが骨を削るとアゴが支えられなくなり、社会復帰は難しくなると言われる。即ち寝たきりになることを覚悟しろという。父の時もそうだが彼女は一人の医師の言うことを無条件には信じず別の方策も考える。別の病院へ相談に行き、コバルト照射をすることになる。口の中が火傷の状態になり相当辛かった筈で死んだ方がマシだと病院行きを嫌がった。無理矢理連れて行き、待合室では逃げないように抑え付けていた。歯茎がやられて歯がボロボロと抜け落ちた。結局すべての副作用が収まるのに2年を要した。酒を飲んだら口の中が火を噴くほど痛く、懲りたらしい。唯一の捌け口として競輪に行っていた。遂にガン細胞の根絶を果たした。

 健康を回復した平成3年王座のタイトルを獲得すると、66歳という高年齢とガンからの復活とで世間から驚かれた。平成10年突然何の相談もなしに棋院に引退届けを提出してきた。飛行機の中で気圧の関係もあって耳鳴りがひどくなって決めたようだ。耳にチューブを入れたら治ったので早まったと少し口惜しがった。畏まった席が嫌いで、紫綬褒章を頂いた時も“なんで俺が天皇陛下のところへ行かなければいけないのだ”と、紋付きを用意したのに代理の人に取りにいってもらった。柳田泰雲の指導を受けて書を始める。細々とした準備は全て彼女がやり、当人は広げた紙に書くだけ。墨が垂れたり不都合なことはすべて彼女が悪いことになり、怒鳴る。大抵はできが悪いのだが、時々びっくりするような字が書けることがあると言う。大分売れたので儲けたように思われる方もいるようだが、裏打ち、表装に出費がかさみ、持ち出しだと言う。

 以前から中国、韓国へ出向いては若手を育てた。儲ける気は全くなく、彼等も真剣に励んだ。今では皆がさまざまな形でお礼返しをしてくれる。秀行は若い人の棋譜を見て“分からないなあ、教えてくれよ”などと電話で訊く。謙虚なのである。棋院を脱退したのは免許制度に対する不満からだった。“日本棋院の免状は高すぎる。だから私が免状を出すことにした。免状は秀行塾塾頭の名で発行し、審査は棋譜を送ってもらって判断する”と発表し、これに対して日本棋院からは“日本棋院を除名する。九段位も剥奪する”と発表した。棋院はさんざん世話になっておきながら何だということで、秀行に関わりあってはいけないということにしたらしいが、秀行は気にしている素振りは一切ない。しかし免状制度は採算割れになり、相変わらず商売のできないことを露呈した。

 彼女はこれから好きなお花をやって生きていけると考えていたのだが、秀行が引退して基本的に家にいるようになると、彼女の週に一度のお稽古も面白くない風だった。平成9年には総華督という最高位をもらい、ますますお花が楽しくなっていたのだが、また酒を飲んであばれでもして人様に迷惑をかけてはいけないと思い切って止めることにした。息子たちも花だけは続ければよいのにと言ってくれるのに残念だと書いている。
 大の電話魔だから、いつも自分の傍に電話を置いていて、彼女に電話がかかってくると“下らない話ばかりしやがって”と聞こえよがしに文句を言う。伝言も取り次がないことが屡々。彼女への電話には自分が蚊帳の外に置かれたようで疎外感を覚えるらしい。

 二年ほど前からトイレが近くなり、病院で前立腺の検査をした。医者は“かなり進行した前立腺ガンの疑いが強いのですが、ガン細胞が見つからないのです”と言う。他の病院でも結果は同じだった。本人は“おれはガンだ。ガンの末期だ。あと2年で死ぬ” と言っている。死ということをよく考えているらしい秀行は自分で戒名を考えた。“無明居士”と言う。齢を重ねても自分は何も分からぬままだから、それを自分の戒名にすると言う。“おまえのもいいのを考えてやるからな”と言い、やがて“紫雲徳徳大姉”と書いた紙を見せた。紫雲は仏が雲に乗って死者を迎えに来る瑞兆で、徳を二つ重ねたのは非常に徳の高い人だという。今まで何一つ買ってもらったことがない藤沢モトさんだが、この贈り物は気に入ったようだ。最近“お前なんか、平凡な奴と一緒になっても一日ともたなかったと思うよ。俺で幸せだっただろ”と言う。彼女はこの人のお陰で退屈することのない人生だったことは確かだと記している。彼女の実家の母は90歳で逝ったが、死ぬ前に“あの娘は、誰が結婚してもつとまらないであろう人と一緒になって、ずっと添い遂げた。すごいことだ。それを見届けたから、私はもういつ死んでもいい” と語ったという。

<若い世代> 学校を卒業したばかりの初々しい新入社員が4月1日に一斉に入社式を迎え、人生の新たなスタートを切る。こういう嘗て見慣れた、また年寄りたちにとっては懐かしい年中行事の一つが日本社会の構造変化によって今や消滅しかかっているーというレポートが出た。“新卒ゼロ社会”(岩間夏樹・角川oneテーマ22)の記事を紹介する。

 この40年間に日本の社会像は一変してしまった。調査を開始した1969年は高度成長の真っ直中。経済成長率は年率10%以上。“モーレツ社員”などという言葉が生まれ、企業サラリーマンの黄金時代が到来しつつあった。その後2度にわたるオイルショックをはさんでバブル景気の時代とその後の長い平成不況の時代。平成不況はサラリーマンの意識を決定していた終身雇用制にとどめを刺した。

 成長期の企業はいずれも急速に業績を伸ばし、頼もしかった。昔、血縁・地縁を頼っていた日本人はそれを捨て去って、高度成長期のライフスタイルを生んだ。瞬く間に戦前の経済水準を追い越し、世界一級の豊かさが実現した。バブル崩壊後、その有難い恩恵は雲散霧消し、リストラと業績主義が新しいスローガンになり、職場が提供するサポート体制は甚だ心細くなった。一流大企業の破綻は珍しくなくなり、敏捷な若い世代は企業に過大な期待を抱かず、どこでも通用する人材になることを目標にするようになった。

 従来の日本的雇用慣行とは、企業が新規学卒者を一括採用し、長期雇用を前提として、雇用者が若年の時には賃金を上回る貢献をしながら、企業内訓練による人的資本形成を行い、中高年期になって蓄積された資本への対価として貢献を上回る賃金を支払うことにより、企業固有の技術をもつ熟練労働者を長期に確保する仕組みである(平成10年版厚生白書)。俗に終身雇用と呼ばれるこのシステムの要点は入社年次に対応するヨコナラビの公平感を保つことでモラルを保持することであって、途中で勤務先を変更することは不利な待遇を意味し、なおかつ永らく勤め上げることへのご褒美である退職金によって更にそれは強調される。

 また、このシステムの前提となる学校経由の就職とは学校と企業との継続的な組織間連携に基づいて、学校が個々の学生・生徒を企業に斡旋・紹介・推薦し、その結果学生・生徒は学校卒業と同時に企業に正規のメンバーとして参入する現象を指す。これは公開の労働市場における自由競争では決してない。企業と学校が長期にわたる談合を重ねた上で生まれたシステムで、特に高校の場合、公式には認められていない就職担当の教員は学業成績、本人の希望や適性、日常の素行や家庭の事情まで考慮して企業側の求人枠と適合させる名人芸的な調整能力を発揮してきた。しかしこのような就職担当教員の気の遠くなるほどの努力は高度成長期には安定した成果とそれに対応する評価があって報われたが、平成不況に伴う求人の減少によって多くの調整不調やミスマッチを招くことになり、正規雇用されない若者即ちフリーターの増加に繋がった。この学校経由の就職システムが日本の若年失業率をつい最近まで他外国に比して著しく低く保つのに寄与してきたが、それが今や破綻に瀕している。

 従来職場は労働を提供する場であるだけではなく、地域という言葉に対比して職域と呼んだように、生活共同体としての意味合いがあり、所得税や健康保険や厚生年金は職域を通して従業員の意識に特に上がらぬままに処理されてきた。近年I.T.企業が既存の会社を買収しようとして“会社は誰のものか”と言った場合、日本の大企業は社員の生活共同体の色彩が強いので、簡単には割りきれない意味合いが残る。しかし企業が“御恩−奉公”などと悠長なことを言っていられなくなり、若者たちも長くひとつところにいるのは息苦しいという感受性を浮上させた。こういう新しい関係を前提に働き始めたのが団塊ジュニア世代である。

 今や就職の手段はインターネットである。就職活動にインターネットの企業ホームページを利用したのは四年生大学生に限れば93.5%にのぼるようになった。誰が新卒で誰が途中入社かは重要ではなくなり、あなたは何ができるかだけに関心が持たれるようになるだろう。どこで学んだかより、何を学んだかが問われ、職業歴は重要なファクターになるだろう。学校を卒業してどこかへ就職さえしてしまえば、定年まで安泰という時代は去った。

 この著書の上に掲げた論調を読んでの感慨はライブドアで活躍していた当時の30歳を過ぎて間もないホリエモンが“自分が今のように活躍できる時間はあと10年もない”と語っていた姿と重なる。不法行為を問われるか否かは別の問題だが、若い内は働きに見合う報酬を受けなくとも、中高年にその見返りを期待できる時代は去っていったーある意味では合理化され、その日その日を甘えずに生きれば先のことは別として働きに応じた報酬は得られる時代になったということだ。生きていく上での厳しさが増し、少子化―人口の減少の時代を迎えることに若者を責めるわけにはいかないが。

<村上ファンド> 東京地検は6月4日村上世彰(46)をインサイダー取引の疑いで逮捕した。村上ファンドが買い占めた著名な株式の株価は急落した。これだけ世間を騒がせた男について“話題”で取りあげないわけにはいかなくなった。東京地検は堀江貴文に次いで最近世間の目の集まりがちな六本木ヒルズに本拠を構えてマネーゲームを操っていた新興勢力の親玉を三畳一間の留置所に放り込んで、毎日黙々と額に汗を流して働いている多数の無名の国民のために正義の味方を演じた。

 村上世彰は中国人とインド人の混血の台湾出身の華僑を父にもち、大阪道頓堀界隈に生まれる。灘中学・灘高校を経て東大法学部を卒業して通産省に入省、近未来小説“滅びゆく日本”を執筆したが、上司が反対したため出版には至らなかった。 1999年、ルールを作る立場からプレイヤーになりたいと経産省を退官してM&Aコンサルテイングを設立し、日本企業への投資を開始した。東京スタイルや日本放送の株式購入で村上ファンドはその名を知られるようになり、村上は株主地位向上策を提案して“物言う株主”として世間から着目されるようになった。ライブドアと共にニッポン放送の敵対的買収を行い、株価の異常高騰を煽った後で高値で売り抜けた。大阪では阪神電気鉄道株式の買い占めを行い、経営権を握ることを示唆して阪急ホールデイングスに高値での買い取りを迫り、阪神ファンの憤激を買った。彼と村上ファンドの近年の動態は堀江貴文とライブドアの関係と本質的に相違しない。

 村上はニッポン放送や阪神電鉄の株の秘かな買い占めによって急速に経営が脅かされることへの経営者たちの異議に対して、その都度“それが厭なら株式を上場しなければよい”と言い放った。彼は度々日本ではもっと株主の権利を高めなければいけないと主張したが、一方において長期的な株主に甘んじることはなく、利さやがかせげる見通しが立てばさっさと売り抜けて経営者としての見識を示すことなどはなかった。こういう行為は株式市場に寄りつく投機者の心理を利用した金儲け以外の何者でもない事実を露呈して世間の顰蹙を買った。

 村上世彰は本年5月に投資ファンドの本拠地をシンガポールに移すとともに、シンガポール最大の繁華街近くに約12億円で650平方メートルの高級マンションを購入した。この行為は阪神の星野S.D.の全面的な敵対発言に代表されるように急激に高まった日本国内世論の敵意や、金融審議会が大量株式保有に関してその保有状況の報告を従来の3ヶ月から2週間に縮めるなどの行政の警戒意図を感じて日本には住みにくいと逃避するはらを固めたことを意味する。しかし主要な投機対象を日本企業に限るのであれば、これは軽薄な判断だったことは本人の逮捕劇とそれに伴う株式市場の反応によって明らかになった。逮捕される当日に彼が急遽行った記者会見は私などその道の素人が見ても“余計なことを言わなければよいのに”と思わせるもので、“(インサイダー情報を)ウッカリ聞いてしまったのだから有罪と言われても止むを得ない”という秀才にありがちな自負的な演技と見たが、果たして日を置かず地検から“被疑者は決して受け身な立場などではなく、ライブドアを犯罪に引き込む積極的な役割を演じていたのだ”という反論声明を招いてしまった。

 インサイダー取引とは、会社の内部者情報に接する立場にある会社役員等が、その特別な立場を利用して会社の重要な内部情報を知り、その情報が公表される前にこの会社の株式等を売買することを言い、このような取引が行われると、一般の投資家との不公平が生じ、証券市場の公正性・健全性が損なわれるおそれがあるため、証券取引法において規制されているのだと解説されている。資本主義社会でその有利な立場を利用して甘い汁を独占する輩を抑えるこのルールは若干不自然な気もするが、人間社会の不平等を極力抑えようとする人の知恵なのだろう。それにしてもマスコミに屡々登場する自信に満ちた顔は常に“俺のような賢い男がこの世界で不法行為など犯す筈がない”という強い自負に満ちて見えたが、その張本人がマスコミの前で“プロ中のプロである私としたことが”と言いながら自らの犯罪を自認するとは。頭のよい人間は大バカ者にもなるというのが人の世の真理らしい。

<アンドレイ・サハロフ> 多くの日本人にあまり知られていない20世紀に生きたソ連の偉人について紹介したい。我々日本人は主にソ連が築いた鉄のカーテンのせいで、また部分的にはソ連の核の脅威に対する盲目的な反感と、アインシュタイン以後の高度に発達した物理学の難解さ故の理解不足と、ソ連体制を遂に崩壊に至らせた良心的な人々の死にものぐるいの人権闘争に関する情報不足のために、この物理・宇宙科学者としては稀有の天才、実業面では卓越した大プロジェクトの推進者、国際政治の面では核実験停止を実現させた功労者でノーベル平和賞の受賞者、その後は共産主義体制に逆らった勇気ある人権擁護活動家になったアンドレイ・サハロフ氏(1921-1989)の多面的な業績について殆ど知ることがなかったのはとても残念なことである。水素爆弾開発に携わって“ソ連水爆の父” と呼ばれ、人権、市民的自由、そしてソ連の改革を主張して“ペレストロイカの父” とも呼ばれた。以下の記事は“サハロフ回想録”(上下・中公文庫)からの抜粋である。

 1921年5月21日モスクワに生まれ、1942年にモスクワ大学を卒業する。独ソ戦のため、一時トルクメン共和国、ウリヤノフスクに移るが、1945年モスクワに戻り、FIAN(ソ連科学アカデミー物理学研究所)の理論部門で宇宙線の研究に着手し、1947年物理学博士号を授与される。1948年からイーゴリ・クルチャトフの下で原子爆弾開発に従事する。1949年8月29日、ソ連最初の原爆を完成する。次いで水爆開発に従事し、1953年8月12日水爆開発に成功する。この功績によりサハロフは、32歳の若さでソ連科学アカデミーの正会員となり、社会主義労働英雄の称号を得たが、核実験による放射能汚染を目の当たりにし、特に大気汚染を懸念し、核実験の中止をソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフに進言し、結果的に1963年の部分的核実験禁止条約締結に尽力した。また、同時期に物理学の分野では、宇宙論に関する論文を発表し始める。

 1960年代後半から民主化を求めて社会的発言を公表するようになり、1968年“進歩、平和共存、知的自由に関する考察”を発表する。同考察は、同年西側で公刊されたため、サハロフは、軍事機密に関係する研究から遠ざけられ、科学アカデミー物理学研究所に配置換えされた。1970年代から人権擁護活動に挺身、1970年モスクワ人権委員会の創設者の一人に名を連ねる。1972年には、エレーナ・ボンネルと結婚する。1975年ソ連での活動を評価されてノーベル平和賞を受賞する。しかし、ソ連国内では、受賞に対して批判の対象となり、批判キャンペーンが党の主導で起こされた。 1980年ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議したため、1月22日当局に連行され、ブレジネフ最高会議幹部会議長命令によって一切の栄誉を剥奪され、ゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)市に流刑された。流刑の身となったサハロフは、KGBの様々な脅迫に屈せず人権擁護活動を継続し、義理の息子の婚約者の出国を要求して1984年エレーナ・ボンネル夫人とともにハンガーストライキによる抵抗を続けた。 1986年ミハイル・ゴルバチョフによって流刑が解除され、モスクワに戻る。以後、ペレストロイカの進展を支持し、ソ連人民代議員大会が創設されると1989年科学アカデミーから人民代議員に選出される。人民代議員大会では、急進改革派に属し、アフガニスタン侵攻を批判するなど良心と勇気に基づく発言は人々の尊敬を集め、“ペレストロイカの父”と称された。1989年12月14日心臓麻痺のため急死した。前日、夫人に最後に語った言葉は「明日は戦いだ」。サハロフは、モスクワ市内のワガンコフスコエ墓地に埋葬された。1988年欧州議会は、サハロフを記念し、「サハロフ賞」を創設し、言論及び思想の自由の擁護に尽くした人々や組織に賞を贈っている。
 ―以上が経歴の概要だが、特筆すべき点を中心にもう少し詳しく述べたいー

 少年時代スターリンの圧政下にあったソ連に育ってサハロフは社会主義制度の矛盾と親族たちを含めて民衆の受けた多くの悲劇を見聞して育った。父は物理学の教師をしており、バランス感覚を重視するその信条からは強い影響を受けた。父の体制批判はハッキリとは口に出さぬものの、常にそれを感じていた。多面的な読書と家庭教師による個人教授といった優れた教育環境で、高校を優等で卒業しモスクワ大学物理学部に無試験で入学した。ドイツとの戦争が始まったが、慢性的な心臓疾患のために軍隊入りは拒まれた。軍需工場に勤務し、徹甲用鋼製弾芯の焼き入れ検査装置を開発、それは長く実用に供され、彼は賞金を得た。また徹甲弾の弾芯に屡々生ずる縦の亀裂を発見する磁気検査装置を開発した。45年8月広島へ米軍が原爆を投下したニュースを聞き、崇敬していた科学の世界に恐ろしい産物が入ってきたと感じた。一時原爆の製造方法に興味をもったが、じきに忘れてしまった。

 彼はモスクワ大学に戻りタム教授の下で大学院生として理論物理学を専攻することになる。先生はパウリの相対性理論と量子力学の本を渡してくれ、英語を勉強するように言われた。彼は長くタム先生に仕えることになる。先生の下のゼミは参加者に新着の論文の要約発表を義務づけていて、これは有用だった。既にクラーワと結婚していたが、住宅・食糧事情は厳しかった。修士論文が通り、科学アカデミー研究所(FIAN)の下級研究員に任命される。

 1948年政府と党中央委員会の決定でタム先生と共に水爆製造の可能性を研究する特別研究グループに参加することになる。ソ連は1946年までのロスアラモスで行われた水爆製造に関する情報をスパイにより入手していた。彼はこれこそ国家に必要な仕事と確信し、戦争で国民が払った大きい犠牲をムダにしないためにも情熱をもってこのプロジェクトに参入した。それはまさに戦争心理だった。同時に原子爆発と熱核爆発の物理学は“理論物理学の天国”であったーとサハロフは述べている。先生の特別グループの任務は当初からの計画の責任者だったゼリドビッチとそのチームが行った計算を分析し、必要ならばそれを訂正し、熱核兵器の製造計画全体について独自の結論を出すことだった。2ヶ月後に彼はゼリドビッチの考えと全く異なる水爆装置の対案を提出、更に二度にわたる改良が加えられて、彼が最終的に提案した第3案に基づくプロジェクトの主開発者となった。ゼリドビッチの提案を受けたベリヤ長官の指示で彼は“施設”に引き抜かれ、その後の20年間彼は先生とともに秘密都市“施設”で働くことになった。上級研究員の辞令が出た。予定された水爆実験に先立ち、スターリンが死去し、彼の下で恐るべき粛清の総責任者だったベリヤは党中央委員会の名で処刑された。実験に伴う放射性降下物による汚染がはるかに広範囲に拡がることが分かり数万人の住民を避難させるために2ヶ月ほど遅れた最初の水爆実験は1953年8月12日に行われ、成功した。サハロフは開発の最大の功労者とされ、物理・数学博士の学位を受け、10月の選挙で2階級特進でアカデミーの正会員に選ばれた。満場一致で正会員に選ばれたケースは過去になかった。タム先生と彼は社会主義労働英雄の称号を授与された。

 その後I.C.B.M.に載せるべき核弾頭をはじめとして、各種運搬手段のために重量と爆発力の異なる多数の水爆が“施設”で次々に開発された。そのために多数の実験が必要になった。その中で彼は最初に核実験の現場に立ち会った時からその生物学的影響を日ごとに心配するようになった。折からD.N.A.の構造とその複製と転写のメカニズムが明らかになり、放射線には被曝線量の閾値または許容最低線量というものは存在しないことが明らかになった。彼は水爆(原爆)による放射線被害に関する論文を発表し、“核爆発の結果、中性子が大気中の窒素原子核に作用して炭素14が生まれる。この半減期は5000年で、それによる人の平均寿命の減少を考えると、1メガトンの核爆発の犠牲者数は約1万人という計算になる。57年までに既に世界中で50メガトンの核爆発が実施されたので、それだけで犠牲者数は50万人に匹敵する。もうこれ以上核実験を行ってはならない”と主張し、米国が開発したと報じられた放射性降下物を出さないいわゆる“きれいな”水爆の効果を否定した。この論文は首相に就任したフルシチョフがすべての核実験を一方的に中止することを宣言してから数ヶ月後の1958年に発表された。だが7ヶ月後に核実験は再開された。米英が大規模な核実験を開始したからである。フルシチョフは科学者を招いた会議の席上で、サハロフの反対を斥け“政治のことは我々に任せてもらいたい”と言った。その後倦むことのない説得と度重なる折衝の結果、1963年米ソは遂に大気圏・大気圏外および水中の核実験禁止条約を締結した。

 1964年フルシチョフは中央委員会によって解任され、サハロフがソ連遺伝学を迫害したと非難していたがフルシチョフが庇護していたルイセンコとその支持者たちも敗北した。水爆開発から離れたサハロフはゼリドビッチに続いて宇宙論と天体物理学に取り組んだ。彼はいくつかの独創的な論文を発表してこの分野でも超一流の科学者であることを証明した。曰く“宇宙の膨張の初期段階と物質分布の不均質性の発生”、“宇宙におけるバリオン非対称性の存在”、“ゼロ・ラグランジアン理論”、“クオークの構造と強い相互作用をもつ粒子の質量”などだが、難解である。

 1965年以降彼は次第にソ連支配層との決裂に向かい、反体制派に転身していった。彼は弾道弾仰撃ミサイル(A.B.M.)網構想に反対し、それは無効な努力であることを力説した。彼は米国の専門家も同意見だった筈とし、1972年のA.B.M.制限条約への道を開いたと言う。1966年彼は“スターリンの名誉回復に反対する集団書簡”に署名し、ソ連共産党がスターリンを復権しようとする動きに反対した。1967年バイカル湖環境破壊に反対する運動に参加した。1968年に“進歩・平和共存・知的自由に関する考察”という著書を出版して社会主義・資本主義両制度の和解を唱えた。K.G.B.は影響の拡大を防ぐために“対サハロフ作戦”を開始したと伝えられたが、彼はひるまず、モスクワに出て原稿を西側マスコミの記者に手渡した。ニューヨーク・タイムスに紹介され、彼のエッセーは68〜69年に世界中で1800万部以上が出版される大ベストセラーになった。1969年妻のクラーワが胃癌で死んだ。

 1970年クレムリン指導者(ブレジネフ・)コスイギン・ポドゴルヌイ)宛の手紙で民主主義と知的自由の導入を訴えることにしてトウルチン・ジブリクの三人で協力して作成し、著名でリベラルな人々の署名を求めた。ソルジェニーツインが署名した。政治犯裁判支援活動で精力的な女性活動家リューシャと知り合う。同じく1970年人権委員会を有志で発足させた。この発足をブレジネフに手紙で説明し、人権委員会は政治目的での不当で残虐な特別精神病院の利用や精神医学の乱用を糾弾した。また体制に反抗的な教会を弾圧する当局に対して信教の自由は委員会の重要な仕事になった。1971年彼は“居住国選択の自由”に関する声明を最高会議に送った。もちろん回答はなかった。1972年リューシャと再婚する。やがて彼の家族になったリューシャの子供たちの学園追放をはかる当局のいやがらせが始まる。1973年マリャロフ検事総長代理の召喚を受け、外国報道機関との会見は国家機密の秘匿義務違反と見なすと脅迫される。彼は直ちに記者会見を開き、自分の行動を変える気がないことと、ソ連は閉鎖的な社会で危険な国家だから西側はソ連の軍事的優位を許してはならず、ソ連社会をもっと開かれたものにすることで、デタントは国際安全保障を促進できると述べた。西側メデイアは詳しくこれを報じ、当局は国内の至る所で“反サハロフキャンペーン”を開始した。彼は外国人記者団に新聞キャンペーンへの反論声明を伝え、特に精神医学の政治的悪用に注目するように求めた。これはソ連内外に強力な反響を呼んだ。1974年ソルジェニーツインは“収容所群島”を出版してソ連の陰鬱・凄惨な迫害の実態を糾弾した。サハロフは彼との数多い諍いを切り離して彼を攻撃や訴追から守るべきとする声明を発表した。しかし彼は逮捕され、国外追放になった。1975年“我が国と世界”を執筆、リューシャがフィレンツエでその出版を発表した。それに次ぐ形でノーベル平和賞受賞が決まった。ソ連の公式反応はノーベル委員会の決定に対する苛立ちと悪意と挑発に満ちていた。授賞のためのビザ申請は拒否され、リューシャが眼の治療のため出国したので、オスロでの代理授賞を依頼した。この頃身近な友人知人への迫害が急増した。

 1979年ソ連はアフガニスタンに軍隊を派遣した。K.G.B.特遣隊はハフィスラ・アミン大統領を射殺し、この処刑の目撃者全員を射殺した。アミンはアフガニスタンの独立を意図し、ソ連はこれが容認できなかった。折からモスクワ・オリンピックが迫っており、サハロフは“ソ連がアフガンから軍隊を引き揚げることが世界にとって緊要である。ソ連がそうしないなら、オリンピック委員会は戦争を行っている国での開催を拒否すべきだ”との声明を発表した。ソ連最高会議幹部会は“サハロフから社会主義労働英雄の称号とすべての国家賞を剥奪することを決定した。サハロフは外国人との接触が不可能な場所、ゴーリキー市に移す”と発表した。彼とリューシャは12階建てのビルのアパートの一角を提供され、ごく限られた人のほかは接触を禁じられた。窓から見るとどの角にも24時間私服が立っていた。訪問を試みた者数名は数ヶ月精神病院に閉じ込められたという。外出にはいつもK.G.B.の尾行が付き,市外通話を申し込むといつでも“受話器が壊れている”と通告があった。短波ラジオの外国放送は雑音が入るようになっていた。少し留守をすると侵入者があり、重要な書類、書きかけの原稿が盗まれた。彼は回想録を書いていたが、そのために何度も書き直さなければならなかった。リューシャはほぼ6週間に一度列車でモスクワに行き、彼の声明・アピール・回想録の外部発表をし、帰りには食糧補給品を山と持ち帰った。骨身の凍る冬も息の詰まる夏も長い汽車旅行を欠かさなかった。

 家族に対する嫌がらせの一環として、リューシャの息子アレクセイの婚約者リーザのビザ申請が拒否され、二人は4年も会えなくなった。夫妻は遂に抗議のためにハンガーストライキを始めた。このニュースは世界に報じられ、2週間後夫妻は病院に強制入院させられた。強制給食に全力で抵抗する中で断食が17日に達した時に遂にビザがおりた。その後彼は軽度の心臓麻痺を起こしたが、日ならずして退院させられた。暫く後でリューシャも心臓麻痺を起こし、回復に2週間を要した。リューシャを保護する名目でアパートの外側に警官の詰め所ができ、外部からの訪問者は断られ、電話も使えなくなった。また周囲の住民がリューシャに明らかな敵意を示すようになった。“サハロフに悪質の影響を与えている”という宣伝がなされていた。85年7月彼はゴルバチョフ書記長に手紙を書き、実情を報告して累を妻その他の第3者に拡げるべきでないと訴えた。リューシャはモスクワで心臓手術を受けることができるようになった。1986年2月 ゴルバチョフ宛て良心の囚人の釈放を呼びかける手紙を書いた。10月再び手紙を書き、裁判抜きで不法に追放された。今まで法を破ったことはないし、機密を洩らしたこともなかったと述べた。自分の国家への奉仕として部分的核実験禁止モスクワ条約への貢献を挙げ、私の孤立と妻の追放にあなたが終止符を打ってくれるように望んでいますと書いた。12月電気工がアパートに入って電話を付けた。翌日ゴルバチョフから直接電話があり、“あなたの手紙を受け取りました。モスクワに帰ってよろしい。最高会議幹部令は取り消されます。エレーナ・ボンネル(リューシャの正式名)も一緒に帰れます。マルチューク(科学アカデミー総裁)がそちらへ会いに行きます。愛国的な仕事に戻ってください”と言った。

 アンドレイ・サハロフは名誉回復を得た後、モスクワに戻って回想録の原稿を書き終え、リューシャの手にゆだねた後1989年12月14日に死去した。ソ連の崩壊をサハロフ独りがもたらしたなどという気は決してないが、彼のソ連社会に対する絶えざる勇気ある働きかけはこの国の針路に重大な転機を与えた。回顧録の中で追放解除直前に彼はチェルノブイリの事故の報道を聞き、情報不足のために軽率な論評をしたことを悔いているが、後に彼はこのような事故の防止法として原子炉を地下に建設することを強く推奨していることはぜひ参考にすべきだ。また彼は先述の如く65年に弾道弾仰撃ミサイルは無駄な投資であることを明言している。効果的なA.B.M.防衛は不可能であり、その防御システムを無効にする手段は常に発見され得るというのが白熱した議論の末に到達した結論で、これは今日なお有効であるーと念を押している。21世紀に至ってなお米国と日本の防衛庁が本気でこのために巨大な投資をしているのは実に愚かなことだ。
 死の直前にやっと自由になった身でリューシャと共に日本を訪れ、異国の文化を楽しんださまは同じ天才物理学者として半世紀以上前のアインシュタインの訪日を思い出させる。

<仏教と中国> 中国はインドから伝来した仏教を素直に受容したのでは決してなかった。かの堀江貴文が留置所で取り寄せて読んだという“史記”は司馬遷が著したが、それには仏教伝来以前の中国のさまが記されている。老子は国立図書館の司書のような仕事をしていた。ある時孔子が老子を訪ねて礼について問答を仕掛けた。老子は孔子をののしり、追い返してしまう。その後老子は乞われて上下二篇、五千字の書を残した。孔子の儒教と老子の教えの対立は数千年に及ぶ中国社会の根本構造をめぐる見解の相違から生じた。儒教はステート即ち国家に理想的社会形態を認めたのに対して、老子教の方はコミュニテイ即ち村落自治体の方に理想的社会形態を認めた。周の初期の封建制度が崩れて周始に定められた千七百の国家の数は三分の一に減り、夥しい失業インテリが発生した。同じ失業インテリでも積極的に政治に参加しようとした孔子は周の復活・大統一文化国家の実現を目指したのに対して、老子は周代の繁文縟礼的な国家制度の欠陥を経験し、文化のない自然のままの村落自治体こそ理想であるとした。老子の思想においては、村落自治体の上に乗る政治組織は民衆の生活に干渉せず、無為のままに放任する政府である。無為というのは無能力ではなく、何もかも心得た上で何もしないのである。

 老子は“自然に帰れ”と説き、人為的なものを排除する。人為の筆頭に挙げられるものが知識であり、知識によって誘発される欲望である。但し説くところは禁欲ではなく、知足安分という自然な無欲を勧める。それは“無”の哲学であり、宇宙の根本原理である“道”に通ずる。対比すべき儒家が唱えるのが人倫道徳の道であり人為の道であるのに対して、自然の道であった。

 老子にならぶ道家の代表として荘子がいた。史記は荘子についても論じている。老子と荘子の先後関係はよく分からない。荘子の中心思想は“万物斉同”であり、知識を否定し自然の世界ではあらゆる対立差別は消滅するとする。善悪美醜を区別しない無限者の立場に身をおき、自然を強めて必然に同化し、運命の同義語として生死を受け入れる。これは中国民族の天命観に通じ、後に導入される仏教の禅宗と浄土教に繋がっていく。道家すなわち老荘は神の存在を信ぜず、祭祀や祈祷とは無縁であって、本質的に哲学であり宗教ではなかったが、道家は道教に理論的根拠を提供し、後に外来の仏教が変じて中国に土着する素地を提供した意味で着目すべきである。老荘思想は西暦前三、四世紀に生まれ、道教は西暦三、四世紀に原型が成立したので、その成立にはかなりの年代差がある。

 西域の仏教が中国に伝えられたのは前漢末から後漢初へかけての西暦紀元前後とされるが、その後300年余にわたり中国の知識人はこれを受容し信仰していない。この時期の仏教は浮屠と呼ばれたが、それを支えたのは殆どが西域から中国に移住してきた帰化人のみであった。その理由は一に漢代の知識人が概ね宗教に対して無関心であったこと、二に中華意識による夷\への差別感であった。当時の中国人にとって夷\の文物制度を取り入れることさえ容易ではないのに、まして夷\であるインド人の神を崇拝の対象にすることなど極めて考えにくいことだった。
 その仏教が四世紀初めの東晋に入ると、爆発的な勢いで社会の上下に拡がった。果然先述の障害が除かれたのである。杜牧の“江南の春”という詩は次のようにそのさまを表した。
 千里鴬啼緑映紅 水村山郭酒旗風 南朝四百八十寺 多少樓臺烟雨中
 一には後漢末から魏晋にかけては政治的混迷から儒教精神が衰退し、政治より宗教・芸術への関心が高まった、二には永嘉の乱の発生によって夷\部族が以後の四百年にわたって中国の北半を占拠支配する未曾有の事態となり、夷\が武力だけでなくその精神や教養も侮りがたいことを思い知らされた。夷\の支配下におかれた北朝ではそれまで“漢”は漢人を意味したのが、“くだらぬ男”の意味に転化し、今でも痴漢・兇漢・酔漢などという語として残っている。支配者になった五胡十六国の君主や官人は後代の元・金など塞外から直接内地に侵入した野性のままの夷\ではなく、数百年にわたって中国文化に同化しきった帰化人であった。乱後の中国人は華夷の別を論じなくなった。三に漢代以来の中国人は儒教によっては満たされない要求、人生を如何に幸福にできるかを追求するようになった。幸福を道徳に従属させた“朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり”などと愚直なことは言っていられなくなった。

 仏教は一に霊魂不滅の思想であり、二に人生は前世・現世・来世と三世に継続すること、三に三世にわたる善根は涅槃の境地に入り仏になる福果で報いられるという救いの宗教と受け取られた。この輪廻・三世応報説は初学入門の理論に過ぎないし、インド人にとっては “折角死んでもまた苦しい人生を繰り返さなければならぬ” 輪廻転生説が恐怖の対象であったのに比し、中国人は“一度死んでもまた生きられる”福音として受け取った。輪廻説を仏教の中心義とするのは誤解であり、本来の仏教の目的はこの輪廻からの解脱にある筈である。しかし六朝の知識人は儒教の幸福論に満足できず、その欠陥を補うために三世応報説を必要としたのである。司馬遷は顔回が善業を積みながら不幸の生涯を終えたことを嘆いていたが、顔回の現世における不幸は記憶しないだろうが彼の前世の悪業の報いであり、来世には必ず福果で報いられるに違いないと道徳と幸福が合致することに人々は納得した。

 人々が仏教に魅せられた今ひとつの理由は大乗仏教の根本義である“一切空”が六朝人に馴染み深い老荘の“無”と共通点をもつところから、無を通じて空を理解しようとするもので、いわゆる格義仏教となった。
 401年に長安に入った鳩摩羅什は“大品般若経”をはじめ“空”の理解に役立つ三論など大部の経典を訳出し、中国人の仏教理解に画期的な進展をもたらした。僧肇は羅什に師事して特に般若学では独自の空義を立てるに至った。在来老子に比して荘子の理解者は少なかったが、僧肇は荘子の万物斉同の理をよく理解して般若の空義と通じた。

 更には涅槃経典における仏性論は孟子の性善説と対応し、いずれも最高原理が人間に内在する点で相通ずるものがあった。六朝末から隋・唐時代に天台宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗など多くの宗派仏教が興ったが、いずれも人間から超越した人格神としての仏の信仰には重きをおかなかった。やがて大乗仏教は多神教的な色彩を帯び、諸仏・諸菩薩が現れて大衆化した。このように仏教は知識人の間では内在論的な性格を、大衆層の間では超越的な仏たちを信仰するように分化が進んだ。

 唐末の武宗の時代に大規模な排仏事件が起き、寺院45000を破却し、僧尼26万人を還俗させた。これは会昌の排仏として知られる。多くの宗派は致命的な打撃を受け、禅宗だけが生き残った。不立文字を掲げ論理でなく体験的直感によって真理を把握する禅宗の独走する時代になった。これは多数の中国人の気質に適合している。民衆の信仰をつなぎ止めるために、禅宗は禅の中に念仏を取り入れ、“念仏禅”の形態を取った。明・清以降の中国と地続きの朝鮮・ヴェトナムは念仏禅一色になった。ひとり日本においてのみ仏教諸宗が存続することになった。宋代以降、士大夫は禅宗、庶民は浄土教という二極分化が進行した。しかし浄土教専門の寺院や僧侶は目立つ形では存続しなかった。朝廷や宗教界がこれを公認しなかったからである。一方で日本の浄土教は他力を強調し、親鸞は老荘的な無為自然の思想を明らかにして独自の発展を遂げた。

 この項の論述は“老荘と仏教”(森 三樹三郎・講談社学術文庫)によった。著者は仏教が単にインド民族の宗教として終わらずに世界宗教として発展するためには、それが文化を異にする民族に伝わる時に、その教理に新しい要素が加わることは不可避というよりは必要不可欠である。それが宗教に新しい生命力を与えるからだと述べている。至極尤もである。

<風塵抄> 司馬遼太郎の随筆集である。順序が逆になるが、あとがきで“風塵”とは世間のことで、細切れの世間話と解してほしいという。但し風塵の中の恒心を書こうとしていると付け加えている。恒心がなければ社会はくずれると。これが書かれたのは1990年代の初めである。異常なニュース漬けの昨今では少々耳が痛い。

 ○スマート というテーマで薩摩の西郷と大久保のことを書いている。Wikipediaで司馬遼太郎を調べると、作風としてー登場人物や主人公に好意的な書き方をする。裏返して言えば作家が好意を抱く人物しか取りあげないーとあり、―近代合理主義の体現者を愛した。例として、維新以後ファナテイックな者へと傾斜する西郷隆盛よりも大久保利通に好意的な描写が多いーとも記している。随筆に戻る。―西郷は政府を捨て、故郷へ帰るにあたって、後事を大久保に押しつけた。このとき大久保はたまりかね、言うべからざる言葉を吐いたのである。「卑怯でござろう」 薩人が薩人に発したこの言葉は刃より鋭い事を大久保はよく知っている。“卑怯”という言葉は当時の薩摩にあってはそう呼ばれれば相手を殺すか自分が死ぬしかないほどだった。西郷は一貫してスマートだった。また自省心が強く聡明な男だったから、内心大久保の言う意味が分かりすぎるほど理解できた筈であった。西郷は心の骨を砕かれた。寂寥感深く故郷へ戻って行った。彼は維新成立の功績第一等であったが、自分はもはや無用の存在と思っていて、死に場所ばかりを探していた。結局薩摩士族の反乱軍にかつがれ、城山で討ち死にした。

 旧海軍は初期の範を英国海軍にとりつつ、薩摩人が作ったと言われている。土俗の匂いの強かった旧陸軍に比べ、海軍文明というべき匂いがあった。速成の士官たちに対する海軍側の訓示はただひとこと“スマートであれ”だった。このスマートという言葉は薩摩風の“卑怯であるな”という意味を含んでいた。大久保は終始スマートだった。非難の中によく耐えたが、暗殺を常に覚悟していた。兇漢に襲われた時も、一旦制止し、読んでいた書物をふくさに包み終わって、凶刃に伏した。スマートとは命がけのものなのである。―

 ○物怪(もののけ) ―私は一時期日本人をやめたくなっていた。二十年ほど前からの地価の異常高騰にともなってである。昭和四十年代から始まった地価高騰は、後世の歴史家はこれを経済現象とせず、人間集団への裏切りとか、反社会行為といったふうなどす黒い印象として受け取るに違いない。むろん心理現象でもある。心理が幻術にでもかけられたように経済行為に変化した。私たちの国土がゆらいでいる。むろんゆさぶっているのは日本社会が総がかりで作った“地価心理”という大狸である。一時はたれもが恒心を失った。

 戦前の陸海軍と戦後の銀行は秀才を集めてきた。秀才の中には“一番屋”という異常人が稀にいる。ともかく戦前の陸軍はそれで国を滅ぼした。“ぜひ当行は一番の儲け銀行にならねばならぬ”と信じがたいことを考えた銀行の人たちがいた。銀行が信用のみの機関であることは誰でも知っている。それが積極的に金儲けをめざそうとした。銀行が大儲けをするには、日本中を徘徊している大狸の眷属になることだった。“日本の心理的地価こそ日本を滅ぼします。”と諭すべき銀行がみずから日本をおおう大狸になっていたとは私には今でも夢のように思える。“世間の気分”が銀行をも迷わせたに違いない。太平洋戦争を起こさせたのも気分だった。気分が国を滅ぼしたのである。

 以上の憂いは十余年前に“土地と日本人”に書いたことだが、当時ほとんど反響がなかった。今一切の事情が露呈されて、世間は憑きものから離れた。恐らく名誉と信用を取り戻そうとしている銀行関係者こそ、最も強く上記のことを感じているのに違いない。太平洋戦争の後の日本人のようにである。―(1990-12-3)

 氏はあちこち書き散らしているようで、何気なく大事なことを教えている。例えば

 ―“仏滅”という大凶日がある。こんなものは室町期に入った中国の迷信の一つで、仏教となんの関係もない。はじめは虚亡または物滅と書いた。ひどい迷妄である。日本の俗仏教はひょっとするとチリの山のような誤解の上に成立しているのではないかー

 ―学校の先生は教壇の上から折り目を正しておっしゃってくださらねばならない。“君たちが、自分の人生を退屈させないように、更には人を退屈させないように、教育というものがあるんだ”とー

 ―日本の場合、江戸期以後文章日本語は大いに発達した。ところが、口頭ではうまくいかない。一時間も演説を聴いたあと、“それ、何か印刷物になっていないでしょうか”と申し出る人もいる。
 口頭でもって一時間も一つの主題を話す場合、概念語や抽象表現を歌のように並べるだけでは、お経にはなっても魅力のある言語にはならない。
 まず話し手は、自分の体温を帯びた自分の言葉で語らねばならず、また出来るだけ日常表現で語らねばならない。
 更には、ユーモアをまじえ、時には不正確になることを恐れずに形容やたとえを入れ、聴き手のイメージ能力を間断なく刺激し続けなければならない。でなければ、他者の耳に入る言語にはならないのである。
 明治の福沢諭吉は近代国家を興す必須の一つとして、自由と権利のほかに演説を考えた。このために三田に演説館を作ったのだが、恐らく知的日本語を高度に口語化してゆくことで、言語文化を高めようと考えたのに違いない。―

 私は氏の文章を読みながら、彼が自分の考えを書き物として人に伝える為の工夫と努力を感じた。形態としては頻繁に改行する。句読点をよく使う。適当なところで行間を空ける。ふりがなや付点を用いる。また構成に見事な起承転結がある。その妙味に無意識の内に快さを覚える。こういうのが真の専門家なのだろう。私など足許にも及ばないが、時々読み返してできる範囲で見習うことにする。


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