7月の話題


2006年7月

<リセット> 筒井康隆という作家の作品を2冊読んだ。この人は1934年生まれだが、晩成で世に認められたのは1980年代の後半、谷崎潤一郎賞と川端康成文学賞を受賞。2002年に紫綬褒章を受章した。特異な作風であるが、同年輩の人の感性に親しみを感じる。1冊目は“壊れかた指南”*という30の小篇集。2000年代になって、文学界、新潮、小説新潮、オール読物、別冊文芸春秋などに載せた作品をまとめて単行本にしたもので、2冊目は“銀齢の果て”という題名で一貫した主題だが、小説新潮に10回に分けて連載したものである。

 最近少年犯罪で近親者を殺してしまうといった取り返しのつかないことをしてしまうのだが、それも熟慮の結果やるのではなくて、あたかもパソコンのゲームの如く衝動的に手をつける。現状が思わしくないからリセットして初っぱなからやり直そうというような気分なのだという。そういう人間が増えてくるとすれば、それは昔はなかった各種の残酷ゲームが、例えば“殺人ゲーム”といったものに接する機会が増えて、その内にそういう環境と現実との見境が不分明になるという影響があるのかもしれない。現代社会に生きるということは、昔のような素朴な時代とは異なって複雑な状況変化に醒めた頭脳で対応しなければならない。こういうのは不可逆現象であって、先月の<仏教と中国>に記した老子の説いた自然のままに生きる世界は最早望むべくもないのだろう。

 筒井康隆の描く世界(“壊れかた指南”)は作品ごとに場所や状況が異なっているが、共通なのは尋常ではない異様な事件が起こることである。それは何気なく始まるが、次第に異様さを増幅していき、最後には耐え難いほどになって話が終わる。本*の帯には“筒井康隆は、壊れ続ける”とある。素直な読者なら、読んでいる内にストレスを覚えるので、一話読み終えたらそこで自分の脳をリセットして正常心に戻す必要があるのかもしれない。そういうことで読者の犯罪耐性が強化できれば、それは現代的な教育方法に繋がるだろうが危険もある。犯罪を現実に起こしてからリセットを望んでももう遅いのだ。断っておくけれど“リセット”という言葉はこの作者は一度も使っていない。読者である私が使いたくなっただけである。

 “銀齢の果て”という中篇小説を紹介しよう。事件は日本全国で起こっているというのだが、代表して東京都山手の一角、宮脇町5丁目で起こった事件を詳細に記述している。まず宮脇町5丁目の地図が載せてある。表に国道が走っており、裏の方には宮脇町商店街が通っている。登場する人物の氏名はほぼ全員地図に記載されている。マンション・アパート、多数の一軒家、公園、教会やコンビニ、さまざまな商店・小工場など街の一般的な構成要素が揃っている。

 2年前に全国で“老人相互処刑制度”の実施が定まった。目的は増大した老人人口を調整し、若者の老人扶養負担を軽減し、破綻寸前の国民年金制度を維持し、少子化を相対的に軽減するためであり、厚生労働省直属の中央人口調節機構(C.J.C.K.)が管轄する。2年の周知徹底期間を経てこの通称“シルバー・バトル”はこの4月4日からいよいよ実施されることになった。対象者は年齢70歳を超えた男女全員。但し国民栄誉賞、文化勲章を受けた人および人間国宝、芸術院会員は免除される。紫綬褒章受賞者は1000人もいるので免除されない。殺し合うのは70歳以上の人どうしに限られ、その年齢に達しない人はその資格はないし、万一殺害されれば殺した人は在来通り殺人罪に問われる。バトルの期限は1月の5月3日までとし、地区に複数の人が生き残った場合はC.J.C.K.の処刑担当官によって処刑される。またこの期間内対象者は理由の如何を問わず地区外への移動を禁じられ、バトルで撃たれた者を助けるために救急車も呼んではならない。死体はC.J.C.K.が確認に来るまで動かしてはならない。なお地区の中でただ独り生き残った人は以後バトルを免除される。

 このような状況で開始された宮脇町5丁目町内のバトルの進行を小説は丹念に記している。この地区の対象者は59人、男22人女37人である。何人かの老人はバトルのために予め銃器を購入した。無精な人は出刃包丁を用意した。筒井氏は絵が得意と見え、バトルに加わった多数の老人たちのスケッチをページを分けて載せている。この本のカバーには銀色の光沢のある地にこれら老人たちをここでは寄せ集めた群像としてコピーしている。また筒井氏作詞の“葬いのボサノヴァ”の楽譜も添えてある。医師の診察や治療を必要とする寝たきり老人の数は男二人、女九人だが、バトル終了を待たず死亡が見込まれている。C.J.C.K.の地区担当官はバトルの進行状況を確認するために二人づれで巡回していた。一人で老人ホームを訪れた担当官が殺されたからである。

 バトルは老人同士の殺し合いそのものであって、その惨劇の様を本文から転写するのはおぞましいから止めておくが、人々は折々にはおめき叫ぶものの、自分らが置かれた状況を総体としてはやむを得ぬものとして受け入れているのである。テレビは各地区のバトルの進行状況と現時点での男女別の生き残り人数を伝えるとともに、厚生労働省が野党などの指摘を受けて、今後地震や洪水などの被災地はバトル対象地域から外す方針にしたことを伝えている。更には数日後の新聞は“身体障害者はバトル対象から外す”新方針を伝えた。これに対して生き残りの一人の老人が酷評する。「これでは何のためのシルバー・バトルか分からんではないか。本来弱者と規定されている老人を全部殺そうとしておきながら、自分たちの作った法律のあまりの残酷さに気が付いて驚き、罪滅ぼしのためにその中の更なる弱者だけを救おうとする。一方では老人から金を吐き出させ、一方ではその償いに余計な介護サービスをした報いが、そうした腰の据わらぬあやふやさこそが、今日のこの事態を招いたことにまだ気が付かないのか。馬鹿馬鹿者どもめが!」と。

 物語の最後近くで、ニュースは“霞ヶ関の厚生労働省ビルに老人ばかりの集団31名が、自動小銃や拳銃などで武装して押し入りました。前もって通報を受け、待ち構えていたC.J.C.K.の職員や武装警官と銃撃戦になりました。この銃撃戦により職員や警察官側に死者4名の犠牲が出ましたが、襲撃してきた老人側はほぼ全員、29名が射殺されました。老人たちはいずれも各地区のバトルで生き残った者ばかりであるということです。この老人たちが政府のバトル制度に反対して今回の騒ぎを起こしたことは確実と見られ、制度の見直しへの議論が高まることは確実と思われます。”と報道した。

 この物語の異常さは1973年に始まった老人医療の無料化などに代表される現代日本の弱者保護政策の行き詰まりへの究極の反動である。一方で現実の世界ではそこまでは行かぬものの、弱者への過度の配慮などが次々と新たな問題を生んでいる。最近は都市の多くの交差点で美観を損なうのを省みず上から見て真四角に高架橋を設け、更にはエレベーターまで設けるようになった。掃除もロクにしない高架橋など人はあまり利用しないし、メンテの不十分なエレベータはいつ何時故障で閉じこめられるか分からない。年度末になると交通規制をしてロクに痛んでもいない道路を補修する。余計な公共投資は更なる国民経済の借金を積み重ねる。物語にも出てくるが、老人介護制度は多くの矛盾を露呈しつつある。懲りることなく社会は愚かな罪過を積んでいる。これらの問題の解決法はもう一度老子の説いた無為の世界へ帰ることを希求することだ。究極のリセットである。おかしいね。先程とは逆のことを言っている。

<巨人の苦境> 開幕3ヶ月が過ぎた現在、読売ジャイアンツは底なし沼に陥ったように目下31年ぶりと言われる10連敗で、早くも数字の上で自力優勝が消滅する状況になっている。開幕後の四月は連戦連勝、追いすがる阪神・中日を5ゲーム以上引き離し、流石に原辰徳新監督(正確には2年ぶりに復帰)の指揮で昨年までみじめなほどに弱体化していた巨人軍が生まれ変わったかと思わせた。不動の4番にイ・スンヨクを据え、積極的に次塁を狙う攻撃的な野球に見違える勢いを感じた。今年は久々にブッチギリの優勝と感じた人も少なくなかったことだろう。そのさなかの原監督へのインタビューで、原は“何とか勝ち続けてはいるが、いつ不調に沈むかという懸念がある”と意外に慎重で弱気な発言をした。

 流れが変わったのは五月からのセ・パ交流戦である。昨年は破竹の勢いだった中日がここで落ち込み、その後も勢いを回復できずに優勝を逃した。くじ順か当たった相手にも多分不運があった。前半主としてロッテ、ソフトバンクという元気のよいチームに負けがこんだ。その内に小久保、高橋、阿部が次々に負傷欠場してチーム力が落ちたところで野村の楽天イーグルスと当たり、なんと連敗してしまった。昨年と同様滅多に勝てなかった楽天はこのあたりから自信をつけてパ・リーグの戦いに戻っても勝ちが増え、遂に6月は勝ち越した。ニンマリと笑う野村監督の写真が新聞に載る日が増えた。原はセ・パ交流戦の終盤戦で勝って勢いを取り戻してセ・リーグの戦いに戻りたいと口にしたが、それを果たせなかった。

 セ・リーグの戦いに戻ると全く元気のなかった横浜に三連敗して遂に貯金10を使い果たし、次いで中日・阪神に1勝もできないままに現在に至っている。故障者続出がこの惨状を生む最大の原因であることは確かだが、特に好守に抜群の活躍をしていた小久保の長期欠場は痛い。その代わりを最近務めているデイロンという長身の選手がチームの足を引っ張るさまは最近のプロ野球では滅多に見られないヒドイものだ。攻走守ともダメだが、特に守備は正確な送球もできないし、黙って一塁に投げればチェンジになるのを、飛び出した2塁走者を挟んで挙げ句の果てにその走者に衝突して走塁妨害を取られる。一塁走者としては復活したばかりの阿部の三塁線を抜くロングヒット性の当たりに二塁ベース上で立ち止まって、当然二塁を狙おうとした阿部が驚いて止まろうとして治ったばかりの足をまた痛めるというアクシデントを生んだ。その後もヒットが続いたが生還できず、ダブルプレイでその回は一点も入らなかった。こういうボーン・ヘッドは全員の意気を阻喪する。熟年ながら好投する工藤はいつも立ち上がりは少し不安定だが、それを乗り切ると汗をかくとともに身体が切れるようになって球速も増す。初回デイロンは二度のエラーを犯し二度目は満塁でホームに暴投(走者の頭に命中)して走者一掃となった後では流石の工藤が批判的なコメントを残した。尤もだ。こんな選手はもう出すな!

 プロ野球のゲームは同一カード三連戦が基本で、それを2勝1敗で乗り切りそれを積み重ねていけば、やがて優勝の栄冠に到達できる。勝ちたいのは相手も同じだから、3連勝というのはよほど強運がないと果たせない。こういうのが常識だから、8連敗、10連敗などと聞かされると、一体どうなっているのだとなる。負け癖がついてしまったなどというのはこの世界では本来はあり得ない筈の恐ろしいことだ。現時点ではチームの打撃が不振になって、頑張っているのは突き指をおして頑張っているイ・スンヨブただ独り。高橋と阿部がようやく復帰したが調子を取り戻すのにまだ時間がかかりそう。毎試合原は安打数の少なさを嘆く。更にここへきて頼りになる投手がいなくなった。特に中継ぎ・締めが総崩れの感じである。ベンチでは滅多に気落ちした表情を見せない原監督だが、これだけ激しく明から暗に変わった事態は今まで見たことがない。果たして奇跡の復活がなるだろうか。

<中田英寿引退> 日本中が注目したW杯ドイツは先月1次リーグで対オーストラリア1-3、対クロアチア0-0、対ブラジル1-4で無念の敗退となった。ゲームの合間の練習でチームメートに盛んに檄を飛ばしていた中田だが、対ブラジル戦に敗れた後ピッチに仰向けに倒れ込み、独りだけ10分ほど動かなかった。立ち上がると応援団にゆっくりと手を上げて応えたが、目は赤かった。

 7月3日中田は自分のホームページで引退を発表した。サブタイトルとして“1985-12-1〜2006-6-22”とあり、今期W杯敗戦の詫びを述べ、自分のサッカー人生を振り返り、ずっと応援してくれたファンに礼を言い、プロサッカーに別れを告げ、新たな自分探しの旅に出たいと述べた。

 日本人で唯一人中田はW杯の3期にわたり日本チーム出場の全10ゲームにフル出場した。彼が全日本に加えられた時点で20歳、最年少だった。98年からはイタリア、イングランドのクラブでプレイした。ただ彼のサッカーは今ひとつ日本のチームメートにとけこめず、孤高であった。対ブラジル戦前半ロスタイムにブラジルに追いつかれた場面で、彼が不満の声を上げたが、華麗なヘッデイングによるロング・パスを見事に決められたもので、私には守備を責めるのが無理と見えたが、中田に言わせれば守りの選手の位置取りがまずかったのだろう。それでも彼は試合の終わるまで息切れすることなく懸命に走った。サッカー選手としても29歳のまだ若い引退だった。ブラジル戦後の引退は半年前に決めていたという。

<ひらめき脳> 最近“プロフェッショナル”というN.H.K.の新番組に登場する茂木健一郎という脳科学者は表題のテーマで本を出した(新潮新書)。日本テレビの“世界一受けたい授業”にも登場する時の人である。理学博士。彼は“ひらめき”というものは一部の天才の脳だけに起こるものではなく、全ての人間に確実に存在していると主張している。この突然やってきて脳に認識の嵐を巻き起こす現象をうまく生かすのも圧殺してしまうのも本人の心がけ次第である。ノーベル賞を受賞した人の業績の大半はこのひらめきが基で生まれた(もちろんその後で問題を体系づけるための莫大な努力を伴っているが)。この玄妙な人の脳の機能を意識し、特にそれに着目してみることは在来ほとんどの人がやっていないだけに意味があるというのが本書の趣旨である。

 最近の脳科学では記憶のシステムと創造性の間に深い関係があることが判った。“ど忘れ”の状態と、創造性とひらめきを要求している脳の状態が非常に似ている(ベンローズ)という。ど忘れという状況においては、思い出すことができないにも関わらず、自分は既にそれを知っているという確信―これをF.O.K.(Feeling of Knowing)と呼ぶーがある。思い出すということは単に覚えたことを再現するのではなく、編集する、この編集する力がひらめきを生む原動力にもつながるという。前頭葉にA.C.C.(前部帯状回)という部位があり、異常が発生すると真っ先に反応する。この情報は前頭葉側部にあるL.P..F.C.(外側前頭前野)に伝わる。ここは脳の司令塔の役割を果たす。ひらめきはいつ何時起こるか判らないので、このアラーム・センターであるA.C.C.から司令塔のL.P..F.C.へうまく回路がつながらない事もある。その場合はひらめきは消滅してしまう。丁度釣りをしていて突然来たサオ先の感触に応じきれず、漁果を逃がしてしまうようなものだ。

 感情も記憶と結びついている。ひらめいた瞬間、脳の神経細胞は0.1秒ほどの時間差で一斉に活動する。神経細胞と神経細胞をつなぐシナブスが強められ、ほぼ同時に神経細胞が発火する。この同時発火による記憶の定着作用は強い感情が作用すると一層強くなる。感情を扱う扁桃核が刺激されるとその傍の海馬が活性化して側頭葉に収納すべき記憶の定着を強める。

 私などは日常もうロクな活動もしていないが、このような随筆を書いている途中で散歩に出たときに、机の前では思いつかなかった発想が生まれて重宝することが少なくない。これなどは大げさに言うほどのことはないが、ひらめきの一種であることには違いない。著書にも書いてあるが、歩いていると人は有用なことを思いつくことが多いらしい。そこで“逍遥の道”などと呼んだりするのだが、普段歩きなれた道だから余計な外乱に気を遣わずに済んで、いろいろ思いを馳せられるのであって、慣れぬ道を行きかう交通に気を取られていたり、道に迷うようではひらめきも生まれないだろう。

 茂木氏は私も以前に触れたセレンデイビテイ(2005-11)とひらめきの関係について述べている。思わぬ幸運に出会う能力ということで、小柴昌俊教授がカミオカンデという施設を岐阜県の神尾鉱山跡に作り、たまたま起こった超新星爆発の際に発生したニュートリノ微粒子を捉えて、ノーベル賞を受賞したケースを指摘している。また島津製作所の田中耕一氏、白川英樹氏も同様に当初の実験目的とは異なる形で大きな発見をして同時期にノーベル賞を受賞したことに言及している。この人たちはいずれも偶然の幸運をつかむ準備と能力があったと指摘し、普段の精進と強い目的意識がひらめきをも生んだのだろうと言う。

<Google Earth> 友人の紹介でこの卓越した新情報ソフト兼画像データベースを知った。それを教わった時点では、実は私のパソコンはいつの間にか侵入したウイルスのためにアチコチ食い荒らされていて機能不全に陥っており、この無料で提供される優れたソフトをダウンロードできなかった。その後電子メールまで取り込めなくなる重症に陥り、遂に決意してパソコン・ハードデイスクの中身の総入れ替えを専門家の助けを借りて行うことにした。データの退避など手間がかかったし、ホームページへのデータ転送ができなくなるなど別の障害も発生したが、大掃除のお陰で新規大型ソフトの取りこみは支障なく行うことができるようになって、遂にこの“Google Earth”とご対面を果たすことができた。なおこれはインターネットへ入ればすぐ見つかるが、O.S.がWINDOWS-XPのパソコンでないとうまくダウンロードできないという。

 先に“Google Map”という地図データベースが発表されていて、この方はダウンロードしなくても、インターネットで閲覧できるし、日本など詳しい地図情報が公開されている地域では広汎な地域の概観から狭い区域の詳細表示まで何段階もの表示を演じてくれる。地図図形とともに詳しい地域情報をその国の言語で表示してくれる便利なものである。こういうものが提供されると、自分の欲する地域情報が必要な範囲で適当な尺度で自由にプリントアウトもできるから、なまじの市販の地図などは不要になる。インターネットの素晴らしい恩恵である。今回のGoogle Earthは更にその先を行っていて、無段階の拡張・収縮が可能になっている。衛星画像で上方から地表を覗き込んだものだが、道路上の車まで視認できる解像度は素晴らしい(この解像度は特定の都市のみで高くなっているらしい)。米Googleの共同設立者サーゲイ・ブリン氏は2005年5月19日の公開発表にあたり、飛行機のチケットを予約する必要のない“オンライン旅行”と述べ、例えばグランド・キャニオンを仮想的に飛び、大渓谷の山頂や谷底の景観を眺める状況を披露した。

 以下はこのソフトによる放浪記だが、まだ習熟していないので、皆さんに紹介できる知見はごく乏しいものであることをお断りしておく。まず画面に地球上の米国およびその周辺国の全体像が現れる。これを西に移動するとオーストラリヤが出現し、適当なところで北へ移動すると、アジアの東端の日本列島を画面中央に呼び込むことができる。通常の世界地図のように上が北、下が南とは必ずしもならない。この場合は日本列島はほぼ水平に表示されていて東南が画面の下になる。方位を変えるためには地球儀上での日本への接近方法を変える必要がある。ひとまずこの方位でよいとして、これを拡大していくのだが、目印はyokohama、kawasakiなどという主要都市の地名だけが頼りで、地図と違って現在位置が分かりにくい。鉄道は地図と違って目印にならない。海岸から川を上流に辿るのは有効な方法だ。私の住居地域に達するのには、鶴見川を遡る。新横浜の近くに最近完成した新横浜のサッカー場は川に沿った位置にあり、楕円形の特異な形状がよい目印になる。ここから我が町までは第三京浜、小机城跡などを目印に辿りやすい。拡大してみると7軒づつ並んだ居住地域の状況がハッキリと判別でき、屋根の形状・色から我が家も明確に特定できる。

 東京は宮城(青く輝く屋根の建物が目立つ)から隅田川(橋が多い)、上野駅と上野公園、不忍の池、本郷界隈、東大構内では新築の機械科の大きい建物が目立った。後楽園スタデイアムの銀色の屋根。自分の知った道はそれに沿って画面をゆっくり動かしていくのが楽しい。中央線の線路はよく見えないが、平行して流れる神田川は細くてもハッキリと見える。周辺を眺めると一本の白い線が見える。県境表示である。東京都というのは西に実に細長い区域である。画面下端にはマウスの位置の地点の北緯・東経と海抜の高度(フィート)が表示されている。富士山は県境が山頂を通過している他は地形に関する目印がないので、最高点を探してもよく分からない。標高12126ft(3674m)までは到達できた。

 平生世の景色を真上から眺めおろす機会は滅多にないので、拡大・縮小に関わらず、あまり見慣れない画面になるし、地上の景色を知っている場所でも見分けが難しいことが多い。このソフトが優れているのは地表面を随意の角度に傾けることができることだ。これによって手前は拡大、遠方は縮小して遠近感が生じる。水平方向に移動すると、列車の窓から沿線の景色を眺めるように近くの景色は速く、遠方の景色はゆっくりと流れる。東京タワーは発見できなかったが、先述の富士山は地表面の傾斜によって立体的に見事に表示される。但し山頂に雪のない夏に撮影されたらしく、赤と黒の入り混じった様は美しくない。日本人の富士にこめる美意識を知らぬ米人の仕事であろう。とにかく山岳地方を見る時にはこの機能(水平面傾斜)を生かさない手はない。

 取りあえず思いつくままに中国の北京、トルコのイスタンブール、イタリアのローマ、フランスのパリ、英国のロンドンを少し覗いてみた。パリのエッフェル塔は放射状の道路が集まっているところということで、直ぐ判るが、そういう場所は他にも何箇所かあった。イランのテヘランは南を下に近づくと、画面を傾けた時に雪を頂いたエルブルズ山脈を遠方に望むことができる。多くの都市はその中を川が流れているが、そこにかかる橋は特徴があって特定しやすい。空港もよく分かる。Google Mapの地図と尺度を合わせて照合できればよく分かると思うのだが、その方法がよく分からない。まだいくつも利用できる機能があるらしい。こういうソフトを無料で世に提供したGoogleの創始者たちの篤志に敬意を表するし、その内容と機能は特筆に価する。

<宇宙の進化> 放送大学の講義の中で私が最も興味を感じるのは天文学分野である。1日に1回は講義があり、何人もの講師が登場するが、この分野を統括しているらしいのが杉本大一郎教授(写真)であって、ご本人も屡出講される。他の講師によって最近多く取り上げられるテーマに可視光線以外の電波による宇宙の観測の進展とその成果が挙げられる。波長の短いX線やガンマ線で撮影画像の解像度を上げるには望遠鏡に可視光線とは異なる工夫が必要だが、可視光線で見るのとは全く異なる画像と知見が得られる。ブラックホールの存在はこの手段なしには実証確認できなかった。2003年8月の<宇宙の根本原理>で触れたが、この世界を理解するための理論は私ごとき老人のヘッポコ頭では容易に受け入れがたい難解さを具えている。

 今回の話題はその杉本大一郎先生による“宇宙の進化”と題する最近の講義の概要の紹介である。熱いコーヒーを入れた茶碗の中にクリームを垂らすと、不均一だった二相は急速に拡散して均一な色に変わる。一つの系のエントロピーは常に増大し、決して元へは戻らないというのがボルツマンの唱えた熱力学第2法則である。ところで宇宙の進化というのは何だろう、宇宙の原始は混沌であり、均一に近い状況だった。それが空間的に拡散するに従って多くの星や星雲を形成し極端に不均一な状況になっている。これは熱力学第2法則に反するのではないかという疑問が生ずる。

 杉本先生は淡々とこの疑問への答えを提示し、矢張りこの場合でもエントロピーは増大しているのだと説く。調べてみると杉本教授は宇宙物理学者・天文学者であって、専門は恒星進化論。“星の進化と超新星の理論”で日本学士院賞を受賞、1990年ごろ“いまさらエントロピー?”*という本を出している。まさにこのテーマが紛れもない専門なのである。彼の説くところによれば、恒星は激しい熱核反応によって温度を上げ、光を放射する。温度を上げるのだから星自体のエントロピーの時間変化は負になる(減少する)。しかし放射された光は正のエントロピーをもち、星と光のエントロピーの時間変化の合計は正であって、全体のエントロピーは増大している。ここまでは分かるのだが、不均一化が進んで宇宙の構造が複雑化することとエントロピーとの関係はまだ釈然としない。先生は重力の相互作用と境界条件の速い変化を挙げ、次々に数式を提示して宇宙の進化と全宇宙のエントロピー増大の関係を説明して熱力学第2法則の妥当性を裏付けてしまった。たちまち分からなくなった。先生には自明の領域で、咬んで含める説明を少し省いただけだろうが、こっちはついていけない。この際前述の本*を買い求めることにした。

<難民高等弁務官> 2002年1月1日の日本経済新聞の緒方貞子(写真)に関する記事を紹介しよう。

 ― ずいぶん前、首相官邸に初めて足を踏み入れた時の「ちょっと嫌な感じ」を今でも覚えている。1932年の5月15日、官邸と棟続きの公邸で曽祖父の犬養毅首相が軍の銃弾に倒れた。時の芳沢謙吉外相は祖父。まだ四歳で、外交官の父に連れられ米国にいた緒方に事件の記憶はない。
 が、祖母からよく当時の政治状況を聞かされて育った。のちに米カリフォルニア州立バークレー校で取得した政治学博士号の論文は「満州事変と政策の形成過程---日本は自己を破滅に導くような膨張政策をなぜとらなければならなかったのか」。外交の孤立で自縄自縛に陥り、軍部の台頭に政治が翻弄(ほんろう)された時代。政治家と外交官の血をうけた緒方の原点でもある。

 多くの日本の人材がそうであるように、「オガタ・サダコ」の評価が高まったのは、海外での方が先だったろう。1991年、六十三歳で国連難民高等弁務官に就任。「行動する高等弁務官」は世界を駆け回った。
 湾岸戦争でイラクから逃れてきた大量のクルド難民の受け入れをトルコが拒否すると、当のイラク側に安全地帯を設け、難民キャンプを作った。戦争直後のイラクはまさに手負いのクマ。さすがにUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)内部からも反対論が噴出したが、いったん決断するとテコでも動かない。

 身長百五十センチメートルの小柄な体に合う防弾チョッキはない。それでも重さ十五キログラムの特製防弾チョッキを着て、サラエボの紛争地帯を歩き回った。利害が対立する欧米諸国をけん制するため、国連事務総長の反対も押し切って援助物質の輸送を一時停止した時もある。各国で「オガタは抗議して辞任するつもりだ」との憶測が広まり、譲歩の機運ができた。緒方はけろっとしている。「全然、辞める気なんてありませんでした」

 着任早々から評価がが定まっていたわけではない。当時を知る関係者によると「最初はアジアのお金持ちの国から送られてきた女性か、くらいの感覚」で迎えられたらしい。そのアジアの女性」が膨大な資料を読み込み、専門家の説明を受ける。「こんなに覚えられるのかと思っていると、ネイティブな英語で次々に質問が飛んだ。

 しばらくすると、緒方が事務所に現れた瞬間、張りつめた雰囲気が事務所に広がるようになる。平素、物静かで無駄口はきかない。日本人のイメージにつきものの「あいまいな微笑」もない。最後は、さも当たり前のように決断する。

 難民保護はちょっとした判断の誤りで多くの人命を失う。難民からも、そして難民を救おうとする側からも。どうやって決断するのか?「最後は理論ではない。一瞬のカンです」。政策決定論を専門とする学者らしからぬ見極めである。
 ひたすら現場を歩き、人の話を聞く。英エコノミスト誌は「ラストリゾート(最後の頼み)の女性」とたたえ、95年にはユネスコ平和賞を受賞。ノーベル平和賞や国連事務総長の候補にも名前が挙がった。
 当時の部下の一人、UNHCRのカンディス・ロチャナンコ日本・韓国地域事務所代表は、緒方の存在が「退官してから一層、鮮明になった」。緒方を駆り立てた資質を「計り知れぬエネルギー、人道上の被害者に対する妥協なき専心、そして現場主義の熱意」と振り返った。
  緒方本人は「成功談」を口にしない。実績をあげた理由は、第一に「UNHCRは少し不幸な時代が続いていて、新任の弁務官を盛り上げてくれた」。二番目に「次から次へといろんな問題が起きたからです。問題が起こるのは良くないことでしょうが、世界の目が難民に向く効果もある」。

 98年7月。緒方は自民党総裁選に勝ったばかりの小渕恵三から外相就任の打診を受けている。「(高等弁務官の)任期が残っているのにもどれません」。即座に断った。前任者は母国ノルウェーの外相に就任するため、わずか十ヶ月で職を去った。リストラで二千人近くまで減っていた職員の士気はさらに落ちた。
 もっとも、目的のためには各国の政治家とも軍人とも徹底的につき合う。「政治家と交渉する」し、「戦争時には軍とも協力する」。そうでなければ、難民の命は守れない。肝心の資金も集まらない。
 自然体を極めると、自身が女性であることにもこだわりはないかのようだ。上智大学で教鞭を執っていた頃、女子学生からしばしば女性が社会進出する不利をどう克服するか、と聞かれた。
 緒方の答えは簡明だった。「女性と男性はサイクルが違うだけです」。女性が子供を産み、育てることは確かに社会のキャリアを重ねるうえでハンディになる。しかし「男性と同じサイクルを歩まなくても出産し、子育てするのも幸せであり、喜び」。人生をトータルすれば同じ、の意かもしれない。
 日銀出身の夫、四十郎と結婚したのは三十三歳の時。四十郎の父は首相目前といわれながら急逝した緒方竹虎・元副総裁である。大物政治家の系譜が結びつけた縁とみられがちだが、実は熱烈な恋愛結婚だった。二人の子供の育児や母親の介護もこなしながら学界、そして外交界へとデビューした。家庭生活にとられた時間を取り戻す秘訣は「勉強すること」だ。

 三期十年に及んだ高等弁務官を退いた後は、ニューヨークに居を構え、回顧録を執筆中だ。米国入りする直前の昨年四月、今度は小泉内閣の外相候補に擬せられた。「あれはそういうことを言った人がいた、というだけのことでしょう」とにべもない。
 ところがアフガニスタン問題で小泉首相から首相特別代表を依頼されると、あっさり引き受けた。アフガニスタンには悔やみきれない思い出がある。
 二千五百万人に及ぶとされる全世界の難民のうち、アフガニスタンは最多の四百六十万人。高等弁務官として現地に入り、国際社会に支援を呼びかけた。難民はパキスタンに逃れてもいつまでともとも知れぬキャンプ生活。国に戻れば、そのパキスタンに後押しされたタリバン政権。そして国際社会は無関心。「見捨てられた国」に関心を集めることはできなかった。緒方にしてみれば、やり残した仕事にほかならない。

 「外交空白」で浮上する緒方カード。七十四歳に頼らざるをえないのも、日本の人材払底の証左かと聞くと「いや、そんなことはありません。今の若い世代には立派な人がいる。ただ、その人たちを引っ張り上げるシステムがないだけ」。
 難民支援の現場で経験を積み、次のステップを見つけようとする若者も多い。しかし日本の社会はなかなかそういう経験を評価しない。海外が先に評価すればそれを受け入れるが、自ら評価しようとする許容度は限られている。
 財界も問題だ。緒方は言う。「紛争の時に真っ先に飛んでくるのは政治家」。しかし、日本の政治家は「外交の実績が国内に跳ね返るということがないんでしょうね」。それも元をただせば「政治家の官僚化でしょう」。政治を業とする自負よりも永田町の階段を上ることに心を砕く風潮がまん延した。
 森政権の末期、官民の有志がその緒方を「首相にする会」を作ったと報じられたことがある。首相になる気はありますか?いつものように答えは簡単だった。「冗談じゃありません。餅(もち)は餅屋です。」―


 “緒方貞子の回想”(副題“紛争と難民”・草思社)という著書を読んだ。分厚い本で、ほぼ10年間にわたる国連難民高等弁務官としての活動記録をビッシリと書き連ねている。読者の理解を助けるために、@クルド難民危機、Aバルカン紛争における難民の保護、Bアフリカ大湖地域における危機、Cアフガン難民 に章を分け、その他の事柄については思い切って割愛している。表紙には防弾チョッキを着用しヘルメットをかぶり笑顔を絶やさない凛々しい現地視察の正面写真、裏面には群がった数百人のこども達が彼女にこぞって歓迎の手を差し伸べる状景(ルワンダか?)を載せている。彼女は自分の強みが官僚出身ではないことで、学者肌と言われたがだからこそ自分の頭で考え、生身の人間や現実の状況に接して官僚的形式主義に陥らずに思い切って対処できたと述べている。

 また彼女は著書の総括として次のように述懐している。我々U.N.H.C.R.(国連難民高等弁務官事務所)は人道危機が絶え間なく発生したこの10年間、世界の全大陸で、まるで消防隊のように火消しとして働いた。我々がどんなに懸命に難民を保護し、苦しみを和らげても、人道活動だけで難民問題を解決に導くことはできなかった。求められたのは、国際および地域の主要国が人道・政治・治安活動など、広範な利害を収斂させることであった。包括的な戦略的裏付けがなければ、戦時の緊急事態を食い止めることはできず、平和をもたらす解決策も見出しようがなかった。私はU.N.H.C.R.がこの10年人命の救済と平和の構築に多大な貢献をしたと主張して憚らないが、紛争を起こすに至った根本問題を解決することはできなかった。

 @ではクエートへの侵攻で始まった湾岸戦争直後に態勢を建て直したイラク軍によってイラク北部では武装蜂起したクルド人が制圧され、175万人に及ぶ難民流出が急速に発生した。イランはある程度これを受け入れたが、トルコは拒み難民は生活困難な山岳地帯に追い込まれた。彼女は米軍の支援を受けてイラク北部に強引に難民キャンプを設営して帰還を計り、食糧と住居の支援を継続した。

 A1991年ユーゴスラヴィア社会主義共和国はソ連とともに解体し、主要民族であるセルビア系、クロアチア系、イスラム教徒間の権力闘争が表面化した。“民族浄化”と称する難民化政策が武力を基にボスニア・ヘルツエゴビナ地域を中心に強行され、約200万人の難民が発生した。戦いが一段落した時に多数派民族は帰還できたが少数派は故郷に戻れなかった。U.N.H.C.R.は年月をかけて民族共生のあり方を追求した。98年コソヴォで新たな紛争が発生した。セルビア治安部隊はアルバニア系住民を迫害していたので彼女はミロシェヴィッチ大統領と交渉したが、彼は強圧的な政治手法を変えようとしないので、国連を通じて国際社会に訴え、N.A.T.O.軍のセルビア攻撃が始まり、75万人の難民が発生した。セルビア軍の撤退後、彼女はG8主要国首脳会議に招待され、U.N.H.C.R.の活動が賞賛された。難民の帰還が始まったが、少数派住民の保護・民族和解は時間のかかる仕事として続いた。

 Bアフリカ大湖に接するルワンダとブルンジではフツ族とツチ族の二大集団で構成されるが、旧宗主国からの独立後両者の抗争が激化した。ルワンダでは61年フツ族に追われて夥しい数のツチ族が周辺諸国へ逃避した。ブルンジでは一時劣勢だったツチ族が72年に勢いを取り戻してフツ系住民を虐殺しフツ系難民がタンザニアに流出した。94年、ルワンダとブルンジの両大統領を乗せた飛行機が撃墜され、ルワンダ全土で大虐殺が始まり80万人が犠牲になった。国連は治安に無能と批判を受けた。難民の多くはフツ系農民で嘗てツチ族の虐殺に関与したためにR.P.F.(ツチ族)の帰還に先立って逃避した。隣国ザイールのゴマ市に流入した難民の数は100万人に達した。U.N.H.C.R.は航空機によって実態把握に努め、国外に避難したフツ系住民を200万、ルワンダ国内避難民を200万と推定した。ザイール滞在の多数の難民たちはグループ内の武装分子に脅されて密林に迷走した。U.N.H.C.R.の唯一の選択肢は難民を速やかにルワンダへ帰還させることと決断した。難民の捜索・接触には非常な困難が伴った。A.F.D.L.(コンゴ・ザイール開放民主勢力連合)やR.P.A.(ルワンダ政府軍).などの軍隊が殺戮・残虐行為を続けたので、彼女は97年安保理で“保護や援助行為を行うための最低条件さえ欠如している現在、ルワンダ難民に関する我々の活動は一時中止せざるを得ない”と声明して安保理の責務履行を促した。難民の帰還が理想とは程遠い状況ながら進展すると、U.N.H.C.R.は全国規模の住宅建設、司法制度の再構築、女性の能力向上を図った。2000年にカガメルワンダ大統領から“ルワンダの友”と記した感謝状を渡された時、国際社会が本気で支援の手を差し伸べない中で誰が頼りになるかルワンダ人はよく見極めていたことがハッキリした。

 C1970年代末からの23年間戦場であったアフガニスタンでは1991年に600万人を超える難民がパキスタンとイランにいた。ソ連の侵攻により国土は荒廃し、米国はイスラム抵抗勢力を支援したが、ソ連の撤退とともに米国も手を引いてしまった。復興援助がない中で小康状態が続いたが、1994年タリバーンが台頭し、タジク人・ウズベク人・ハザラ族・トルクメン人と衝突、互いに大虐殺を繰り返した。彼女はタリバーン政権と難民帰還の交渉をしたが、はかばかしくはいかなかった。女性の抑圧が彼らの伝統的な政策だった。彼女の任期である2000年の時点でまだ300万人の難民が帰還できないでいた。9.11テロの後、タリバーンは米国の明確な軍事目標になり、一方でこの地の難民対策にやり残したものが多いことを感じていた彼女は小泉首相のアフガニスタン支援特別代表を引き受け、東京での復興会議を主催して新たに選ばれたカルザイ政権を支えた。次いで避難民の帰還と再定住のための人道援助から復興・長期開発への継ぎ目のない移行の達成を目指す日本政府の支援計画“緒方イニシアテイブ”を提案した。

 著書には“国連難民高等弁務官からU.N.H.C.R.職員への惜別の辞”・“国連安全保障理事会における報告(国連難民高等弁務官としての最終包括報告)”・“日本、アメリカと私―世界の課題と責任(マンスフィールド太平洋問題研究所主催の講演会で)”、またこの著書ならびに彼女の業績に対する賞賛の言葉を盛った国連事務総長コフィー・アナン氏の謝辞を載せている。アナン氏はその中で“緒方貞子氏の強力なリーダーシップの下で、U.N.H.C.R.は緊急事態即応体制を強化し、関係諸国政府の支持を得て、食糧やその他の救援物資を輸送する大規模な空輸作戦を展開しました。これはU.N.H.C.R.の歴史上初めてのことでした。また強いられた移動の解決をはかることと世界の平和と安全を構築することは不可分の関係にあることを、加盟各国に認識させました”と述べている。また彼女のスピーチは混迷した情勢の的確な分析と困難に立ち向かった自分たちの努力とその成果に対する相応の自負が盛られている。日本女性として国際政治の分野で果たされた類いまれな能力と努力に伴う業績に敬意を表する。

<ドン・キホーテ> “ドン・キホーテ”は1605年に前篇が、その10年後に後篇が出版され、聖書の次に世界的に出版されており、正真正銘のベストセラー小説である。当時ヨーロッパで流行していた騎士道物語を読みすぎて現実と物語の区別ができなくなってしまった郷士(下級貴族)の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」(「ドン」は郷士より上位の貴族の名に付く;「デ・ラマンチャ」は彼の出身地のラマンチャ村を指す)と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。有名な風車に挑みかかって無残に敗退する話は冒頭にあり、自分をとりまく全てを騎士道におきかえて認識して暴れ回り次々とトラブルを巻き起こすが、騎士道に関係しないところではいたって理性的で思慮深い人物である。

 サンチョ・パンサ (「パンサ」は「太鼓腹」の意)もとはドン・キホーテの近所に住んでいた農夫だったが、「将来島を手に入れたあかつきには統治を任せる」というドン・キホーテの約束に釣られ、彼の従士として旅に同行する。性格はいたって平和的・呑気な正直者で人に騙されやすい。奇行を繰り返すドン・キホーテに何度も忠告をするが、大抵は聞き入れられず、主人とともにひどい災難に見舞われる場合がほとんどである。無学で愚鈍な印象があるが、さまざまな諺をひいたり機智に富んだ言い回しをしたりしてドン・キホーテを観察する評論家のような一面も存在する。

 ドゥルシネーア・デル・トボーソというのは旅先での会話に常に登場するトボーソ村の田舎娘で実際には口を利いたこともないのだが、ドン・キホーテの想像上の思い姫。ドゥルシネーアの美しさ・気だてのよさ・その他の美点を世界中の人々に認めさせるのがドン・キホーテの遍歴の目的のひとつである。ドン・キホーテは旅先で会った多くの人をトボーソ村に伴って彼女に引き合わせ、彼の奮闘ぶりを語らせようとするが実現せず、実在の彼女は一度も小説に登場しない。

 前編は出版した1605年だけで6版を数え、1612年には早くも英訳が、1614年に仏訳が登場した。作中作「愚かな物好きの話」など、本編とは関係の無い(と思われる)話が多く挿入されている。後編では前編が出版されて世に出回っている(小説を読んでドン・キホーテやサンチョのファンになった公爵夫妻らが登場する)というメタ・フィクションの構造を持つ。また前年に出版された贋作の『ドン・キホーテ』続編に対抗して、この小説の後半で行き先をサラゴーサからバルセロナに変更している。後編では前編の寄り道を作者自身反省して、脱線を無くしている。ドン・キホーテも旅宿を城と錯覚することもなくなり、サンチョが一時島の領主になることともからんで思慮深い発言が増えるようになる。年老いてからも夢や希望、正義を胸に遍歴の旅を続ける姿が多くの人の感動をよんでいる。

 作者セルバンテスは22歳でイタリアに渡り、祖国のためにレパントの海戦で英雄的な活躍をした。ところが司令官・スペイン王の弟の感状をもって帰国する途中で海賊に襲われて捕虜となり、5年間アルジェで奴隷生活を送る。33歳にやっと祖国の土を踏むが、兵士時代の手柄は無視され、徴税吏など不遇な身分に落ちた上で、50歳になって仕事の上のいざこざがもとで牢獄に繋がれる。彼はみずからの若き日の英雄的な活躍とその後のうらぶれた生活を、落ちぶれていく祖国スペインの歴史と重ね合わせて回顧し、その思いを騎士道物語を風刺する小説を書くことで結実させた。やせ馬にまたがり、古いがたがたの甲冑に身を固め、世の不正を正さんと旅に出る、ひょろひょろの初老の騎士ドン・キホーテは背伸びし過ぎたスペインと自分自身に対する愛情のこもった風刺であった。

 私はこの有名な小説を長い旅を終えて故郷の村にたどり着いたドン・キホーテの終わりの部分から読み始めた。その直前に彼は一人の騎士ともし敗れたら故郷に帰り1年間隠棲することを条件に試合をして、敗れたのだった。気落ちして故郷に戻り、張り詰めていた気持ちがゆるむと、彼は激しい熱病に取り付かれて6日の間床を離れられなくなった。彼は死が近いことを悟り、姪を呼んで公証人への遺言状作成依頼を手伝うように言った。
 1  従者として仕えてくれたサンチョ・パンサにはできるだけのことをしてほしい。貸借関係にある彼の所持金に返済を求めてはならない。私が狂人だった時に(このように自分の遍歴が半ば狂気の旅だっらことを悟った)彼を島の領主にすべく努力したが、正気に戻った今でも、できることなら、彼に一国の支配をゆだねたい。彼の単純で素直な性格と誠実な人柄は十分にそれに値するからである。
 1 姪のアントニア・キハーナの結婚に関しては、相手が騎士道物語とは何か知らぬ男であることを確認した上で結婚するように。相手が騎士道物語を知っているにもかかわらず、姪がその男と結婚する場合には、彼女は私から遺贈された財産を失う。遺言執行人はそれを慈善事業に寄付してほしい。

 遺言作成の3日後に、その場に居合わせた人々の深い同情と涙に見守られつつ、ドン・キホーテはその魂を神に捧げた、つまり、死んだのである。― この物語は、現代の速くせわしない世の流れについて行こうとしないスペインの人たちとその風土を象徴するように思われる。


総目次
ホームページに戻る