
<毛沢東の中国> 産経新聞“毛沢東秘録”取材班のレポート(扶桑社文庫・上中下三巻)を紹介する(左上は若き日の毛沢東)。事実は小説より奇なりという。このレポートは時間軸を入れ替えながら、私などの知らなかった中国共産党の歴史(1950-1980)を詳しく開陳する。冒頭に記すその一齣として、次の記述がある。毛沢東は妻の江青にだけは遂に劇的な行動や措置を取ることがなかったが、常人の思考の及ばない発想で周囲をとまどわせつつ、批判者を周到に追い詰めた。「真剣に学習し、体をいたわるのだ」と毛沢東は劉少奇に言った。毛沢東は文化大革命で国家主席の劉少奇を窮地に追いこんでおきながら、ある夜彼を呼んで優しげに気遣いの言葉をかけた。そのために“寛容な処分”を期待した劉少奇を待っていたのは、しかしより以上の過酷な糾弾とつるしあげだった。それから2年10ヶ月後誰にも看取られず非業の死を遂げる。毛沢東は二度と劉少奇に会おうとも救い出そうともしなかった。
毛沢東は“大躍進・人民公社化”の失敗を手紙で率直に指摘して失脚させた国防相の彭徳懐を招き、「君を批判したのは正しくなかった」と言い、地方の国防建設の任務を命じておきながら、文革で紅衛兵によって北京に連れ戻され、暴力的な批判攻撃で殺害されるのを放任した。これら要人たちの迫害について彼は逐一詳しい報告を受けていたのである。
1976年9月9日遂に毛沢東は永遠の眠りについた。死後の権力奪取に向けた四人組の動きは上海を拠点に激しさを増した。四人組は地方組織に重要案件の直接報告を求めて、越権と華国鋒の憤激を買った。江青は保管されている毛沢東のすべての文書を未亡人の自分に引き渡すように要求、毛文書を自由に扱うことは権力の獲得につながると華国鋒はこれを拒否した。四人組の一人で党副主席の王洪文は中央に出現する修正主義打倒の闘争宣言を発した。状勢を分析していた副主席兼国防相の葉剣英は党第一副主席兼国務院総理(首相)華国鋒にクーデタ防止の強硬措置が緊急に必要なことを説いた。10月5日翌日の四人組逮捕が決定した。党中央弁公庁主任汪東興が執行と行動部隊の指示を担当した。6日江青は自宅で、張春橋・王洪文・姚文元の三人は中南海・懐仁堂へ招かれその場で、隔離審査の即時執行を華国鋒によって宣言される。上海市党委員会は連絡を絶たれて混迷に陥り、蜂起と武装闘争を準備していた民兵たちには人民解放軍の圧倒的な包囲の中で解散命令が出された。
○林彪の話



<毛沢東詳論> クドイようだが、李志すい(糸偏に妥)という医者の書いた“毛沢東の私生活”(上下・文春文庫)という本の記述を通して、皇帝毛沢東の後半生を詳しくふりかえってみる。著者李志すい博士(1920-1995)は上流階級の家で北京で生まれたが、欧米で外科医として教育を受け、中国共産党が政権を取った後に祖国愛から中国に戻ってきた。その後間もなく縁あって毛沢東主席の主治医となり、毛の死去まで22年の長きにその職を務めて具に毛沢東の私生活ともつきあうことになる。本人は医者としての識見向上に努めたかったし、どろどろとした政争には一切巻き込まれたくなかったし、知りたくもなかったが、毛沢東は極めて屡その活動の場を地方に求め、主治医にも同行を求めたので、彼は長く家族を残して地方に同行し様々な事件に出会うことになる。また首都中南海にあっても、不眠症もあって毛沢東は深夜に彼を呼び出すのが常態なり、落ち着いた家族の生活は一切犠牲にせざるを得なかった。彼はずっと日記をつけており、1966年にはそのようなメモ類は40冊を越えたが、それを印刷物の形で公表するのは政争に巻き込まれる恐れからずっと避けていたし、文革が始まると紅衛兵に発見され悪用されるのを防ぐために一度は手記すべてを焼却した。毛主席の死後自由になって米国に移住した後、愛妻リリアンの遺言によって本書のまとめと出版を決意する。
1981年6月、毛沢東が死んで5年後に中国共産党中央委員会は“建国以来のわが党史における若干の歴史的問題に関する決議”という公式の判定を下し、毛沢東を偉大な革命家と呼んでその貢献は誤りの代償を上回るとした。そうなると毛沢東の私生活や日頃の言行が暴露されることは極めて望ましくないわけで、李博士の存在は彼が中国を去った後に公式の歴史から抹殺されてしまった。明らかに党中央から指令が出たに違いない。もちろん本書も中国では公認されておらず、刊行された時に北京政府の当局者は“事実無根の書”と一蹴した。中国共産党史研究室によると、毛沢東時代に処刑や餓死などで凡そ2600万人が死亡し、内訳は1952年2月までに“反革命分子”として87万3,000人が処刑され、“大躍進”が招来した餓死者が2215万人、“文化大革命”中に13万5000人が反革命罪で処刑、172万8000人が“異常な死”を遂げたとされる。北京は毛沢東を国家統一のシンボルとして護持せざるを得ない一方で、この陰惨な事実関係の総括に苦慮していることも間違いない。
すべての撮影された写真において、多数の人々の中で毛沢東を見分けるのに苦労することはない。彼は長身で独特の大きな顔で常に目立っているが、穏和で魅力的な表情をしている。初対面の相手に対して気楽に自由に語らせる雰囲気があった。しかし党員や追随者をコントロールするためには激しい怒りや蔑みの表情を駆使して恐るべき効果を発揮した。中国の史書を愛読し、戦略や奸計に注目して、待ちのタイミング、フェイントをかけたり退いたりする潮時、あるいは間接に攻撃をしかける術にかけて達人だった。“蛇を穴からおびきだす”のを好み、あとから相手をやりこめる用意にまず手の内をさらけだすように仕向けるのが巧みだった。李博士に言わせると毛沢東はまさに名優であった。家臣に追放を言い渡す説得ぶりがあまりに尤もらしかったので、犠牲者は感激してうやうやしく一礼しながら退去したという。毛は“無法無天”を唱え、“私は無法大学を卒業したのだ”と李に言った。毛は殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝に敬意を払った。彼らの成し遂げた事業に比べれば、残虐さなどは問題にならないというわけだった。
李志すいが主治医として採用される前に面接があった。経歴や食事の好みなどの話の後で毛は“哲学を勉強したか”と訊いた。李は医学書だけで精一杯だったが主席の二本の論文“実践論”と“矛盾論”は読んだと言った。毛は微笑んで実践論の方が重要な論文だったと言い、エンゲルスの“自然弁証法”を読み終わったから読むように渡してくれた。これで面接に合格したのだった。彼の宮廷は彼の生活リズムで動き、多くの活動は真夜中過ぎてから行われた。李博士が話し相手に午前3時ごろ呼び出されるのは珍しいことではなかった。女性が料理のように注文された。彼のために頻々とダンスパーテイが開かれた。各省の地方委員会第一書記は主席用の別荘を建て、毛はひっきりなしに移動した。“私にとって一箇所に長居するのはよくない”と毛は李に語った。主席専用列車が通過する時は一般列車は運行を停止し、ダイヤの混乱は一週間続いた。“魚は澄んだ水には棲めない”が彼の口癖で、彼は身辺警護関係者の反対を押し切って中国の三大河川で泳ぐ冒険を敢行した。これは自分の急進的な目標を裏切ろうとしている同志への挑戦をも象徴していた。
1956年の第8回党大会で同志たちは主席にタガをはめようとし、非スターリン化したソ連にならって党の規約から毛の指針を外し、個人崇拝を廃し、共産主義の早期実現に抵抗した。毛沢東は一旦後退したが、辛抱強く待ち、巻き返しを図る。外の人間の推し量れぬ陰の時間に毛の激しい心理的な葛藤は不眠症などの形で身体をもさいなんだが、李博士は巧みにこれを支え続けた。別居を強いられ精神的な葛藤に身をおく妻江青からも様々な形でいびられるが、李博士は賢明にこれを凌ぎきる。彼は努めて政治のしがらみから離れた位置に身をおこうとするが、毛の作り出した変革の波の激しさはそれを許さなかった。毛が重態になると、彼はじめ医師団は僅かの不手際で罪に問われかねない緊張した日々を強いられた。彼がやっと開放されるのは毛が死去、四人組が捉えられ、華国鋒がケ小平に代わった後であった。
<トポロジー> 頭の体操というスタンスで“トポロジー”という世界をかじってみる。日本語では“位相幾何学”というのだそうで、機械工学に属し摩擦を論ずる“トライボロジー”とは全く別物である。教材は“トポロジーの発想”(講談社ブルーバックス)。著者は川久保勝夫。経歴を見ると理学博士で正しくこの分野の専門家である。私より10年若いのだが、1999年に他界した。この世界を紹介して著者は次のように言う。“○と△を同じと見ると何が見えるか”。三角形や五角形などの図形の各辺の長さや曲がり具合、面積、角度といった目につきやすい情報を取り去り、裏に隠された根源的な本質を見極める。−量を捨象して質に注目する幾何学がトポロジーです。またローカルな性質から出発してグローバルな性質を探求する、あるいはその逆で、ローカルとグローバルの相関を探求する学問である。この考察は社会科学や日常生活にも応用できて、例えば表面的にはどこを見てもおかしくないのに、全体としてはどうもおかしいという場合に解明のヒントを与えてくれるだろうという。
具体的な問題の論議に移ろう。
○ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎博士が随筆“鏡の中の世界”の中で、鏡では左右のみ逆になり、上下が逆にならない理由をいろいろ論じた挙句、奥歯に物がはさまった感じでスッキリしない。一刀両断ズバリとした説明があれば教えてほしいと述べている。著者に言わせるとそれは“鏡に映る像は実物とは全く違うもの”という認識の欠如に起因しているという。鏡はオリエンテーションを逆にする作用がある。中学で教わるフレミングの右手、左手の法則がある。いずれも親指が力で人差し指が磁力線、中指は電流の向きを示す。右手は発電機の原理で左手は電動機の原理。両者はオリエンテーションが逆である。手の向きをどう変えても事態に変化はない。三次元空間には二つのオリエンテーションがあるのだ。(鏡では)左と右が逆と早とちりするから本質的な理解ができなくなる。




<修験道> 2004年7月、“紀伊山地の霊場と参詣道”がユネスコの世界遺産に登録された。“フランス西端とスペインの聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラを結ぶ巡礼道”に次いで参詣道が宗教的世界遺産に認められた2例目だという。修験道は人間と自然との呼応、いのちの響き合いの中に練り上げられてきた宗教で、人間は水と樹木のある自然の中で生かされているのだという、単純明快な認識を根底に置く宗教である。自然崇拝と自然への畏怖の念に始まる日本の宗教の原型が修験道の核をなしている。ーと“修験の世界”(久保田展弘・講談社学術文庫)は述べている。従って以下に述べる修験道の有り様は我々日本人の祖先たちから無意識に受け継いでいる哲学と強く関わっていると同時に、水や樹木に乏しい砂漠を発祥の地とする一神教たちーユダヤ教・キリスト教・イスラム教とは本質的に異質なのである。旧約聖書では、樹木に親しみ、森の息吹に心がふるえ、昇る太陽に感動し、月明かりに感激することを悪として戒めている。自然のありように心が動かされるのでは、唯一の神を疎外することになるからだと説く。嫉妬心の強い神の名でこういう規制をされては素直な人は育たない。山岳や河川、古木や巨岩などそのことごとくにカミを感ずる日本人と何たる差異であることか。
山岳修行では山駆けの途上、「サンゲ、サンゲ、六根清浄」と唱え続ける。“サンゲ”というのは“懺悔”の仏教読みであり、山岳という超自然に心の受けとめを期待する行為である。人は山に飛び込んで素直になる。私も若いころ人についてアチコチ山歩きをした。だが、実態は急峻な登りは別として、山道を走るのである。我々のは修験道とは心がけから違っていたが、この山道を走るというのは形だけではあっても修験道を真似ていたと思われる。その覚悟、習練度、速度において雲泥の差があったが。日本人はもともと天地の神々を春夏秋冬に祀り、五穀豊穣や疫病の退散を祈ってきた。神道は無論、仏教にも道教にも強い排除の思想はなかった。神が仏法による救済を求めているというので、伊勢に多度神宮寺が実現し、神社の境内に仏寺が建てられた。修験者が開いた霊山を伝来した仏教が利用することになった。平安時代最澄が比叡山を開き、空海が高野山を開いたというが、彼らはその地の修験者のエネルギを利用して修行自体を僧の教育システムとして山岳仏教を確立した。著者はその伝統を続日本紀に記載のある役小角(えんのおずぬ)の活躍に求めるべきであると主張している。彼は7世紀の山林修行者であり、優れた呪術師だったが詳しい記録はない。妖術で人を惑わせた罪で遠島に流されているが、彼は修験者の開祖、偉大な宗教家としてあがめられている。
修験道として冒頭に触れた熊野、出羽三山、比叡山に著者は自ら踏み込んで実体験記を記している。
まず熊野の大峯山。鎌倉時代初期の編集になる“諸山縁起”は大峯山系を南に行く奥駆けは山系の中間の巨岩を境にして吉野側を金剛界、熊野側を胎蔵の両部曼荼羅と見る。山を曼荼羅に例えるのは、山を悟りを得るための道場と捉えるのだろう。山を駈ける。それはミクロコスモス(小宇宙)である行者がマクロコスモス(大宇宙)である山岳を駈けることで、それによってミクロとマクロの一体感の内に自身が生きている壮大な曼荼羅に気づき、それを内面化していく。諸尊・山神・山霊に呼びかけ、それらとの一体感を得て、曼荼羅という世界観を実感する道程なのだろう。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、熊野詣は天皇上皇たちにも極めて盛んになり、修験者とは比べものにならぬにしても、出立前七日間の“精進屋”にこもる前行に始まる熊野三山への参詣は京都から往復一ヶ月を要し、自身と先祖を含む罪障の消滅を願う苦行の旅だった。これら尊き身分の中世の人々は道中に苦痛が多いほど功徳も多いと、体調がすぐれなくとも水垢離を取った。後白河上皇34回、後鳥羽上皇30回、鳥羽上皇21回を記録している。また那智籠千日行は花山法皇にはじまるとされ,安倍晴明・範俊・沙門行誉・三井寺長吏となった道瑜なども千日行を行ったという。この修行は那智の滝に打たれながら千日の間山籠し修行するものである。
山形県の中央部を北から南へ連なる出羽三山一帯は全国有数の豪雪地帯である。月山(1980m)・羽黒山(1436m)・湯殿山(1504m)にわたる秋の峰入り修行は千数百年の歴史をもち、その前後九日間に及ぶ羽黒修験は全国で位階昇進の許しが得られる資格が得られる。儀式は羽黒山の登り口である荒沢寺正善院で執り行われる。この修行は“死と再生の儀礼”とも呼ばれ、人間主体の価値観を否定する複雑な儀礼が組み込まれている。山へ入る前夜、参加者は大先達たちによって“笈からがき”と称する自身の葬儀を行ってもらう。即ち峰入り修行とは、世俗の価値観をもった人間が一度死に(擬死)、後に生命が芽生え、山中において育まれ、山を出る時には新たな生命体として誕生する(再生)というのが基本的なストーリーである。翌朝早く参加者全員(経験の多いものから順に並ぶ)の行列が進行し、やがて大斧に続く高さ5 mの梵天(男根の象徴)が大先達によって黄金堂に向かって倒されることで、男女の和合が成就したことになり、境内に喜びの法螺貝が鳴り響く。遺体を納めた筈の笈は母胎の役に変じ、背負う赤い紐は血管を表し、新たな生命の誕生を象徴する。導師が背負っていた笈は山伏の背に移され、笈の上の肩箱に白い班蓋が載せられて、笈の中の胎児は胞衣に包まれたことになる。行列は「南無阿弥陀仏・六根清浄・お山繁盛・大願成就」と唱えながら、羽黒山の参道を登り始める。
こうして入峰者一同は本格的な峰入り修行に放り込まれる。それは夜気を切り裂く“カチッ”という激しい固打木の音に始まり、南蛮いぶしの灰色の煙にむせ、五体投地の礼拝行を強いられる。ひたすら山道を駈けるかと思えば、「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前」の九字を激しく唱えながら手印を結ぶ九字護身法を伝授される。“懺悔文”を唱える懺悔の行を行う。修験道最高の秘法である柴灯護摩の修法を習い、先達たちの“火箸作法”を観る。このように“自己消滅”の葬儀は再三行われる。荒沢寺道場での“鳴子の作法”では謡曲“高砂”が謡われる。月山八合目から弥陀ヶ原の湿原地帯を抜けると、秘所・東補陀落には10 mほどの男根型巨岩がそそり立っており、入峰者は空洞を潜り抜けたところで“オギャア”と叫ぶことになっている。その日の夜の勤行では千巻心経の読経がある。満行の日、入峰者は羽黒山参道をかなりのスピードで駆け下り、黄金堂の参道上で燃え盛る“場柴灯(ばさいとう)”を“ウオー”という掛け声とともに飛び越える。これは銘々が産湯を浴びる姿だという。大先達から各人に院号が授与され、紫紋白結袈裟の着用が許される。
月山の本地仏は阿弥陀如来、湯殿山は大日如来、羽黒山は観世音菩薩である。経済的に優位に立っていた羽黒山側に比べて湯殿山側の寺には10体以上のミイラ仏(即身仏)が存するという。経済的に恵まれない風土が修験行者の中に五穀絶ち、木食行の果ての即身仏を生んだ。これらの人々の多くは教団の中でも低い地位にあり、常人の敵わぬ強烈な行によってのみその存在を示すことができた。注連寺の即身仏・鉄門海上人は湯殿の仙人沢で厳しい修行を重ねた上で、本明寺・海向寺を再建、南岳寺・西光寺を建立した。彼が江戸へ出た時に眼病の流行を見て自身の左眼をくりぬいて隅田川に投じ、眼病退散を祈ったという。
著者は比叡山の千日回峰行を行う酒井雄哉師に同行した話(もちろん1日だけだが)と大護摩供に(数時間)同席した話を載せている。この荒行を二度達成したのが酒井雄哉(さかいゆうさい)師である。師は妻の自殺をきっかけに40歳で得度し、1980年10月に千日回峰行を満行し、その半年後、再び千日回峰行に挑んだ。 二度目は58歳の高齢で凄絶(せいぜつ)な「堂入り」の荒行に耐え1987年7月に満行した。織田信長の叡山焼き討ち以後、千日回峰行を達成したのは49人(最新は藤波源信師)だが、千日回峰行を二度達成したのは千年の歴史の中でわずか三人との事である。
「歩く禅」とも云われている千日回峰行を行なうには強靭な精神と肉体が求められる。一度、「行」に入ると“不退の行”・“捨身苦行”と云われ、一日たりとも中断する事を許されない。中断は即ち死を意味している。それ故、行者から許可願いが差し出されると千日回峰行満行者で構成する「先達会議」が開かれ、「三年籠山」の実績を踏まえ厳しい審査を経て許可が下される。
叡山の行は三年籠山行も千日回峰行も「行」そのものに厳しい日程が課されている。特に、千日回峰行に入る事は同時に死を賭して「十二年籠山」に入る事を意味し、三年籠山行を終えた後、七年で回峰行を満行しなければならない。
千日回峰行の行者の装束は白の浄衣(じょうえ)を纏い「降魔(ごうま)の剣」、「未敷蓮華笠(蓮華とはハスの事。ハスの葉が開き切らずに両端が丸まった形をした笠)右手に檜扇(ひおうぎ)、左手に念珠、これが不動明王を擬する行者の姿との事。肩から下げる紐は首吊り用の死出紐と云い、腰には自害用の短刀を帯び、灯かりは小田原提灯一個、野袴をはいて手甲脚絆に草鞋を履き、供華袋(お供えする樒(しきみ)の小枝を入れた袋)を肩から吊るし、全て白一色の麻衣の“死に装束”で山上、山下を駈けるとの事。
回峰行はただ単に一千日間歩くだけではなく叡山の三塔十六谷の聖跡260余ヶ所、全ての神社仏閣、霊石、霊水、霊木に至るまで礼拝、遙拝しなければならない(三塔十六谷とは東塔、西塔、横川の三塔、東塔の東谷、北谷、南谷、無動寺谷、西谷と西塔の東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、西谷と横川の般若谷、兜卒谷、解脱谷、戒心谷、香芳谷、飯室谷の十六谷)。どこで何を礼拝し何を唱えるのか、その道順と礼拝の場所、所作を書き込んだ“手文”を師資相承の形で受け継がれている。
回峰の順路も無動寺回峰行と飯室回峰行があり、歩く距離も礼拝、遙拝する対象も場所も異なっている(飯室回峰行の方が約10キロほど距離が長い)。無動寺回峰行を例に取ると最初の三年間は一年に100日、一日に七里半(30キロ)歩き、足袋をはく事も「未敷蓮華」の笠をかぶる事も許されない。四年目と五年目は200日、一日に七里半歩き、四年目から足袋と笠が許される。五年で700日を満行し、断食、断水、断眠の“堂入り”に入る。六年目は一年に100日、京都市街の赤山(せきざん)禅院を往復する十五里(60キロ)、行者の足でも14〜15時間かかり赤山苦行と呼ばれている。七年目の最初の100日は一日に二十一里(84キロ)の京都市街を廻る大廻り、“お加持”をしながら歩くので行者の足でも18時間以上かかる。最後の100日は三塔十六谷を巡拝する一日、七里半に戻り、通常75日で打ち切られる。無動寺回峰行の歩く距離を計算してみると37650キロ、実に地球を一周して余りある距離を歩くのである。
千日回峰行を満行すると大行満大阿闍梨の尊称が与えられ、京都御所に“土足参内”が許される。回峰行の始祖、相応和尚が清和天皇の招きで参内し病気平癒を祈祷した故事に倣った儀式で千日回峰行者のみに許されている。千日回峰行を終えると自ら発願して七日間の断食、断水、不眠、不臥で大護摩供を行なう。この大護摩供を終えて千日回峰行が完全に満行する。大護摩供は全国の信者から寄せられた護摩木を不眠、不休で護摩壇の火炉に投じ、煩悩を焼き尽くす火あぶり地獄とも云われる荒行である。(護摩の火炎は智恵を意味し、護摩木は煩悩を意味する。護摩とは煩悩を焼き尽くして願い事の成就を祈願する密教独特の修法である。京の夏の夜を彩る五山の送り火も護摩である。)

<KIDS WORLD> 朝の一時たまたま他のテレビ番組に適当なものがなく、N.H.K.の教育テレビの幼児番組にチャンネルを回して漫然と眺めているうちに、画面と音声の新鮮さ・ユニークさに惹き付けられてしまった。番組構成が目ざましく変化していく。まず目にとまったシーンは左手に赤いジャージーを着た小錦(元大関)がフワフワ踊っている。中央には低い円筒形の演台があって賢そうな幼い少女がひとり乗っている。右手には少女と同じぐらいの年頃のこどもが三人演台の下の床に立っている。小錦の体躯は実に大きく、四人の子供たちの10倍以上の体積がある。中央の少女がその小錦に“コニちゃん、しっかり踊って!”と声をかけ、それに応じて小錦が動きを早める。中央の少女は歌を歌いながら台の上で激しく巧みに踊る。右手の三人のこどもも歌につれて少女と同じように踊ろうとするが、動作はいまひとつ鈍い。左のコニシキも体が大きいからやはり動きは遅いので、中央の少女の踊りの見事さだけが目だってしまう。“コニちゃんは総身に知恵が回りかね”(本当はそんなことはないのですが)という図式である。


<病気の予防> 2002年12月の<治癒力>は現代医療の問題点をかなり総花的に論及した。今回紹介するのは、人は自己の身体の自然治癒力を重視して癌を中心とする疾患に対処すべきかを説いた国際的な免疫学者の論説である。教材は “病気は自分で治す”(安保徹・新潮社)で、ごく分かりやすい構成を取っているので一読をお勧めする。あとがきで著者は次のように述べている。−自律神経の働きと白血球分布との連動を理解することができれば、難病の発症メカニズムも容易に解明することができます。原因にさかのぼって病気を治す力も生まれるのです。複雑に思える人間のからだの機能も、根本のところでは驚くほどシンプルで、整然と繋がって無駄なくつくりあげられています。人間のからだは、実に単純で美しいものなのですー
慢性疾患や難病といわれるほとんどの疾患は患者自身の生き方の偏りに起因している。一例を挙げると長時間にわたる労働や心の悩みをずっと抱えているような生活はストレスによって交感神経を緊張させ続ける。すると血流障害と白血球による組織破壊が起こり、遂には膠原病やガンになってしまう。逆にストレスを避けた生活が極端に走ると、運動不足と無気力が副交感神経優位の過剰を生み、疲れやすさとリンパ球増大を生み、アレルギー性疾患や活力を失う病気にかかる。またおだやかな生き方を心がけて反って感受性が高まり、神経過敏になってストレスを受けやすくなる。人間はゆとりがあるようで、意外にギリギリのところで生きている。がんばり過ぎても、逆に楽をし過ぎても人は健康に生きることができない。バランスを取ることが重要である。よく病院で原因不明の病気と診断されることがある。そういう時は自分で生活を振り返った、生き方の無理を探す必要がある。
睡眠時間を削って働き続ける猛烈サラリーマンの生活はいずれ破綻する。逆に日中は楽をして深夜まで夜更かしすると午前中は無気力な不健康に陥る。日の出とともに起き出して、日が沈んだら休息するという、人類が数万年続けた生き方を守るのがいい。母親にありがちな“きれい好き”で細菌を体内に取り込まない生活習慣が嵩じると、リンパ球過剰を招き、少しの抗原にも過剰反応するアレルギー性疾患にかかるようになる。“きれい好き”はストレスのもとになる。塩分摂取不足がボケの原因の一つになっている。塩分の摂取量は自分の感性で決めるのがよい。一方痴呆・認知症には甘いものの食べ過ぎが圧倒的に多いという統計がある。
膠原病やガン、風邪で起こる発熱は体温が上がってリンパ球が働き出す最高の環境なので、からだを暖かくしてゆっくり休むのがよい。決して薬で熱を下げたり、からだを冷やしてはいけない。ガンの自然退縮の前には発熱が大きい力になる。病気につきものの痛み・腫れ・発熱はプロスタグランジンという組織ホルモンの力で起こる生体反応で、これによって組織修復・治癒が期待できる。それをよく病院で処方する消炎鎮痛剤でプロスタグランジンの生成を抑えるのは本末転倒である。“ペニシラミン”・“ステロイド”・“メトトレキセート”などの抗炎症剤は一時的な効果があるように見えても、有害無益である。肩こりや腰痛は、暖めて血流を増せば治る。石原結実医師の“体を温めると病気は必ず治る”がベストセラーになっている。
ガン患者の手術の際に行われるリンパ節郭清(リンパ節をすっかり取り除いてしまう手術)ほど本末転倒で悲しいことはないと著者は言う。ガン細胞がリンパ節に見つかりやすいのも、リンパ節によるガン処理能力の素晴らしさを表すもので、リンパ節にガン細胞が見つかったからといって、リンパ節を除去するのはマイナスで、からだの防御系を破壊し、転移を促進させる医療行為である。リンパ浮腫を招き、免疫系の低下を来たす。リンパ節の処理能力が十分に発揮されるには、自律神経系のバランスがよく、深部体温が37度C以上ある必要がある。抗ガン剤は代謝阻害剤で、正常細胞に対する増殖抑制作用が非常に強いだけでなく、リンパ球に対する抑制作用が強いので免疫抑制剤と言うべきで、その意味では寧ろ発ガン剤と呼ぶ方が当たっていると著者は言う。先にガンは無理な生き方による交感神経緊張の持続から惹き起こされることを指摘したが、からだを労わる生活に切り替えようとせず、手術・抗ガン剤・放射線治療というガンの三大療法に引きずり込まれる人が多い。問題は @患者が病気を作ったという自覚がなく、病気は他人が治してくれるものと考えており、A抗ガン剤など身体を消耗させる治療が病気を助長する、B抗ガン剤や放射線治療が激しい低体温を作って生体を破綻に導くと指摘する。
著者は医学博士だが医者ではない。最近の医療の行き方に対して明らかに批判的なのだが、世の趨勢を頭から否定するような野暮なことはせず、自分の体調管理を医者任せにする患者の不心得を指摘するのに留めている。しかし医療機器の進歩でC.T.、M.R.I.、P.E.T.などにより直径数ミリのガンでも発見できるようになり、30人検査をしたら必ず一人は見つけてみせると意気込む医師を槍玉にあげ、ガンの発生と縮退は身体の中で頻繁に起こっていることで、徒にガン患者を増やしても無益であると断じている。また再発の有無を調べるために3ヶ月に1回検査をする、それを10年も続けるなどというのは、患者にとって大きなストレスになり、反って再発を促してしまう、1年後に1回検査し問題がなければそれでおしまいにするぐらいでよいという。確かにマスコミを含めて世の中検査々と言い過ぎる。病院の購入した高い検査機器を早く償却するために検査に協力を強いられるような具合だ。

<早稲田実業優勝> 甲子園の高校野球は、特に代わりの投手がいないチームにとって終盤へ行くにつれて厳しさを増す。今年は決勝戦が投手戦で15回の延長戦で1:1のまま決着が着かず翌日再試合となったから、例年以上の猛暑の中で準々決勝から4日間42イニングの連投という凄いことになった。優勝した早稲田実業(西東京)の斉藤佑樹投手と相手の駒大苫小牧(南北海道)の田中将大投手の二人は見事にこの試練を乗り切った。尤も駒大苫小牧にはやや非力ながらもう一人投手がいたが、打ち込まれて早々に田中に代わったから、田中はほぼ互角に斉藤と渡り合ったことになる。流石に最終日は田中に少し疲れの影が濃く、その差が勝敗を分けたとも言えるが、斉藤も最終回2点本塁打を打たれて1点差に迫られたのだから、差は僅かだったとも言えるが、13奪三振、118球完投で宿敵駒大苫小牧を制したのはやはり見事だった。今夏の甲子園での斉藤の投球数は948球に達した。
今年の甲子園は打撃戦が多く、8点差をひっくり返すような逆転劇もあり、ホームランも多くて盛り上がったが、決勝に残った両チームは好守を競って勝ち残ってきた。決勝再試合は37年前の松山商対三沢高以来で、雪の多い北海道チームが決勝まで勝ち残ったのも昔はなかったことである。駒大苫小牧は雪の積もったグラウンドで練習を重ねてきたそうで、春は不祥事があって出場辞退に追い込まれたが、チームの執念がこの準優勝を勝ち取った。駒大苫小牧は昨年早実を破っており、中京商業以来73年ぶり2校目の3連覇がかかっており、実力的にも早実を上回ると見なされていた。
