8月の話題


2006年8月

<毛沢東の中国> 産経新聞“毛沢東秘録”取材班のレポート(扶桑社文庫・上中下三巻)を紹介する(左上は若き日の毛沢東)。事実は小説より奇なりという。このレポートは時間軸を入れ替えながら、私などの知らなかった中国共産党の歴史(1950-1980)を詳しく開陳する。冒頭に記すその一齣として、次の記述がある。毛沢東は妻の江青にだけは遂に劇的な行動や措置を取ることがなかったが、常人の思考の及ばない発想で周囲をとまどわせつつ、批判者を周到に追い詰めた。「真剣に学習し、体をいたわるのだ」と毛沢東は劉少奇に言った。毛沢東は文化大革命で国家主席の劉少奇を窮地に追いこんでおきながら、ある夜彼を呼んで優しげに気遣いの言葉をかけた。そのために“寛容な処分”を期待した劉少奇を待っていたのは、しかしより以上の過酷な糾弾とつるしあげだった。それから2年10ヶ月後誰にも看取られず非業の死を遂げる。毛沢東は二度と劉少奇に会おうとも救い出そうともしなかった。

 毛沢東は“大躍進・人民公社化”の失敗を手紙で率直に指摘して失脚させた国防相の彭徳懐を招き、「君を批判したのは正しくなかった」と言い、地方の国防建設の任務を命じておきながら、文革で紅衛兵によって北京に連れ戻され、暴力的な批判攻撃で殺害されるのを放任した。これら要人たちの迫害について彼は逐一詳しい報告を受けていたのである。

 1976年9月9日遂に毛沢東は永遠の眠りについた。死後の権力奪取に向けた四人組の動きは上海を拠点に激しさを増した。四人組は地方組織に重要案件の直接報告を求めて、越権と華国鋒の憤激を買った。江青は保管されている毛沢東のすべての文書を未亡人の自分に引き渡すように要求、毛文書を自由に扱うことは権力の獲得につながると華国鋒はこれを拒否した。四人組の一人で党副主席の王洪文は中央に出現する修正主義打倒の闘争宣言を発した。状勢を分析していた副主席兼国防相の葉剣英は党第一副主席兼国務院総理(首相)華国鋒にクーデタ防止の強硬措置が緊急に必要なことを説いた。10月5日翌日の四人組逮捕が決定した。党中央弁公庁主任汪東興が執行と行動部隊の指示を担当した。6日江青は自宅で、張春橋・王洪文・姚文元の三人は中南海・懐仁堂へ招かれその場で、隔離審査の即時執行を華国鋒によって宣言される。上海市党委員会は連絡を絶たれて混迷に陥り、蜂起と武装闘争を準備していた民兵たちには人民解放軍の圧倒的な包囲の中で解散命令が出された。

 ○林彪の話

 その10年前、文化大革命の紅衛兵を陣頭指揮したのは国防相の林彪と江青だった。林彪は紅衛兵に対して「すべての旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣をたたきつぶそう」と“四旧打破”を呼びかけた。更にさかのぼって1962年、毛沢東の“大躍進”や“人民公社化”の急進路線が挫折し、毛沢東が指導責任を認めた中央工作拡大会議でも、林彪は毛沢東の正しさを主張し続けた。“困難な時期にこそ主席の命令に従うべきだ”と述べて毛沢東は救われた思いがした。毛・林と劉・ケの間に溝ができた。国防相だった60年には“四個第一”を唱え、“武器と人間では人間が、軍事工作と政治工作では政治工作が、事務的工作と思想工作では思想工作が、書物による思想と生きた思想では生きた思想(毛沢東思想)”が第一と主張して、簡にして要を得ていると毛沢東に褒められている。61年には“解放軍報(解放軍機関紙)には常に毛主席の語録を掲載せよ”と命じ、64年には軍内の学習文献として一冊の本にまとめられて“毛沢東語録”となった。これは文革最盛期には50億冊印刷されて中国全土を赤く染めることになる。

 しかし文革が燃え盛る1967年、江青の派遣した王力が武漢の武装部隊に拉致され(武漢事件)、林彪がこれを反革命反乱と断罪しようとした時に毛沢東は責任者の陳再道につき寛大な処置を命じた。毛沢東は文革の収束を考え始めていた。彼は林彪の唱えた“四つの偉大”(偉大な教師、偉大な領袖、偉大な統帥者、偉大な舵取り)が気に入らない、煩わしいと述べ、人民解放軍参謀長代理の楊成武に古参幹部の講習と復活を命じた。1969年中ソ国境の珍宝島で中ソ両軍の武力衝突事件が発生し、林彪に排除されていた軍長老に復活の機会が与えられた。また第九回党大会では劉少奇は永久除名の処分を決めたが、ケ小平の批判を禁じた。江青はケ小平の党籍剥奪を主張したが、毛沢東は取り合おうとしなかった。一方で毛沢東は党規約改正案に手を入れ、林彪を毛沢東の後継者と規定した。林彪の口癖は“毛主席にぴったり付きしたがう”だった。

 70年に周恩来から憲法改定草案を受け取った毛沢東は“国家主席は設けない”と条文削除を提案した。蘇州にいた林彪はこれを聞いて毛が国家主席になるべきだと提案してきたが、毛は取り合わなかった。憲法改正問題を討議する党内会議で林彪は憲法の序文に毛沢東を“天才”と明記するよう強硬に主張した(廬山会議)。しかし毛沢東は受け入れなかった。陳伯達は華北組の会議で林彪が国家主席になることに反対の四人組を代表する張春橋を批判して“天才を否定することはプロレタリア独裁を否定することだ”と決め付け、演説の主旨を速報で流した。江青の訴えで毛沢東は政治局常務委員を集めて裁決した。国家主席の問題は二度と持ち出してはならないと陳伯達に言い渡し、林彪にも国家主席にならないよう忠告するーと釘を刺した。党内NO.4だった陳伯達は政治生命を絶たれることになり、林彪は敗北を悟った。対ソ緊張への対応策として毛と周は対米接近を図り、林の出る幕はなかった。

 林立果は林彪の長男で異例のスピード出世を遂げ空軍司令部弁公室副主任だったが、情勢に不満をもち、林彪側近の将軍たちに不満をもって青年将校を糾合し“クーデタ”を企画した。計画書に曰く“彼(毛沢東)は既に現代の秦の始皇帝になってしまっている。彼は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行い、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を執行する中国歴史上、最大の封建的暴君である。”計画名は“武(装)起義”と“五七一”とは発音が同じことから、林立果は“五七一工程”とした。計画に参加したのは空軍司令部党委員会内に設けられた“連合艦隊”メンバーの若手将校で、毛沢東をB-52の暗号名で呼んだ。

 1971年8月炎暑の中を毛沢東は南方巡視を始めた。毛沢東は武漢・長沙・南昌・杭州を巡り、党内分裂を戒めて団結を求め、廬山会議の総括が必要と暗に林彪の責任を問うた。この講話の内容は毛沢東の命で秘せられていたが、20日後に河北省の別荘にいた林彪・妻の葉群・林立果の知るところとなり、林彪は自分が劉少奇と同じ運命を辿ると悟った。9月7日林立果は連合艦隊に戦闘準備を命令し、9月8日林彪は武装クーデターの命令を発した。計画としては南巡中の毛沢東を暗殺し、同時に江青のいる北京釣魚台の迎賓館を襲撃するのだったが、具体策が煮詰まらず時間が経過した。南巡に同行していた中央警衛局長汪東興は杭州で何人かの気になる動きの情報を得て、毛沢東は専用列車を移動させることにした。列車が上海に着くと汪東興は車両周囲を百人の警衛部隊で固め、毛沢東は下車せず接見した王洪文に簡単な挨拶をすると直ちに発車させた。連合艦隊メンバーの王維国は何もできないままに列車を見送った。列車は南京・徐州・済南・天津を数分しか停車せず北京まで走り抜けた。11日夜小田原評定を続ける林立果たちに王維国から毛沢東の列車が既に上海を離れた報告が入り、彼らを呆然とさせた。林立果は涙を流し、“首長(林彪)は命さえ私にあずけたのに。あわせる顔がない”と嘆いた。

 暗殺計画に失敗した林彪と妻葉群は南方の広州に逃亡する計画を練った。この逃亡計画を周囲に悟らせないようにするために葉群は9月12日娘林立衡の婚約式を急遽準備させた。一方林立果はトライデント機を専用機として用意し、両親のいる北戴河の山海関空港に飛んだ。林立果は姉の婚約式に出席した筈なのに両親とともに様子がおかしいので、林立衡は林彪の警衛参謀呉文虎に問いただし、遂に林彪の警護を担当する8341部隊の詰め所に両親の逃亡計画を通報した。その通報は直ちに国務院総理の周恩来に報告され、航空機の動きを調べた周恩来は山海関空港に空軍のトライデントがいることを知った。林彪は周恩来がトライデントの飛行阻止に動き出した情報に慌て、葉群・林立果とともに深夜急遽車で空港に向かい、8341部隊の検問を突破し、猛スピードでトライデント機に向かい、タラップが外されていたので梯子で操縦席に転がり込んだ。直後に機は副操縦士も通信士もいないまま動き出し、追尾する8341部隊を振り切って、離陸阻止のために誘導灯も消された滑走路でスピードを上げて西方の空に消えた。

 周恩来は中南海に急行し、毛主席に追撃するか最終判断を仰いだ。毛はゆっくりと執務室を歩き回り、考え、こう言った。「雨は降るもの、娘は嫁に行くもの。どうしようもない。好きにさせるがいい」 西に向かっていたトライデント機は内蒙古自治区上空で急に進路を北へ向けた。14日朝モンゴル外務省から電話があり、“13日午前2時ごろウンドウルハン地区にジェット機1機が墜落しました。墜落機は中国人民解放軍の機で、乗員9名内1名は女性ですが不幸にも全員死亡しました。軍用機の侵入に抗議し、正式な釈明を望みます”と連絡があった。墜落の原因は燃料切れによるものと確定した。毛沢東は“林彪事件の理想的な結末だ”と呟いた。72年6月末スリランカ首相ナンダラナイケと会見した毛沢東は公式に初めて林彪の失脚と死亡を認め、“いわゆる左派はその実、反革命そのものです。黒幕の総帥は林彪です”と語った。“毛主席的親密戦友”は4年後に同じ共産党から“野心家、陰謀家、反革命両面派、叛徒、売国賊”と断罪された。

 ○毛沢東の立場

 1956年2月24日ソ連共産党第20回大会閉幕直後、党第一書記フルシチョフは7時間にわたり“個人崇拝とその結果について”と題する演説を行い、スターリンの独裁に対する痛烈な糾弾を行った。この報告は秘密会で行われたために、大会に出席したケ小平も締め出されていた。秘密報告は3月10日N.Y.タイムスがスクープした。毛沢東はフルシチョフに激しい怒りを抱いた。スターリンに対する批判は、(各国共産党と同じく)中国共産党と独裁的な指導者、毛沢東の信頼性を根底から揺るがす危険性があった。中国共産党はこの影響を受け、第8回党大会で個人崇拝排除の観点に立ち党規約から“毛沢東思想を党活動の指針とする”を削除した。毛沢東には体制に自信があり、翌年自由な論争“百家争鳴・百花斉放”を唱えたが、知識分子たちから痛烈な党批判が一斉に飛び出し、驚いて反右派闘争としてこれを弾圧せざるを得なくなった。この挫折は以後の毛沢東を急進路線に向かわせ、永続革命論を前面に打ち出すことになる。

 58年からは大躍進・人民公社化を進める一方で、味方の領域(人民の海)深く敵を誘い入れ、遊撃戦で殲滅するという“人民戦争論”を推進した。折からフルシチョフと通じていた彭徳懐は毛の独裁的な言行に批判的であった。彭徳懐は生産現場に大混乱を起こしつつあった大躍進・人民公社化の急進化政策を批判する手紙を書き、その本質的欠陥に鋭く切り込んだ。毛沢東は怒り、手紙を幹部に公表した。周恩来と劉少奇は内容に同意する点が多かったが、毛の心情を忖度して多くを言わなかった。しかし建軍の父と信望の厚かった朱徳は“農民に所有地を認め、やる気を起こさなければダメだ”と同調したし、二三の者が公然と彭徳懐を擁護した。彭徳懐は毛の手紙公表を非難したが、毛は無視した。彼にとってそれどころではなかったのである。1959年8月廬山会議は彭徳懐とそれに同調する張聞天・黄克誠・周小舟は”軍事クラブ“という反党集団を結成したとして、職務解任を決議した。この決議は国民に公表することはなかったが、会議で権威の維持のために彭徳懐を断罪した林彪が(その手柄により)彭に代わって国防相に就任した。

 1959年10月中国の建国10周年を祝う国慶節にフルシチョフが訪中した。彼はキャンプ・デービッドで米ソの平和共存を約したばかりで得意満面だったが、反発する毛との関係は最悪になり、原爆技術援助の技術者は引き揚げることになった。フルシチョフは大躍進・人民公社政策を嘲笑し、共同声明もないままに北京を去った。以後30年間中ソ会談は開かれることはなかった。1961年餓死者は2000万人近くに達し、天災もあいまって凄惨な食糧難に見舞われた。政策の転換が図られ、農民の労働意欲を高める施策が打ち出された。人民公社制度の後退であったが、毛沢東も背に腹は代えられず了解せざるを得なかった。“経済調整”は国家主席の劉少奇と党総書記のケ小平が推進、党政治局員兼北京市長の彭真も大きい役割を果たした。彭真の率いる機関紙“北京日報”などには毛への痛烈な風刺コラムが登場した。1962年の中央拡大工作会議で劉少奇は経済の困難は“天災三分、人災七分”と総括した。毛沢東は“党中央が間違いを犯せば、それは私の責任だ。だが我々が社会主義経済を建設しなければどうなるか。修正主義、資本主義国家に変わるだろう。警戒が必要だ。よく考えよ”と反論した。国務院副総理の陳雲は毛沢東に農家の生産意欲を高めるために戸別請負制を進言したが、毛は修正主義だと反対した。彼にすれば容認したのは飢餓から抜け出すための一時的な経済調整だけだった。

 劉少奇とケ小平は極端な集団化政策を緩和し、一部自主生産を認める形で経済調整を進め、62年ごろから経済は回復基調に入っていた。毛沢東は不満だった。自主生産は必ず社会主義を滅ぼす、人民は社会主義的に改造されなければならないと社会主義教育を唱えた。しかしその実効が上がらない。劉少奇は党組織の全面的な指導による教育・啓蒙運動を打ち出した。大衆運動に依拠した階級闘争の徹底を目指す毛沢東の狙いは骨抜きにされた。毛沢東の劉少奇に対する憎悪と不信は募る一方になった。1965年毛沢東は党内に資本主義の道を歩む裏切り者がいると確信するに至った。1966年8月党八期中央委員会が開催され、参会者は会場に配布された資料を見て驚愕する。そこには毛沢東の字で“司令部を砲撃せよー私の大字報”という表題と“一部の指導者の同志は反動的資産階級の立場から文化大革命運動をたたきつぶし、無産階級の士気をくじいて得意になっている。なんと悪辣なことか”に続く指令文が載っていた。総会では劉少奇が文革急進派の過激な活動を抑えるために派遣した工作組が毛によってやりだまに上がった。毛沢東は党中央機構の改組を提案し、従来の慣例に反して選挙によらず彼の作った名簿によった。毛はこの時を契機として第一線に復帰し、劉少奇は党内序列8位に落ちて実権を失った。

<毛沢東詳論> クドイようだが、李志すい(糸偏に妥)という医者の書いた“毛沢東の私生活”(上下・文春文庫)という本の記述を通して、皇帝毛沢東の後半生を詳しくふりかえってみる。著者李志すい博士(1920-1995)は上流階級の家で北京で生まれたが、欧米で外科医として教育を受け、中国共産党が政権を取った後に祖国愛から中国に戻ってきた。その後間もなく縁あって毛沢東主席の主治医となり、毛の死去まで22年の長きにその職を務めて具に毛沢東の私生活ともつきあうことになる。本人は医者としての識見向上に努めたかったし、どろどろとした政争には一切巻き込まれたくなかったし、知りたくもなかったが、毛沢東は極めて屡その活動の場を地方に求め、主治医にも同行を求めたので、彼は長く家族を残して地方に同行し様々な事件に出会うことになる。また首都中南海にあっても、不眠症もあって毛沢東は深夜に彼を呼び出すのが常態なり、落ち着いた家族の生活は一切犠牲にせざるを得なかった。彼はずっと日記をつけており、1966年にはそのようなメモ類は40冊を越えたが、それを印刷物の形で公表するのは政争に巻き込まれる恐れからずっと避けていたし、文革が始まると紅衛兵に発見され悪用されるのを防ぐために一度は手記すべてを焼却した。毛主席の死後自由になって米国に移住した後、愛妻リリアンの遺言によって本書のまとめと出版を決意する。

 1981年6月、毛沢東が死んで5年後に中国共産党中央委員会は“建国以来のわが党史における若干の歴史的問題に関する決議”という公式の判定を下し、毛沢東を偉大な革命家と呼んでその貢献は誤りの代償を上回るとした。そうなると毛沢東の私生活や日頃の言行が暴露されることは極めて望ましくないわけで、李博士の存在は彼が中国を去った後に公式の歴史から抹殺されてしまった。明らかに党中央から指令が出たに違いない。もちろん本書も中国では公認されておらず、刊行された時に北京政府の当局者は“事実無根の書”と一蹴した。中国共産党史研究室によると、毛沢東時代に処刑や餓死などで凡そ2600万人が死亡し、内訳は1952年2月までに“反革命分子”として87万3,000人が処刑され、“大躍進”が招来した餓死者が2215万人、“文化大革命”中に13万5000人が反革命罪で処刑、172万8000人が“異常な死”を遂げたとされる。北京は毛沢東を国家統一のシンボルとして護持せざるを得ない一方で、この陰惨な事実関係の総括に苦慮していることも間違いない。

 すべての撮影された写真において、多数の人々の中で毛沢東を見分けるのに苦労することはない。彼は長身で独特の大きな顔で常に目立っているが、穏和で魅力的な表情をしている。初対面の相手に対して気楽に自由に語らせる雰囲気があった。しかし党員や追随者をコントロールするためには激しい怒りや蔑みの表情を駆使して恐るべき効果を発揮した。中国の史書を愛読し、戦略や奸計に注目して、待ちのタイミング、フェイントをかけたり退いたりする潮時、あるいは間接に攻撃をしかける術にかけて達人だった。“蛇を穴からおびきだす”のを好み、あとから相手をやりこめる用意にまず手の内をさらけだすように仕向けるのが巧みだった。李博士に言わせると毛沢東はまさに名優であった。家臣に追放を言い渡す説得ぶりがあまりに尤もらしかったので、犠牲者は感激してうやうやしく一礼しながら退去したという。毛は“無法無天”を唱え、“私は無法大学を卒業したのだ”と李に言った。毛は殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝に敬意を払った。彼らの成し遂げた事業に比べれば、残虐さなどは問題にならないというわけだった。

 李志すいが主治医として採用される前に面接があった。経歴や食事の好みなどの話の後で毛は“哲学を勉強したか”と訊いた。李は医学書だけで精一杯だったが主席の二本の論文“実践論”と“矛盾論”は読んだと言った。毛は微笑んで実践論の方が重要な論文だったと言い、エンゲルスの“自然弁証法”を読み終わったから読むように渡してくれた。これで面接に合格したのだった。彼の宮廷は彼の生活リズムで動き、多くの活動は真夜中過ぎてから行われた。李博士が話し相手に午前3時ごろ呼び出されるのは珍しいことではなかった。女性が料理のように注文された。彼のために頻々とダンスパーテイが開かれた。各省の地方委員会第一書記は主席用の別荘を建て、毛はひっきりなしに移動した。“私にとって一箇所に長居するのはよくない”と毛は李に語った。主席専用列車が通過する時は一般列車は運行を停止し、ダイヤの混乱は一週間続いた。“魚は澄んだ水には棲めない”が彼の口癖で、彼は身辺警護関係者の反対を押し切って中国の三大河川で泳ぐ冒険を敢行した。これは自分の急進的な目標を裏切ろうとしている同志への挑戦をも象徴していた。

 1956年の第8回党大会で同志たちは主席にタガをはめようとし、非スターリン化したソ連にならって党の規約から毛の指針を外し、個人崇拝を廃し、共産主義の早期実現に抵抗した。毛沢東は一旦後退したが、辛抱強く待ち、巻き返しを図る。外の人間の推し量れぬ陰の時間に毛の激しい心理的な葛藤は不眠症などの形で身体をもさいなんだが、李博士は巧みにこれを支え続けた。別居を強いられ精神的な葛藤に身をおく妻江青からも様々な形でいびられるが、李博士は賢明にこれを凌ぎきる。彼は努めて政治のしがらみから離れた位置に身をおこうとするが、毛の作り出した変革の波の激しさはそれを許さなかった。毛が重態になると、彼はじめ医師団は僅かの不手際で罪に問われかねない緊張した日々を強いられた。彼がやっと開放されるのは毛が死去、四人組が捉えられ、華国鋒がケ小平に代わった後であった。

<トポロジー> 頭の体操というスタンスで“トポロジー”という世界をかじってみる。日本語では“位相幾何学”というのだそうで、機械工学に属し摩擦を論ずる“トライボロジー”とは全く別物である。教材は“トポロジーの発想”(講談社ブルーバックス)。著者は川久保勝夫。経歴を見ると理学博士で正しくこの分野の専門家である。私より10年若いのだが、1999年に他界した。この世界を紹介して著者は次のように言う。“○と△を同じと見ると何が見えるか”。三角形や五角形などの図形の各辺の長さや曲がり具合、面積、角度といった目につきやすい情報を取り去り、裏に隠された根源的な本質を見極める。−量を捨象して質に注目する幾何学がトポロジーです。またローカルな性質から出発してグローバルな性質を探求する、あるいはその逆で、ローカルとグローバルの相関を探求する学問である。この考察は社会科学や日常生活にも応用できて、例えば表面的にはどこを見てもおかしくないのに、全体としてはどうもおかしいという場合に解明のヒントを与えてくれるだろうという。

 具体的な問題の論議に移ろう。
 ○ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎博士が随筆“鏡の中の世界”の中で、鏡では左右のみ逆になり、上下が逆にならない理由をいろいろ論じた挙句、奥歯に物がはさまった感じでスッキリしない。一刀両断ズバリとした説明があれば教えてほしいと述べている。著者に言わせるとそれは“鏡に映る像は実物とは全く違うもの”という認識の欠如に起因しているという。鏡はオリエンテーションを逆にする作用がある。中学で教わるフレミングの右手、左手の法則がある。いずれも親指が力で人差し指が磁力線、中指は電流の向きを示す。右手は発電機の原理で左手は電動機の原理。両者はオリエンテーションが逆である。手の向きをどう変えても事態に変化はない。三次元空間には二つのオリエンテーションがあるのだ。(鏡では)左と右が逆と早とちりするから本質的な理解ができなくなる。

 ○トポロジーでは図形を自由奔放に変形しても同じものと見なすが、“切った、貼った”をすると異なる図形になる。その典型的な例の一つが“メービウスの輪”である。細長い短冊状の紙の両端を素直に貼り合わせて円環を作る。次に短冊状の紙の一端を180度ねじって貼り合わせる。前者は表と裏の区別ができるが後者では表と裏の区別ができない。両者はトポロジーで言う異なる形になる。両者を帯の中央をはさみで切ってみる。前者はもちろん幅が半分の二つの円環になる。メービウスの帯の方は二つに分かれないでねじれた一つの細長い帯になる。この帯は表と裏の区別ができる。しかも180度の捩りは4回行われている。これをもう一度帯の中央にはさみを入れる。今度は帯は二つに分かれるが、互いに絡まっていて、それぞれは切り離す前と同様に4回捩った帯になっている。更にこれを繰り返すと、帯の数が2倍に増えますます絡み合っていく。裏表のない帯が生ずるのは最初のメービウスの輪だけである。今度はこのメービウスの輪を三等分にはさみを入れてみる。すると短いメービウスの輪とそれと絡み4回捩った長い輪に分かれる。これを頭の中だけで推測するのは困難だろう。

 ○オイラーはトポロジー研究上の不変量として“オイラーの標数”を次のように定義した。
 図形のオイラーの標数=(頂点の数)−(辺の数)+(面の数)
 正多面体というのは5種類しかない(括弧内に構成要素面の図形を示す)。それぞれのオイラーの標数を求めると、正4面体(正3角形):4-6+4=2、正6面体(正4角形):8-12+6=2、正8面体(正3角形):6-12+8=2、正12面体(正5角形):20-30+12=2、正20面体(正3角形):12-30+20=2とすべて2である。なおサッカー・ボールは正多面体ではなく、正20面体の各頂点を切り落とした形になっている(写真)。各頂点には5枚の3角形が集まっているので、切り口は正5角形になる。元の三角形は三つの角を切り取られて正6角形に変わる。こうしてサッカー・ボールは12枚の正5角形と20枚の正6角形から成る(下に展開図)。オイラーの標数は60-90+32=2である。ちなみにまさしくこの形をした分子が自然界に存在する。炭素原子が60個並ぶC60という分子でフラーレンと呼ばれる。ここでオイラーの多面体定理として“球面と同相な図形のオイラーの標数は2である”が成立する。

 ○ところで正6角形を何枚か貼り合わせてボール状のものができないだろうか。正6角形をn枚集めてそういうものができたとする。辺の数は3nである。頂点には3枚の面が集まるから2nである。面の数は当然nである。するとオイラーの標数は2n-3n+n=0となって、nに関係なく2にはならない。従ってオイラーの多面体定理に反するそういうものはできない。

 ○曲面には球面、ドーナッツ(トーラス)面などがあり、両者のオイラーの標数は2、0と異なる。従って球面とトーラスとでは相が異なる。ドーナッツ形状なら正6角形を貼り合わせて作ることができるだろう。“曲面上に静止点のない流れが存在する必要十分条件はオイラーの標数が0になることである”という定理がある。地球は球面だから海流には必ず静止点がある。仮に陸地がなく偏西風で一様に海水が西から東へ流れるとしても北極と南極は静止点になる。ドーナッツの表面になら容易に静止点のない流れを作ることができる。たらいに流しそうめんを流してかき回し続けても中心部ではそうめんが淀んでしまう。そうめんはドーナッツ状の樋に流すべきである。円盤に一つ穴を開けたのがドーナッツ(一人用の浮き輪)だが、穴を二つ開ければ二人用の浮き輪になり、n個開ければn人用の浮き輪になる。これらは互いに図形の相が異なり、オイラーの標数は2(1- n)となる。これらの表面にはn=1を除き静止点が発生する。

<修験道> 2004年7月、“紀伊山地の霊場と参詣道”がユネスコの世界遺産に登録された。“フランス西端とスペインの聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラを結ぶ巡礼道”に次いで参詣道が宗教的世界遺産に認められた2例目だという。修験道は人間と自然との呼応、いのちの響き合いの中に練り上げられてきた宗教で、人間は水と樹木のある自然の中で生かされているのだという、単純明快な認識を根底に置く宗教である。自然崇拝と自然への畏怖の念に始まる日本の宗教の原型が修験道の核をなしている。ーと“修験の世界”(久保田展弘・講談社学術文庫)は述べている。従って以下に述べる修験道の有り様は我々日本人の祖先たちから無意識に受け継いでいる哲学と強く関わっていると同時に、水や樹木に乏しい砂漠を発祥の地とする一神教たちーユダヤ教・キリスト教・イスラム教とは本質的に異質なのである。旧約聖書では、樹木に親しみ、森の息吹に心がふるえ、昇る太陽に感動し、月明かりに感激することを悪として戒めている。自然のありように心が動かされるのでは、唯一の神を疎外することになるからだと説く。嫉妬心の強い神の名でこういう規制をされては素直な人は育たない。山岳や河川、古木や巨岩などそのことごとくにカミを感ずる日本人と何たる差異であることか。

 山岳修行では山駆けの途上、「サンゲ、サンゲ、六根清浄」と唱え続ける。“サンゲ”というのは“懺悔”の仏教読みであり、山岳という超自然に心の受けとめを期待する行為である。人は山に飛び込んで素直になる。私も若いころ人についてアチコチ山歩きをした。だが、実態は急峻な登りは別として、山道を走るのである。我々のは修験道とは心がけから違っていたが、この山道を走るというのは形だけではあっても修験道を真似ていたと思われる。その覚悟、習練度、速度において雲泥の差があったが。日本人はもともと天地の神々を春夏秋冬に祀り、五穀豊穣や疫病の退散を祈ってきた。神道は無論、仏教にも道教にも強い排除の思想はなかった。神が仏法による救済を求めているというので、伊勢に多度神宮寺が実現し、神社の境内に仏寺が建てられた。修験者が開いた霊山を伝来した仏教が利用することになった。平安時代最澄が比叡山を開き、空海が高野山を開いたというが、彼らはその地の修験者のエネルギを利用して修行自体を僧の教育システムとして山岳仏教を確立した。著者はその伝統を続日本紀に記載のある役小角(えんのおずぬ)の活躍に求めるべきであると主張している。彼は7世紀の山林修行者であり、優れた呪術師だったが詳しい記録はない。妖術で人を惑わせた罪で遠島に流されているが、彼は修験者の開祖、偉大な宗教家としてあがめられている。

 修験道として冒頭に触れた熊野、出羽三山、比叡山に著者は自ら踏み込んで実体験記を記している。

 まず熊野の大峯山。鎌倉時代初期の編集になる“諸山縁起”は大峯山系を南に行く奥駆けは山系の中間の巨岩を境にして吉野側を金剛界、熊野側を胎蔵の両部曼荼羅と見る。山を曼荼羅に例えるのは、山を悟りを得るための道場と捉えるのだろう。山を駈ける。それはミクロコスモス(小宇宙)である行者がマクロコスモス(大宇宙)である山岳を駈けることで、それによってミクロとマクロの一体感の内に自身が生きている壮大な曼荼羅に気づき、それを内面化していく。諸尊・山神・山霊に呼びかけ、それらとの一体感を得て、曼荼羅という世界観を実感する道程なのだろう。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、熊野詣は天皇上皇たちにも極めて盛んになり、修験者とは比べものにならぬにしても、出立前七日間の“精進屋”にこもる前行に始まる熊野三山への参詣は京都から往復一ヶ月を要し、自身と先祖を含む罪障の消滅を願う苦行の旅だった。これら尊き身分の中世の人々は道中に苦痛が多いほど功徳も多いと、体調がすぐれなくとも水垢離を取った。後白河上皇34回、後鳥羽上皇30回、鳥羽上皇21回を記録している。また那智籠千日行は花山法皇にはじまるとされ,安倍晴明・範俊・沙門行誉・三井寺長吏となった道瑜なども千日行を行ったという。この修行は那智の滝に打たれながら千日の間山籠し修行するものである。

 山形県の中央部を北から南へ連なる出羽三山一帯は全国有数の豪雪地帯である。月山(1980m)・羽黒山(1436m)・湯殿山(1504m)にわたる秋の峰入り修行は千数百年の歴史をもち、その前後九日間に及ぶ羽黒修験は全国で位階昇進の許しが得られる資格が得られる。儀式は羽黒山の登り口である荒沢寺正善院で執り行われる。この修行は“死と再生の儀礼”とも呼ばれ、人間主体の価値観を否定する複雑な儀礼が組み込まれている。山へ入る前夜、参加者は大先達たちによって“笈からがき”と称する自身の葬儀を行ってもらう。即ち峰入り修行とは、世俗の価値観をもった人間が一度死に(擬死)、後に生命が芽生え、山中において育まれ、山を出る時には新たな生命体として誕生する(再生)というのが基本的なストーリーである。翌朝早く参加者全員(経験の多いものから順に並ぶ)の行列が進行し、やがて大斧に続く高さ5 mの梵天(男根の象徴)が大先達によって黄金堂に向かって倒されることで、男女の和合が成就したことになり、境内に喜びの法螺貝が鳴り響く。遺体を納めた筈の笈は母胎の役に変じ、背負う赤い紐は血管を表し、新たな生命の誕生を象徴する。導師が背負っていた笈は山伏の背に移され、笈の上の肩箱に白い班蓋が載せられて、笈の中の胎児は胞衣に包まれたことになる。行列は「南無阿弥陀仏・六根清浄・お山繁盛・大願成就」と唱えながら、羽黒山の参道を登り始める。

 こうして入峰者一同は本格的な峰入り修行に放り込まれる。それは夜気を切り裂く“カチッ”という激しい固打木の音に始まり、南蛮いぶしの灰色の煙にむせ、五体投地の礼拝行を強いられる。ひたすら山道を駈けるかと思えば、「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前」の九字を激しく唱えながら手印を結ぶ九字護身法を伝授される。“懺悔文”を唱える懺悔の行を行う。修験道最高の秘法である柴灯護摩の修法を習い、先達たちの“火箸作法”を観る。このように“自己消滅”の葬儀は再三行われる。荒沢寺道場での“鳴子の作法”では謡曲“高砂”が謡われる。月山八合目から弥陀ヶ原の湿原地帯を抜けると、秘所・東補陀落には10 mほどの男根型巨岩がそそり立っており、入峰者は空洞を潜り抜けたところで“オギャア”と叫ぶことになっている。その日の夜の勤行では千巻心経の読経がある。満行の日、入峰者は羽黒山参道をかなりのスピードで駆け下り、黄金堂の参道上で燃え盛る“場柴灯(ばさいとう)”を“ウオー”という掛け声とともに飛び越える。これは銘々が産湯を浴びる姿だという。大先達から各人に院号が授与され、紫紋白結袈裟の着用が許される。

 月山の本地仏は阿弥陀如来、湯殿山は大日如来、羽黒山は観世音菩薩である。経済的に優位に立っていた羽黒山側に比べて湯殿山側の寺には10体以上のミイラ仏(即身仏)が存するという。経済的に恵まれない風土が修験行者の中に五穀絶ち、木食行の果ての即身仏を生んだ。これらの人々の多くは教団の中でも低い地位にあり、常人の敵わぬ強烈な行によってのみその存在を示すことができた。注連寺の即身仏・鉄門海上人は湯殿の仙人沢で厳しい修行を重ねた上で、本明寺・海向寺を再建、南岳寺・西光寺を建立した。彼が江戸へ出た時に眼病の流行を見て自身の左眼をくりぬいて隅田川に投じ、眼病退散を祈ったという。

 著者は比叡山の千日回峰行を行う酒井雄哉師に同行した話(もちろん1日だけだが)と大護摩供に(数時間)同席した話を載せている。この荒行を二度達成したのが酒井雄哉(さかいゆうさい)師である。師は妻の自殺をきっかけに40歳で得度し、1980年10月に千日回峰行を満行し、その半年後、再び千日回峰行に挑んだ。 二度目は58歳の高齢で凄絶(せいぜつ)な「堂入り」の荒行に耐え1987年7月に満行した。織田信長の叡山焼き討ち以後、千日回峰行を達成したのは49人(最新は藤波源信師)だが、千日回峰行を二度達成したのは千年の歴史の中でわずか三人との事である。  「歩く禅」とも云われている千日回峰行を行なうには強靭な精神と肉体が求められる。一度、「行」に入ると“不退の行”・“捨身苦行”と云われ、一日たりとも中断する事を許されない。中断は即ち死を意味している。それ故、行者から許可願いが差し出されると千日回峰行満行者で構成する「先達会議」が開かれ、「三年籠山」の実績を踏まえ厳しい審査を経て許可が下される。

 叡山の行は三年籠山行も千日回峰行も「行」そのものに厳しい日程が課されている。特に、千日回峰行に入る事は同時に死を賭して「十二年籠山」に入る事を意味し、三年籠山行を終えた後、七年で回峰行を満行しなければならない。
 千日回峰行の行者の装束は白の浄衣(じょうえ)を纏い「降魔(ごうま)の剣」、「未敷蓮華笠(蓮華とはハスの事。ハスの葉が開き切らずに両端が丸まった形をした笠)右手に檜扇(ひおうぎ)、左手に念珠、これが不動明王を擬する行者の姿との事。肩から下げる紐は首吊り用の死出紐と云い、腰には自害用の短刀を帯び、灯かりは小田原提灯一個、野袴をはいて手甲脚絆に草鞋を履き、供華袋(お供えする樒(しきみ)の小枝を入れた袋)を肩から吊るし、全て白一色の麻衣の“死に装束”で山上、山下を駈けるとの事。

 回峰行はただ単に一千日間歩くだけではなく叡山の三塔十六谷の聖跡260余ヶ所、全ての神社仏閣、霊石、霊水、霊木に至るまで礼拝、遙拝しなければならない(三塔十六谷とは東塔、西塔、横川の三塔、東塔の東谷、北谷、南谷、無動寺谷、西谷と西塔の東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、西谷と横川の般若谷、兜卒谷、解脱谷、戒心谷、香芳谷、飯室谷の十六谷)。どこで何を礼拝し何を唱えるのか、その道順と礼拝の場所、所作を書き込んだ“手文”を師資相承の形で受け継がれている。

 回峰の順路も無動寺回峰行と飯室回峰行があり、歩く距離も礼拝、遙拝する対象も場所も異なっている(飯室回峰行の方が約10キロほど距離が長い)。無動寺回峰行を例に取ると最初の三年間は一年に100日、一日に七里半(30キロ)歩き、足袋をはく事も「未敷蓮華」の笠をかぶる事も許されない。四年目と五年目は200日、一日に七里半歩き、四年目から足袋と笠が許される。五年で700日を満行し、断食、断水、断眠の“堂入り”に入る。六年目は一年に100日、京都市街の赤山(せきざん)禅院を往復する十五里(60キロ)、行者の足でも14〜15時間かかり赤山苦行と呼ばれている。七年目の最初の100日は一日に二十一里(84キロ)の京都市街を廻る大廻り、“お加持”をしながら歩くので行者の足でも18時間以上かかる。最後の100日は三塔十六谷を巡拝する一日、七里半に戻り、通常75日で打ち切られる。無動寺回峰行の歩く距離を計算してみると37650キロ、実に地球を一周して余りある距離を歩くのである。

 千日回峰行を満行すると大行満大阿闍梨の尊称が与えられ、京都御所に“土足参内”が許される。回峰行の始祖、相応和尚が清和天皇の招きで参内し病気平癒を祈祷した故事に倣った儀式で千日回峰行者のみに許されている。千日回峰行を終えると自ら発願して七日間の断食、断水、不眠、不臥で大護摩供を行なう。この大護摩供を終えて千日回峰行が完全に満行する。大護摩供は全国の信者から寄せられた護摩木を不眠、不休で護摩壇の火炉に投じ、煩悩を焼き尽くす火あぶり地獄とも云われる荒行である。(護摩の火炎は智恵を意味し、護摩木は煩悩を意味する。護摩とは煩悩を焼き尽くして願い事の成就を祈願する密教独特の修法である。京の夏の夜を彩る五山の送り火も護摩である。)

<KIDS WORLD> 朝の一時たまたま他のテレビ番組に適当なものがなく、N.H.K.の教育テレビの幼児番組にチャンネルを回して漫然と眺めているうちに、画面と音声の新鮮さ・ユニークさに惹き付けられてしまった。番組構成が目ざましく変化していく。まず目にとまったシーンは左手に赤いジャージーを着た小錦(元大関)がフワフワ踊っている。中央には低い円筒形の演台があって賢そうな幼い少女がひとり乗っている。右手には少女と同じぐらいの年頃のこどもが三人演台の下の床に立っている。小錦の体躯は実に大きく、四人の子供たちの10倍以上の体積がある。中央の少女がその小錦に“コニちゃん、しっかり踊って!”と声をかけ、それに応じて小錦が動きを早める。中央の少女は歌を歌いながら台の上で激しく巧みに踊る。右手の三人のこどもも歌につれて少女と同じように踊ろうとするが、動作はいまひとつ鈍い。左のコニシキも体が大きいからやはり動きは遅いので、中央の少女の踊りの見事さだけが目だってしまう。“コニちゃんは総身に知恵が回りかね”(本当はそんなことはないのですが)という図式である。

 場面が変わって顔の大きな犬のワンワン(右の写真)が画面奥にいて、音楽に合わせてユックリ踊っている。その周囲に6、7人の4頭身くらいの(2歳未満?の)やっと立ち歩きのできるようになったばかりのような幼児がアチコチ向いて立っている。明らかに幼児たちはワンワンと一緒にいるという参加意識があるように見える。しかし幼いせいでまだ発声はしない。一人の子が突然右の方へ走っていく。今度は別の子が手前からワンワンの方へ走っていく。他の子もワンワンも無規則に勝手に動いているように見えるが、不思議なことに決して衝突するようなことはない。激しく転ぶこともない。笑っている子はいないが、泣いたり不満そうな子もいない。この場を盛り立てる要素は誰も唱和はしないが、やさしい歌である。通常の世界なら小さな破綻が起こって当たり前の状景だが、そういうことは決して起こらないから、安心して見ていられる。

 また場面が変わる。“ピタゴラスイッチ!”と声がかかる。精巧に作られた装置があって、その端の方から動作が始まる。それは転がるボールで経路に沿って向きを変えたり、ジャンプしたりして進んでいくが、やがてずり落ちる棒になったり、滑走する台になったりして画面の右から左、左から右へと、更には上から徐々に下に移動していくかと思うとバネ仕掛けで下から上に跳ね上がるなど、予想できぬ方法で次々と動作が伝達していく。積み木倒しを連想するが、それよりずっと手が込んでいる。アニメではなく、実際に製作された装置の作動状況を実写撮影しているらしいので、たまには動作不良による伝達の失敗が起こりそうなものだが、決してそういう事態にはならないから、よくできているなと感心する(バカなことに感心するナ。チャンとうまくいった場合を表示しているだけだ)。

 はげ頭の神田さんようが現れて語りを始める。“てんもうかいかい、そにしてもらさず“などと言う。こどもは一から十まで分からなくてもいいのだ。”頭隠して尻かくさず“と繰り返す。この男は一日に一つ諺を教える役らしい。今度は何人もの人形が現れて早口ことばを繰り返す。日本語を覚えたい外人はこういう番組を視聴するのが早道かもしれない。とにかくこどもを飽きさせないように、テンポよく次々に主題が変わる。

 こういう変幻する企画が次々に展開するから、初めてまともにこの番組を無心に視聴(今まで音声はしばしば耳にして聞きなれていたが、幼児番組とタカをくくってロクに画面を見ていなかった)して、こどもたちの表情や動作など内容の新鮮さ、斬新さに心を動かされた。一体どうなっているのかとテレビの番組欄を新聞で眺めると、“7.10わんパーク からだ遊ぼ ▽マウス ▽絵本 ▽英語遊ぼ ▽ぜんまい侍 ▽日本語遊ぼ ▽ピタ ▽いないばあ ▽プチ 8.35おかあさんといっしょ”ということで、9.00に終了することになっている。これだけ見ても内容がよく分からない。今度はインターネットで“N.H.K.・幼児番組”で検索すると、“KIDS WORLD”というホームページがあって、その内容構成は“いないいない ばあっ!”・“おかあさんといっしょ”・“つくってワクワク”・“にほんごであそぼ”・“えいごであそぼ”・“クインテット”・“味楽る!ミミカ”・“てれび絵本”・“うたっておどろんぱ!プラス”・“ニャンちょうワールド放送局”とあり、それぞれに登場するキャラクターが掲載されている。それによると、ワンワンが登場するのは“いないいない ばあっ!”らしい。そう言えば盛んにそう言っていたようだが、忘れてしまった。気を付けていないと何も憶えていないのだから情けない。

 教育テレビという伝統のあるジャンルで長年育成してきた文化の粋なのだから、この世界は幼児教育にさだめし優れた効果をもったものなのだろう。近く小学校で英語教育を義務化するという話だが、普段英語など使わない小学校の先生にいやいや教えさせるなどという野暮なことをしないで、児童にテレビの番組を視聴・発声させる方がよほど賢明だと思う。はだしで土の上を歩かせるとか、コマやメンコをしてみせるとか、身体を絶えず動かせて知らなかった能力や喜びを抽き出す試みが多いのはいい。それにしてもこどもというものはなんと表情が豊かでみずみずしいのだろう!

 全般としては、もうこちとらは老人ボケに近く、日常生活もそれとなく幼児帰りしているから、呆然としてこういう番組を楽しむのがふさわしいのかもしれない。構成としては多様な性格の番組が10分程度の短時間演出で切り替わるようになっている。その中が複数の小番組に分かれていることもあるが、大きい番組の終了時にハッキリと“おわり”と表示があって、区切りがつく。個々の番組は暫く同じ出演者による続き物になっているから、持続して視聴されることが期待されている。それぞれ特徴のある歌や画像で容易にそれと見分けがつく。日本古来の伝統芸能、西洋クラシック音楽の演奏、様々な動物や植物など考えられる多くのジャンルが落ちなく取り上げられている。出演者は大人・こども共にその場面に適したユニフォームを着用していて、無意識の内にT.P.O.を教えこむ。歯切れのよい発音で終始して聞き誤る恐れがない。大人にも精神衛生上薬になるような気がする。暫く継続視聴することにする。

<病気の予防> 2002年12月の<治癒力>は現代医療の問題点をかなり総花的に論及した。今回紹介するのは、人は自己の身体の自然治癒力を重視して癌を中心とする疾患に対処すべきかを説いた国際的な免疫学者の論説である。教材は “病気は自分で治す”(安保徹・新潮社)で、ごく分かりやすい構成を取っているので一読をお勧めする。あとがきで著者は次のように述べている。−自律神経の働きと白血球分布との連動を理解することができれば、難病の発症メカニズムも容易に解明することができます。原因にさかのぼって病気を治す力も生まれるのです。複雑に思える人間のからだの機能も、根本のところでは驚くほどシンプルで、整然と繋がって無駄なくつくりあげられています。人間のからだは、実に単純で美しいものなのですー

 慢性疾患や難病といわれるほとんどの疾患は患者自身の生き方の偏りに起因している。一例を挙げると長時間にわたる労働や心の悩みをずっと抱えているような生活はストレスによって交感神経を緊張させ続ける。すると血流障害と白血球による組織破壊が起こり、遂には膠原病やガンになってしまう。逆にストレスを避けた生活が極端に走ると、運動不足と無気力が副交感神経優位の過剰を生み、疲れやすさとリンパ球増大を生み、アレルギー性疾患や活力を失う病気にかかる。またおだやかな生き方を心がけて反って感受性が高まり、神経過敏になってストレスを受けやすくなる。人間はゆとりがあるようで、意外にギリギリのところで生きている。がんばり過ぎても、逆に楽をし過ぎても人は健康に生きることができない。バランスを取ることが重要である。よく病院で原因不明の病気と診断されることがある。そういう時は自分で生活を振り返った、生き方の無理を探す必要がある。

 睡眠時間を削って働き続ける猛烈サラリーマンの生活はいずれ破綻する。逆に日中は楽をして深夜まで夜更かしすると午前中は無気力な不健康に陥る。日の出とともに起き出して、日が沈んだら休息するという、人類が数万年続けた生き方を守るのがいい。母親にありがちな“きれい好き”で細菌を体内に取り込まない生活習慣が嵩じると、リンパ球過剰を招き、少しの抗原にも過剰反応するアレルギー性疾患にかかるようになる。“きれい好き”はストレスのもとになる。塩分摂取不足がボケの原因の一つになっている。塩分の摂取量は自分の感性で決めるのがよい。一方痴呆・認知症には甘いものの食べ過ぎが圧倒的に多いという統計がある。

 膠原病やガン、風邪で起こる発熱は体温が上がってリンパ球が働き出す最高の環境なので、からだを暖かくしてゆっくり休むのがよい。決して薬で熱を下げたり、からだを冷やしてはいけない。ガンの自然退縮の前には発熱が大きい力になる。病気につきものの痛み・腫れ・発熱はプロスタグランジンという組織ホルモンの力で起こる生体反応で、これによって組織修復・治癒が期待できる。それをよく病院で処方する消炎鎮痛剤でプロスタグランジンの生成を抑えるのは本末転倒である。“ペニシラミン”・“ステロイド”・“メトトレキセート”などの抗炎症剤は一時的な効果があるように見えても、有害無益である。肩こりや腰痛は、暖めて血流を増せば治る。石原結実医師の“体を温めると病気は必ず治る”がベストセラーになっている。

 ガン患者の手術の際に行われるリンパ節郭清(リンパ節をすっかり取り除いてしまう手術)ほど本末転倒で悲しいことはないと著者は言う。ガン細胞がリンパ節に見つかりやすいのも、リンパ節によるガン処理能力の素晴らしさを表すもので、リンパ節にガン細胞が見つかったからといって、リンパ節を除去するのはマイナスで、からだの防御系を破壊し、転移を促進させる医療行為である。リンパ浮腫を招き、免疫系の低下を来たす。リンパ節の処理能力が十分に発揮されるには、自律神経系のバランスがよく、深部体温が37度C以上ある必要がある。抗ガン剤は代謝阻害剤で、正常細胞に対する増殖抑制作用が非常に強いだけでなく、リンパ球に対する抑制作用が強いので免疫抑制剤と言うべきで、その意味では寧ろ発ガン剤と呼ぶ方が当たっていると著者は言う。先にガンは無理な生き方による交感神経緊張の持続から惹き起こされることを指摘したが、からだを労わる生活に切り替えようとせず、手術・抗ガン剤・放射線治療というガンの三大療法に引きずり込まれる人が多い。問題は @患者が病気を作ったという自覚がなく、病気は他人が治してくれるものと考えており、A抗ガン剤など身体を消耗させる治療が病気を助長する、B抗ガン剤や放射線治療が激しい低体温を作って生体を破綻に導くと指摘する。

 著者は医学博士だが医者ではない。最近の医療の行き方に対して明らかに批判的なのだが、世の趨勢を頭から否定するような野暮なことはせず、自分の体調管理を医者任せにする患者の不心得を指摘するのに留めている。しかし医療機器の進歩でC.T.、M.R.I.、P.E.T.などにより直径数ミリのガンでも発見できるようになり、30人検査をしたら必ず一人は見つけてみせると意気込む医師を槍玉にあげ、ガンの発生と縮退は身体の中で頻繁に起こっていることで、徒にガン患者を増やしても無益であると断じている。また再発の有無を調べるために3ヶ月に1回検査をする、それを10年も続けるなどというのは、患者にとって大きなストレスになり、反って再発を促してしまう、1年後に1回検査し問題がなければそれでおしまいにするぐらいでよいという。確かにマスコミを含めて世の中検査々と言い過ぎる。病院の購入した高い検査機器を早く償却するために検査に協力を強いられるような具合だ。

<早稲田実業優勝> 甲子園の高校野球は、特に代わりの投手がいないチームにとって終盤へ行くにつれて厳しさを増す。今年は決勝戦が投手戦で15回の延長戦で1:1のまま決着が着かず翌日再試合となったから、例年以上の猛暑の中で準々決勝から4日間42イニングの連投という凄いことになった。優勝した早稲田実業(西東京)の斉藤佑樹投手と相手の駒大苫小牧(南北海道)の田中将大投手の二人は見事にこの試練を乗り切った。尤も駒大苫小牧にはやや非力ながらもう一人投手がいたが、打ち込まれて早々に田中に代わったから、田中はほぼ互角に斉藤と渡り合ったことになる。流石に最終日は田中に少し疲れの影が濃く、その差が勝敗を分けたとも言えるが、斉藤も最終回2点本塁打を打たれて1点差に迫られたのだから、差は僅かだったとも言えるが、13奪三振、118球完投で宿敵駒大苫小牧を制したのはやはり見事だった。今夏の甲子園での斉藤の投球数は948球に達した。

 今年の甲子園は打撃戦が多く、8点差をひっくり返すような逆転劇もあり、ホームランも多くて盛り上がったが、決勝に残った両チームは好守を競って勝ち残ってきた。決勝再試合は37年前の松山商対三沢高以来で、雪の多い北海道チームが決勝まで勝ち残ったのも昔はなかったことである。駒大苫小牧は雪の積もったグラウンドで練習を重ねてきたそうで、春は不祥事があって出場辞退に追い込まれたが、チームの執念がこの準優勝を勝ち取った。駒大苫小牧は昨年早実を破っており、中京商業以来73年ぶり2校目の3連覇がかかっており、実力的にも早実を上回ると見なされていた。

 早実の斉藤佑樹投手は代りがいないことを最初から前提として甲子園に臨んでおり、低めのスライダーと直球を武器に安定した投球を続けた。斉藤の好投の蔭に白川英聖捕手の貢献があった。白川は中学時代はエース。昨年5月に捕手に転向した。斉藤のボールは予想を超えるキレがあり、低めのスライダーはなかなか止められなかった。白川は昨秋から冬にかけてバッテイング・マシンをワンバウンドするスライダーに設定してチーム練習とは別の捕球練習を繰り返し、青黒いアザを作りながらボールが止められるようになった。彼はワンバウンドのボールを体を張って止め、今回全7試合で一度も後ろにそらさなかった。斉藤は相手と状況に応じて変える頭脳的なピッチングをした。連投の疲れを巧みに力を抜く投球術でカバーした。最後の打者・ライヴァルの田中にはファウルで7球まで粘られたが、144キロの渾身の直球で空振りに討ち取った。決勝戦1日目の11回には一死満塁で相手がスクイズを仕掛けてきた。三塁走者のスタートを視界の端に捉えた斉藤はワンバウンドの投球で打者を空振りさせ(写真下)、白川が地に這いながらこれをよく止めて、戻りきれぬ三走を刺して最大のピンチを脱した。

 胃癌手術の予後再入院した早実の先輩・ソフトバンクの王監督は50年前の夏の大会に出場した。病室でテレビ観戦した王監督は球団広報を通じて「この優勝は斎藤投手の熱投の一語に尽きる。昨日までの疲れなどすべてを超越した、チーム一丸となっての勝利です。本当におめでとう!」とたたえた。早実OBで西武ライオンズ投手コーチの荒木大輔氏は26年前、夏の大会で準優勝投手になった。決勝再試合は都内の自宅でテレビ観戦し、優勝の瞬間を見届けた。「早実らしく、粘り強い野球でした。投手だけではなく、守備も堅く、打線の破壊力もあるし、足の攻撃も出来る素晴らしいチームでした。OBとして誇りに思い、早実の卒業生として、良かったと思います」と広報を通じてコメントを発表した。斎藤投手については「ボールが速いだけではなく、状況に応じてカウントをとれる投手。相手から見たら、打ちにくいと思う」と評した。早実ナインは24日、東京都庁を訪れ、石原慎太郎都知事(73)に優勝を報告した。記念撮影に入る前、歩み寄った都知事に斎藤投手は右肩を触られ「やっぱり、すごいな」と声を掛けられてはにかんだ。

 近く開かれる日米親善野球に斎藤、田中両投手がノミネートされたようだが、できることなら白川捕手も参加させることができると、斎藤は投げやすいと思う。軽薄なガッツポーズなどは見せず、勝っても謙虚な態度を通していた斉藤は女性も含めた多くの人々に好感をもたれたようだ。顔の汗をハンカチに吸い取らせるポーズが人気を集めて、“ハンカチの王子”と呼ばれるようになった。高圧酸素タンクを使って短期疲労回復を図り成功したようだが、45年前の“神様・仏様・稲尾様”と称えられた西鉄の稲尾投手以来の人気である。


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