11月の話題


2006年11月


<無宗教> −日本人の中には“無宗教”を標榜する人は多い。しかしそれは考え抜いた上での無神論ではない。この種の調査をするとほぼ7割が“無宗教だ”と答える。しかしそう答えた人の75%が“宗教心は大切だ”と答えるのだ。これはどういうことかーと問題提起をするのは、“日本人はなぜ無宗教なのか”(ちくま書房)を著した阿満利麿である。氏はこの本の中で私の随筆が2004年1月に取り上げた<葬式仏教>の問題も論じている。以下に氏の所説を紹介する。

 日本人の多くは宗教心は豊かなのだが、“特定の宗派”に限定されることに抵抗があり、それを“無宗教”と表現するのであって、親の墓を建て墓参りをし、正月には初詣に出かけ、こどもが生まれるとお宮参りをするのはれっきとした宗教心の表れである。著者は“自然宗教”と“創始宗教”の区別が日本人の宗教心を理解する上で重要と説く。“創始宗教”とは特定の人物が特定の教義を唱え、それを信じる集団がいる、即ち教祖・教典・教団の三者によって成り立つ宗教をいう。キリスト教やイスラム教のような一神教はレッキとした創始宗教である。それに対して“自然宗教”とは誰によって始められたかよく分からない、先祖たちから自然に今に受け継がれてきた宗教を言う。日本人は初詣や盆の里帰り、彼岸の墓参といった年中行事を繰り返すことによって生活にアクセントをつけ、心の平安を手にすることができたので、特定の“創始宗教”に頼る必要がなかった。このことは日本国内においては皆暗黙裡に了解しているのだが、日本人が外国に出かけた時には“無宗教”などと言わず、言及するのならよほど注意して自然宗教を説明しないと誤解され、人格まで疑われる。

 日本では死者が出ると、僧侶が呼ばれて死者に戒名が付けられ、仏教儀礼で通夜に次いで葬送が行われ、以後一週間ごとに法要があって中陰(四十九日)を迎える。その後は百ヶ日、一周忌、三周忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十五回忌、三十三回忌で終了する法要を繰り返す。住職は過去帳を繰っては誰それの何回忌がまわってきましたと子孫に知らせ、法要を行う。このような葬式仏教は16〜17世紀に沖縄・北海道を除く日本全国に定着した。これは“家”意識を生み、寺請檀家制度に発展した。

 徳川幕府はキリシタン禁制政策に基づきこの制度を民衆支配の末端組織として徹底させ、婚姻・旅行・奉公の際に寺から身分証明書を発行させた。一方で幕府は朱子学という儒教を公認した。儒学者は仏教、特に禅宗の出家主義を“穀つぶしの宗教”と非難した。これは自分だけの救済や解脱を求める小乗仏教の否定であった。

 明治維新政府はそのよって立つ統治上の基盤を天皇制に求め、天皇を国家経営の中心に据えて日本国の主権者とし、天皇は神の子孫であるとする古事記や日本書紀の神話を国家原理に採用した。そのために国民の強力な教化が要請され、まず維新政府は教部省を設けて廃仏毀釈を行い、次いで神道を国教に昇格することを図ったが、英仏米などの列強は日本国内においてキリスト教布教の自由が保障されなければ、幕末に結んだ不平等条約の改正には応じないと迫った。従って“信教の自由”を認めるためには、神道の国教化はあり得なかったし、キリスト教の布教を禁じることはできなかった。

 井上毅は神道非宗教論を唱え、神道はもともと祖先を崇敬しその祭祇に従うことであって、それは国家の掟、朝廷の掟に属する。神道は朝憲であって教憲(宗教)ではなく、国家の掟に国民が服するのは当然と説いた。

 浄土真宗は徳川幕府時代から教団の存続のために“真俗二諦”論を採り、俗諦としては国家権力の方針や教化に従順であることを信者に求めていたが、こういう状勢の中で更に一歩進めて従来の神祇不拝の伝統を捨て、神道は祖先を崇敬する道であって宗教とは見なさないという立場をとって生き残りを図った。

 維新政府は更に“神社合祀令”を発して、全国の神社を“天皇崇拝”に取り込むものとそうでないものとに篩い分ける政策を取った。アマテラスを絶対神として伊勢神宮を頂点とする神社組織が新たに設けられ、中央政府によって任命された神官が天皇の官僚として天下り、世襲の神主は国家の祭祀を私有するものとして廃された。予算の関係で大幅な統廃合が実施され、選に洩れた身近で名もない神々、日本人の信仰の毛根の部分が排除されることになった。こうして本来の氏神様は次第に消滅し、神道式の国家行事が神道という宗教から切り離された不自然な形で国民生活に君臨することになった。こういう状勢に対して、創始宗教のような職業的な宗教家が不在な自然宗教には声を大にしてその消滅の危機を訴える人はいなかった。民俗学を創始した柳田國男・折口信夫一派を除いては。即ち明確な教義と組織によって構成されているものだけが宗教であって、生活の中に習慣・風俗として古来から生きていた“自然宗教”的宗教心は現代では宗教とは見なさない風潮となっていった。

 近代国家としての体裁を整えるために、為政者は国民の心情のありようにまで事細かに干渉を加えた結果、多くの人々は創始宗教には近づかなくなり、廃仏毀釈の嵐を乗り越えた葬式仏教の世話になることによって宗教の問題は片付いたとし、無宗教を標榜し続けることによって身の安全を図ることにしたのだった。

 中近東の見渡す限り荒涼とした地域や民族抗争の絶えない地域に生きる人々、あるいは同じ日本でも医術の発達しない時期に疫病に苦しめられ、明日をも知れぬ人生の儚さを嘆き悲しむ人々にとっては、心の平安を保つための宗教は生活に欠かせないものだが、現代日本は平凡な日常に甘んじていれば深刻な懊悩も一時的なものとして過ぎ去るし、季節や天候に応じた自然の変化やその対応などに気を取られているうちに、無為にであっても日は過ぎていく。こういう環境でも平等にいずれ死は訪れるが、かといって只管宗教に頼らなければ生きていけないという心情にはならなくなったのだ。


<Qチャン敗退> 19日の東京国際マラソンは前日からの気象予報通り昼から雨になった。これも予報として急に気温が下がることが報じられていた。私は朝からジャンパーを着用した。高橋尚子を応援している私が出発前の彼女をテレビ画面で見ると、水を弾きそうなトレパンとジャージーを着用して準備運動をしていたので、流石だと安堵した。ところがいざスタートという時にはジャージーもトレパンも脱ぎ捨ててしまって、短パンと二の腕も露わなスポーツシャツ姿になっていた。これで雨に濡れたら最後まではもたないぞと思ったが、競技に参加する多くのランナーも似たような姿になっていた。

 報道車に乗り込み、アナウンサーを介助してレースの実況解説に当たった増田明美はスタート直後から冷雨による身体の冷え込みの影響の懸念を口にした。10キロで先頭集団は6、7人になり、20キロではこの日の高橋の対抗馬と見なされていた土佐礼子と高橋、それにペースメーカーの3人になった。高橋はピタリと土佐に付き、つばつき帽子を目深にかぶりサングラスをかけた姿で体の揺れはなく、元オリンピック・チャンピオンの迫力十分だった。土佐は対照的に体が揺れるので、このように食い下がられてはいずれ抜き去られる運命かとも見えた。しかし冷魔による手足の血行障害は密かにしかし確実に進行していた。復路は弱いながら向かい風になった。

 30キロでペースメーカーがリタイヤすると、その直後に高橋は白い帽子を脱いでポンと道路わきに投げた。雨が降り続ける中この行為に必然性はない。雨はまともに顔に降りかかる。この時高橋は思うように動かなくなっていく身体にじれて苦し紛れにやったのだった。31キロ、目に見えて土佐と高橋の間隔が開き始めた。メッキリ失速した35キロ過ぎには新鋭の尾崎朱美に抜かれて3位になった。土佐は先頭を保ったままゴールしたが、矢張り終盤は失速し、次期オリンピック選出基準とされた2時間26分に15秒及ばなかった。彼女も身体が冷え切って雨に濡れて視界を邪魔するサングラスを外す指の力もかじかんで失せた状況だった。彼女も冷雨対策は高橋と同じくダメだったが、体力差で辛くも凌ぎきった。帽子がなく髪を振り乱した高橋はなんとか頑張って2時間31分過ぎにゴールした(写真下)。参加した有力外国勢は4〜9位でゴールした筈だがテレビ画面には現れなかった。彼女らも日本の冷雨の厳しさに参ったに違いない。

 私は素人だが、こういう気象状況に対するほとんどの競技参加者の服装は間違っていると思う。自然をなめてはいけない。あのような開放的な格好は酷暑の中で盛んに発汗して体温上昇を防ぐのには有効だが、秋雨の寒さにはどう考えても不向きであろう。高橋尚子はこの競技会に備えて米国の高地で随分鍛錬してきたらしいが、増田明美のようなアドバイザーが欲しかった。終盤の失速とタイムだけで高橋を見放すような論調もあるが、本人にやる気が残っている以上彼女は依然第一人者である。今後天候・体調がピッタリする機会もあるだろう。再起を期待しよう。


<いじめ> 学校におけるいじめとそれに起因すると考えられる少年少女の自殺が問題になっている。様々な事例が報じられているが、例えば“いじめられていて、状況が変わらなければ11日に学校で自殺する”という無記名の手紙が文部科学相宛に届き、当局はマスコミを通じて思いとどまるように呼びかけるとともに、手紙の消印のあった東京都板橋区では前日夜から全校の教室の灯火をつけっぱなしにし、校長以下が非常出勤するなどの騒ぎになった。一方でここ10年近く全国の小中学校から文部科学省に届けられる“いじめ”による自殺発生件数は継続してゼロであることが実情と著しく相違し、学校や教育委員会が事実を隠蔽しているのではないかとマスコミや国会が騒ぎ出した。

 “いじめ”についてWikipediaから主要な考え方を徴すると、

 ―いじめは、年齢や性別、宗教や民族、国籍や思想、社会的立場や教育の程度を問わず存在するが、深刻ないじめが多発しやすいのは、思春期に差し掛かる10〜15・16歳の少年少女の間である。 一般的には、いじめの被害者になりやすいタイプとして、精神的に弱い者、肉体的な弱々しさや障害を有する者、その社会で当然とされている価値観にそぐわなかったり・疑問を唱えたりする者、協調性に乏しいなど何らかの理由で周囲から疎まれる者などが挙げられる。言うまでもなく、被害者がそのようなタイプであるからといって、いじめが正当化されることはない。また、何らかのきっかけで、いじめの加害者と被害者とが逆転することもあり、立場は固定的なものではない。

 学校は、いじめが行われる場の筆頭に挙げられる。多人数が集団を作っていること、構成員である児童・生徒が情緒の発達段階にあるため、良好な人間関係を維持する能力が未熟であることなどが根本にある。監督者としての教師の役割は重いが、いじめが犯罪の要素を備えている場合、教師の対処能力を超えることもある。 学校の運動部、軍隊や相撲部屋など、厳格な上下関係や規律が重視される組織や閉鎖性の強い組織においては、欲求不満のはけ口として、いじめが発生しやすい傾向がある。また日本には、古くから有形無形を問わず「ムラ社会」が存在し、その中では、いわゆる村八分が一つのいじめの形態となっていた。村八分は、一方では、村社会の規律を維持するための側面があった。いじめが集団的または制度的に行われる場合、集団への同調圧力などから、たとえそれが残虐な行為であっても、罪の意識が忘れられ、勢いで行為に加担してしまうことがある。こうした集団心理の存在を証明した心理学の実験も少なくない(アメリカの心理学者ソロモン・アッシュの実験など)。 いじめがゲーム感覚で行われることもある。加害者は、しばしば「楽しくて面白いから」と称するが、実際にはストレス発散のゆがんだ現れであることが多い。また、加害者は、いじめる相手の人格的なマイナス面だけを取り上げて、「相手に責任がある」と責任逃れをすることがある。これは、誤った正当化であり、いかなる場合にもいじめは許されないことを加害者に教育する必要がある。

 教師が特定の子供に対し、「この子はいやだな……」などと苦手意識を持っている場合、教師にその意図はなくとも、その子供が他の子供からいじめの対象にされるという指摘もある。すなわち、教師の気持ちを他の子供が敏感に感じ取り、「この子ならいじめてもかまわないだろう」と暗黙裏に了解する危険があるというものである。

 「いじめは被害者に問題がある。被害者がいじめを誘発している」と弁明する加害者やその同調者がある。これは、自分たちの行為を正当化し、被害者に責任転嫁をしているにすぎない。ところが、このような弁明が、被害者への偏見を周囲に広めることもある。さらには、被害者にも「自分にも責任がある」と思い込ませることがある。こうなると、被害者は、いじめに対処する気持ちを失い、自己を蔑視するようになり、自殺や自傷などの行為に走る場合も多い。いじめが長期化・悪質化すると、徐々に周囲が被害者を蔑視する事態も生じる(被害者の家族・親類による被害者蔑視もある)。このように問題が固定化し複雑化すると、被害者や周囲によるいじめへの対処は困難となる。―

 先生や親があまり知らない場で学校に通う多くの少年少女が日常いじめの事実を多く見聞し、自らも関わった経験をもっている筈である。そのことについて毎日新聞に載った調査レポートによると、

 ―いじめがあった時「いじめる方が悪い」と考える子どもが中学、高校で半数にも満たないことが、民間団体の調査で分かった。また、いじめを受けた際に相談できる相手を聞くと「教師」はわずか19%で、「いない」と答えた子どもは2割を超えた。文部科学省の統計報告がいじめ自殺をゼロとしてきた裏で、標的の子が罪の意識の希薄な子どもに追いつめられた上、周囲の大人が十分対処できていない様子が浮かび上がった。

 いじめをなくそうと呼びかけているNPO法人「ジェントルハートプロジェクト」(川崎市)が、過去3年間に講演活動で訪れた全国の小学校8校、中学校23校、高校5校の児童生徒約1万3000人を対象としたアンケートの結果をまとめた。

 それによると、「いじめる方が悪いと思うか」と聞かれ、「はい」と答えた小学生は6割を超えた。しかし、中学、高校生は4割台だった。「いじめられても仕方のない子はいるか」の問いに「いいえ」と答えたのは、小学生ではかろうじて半数を超えたが、中学生では4割を切った。  一方、「いじめはなくせるか」との問いに「はい」と答えた比率は、学年が上になるほど少なくなる。「いじめを相談できる相手」は、「友だち」(56%)が多く、親は39%にとどまった(複数回答)。―

 こうして見るとWikipediaの概論と毎日新聞の実態調査の間には微妙だが、実は画然とした差異があることが分かる。前者はいじめは加害者に問題発生の責任があり、深刻にならぬうちにこれを止めさせなければならないというのが基本論調であり、断定的ではないがトラブルは未熟な若年に起こしやすいように述べている。後者では被害者側により大きい原因があるという感触があり、しかも年齢が増すにつれてその傾向が強くなっている。Wikipediaの方は嘗て若い頃そういう体験があったにせよ、もうそういう環境から抜け出て忘れかけている年代の意見を代表し、また優等生的な“そうあるべき”という道徳論の匂いがするのに対して、後者は現在も学級の中に紛糾を抱えている実体験者たちの意見だから、いじめの本質を捉えるためには後者のこどもたちの意見をより重視すべきだと考える。

 ここで私自身の経験を述べてみる。小学校4年までの東京時代はずっと級長をやった(教師がそうしたのか、クラスで選ばれたか覚えていない)が、覚えていないくらいだから平穏無事で人と諍いは一切なかった。周囲の子と意識するような差別もなかった。小学5年に縁故疎開で岡崎の農村の小学校に転校した時、一人だけ都会から今までの顔なじみの中に異端がはいってきたのだから、スンナリとはいかなかった。力自慢の今までのリーダーが挑んできて、私は組み伏せられた。この時頭は冷静で、幼児時代は別として泣いたことはなかったが、この時は泣いたほうがいいと思って涙を流した。それで相手とクラス全員の気が済んだようで、もういじめは消滅した。もう一回小さな挑戦があった。戦時中だったから通学する部落単位で登下校に班を組んで、班長の号令で行動することになっていた。新参者の私が班長になった(多分教師が決めた)のに不満があったのだろう、私が“出発、前へ進め!”と発声すると、わが部落の一隊は校門を出てまっすぐ麦畑を突っ切り、竹薮から小川を渡渉してまた麦畑を突き進んだ。思い出すと懐かしくなってしまうのだが、その時は弱って、遂に“(曲がりくねった道に沿って)道なりに進め!”という命令をひねり出した。これで事は収まった。両親はそれぞれ生活に精一杯だし、こういう類いのことを親に相談報告する気は一切なかった。

 その後は級長をやったが、もともと純朴な農村だから、私とクラスの間にそれ以上もめごとは一切なかった。但し新担任になった女教師はクラスの掌握ができず、小学5年の男子たちに卑猥なことばでからかわれた。女教師は行軍が帰校した時、統制を乱したと全員向き合って相手のビンタを命じたが誰も従わなかった。口惜しそうな真っ赤な顔で棒立ちになっていて、これこそ生徒による教師のいじめだった。私も女教師に反感を持っていたので、“いい気味だ”と思った。中学・高校ではいじめられた経験は一切ない。戦後の混乱期で余計な気を遣う余裕もなかったのだろう。しかしいじめというのは被害者が周囲に溶け込んでいない違和感に応じて発生する。私は小学のいさかい以後環境に溶け込む術を会得した。

 本題に戻る。“いじめはなくせるか”という問いに“なくせる”と答えられない中学生たちには具体的にいじめを受けている同級生のさまが脳裏にあるに違いない。そして、あれではいじめを受けても仕方がないという思いがあるのだろう。そういう意味でいじめられる側に相応のいじめられてしかるべき理由がある以上、いじめはなくならない。彼らはいくつかの理由で仲間に入るのを拒んでいる。入れてもらえないのかもしれないが、根底には協調性のなさがある。こどもは自分の感情に正直で、残酷になる。強制的に組み入れられたグループ環境で、気の合わぬ分子の存在は気になる。できれば排除したい。そういう働きかけをしてみると、それなりに反応があり、同調者も現れる。欲求不満解決の自己満足もあって、いじめはエスカレートする。こういうのは喫煙や食べ過ぎ飲み過ぎなどの好ましからざる行為に走るのにも似ていて、一旦落ち込むとよくないとは分かっていても仲々やめられなくなる。

 人間社会は日本人に限らずまた学校だけでなく、昔からこういう諍いを繰り返してきた。異民族のるつぼと言われる国ではその程度も激しい筈だ。相手を自殺にまで追い込んではいけない。その意味では加害者側に責任がある。しかしそれ以前に被害者側にも団体生活に臨む心がけと適応する要領会得が欲しい。こういう場に直接参加する機会の少ない親や教師は補導の責任はあっても決定的な役割は担えない。ましてや国会で審議中の教育基本法といった法律で規制できるものではない。冷たいようだが私はいじめは学校だけではなく社会生活を送る上での不適格者にからんで発生する事象で、環境を変えるなどの強制的な手段で解決できればそれに越したことはないが、適者生存という自然界の共通則に帰結すると考える。


<宇井 純> 11月12日、沖縄大学名誉教授 宇井 純氏の訃報を新聞報道で知った。以下は毎日新聞記事からの引用(写真は多分東大在籍中のもの)。

 ―自らを公害問題の“職人”と称し、水俣病研究などに大きな足跡を残して患者を支えた宇井純さんが11日亡くなった。宇井さんは東大卒後、ビニールフィルム製造会社に3年間勤め、水銀を扱った。59年に水銀原因説を聞き、究明に力を注ぎ始めた。東大に籍を置きながら“富田八郎(とんだやろう)”の筆名で水俣病問題の告発を続けた。その文章をまとめた資料集“水俣病”は患者支援運動のバイブルとなった。宇井さんは70年から15年続けた自主講座“公害原論”で、公害に関する調査結果をすべて公表、公害・環境問題に取り組む人々に大きい影響を与えた。一方で昇進の道は閉ざされ、東大の“万年助手”となった。チッソの付属病院長故細川一氏の猫実験結果を知りこれを公表したが、水俣病研究で知られる宮沢信雄さんは「宇井さんの現場に何度も足を運び丹念に資料をまとめる手法、反権力の姿勢に多くを学んだ」と語った。86年沖縄大学教授に就任し、サンゴ礁を守る新石垣空港反対運動に関わった。−

 私は岡崎から東京の大学にポッと出てきて生活費のかからぬ駒場寮に入り、たまたま隣室だった宇井氏(1年上だった)を見知ったが、彼はロクに講義にも出ず昼間から本格的にアルバイトに精を出している精悍な学生という感じがあり、“ああ、流石に東京というところには常人とは異なる秀才がいるなあ”と感心した記憶がある。アルバイト料が欲しくてたまたま大学厚生課の紹介で雅叙園の事務手伝いに赴いたら、彼が主のような顔をして取り仕切っていた。氏は弟・妹もいて家計を助けるために、多分家からの仕送りを断っていたのだろう。ろくに口を利いた覚えはないが、なんとなく自分と共通なものがありそうだという性格は分かった。駒場以後は会っていない。

 主な経歴は次の通りとされる。
1932年 東京に生まれる。2歳の時、栃木県へ移住し、開拓農民生活を体験
1956年 東京大学応用化学科卒業
同年 日本ゼオン(株)に入社。高岡工場、大阪営業所などに3年間勤務した後、退社
1959年 東京大学大学院工学研究科応用化学専門課程に戻り、プラスチック溶融体の流動特性を研究。水俣病の水銀説を聞き、個人的に調べ始める。大学院博士課程は土木工学科に進む
1965年 新設の東大工学部都市工学科の助手に就職
1966年 ミュンヘンの国際水質汚濁防止会議で「新潟水俣病」について発表。翌年から新潟水俣病の被害者が提訴した民事訴訟に弁護団補佐人として加わり、公判廷尋問で活躍
1968−69年WHO(世界保健機構)上級研究員としてヨーロッパの公害を調査、オランダでは酸化溝による下水処理技術を研究
1970年 水銀問題の紹介によりフィンランド自然保護協会大賞を受賞
同年 東大に帰任。以後、公害の研究・調査結果を市民に直接伝える場として、自主講座「公害原論」を開講。以後1985年まで15 年にわたり自主講座で環境問題の市民学習運動を組織し、環境科学研究促進への強い刺激を与える一方、市民の手による公害監視運動、被害者救済・支援活動、企業の"公害輸出"を阻止するなど全国の公害反対運動に対する情報サービス・情報ネットワークを築いた。今日、全国の多くの大学が公開講座を催し、市民へのサービスと大学自身の活性化を図ろうとするのは、宇井純自主講座の成果に学ぶものといえる
1972年6月 ストックホルムで開かれた国際環境会議に水俣病患者やカネミ油症患者らと「水俣からのメッセージ」を携え参加。世界へ初めて水俣病をアピールし、衝撃を与えた
1979年 アジア環境協会を再組織して会長に就任
1982−83年 フルブライト研究員として米ミシガン州立大に留学
1986年 東大助手(21年間)を退職。沖縄大学教授に就任、公害病、環境科学などを担当。 赴任翌日から新石垣空港建設反対運動などに参加
1989年 沖縄大学地域研究所所長に就任
1990年 スモン基金奨励賞受賞
1991年 UNEP(国連環境計画)よりグローバル500賞受賞
1997年 前年、沖縄で開催された日本環境会議の決定を受け「沖縄環境ネットワーク」を結成、世話人に就任
1998年 沖縄県公害審査会委員に就任
2000年 沖縄サミット直前に開催した国際環境NGOフォーラムを主宰
2002年 第1回アジア太平洋環境賞受賞
2003年 沖縄大学を退職。第1号名誉教授に

 宇井氏による水俣病を招いたチッソの糾弾は早くから全国識者の知るところとなったが、50年近く経過した現在なお行政と司法による対応は甚だ不十分で、有機水銀被害者として認定されず補償を受けられぬままに苦しんでいる人たちが未だに多数いる。企業の御用機関でもある東大工学部でかくも公然と反体制活動を続けられては本学内での昇進は認められなかったのは必然(今なら事情は変わったが)、21年の助手待遇は全国で有名になった。企業という集団社会が自らの利害にからんで有形無形の抵抗をするのに個人で摘発したのだから、困難とともに遣り甲斐はあった筈で、教授になって言いたいことも遠慮しなければならないよりずっとよかった。一方前述の如くこの種の問題は科学的には明確に解明されても、社会的な解決は決して快刀乱麻とはいかず、長く尾を引くことに最も心を痛めていたのも宇井氏御本人であっただろう。引用した文章の中でご本人が“自らを公害問題の職人と称していた”というのが宇井さんらしいと一番感銘を受けた。政治家じゃあないんだ。

 死因は胸部大動脈瘤破裂とあった。司馬遼太郎と同じである。晩年の写真では往年の精悍さは影をひそめ、血行不良で悩まされている顔つきになっていた。残念だけれど寿命だったようで、ご冥福を祈ります。


<上野台地> 2005年12月<東京の地理と歴史>では中沢新一の“アースダイバー”の記事を取り上げた。それから1年も経たないのに、まさしく老人ボケのせいで同じ本をまた購入してしまった。本屋で注文した本を受け取った瞬間に間違いに気付いたが、返本するわけにもいかないので、持ち帰って読み直してみると、流石に桑原武夫学芸賞を受賞しただけに内容が濃いので、前回受け止められなかった点に新たな感銘を覚えた。その一部を抽出紹介すると、

 ―岬は異界に向かって身を乗り出していく場所、向こうに広がる世界から吹き寄せる風を全身で受け止める場所を表す。東京にはそういう岬の中でも、とりわけ重要な岬が二つあった。ひとつは今東京タワーが建っている芝の岬であり、ここには紀州熊野の海民との海の通路が開かれていた。もうひとつの岬が、上野にあった。近代になるとこの上野が、東北への玄関口になり、新しい時代の岬としての機能を果たすようになった。東北と上越と信濃から東京に向かってやってきた列車は、上野半島の裾野を回りこむように走りこみ、岬の突端に駅ができた。今では新幹線が東京まで延びたけれど、それまでは東北・北陸の人達を暖かく迎える鉄路の終点になっていた。西口にあたる公園口の方は、高台を覆う深い森につながっていて、沢山の古墳があり、狐たちの生息する横穴も縦横に走っていた。この上野のお山はかって大きな半島の先端だった。前方は広々とした遠浅の海。そこにまばゆい朝日が上がってくるのを、台地上の集落に住んでいた縄文人が見ていた。不忍池のあたりは深い入り江で、隣の本郷の高台近くまで海水は入り込んでいた。このように上野には古い時代の記憶が至る所に封印されて残存している気配がある。―

 冒頭に掲げたのはGoogle Earthの画像で、上の記述を裏付けるように岬状に南方に向かって突き出す緑の森に覆われた上野台地。左側に上野駅、右側に不忍池。前方の平地は昔は遠浅の海だった。正確な位置関係を認識できるように次にもう一枚俯瞰図を示す。今度は上が北で左が不忍池、右が上野駅。中央の逆三角形台地の一角に西郷隆盛の銅像があるが、画面を拡大してもそこまでは視認できない。

 上野台地という地域を調べてみると、今は衰退してしまった寛永寺に関する記事があった。江戸時代の地図を見ると、この台地に繁栄を誇ったこの寺の勢威が実感できる。まずは寛永寺の地理的な特徴について、

 ―東叡山寛永寺は現在の上野公園よりも広く、総面積は36万坪、根本中堂をはじめ百を越える建物を擁した大寺院である。御本坊は輪王寺宮の宿泊処で現在は東京国立博物館となっている。御本坊の南に根本中堂があり、今は噴水池のある辺りで「竹の台」と呼ばれていた。この辺りの小学校では昔はここで運動会をしていた。その東側に本覚院(現上野の森美術館)、凌雲院(現東京文化会館)、御霊屋(徳川御三家の墓所で現在は国立西洋美術館)があり、その東側は上野台から約15メートル下に位置し、下寺と呼ばれ現龍院、泉龍院、吉祥院など11の寺院があった。これらの下寺跡地に現在の上野駅が出来たのである。これらの寛永寺子院は今は博物館の東、鶯谷へ向かう途中に塔宇が集まってある。高台と下寺には東から、車坂、屏風坂、信濃坂、新坂などの坂があり、山下(奥州裏街道)へ通じる門があった。御本坊の西側に等覚院、元光院がみえるが、この敷地跡に今の東京芸大音楽学部があり、東円院、涼泉院の跡に美術学部がある。

 広小路からの参道口に黒門(上野戦争で旧幕府軍.彰義隊と東征軍が激しく戦った激戦地)と御成門(将軍がお詣りの時に使う)の2つの門がみえる。広小路の中心である「三橋」(現在の中央通りをはさんで上野京成駅前あたりで旧町名、上野三橋として残っていた。市電の停留所でもあった)があり、江戸時代本郷へ抜ける唯一の通りで老舗が集まっていた池之端仲町も見える。現在、池の南岸沿いに不忍通り、三橋から左右(東西)に流れる川(忍川)沿いに春日通りが走る。この忍川は三味線堀に続き、やがて鳥越川を経て隅田川に流れ出る。忍川右岸に佐竹藩の上屋敷が見える。旧町名「竹町」で「佐竹が原」と呼ばれたところだ。不忍池には蓮池に弁天堂が浮かんでいる。蓮の花は初夏の風物詩である。池畔の茶屋は蓮見を楽しむ人で賑わった。不忍池に蓮が多いのは仏教に因んでわざわざ蓮を植えたのだという。また、不忍池というのは、上野のことを称して「忍岡(しのぶがおか)」というのに対して「不忍(しのばず)」と言ったそうである。―

 右は不忍池の向こうに上野台地を望む写真。 一方で歴史的な記述については、

 ―天台宗の関東総本山で、1625年三代将軍家光の時、天海僧正により建立。創建当時は、江戸城の鬼門を守る祈願所であったが、のちに芝増上寺とともに将軍家の菩提所となった。現在の本堂は、明治12年に天海僧正ゆかりの地川越(埼玉県)の喜多院から移築された薬師堂で寛永15年(1638)の建造物といわれている。 徳川家の菩提寺として長らく栄華を誇ったが、1868年彰義隊の戦争で、ほとんどを焼失した。

 江戸には徳川将軍家の菩提寺は、芝の増上寺と上野の寛永寺と2つあるがこれにはわけがある。初代将軍家康は別格で、はじめ久能山(静岡)に葬られ、のち日光に移された。2代将軍秀忠は初めから決めていた増上寺に葬られた。徳川家の宗祖は浄土宗であり、増上寺は江戸麹町にあった古くからの浄土宗のお寺であり、この寺の住職が、徳川家が岡崎の一大名であった時からの菩提寺と縁があり、菩提寺は増上寺に決まった。

 将軍家ともなると、菩提寺だけではなく江戸城鎮護の祈願寺も必要で、これは古い歴史と由緒をもつ浅草寺に難なく決まった。浅草寺境内に東照宮が造営された。現在馬道通り側に二天門があるが、これは浅草寺の門ではなく東照宮の随身門である。ところで、家康、秀忠、家光と三代に亘って将軍の政治顧問的存在だったのが、寛永寺を建立した天海(のちの慈眼大師)である。天海は会津の生まれで京都比叡山で修業し、比叡山が織田信長によって焼き討ちにあうと、武田信玄に奇遇し、73才の時家康と出会った。二代将軍秀忠の子が春日局に育てられた家光である。秀忠はむしろ弟の駿河大納言忠長を可愛がり、また家光も秀忠に親しめず、祖父家康を慕った。家光が将軍職に付けたのも家康の応援があってこそだった。家康が75才で亡くなってから家光は天海を家康の身代わりのように頼りにした。天海の死期が近づくと、家光は月に四回も寛永寺に見舞いに訪れたという。

 家康は神として東照大権現となるのだが、これも天海の主張を取り入れたもので、天海の天台宗では山王神道といって仏教と神道を融合させた考えで、権現とは仏が仮に神となって現れるということである。天海はこの尊号についても豊臣秀吉(豊国大明神)と同じように大明神の号を主張する反対派を退けた。上野に寛永寺を作ったのは寛永2年(1625)のことで、以前の浅草寺の代わりに新しく祈願寺とした。江戸入城から35年目のことである。寺域約30万坪という圧倒的な規模をほこり、大小百近い寺院や荘厳な堂塔伽藍が建っていた(江戸名所図会)。 天海のあと、三代目からの山主には必ず皇子もしくは天皇の養子がなることになった。これが輪王寺宮(りんのうじのみや)で、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺の3山を統轄した。鎌倉幕府は皇子を将軍に迎え、実権は北条氏が執権として握っていた。徳川幕府は、輪王寺宮に皇族を迎えることで、公卿との共生をはかったのである。

 現在、上野公園の噴水のあるところ、ここは竹の台と呼ばれた処であるが、将軍綱吉によって根本中堂がここに建てられた。輪王寺宮が寝泊まりする本坊はその奥の国立博物館のところにあったのである。この寛永寺を、祈願寺であるだけでなく菩提寺にしたのは三代将軍家光であった。家光は遺言で自分の葬儀は寛永寺で、遺体は日光に葬るよう指示した。すべて尊敬する家康と天海のあとを追ったのである。これ以来寛永寺は徳川家の菩提寺となり、霊廟には四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓がある。 壮大な規模を誇った寛永寺の堂塔伽藍も戊辰の彰義隊の戦いでそのほとんどを焼失してしまった。官軍は寛永寺を旧体制の象徴とみて徹底的に焼き払ったのである。彰義隊の戦いは半日で片が付いてしまったが、広小路から動物園へ向かう入口のところ、清水観音堂下の黒門付近は最も激しい戦いが行われた。弾痕、刀傷が残る黒門は南千住円通寺に移築保存されている。また、歴代将軍の霊廟勅額門は難を逃れ現在もそのまま残されているが、これらは貴重な文化財である。―


<Google News> また GOOGLE文化の紹介である。“Google News”という情報サービスがあることを知り、覗いてみることにした。無論無料である。インターネットによるこの種の情報提供は既に各新聞社や民放テレビなどでもやってはいるが、民放テレビなどはコマーシャルこみで直接テレビを見てほしいから、探せばニュースも出てくる程度であまり親切ではない。もちろんそれらのホームページの編集には専任のスタッフが付いていて日夜更新に励んでいる筈である。“Google News”は運営方法が全く違う。そこに掲げられている解説を見てみると、

 ―Google ニュースは、610 を超える世界中の提供元から記事を選りすぐり、最も関連性の高いニュースから順に自動的に掲載します。 トピックは 15 分ごとに更新されるため、ページを開いておけば最新の記事が表示されます。興味のある記事を見つけたら、記事の提供元サイトに直接アクセスして、全文を読むことができます。 Google ニュースは、検索結果が人の手を介さずコンピュータ アルゴリズムのみによって編集されるという点で、他のニュース サービスとは大きく異なっています。 提供元の選択は政治的観点やイデオロギーに関係なく行われるため、同じ出来事についてさまざまな提供元のニュースが表示されます。 視点や編集方針はオンライン ニュース サイトによって異なるので、Google では、重要な出来事についてユーザーの皆様に十分な情報をお届けするために、多様な記事を用意することが大切であると考えています。Google ニュースには、過去 30 日間に発表された記事が掲載されます。

 Google ニュースは、こちらの言語でもご利用できます:
 Argentina - Australia - Belgie - Belgique - Brasil - Canada English - Canada Francais - Chile - Colombia - Cuba - Deutschland - Espana - Estados Unidos - France - India - Ireland - Italia - Mexico - Nederland - New Zealand - Osterreich - Peru - Portugal - Schweiz - South Africa - Suisse - U.K. - U.S. - Venezuela - 中国版 (China) - 香港版 (Hong Kong) - 日本 (Japan) - ?? (Korea) - 台灣版 (Taiwan) - ????? (Israel) - ?????? ?????? (Arabic) (なお“?”に化けたのは私にも読めない原語文字)―

 自動編集で、ニュース素材はすべて他の世界中のメデイアから駆り集めてくるというチャッカリした手法だから、記者もいない。情報の選択はGoogle検索と類似の論理で、引用回数など自動的に判断できる統計データを基に行っているのだろう。Google検索で培い育てた技術が発揮されているに違いない。必要な手段さえあれば誰にでもやれそうなことではあるが、こういう事業を創始することと、それに必要な情報基地とアルゴリズムを用意するのはやはりGoogleしかできない。独自の情報はなくすべて二次情報だが、15 分ごとに更新される即時性と37にも及ぶ世界各地の言語版の発行は他の追随を許さない。

 もう一つの特徴は読者の好みに合わせた情報提供である。ニュースの半ばほどに“**さんへのおすすめニュース”(“**”というのは私のメールアドレス)という項目があって、それをクリックすると、先のニュースとはレイアウトや表示される記事が異なる画面が現れた。また元の画面に戻って、“おすすめニュース”の右横の“詳細”をクリックすると、次のような解説が現れた。

 ―お勧めニュース記事
 Google ニュースでは、お勧めのニュース記事を提供しています。 パーソナライズド検索を有効にしている場合は、Google アカウントにログインして、過去に閲覧したニュースに基づいたお勧めのニュース記事を見ることができます。 これらの記事は、ニュース ページの上部の記事の下のセクションにハイライト表示されます。 セクションをクリックして、お勧めニュース記事の全文を見ることもできます。
 次にその仕組みについて説明します。 パーソナライズド ニュースにログインし、パーソナライズド検索を有効にすると、Google で閲覧したニュースが追跡および保存されます。 次に、高度なアルゴリズムを使用して閲覧したニュースを分析し、Google ニュースでお勧めの関連記事を自動的に表示します。 アルゴリズムでは、お客様の趣向と同様の Google ニュース ユーザーの趣向を照らし合わせて、 過去に同様の記事を読んだ他の多数のユーザーが閲覧したお勧めのニュース記事を表示しています。

 Google アカウントにログインして Google ニュースを閲覧する回数が増えるにつれて、より適切な記事が表示されるようになります。 Google アカウントにログインしていない場合や、Google パーソナライズド ニュースのコンポーネントであるパーソナライズド検索を無効にしている場合は、お勧めの記事は表示されません。―

 もう忘れてしまったが、初めて“Google News”にアクセスした時に、Google アカウントにログインして、メールアドレスとパスワードを登録した筈だ。その後Google ニュースにアクセスするたびにそういう手続きを繰り返す必要はなく、Google アカウントにログインしたことになっていたらしい。自分の過去の閲覧行為をトレースして、自動的に自分の趣向に沿った記事選択やレイアウトがなされているということだ。これは意識しない中での情報提供法だが、その他に意識して行う情報選択法については次のような解説がある。

 ―ニュースのカスタマイズ: Google ニュースをカスタマイズして、他のユーザーと独自のバージョンを共有することができます。 この機能では、Google ニュースのトップ ページにカスタム セクションを作成して、興味のある技術やスポーツ チーム、文化・芸能など特定のトピックの記事を表示できます。 また、セクションをカスタマイズして、全世界 35 種類の地域版 Google ニュースで各セクションに掲載される記事を自由に組み合わせたり、キーワードを指定して表示することもできます。 Google ニュースは、パーソナライズド検索の一部であるため、検索履歴やクリックしたニュース記事を表示したり、管理できます。―

 この機能で、トップ ページのレイアウト変更と、関心に沿った記事の表示ができ、”社会”・”経済”・”スポーツ”・”科学・技術”・”国際”・”政治”・”文化・芸能”・”トップニュース”などのセクションをドラッグで配置変更、興味がなければ削除するような設定ができる。こういう自分好みの新聞が入手でき、また大事件でも勃発した時はパソコン画面に出しっ放しにしておけば新たな小ニュースが次々に入ってきたり、必要に応じて過去の関連事件を検索できるなど、Google ニュースは使い方を覚えると他のメデイアにはない多彩な活用法がありそうだ。まだユーザーの意見を求めて改良中のベーター版である。


<危険学> 従来の考え方ではなぜうまくいかないのか。例えば作業手順を示しているマニュアルには「ここを通れ」というような指示しか書かれていない。これを読めば確かにそのやり方はわかるが、どこにどんな危険があるかという知見は得られない。そのためマニュアルが想定していない問題が起こったときには対処できないということが必ず起こるのである。一方“べからず集”には行動に関する制約がたくさん書かれているが、ここにもやはり、危険のそばを通過する方法に関する知見は一切ない。“マニュアル”も“べからず集”も危険防止の役割はほとんど果たしていないのである。

 これが“失敗学は危険学に進化した”と称して先々月の“失敗を考える”に次いで畑村洋太郎名誉教授が出版した“危険学のすすめ”の本の帯に記された文言である。正直に言うと、氏の“失敗学”が予想以上に俗受けしたので、柳の下の二匹目のどじょうを狙った感もしないではないが、とにかく新たな知見を求めて読んでみた。折から三菱自動車の大型トラックの車輪のハブ断裂が続発し、度重なる死傷事故に世間の非難が集中して設計製造を根本的に見直した筈の新型に取替え、使用時間もさほど長くない物件で再び(疲労?)破断事故が発生し、流石にメーカーも問題を深刻に受け止めていると報じられている。

 森ビルの回転ドアで少年が頭をはさまれて死亡する事故(2004年4月<電動回転ドア>参照)を取り上げて、氏は“事故の真の原因究明を行う”目的で、公的機関を介在させない個人ベースの期間限定(約1年)プロジェクトを立ち上げた。この本の大半はそのプロジェクトの活動報告であった。但し対象を電動回転ドアだけでなく、手動回転ドア、エレベータのドア、鉄道・自動車のドア、シャッターなど公共設備の開閉装置全般に拡げて、危険防止のノーハウ取得を目指した。氏の知名度と時宜に適した企画であったために、森ビル、日産自動車、JR東日本など多くの企業がプロジェクトに参画した。氏は人体の危険度調査の実際については全く素人だったと告白していて、その面でダミー人形を使う衝突実験で日産自動車から学ぶところが大きかったと述べている。

 森ビルのオーナーは事故後早々に回転ドアの撤去を決めたので、実験を伴う調査は速やかにかつ一般の邪魔にならぬ夜間に行った。ダミーの人形は頭がはさまれると、捩られながら首を引き伸ばされつつ巻き込まれていき、押し潰されていくというすさまじい状況が再現できた。調査して分かったことは、ドアにはさまれると、大人の頭は約100kgの力で、またこどもの頭は50kg以下で潰れること、事故を起こした回転ドアのものをはさむ力はほぼ560 kgだったこと、また非常停止スイッチが働いても慣性で停止するまでに20cm以上動いてしまうことが分かった。調査に参加した人達はこのドアが十分に殺人機械に該当すると認定した。回転ドアの自重は2.7tonだった。また合わせて同じ森ビルの手動回転ドアについても計測実験を行った。この場合日常的な回転速度に対応する秒速70cm/secではさむ力は200kgに達した。“手動は安全”というのも錯覚であることが実証された。

 畑村教授はエレベータやスライドドアの設計者から“10J(ジュール)則”というのがあるという事を聞いた。10Jというのは20kg程度の質量の物体を1m/secの速度で動かす運動エネルギーで、これを越えると人間を負傷させる恐れがあるので、ドアの移動エネルギをこれ以下に抑えるのが暗黙の知識になっているというのだ。こういう思想が回転ドアの設計には全く伝わっていないということが分かった。そこで畑村氏は技術の系譜を知る必要があると考えた。事故を起こした大型回転ドアはオランダに本社のあるブーイングダム社の回転ドアがルーツであることが分かった。もともとはフレームも回転部も軽量のアルミ材で作られていた。日本に導入されたのは事故の発生する10年前の1994年で、日本企業のタジマとブーイングダムとの合弁会社がやった。やがてその会社は経営破綻し、新会社(三和シャッターが新たに三和タジマという合弁会社を立ち上げた)が図面などを引き継いだが、元祖のブーイングダム社は完全に手を引いた。日本では外観重視と高層ビルの曝される強風への配慮のために回転部は本来軽量のアルミ骨材で化粧なしだったのが、スチール骨材でステンレス化粧に設計変更された。“回転ドアは軽量でなければ危険だ”という思想が失われて、もともと同じ直径(4.8m)で0.9tonだったものが2.7tonになってしまっていた。このようにして畑村氏は技術思想が継承されず、“10J則”のような暗黙知が無視されたことが事故の根本原因と結論づけた。

 プロジェクトは引き続き、森ビル内のエレベータのドアや新幹線・山の手線のスライドドアでダミー人形やベビーカーを使ったはさまれ実験を行った。このようなドアのはさむ力は概ね50kg以下で、頭やベビーカーをつぶされる恐れは少ないが、はさまれたドアの隙間によっては発車禁止のランプが消え、はさまれたまま引きずられる危険はあることが分かった。シャッターの実験も森ビル内で行った。シャッターにはセンサーが付いていて、自重による自然落下で秒速5センチの速さでゆっくり降りてくるが、異物に接触すると5kgの荷重で反転を始める。ところがセンサーを外すと状況は一変し、220kgという力を記録し、ダミーの人形側頭部の粘土は横に噴出した。人間なら即死である。学校で児童のシャッターはさまれ事故が報じられたが、古い学校のシャッターなどはメンテが行われていないので、こういうセンサーが利かない恐れがあるから速やかにシャッターは撤去すべきと著者は言う。自動車のドアも手動であっても勢いよく閉めれば指などをつぶす危険がある。

 畑村氏はまた国が主導して行う事故調査委員会の問題点を次のように指摘している。往々にして(というよりほとんどすべての場合において)結論があいまいになる。それは“原因の究明”と“責任の追及”を混同してしまう日本の風土と文化に起因していると言う。本来、科学的な態度と社会的な道義責任の追及を明確に分けなければ、事故の真の原因を探ることはできないと氏は断言する。氏の調査プロジェクトは前者に徹した。個人プロジェクトであったために、企業が“自分たちの不利になる実験結果は公表させない”という圧力をかけるのを排除できた。調査を何の制約もなしに行うという趣旨をメンバー企業が理解した上で参画してくれたので、その種の問題は発生しなかった。


<環境の変化> こういうテーマで何を言いたいか、人に伝えにくいと感じている。短い適切なことばがない。でも、言いたいことはハッキリしている。梅棹忠夫という人が“知的生産の技術”(岩波新書・1969年7月21日第1刷発行)という本を出している。著者の名は聞いた憶えがあるし、図書目録の題名に惹かれて買い求めた。ところが、巻末まで読んで呆れてしまった。情報の記録と整理、本の読み方、文書の書き方、表現法、コピーなどさまざまな情報処理・伝達法についての著者の工夫とその結果得たノーハウが綿々と記載してあり、私自身戦前から今日に至るまで同じような苦労を経てきたから、言わんとしていることは実によく分かる。ところが、パソコンが発達・普及した現代においては、1969年に著者が推奨している手段はほとんどがキレイサッパリと役に立たず、時代遅れなのである。呆れたと書いたのは、その徹底ぶりにであって、40年経たぬ間に一流の知識人(著者は工学部出身らしく、発想も小生に判りやすい)が日常絶えず悩み、工夫を重ね試行錯誤の結果、何とか解決したと考え、自信を持って万人の役に立つと信じ、まとまった1冊の著書として世に出した成果が、かくも無残に無用の領域に押しやられるべきものと断じて差し支えない現実に慨嘆したのである。決して著者を責めることのできない環境の変化によってである。岩波はまだこの新書を1999年第68刷として発行している。

 具体的に論じてみよう。まず文書の作成である。著者は英文タイプは堪能だが、流石に和文タイプまで扱う気はなく、人に読みやすい文字の文書として一時期専らローマ字で手紙を書いた。これならタイプできる。しかしローマ字が人に嫌がられることを感じてカタカナ表記に変え、読みやすいようにスペースを多用した。肉筆に戻したが、毛筆は時代遅れだと万年筆にした。その内にひらがなの方が自然だとひらがな表記に変えた。著者は有志とともに遂にひらがなタイプライターを開発した。あくまで自分のメモではなく、人に読んでもらう文書作成法としてである。この人は手紙というものは間違いなくきれいに書くということを第一に考えていて、漢字が使えないのは少し不便だと書いてはいるものの、仕方がないと考えていたようだ。この時代にはワープロはまだ出現していなかった。ましてやパソコンでワープロソフトを使うという発想はどこにもなかった。今ではひらがなを基調にして漢字を多用し、必要に応じてカタカナ、英文字を自由に使い分ける環境は常識なのに。冒頭にこの時代の象徴としてモンブランの万年筆を掲げた。今やメモやノートを取るのなら使い捨てのボールペンが常識だ。インクを補充しなければならない万年筆を使うなんて奇特な人に限られる。

 次に情報の保管方法である。情報を仕入れるとコマメにそれをメモする。定まったサイズのノートに記入する。更にはそれを後の活用の便を考えて、定まった形式とサイズのカードに転記する。著者は知的生産のためには情報の整理と規格化が不可欠と強調する。書類のサイズを統一してファイルに入れ、それを適切に分類したフォルダーに入れる。フォルダーは見やすいように見出しを付け、取り出しやすいように垂直式ファイリング方式を採用して、沢山の収納ケースを上から眺めおろして必要な書類を探す。広いスペースに能率的な収納場所の確保が重要である。このような事はパソコンのエキスプローラを使えば、必要に応じて何層にも分けた階層構造を設けて情報を見やすく収納・取り出しがほとんど無意識の内にできる現代では口やかましく説く必要もない。収納スペースも考慮すべきはハードデイスクの容量だけで、情報の種類も文書やデータだけでなく、画像や音声も自由で、これらを個別に分類する必要もない。ファイルの種別はファイル名の拡張子で判別できる。著者は恐らくもう故人だろうが、こういう現状を知れば唖然となるだろう。

 コピーの問題は重要である、タイプライターなら、紙を二重にしてカーボン紙をはさんで打てば手紙のできあがりと同時にコピーもできあがると書いている。また手紙は一字も間違いなく、訂正もなく完全に書かれていなければならない。タイプライターなら、間違いははるかに少ないし、間違って全部を打ち直しても、たいした労働ではないと書いてある。こういう文書の部分修正や順序入れ替え、一部削除などは現代の環境では極めて容易になったし、控え文書の作成などは意識しなくても(うっかり忘れても)システムが自動的にやってくれていてうるさいぐらいである。コピー/アンド/ペーストにしろカット/アンド/ペーストにしろ、この種の編集作業は昔と段違いにやさしくなった。対象の箇所をマウスの左ボタンで選択し、必要な作業は右ボタンで呼び出し、新たな所要の位置を左ボタンで指定して決定キーを押せばよい。

 だが、良いことも書いてある。−昔は文章は文字の美しさと強く結びついていた。“書”ができなければ、文章を書く資格がなかった。文章は、書いた文字の造詣芸術的価値と、分かち難く結びついていたのである。字が下手だから手紙を書かないという人が続出したのは、尤もな話であった。字の上手・下手が、文章の価値を決定したのだから。近代日本語が、文章を書道から解放するのに成功したのは、大進歩であった。文章は造詣芸術から独立して、独自のものとなりはじめたのだ。−と。但し、著者はワープロ機能の普及が真にそれを実現したことまでは知らない。原稿は原稿用紙に書くものである。それが基本的なルールであるーと書いてある。学生はレポート用紙でもいいでしょうと言うが、人に見せるものは原稿用紙に書かなければ第一分量もハッキリしない、活版印刷では文選工が原稿を見ながら必要な活字を選び出し、植字工が原稿の指定通りに形を整えるのであるーなんて書いている。今でも本は印刷されているが、原稿をワープロ(ソフト)で書いてはいけないなどという出版社はいないだろう。

 現代と著者の時代と余り変わっていないことが一つある。それはインターネットの普及にも関わらず“本”というメデイアの勢いがまだ衰えていないことだ。著者は本を読むときに2Bの鉛筆で黒々と傍線を引くことにしていたという。実は私もマジックペンで感銘を受けた箇所に着色することにしている。色は目立てば何色でもよい。著者も述べているが、本は末尾まで読んだ後でもう一度目を通す。二度目は傍線を主体に読み返して、抄録などを作る。著者は読書ノートを例のカード形式で作成したそうだが、とにかく本という形式はこの傍線を引く作業に適している。現代まで本が消滅していない主要な理由がそうであるとは言えないが。

 なお著者は本を1冊読む度に丹念に1枚の読書カードを作り、著者名・書名・出版社・ページ数・読了日などを書き込むと言う。今やそういうカードの代りに“読書記録”というエクセルの表を予め作っておけば、カード1枚作成は表1行の追記で代行できる。カード保管場所確保の心配は要らない。この人がエクセルの広汎な機能を知れば、ああ俺はなんと無駄なことに心労してきたのだろうと慨嘆するに違いない。これこそある意味での知的生産技術の権化なのだから。日常はあまり意識していないのだが、こういう本に接すると我々はこの40年以内に確実に新たな文明の恩恵を受けていることを悟らされる。


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