12月の話題


2006年12月


<ソニー> 近頃特に海外でのソニー不振のニュースを度々耳にする。文春新年号は元上席常務天外伺朗(土井利忠氏のペンネーム)氏による会社衰退(?)の原因究明論を載せている。氏は“ソニーは2006年で創業60周年を迎えた。かつては宝石のような輝きを発していた会社だったが、いまや煤にまみれてしまった”と述べている。1995年頃からソニーでは徐々に成果主義が導入され、遂にはコンサルタント会社が作った精密な評価法を使って、社員一人一人のパーフォーマンスを給料に反映するシステムをとった。氏はこの成果主義がソニー社員から大切な内発的動機を失わせた最大要因だと指摘する。

 天外氏は入社2年目に井深大社長の指示で東北大に留学、アンテナ小型化理論を生み出して工学博士号を取得した。その後、プロジェクトチームを率いてCDとデイジタル・オーデイオ機器、ワークステーションNEWS、犬型ロボットAIBOなどを開発した。この時代のソニーには燃える集団がいて、独創的な製品を次々に生み出した。これを可能にしたのは創業者である井深さんの存在だったと氏は回想する。井深さんはエンジニアの心に火をつけて、技術に命をかけるスーパーエンジニアに変身させる名人だったと言う。井深さんは“仕事の報酬は仕事だ”というのが口癖で、いい仕事をすれば次にもっといい仕事、もっと面白い仕事をすることができる。この言葉につられて技術者が新しい製品に挑戦した。トリニトロン・テレビは独創技術だったので完成に日時を要したし苦難も多かったが、長期的視野で見ると社内に技術が蓄積したし、“ソニーは独自の技術を開発する会社”とブランド・イメージが高まった。しかし井深さんの直接薫陶を受けた人々が第一線を退く頃凋落の芽が育っていった。

 井深さんの後継者たちが採用した成果主義は次第に社員のやる気を失わせていった。業務の成果をはかるには多くの要素を数値化しなければならないが、それは簡単なことではない。成果を計測するためにエネルギーや時間が消費され、肝心の仕事がおざなりになるという本末転倒の傾向が出てきた。目標の達成度を計測することに意識が行くと、どうしても容易に達成できそうな低い目標を掲げるようになり、“挑戦”が消えていく。目先の利益を追求する雰囲気が社内に蔓延して、短期的な収益に貢献しない業務や品質管理のような地道な作業がおろそかになった。成果主義を個人の評価にとどまらず、事業部全体の評価で事業部ごとの全体報酬を決めることにしたために、事業部間の足の引っ張りあいが生まれ、相互の溝は拡大し、他事業部に手柄を立てさせるわけにはいかないと互いの連携がなくなってしまった。

 2004年には嘗ては成果主義の本場だった米国でフロー理論を掲げるチクセントミハイ教授は講演で次のソニーの設立趣意書の英訳をスクリーンに掲げた。
 曰く ー会社設立ノ目的
 真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設・・・−
 教授は“自由闊達ニシテ愉快ナル”という箇所を強調して、これがフローに入るコツなんですと言い、明確に成果主義を否定した。技術者が集団でフローに入った状態が“燃える集団”である。そうなるための条件は“おカネが欲しい、出世したい”という俗な外発的動機ではなく、自分の内側から燃え上がる意欲による内発的動機で、無我夢中でこの流れに乗ることが良い結果に繋がるとフロー理論は説いている。天外氏は衝撃を受けた。

 天外氏は成果主義の弊害の最たるものは社内の雰囲気が悪化することで、上司は部下の人間を見ないで、なにごともマニュアルに沿った評価の目で見るようになる。うつ病などメンタルな問題を抱えた社員が増えてきた。昔は上司の権威など屁とも思わぬ豪胆な人間がいて、上司もそういう人間を頼もしく思っていたのだが。氏が“AIBO”の開発を始めた頃には既に会社の体力がなくなりつつあって、仕方なくベンチャー的スタンスで続けていたが、赤字が出た途端に社内から攻撃され、結局は撤退を余儀なくされた、井深さんの時代なら間違いなく“AIBO”は全社的なプロジェクトになり、大きい産業に成長するまで育てられただろうと述べている。

 私は会社へ入って間もなく乏しい給料の中からソニーのテープレコーダーを買い求めた。今では重いばかりで骨董品にもならないが、当時は斬新な製品だったのである。その後もソニーのファンで、孤高の方針を貫くβ方式のビデオ・レコーダーを購入した。最近では“AIBO”をソニーらしい製品と強い関心をもって見守っていたのだが、前記の如く会社が撤退の方針を出したのは全く残念である。経営方針について成果主義は創業者ほどの見識と奔放な会社運営に自信のない後継者が採らざるを得ない必然の道かもしれないが、まさに天外氏が指摘する通り会社の活力を奪った。ソニーが成果主義を捨てて建業の姿勢に戻るには、無力な経営者たちの事なかれ協調主義を廃し見識ある独裁的な経営者を必要とするかもしれないが、近い将来私と同世代に伸びその独自色を誇ったソニーが“マネした電器”の後塵を拝するようになったことを悔いて、そう変身することを技術立国日本のために熱望している。


<古墳> 右に掲げたのは大阪府堺市大仙町所在の大仙陵古墳(通称は仁徳天皇陵)(34°33'50.06"N 135°29'16.56"E)で、わが国最大の前方後円墳(墳丘長486m)。墳丘の高さは35 m、墳丘の周囲には水を湛えた三重の濠がめぐらされている(但し最外周の濠は不完全)。更にこの濠の外域にはさまざまな形態の陪塚が衛星のように主墳を取り囲む。そのすべてを含む墓域全体は南北10km、東西8kmに及ぶ。大林組プロジェクトチームの試算によれば、二重目の周濠まででピーク時で一日2000人、延べ680万7000人、15年8ヶ月の工期を要するという。一人の被葬者のためにである。三世紀後半から七世紀末まで日本列島各地(北海道と東北北部、南西諸島を除く)では数多くの古墳が築造された。本項の記述は概ね“古墳とヤマト政権”(白石太一郎・文芸春秋社)に拠った。

 巨大な墳墓は世界でもエジプトのピラミッドや秦の始皇帝陵などが有名であるが、意外にその数は多くない。中国では秦・漢の帝王に限られるし、朝鮮半島最大の古墳は新羅の都慶州の皇南大塚の瓢形墳で、墳丘長は120m、高句麗の都の最大墳丘=大王陵は方形で一辺66mに過ぎない。日本列島では墳丘長135m以上の古墳が107基もある。墳丘長200m以上の古墳はすべて前方後円墳であるが、王都に限らぬ列島各地に35基もある。この状況は明らかに中国・朝鮮と大きく相違する。日本の古墳は列島各地の首長たちが構成していた広域の政治連合の政治秩序と強い関連がある。こうした政治秩序の構造的特質が七世紀後半に成立した天皇を中心とする律令制古代国家と天皇制に強い影響を及ぼしている。

 弥生終期の大型墳丘墓は共同体の成員である一般成員とは隔絶した首長の権威を示し、また共通な形状の墳墓の造営によって首長たちの同盟の絆の確認強化の役を果たした。葬送祭祇を共通にすることで同祖・同族関係を結合の紐帯とする地域的な首長同盟が実現した。この地域的首長連合がやがて国家形成への動きの核になったと推定される。著者は古墳をその造成時期によって前期(〜380)・中期(380〜480)・後期(480〜)に分類している。古墳の形態をその設営前期について概観すると、西日本の前方後円に対し、東日本は濃尾平野以東について前方後方墳の世界であった。著者は前者が邪馬台国を代表するのに対して、後者はこれと対立していた狗奴(くな)国を表すものと考える。古事記や日本書紀によるとヤマトタケルをはじめ多くのヤマトの将軍たちの軍事遠征(東征)の結果とされるが、とにかく濃尾平野から中部・関東を含む狗奴国連合が三世紀中葉過ぎに西日本の邪馬台国連合と合体したことが古墳の形態変化によって知られると著者は言う。

 同じ畿内といっても淀川流域と畿内南部の大和川流域とでは出土品の様相がかなり異なる。著者は大和川流域、即ち大和と河内こそ邪馬台国、ひいては初期ヤマト政権の本来的な領域であり、少なくとも前期まで(多くは後期まで)は他の地域は独立した政治集団を形成していたようだと言う。しかし大和・河内は瀬戸内海航路の終点であり、広大な東日本への起点でもあったから、交通の要所を占めていた利点を活かして、ヤマト政権が日本における地域連合の盟主になっていったのだと著者は説く。それを裏付けるように古墳は各地に散在するけれど、この地域には前・中・後期を通じて壮大な古墳が残っている。奈良盆地でも東端のやまと地域に大和・柳本古墳群に始まり、北端の曽布地域に佐紀古墳群と盆地西南部の葛城・馬見古墳群に移るが、後期になると大和川中流・藤井寺市の古市古墳群、下流・堺市の百舌鳥古墳群に移動する。

 5世紀の初頭から中葉にかけて墳丘長が350mを越える巨大古墳が相次いで4基造成された。大阪平野の大仙陵古墳、誉田御廟山古墳、上石津ミサンザイ古墳と吉備の岡山市造山古墳である。岡山についてはヤマトの王が高句麗の南下という当時の厳しい国際情勢に対処するために、吉備などの地方有力政権の力を借りる必要があったことを意味するという。それ以前に畿内の王墓が他の地域の墳墓とその規模において大差を誇っていたのとは些か風向きが違う。この時点ではヤマトの王と吉備の大首長とはほぼ対等の力関係にあったのだろう。造山と上石津はほぼ同サイズで、共に日本一だった。その後で誉田と大仙陵が造成された。大仙陵はヤマト政権が吉備などに引け目を取れないことを示したのだろう。但し5世紀始めの倭国王とされる仁徳天皇の在位年代とはずれがあり、大仙陵を仁徳陵とするのには疑問が呈されている。なおこれ以後この4基を抜く大古墳は造られていない。

 古墳が造られたのは670年頃までで、一般豪族との差別化を進めていた天皇の権力が壬申の乱(672)によって確立することで高松塚古墳のような特殊なものを除き急速に終息に至るのである。ということは古墳の造営が先にも述べたように古代国家以前の政治秩序と密接に関連していたことにほかならない。著書には副葬品の時代的な変遷についてもいくつかの記述があるが、ここではそれは省くことにする。


<岡谷パークホテル> −はじめまして。
 そちらさまを存じ上げなかったので、最初の頃はいかがわしいメールではないかと感じて、メールを開きもせずに”削除”していました。
 何度か届くメールが毎度データ量が著しく多いのが受信に要する時間の長さで判り、先日恐る恐る開けてみると、美しい虹の写真が最初に眼に飛び込みました。
 その後もたびたび美しい写真を送ってくださり、今ではそれを見るのが楽しみになって送られた写真はすべて保管して時折鑑賞しています。画面構成のバランスのよさにも感服しています。岡谷という都市には行ったことがありませんが、諏訪湖周辺の風景の美しさをおかげさまで楽しむことができて、この際お礼を申しあげます。今回の写真もそれぞれの良さが感じられますが、特に月の写真が気に入りました。月が山の辺から離れない内にと思いながら間に合わなかったとのことですが、私はむしろあの状態に趣を感じます。
 ところで差し支えなければ私のメールアドレスを如何にして入手されたか、参考のために教えてください。今後もよろしく。―

 これは私のメールボックスに月に一度か二度、岡谷パークホテル名で舞い込む写真つきのメール(ミネゾさ通信)に遂に今月私が反応した返信メールの文面である。これに対しては即日返信があって、驚いたことに送り主は大学(教養学部)時代の同級生であった。岡谷にもホテルにも、またメールアドレス(英字特殊記号)にも、全く心当たりがなかったし、宛先が私のメールアドレスではなくて“なし”とあって、同時送信したであろう他の人のアドレスも一切記載がなかったので、送信者を知りようがなかったのである。このホテルが宣伝のために何らかの方法で入手したメールアドレスに大量の広告メールを発信しているぐらいに考えていたが、そうではなくて、その東京在住の同級生が退職後に弟さんの経営する岡谷パークホテルを度々訪れては周辺の風景などを撮影したものだった。三年ほど前から開始した教養学部の同窓会で旧友のメールアドレスを入手し、それも近況報告の送信先に加えたというのが実情らしい。私もそのおこぼれに与ったという訳だ。

 そうと知って改めてメールの“削除済みのアイテム”フォルダーを開いてみると、本年後半の到着メールはすべて残っていたので、“ミネゾさ通信”から同封写真をすべて取り出すことができた。送付された30通の内16通である。本年前半分についてはパソコンの掃除のために捨ててしまった。写真の対象は岡谷ホテル近辺から諏訪湖、神社仏閣、公園、近郊の山々から北アルプスにまで広範囲に及ぶが、紅葉の美しさなど見事に捉えていて、どの写真も隅におけない。この同級生は私と同じく理科系だが、こういう画材の選定における美的センスは天性のものだろう。

 一枚づつ見ていくうちに、“ミネゾさ”の語源を知った。写真付の詳しい解説があった。櫟(いちい)の木は岡谷では街中でよく見かける樹木だそうで、あららぎとも呼ばれるが、この葉と赤い実を岡谷パークホテルはシンボルマークにしているのだそうである(冒頭の写真)。信州ではこの木=櫟の心材を染色の材料に使い、“ミネ(山地)で育つスオウ色(赤紫色)に染める木”という意味で“みねぞ”、それに敬称の“さ”を付けて親しんで呼ぶのだそうである。地味だが、この土地に合ったいい木だ。こういう特色のある樹木が育つのが地方の中都市のよいところだと思う。

 岡谷という土地には縁がなく、昔は山行き帰りのために中央線で何度か半分眠りこけて通過しているのだが、ほとんど印象がない。しかし何枚かの写真で興味をもって、改めてGoogle Earthで望むと特色ある地形に気が付く。まず岡谷から東南を見ると、諏訪湖の先、八ヶ岳と南アルプスの間が見通しよく、遥か富士を望むことができる(右に1枚写真を拝借)。諏訪湖の西端に立派な水門が設けられていて、ここからは天竜川が流れ出し、山地の間を縫ってはるか南方の遠州灘に注いでいて、この峡谷沿いに辰野から豊橋に向かう飯田線が走っている。この建設や保線に多大な困難があったであろう鉄道に乗る機会がなかったのは残念だ。中央線は岡谷から辰野、塩尻と激しく屈曲している。平面地図では奇妙に思うが、この付近の山地形状を見ると、その理由がよく分かる。そして地峡を縫うようにして塩尻からは北方、松本経由大糸線に向かう北アルプスルートと、反転して木曽川沿いに南西南の名古屋に向かうルートに分かれるが、峠道の多い中仙道を歩いた人達にとっても、鉄道敷設に当たった人々にもさぞや苦労が多かっただろうと察せられる。
 こういう起伏に富み景観のすぐれた土地には心おだやかな人が多く住むような気がする。

 ところで、諏訪湖を訪れる折などには岡谷パークホテルをご利用ください。岡谷駅近傍にあります。ホテルの窓から、特に屋上からの展望は絶品です。


<排除の話> 先月の“いじめ”の続きである。新たにこの問題の鋭い分析記事を見つけた。“排除の現象学”(赤坂憲雄・ちくま学芸文庫)はいくつかの分章から成っているが、其の中の冒頭の二章、序章 さらば、寅次郎の青春 と 第一章 学校/差異なき分身たちの宴 を紹介する。著者は東大文学部卒で、現在東北芸術工科大学教授。既成の枠組みに捉われない独自の視点と論理により、日本思想史・民俗学の新たな構築に挑戦しているーと紹介されている。氏の論旨に久々に感服した。順序を逆にしてまず第一章について。

 現代のいじめの特質は、いじめが1対1ではなく、一人対集団(の全員)という形で行われるという現実がある。つまり、いじめは極めて厳粛に、全員一致の意思に支えられた供犠として執行されている。いじめられっ子は、集団のアイデンテイテイの危機を救済するために捧げられた生贄(スケープゴート)なのだ。いじめる側がひたすら全員一致の意思を体現する匿名の存在であるのに対して、いじめられる側は特定の一人のこどもである。犠牲者には反撃も避難も弁解も沈黙も許されない。この全員一致の排除のための暴力が究極のいじめである。

 具体的な事例が挙げられている。中学生女生徒Aが所属していたクラブで7人のクラブ仲間から執拗ないじめを受ける。
一人がAに何か言う。全員「そやそや」
Aが反論する。全員「チガウ、チガウ」
Aが何か言う。全員「ウソばっかり」」
Aが弁解する。全員「開きなおって・・・」
A沈黙。全員で唱和「しんきくさい」「ウジウジしてんね」
A「クラブやめます」全員「逃げるのか」
A助けを求めようとする。全員「チクったのか」

 このいじめは、自殺未遂の翌朝、母親が学校に駆け込むことで、ようやく教師らの知るところとなった。少女は最後まで、学校に知らせることを拒んだ。

 共同化された疎外や排除はハンデイキャップを持つこどもに当てられることが多いのだが、逆もあり、正負いずれであれ集団の中のある種逸脱した部分に向けられる。いじめは厳粛な供犠の場であるから、こどもは誰ひとりそこから逃れることを許されない。いじめに加担するのを拒んだ者は裏切り者として制裁され、新たないじめの標的として指名される。子供たちは骨身に沁みてそれを知っている。いじめを倫理の位相から裁き得ると考える人たちはいじめの場を貫く深層構造が見えていない。子供たちはいじめが倫理的には“悪”でありうことを知りつつ、いじめを構成する場自体の孕む圧倒的な強制力の前に、なす術もなく翻弄されている。とにかくプラスの方向にもマイナスの方向にも偏倚し過ぎないこと、それがいじめから身を守る、子供たちのギリギリの処世術となっている。

 教師には絶対と言っていいほど、いじめが見えない。子供たちが見せないからである。教師に見えるようないじめをするほど、いまの子供たちは幼稚な存在ではない。仮に教師に目撃されても、子供たちはちゃんと言い訳を用意している。「ふざけていたんです」「ほんの冗談です」と。いじめられている子供もそれだけが自分に容認された悲しい役割であることを悟って同意するので、教師ははぐらかされた思いで、すごすごと引き下がらざるを得ない。教師にあからさまに分かる形でいじめが行われているとすれば、それは無力な教師への挑発と考えた方がよい。或いは何らかの形で教師自身がいじめに加担もしくは誘発している場合である。

 言論によらないいじめで、高度に象徴化された全員一致の暴力の形がシカトである。或る時唐突にシカトは始まる。登校して仲間に声をかけても誰も返事をしてくれない。休み時間に遊びに加わろうとしても、誰も仲間に入れてくれない。給食も一人でとらなければならない。どこにも居場所がないが、それに対抗する手段はない。来る日も来る日もこの蛇の生殺しに似た責め苦が続く。そして子供たちはこの共同的な排斥行為を“村八分”と呼ぶ。昔村落共同体の掟を破った者は、制裁措置として居住は許されたが、火事と葬式以外の村人との交渉を一切断たれた。子供たちの邪悪な知恵は同じ言葉を学校という社会での全員一致の制裁に蘇えらせた。

 いじめられっ子の周辺にいる不特定多数の子供たちの存在が、実はいじめの構造の隠れた要石になっていることに注意したい。かれらといじめられっ子の間にはほんの僅かな差異しか存在しない。つまり彼らはいついじめられっ子に指名されるか分からないという恒常的な不安にさらされている。自分以外の誰かがいじめられている間は、かわいそうではあるけれど自分は安全であり、次にジョーカー(いじめられっ子の座)がまわってきたら大変だという意識が強い。彼らはお互いに助け合うこともしないし、親や教師に相談することもしない。

 国会の教育基本法の審議の中で、教育問題を論ずるタウンミーテイングにおけるやらせ質問の横行が槍玉にあがったし、折から日本各地でいじめに伴う小中学生の自殺事件が発生した。前者については安部首相が自分の官房長官時代の責任として給料3ヶ月分を国庫に返納すると言明したが、大変後味が悪かった。後者については校長や教育委員会が自殺者が出てもいじめの事実を認めないことが問題になり、また文部相が“自殺するな。自分ひとりで問題を抱えず、大人に相談する勇気をもて”と子供らによびかける騒ぎになった。当局はいじめに対しては毅然と対処すると言明したが、具体的にどうするというのか、いじめの加害者をボランテイア活動に参加させるなどという案が出たそうだが、大人の浅知恵、子供たちに“フン!”と鼻で笑われるのがオチだろう。先に記されたように、いじめの加害者は特定が難しい。大人にも容易に捌けない難問だと感じる。赤坂氏も解決案は提示していない。彼はいじめが社会秩序創成のための供犠(必要悪?)であるとまで言おうとしているかのようだ。心理学が役に立つのはまさしくこういう分野だと思うが、もし有効な解決策を生み出せればノーベル賞ものだろう。

 最後に序章“さらば寅次郎の青春”に触れる(冒頭は映画”男はつらいよ”第7作)。ここで著者は鋭い指摘をしている。“男はつらいよ”という映画はフーテンの寅さんという愛すべき道化を主人公として、濃密な人間関係の残る下町を舞台にくりひろげられる人情映画として永く大衆に受け入れられてきたのだが、著者はフーテンの寅次郎は性的イムポテンツに違いないと断ずる。幼児期におけるなんらかのトラウマのために、成人してからの寅さんは女性と身体に仲立ちされた関係を作ることができないに違いないと言う。何人もの美しい女との出会いも別れも、一切が性的不能者にして生活破綻者である寅次郎の白昼夢の如きものであると。

 いまひとつは寅次郎は下町という人間共同体にうまくなじめず、そこに定住の場を確保することに失敗して出奔した逸脱的な異人であるとする。寅次郎は誇らしげに「葛飾柴又、帝釈天の産湯をつかい・・」と自らを追放した共同体への忠誠と愛を語ってみせるのだが、あくまで彼ははみ出し者なのであって、つかの間家郷へと帰還し、やがてまた死に至るまでの流浪の旅へと出立していく宿命を背負い、その宿命に忠実である限りにおいて、家郷の人々に暖かく迎えられ、受容されもするのだとなる。著者は従って映画“男はつらいよ”はフーテンの寅という名の異人をめぐる恐るべき排除の物語であるとする。毒のない笑いを誘う牧歌的な表層の物語の底に酷たらしいもう一つの現実が隠されているのだと。


<西蔵(チベット)鉄道> 本年10月、中華人民共和国政府はチベット・ラサに至る鉄道を開通させた。青海省西寧からラサまで1956kmの所要時間は27時間、首都北京からラサまでは48時間を要する。チベットの旧首都ラサの標高は3600 mだが、途中山岳地帯を延々と通過するコースで、海抜4000 m以上の区間が960 kmあり、唐古拉山口駅付近の峠では海抜5072 mに達する。これはペルーの高山鉄道より高く、鉄道として世界最高である。もちろん単線で、一般走行速度は160km/hだが、総延長550kmに達する凍土層の上を通過する時は100km/hに落とし、海抜5000m以上では80km/hに減速する。普通車は無対策だが、高級車両は航空機なみの気圧対策を採っている。

 Google Earthで直接ラサを探すには広大な山岳地帯の探索に困難を感じたので、まず“Sightseeing with Google Satelite Maps”というソフトに頼って”China”の諸名所の中から”Lhasa”を選んで見ると、ラサの市街地が出てきた。このソフトはGoogle Earthの機能を使っていて拡大・縮小が可能だが、画面の回転や傾斜はできないし、画面のコピーが取れないという制約がある。ラサの市街地は縦横に広い道幅の自動車道路が走り近代的な集合住宅らしいビルが見えて、中国政府の政策で中国人が多数入り込み、長い年月にわたり古く素朴な仏教文明を保持してきた伝統的な都市を仮借なく改造した跡が視認できる。有名なポタラ宮殿は前面に大きい池があり、市街地の中央南部にあってすぐ分かる。しかしラサの市内に鉄道が入り込んでいる形跡は市街地の東西南北にわたって見出せなかった。当初この都市にどちらの方角から鉄道が入ったかも知らなかったので、その困難さは尚更だった。しかし鉄道路線と市街の一般道路(高速道路ではない)との差異は後者が鋭角の屈曲を容認するのに対して、前者はゆるやかなカーブでなければ方向転換できない点にあって見分けがつく。一方インターネット検索で改めて調べてみると、俯瞰図にラサ近郊の鉄道コースを朱色で示した画像を見出した(左上図)。この時点では鉄道開通前だったらしいが、ラサの市街地を避け、その南方で河を隔てた山岳の麓に走りこんでいる路線計画を示している。

 なるほどそうかと改めて現状のGoogle Earthで改めてチベットを訪ねて見ることにした。世界地図で調べると、ラサはネパールの右隣のブータンの国の大きさの1倍強ブータンから北に離れ、やや東に位置することを確認して、その辺りを拡大していくと、Lhasaという文字が現れてGoogle Satelite Mapsで見た都市に到達できた。早速市街地の南方、前記朱色のコース辺りを探すと果たして一本の軌道が西から延びてきて、ラサの西南の山裾で止まり、その地点に駅の屋根と覚しき白い長方形があった。画像撮影は開通前かもしれないが駅舎はほぼ完成しているらしい。市内電車や近郊鉄道でなく長距離鉄道の場合は、既存の市街地を其の敷設のために破壊しないのは人類のよい知恵だ。いずれこの終着駅周辺に新たな街区が生まれるだろう。

 今度はその終点ラサ駅から西蔵鉄道を軌道に沿ってさかのぼってみることにした。軌道はじきに向きを北方に変え、西から東へ流れる河(この河はヒマラヤ山脈の東端をめぐってミャンマー辺りへ流下している)を渡り山岳地帯の山襞に入っていく。撮影当時はまだ建設中かトンネルもある筈で、単線の軌道を継続して追うのは困難で、見失って暫くその延長線上を探すと、Nagquという都市名が現れた。これは那曲県拉薩市で、右上の西蔵鉄道路線図でラサから3番目の駅那曲のある地点(標高4507m)と判明した。まだ軌道は登り続けている筈だが、最高地点唐古拉山口駅の位置は特定できなかったし、チベット自治区だけでなく青海省の大半とおぼしき範囲にその他の地名は一切現れないし、那曲の北方に駅はおろか軌道も全く視認できなかった。この見渡す限り山また山の地域で、なおかつ実際に足を踏み入れてみれば、永久凍土という軟弱な地盤にほぼ平坦に軌道を敷設するということが如何に困難な作業であったか、しかも汽車に乗っているだけで高山病にかかる高地での建設工事だから、工事関係者の苦労は想像に余る。

 本随筆国際テロの11章、14章にそれぞれ<チベットの悲劇>、<ダライラマ14世>としてチベット民衆の受難について記してきた。全人口600万の内、独立と既存文明保持のために抵抗した約120万の民衆・僧侶が殺害され、あるいは死亡した。この西蔵鉄道開通は辺境への文明の注入に拍車をかける。観光客は急激に増えラサ周辺の俗化は進むであろう。僅かに残ったチベット仏教寺院は観光遊山の対象にはなっても、本来の民衆救済の役割はなお一層消滅に向かう宿命にある。鉄道の沿線にはヤクその他の野生の動物が自由に飛びまわっているが、いずれ沿線の駅からそれらの捕獲に人が向かい、絶滅をはかるかもしれない。少なくともこの鉄道はチベットの自主独立は夢物語になったことをチベット民衆に思い知らせる効果がある。鉄道による恩恵は最近同地に移り住むことになった漢民族には真っ先に施されるだろう。昔からこの地に住む原住民に及ぶのは先のことだろうが、俗文明の受容に前向きな子孫には確実に及ぶだろう。残念ながらダライラマが遊説に努めてもこの流れを逆行させることは不可能になった。この鉄道敷設は2世紀前に原住民を蹴散らして西へ西へとアメリカ大陸を突き進んだアングロサクソンを思い出させるが、我々が非難の声をあげれば、内政干渉と非難される。こういう事業は功罪相半ばする。そのよい面を眺めることにしよう。早速日本からのツアも企画されており、延べ8日間の費用は338、000円だと言う。


<ラスト・メッセージ> “日本人の遺訓”(桶谷秀昭・文春新書)では過去に生きた著名な日本人が、自分の死を見つめながら遺したことばを集録している。遺訓という題名になっているが、発話者はそれが他者にとって遺訓になるかどうかをほとんど意識していない。人が死ぬ前に強く思うことは何かということは後人にとっても大きい関心事であるが、遺訓という言葉はそぐわないと思うので、題名をラスト・メッセージとした。また原著では34名を選んでいるが、ここでは私が感銘を覚えた14名に限って取り上げる。秀才・異才・偉人と呼ばれた人たちそれぞれの晩年の脳細胞の中に渦巻いていた主要関心事を覗き見ることには心を動かされるし、いずれ死ぬ身には相当に参考になり、宗教ではないがそれに代わる糧と覚悟を頂戴できる。

 ○ 日本武尊
倭は 国の真秀ろば 畳な付く 青垣 山隠れる 倭し麗し
命の全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白樫が葉を 髷華に挿せ 其の子
 ―この人は時代の英雄なのだが、西に熊襲などを滅ぼして帰着すると間もなく東北へ派遣され、東北征旅の帰途“天皇は私に死ねと言われているのだろうか”と伊勢の叔母のところで嘆いた。最初の句は旅の疲労が重なって伊勢鈴鹿で力尽き、故郷大和に戻り得ぬ嘆きを望郷の歌にした。次の句は従者を顧みてその故郷に帰着して(私の代わりに)楽しめと勧めている。この後病革まって逝った。齢30。

 ○ 大津皇子
金烏西舎ニ臨ミ 鼓声短命ヲ催ス 泉路賓主ナシ 此ノ夕家ヲ離リテ向フ
 ―天武天皇の後継を巡り持統天皇に逮捕され、自害に追い込まれる際の句である。律令国家形成に際し国家に反逆する罪を問われた英雄である。現代語に訳すと“太陽は西に傾いて、西の家屋を照らし、夕刻を告げる鼓の音は、自分の短い命をせきたてるように響く。死出の路には、客も主人も居ない。此の夕方、自分はただ独り家を離れて死出の旅路に向かうのである。”

 ○ 親鸞
詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々のおはからひなり。(歎異抄)
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定じゅの数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし傷むべしと。 (教行信証)
 ―有名な“善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや”という教義に対して信者の中に少なからざる混乱が生じた。根本は自力信仰を捨て只管他力念仏の徹底化を図ろうとしたのだが、鎌倉幕府の念仏停止令で流罪になった後、教行信証に述べたような自覚のもとに、“親鸞は弟子一人ももたずさふらふ”と公言して、親鸞は歎異抄の如き謙虚な心情になっていた。徹底した他力本願の思想はすべて弥陀のお導きにすがることであるから、自分が教祖などとはとんでもないという信念に徹して90歳で入滅した。

 ○ 沙門道元
仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり。 (正法眼蔵)
 ―帰国後の道元は自力修行による専らな只管打座をもって身心脱落の境地を得ると説き、正法眼蔵の骨格たるべき現成公案(名文である)を著わした。54歳没。

 ○ 鴨長明
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。(方丈記)
抑(そもそも)、一期の月影かたぶきて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向かはんとす。何の業をかかこたむとする。仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ごさむ。 (方丈記の結び)
 ―方丈記では世に要なき身の深山幽谷での自立的空間を誇って世を達観しているように見えるが、結びでは一転する。生涯の執心であった美的実存の究極相について自己を激しく問い詰めるが、答えは得られない。遂に「不請の阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」と書いて筆を投じている。

 ○ 西行
風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな(69歳、奥羽行脚の旅中にて)
我歌を読むは遥かに尋常に異なり。華、郭公、雪、都て万物の興に向いても、凡そ相あるところ、皆是虚妄なる事、眼に遮り耳に満てり。されば一首読み出でては、一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては、秘密の真言を唱えるに同じ。(西行上人談)
 ―西行は23歳で鳥羽院北面の武士を捨てて出家し、京都周辺の天台宗の寺院を渡り歩いていたが、31歳から63歳まで高野山にいた後遍歴の旅に出る。絶対自力の即身成仏説に拠った。極楽浄土の幻影には取り付かれず、自然に魅惑される自分の心の謎に直面し続けた。彼は苦悩の持続の果てに、有名な“ねがはくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ”の歌の願望通りの死を遂げた。

 ○ 武田信玄
疾キコト風ノ如ク 徐ナルコト林ノ如シ
侵掠スルコト火ノ如ク 動カザルコト山ノ如シ
 ―武田信玄の軍旗は縦5メートルの群青の絹布に金泥をもってこの孫子・軍争篇の一節が書かれていた。実をもって虚を討ち、虚をもって実を制する武田軍団の兵法を風林火山旗は象徴した。この軍旗は呪術的な威力で全軍の士気を奮い立たせた。信玄は三方が原の戦いで徳川・織田連合軍を破ったが、病を得て重態となった。彼は自分の死を天の配剤と見た。信長・家康二人がかりでも信玄を抑えられなかったので、天は信玄を病で殺すのである。彼は勝頼を後継者とし、三年間死を隠せと命じた。

 ○ 吉田松陰
今日死を決するの安心は四時の循環に於いて得る所あり。
蓋し彼の稲を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。十歳にして死するものは十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は三十、五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳をもって短しとするはひぐらしをもって霊椿たらしめんと欲するなり。百歳をもって長しとするは霊椿をもってひぐらしたらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。(留魂録)   
 −松陰は生命に長短はないという境地に達した。死刑を言い渡された後ろくに寝ずに6日かけて遺書を書いた彼はその激烈な人生を斬首によって幕を閉じた。齢30。

 ○ 西郷南州
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを咎むべし。己を愛するは善からぬことの第一なり。(遺訓)   
 −この人は“命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬ也”と言った人だが、私学校生徒が暴発しもはや抑えられないことを知ると、“おはんたちの決起には同意できんが、俺が身体はおはんたちに上げ申そ”と言い、敗れた後城山で自刃した。

 ○ 夏目漱石
世の中は根気の前に頭を下げることを知ってゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。うんうん死ぬまで押すのです。それ丈です。決して相手を拵へてそれを押しちゃ不可ません。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然と押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。(久米正雄宛書簡)     
依稀タル暮色 月ハ草ヲ離レ
錯落タル秋声 風ハ林ニアリ
眼耳双ツナガラ忘レテ身モ亦タ失ヒ
空中ニ独リ唱フ白雲ノ吟 (11月20日作)
 ―漱石は常に孤独であった。晩年“道”を求めるが、それをうまく捉えることができない。自殺は嫌った。“明暗”を執筆中だった。上記の鬼気迫る詩を作った後の12月9日夕、苦しがって胸をあけ、“水をかけてくれ。死ぬと困るから。”と言って意識不明になり、死んだ。

 ○ 正岡子規
足あり。仁王の足の如し。足あり。他人の足の如し。足あり。大磐石の如し。僅に指頭を以てこの脚頭に触るれば、天地震動、草木号泣、女?氏未だこの足を断じ去って、五色の石を作らず。(病牀六尺)    
 ―結核は子規の腰骨を冒し、四五年前は遠く歩くことはできなくとも、庭の中でもと思ったが、今や立つこともできず、病床に釘づけの日々となった。毎朝の包帯取替えは“痛い”と悲鳴をあげ、果ては号泣した。しかしどんな悲惨苦痛がやってきても、生きていようという強い意思を抱いていた。彼は俳諧の伝統を無視して独立形式に俳句革新を強行したし、写生文によって日本の文章を革新しようとした。病に耐えて全力燃焼したが、冒頭の句を残した時、余命は五日しかなかった。

 ○ 永井荷風
昭和三十四年三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自動車を雇ひ乗りて家に帰る。(断腸亭日乗)  
 ―この年千葉県市川市八幡町の自宅から荷風は毎日晴雨に関わらず浅草に通っていた。こういう習慣は文化勲章を受賞した後の数年を除き10年ほど続いていた。この日食事中に長年の胃疾で気分が悪くなり、店先で転倒したが、人々の助けの手を頑なに拒み、蹌踉たる足どりで健常者の10倍の時間をかけて雷門の大通りに辿り着くと、タクシイを拾った。彼は生涯孤独への偏執に徹していたが、この日が浅草に出る最後の日になった。以後は近くの大衆食堂大黒屋へ通ってカツ丼を食べ続け、医者には決してかからなかった。日記は四月二十九日。祭日。陰 で終わっている。三十日未明、大量の血を胃から吐いて、うつ伏せになったまま息絶えた。

 ○ 宮澤賢治
そのまっくらな巨きいものを
おれはどうにも動かせない(春と修羅第四集)   
 ―これは諦念とも無私の境地ともいえる。しかし次の瞬間には“みなからでくの坊と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされない、サウイフモノニ ワタシハナリタイ”という意識に戻って、むなしい苦行に挺身する。人類と自然の幸福な共生社会の実現、その前に横たわる巨大な難関を“まっくらな巨きいもの”と言ったのだろうと著者は言う。私には少し違うように思われる。

 ○ 三島由紀夫
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日のわれわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起こった以上、人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。(日本文学小史)  
私の悲劇の定義においては、その悲劇パトスは、もっとも平均的な感受性が或る瞬間に人を寄せつけぬ崇高さを身につけるところに生まれるものであり、決して特異な感受性がその特権を誇示するところには生まれない。(太陽と鉄)   
 ―三島は昭和45年11月25日、楯の会のメンバーと共に市谷台自衛隊本部総監室を占拠し、自衛隊が自主性を取り戻すようにアジ演説を行った後に割腹自殺した。彼の悲劇的パトスは一般人には理解されず、ある文学者が彼の行動を“病気”と言うと、小林秀雄は“あなたは日本の歴史を病気と言うのか”と反論した。

 これらの偉大な先人たちは死ぬときは誰でも孤独であり、また天(信玄の思想によれば)は人にこの世との別れの未練を断ち切るべく相応の苦痛を与えることを教えてくれる。一方早かれ遅かれその時が訪れ、この世での所業はすべて清算されるという意味で、これほど平等なことも他に比がない。


<伊東豊雄> 12月2日の日曜美術館は今や世界的に傑出した現代建築家として伊東豊雄の人と作品を紹介した。全く予備知識がなかったので、漫然と眺めていた放送番組が終わった後で少し調べてみた。概略の経歴は次の通り。
1941年 京城に生まれる
1965年 東京大学工学部建築学科卒業 菊竹清訓設計事務所勤務(1965-69年)
1971年 アーバンロボット設立
1979年 伊東豊雄建築設計事務所に改称
2005年 くまもとアートポリス第3代コミッショナー

 主な受賞暦は
1984年 - 日本建築家協会新人賞 (笠間の家)
1986年 - 日本建築学会賞 (シルバーハット)
1990年 - 村野藤吾賞 (サッポロビール北海道ゲストハウス)
1991年〜1993年- 毎日芸術賞、BCS賞 (八代市立博物館「未来の森ミュージアム」)
1994年 - 日本建築学会北海道支部北海道建築賞 (ホテルP)
1997年 - ブルガリア・ソフィア・トリエンナーレグランプリ
1997年 - BCS賞 (八代広域行政事務組合消防本部庁舎)
1998〜1999年 - 度芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞、BCS賞 (大館樹海ドーム)
2001年 - グッドデザイン大賞 (せんだいメディアテーク)
2002年 - World Architecture Awards Best Building、BCS賞 (せんだいメディアテーク)、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞
2006年 - RIBAゴールドメダル(王立英国建築家協会ロイヤル・ゴールドメダル賞)ー右下の写真はこの賞を受けた建築ー

 主な作品としては
1976年 - 中野本町の家 (東京都)
1978年 - PMTビル (愛知県)
1979年 - PMTビル2 (福岡県)
1984年 - シルバーハット (東京都)
1986年 - 風の塔 (神奈川県横浜市)
1989年 - 浅草橋Iビル (東京都)
1990年 - アントワープ市再開発計画 (ベルギー)、中目黒Tビル(東京都)
1991年 - 八代市立博物館「未来の森ミュージアム (熊本県くまもとアートポリス参加施設) 、南青山Fビル (東京都)、ギャラリー8 (熊本県)
1992年 - 上海市再開発計画 (中華人民共和国)
1992年 - HOTEL P (北海道)
1993年 - 下諏訪町立諏訪湖博物館 (長野県)、松山ITM本社ビル (松山県)
1994年 - 長岡リリックホール (新潟県)、養護老人ホーム八代市立保寿寮 (熊本県くまもとアートポリス参加施設)

1995年 - 八代広域行政事務組合消防本部庁舎 (熊本県くまもとアートポリス参加施設)
1997年 - 大館樹海パークドーム (秋田県)、横浜市立東永谷地区センター・地域ケアプラザ (神奈川県)
1998年 - 大田区休養村とうぶ (長野県)、野津原町役場 (大分県)
1999年 - 大社文化プレイス (島根県)
2000年 - せんだいメディアテーク (仙台市)、ハノーバー万博テーマパークヘルスフューチュア館 (ドイツ ハノーバー)
2001年 - 大分アグリカルチャーパーク (大分県)
2002年 - ブルージュパビリオン (ベルギー ブルージュ) 新建築0205、サーペンタイン・ギャラリー・パビリオン (イギリス ロンドン)
2004年 - まつもと市民芸術館 (長野県)
2005年- -台中メトロポリタン・オペラハウス (台湾)ー右上の写真ー

 多くの著書を出していて、風の変様体、透層する建築、ライト・ストラクチュア、シミュレイテド・シティ、エマージング・グリッドなどの独自の建築理念を新語とともに創出した。10月7日(土)−12月24日(日)に東京オペラシティアートギャラリーで建築|“新しいリアル”と称する展示会を開き、その代表的作品を紹介している。従来の建築常識から逸脱して、柱はなく壁だけで幾何学的な独自の部材構成が構造計算上の耐震強度を十分に確保しているという。右の写真でピンクの部材は正方形、水色の部材はその延長線上にある。建物の外観の奇異さにも関わらず、建物の内部では多くの人が充足感を告げている。PMTビルというのは平板な地形に複雑な形状の丘陵を造成し、自然の草木も取り込んで人の目をなごませる事業らしい。氏の建築は日本以上に英国などの外国で高く評価されている。テレビに登場した氏は常識人らしい風貌で、天才にありがちな異彩を放つ言動はなかったが、それでも最近は一肌むけた芸術家らしくなったと評せられる。

 例の朝の幼児番組で、今朝は“よごれちまった悲しみに、何故か小雪の降りかかる よごれちまった悲しみに、今日も風さえ吹き過ぎる”という詩を朗誦していた。どこかで聞いた憶えがあると思ったら、中原中也のものだった。幼児番組ではどうかと思ったが、とにかくこういう詩人は現代では遠ざかってしまった。モーツアルトの楽曲は今でも多数の人達に親しまれているが、今では彼のような楽才には恵まれぬものの、及ばずながら似たような作曲の努力をする人間も現れない。芸術というものは作り出す立場で言えば、時と共に変わっていき、決して元へは戻らぬ宿命があるようだ。


<週刊誌> 私と同年の高橋呉郎という人の書いた“週刊誌風雲録”という小誌を読んだ。これを読むと、活字に飢えた戦後の日本人に週刊誌というジャンルがどのように受け入れられ育っていったかがともに歩んだ懐かしい過去の歴史として概観できる。私自身はあまり週刊誌の売り上げに貢献しなかったけれども、通勤する駅の売店や新聞広告でその時々の週刊誌のあり様はそれとなく知っていた。もちろんこの業界の詳しい内情は知るべくもなかったので、それを開陳した記録には興味を覚える。以下はその抜粋である。 G.H.Q.は終戦直後に戦時中の新聞統制令を撤廃した。戦時中の言論統制で冬眠を余儀なくされた出版人たちが一斉に活動を開始した。業界刷新と民主化を旗印に発足した日本出版協会の加盟社は昭和22年には3446社に達し、正体不明の竹の子出版社も当然の権利として用紙割り当ての申請をしたので、生産量が限られていた用紙事情は逼迫し、各社ともザラ紙でぺージ数を大幅に減らさざるを得なかったが、出せば売れる出版ブームになった。この用紙事情は昭和24年から好転する。

 戦前から発行されていた週刊誌は週刊朝日とサンデー毎日の二誌だったが、当時はまだ通勤電車の中で読まれるには至っていなかった。交通機関はひどく混雑していたし、多くの庶民にそこまでの余裕はなく、生きるのに精一杯だった。私自身中学・高校への電車通学は毎朝ひどいすし詰めで苦労した記憶がある。週刊誌にどのような呼び物の記事を企画するかは大きい問題だった。週刊朝日は徳川無声の連載対談“問答有用”と吉川英治の連載小説“新・平家物語”を二本柱にした。編集は扇谷正造。また、新聞販売店で宅配してもらうシステムも設けた。サンデー毎日は源氏鶏太の連載小説“三等重役”を載せて朝日との競合は週刊誌源平合戦とも呼ばれたが、二枚看板と一枚の差もあって毎日がリードするには至らなかった。昭和33年に週刊朝日は発行部数150万部を記録し、現在まで破られない記録となっている。

 昭和32年に週刊新潮が新潮社から発売され、週刊誌の新聞社による独占が破られた。既存の週刊誌との差別化を意図して、“映画”・“演劇”・“音楽・美術・本”・“スポーツ”・“ラジオ・テレビ”という項目を設け、総称を“タウン”とした。構成は各項目2ページで、左側がゴシップ風のトピックス、右側は催しものなどの案内表示とした。表紙絵に谷内六郎の童心を誘う叙情的な絵を載せ(写真は創刊号)、これは25年間続いた。編集は斉藤十一。“吉田茂回顧録”や五味康祐の小説“柳生武芸帳”・柴田錬三郎の“眠狂四郎無頼控”などを載せて週刊朝日の読者を誘った。週刊新潮の発売部数は昭和34年初頭100万部に達した。

 週刊新潮の成功を見て非新聞系の週刊誌企画が続いた。週刊アサヒ芸能(アサヒ芸能出版)、週刊女性(河出書房)、週刊大衆(双葉社)、週刊明星(集英社)、週刊実話(実話社)などが続々と参入した。関連する雑誌としては月刊誌としての明星(集英社)、主婦の友(主婦の友社)、婦人倶楽部(講談社)があったが、採算無視の付録合戦が週刊誌への転向の契機にもなった。少し遅れて34年、週刊文春(文芸春秋社)、週刊現代(講談社)に次いで週刊少年マガジン、朝日ジャーナル、週刊平凡、漫画サンデー、週刊コウロンなど20誌が創刊されて週刊誌ブームになった。やや粗製濫造の気味があり、エロ・グロを売り物にするような多くはブームのアダ花のように消えていった。

 これらの週刊誌は少なからぬ人数の小説家、ルポ・ライター、編集者を育てた。個々の週刊誌の消長に関わらず、彼らはその腕を上げて食い扶持にありつき続けた。著名な作家としては、吉川英治、谷崎潤一郎、大仏次郎、石坂洋二郎、石原慎太郎、山口瞳、松本清張、獅子文六などの他三島由紀夫もエッセーを書いた。ルポ・ライターとしては草柳大蔵、梶山季之、野平健一、井上光晴、村島健一などが有名だが多くの週刊誌記者を育てた。草柳はひとつのテーマを複数の記者に取材、レポートさせ、それをアンカーがまとめるというアンカー・システムを創出した。編集者としては週刊朝日の扇谷正造、文芸春秋の池島信平の影響を受けた週刊新潮の斉藤十一、アサヒ芸能の徳間康快、週刊明星の本郷保雄、女性自身の黒崎勇などが有名である。彼らそれぞれの工夫が個性ある週刊誌を創ったといっても過言ではない。斉藤十一はたいていの原稿を一枚二、三秒の速さで読み飛ばしたが、作品の良否を見極める判断力に狂いはなかったという。

 戦後週刊誌ブームのきっかけを作った週刊新潮がこのほど創刊50周年を迎える。半世紀経ったわけだが、このようなメデイアの新ジャンル週刊誌が日本社会に与えた役割については、ミーハー族(これは流石にもう死語だ、流行語も過半は週刊誌が広めた)向けとかコバカにする向きもあるが、こういうものを希求するのが人間の本性であるからして、相応の評価を惜しんではならないと強く感じる。どこのコンビニでも週刊誌を置いていない店はない。文明はこういう要素抜きには成立しない。


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