1月の話題


2007年1月


<国家の品格> ベストセラーになっているという数学者藤原正彦氏の掲題の本(新潮新書)を遅ればせながら読んだ。論旨明快、この種のテーマの論説にありがちな論旨の曖昧さや揺れが全くない。著者が冒頭に断っているのは ー日本が国家の品格を取り戻すことが、現在の日本および世界にとって最重要課題であるということに関して、自分が正しいと確信していることのみ語るつもりだが、それらは日本や世界の人々が確信していることとしばしば異なっております。私一人が正しくて、他のすべての人々が間違っている。かように思っております。−だそうで、これだけハッキリ云われると爽快な気分になる。彼は新田次郎、藤原ていの次男である。

 19〜20世紀にいわゆる先進国が世界を支配した政治制度としての主義主張―植民地主義、帝国主義、共産主義は次々と崩壊していった。これらは一見合理的に見えて、すべて強者が弱者を支配する傲慢な論理だった。文明の進展は決して社会に幸福を約束しない。治安はよくならない。家庭崩壊や教育崩壊も先進国共通の現象である。これは近代的合理精神の破綻である。人々は論理・合理に頼り、これを過信してしまった。

 共産主義が滅び、資本主義が勝利したのか。共産主義は机上の空論だから自滅したが、資本主義も欠陥だらけだ。個人個人が私利私欲に従い利潤を最大化しようとすれば、“神の見えざる手”に導かれて社会全体が豊かになる(アダム・スミス)という。そういう考えで市場原理主義が発展した。“公平に戦いましょう”と言って勝者が全部取る(ウイナー・テイクス・オール)。強者が弱者をやっつけるが卑怯とは考えない。株主中心主義もそうだ。株主は株の売り買いにその会社で働く従業員のことなど考えない。そういう思想は論理は通っているが、社会を不安定にする。市場原理の申し子ともいうべき金融派生商品、いわゆるデリバテイブはレバレッジ(梃子)効果で数百万の元手で数億の損得を発生する。こういうマネーゲームの取引で大企業が突然破綻する。社会制度としての実力主義もよくない。それでは人々は心穏やかに生きていけなくなる。終身雇用や年功序列の社会システムの方がよい。これらの事柄を通じて“論理を徹底すれば問題が解決できる”という考え方は誤りである。その理由を次に述べよう。

 @ 論理の限界 人間の論理や理性には限界があり、普遍的な真理とは程遠いものを前提にしてしまう。著者はその例として小学校における英語教育を挙げる。人の教育は表現する手段より、表現する内容を整える方が重要と説く。

 A 最も重要なことは論理で説明できない。“人を殺してはいけない”ということを論理では説明できない。そういうことは子供のうちに頭ごなしに押し付けないといけない。“いけないことはいけない”と。

 B 論理には出発点が必要 この出発点を選ぶのは、論理ではなく情緒や伝統などに基づく形である。頭がよいのにこの出発点を選ぶ情緒力が育っていない人は非常に怖い。頭がよいからその後の論理の展開は誤まらないが、出発点が不適切だととんでもない結論を出す。

 C 論理は長くなり得ない 論理の各ステップにはそれが真である確率があるが、それぞれ1より小さいから重ね合わせていく内に次第に0に近づく。極端な例が“風が吹くと桶屋が儲かる”で、長い論理は非常に危険である。

 D 短い論理では深みに達しない “みんな仲良く”などと言うが、こんなことでいじめ問題は解決しない。みんな仲良くなどできるわけがない。

 大体、欧米の唱える自由・平等・民主主義という概念は欺瞞である。一体“自由”とは何か。究極の自由とは17世紀の思想家トーマス・ホッブスの言う自然権=“各人が自己生存のために何でもする自由”で、これを認めると万人の万人に対する闘争が始まり、無秩序と野蛮と混乱の世界になる、だから万人がこれを放棄して国家に委託するのであって、自由というのはフィクションに過ぎない。同じく17世紀の思想家ロックは“人間は生まれながらにして完全な自由をもつ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けない”と言った。これは当時の教会の権威を否定するために発せられた言葉だが、言葉だけが独り歩きした。米国の独立宣言でジェファーソンは“我々は次の事実を自明と信ずる。すべての人間は平等であり、神により生存、自由、そして幸福の追求など侵すべからざる権利を与えられている”と言った。これはロックの焼き直しで神がかりのフィクションである。

 民主主義の根幹は主権在民である。それは“国民が成熟した判断ができる”ことが前提である。しかしそれは第一次大戦の開戦がサラエボでの皇太子暗殺での騒動から起こり、第二次大戦がヒットラーの煽動にドイツ国民が乗って始まったように、民主国家で戦争を起こすのは国民であり、世論を操るマスコミが第一権力者になる。国民は永遠に成熟しないのだ。その暴走を防ぐのは誰か。それこそが真のエリートである。エリートとは文学・哲学・歴史・芸術・科学と平生は役に立たない教養をたっぷり身につけていて、優れた大局観と総合判断力をもち、いざという時は国家・国民のために命を捨てる気概のある人を言う。官僚はエリートではなく保身の徒である。平等もフィクションである。格差の甚だしい米国をはじめどこの国にも平等はない。しかしわが国には惻隠があった。

 日本には昔から情緒と形があった。これを今こそ見直すべきだ。論理や合理を否定してはいけないが、論理の出発点には日本人のもつ情緒や形を選ばなければいけない。日本人は自然に畏怖心をもち、自然を畏敬してきた。西洋人のように自然を征服するというような傲慢なことは云わなかった。美的感受性や日本的情緒の他に、行動規範として“武士道精神”を復活すべきだ。いじめが問題になっているが、これなどは“卑怯を憎む心”さえあれば解決する。必要なのは法律ではない。

 20世紀の終り頃から跋扈し始めたグローバリゼーションは歴史的な誤りであり、断固排除しなければいけない。市場経済も同断である。グローバリズムは経済に始まり、社会・文化・教育を画一化させる。その方が効率はよいかもしれない。すべて英語で通ずる。しかしそんな世界に住んで何の楽しみがあるか。各国・各民族・各地方に生まれ美しく花開いた文化・伝統・情緒は効率的な世界より遥かに価値が高い。21世紀はローカリズムの時代にして、そういう個別のものを世界中の人々が互いに尊重し、育てていくようにしなければいけない。日本語と英語は非常に構造が違うのだから、日本人は英語が下手でもよい、幼い内の中途半端な英語教育は百害あって一利なし。

 人間形成にからむ印象的な藤原氏の話を紹介する。インドに高校卒の数学の大天才がいた。ラマヌジャン(1887〜1920)である。彼は“夢の中で女神ナーマギリが教えてくれる”と言い、次々に定理や公式を発見した。ケンブリッジ大学に招かれ、いくつもの画期的論文を発表したし、招聘してくれた教授の研究室に毎朝半ダースの新しい公式を持参したという。彼は定理の証明には興味がなかったので、彼の死後大勢の数学者がそれに取り組み、美しい定理の証明が完了したのは1997年だったという。“数学には美的情緒が最も大切”と日頃主張していた藤原氏は彼を生んだインドを訪ねたが、訪れた街はどこも汚く、美的情緒を感じることは一切なくて、疲れきり失望して帰ってきた。
 数年後改めてラマヌジャンの故郷、マドラスから車で7時間もかかるクンバコナムという田舎町に行った。驚いたことにその周辺には寒村にはふさわしくない豪壮な美しい寺院がいくつもある。昔このあたりに富裕な王朝があり、金に糸目をかけず美しい寺院を競って造ったのだという。息を呑むほどに壮麗だったので、思わず“ラマヌジャンの公式のような美しさだ”と言った。ラマヌジャンの母親は息子を毎夕歩いて数分の寺院にお祈りに連れて行った。ラマヌジャンは我々の百倍頭が良いというタイプの天才ではなく、何故そんなことを思いつくのか見当もつかないというタイプの天才だった。このクンバコナムの周辺半径30キロ以内で他に二人ノーベル賞受賞者が出ている。インドの他の地方からは匹敵するような学者は一切出ていないという。

 最後に氏は品格ある国家の指標として次の四つを挙げている。
 @ 国家の独立不羈 確乎たる自衛力を持ち他国(米国)に頼らない
 A 高い道徳 善徳や品性の保持
 B 美しい田園 農業の復権
 C 天才の輩出 市場原理主義の排除と精神性の尊重

 時間はかかるかもしれないが、この世界を本格的に救えるのは日本人しかいないと述べて締めくくっている。総ての論点について私はほぼ同意できるが、かと言って彼のように楽観的には考えられない。マスコミを中心に日本人に不信感が拭いきれない心境にある。


<モルモン教>  “信仰が人を殺すとき”(UNDER THE BANNER OF HEAVEN 別名A Story of Violent Faith by John Krakauer)という本は見かけ上小説の形式を取っているが、19世紀に入ってから急成長した新興宗教モルモン教の実態紹介の役割を果たすノン・フィクションの著作(ジョン・クラカワー・河出書房)である。本書はモルモン教徒でない一般の主として米国人から高い賞賛と評価を得、刊行後たちまちニューヨークタイムズのベストセラーとなり、今でも度々テレビ・ニュースや新聞に引用される。もちろんヨーロッパでも“宗教とは何か”という本質的な疑問にからみ、高い関心が払われている。

 モルモン教は過去一世紀に最も強勢を伸ばした宗教の一つと云われ、その信徒数は全世界で千百万人、米国では520万人(2002年度)で人口の2.8%に当たる。因みにユタ州では人口の70%以上がモルモン教徒である。米国に次いで信徒数が多いのがメキシコの88万人である。モルモン教は俗に1万とも言われる多くの宗派に分かれているが、最大派はユタ州ソルトレーク・シテイに総本山寺院(右の写真)を置く“末日聖徒イエス・キリスト教会”で、信徒数は500万人弱である。

 多くの場合、ある男が突然天からの啓示を受けて新しいグルとなり、新宗派を始める形で“モルモン原理主義”が誕生する。宗教の歴史を見れば、聖人の物語と並んで宗教戦争や異端尋問などの人間の愚かさと過ちの繰り返しである。マザー・テレサやシュヴァイツアー博士のように他者に奉仕する人がいる一方で、戦争を仕掛け他を断罪し殺傷するものがいる。その差は何か。聖なるものの前に自らを取るに足らない存在として自覚するか、あるいは自らを神に選ばれた特別な存在と自覚するかの違いで、前者は罪深い人間として“汝の隣人を愛せ”といいう戒めを守ろうとするのに対し、後者は自己と同族の救済のために神に代って予言をし、神の代理人として行動する。自己の絶対化が“原理主義”の特徴である。どの宗教にも原理主義が存在する。ニュヨークの世界貿易センタービルを爆破したビンラデインばかりでなく、それを糾弾しイラクを破壊し罪なき市民を殺戮しているブッシュ政権もキリスト教原理主義である。日本では10年前のオウム真理教も同断である。

 1823年17歳のジョセフ・スミスの夢に天使モロナイが現れ、近くのある丘陵斜面の岩の下に聖句の刻まれた硬い金版が1400年前に埋められてあることを告げた。天使は4年間に及ぶ試練の末にジョセフにその金版を貸し与え、ジョセフは刻まれたエジプト文字の解読に専念して遂に1829年6月に訳了した。9ヶ月後に588ページの書物は印刷を終え、パルマイラの印刷所の前で販売された。1週間後ジョセフは末日聖徒イエス・キリスト教会として知られる宗教を正式に創始した。その基盤たる経典はその翻訳書で“モルモン経”という表題が付けられた。この金版を掘り出した丘は後にクモラの丘と呼ばれるようになり、モルモン教徒の聖地の一つになった。毎年夏に野外劇が行われる。

 モルモン経に書かれている物語は古代ヘブライ人リーハイに率いられた人々の歴史である。リーハイは神の掟に忠実に生きることが神に愛される道であると説き、キリスト誕生の600年前にエルサレムの地を捨てて北米に移った。しかしリーハイの死後息子たちはニーファイ派とレーマン派に別れて争い、一旦は復活したイエスの仲裁で収まるが、後に戦いが再燃し、レーマン人はアメリカ原住民の祖先になった。レーマン人による集団虐殺から生き残ったニーファイ人の最後の一人がモルモンの息子モロナイであった。1400年後にそのモロナイが天使になってこの世に戻ってきて、人類の救済をジョセフ・スミスに託したのだという。ジョセフは創始者としての人並みすぐれたカリスマ性を具えていた。

 モルモン経は出版直後から他宗派の人々からの嘲りの対象になった。第一、書物の信頼性を証する金版がどこにも現存しない。またモルモン経には車輪付きの馬車など歴史的に見てあり得ない記述が数多くある。米国先住民がヘブライ人の子孫でないことはD.N.A.分析ではっきり証明されている。地球の誕生は数十億年前ではなく、約6000年前に過ぎないと説き、反証をすべて欺瞞と否定する。しかし信仰は理性に基づかない信念の儀式である。ジョセフによればキリストの磔の後の百年間に“重大な背教”があり、その後発展したキリスト教の教義は大嘘だった、それをモルモン経が記録を正して真のキリスト教会を再建するとした。物語の舞台が大部分米国だったことも人気を博する理由になった。またモルモン教では信者の一人一人が神から直接お告げを受けることができるし、ジョセフがそれを奨励したのも魅力だった。

 ジョセフは預言者であり宗教の創始者であったが、多くの信徒たちが神の声を聞こうとするようになり、ジョセフの発言より神の言葉のほうが重視され、1830年以降ジョセフの最初の教会から約200の宗派が分かれていった。それはとにかく、モルモン教の中心地は教会の重要な高等教育機関プリガム・ヤング大学のあるプロヴォとユタ郡一帯である。教義としてはキチンとした服装、喫煙・卑俗な言葉遣い・飲酒・コーヒーの禁止、礼儀正しさ、安息日(日曜)の厳守。それに妊娠中絶の禁止、養える限り多くの子供を産む神聖な義務。信徒は収入の1/10を教会に寄託を求められる。そしてジョセフ以来陽に陰に伝統的に続いたのが一夫多妻制。公言はしなかったがこれが事実上ジョセフの教会の神聖な信条だった。最後に教祖が抱いた野望は独立国家を統治する支配政治であり、絶対的な権威をもって信者たちの魂と生活を支配することであった。

 モルモン教の信徒はジョセフ以来集団で居住したが、最初に選んだイリノイ州ハンコック郡のミシシッピ河沿いの町ノーヴーで次第に勢力を拡大していくにつれて排他的になり、事実上の帝王となり米大統領選に出馬さえしたジョセフが命令して批判的な印刷所を焼打ちするに及んで、信徒の神がかり的な態度に反感を抱いていたハンコック郡の非モルモン教徒は一斉蜂起し、遂に教祖ジョセフは1844年6月27日民兵によって殺害された。後を継いだプリガム・ヤングと三代目テイラーは信徒たちを引き連れて逃避し、人の住まなかった地域に移り住んだ。多くの犠牲者を出しながらの逃避行で辿り着いた最初の拠点ソルトレーク・シテイ、またユタ州とアリゾナ州の州境にあるコロラド・シテイと隣接するヒルデール(俗称ショート・クリーク)―それはグランド・キャニオンと称せられるコロラド河峡谷の北部に拡がる広大な原野(アリゾナ・ストリップ)の北端に位置するーであり、またカナダのブリテイッシュ・コロンビア州の米国アイダホ州との国境に隣接したバウンテイフルーパーセル山脈の麓のクレストン渓谷にあるーである。

 一夫多妻制を極めて重要な教義であるとする預言者(プリガム・ヤング)の公表を信徒たちは難なく受け入れたが、信徒以外の大多数の米国人はそれを知るに及び道徳的に厭わしいものと考えた。ブキャナンに次いで大統領に就任したリンカーンは重婚を禁ずるモリル法に署名した。米国政府は建国以来信教の自由について極めて寛容であったが、宗派の増大と異様な熱気に当惑もしていた。遂に一夫多妻制を選んだモルモン教徒を有罪とするエドモンズ・タッカー法が成立し、三代目のテイラーに逮捕状が出されて地下へ潜伏するに及び、四代目ウッドラフは断腸の思いでワシントンに屈し多妻結婚の教義の放棄が神の御心であると発表した。これ以後一夫多妻制は地下に潜ることになるが、原理主義として現在まで細く長く続くことになる。

 現在コロラド・シテイやバウンテイフルではどこの家でもジョセフ・スミス以後の八人の宗教指導者の肖像が壁に掲げられている。しかし後継者たちはジョセフ・スミスの教理にある暴力の文化を強固なものにし、モルモン教独特の血と復讐の執念は大量殺人が起こり得る社会を作り上げた。著作の半分の頁を割いて著者は現在まだ終焉を見ていない個別の殺人劇を詳しく記述している。この殺人の動機は私にはよく理解できない。とにかく神に命じられたのだから、何としても実行しなければならないという風に描かれている。私は一部の米国人に異常に愛せられていても非条理な点の多いこの宗教に全く親近感を覚えない。多くの日本人も同様だろうと思う。宗教発生の土台が違うのだ。でも人間の本性の研究には絶好の材料だと思う。


<敗戦の反省> 1994年11月に<敗因>と題して山本七平氏の論説を取り上げた。今回入手したのは、永野護の“敗戦真相記”(バジリコ)である。重複する点はなるべく避けて要点を紹介する。著者は1890年生まれの実業家・政治家。広島出身、東大法科卒。渋沢栄一の秘書、東洋製油取締役、山叶証券専務、丸宏証券会長、東京米穀取引所常務理事を歴任。戦中戦後と衆議院議員2期、1956年から参議院議員。第2次岸内閣の運輸大臣。実弟に永野重雄、永野俊雄、伍藤輝雄、永野鎮雄、永野治などがいて永野兄弟と呼ばれた。1970年死去。 この文書の作成日時は昭和20年(1945年)11月23日とされている。
―なお文中に用いられている“支那”という呼称は1945年当時は当然だったし、英語は現在でも“China”だが、戦前戦中日本国内で侮蔑的に使用したことへの反省と遠慮から、その後“中国”と呼びかえるようになった。戦争のあったことさえまともに教えられない若い世代のために注釈する。―

 著者は当時の日本が“大東亜戦争”と呼称したあの戦争における日本の国策の基本的理念が間違っていたことが、敗戦を招いた根本的な原因と指摘する。日本は口先では万邦共栄というようなことを云いながら、肚の中では日本だけ栄えるという日本本位の考え方をあらゆる国策の理念にしていた。即ち自由通商主義を忘れ、日本の国の利益のみを目的とする自給自足主義を大東亜共栄圏建設の名で強行したことが誤りだった。日清・日露戦争までは、軍部の指導者も少しでも早く戦争を終結するように真剣に努力した。しかしこれで慢心した指導部は日本の勢力範囲内に戦争のために必要とするあらゆる物資を皆収めておかなければならないという尊大な考えを根本方針としたために、満州事変から支那事変、更には大東亜戦争へと突き進み、後戻りできなくなってしまった。

 従ってこの自給自足主義が戦争の胚子であるが、それを大戦争にまで育てあげた諸事情を以下に指摘する。
 1) 日本の指導者がドイツの真似をしたー明治期の伊藤博文が憲法制定の原資をドイツに求めて以来、日本はドイツ心酔の傾向があったが、選民思想で戦争に驀進するヒットラーに共鳴して、欧州新秩序を掲げて日本と国情の似たドイツと遂に三国同盟を締結するに至った。
 2) 軍部が己を知らず、敵を知らなかったー近代戦の実体も英米の実情も知らず、また知ろうともしなかった。具体的には三つの思い違いをした。
 支那は簡単に屈服するー支那の民族的統一力を見誤った、
 ドイツは2ヶ月以内にソ連を屈服できるーソ連の共産主義的力量を過少評価した、
 米国が日本に戦争を仕掛けることはないー米英は日本が近代戦に関しもっと理解していて容易に戦いを仕掛けてこないと誤解していた。
 3) 日本の指導者が世論本位の政治を行わなかったー5.15事件、2.26事件で上層階級や議会人、新聞雑誌に至るまで自由な言論が封殺された。憲兵政治による弾圧(応召や逮捕)が徹底して行われた。
 4) 事態は日本有史以来の人物の端境期に進展したー建国三千年の大危機に確固不動の信念と周到なる思慮を有して大黒柱の役割を演ずる中心人物が不在だった。官僚は無責任に時流に押し流された。近衛・東条・小磯などは列強の指導者に比すればいかにも大根役者だった。

 敗因
 1) 日本の戦争目的が東亜の諸民族を納得させて、随いて来さしめるような公明正大な目標を欠いていたー日本人でさえ大東亜共栄圏構想に共鳴していなかった。ましてや相手の占領地の国民が日本に協力する気になるはずがない。
 2) 日本軍部が自己の力を計らず、敵の力を研究せず、自己の精神力を過大評価して慢心していたー張り巡らした英国の諜報網やそれを学んだ米国、対比する日本は英語を学ぶことすらも禁じた。
 3) 軍部は国民の良識や感覚を無視してひとりよがりのやり方で戦争を遂行したー鞭と剣の力で工場に戦場に国民を追いやったので、最後まで本当の力が出せなかった。
 4) 戦争遂行における米英国の科学の進歩―その一は科学兵器の進歩:レーダーや原爆、土木機械。レーダーではドイツも日本も海上で壊滅的な打撃を受けた。そのニはマネージメント。日本には科学的なマネージメントが皆無に等しく、人材の運用は不適切を極めた。
 5) 陸海軍の不一致―すべての面で縄張り争いで、陸海軍全体としての運営など夢想だにできなかった。陸軍が右ネジにすれば、海軍は左ネジ。どんな部品も陸軍と海軍とでは共用できない。資材は奪い合いで、要ろうが要るまいが相手より先におさえてしまう。
 6) 重臣・議会・財界・文化各方面の無気力―自分らの意思を十分に国策に反映する機会を逸したが、戦いが始まった以上国策の命じる通り動くのがご奉公という民族的な統一心理がかえって失敗を致命的にした(但し著者はこの民族的な統一心理は日本再建のためには大いに働くだろうと述べている)。

 ポツダム宣言 著者は1945年7月26日、ドイツの首都ベルリンの郊外ポツダムに参集した連合国最高首脳が日本に対して終戦の機会を与えるための条件を表明した“ポツダム宣言”の主意を説明している。それによれば、連合国は宣言の冒頭で“連合国は協議の上で日本国に対し今次の戦争を終結する機会を与えることに同意した”とあり、“降伏する機会”とか“無条件降伏”の語を用いていない。これは連合国がドイツに対する場合“クリミヤ宣言”で、“ドイツに対して課すべき無条件降伏条項はドイツ国の最後的敗北が達成せらるるまでは発表せられざるべし”とあったのに比し、かなり穏和である。連合国側は日本政府および国民と日本軍部とを対立的に区別し、その4条においては“無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者により日本国が引き続き統御せられるべきか、または理性の経路を履んで日本を存続すべきかを日本国民がまさに決定すべき”とし、また6条においては“日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず”としていて、日本のために暖かい雰囲気を蔵していたと指摘する(写真はミズーリ艦上の調印式)。

 次にこの宣言を発した4連合国の日本に対する態度はそれぞれ具体的にどうであったかを分析している。

 米国:日露戦争までは英国とともに日本を支援してきたが、その後日本が東亜各市場を独占しようとするに及び急速に親日感情が冷却、とどめは真珠湾攻撃を外交交渉中の騙し討ちとしてその責任の徹底追及に燃えあがった。しかし軍国的桎梏から解放された戦後の日本についてはソ連との相剋の中で宣言に忠実である限り好意的に支援してくれるであろう。

 英国:親日の立場にあった英国との日英同盟は第1次世界大戦で解消したが、支那事変勃発後も英国は日中両国の間に立って調停に努めた。もしその意向を容れて日本が支那から撤兵し貿易立国に努めたならば、日本の昇運は間違いなかった。三国同盟で完全に敵にまわすことになったが、ポツダム宣言において日本の皇室の廃止に一言も触れなかった理由は日本と英国だけが主要国の中で皇室制度を保持していて、陰に陽に英国がかばってくれたためであろう。

 支那:日支間の紛争の禍根はあげて支那民族に対する日本人の優越感にあった。それが負け戦になったのだから、支那にどれだけ報復されても仕方のないところだ。その情勢を覆したのが8月15日の蒋介石の次の演説だった。“同胞諸君、遂に我々の頭上に勝利の栄光が輝いた。筆舌に尽くしがたい陵辱を受けながら、これに屈せずよく戦い抜いた諸君の労苦によって敵は我が軍門に降った。しかし、我々が終始一貫戦った相手は日本の好戦的軍閥であって、日本国民ではないのだから、日本国民に対して恨みに報いるに恨をもってする暴を加えてはならない。民族相互が真に相手を信じ合い、尊重し合わなければならないということを腹の底から悟ることが、この戦争の最大の報償でなくてはならない。奴辱に対するに奴辱をもってすれば、冤と冤とは相報い、永久にとどまるところを知らないであろう。敵を武力によって屈服せしむるだけでなく、理性の戦場においても我々に征服せられ、彼らに懺悔を知らしめ、これをして世界における平和愛好の一分子たらしめなければならない”と。これを聞いた日本の軍閥、政治家で愧死しないで済む人が何人いるか。お蔭で憂慮された復讐劇は発生せず、同じ東亜の民族であるという情愛がしみじみと感じられて思わず合掌した、この蒋介石の大精神がある限り支那との今後の関係はうまくいくだろうと記している。

 ソ連:この国の外交は徹底した現実外交であり、これと付き合うためには相手に一目置かしめるだけの実力が必要だが、現在の日本にその資格はない。日本に対する宣戦の経緯からも北方領土に関する態度には理解できない点が多く、今後も懸念が必要と言う。

 日本の将来について 
 官僚;行政能力がないのに、責任回避術だけは極めて巧妙。戦時中軍部に付和雷同した反省もない。その特権的色彩を徹底的に払拭する要あり。首長は公選制にせよ。
 教育問題:明治以前の教育目標は武士としての人間完成にあったが、その後は立身出世主義に堕した。日本軍部独善主義の諸悪の根底には幼年学校教育があり、幼い少年に独善的画一主義を注入した。人間として信用し得る人格本位の教育制度が必要である。
 経済問題:大東亜戦争が予期せざる一種の無血革命を起こし、戦前の富裕階級が貧乏になり日本全体としては貧富の差が減少したので、政治経済の民主化に役立つだろう。復興が終わり、賠償を払い終えたら、膨大な軍備費から解放された平和国家として、世界有数の文化国家に生まれ変わることができるだろう。

 感想:− 最後のところだけはやや楽観が過ぎるかもしれない。いつの世も戦争の危惧は消滅しない。また無能な後輩たちはバブルの崩壊に慌てふためき、国債を増発してとんでもない借金大国にしてしまった。
 それにしても、蒋介石の演説には改めて動かされた。60年余が経過して人々はほとんど忘れている。忘恩の徒だ。尤も現在の中国共産党は漁夫の利を得たとも云えるのであって、中国を勝者にしたのは日本軍に徹底抗戦するとともに、欧米に強い外交攻勢を張って日本への参戦を引き出した蒋介石の功であろう。著者は日本が厖大な補償金を課せられることを懸念しているが、案ずるより生むが安しという結果になった。
 著者については、終戦でほとんどの国民が茫然自失していたあの年に、故郷であり焦土だった広島でこれだけ諸問題を冷静に分析整理した見解を演説として発表されたのは偉とするに足りる。


<宇宙旅行時代> 機械学会誌に“宇宙旅行の動向と展望”という記事が載った。これは国家機関ではなく、民間事業としての宇宙旅行を指す。以下その概要である。最初に宇宙旅行を実現した民間人は米国の実業家デニス・チトー氏で、さまざまな障害を乗り越え、スペースアドベンチャー社の協力を得、2001年4月28日、ソユーズロケットで宇宙に上がり宇宙ステーションに5日間滞在した。彼はこの事業の困難さを「信じてもらえないのですが、小切手を書くのは最も簡単なことでした」と語った。因みに彼が支払った費用は$20,000,000という。

 1997年Xプライズ財団企画は“アンサリXプライズ”という懸賞金付きの企画を発表して、民間からの宇宙への進出の応募を誘った。テーマは3人乗りの宇宙船を2週間以内に同じ機体で2回、高度100キロを達成するという宇宙船の開発競争であった.1番乗りの賞金は1000万ドルだった。世界各国から20を超える団体がこれに挑戦したが、遂に2004年9月29日と10月4日、スケールコンポジット社の宇宙船が2度の宇宙飛行を成功させた。今回の打ち上げに使用された革新的な小型宇宙船、スペースシップワンは航空宇宙産業のパイオニア、バート・ルータン氏が開発し、億万長者で米マイクロソフト社の創業者のポール・アレン氏が現金で提供した2500万ドルの資金で建造されている。以下はその報道記事である。

 今回の弾道軌道飛行は、21日(米国時間)の夜明け直後に始まり、まず運搬用航空機の『ホワイト・ナイト』に吊り下げられて、スペースシップワンが地上高く飛び立っていった。一体となった2機は、早朝のモハーベ空港上空をゆっくりと旋回し、1時間ほどかけて、予定の切り離しポイントである高度約15キロ(5万フィート)に達した。  午前7時45分ごろ、ホワイト・ナイトがスペースシップワンを切り離し、操縦士メルビル氏がスペースシップワンのロケットエンジンに点火した。地上で見物する人々から歓声が上がるなか、細い飛行機雲が頭上をほぼまっすぐに昇っていき、ロケットエンジンが燃え尽きると見えなくなった。

 遠地点“飛行中に地球からの高度が最も高くなる地点”に達した後が、飛行中で最も危険な段階に入る。降下速度を抑制するため、独自に設計された回転式の翼を使って、スペースシップワンを大気圏に再突入させるのだ。メルビル氏は降下中、5 Gというすさまじい加速度を経験した。「上昇中は怖くなかったが、降下中は少し怖かった」とメルビル氏は話し、降下中の音を「襲ってくるハリケーン」のようだったと言った。

 「『本当にこんなことをしていていいのか?』という気持ちになった」とメルビル氏は述べた。しかしメルビル氏もルータン氏も、「翼を使った再突入」システムは完璧に機能したと断言した。「翼のある乗り物が[地球の大気圏に無事に再突入できたのは今回が初めてだ」とルータン氏は述べた。飛行直後に報告された不具合は、スペースシップワンのロケットエンジンの燃焼中に起きた原因不明の爆発と、機体後部近くで見つかったゆがみだけだった。宇宙空間の境界から降下を始めてわずか20秒で、スペースシップワンはモハーベ砂漠上の低空を通過し、空港上空で2回向きを変え、滑空して滑走路に戻った。レジャー用大型自動車ほどの大きさのスペースシップワンが、飛行場の誘導路をゆっくりと進んで停止すると、メルビル氏がハッチから滑り出て、両腕を高く上げて勝利のジェスチャーをした。

 第1回目の飛行で、ベテランのパイロット、マイク・メルビル氏が操縦したスペースシップワンは、大気圏を抜けたところでいまだに説明のつかない機体のロールを起こした。メルビル氏とルータン氏は口を揃えて、このロール全部で29回は簡単に制御できたと話した。しかし、ぐるぐる回転しながら上昇する宇宙船の映像を見た観客のほとんどは、ルータン氏とチームは簡単に成し遂げているように見せているものの、宇宙飛行には潜在的な危険が満ちていることを実感したはずだ。4日の飛行が、当たり前のように成功すると考えている者はだれもいなかった。

 カリフォルニア州モハーベ『スペースシップワン』が4日(米国時間)、歴史的な偉業を成し遂げた。世界で最初に宇宙空間に到達した民間宇宙船に与えられる『アンサリXプライズ』を勝ち取った。ビニー氏は今回の飛行に問題はなかったと述べた。「バートはいつも、楽しもうという話ばかりしている。だが例の29回の回転の後、ルータン氏は、『わかった。お楽しみはもう十分だ。真面目にやろう』と言ったんだ」。ビニー氏によると、チームではメルビル氏の飛行中に発生したロールを徹底的に調査し、制御手順のいくつかの変更を提案した。この変更により、確かに今回の飛行は安定していた。その後、ルータン氏は記者会見で、観光用の次世代宇宙船(すでに『スペースシップツー』という名前もついている)を開発するプロジェクトの一環として、スペースシップワンを今後も飛行させるつもりだと話した。歴史的な宇宙船となったスペースシップワンは、いつの日かワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館に展示されることになるだろう。

 報道記事の中で“降下中、5 Gというすさまじい加速度を経験”というのは何故なのか、大気圏突入に伴う震動はあるだろうが、滑空中に大きな加速度は受けることはない筈だが。また“降下速度を抑制するため、独自に設計された回転式の翼”というのも詳しく説明を聞きたいところだ。着陸時にパラシュートを使わないのは十分に減速するまで滑空時間を稼ぐからだろうか。着陸地点の見通しを誤まってもやり直しは利かない。何点か詳しい技術的な説明を求めたい点がある。

 いずれにせよ、これは弾道宇宙旅行とでも云うべきもので、砲弾のような軌道で宇宙に飛び出し約5分程度の無重力状態と極めて限られた範囲の地球の眺めを楽しむに過ぎない。望まれるのは次の段階である周回軌道による宇宙旅行である。既にXプライズ財団は周回軌道での宇宙旅行に賞を新設した。誰でもできれば一度は味わいたい周回軌道の市場は弾道飛行の比ではないので、この事業に成功した企業は大きな果実を入手できる。但しその旅行者は安全上のリスクがあることは十分に認識すべきだ。宇宙旅行用の保険はまだ存在しない。十分なガイダンス・システムが設けられることと思うが、大気圏突入後の着陸地点の気象条件が悪ければ、それだけで十分に危険である。


<遊覧航海記> 今回のネタは“世界一周恐怖航海記”(車谷長吉・文芸春秋社)に求めた。著者の略歴は ー1945年生、慶大文学部卒、広告代理店勤務、下足番、料理人などを経て、平成4年に初作品集“鹽坪の匙”で三島由紀夫賞、芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。平成10年、“赤目四十八滝心中未遂”で直木賞。平成13年には“武蔵丸”で川端康成文学賞を受賞。− とある。他にも“金輪際”、“忌中”など30余の作品があるらしいが、私はどれひとつ読んでいない。この航海記も“文学界”に連載されたものらしい。

 しかしこの航海記は世の中の金と暇を持て余した年寄り達が、その好奇心をも満たし且つ持てる衣装の数々を人に見せびらかすために試みる遊覧船世界旅行なるものが、凡そどのようなものであるかを、私のように家にひきこもりっぱなしの老人にも理解させてくれる適当な教材である。N.G.O.が運営するピースボート“トパーズ号”(31000トン)は3ヶ月かけて世界一周するが、赤道を中心に南の島々などを訪れ、先進国や戦乱のキナくさい地域は敬遠するコースである。著者は全くその気はなかったのだけれども、晩婚の奥さんにせがまれて、拒めば3ヶ月一人暮らしを強いられるのが嫌さについて行った。下見に行って船内に喫煙の場所があるのでその気になった。季節は日本の冬、南半球は夏である。同行は夫人の友人の新藤涼子さん。詩人である。

 平成17年12月26日横浜出港。船が港を離れると、早速船酔いして嘔吐した。前歯が一本抜けた。先が思いやられる。夕陽に染まる富士を海上から見る。手摺にもたれたら塗りたての白ペンキが新調の“長吉”と染め抜いた法被にベットリついた。お揃いの夫人の法被は“泣魚”である。やがて四周に陸地、島、船影は一切見えなくなった。七階の喫煙所で45回ピースボートで旅をしたという女が、この船には値段によって船室が高い一人部屋から船底の4人部屋まで6階級ある、旅の途中から隣の女の鼾がうるさいなどと言って、相部屋の連中は自分の部屋から毛布1枚持ってきて7階の公共スペースのソファの上で寝るようになる、まるで浮浪者やーと言った。法被の白ペンキを船で借りたベンジンで落とそうとするが、落ちず。気落ち。

 昨夜、船内紅白歌合戦、年忘れパーテイ、音楽会などあり、今朝はデッキで鑑開き、新春餅つき大会など、連日さまざまな催しあり。乗客は皆、この船旅を貪り楽しもうとしている。このむさぼるという空気が息苦しい。私はそういうものに一切参加せず。“食うことが仕事や”そう言っている男女がいる。何もすることがないので、朝昼晩、二度づつ飯を食うているのだ。家畜と同じ。

 日記には毎日の昼食と夕食のメニューとその評価が書いてある。流石元料理人である。関心事はそういうことしかなくなる。見学時には7階の公共スペースの卓子の2/3には灰皿が並べてあったのに、乗船してみると喫煙は1箇所だけの喫煙所に限られるようになった。欺かれた感じ。終日図書室で本を読み、合間に隣の喫煙所へたばこを喫いに行く。たばこを取り上げられたら死んだも同じ。癌になって死んでもかまへん。船が西へ進むにつれて夜1時間づつ時計を進める。

 ヴェトナムの古都フエを訪れる。ヴェトナムには背高泡立ち草が生えていない。帰化植物というのがないらしい。さすがヴェトナム戦争でアメリカ合衆国を撃退した国だ。著者は9年間和食の職人として京都で修業したが、ヴェトナム料理ははるかに日本食よりおいしい、ヴェトナムの宮廷料理は日本の天皇家の料理をはるかに上回ると言う。

 お涼さん(詩人)はご自慢の“お帽子”を十数個もってきた。毎日午前と午後、お洋服、お帽子、装身具を取替え、女の子分衆を五六人引き連れて船内を闊歩している。手なづけた子分どもの身の上話はすべて聞き出してある。子分の一人に薔薇の造花を作ってもらい胸に挿し、食堂ではお運びの男女に“マダーム、リョウコ”と呼ばれて得意満面である。夜は午前二時まで、子分衆を連れ船内のバーを飲み歩いている。子分衆がそれを嬉しそうに語るのだ。女王さま。

 インド洋を飛んでいく蝶を見た。黄色い小さな蝶だった。この船に乗ってから最高の感激だった。8時半頃ガルの沖に着いて、小船で昨日の急病人をガルへ運んだというが、実はアンコールワットへ行って蚊に刺され、マラリアに罹った死者だったとか。海上の日の出と日没を何度眺めたことか(普段の都会生活では遠ざかっている環境だから、つい目が離せなくなってしまう)。船の周囲、三百六十度、ただ水平線だ。

 お涼さんはこうである。「この船沈むと面白いのに。」、「日本に帰れなくなったら面白いのに。」絶えず“面白いこと”に飢えている。1時間30分ほど“読むことと書くこと”と題して講演をした。乗船以来、お涼さんが子分衆その他に、長吉が講演する、すると云うて廻って、大騒ぎしたので、それで沢山の人が集まったのである。お涼さんはもう一騒ぎしたい。ゆうべ、お涼さんはベッドの上に立ち上がり、天井の冷房を止めようとしていて、船が揺れ、ベッドから下へころがり落ちた。いろいろやってくれる。船に乗ってからすっかり食べ過ぎで“コロコロマダーム”と陰口をたたかれた。お涼さんも今月で満74歳になるけれど、自分のことを“中年のマダム”と詩に書いている。併しちゃっかり老齢福祉年金は受け取っているのだ。

 文学者になって“人間とは何か”を考えていると、どうしても人間とは愚かで、卑しいものだという認識に行き着いた。私はこの世で見るべきものは見てきた。それは人の卑しさ、愚かさばかりであった。自分が文学者になって見ると、作家というのは惨めなものだとしか思えない。毎日、暗い気持ちである。長い間小説を書いてきて、モデルにした人の呪いが背中にべったりはり憑いている。

 セーシェルのポートヴィクトリアで船が出港する前、美しい島々の影を見ていたが、この風景を見ることは二度とないのだ、と思うと、急に胸が重苦しくなった。人は皆この世の過客である。みな、もうすぐ死んでいくのである。も一度、私がこの船に乗ることはない。インド洋の月を見る。哀切。

 この種の旅行記にはよくあることだが、後半になるとめっきり特筆すべき材料が減ってしまう。  3月30日横浜帰着。

 読後の感想:金輪際、世界周遊の船旅などしたくなくなった。飛行機の旅のような脚の鬱血に悩む心配こそないが、船酔いは嫌だ。船旅の主催者は立場上様々な催しを企画するが、著者と同じく大抵のものは敬遠したくなる。老年の、生まれ育ちも知らぬ人々と3ヶ月毎日顔つきあわせるのはウンザリだし、日の出・日の入りをじっと眺めるなどは一度か二度でいい。私の場合脚が不自由だから尚更だが、各地の景色などテレビで結構。好まぬ音声が突然割り込んでくる環境も好かない。スイッチを切るわけにもいかない。旅中蚊に刺されて死んだ人が出たが、どこかの豪華遊覧船ではノロウイルスが流行ったというニュースを聞いた。そうなると、何を好きこのんでと思ってしまう。但し、人生というのは何をやってもタカが知れていると悟り、もう死んでも惜しくないと観念する効果はある。

 それと小説家というのも因果な職業である。知り合いの男女の行状をネタに人目にさらす文章を書き、それで収入を得ているという自覚がつきまとうと、とても爽やかな気分では過ごせないだろうと同情する。


<フリーター考> 世の中は職業選択や就職に関してすっかり様変わりしてしまった。社会の状況もそれを作り出す人々の考え方も大きく変化したのである。時代遅れ防止にと、本項では“新卒ゼロ社会”(岩間夏樹・角川oneテーマ21)のお説拝聴とする。著者は1955年生まれの社会学者で日本社会学会、日本教育社会学会会員。他の著書に“戦後若者文化の光芒”などがある。 日本的雇用慣行とは、企業が、新規学卒者を一括採用し、長期雇用を前提として、雇用者が若年の時は賃金を上回る貢献をしながら、企業内訓練による人的資本蓄積を行い、中高年期になって蓄積された人的資本の対価として貢献を上回る賃金を支払うことにより、企業固有の技術をもつ熟練労働者を長期に確保する仕組みである。(平成10年版厚生白書)

 俗に“終身雇用”と呼ばれる長期雇用を前提として、年功賃金制をうまく機能させるためには、社員全員がなるべく同一の条件に置かれることが重要である。特に同期社員が不公平感を覚えないように一斉にスタートすることが無用の摩擦を避けるために大切だった。年功賃金性では途中で他社へ勤務先を変更することはひどく不利な仕組みになっており、それは“勤め上げる”ことへのご褒美である退職金で更に強調される。 この制度を支えるために、学校が企業に就職を斡旋するという慣行(談合システム)ができ、企業が特定の高校だけに求人票を発行するという指定校制になった。この“学校経由の就職”が最近まで日本の若年失業率を欧米に比し極めて低い水準にとどめることに寄与した。教育から職業へという移行は、異質な二つの世界をまたぐことだから、ギャップがあって当然である。そこを嘗ての日本は学校から会社へと読み替えることで、その過程をシームレスにしていた。これが高度成長期に完成した日本的雇用慣行である。更に職場は生活共同体としての意味あいをもつ“職域”(地域に対応)という機能をもち、納税・健康保険・年金積立などを一括処理してくれる。独身寮や社宅、保養施設も提供された。こうして旧来の血縁・地縁体制は職域一辺倒体制に取って代わられた。

 1987年前後は時代の転換点になった。85年から89年までで円は1ドル=259円から1ドル=120円にまで高騰、円高不況が起きて、対策として公共事業の増発と公定歩合の引き下げが実施された。長期にわたる地価の低落が始まった。総終身雇用体制の崩壊は平成不況になってからだが、この時期既にバブル景気による中途採用が進み転職ブームが起きて、終身雇用制は綻び始めていた。年功的賃金体系は破られた。蟻の穴からでも堤は崩れる。これが不況期に入ってからの超長期雇用の見直しに繋がっていった。だがまだ人材は超売り手市場になっていた。企業の側も対応を迫られてC.I.(コーポレート・アイデンテイテイ)と称してロゴマークを変えたりした。雇われる方は何がしかのスキルをもっていれば、正社員になるよりは短期契約で条件の良い職場を渡り歩き、時々は失業給付を受けながら海外旅行をするのがかっこいい生き方というイメージが生まれてフリーターという言葉が生まれた。

 しかし90年代に入って夢は破れた。バブル崩壊によって一転して人材は買い手市場になった。若者たちも何が何でも会社にしがみつくというスタンスは影をひそめていて、長く一つのところにいるのは息苦しいという感受性が生まれ、終身雇用制を有難い恩恵とは思わなくなっていたので、若者に関する限り、会社と働き手の両者の合意によって在来の関係は円満に解消した。不況の直撃を受けた企業は、この流れに乗ってリストラと称する人員整理を正当化し、常態化させた。終身雇用制は崩れたのである。

 高度成長期以来職場にいる人たちには“飢えの恐怖”、そう言って悪ければ“より豊かな生活へのバスに乗り遅れる恐怖”がある。リストラと業績主義が新しいスローガンになり、一流大企業が突然破綻するということも珍しくなくなって、会社のサポートも心許なくなった。頼りにしていた護送船団方式はいつの間にか消滅した。年とってからのマインドチェンジは容易でない。91年頃を境にして職場には深い世代間ギャップが生まれ、続くことになった。 豊かな社会に育った若い世代には長期的な計画性が無意味になり、当面の生活を楽しく過ごす戦術に転換した。彼らには飢えの恐怖はなく、“まったり”生きればいいと思っている。モノに対する欲求をうまくコンントロールすることができ、将来困るぞ、後で後悔することになるぞという大人の粘っこい脅し文句も気にしなければ、身軽で快適なライフスタイルが待っている。彼らが希求するのは自分らしい仕事にありつくこと、即ち“自己実現”であり、それまではフリーターもやむなしと考える。だが企業が採用を手控えるに及び、フリーターは是非もない選択となった。 今や就職に関する最有力メデイアはインターネットの企業ホームページである。4年制大卒では就職活動にインターネット利用が93.5%、学校への求人票利用は37.7%に低下した。新卒か、中途採用かは二の次になり、“何ができるのか”が問われることになる。職業歴も重要なファクターになるだろう。― 著者はここまで述べて、規範が消滅して迷う子羊たちを突き放していて、成案は示していない。

 ここからは著書を離れた私の感想だが、実は終身雇用制の崩れてしまった社会での自己実現は若い人が考えるほど容易なことではない。自分の制御できないところで世の評価基準が変わると、突然頼りにできると思ってきたものが脆くも崩れてしまうことはあり得る。昨年はあたかも脱終身雇用制の旗手でありヒーローのようにマスコミにもてはやされていたホリエモンや村上が、あれよあれよという間に奈落の底に落ちていった。彼らの如き秀才も浅はかさを露呈した。人間は健康でばかりはいられない。自信に満ちていた身体が突然思うように動かなくなることもある。そのための備えも必要になる。でも未婚者や子供を作らぬ家庭ばかり増えては日本はジリ貧になる。日本人の知恵の結実である終身雇用制や公共事業の談合システムが崩れつつある21世紀の日本社会は、個人にとっても企業にとってもその存続・繁栄の方法は20世紀後半のように画一的には図り得ず、格段に難しくなった。冒頭の写真はスクランブル交差点:現代社会の象徴でもある。人との衝突を避けてウカウカしていると信号が赤になる。


<西蔵鉄道その2> 先月取り上げたばかりのテーマだが、改めて1月2日夜のN.H.K.テレビの番組を見て浮かんだ感想を追記する。関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅も欠かさず見るようにしているし、考えてみると自分も鉄道が好きなのだ。見た方には重複になってしまうが、我慢をお願いする。番組は西蔵鉄道の玄関口、西寧駅の高く聳える立派な建物の放映で始まる。中国政府の威信をかけた事業だからシンボルを飾りたくなる気持ちも判る。構想が実現するまで50年を要したという。西寧―ゴルムド間は早く完成したが、そこから先の工事は難事業だった。総工費500億円という。日本ならもう一桁上だろう。

 ラサ行きの旅客列車は2日に1本、定員900名の20両編成である。満員で予約が必要。料金は523元(8000円)だが、硬席車は3500円という。随分安い。西寧出発は夜の8時7分。ゴルムド着が朝の7時。観光客にここからの景観を満喫させるような時間選択になっている。ここでの停車時間は20分。高地専用の機関車に切り替えられる。米国製4000HPのデイーゼル機関車2連が牽引する列車長は300m。ここからは既設の国道109号線にほぼ沿って軌道が敷設されているが、その特徴は様々な理由から鉄橋が多いことで、総数670本、最長は11.7km(清水河特大橋)に及ぶという。

 崑崙山脈は東西2500 km、南北350 kmあると言われる。やがて右の車窓から白銀の高峰が見えてくる。玉珠峰6180m(右上)。それを高原の先に眺める玉珠峰駅を含めて9の観光駅がある。ほとんどが無人駅で、通過するか、停車しても当座は乗降口は開かない。初老のヨーロッパから来たと思われる単身の男が満足そうに車外の風景を眺めている。“私は世界各地の鉄道に乗って風景を楽しんできた。この地の景色はまた格別だ。飛行機ではこうゆったり眺めることができない”と言った。高度が4000 mを越すと気圧調整のない硬席車では備え付けの酸素吸入装置を利用する人が出てくる。食堂車付属のキッチンでは平地では30分でたけるご飯が1時間半かかると言っているので、ここも無加圧なのだろう。そのような高地にも野生の生物が見える。チベットガゼル、ロバ、チル(カモシカ)、ヤクなど。ココシリ自然保護区になっている。橋梁が多いのは平原でも堤を築くと野生生物が鉄道を横断できなくなるためと、凍土地帯の沈下対策として橋脚部に岩盤に達する深さの杭を設けるためらしい。最高地点タングラ峠(5072 m)には石碑があり、その近くのタングラ駅は無人である(下はタングラ無人駅駅舎)。西海省とチベット自治区の境界で、ここへ停車して間もなく上り列車が無停車で通過した。太陽電池で蓄えた電力で遠隔操作によってポイントを操作する。この先の峻険な山筋をトンネルで通過する。掘削工事は凍土が溶けないように冷風を送り続け、酸素ボンベ着用の難作業だったという。

 崑崙山脈を下ると、遊牧のチベット人の姿が散見され、多くの羊たちがいる。標高4000 mのなだらかなチベット高原である。別途鉄道に沿って走る国道を歩くチベット人たち一群のシーンが出てくる。彼らはこの舗装道路を利用し縦列になって聖地ラサまでの巡礼の旅の途中である。チベット仏教信仰の最高の発露とされる五体投地は立ち上がると歯のない下駄のような板を履いた両手を前方に突き出して身体を投げ出す繰り返しで、1日に2000回、僅か5 kmしか進まないので、聖地ラサまでの450 kmは今から3ヶ月かかるという。食事などの世話をする人が同行していて、皆野宿の旅を続けているのだ。チベットでは昔から一生に一度はなすべき行事で、たまたま利用できる舗装道路は荒地より通りやすいから利用しているだけだ。横をビューンと車が通り過ぎる。遥か向こうに西蔵鉄道が走っている。チベット語を話す人が“あの新しくできた鉄道をどう思いますか?”と尋ねると4人の陽に焼けた巡礼者たちは一様に素朴な顔をほころばせて、“よく分からない”、“面白いモノだと思います”などと答えた。やっかみの感情など微塵もない。自分らとは無縁と観じているに違いない。

 また話を列車内に戻す。老人と三人の孫娘が硬席車に乗っている。チベット人なのだが事情があって生まれながらにして四川省に住んでいる。一生遠いチベットには戻れないと思っていたら、今度鉄道ができたので、念願のポタラ宮を拝みたいという巡礼の旅であると老人は語る。末の孫娘は初めて乗る汽車に酔って気分が悪く、薬を飲む。食事は持参の自家製ソーセージである。老人は固い椅子に長時間横座りに座ったまま苦しそうな顔ひとつしないで孫娘たちを見守っている。夜もあの姿勢で過ごしたのだろう。降り際に汽車旅行の感想を尋ねると、老人はこんな楽な旅はない、ぜひまた乗りたいと言った。五体投地で巡礼を続けている男たちを思い出した。

 4人の壮年の男たちが上級車に乗っているのだが、景色など見向きもせずテーブルの上にさまざまな書類を拡げて会議をやっている。ラサの人口は40万、鉄道が開通した今、物資の搬出入は従来と比し格段に容易になった。今は絶好の機会である。どういう商売がもうかるか、早急に見極めたいというわけだ。
 突然車内がざわつく。列車は聖なる湖といわれるツオナ湖の傍らを通過していて、乗客たちが口々にその美しさを讃える。20分で通過する湖の大きさは4000m2。やがてラサが近づく頃には夕陽が山の彼方に沈む。

 ラサ駅には定刻より20分遅れで10.40PMに到着した。ラサ駅の建物はポタラ宮を模した形状の壮大な建物で、市内向けのバスが出る。ポタラ宮は10月から夜を通して照明に照り輝くようになった。4人の男たちは翌日すぐに街に出て店先に出回っている商品を眺めて歩き、早速大きなスーパーの開店を決意したようだ。他方4人の祖父と孫娘たちは翌朝、聖地ポタラ宮が前に聳える池のほとりで並んで五体投地を繰り返しながら拝礼していた。彼らにはアチコチをツアーで巡り歩く計画などはないらしいが、親戚を頼って暫く滞在するという。折り返しの上り列車は午前9時30分にラサ駅を出発していった。鉄道新設に伴う何人かの人たちの新たな人生の一齣を見せてもらい、風景と共にとても印象深かった。すべての人にとって後戻りはできないのである。


<イラン>   1975年頃の晩秋に私はパーレヴィ国王統治中のイランを訪れたことがある。出張の直接用件は商社の斡旋する物件でラシッド近郊の小規模の農業灌漑設備の受注に関するものだったが、首都テヘランからの自動車旅行でカスピ海沿岸を走り、また峻険な山脈を越えて帰着するまでの風景は、日本との類似性が感じられて親しみを覚えるものだった。日本の4倍の国土面積を有するというイランは特に東南部あたりは居住に適さない沙漠が拡がる厳しい自然条件らしいが、カスピ海南岸の気候は温暖多雨で日本の農村に似ている。しかしエルプルス山脈を南へ越えると雨が少なく、土地にはロクに草も生えない(写真はテヘラン市内から北のエルプルス山脈を望む)。山脈の高度は平均4000m、場所によっては5000mを越える。同じ国でも気候条件に地域差が大きいのである。この辺まで来ると人の顔に日本人との類似性は少ない(ここはもうアジアではないという感じがする)。鼻のとがった老女に魔女の俤を感じた。

 我々訪問者の世話をしてくれた三井物産のテヘラン駐在員は当地の事情を詳しく話してくれるので、短期間の滞在で多くの知識が得られる。ローマ軍も屈服できず、中東の大国としての勢威を誇ってきたペルシャも20世紀に入るとロシアやヨーロッパに蹂躙されかけた。軍人だったレザー・ハーンが首相から国王になって、イランと改名して中央集権国家の建設に向けて鋭意近代化を推進した。やがてレザー・ハーンは英ソに抑え込まれて退位させられるが、その後を継いだ息子のパーレヴィは第2次大戦後、反共の砦を築きたい米国の支援を得て専制国家を作り上げ、イスラム社会を近代国家に改造するため国会決議を経ないでヴェールの撤廃など思い切った白色革命を行った。国民の抵抗を抑え込むために秘密警察SAVAKが設けられた。駐在員の話によれば、SAVAKは望ましからざる活動をする人物を捕らえると、自動車で広い砂漠の真ん中に運んで行って置き去りにするのだが、よほど運が良くなければ脱出できないと言う。人々は当局の咎めたてを恐れて戦々恐々としているらしく、忠誠の証として家々には戦前の日本における天皇・皇后の写真の如く国王の写真を飾っていた。

 この地には既に紀元前500年にペルシャ帝国が成立し、以後異民族の侵入も度々あったが独自のペルシャ文化を育ててきた長い歴史がある。ペルシャ王国の名残を博物館で味わった。大きな地球儀があり、海は一面に無数のエメラルドの吸い込むような緑青、陸地は燃えるような真紅のルビーで構成され、経線と緯度線には整然と粒の揃った白銀のダイヤモンドが埋め込んである。美麗な模様のペルシャ絨毯がこれでもかとばかりに並んでいるが、時価どれほどか訊くのもはばかられた。もっと色々な貴重品があった筈だが、日常生活との較差が大きくて情けないが憶えていない。これほどのものの献納を受ける昔の王様はよほど偉かったに違いない。盗難の心配もせず飾っているのだから、警備はシッカリしていたのだろう。古い栄光の歴史をもつこの国の矜持を感じた。米国などこれに比べると何とも浅はかだ。博物館に自国の歴史を誇るものがない。

 街中の看板はアラビヤ文字だし、発せられる言葉はすべてペルシャ語(Farsiという)だから、全く意思疎通ができない。だから一人で街へ出る気にならない。ローマ字なら曲がりなりにも読めるが、あの文字では発音もできないのでフラストレーションを感じる。それでも日本語で書かれた地図や案内書でこの国の地名を知ることができる。不思議なことはカズヴィン、ハマダン、イスファハン、アゼルバイジャン、ケルマンシャーなどという地名が違和感なく一度で頭に受けいれられることだ。まるで遠い先祖がこの土地と関わりがあって、隔世遺伝でその記憶が蘇るような錯覚を覚える。因みにカスピ海は“ダリア・イエ・マザンダラーン”だという。これも一度聞いただけで忘れなくなった。国の東北端にあるマシャードは聖地の一つでテヘランから鉄道が敷設されている。明治期の日本のようだ。日本との大きな差異はこの国が複雑な多民族国家であることで、同一宗教であっても民族の相違によるいがみあいや悪口の言い合いは目にあまるほどで、とても国王に反旗を翻すような意思統一はできそうもないと商社マンは語っていた。

 しかし当時も国王の政治に多くの国民がソッポを向いている感じはあった。昼中テヘランの街路をビルの窓から見下ろすと何も動きがない。よく見ると渋滞で車の動きがとれない状況が続いているのだった。これは日常茶飯事だという。一方で地方へ行けば人々は車など買えないから新設の自動車道路など自分らは関係ないと昔ながらの道を歩いて生活を続けている。クエートへ行こうと空港へ行くと、何のアナウンスもないまま1日中待たされた挙句、その日は便が出ず疲労困憊して(今出発案内のアナウンスがあるかと耳をそば立てて待つことが如何に疲れるか実感)ホテルに引き揚げた。近代化を焦る国のアチコチに矛盾と障害が積み上げられていた。中東とはこういう非能率なところかと思ったが、今から考えると社会はうまく運営されていなかったのである。パーレヴィは有能な政治家ではなかったし、彼を支援する米国は適切な手を打っていなかった。

 遂に民族のルツボと称せられたイラン人民が団結するに至った。あれからほぼ5年後の1979年2月、ホメイニが火を点けたイラン革命が勃発、国王は国外に亡命した。新しいイランを直接見聞する機会はなかったが、1冊の報告書“現代イラン”(桜井啓子著・岩波新書)を読んでその後の状況のあらましを知った。

 パーレヴィ国王によって国外に追放されていたホメイニは12イマームのシーア派に属するが、1971年亡命先イラクのナジャフでヴァラヤーテ・ファギーフ(イスラーム法学者による統治)論を発表していた。これはイスラーム共和国統治体制の基本理念になるものだった。70年台末期には都市と農村の格差の激化、インフレ率、失業率、更にハ所得税率の上昇がイラン社会を危機的状況に追い込み、人々はホメイニの掲げる“正義の確立”・“被抑圧者の救済”というスローガンに共鳴し、国王とそれを支える米国が悪の元凶というコンセンサスができあがった。15年ぶりに祖国の地を踏むホメイニを人々は隠れイマームの再来を見る思いで迎えた。

 ホメイニ帰国直後に結成されたイスラーム共和党は勢力を急激に拡大し、新憲法にヴァラヤーテ・ファギーフを明記させた。激しい権力闘争が展開され、まず旧体制で石油国有化運動に活躍した国民戦線のバフテイヤールが失脚、次いで反国王・イラン自由運動を興したバザルガーンが退陣した。これに対しモジャーヘデイーネ・ハルグなどの左派系ゲリラ組織はイスラーム共和党を狂信的一党独裁と批判し、インテリ層の支持するバニーサドル大統領に接近した。折からイラン・イラク戦争が勃発し、大統領がこれに忙殺されている間に共和党は国会にバニーサドルを罷免させ、これに抵抗するモジャーヘデイーネ・ハルグと激しい武力闘争の結果これを制圧した。次いで左派系ゲリラ組織フェダーイヤネ・ハルグとソ連の支持を受けたトウーデ党が弾圧された。ホメイニとほぼ同格のイスラーム法学者の中に法学者が直接政治に携わることを否定する何人かがいたが、地位を剥奪されたり国外に追いやられてしまった。

 イスラーム共和党による単独支配の確立と国家機構の再編が実施された。最高指導者ホメイニには憲法擁護評議会の任命権、最高司法権者の任命権、軍最高司令官としての権限が認められ、三権のすべてに強い指導力を発揮できるようになった。このヴァラヤーテ・ファギーフ体制はホメイニの死後も現在に至るまで続いており、これに異議をはさむことは民衆の参加と犠牲の果実であるイスラーム革命そのものの否定と見なされている。

 イラン・イラク戦争はイラクのサダム・フセインがイラン革命の混乱に乗じて短期間で成果を得るべくイランに攻め込んで始まった。不信心者サダムに対する聖戦と見なしたイランは積極的に応戦した。イランの攻撃に対してイラクは空爆、海上のタンカー攻撃や化学兵器で応戦、戦いは8年にも及んだ。それはイラクに連帯して西側諸国に石油を供給している湾岸諸国をイランから守りたいという欧米諸国の思惑があったからで、最初は中立を宣言していた米国もイランがイラクに侵攻するようになると態度を一変し、西欧諸国にイランへの武器禁輸徹底を呼びかけるとともにイラクへは積極的に武器を売却した。イランの少年兵たちは殉教者には天国行きの切符が渡されるという呼びかけに応じて戦場に馳せ参じた。兵器の面で劣勢に立たされていたイランが人海戦術を取ったことも人的損失を大きくし、この戦争における両国の死傷者は凡そ100万人、内イラク側戦死者が約10万人でイラン側はその2.5倍以上といわれる。イランは国連安保理の勧告を受諾して勝利なき停戦に応じ、戦争犠牲者への償いに長い年月と大きな負担を強いられることになった。

 イラン・イスラーム共和国憲法は12イマーム・シーア派を国教と定めているが、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教を公認の宗教として認め、信仰の自由を保障している。因みにムスリム男性はムスリム女性もしくは啓典の民といわれるキリスト教徒もしくはユダヤ教徒の女性としか結婚できない(この辺は日本人には理解し難い筈)。また宗教専門教育は従来のイラクのナジャフに代ってイランのゴムで行われるようになり、教授言語もアラビヤ語からペルシャ語に変わった。国内全般にペルシャ語教育の徹底がはかられるようになった。教育のイスラーム化として、教科書が改訂されて国王への忠誠を求める記述は当然消滅したが、代りにホメイニを賞賛する個人崇拝記事は一切なく、ヴァラヤーテ・ファギーフの正当性が強調されている。共同体像に関しては古代ペルシャ帝国の栄光やペルシャ民族が姿を消し、信仰を共有するすべての民族を包摂するイスラーム共同体ウンマを主体に押し上げている。敵はイスラーム諸国を従属化させようとする帝国主義勢力であり、それに迎合する信仰なき圧制者たちである。人間の真価は肌の色、民族、文字、言語ではなく、人間の思考と宗教で決まるとする。また、イスラーム社会では聖戦と防衛は宗教的義務であり、すべての人は全力で自分たちの領土、名誉、信仰を守らなければならない。敵に対する準備を怠ってはならないとする。

 引用した本の著者は女性なので、女性の立場からイラン革命を評価する。革命の指導者は革命前には流行の髪形に洋服を着こなしていた女性たちを理想的なイスラーム女性に変えようと“ヴェール”の着用を強制した。コーランには女性は親族以外の男性に自分の美を見せないように身体を覆うように指示している。当初ヴェールはイスラーム政権への忠誠度をはかる物指と見なされたが、逆に女性たちはスラーム的な服装を遵守することで公的な場で働く権利を新たに獲得するようになった。この服装には男性ばかりか女性の視線からも解放される気楽さがある(写真は模範的なヴェール着用)。一方で髪の毛を隠すヴェールをどのぐらい後ろにずらせて前髪を見せるかが不良の尺度だが、最近は次第に大胆になってきているという。コートの下縁は膝の下までという基準もたまに破られる。一旦は家庭に引きこもることを余儀なくさせられた女性の就業率が上向きつつある。イスラーム法の導入によって女性の法的地位(結婚・離婚・親権など)が大きく後退したのは事実である。これも徐々にではあるが改善されつつある。女性の識字率は女子の就学率向上によって15%(1956)から80%(1996)と大幅に向上した。女性の大学・高等教育機関への進学率は1998年に遂に男性を凌駕した。

 最近の観測によるとこの国の石油生産量は先細りになると報じられている。エネルギーを原油から原子力に切り替えるのも止むを得ないかという見方もある。年末国連はイランへの制裁決議を可決したが、更に米国は半年以内にイランへ戦争をしかけるだろうという観測がなされている。この項の記述を見返してみても、米国は一体イランがどの点をどう改めるべきと言うのか。過去の過ちは寧ろ米国や西欧にあるのではないか。イランが米国に降伏することはないだろう。またアハマデイジャネイド大統領は米国に対して挑発的な態度を見せているが、イラン側から米国に攻めかかることは考えられない。


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