2月の話題


2007年2月


<Y字路> 久しぶりに芸術家横尾忠則がN.H.K.テレビに登場した。この随筆のどこかで一度彼を取り上げた憶えがある。今回テレビが掲げたテーマは“70歳の疾走”。横尾は1960年代にグラフィックデザイナーとして登場し、和製アンデイ・ウオーホルとも評されるその奔放な作風が受けて時代の寵児になった(写真は若い頃の横尾)。46歳の時にピカソの絵に啓示を受けて画家に転進したが、色々画いている内に何を画きたいか分からなくなり、過去の自分の作品を見ても訴えるものを感じなくなった。自分で病のデパートと諷するほど、喘息や腰痛など多くの身体の故障に悩まされる。模索の中で60代を迎えてふと見かけたY字路の風景に惹きこまれた。アートは発見であると横尾は言う。Y字路は自分に解明してくれと迫ってくる。街には様々なY字路がある。これを自分の絵の継続的なテーマに定めて迷いがふっきれた。

横尾はこのほど70歳になって老人宣言をした。老いていく身体と未だに若い心のアンバランスがあり、それを楽しむ心境になった。あと何年生きられるか分からないが、やれるだけ活動を続けたいと思う。幸いやることは決まっている。昨年パリのカルテイエ・ラタンで個展を開いた。もう少し早い時期に開こうと考えたこともあったが、結果的にみてこの時期に開いたことで、最近の充実した作品を展示することができ、満足している。テレビには何人もの横尾の若い頃からの知人が登場し、華麗に舞っていた蝶がいつの間にか青虫になったと思うとさなぎになり、また別の蝶にと絶えず変身を続ける人だと感嘆する。

 インターネットで探すと「Y字路」(横尾忠則)という題で実に21点もの作品が様々なY字路の状景を、ある絵は鮮やかに晴れあがった真昼間に、あるいは夜の雨に濡れそぼった姿で、また対等な二本の分かれ道だったり、主道と側道の差が歴然としていたり、Y字路や一時停止を示す道路標識、一本が急な下り坂になっているのにもう一本は平坦だったり、また分かれ道に建つ家の特異な形状などに描き出していて、それぞれ別の特色がある。更に横尾の絵は現実以上に現実らしく、特定の箇所の特徴を誇張して巧みに強調している。そこには曖昧にぼかさず直截に表現するグラフィックデザインの歯切れの良い技法が顔を出している。多分横尾はこれらのY字路に差し掛かった時の人々の情念を敏感に感じ取っているに違いない。

 私も少年の頃岡崎の住居から斜め横に旧東海道から直角に入ったやや上り坂の路地をしばらく行くとY字路になっていて、左は片側は竹薮だが片側人家で陽の当たる坂道だが、右は両側に竹薮が生い茂り昼なお暗い曲がりくねった平坦な道だったのを思い出す。この右の道は毎年夏の夜少年たちの肝試しに通らされる道になっていた。Y字路の分岐点にはお地蔵様があった。最近Google Earthで調べたら、竹薮は刈り取られたが道路の形状は昔のままに残っていて懐かしかった。

 凡そ人の住む地域のY字路はそれぞれがその成因と周辺の景観の変遷に関わる独自の歴史をもっているが、それが表立って語られることはない。こういう対象を自分の芸術の継続的な主題に定める横尾という人の感性は常人にない独特のものだ。ところが作品を見ていると、このテーマにこだわる横尾の気持ちに次第に共鳴するようになる。ということは横尾は我々俗人をも教化できる天才なのだろう。作品にはカラー写真と見まがう写実的なもの(冒頭の絵)から思い切ったデフォルメしたものまである。彼は自分の作品をY字路だけが主題ではないと言い、空に怪人二十面相や蒸気機関車を描く。これらは彼が私とさほど相違しない年代に属することを語らずとも示している。ウエブ上の彼の作品は寛大にもすべてコピー禁止の制約を設けていないので、話題の材料として3点ほどここに載せさせてもらうことにする。これからはY字路を見るたびに横尾を思い出すだろう。彼は最近はY字路を求めて外国に出かけるという。


<東京マラソン> 2月18日午前9時過ぎ西新宿の東京都庁前を降りしきる冷雨の中を3万人のランナーが石原都知事の号砲で出発した。日本では参加人数が空前の規模になったために、全員がスタートラインを越えるのに、6車線一杯に拡がっても20分以上を要した。マラソン・コースは、東京都が名乗りを上げている次々回(その次だったかな?)のオリンピック招致を意識して、在来の千駄ヶ谷の陸上競技場を発着点とするコースではなく、皇居横から東京タワー下、品川折り返しで銀座通り、日本橋横を通り浅草雷門折り返しで東京ビッグサイトに至る東京名所めぐりの新コースが設定された。いずれも片側3車線の目抜き通りを8時から4時半まで完全に車両乗り入れを禁止し、1万名以上の交通整理員が揃いのユニフォームで並んだ様だけでも壮観だった。ゴール近くに佃大橋など三本の橋を渡るための上り下りがあって、疲れのたまったランナーには最後が少し辛いコースのようだ。

 東京ビッグサイトを知らないので調べると、
 東京・有明にある、展示ホールと会議施設をもつ総合コンベンション施設。東京国際展示場。コミックマーケットの現在の会場として有名。秋葉原に次ぐオタクの聖地。
 ■会場アクセス
 鉄道では、最寄駅はゆりかもめ・国際展示場正門駅、および、りんかい線・国際展示場駅。国際展示場正門駅のほうが近い。 その他の手段として、都営バス、水上バス、急行バス・リムジンバスなどがある。都営バスなら東京駅から乗り換え無しにたどりつけるが、混雑時には注意が必要。 ―とある。

 5キロで先頭集団は26人になり、その後どんどん脱落して独走となり優勝したのはケニアのダニエル・ジェンガ(30)の2時間9分45秒。このレースで引退する有森裕子は後続ランナーに足を踏まれて転倒・負傷したが、よく頑張って2時間52分45秒の5位に入った。実況のアナウンサーは気休めもあって、雨は小止みになったと言ったが、実際には昼過ぎまで降りやまず、気温5度の悪条件だったから、好記録が出なくても止むを得ない。一般ランナーで脱落者が1%以下だったらしいのには感服した。この悪条件で7時間以上頑張った人も大勢いたわけだ。最初に着いた人も最後に着いた人も運動量はさして変わらないというのが平等でよい。寧ろ後ろからスタートした人は2キロほど余分に走っているかもしれない。沿道に応援に出た人の数は180万人と報じられた。ホントかねえ?競技中道路を横断する人は地下道を渡った。階段を自転車をかついで上がる人が放映された。非日常的な行動を強いられるが、今日は仕方がないと怒ってはいない。

 多くのランナーは疲労にめげず上機嫌だった。長時間の雑踏にも、濡れそぼった街路にもめげぬ精神はとてもよい。普段通れぬ目抜き通りの車道を、名所伝いに大威張りで走れるというのは予想以上の快感らしい。昼も夜も車の絶えることのないこの大通りに今日は一台も車がない!その道に飛び出すのは都会人の潜在的なフラストレーションをかっとばす爽快感があるかもしれない。これは現代のお祭りである。仮に東京がオリンピックの候補地としての選考から外れても、この市民マラソンは一年に一度、続けてやってもらいたい。今回は不幸に雨だったが、本来夏よりこの季節の方が走りやすい。


<福翁自傳> 福沢諭吉といえば日本人でその名を知らぬ人も少ないだろう。ではあるが、私はこの人が如何なる人生を歩んだか詳しくは承知していなかった。この度“福翁自伝”(岩波文庫)に目を通すに及び、凡そのことが分かった。幕末から明治維新の混迷期にすべての人が騒ぎ惑う中で、独りこの人だけは常に大局を誤らなかった上に、横行したテロの網も用心深く潜り抜け、攘夷の大合唱の幕末に孤独に且つ大胆に希求した文明開化が受け入れられる世の中になるのに先立って、体制に迎合せず官学を排して独力で私学を勃興した。独立不羈を貫き決して人に弱みを見せず、人に後ろ指を指される隙を作らなかった一生はまさに“カッコイイ”人生の典型である。敢えて評すれば憎らしい人だ。しかし日本が先進国入りをする上での有形無形の貢献は第一級であろう。半ば忘れてしまったが、2004年10月に、小林秀雄の随筆の一部として<福沢諭吉>を採り上げている。論点の重複を避けるようにしよう。

 彼の幼時を振り返る時、恵まれた条件というものはあまりなかった。中津藩下級武士の家に生まれた。兄弟5人。父は学者で蔵書も多かったが、多年所望の“明律の上諭条例”6、70冊を手に入れ喜んでいる時に男子が生まれたので諭吉と名付けた。3歳にして父に死別、母に育てられ少年時は内職で家計を助ける。手先が器用でマメだから何でもやった。白石という先生の塾に通って漢学を学び、その後独学で相当に読み進んだ。漢書を読むうちに“喜怒色に顕わさず”という一句を読んで、これは金言だと感心して一生これを守ったというから、常人とは違っていた。人と本気で喧嘩したことは一度もなかったと言う。常に醒めた目で物事を見ていた。父が自分を僧侶にすると言っていたと聞いて父の心事を察し、封建制度の桎梏を憤って、門閥制度を親の敵と心に期す。

 成人後の略歴は次の通り。21歳で兄の勧めで長崎に出て働きながら蘭学を学ぶ。22歳兄の勧めで大阪に戻り緒方洪庵塾に入る。翌年兄病死で家督を継ぐ。24歳緒方塾の塾長になり、生理学・医学・物理学・化学などを学ぶ。25歳藩命で江戸へ出て、長屋を借り蘭学塾(慶応義塾の前身)を開く。26歳横浜に出てオランダ語が実用にならぬことを悟り、英語への転向を決意する。27歳軍艦奉行木村摂津守従僕名義で咸臨丸に乗って渡米。ウエブスター辞典を購入して帰国。28歳結婚。年末遣欧使節に幕府の御雇翻訳方として加わり、ヨーロッパ先進諸国の文物制度を調査の上翌年末帰国。翌年から塾で英語を講義。恩師緒方洪庵死去。31歳幕府外国方翻訳局に出仕。32歳公務の傍ら新聞雑誌の翻訳によって塾生の学費に充てる。33歳節酒、刀剣を売り払う。34歳幕府の軍艦受取委員長に随行して再渡米。多くの原書を購入して帰国。有馬家中屋敷を塾舎として買い受ける。35歳(明治元年)塾名を慶応義塾とし、授業料制度を始める。官軍上野攻めの砲声の中で講義を続行。幕府退身。江戸新政府出仕要請を固辞。36歳出版業の自営に着手。37歳発疹チフスに罹る。依頼により東京市に西洋警察制度の調査書を提出。38歳慶応義塾を三田に移す。39歳三田の地所を政府から払い下げを受ける。“学問のすすめ”出版。45歳東京府会議員。46歳東京学士会初代会長。49歳時事新報を独力創刊。57歳慶応義塾大学部設置。68歳脳溢血のため死去。感心するのは40歳までほとんど毎年括目すべきことを何かやっている。

 生来酒が強かった。書生時代は金がないので我慢していたが、飲める機会があれば大酒を飲んで乱れることなく、常時は呑みたい気持ちをじっと我慢していた。塾長になると新書生入門時に納金があるが、これは皆飲み代になった。酒を飲んでよいことは一つもないと一念発起して禁酒したが、塾生仲間に代りに煙草を勧められ、遂に酒と煙草の両刀遣いに成り果てた、馬鹿だと述懐している。尤も晩年酒は節制している。

 塾ではどこかに貴重な洋書があることを知ると、借りてきて塾生交代で昼夜の別なく書写した。これは人の依頼も受けてやり、書生の生活の資になった。筆は鳥の羽根の軸を削り、インクは墨汁を充てた。すべてオランダ語だった。こうして西洋日進の書を読むことは日本国中でも他ではできないことだという自負があった。 江戸の藩邸から呼ばれて、大阪から江戸へ移りそこで塾を開くことになった。翌年外国人の入っている横浜へ行くと、言葉が皆目通じないし、店の看板も読めない。一昼夜歩き詰めで疲れ切って江戸へ帰ってきて、あれは英語に違いない、せっかく学んだオランダ語は役に立たぬとすっかり落胆した。友人と話すと、村田蔵六など長年刻苦した蘭語を捨てるなど耐えられぬ、いずれ蘭語へ翻訳されるだろうという意見が大勢だったが、原田というのが二人でも始めようと言い、思い切って始めてみると、生涯二度の艱難辛苦と思ったのは大間違いで、辞書さえあれば文法はほぼ同じで、蘭書読む力は英書読みにも通用することが分かった。発音はやや戸惑ったがこれも慣れればさしたることはなかったーと記している。

 洋行については当然だが珍談奇談が多い。第一回目では、馬車というものに実に驚いた、車があって馬が付いていれば乗り物と分かりそうなものだが、一見したばかりでは何だか分からぬ、戸を開けて這入り馬が駆け出して初めてこれは馬の挽く車だと悟る始末―とある。二度目のヨーロッパ行きでは、大名が東海道を旅して宿駅に泊まる要領で、白米を木箱に何百箱と詰め、提灯、手燭、ボンボリ、蝋燭まで一切取り揃えて船に積み込んだのだが、これら一切使い道がなく、遂に接待係の下役に只で貰ってもらったーという。三使節の一人がホテルの便所に行く、家来がボンボリを持ってお供をして、便所のドアを開け放しにして、殿様が奥の方で日本流に用をたすその間、家来は袴着用、殿様のお腰の物を持って、便所の外の廊下に開き直って番をしているその廊下はホテル中の公道で、男女往来織るが如くにして、便所の内外ガスの光明昼よりも明らかなりというからたまらない。私は丁度そこを通り掛って、驚いたのなんの、まず表に立ちふさがって物も言わずに戸を打ち閉めて、それからやおら家来殿に話をした。当人たちも後で思い出すと顔から火が出るだろう。

 ヨーロッパ巡回中に考えたことは、書籍上で調べられることは字引を引いても解る、外国の人に分かりやすいことで、ほとんど字引にも載せないようなことが、此方では一番難しい。そういうことを精力的に尋ねた。が、笑って仲々答えてくれない。彼らには当たり前過ぎてかえって答えにくい。例えば政治で党派が分かれて鎬を削っているという。敵だと言いながら同じテーブルで飯を食っているーこういうのが分かるようになるのには時間がかかった。こういうことを綴り合せて“西洋事情”というものを書いた。ご尤もで、こういうことに気が付いても中々口にできない事だから、福沢は偉い。随分人の助けになったことだろう。冒頭に触れた小林秀雄の評論で“福沢が傑出していたのは日本の思想家が強いられた特殊な意味合いを誰よりもハッキリと看破していた”というのはこの辺の事をいうのだろう。

 日本に帰ってくると、留守中に発生した生麦事件でイギリスの軍艦が来て幕府の責任を問う公文書を寄越し、福沢らはそれを翻訳した。幕府は評議をするばかりで先方の定めた期限が切れた。これは戦争になると世間は大騒ぎになり、福沢も心配して諺に従い戦争に備えて米と味噌を買った。後で考えるとこれほど逃げるのに邪魔なものはないと大笑いになった。紛争の方は小笠原壱岐守という老中がこっそり償金を払って片付けてしまった。

 当時日本中がヒステリー状態になっていた一例として次のような話を載せている。神奈川奉行組頭(次官に相当)脇屋卯三郎という人が親類に手紙を書き、“誠に穏やかならぬ御時節柄で心配のことだ。どうか明君賢相が出てきて何とか始末をつけなければならぬ・・”としたところ、この手紙が探偵から幕府の役人の手に渡り、これは公方様をないがしろにしたものだ、謀反人であるーとして城中で捕縛してしまった。福沢は外務省に出仕中でそれを目撃した。入牢を申し付けられた上タワイもない吟味の末、牢中で切腹を申し付けられた。検視に行った人から気の毒な最期を聞かされ、福沢はショックを受けて自分の取り扱った国家機密に関する外交文書の手許の控えを人手に渡らぬよう早速焼却してしまった、今から考えると実に惜しいことをしたという。

 緒方塾にいる頃は全く考えなかったが、尊王攘夷の声が高くなり、井伊大老襲撃事件の後になると、開国文明論を主張する洋学者は暗殺の脅威に常時おびやかされるようになった。福沢の親友だった手塚律蔵、東条礼蔵は長州人に殺害された。彼は10年以上夜間は決して外出せず、旅をする時も姓名を偽った。事実2度ほど命を狙われ、偶然と幸運故に襲撃を免れたことが後で調べて判った。明治6、7年になってようやく天下の耳目は政府の役人の方に集まり、洋学者は気楽になってきた。そう語っているのだが、彼は維新前の幕府出仕中に断然刀剣所持を止めることにした。これは当時としては大変な決断だった筈である。

 この人は自らを無芸殺風景と評し、書画・骨董・美術品は一切無頓着、住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋任せ、衣服の流行など知ろうとも思わずただ人の着せてくれるものを着ているという。ある時家内の留守に急用ができて外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引き出しをあけて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着ているのを見て、ソレは下着だと言って大いに笑われたことがある。些と念入りの殺風景で、決して褒めた話ではないが、少年時代種々の事情に追われてコンナことに成り行き、生涯これで終わるのでしょうーと言う。

 現今騒がしい教育についても一言ある。子供は身体の育成を第一にして、幼少の時から読書などさせない。獣身をなして後に人心を養う。8歳までは文字など見せず、暴れ次第に暴れさせて、衣食には気をつけてやり、ただ卑劣なことや卑しい言葉は咎めて、その他は自在にしておく。8,9歳になれば初めて教育の門に入れて修業させるが、決して身体をなおざりにしない。年齢不似合いに遠足したとか運動がよくできたら褒めてやるが、本をよく読むと言って褒めたことはない。長男も次男も帝国大学の予備門に入れて修学させたら胃を悪くしたので止めさせ、此方の塾からアメリカの大学に入れた。今の文部省の教育法では東京大学は少年の健康屠殺場と命名すべきだーと。

 最後に2004年にも取り上げたが、西洋文化を日本に導入するためには最も良い方法だったであろうが、万にも達する漢字熟語の創造を避けて通らなかったことは、大変な苦労だったに違いないし、我々後輩はそれによって量りきれないほどの恩恵を受けている。人は死ぬが、仕事は残る。


<暖冬> 2月中旬我が家の庭の紅梅が満開になった。毎年遅咲きの樹としてはやはり早い。今年は関東地方に一度も雪を見ない(気象庁開設以来の記録)で、2月14日春一番が吹き、翌日の今日は紅梅の赤い花びらを含め3種の花弁が雨に濡れた街路に点々と散っていた。2月に入ってずっと昼には暖房を止めている。杉花粉が盛んに飛び散り始めたと報じられた。

 毎年大雪に悩む北陸地方も今年は雪がないという。榛名湖も諏訪湖もこの冬は結氷せず、ワカサギ釣りもできなかった。日本だけでなく、地球規模で暖冬なのだという。レニングラードでは川が凍結せず、さざ波が立っている。地球温暖化がこれまでも騒がれて来たが、愈々これは杞憂ではないようだ。人類による炭酸ガス発生が原因と言われているが、それが関係ありとは思うがこれほど急に来るのは別の要因もありそうだ。

 人類発生以後の地球も過去に随分大きい寒冷・温暖化の波に洗われている。今手元にバックデータがないが、過去の気温変動については人類の気候変動への影響力が現在ほど大きくなかったことは明らかだから、太陽と地球の関係とか火山や隕石衝突などの自然現象が誘因になっているのだろう。その辺りの解明はもっと詳しくなされていて然るべきと思うのだが、私の知る限りまだまだ研究が不十分と思う。温暖化が進めば、地球各地の氷が溶けて海面は上昇するだろうし、逆に寒冷化が進めば、海水面は低下する筈だ。2005年12月の<東京の地理と歴史>を見れば、過去に(温暖化が原因で)海面が現在より上昇した時期があったらしい。また昔モンゴル系の人類がアジアからアリューシャン列島を渡ってアメリカ大陸へ渡ったとされる時期には寒冷化で海水面もずっと下がっていたのではないのか。

 昨年1月の<雪>で私自身が地球温暖化はどこへ行った?などと書いている。もう少しじっくり成り行きを見ないと先行きは見通しにくい。尤も今までこの問題に冷淡だったブッシュ米大統領が排気ガスの影響などを気にし出したのは遅まきながらよいことだ。まだ焼け石に水ぐらいの熱意だが。取り敢えずどこかの海水面すれすれの島に住む人たちは気の毒だが移住を覚悟した方がよい。




























<プレザントヴォレー・ポンプ場> 上に掲げた写真の中央部、斜めに走る道路の下側に隣接して、極めて小さいが長方形の白い建物が見える。これが以下に述べる米国内務省開拓局(B.O.R.)所管のPlesantvalley Pump Stationである。このポンプ場から道路に沿って右上へ直線的に延びる細い青い線は導水路(開渠)で、右上の太い青線のサン・ルイス導水路に接続されていることが判る。サン・ルイス導水路(San Luis Canal)は南カリフォルニアの谷を縦断する長大なもので、サンフランシスコ北東部山岳地帯の雨水をはるかロス・アンジェルス地方に輸送する役割を果たしている。正確に東西南北を同じ間隔で区切り、色の異なる周辺の区域はそれぞれが大規模農場である。右上から左下へ走る道路はフレズノーコーリンガ間凡そ60マイルの距離をつなぐもの(Fresno-Coalinga Road)で、右上側の平野部はすべて直線であるが、左下で丘陵地帯に入ると屈曲する。左下を前記道路と立体交差して左上に向かうのは州間フリーウエイInterstate 5で、この辺りは丘陵地域と平野部の境界地帯を下方Los Angels方面から上方San Francisco方面へ繋いでいる。写真下部でこのフリーウエイの右側にS字状に屈曲した水路が写っているが、これがポンプ場から地下に埋設された送水管を経て揚水された水を流す水路(Coalinga Canal)の上流端である。写真では土地の高低差が判らないが、道路は右上に向かって継続した緩やかな下り勾配になっており、右上の導水路と下方の水路水面(こちらがずっと高い)とでは約180ftの高低差がある。

 右に示すのはポンプ場の拡大写真である。登り勾配の土地に開水路を設けたので、この辺りではかなり掘削深さが大きくなっていて、Fresno-Coalinga Roadからの逆S字状の進入道路はそれに応じた下り勾配になっている。よく考えると、これほど長い導水路を設けずにSan Luis Canalに近くポンプ場を設置した方が建設費は安く済んだと思われる。送水管と導水路では単位長さ当りのコストがかなり違うからだ。ポンプの配列は左側から大型3台、中型3台、小型3台の順に一列に並んでいるから、それに応じてのポンプ場とForebay形状の位置関係は合理的になっている。現場作業員の一人が週末帰省するのにこの水路の縁・土手上の平滑部を利用して自家用機で離陸しようとして、横風を受けて墜落した。幸い怪我で済んだが、とにかく日本のようにせせこましくはない。

 このポンプ場と関連する諸設備は1968〜1973年にかけて前記導水路の水を分水してこの地方の枯渇した水事情を救う目的で建設された。私の勤めていた荏原製作所はこの機場の9台の揚水ポンプと関連機械設備をB.O.R.から三井物産経由で受注した。受注契約に従って荏原は私を1969年4月から12月まで現地据付指導員(erection superviser)として派遣した。大型立て軸ポンプの据付は土木建築工事と平行して下部吸い込み流路、ケーシングの順に下から9台平行してコンクリートに埋設しながら実施されるので、据付工事はポンプが先になり、三井と別契約の電動機に関して東芝から私より3ヶ月後に据付指導員が到着した。日本と相違して残業なしで作業は定時打ち切りになる(組合がうるさいから)ために、工事には日時がかかり竣工までに1年半を要したので、当初からの約定によって後半は故人になるが佐藤主計氏に引き継いで頂いた。私は現場から約15マイル離れたコーリンガの町に1戸建てのアパートを借りて現地に車で通った。B.O.R.現場事務所はSan Luis Canalを渡った直後の右側にあり、ここと現場を往復した。現在も事務所は残っているようだ。写真で見ると近いようだがこの間だけでも約2.7kmある。

 参考に関連施設の主要諸元を掲げておく。
○ San Luis Canal 工事期間1963~1968:距離101.3mile:流水量13100cfs:底面幅110ft:水深32.8ft
○ Coalinga Canal 工事期間1968~1973:距離11.6mile:流水量1100cfs:底面幅12ft:水深11.3ft
○ Intake Channel 工事期間1968~1969:距離1.6mile:流水量1140cfs:底面幅12ft:水深11.8ft
○ Pleasant Valley Pump Station 揚程180ft:総揚水量1135cft/s:原動機出力7000,3500,1250HP各3台:取水地点San Luis Canalの起点から74mile

 この地方はシェラネヴァダ山脈と海岸沿いの低い山脈にはさまれた南北に長い谷(San Joaquin Valleyと呼ばれる)で、海からの風が海岸沿いの山々に遮られるために年間降雨量が7インチと少なく、在来はこのポンプ場周辺も含めてろくに草も生えない半砂漠だった。私の居た時も秋が深まるとボール状に成長した植物が枯れて根本から切れ、遮るもののない平原をどこまでも転がっていく侘しい風景が印象的だった。この植物の名はころころ転がるので、tungle weedと言うのだと教わった。シェラネヴァダ山脈から流れ下る川があるので行って見ると、川の両岸には樹木が生えているが川の水は淀んで動かず、腐敗している。流れ下る先がないのだ。雪解け時には一時的に周辺に溢れるのだという。CoalingaからFresnoに向かう自動車道路の周辺は荒野に近く、殺風景だった。何も障害物も途中で立ち寄る先もないところに道路を布設するのだから一直線になるのは当然である。

 私は工事に参加した後、一度も現地を訪れる機会がなかったが、約40年前にポンプ場が完成し、灌漑が行き届いて、あたり一面が整然たる農地に生まれ変わったのを空撮の写真で見ると、感慨が深かった。行ってみればあちこちに樹木も生長しているだろう。まさに隔世の感である。併せてこれを一目で判らせるGoogle Earthの威力に敬服している。

 この地域は以前に一度探索したのだが、広大な丘陵区域から探し出すのに困難を感じて一度は断念していた。この頃は地名探索とGoogle MapとGoogle Earthとの連結が可能になったことを知り、改めて初志貫徹に成功した。また長大な水路を辿ってSan Luis Canalの終端にあるEdmonston (Tehachapi)Pump Stationに到達した。峻険に聳え立つ高山の麓である。ここには2000ft のTehachapiの山々を越えてパイプで圧送するカリフォルニア最大のポンプ(単機で35000HP)が設けられており、見学したこともあるので懐かしかった。このような大出力のポンプが十台以上並んで設置されているのは壮観である。山を越えた先では、ここで消費した電力の一部を回収する水力発電所が設置されたことや、断層の破砕帯を通過する地点のパイプラインは地上に露出させるだけでなく、その支持方法を弾力的にして新たな断層の発生に備える工夫をした当時のニュースを思い出した。当時の私はかかる大規模な水搬送事業を支える技術に畏敬の念を抱いていた。現在はカリフォルニア水資源省の所管である。

 Coalinga市もポンプ場のお蔭で水質のよい水をふんだんに使えるようになった筈(昔は飲料用以外は鉱物質を含んだ水を使っていた)だが、1983年巨大地震に襲われて、甚大な被害を受けたと聞いた。画像で見る限りもう復旧しているようだが、一部の道路が昔と変わっていた。周辺のCanalやポンプ場には幸いにも大きい被害はなかったらしい。南カリフォルニアは前記の如くSan Andreas断層があって屡大地震が起きる。文通を続けるような知人を当時作らなかったので、それ以上は知らない。

 余談として、San Joaquin Valleyにおける“J”は“h”と発音する。こういう地名はメキシコ人が付けたもので、米国が嘗てメキシコを侵略した名残りである。Californiaにはそういう地名があちこちに残っている。それとこの項にしばしば出てくる米国式尺貫法単位は換算が面倒だからそのままにしているのだが、元来頑固にメトリック・システムを採用しない米国人が悪いのである。米国人にグローバリゼーションなどと説かれたくない。農地区画の正方形の一辺の長さは多分割り切れる数値の筈だが、ft,yd,mileと考えている内に面倒で諦めてしまった。


<ズニ族> 米国ニューメキシコ州西端、アリゾナ州との境界近くの渓谷に居住する原住民アーシュウイン人(ズニ族)に関する資料を調査していた米国の女性人類学者ナンシー・デーヴィスは1960年ズニ族の宗教体系に属する宇宙観を示す図表が古代中国道教の陰陽体系を説明する図表と方位・色・性質・要素が驚くほど似ていることに気が付いた。翌日ズニ族の宗教に関する文献を調べると、いくつも日本語に似た単語を発見した。ズニ族と直接会って見ると、彼等自身が自分達の民族がニューメキシコやアリゾナに住む他の19のプエブロ族を含む先住民と違っていること、及びそれら先住民にはズニの言語と似た言語を用いる部族が他にないことをよく知っていた。また彼等の宗教が彼等の社会を団結させていること、また先祖を大いに尊敬していることも強く意識していた。

 ズニ保護地区は高速道路ルート53に沿う638平方マイルに及び、米国先住民としてあらゆる現代的条件を備えている。1994年現在のズニ族の人口は9448人であり、近隣の20のプエブロの村の中で最大である。1910年の人口1640人という記録に比するとすさまじい人口増加があったことが判る。ズニの人々は顔立ちがよく、健康そうな浅黒い皮膚で、髪は直毛である。一般に背は低く平均身長は5フィート4インチである。ズニ族は全世代にわたりズニ語を話すほか英語も流暢に話す。ズニ族の中には腎臓疾患(糸球体腎炎)が見られるが、この病気は日本人にも多いようである。形質的に他の先住民と差異が大きいが、日本人との類似は以前にズニ族と日本人との混血があればその説明になる。海外を広く旅行した人がズニ族を訪れると、他の先住民や白人との混血の度合いは低く、京都人かチベット人との類似を感じると言う。

 この地域には紀元前10000年頃からまばらに古インデイアンが住んでいて、その一部がズニ地方に居住するようになるが、紀元1250年から1400年までの間にズニ地域の居住形態に大きい変化が生じ、共同住宅に固まって住むようになった。それは灌漑による農耕技術の発展に関連している。周辺では多くの村落が廃墟になっているのに、この地域の人口は逆に増えている。ナンシー・デーヴィスは13世紀の末頃日本人たちが到来し、新しい言語・文化・宗教・遺伝子をもたらしたのではないかと考えた。考古学の研究によると、ズニ族が現在の居住地に落ち着いたのは西暦1350年頃である。伝承によれば、到着したのはいくつもの集団で、そのひとつは“日の沈む世界の海”から宇宙の中心に向けてやってきたのだという。彼等は地震や戦争のない土地を探し求めて東方に向かい、遂にイテイワンナ(宇宙の中心)に辿り着いたとされる(地図の赤い部分が現在のズニ族の居住区域)。

 先史時代にアジア大陸から当時はまだ陸地続きだったベーリング海峡を渡って人類がアメリカ大陸に渡ってきたのが米大陸の先住民となったと広く信じられている。今でもその説に固執する人類学者は多い。しかしナンシー・デーヴィス博士はそれよりずっと後の時代に日本人が太平洋を船で渡ったと考えている。上陸地点は南カリフォルニアである可能性が高い。黒潮は日本列島の東側を北上し北太平洋を東に向かい、やがて米国沿岸を南下する。その影響力を考える時、博士は少なくとも50〜100人規模の移民だったと推測している。太平洋をめぐる民族渡海の歴史を調べると、木造船であってもそれは決して不可能なことではない。

 また彼女はズニ人と日本人の歯の形状を研究し、他のアメリカ先住民との比較においてその顕著な類似性を指摘している。また発掘された頭蓋形状の調査から1400年以降の骨格に観察される変化(幅が広く小さな頭蓋と低い身長)は日本人移住者の影響によるものと確信していると述べている。また血液型に関してB型は他の先住インデイアンには皆無に近いのに比し、日本人は20%、ズニ族は10%を越えるパーセンテージを示している。やや専門的になるが、赤血球酸性ホスファターゼ対立遺伝子の発生率は日本人、ズニ族でほとんど相違がない(写真はズニ族の姉弟)。

 ズニ語は米大陸南西部の諸言語の一つではあるが、米大陸のみならず世界のいかなる言語にも帰属しないとされる。ニューマンはカリフォルニア・ペヌート語との弱い関連を唱えたが、これも日本語との比較分析からは遥かに遠く、大陸の孤児と見なされている。一方で日本語は数多い他の言語と比較する試みがこれまで多くなされたが、1990年に神戸大学の柴田方良教授は“日本語は他の言語もしくは語族への系統帰属が結論的に証明されていない唯一の世界主要言語である”と述べるに至っている。もちろんズニ語と日本語にはかなりの相違があるが、次のような幾つかの基本的な類似性がある。
 @ 両者とも単語を構成する極少数の音素があり、そのほとんどが同一である。両言語とも五つの基本母音a,e,i,o,uをもつ。
 A 日本語は16の子音を使用する。ズニ語も16ケ用いているが、その内12ケは日本語と同じである。
 B 両者にはいくつかの共有する構造要素をまつ。子音連結を避け子音と母音を組み合わせて単語を構成する、接頭辞はほとんど用いず、接中辞は全く用いず、接尾辞は多用する、主語―目的語―動詞という語順と主語を表示しないままでおく傾向など。
 C いくつかの単語は偶然以上の類似性がある。(日本語:ズニ語)まんなか:wanaka、あめ:ami、にわか:newekwe、西:kalishi, 仏:Bitsu。

 宗教における日本人とズニ族の類似性も指摘されている。神道とズニの宗教はアニミズムと祖先崇拝に基いている。両者とも名前をもつ多数の神々が住む霊的世界を持っていて、多神教・祖先への日々の供物献納・定期的な豊穣と収穫の儀式・儀礼的洗浄・多数の社への崇敬・入念な新年の儀式などを共有する。両者とも臍を身体の中心点として重視する。陰陽、方位、季節、色などに関する感覚が共通している。16弁の菊は日本で皇室を象徴する尊いものだが、ズニでも16弁の菊花模様は聖なるものとされる。日本のナマハゲ(今は秋田県だけになってしまった)と同様に親の言うことを聞かぬ子供を脅すアトシュレという仮面の鬼の儀式がある。これなどは共通起源を思わせるほどの類似性があるという。

 現在1億人を越える日本人と1万人に達しないズニ族との人口の差は大きいが、将来両者の間で交流する機会が増えれば、直接遺伝的な関係のないナンシー・デーヴィスが見出した以上の新たな事実や先祖の歴史、また日本人特質や能力に関する新たな知見も明らかになるかもしれない。本項の主要な記事は“ズニ族の謎”(ナンシー・デーヴィス、ちくま学芸文庫)によった。


<ポンプ作用> 2月7日のテレビ番組“ためして合点”では脚のむくみ根本改善術を指南してくれた。私は年齢のせいか血液の粘度が増し、手足の血行が悪くなり、冬季には手の指には霜焼けの一種である皮膚のほころび・出血などが起きる。足指の霜焼け防止・保温のために、常時靴下2枚を重ねて履いている。下肢は血行不良によるむくみが生じてふくらはぎが腫脹している。散歩の後は終日膝から下に痛みがある。また歩行中に突然右ひざの下あたりに急に痛みが走り、挫屈現象が生じて転倒してしまうことがあった。すべて静脈血が滞留するためだという事は承知していたが、適当な対策を知らずにやむを得ず放置してきた。

 番組の指導は椅子に腰掛けた姿勢で脚を前方に投げ出し、爪先を上にもちあげる足首の屈曲運動をゆっくり繰り返すという簡単な運動であった。この足首運動による筋肉ポンプがふくらはぎに滞留した血液を押し上げるという説明があった。試してみると、足首を動かした途端に鈍痛の続いていたふくらはぎに反応があって、効果があることを直感した。屈曲運動の度に圧迫痛が快い解放痛に変わる。こんな簡単なことをどうして自分で気が付かなかったのか。生来横着な故らしい。

 静脈血の滞留は痛いだけでなく、昂じると血栓に発達して心筋梗塞や脳梗塞を招く恐れがあると小野アナウンサーは脅かす。この人の解説は毎度歯切れがよいが、その度に善玉・悪玉の変な人形が飛び出すので、物事の軽重がよく判らなくなって苦手である。とにかく折角教えてもらったのだから、この足首運動を無意識な習慣になるようにして健康保持に努めよう。尤も私の場合神経障害のために左足首は動かせないが、幸い血行障害が右脚に偏っているので丁度よい。


<永井荷風> “断腸亭日乗”上下巻(岩波文庫)に目を通した。日乗というのは日記である。この人は38歳から79歳まで日記を書き続けた。2004年4月に<死に方について>と題して彼のことを取り上げたが、予備知識が少なくてやや正確さを欠く記述になった。大正6年から昭和32年まで間断はあってもよく丹念につけた日記を読めば、この作家の心情は表裏にわたって読み取ることができる。合わせて戦前・戦中・戦後の世情も詳しく知ることができる貴重な記録である。“断腸亭”というのは永井荷風自身のことで、これを知った途端には大袈裟なと思ったが、日記を読み進む内にこの人は極めて屡々腹痛、悪寒、頭痛などに襲われ、数日寝込むなどを繰り返しており、治ってみれば原因もハッキリしないといったことで、年齢に関わらない虚弱体質だったようだ。かかりつけの大先生も手を焼いている。

 色々な感想があるが、先ずは寒さ暑さが身体にこたえる荷風の気の毒さである。明らかに現代より昔の方が冬の寒さは厳しかった。家庭にも冷暖房完備の現代は申し訳なくなってしまう。寒さで腹痛になっても、湯たんぽを抱え込んで布団にくるまって寝るしかない。明け方には冷えてしまっただろう。尤も日本人祖先は永らくそうやって暑さ寒さを我慢し、よい季節が来るのを待ち望んでは年を送ってきたのだ。それだけに季節ごとの草花の移り変わり、訪れる鳥や虫の声への気配りは流石だ。病身で気が弱くなり、もう先は短いと何度も遺書を書いたりしている。長らへてわれもこの世を冬の蠅

 森鴎外に師事(正式にではないらしい)したらしくその子たちとも親しくしており、墓参りにも度々訪れているが、文壇に親しくした知己は少なく、菊池寛・山本有三など大嫌いな人は多くその旨日記に登場する。彼の人生は狂歌や随筆を多く残した江戸中期の粋人蜀山人の心境に似たものだったらしい。次のような蜀山人の一文を挙げ、−人生に三楽あり、一には読書、ニには好色、三には飲酒、この他は落々として都てこれなきところーといひしもことわりなりと。彼は生涯妻帯せず、時々によって異なる何人かのなじみの女がいる人生だったので、実弟威三郎はそういう荷風を毛嫌いして自宅に近づけようとせず、ために荷風は弟と同居していた実母の葬式にも出られなかった。行くところなき身の春や墓参り

 昭和11年1月30日の日記に次のような記述がある。−つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列記すべしーとあって、番号と氏名、並びに簡単な経緯が記してある。六番までは順になっているが、その後は八、七、十三、十二、十一、十五、十六となっていて、―この他臨時のもの挙ぐるに遑あらずーとあり、{欄外墨書}とあって九、十、十四と来る。多分後で番号を振ったのだろう。手切れ金を取らずに去った万事だらしない女が一人だけいたとも書いてある。引き汐や夜寒の河岸の月あかり

 明治12年生まれの文人の日記には当節馴染のない文字も多い。“陰”とは曇りである。寒気凛冽、寒月皎々、秋霏々、晩風粛条、凍雲暗澹、雨須臾にして霽る、狂風雪を捲いて咫尺を弁ぜずーなど天候叙景に関するものが多い。数多く拾ってもこの頃のHTML言語は旧漢字をまだ多くは受け付けないから、この位でやめておく。だが新聞記事にケチをつけて、“株連蔓引”という熟語があるのに何故“芋蔓式に”などという田舎言葉を使うのかなどと怒っている。私など字を知らぬ故に、願い出ても弟子にしてもらえそうにない。流石によく本を読んでいる。著作より読書に充てる時間の方が断然多い。

 自分の似顔絵をペン画で昭和7年2月21日の日記に描いている。“深更鏡中憔悴ノ形影ヲ写ス、仔細ニ見ルニ左右ノ鬢ニ白髪四五本生ズ”と注釈が付いているが、上手に描けている。鼻梁と顎が長いので、縦に細長い顔だが、何となく女に好かれそうでもある。この日医者に診てもらうが、“身体衰弱し、活力殆ど消磨したる状態なり。別に病症なければ、栄養物を食ふより外施すべき道なし”と言われてしまっている。奥さんがいなかったために常時栄養不良だったのかもしれない。これから25年も生きるのである。

 病気でなければ雑誌社からの原稿依頼が煩わしいこともあり、麻布の住居から毎日のように銀座、浅草、玉の井、隅田川界隈に足を伸ばす。浅草通いは戦後も死ぬ直前まで続いた。いつもあちこち市電に乗って出歩くから東京中の新たな出来事は皆知っているという風である。食事の場所が丹念に記してある。銀座オリンピック、不二アイス、風月堂、銀座大牙(タイガ)がよく出てくる。何を食したかは一切書いてないから食道楽ではない。
 ぼく東綺譚の一節に 宿かる夢も結ぶにひまなき晩秋のたそがれ迫る庭の隅

 この日記には世の大事件は卒なく記されている。大正10年11月5日(原首相東京駅にて刺客に害さる)*、大正12年9月1日の関東大震災(愛宕山に登り市中の火を観望す)、昭和7年の5.15事件(陸海軍士官、首相官邸に乱入して犬養を射殺、如何なるわけあるにや)、昭和11年の2.26事件(軍人、警視庁・新聞社を襲撃し、岡田・斉藤殺さる、堀端は見物人堵をなす)、昭和16年12月8日(日米開戦の号外出づ)、昭和20年3月9日の東京大空襲(翌暁四時わが偏奇館消亡す、黒烟渦巻き家屋の焼け倒るるを見定ること能はず)、昭和20年8月15日(今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ)。 *注 本件はー余政治に興味なきを以って一大臣の死は牛馬の死を見るに異ならず、何らの感動をも催さず。人を殺すものは悪人なり。殺さるるものは不用意なりーと片付けていて、荷風の面目躍如である。

 日記は“自伝”として自分(本名は壮吉)の生い立ち(明治12年12月3日)と父君(先孝と呼ぶ)の紹介をしている。父君は大学書記官から文部大臣秘書官、文部省会計課長を経て日本郵船会社に入り上海に勤める。本人は父に従いて中国語を学び、小説を作り始めるに及び、学業を放棄する。日本郵船横浜支店長になった父君は息子の将来を心配して実用の学を修めるべく遊学を勧めるというところで終わっている。次いで日記には“西遊日誌抄”と題して明治36年9月17日(壮行会)から明治41年5月30日(ロンドン発)までの米国滞在ならびにフランス滞在の記録を残している。父君は彼を財界人たらしむべく米国での銀行勤務を斡旋するが、文学を志す彼は離反する。一時公使館小使を勤める。父君は明治40年7月彼の念願のフランス行きを許し当地での銀行勤めを斡旋するが、彼は欠勤して劇場通いを続けて解雇され、遂に父君は帰国命令を発する。

 戦時体制は日記を読み進めると昭和8年頃から盛んになり、昭和14年にはもう頂点近くに達している。精白米は禁じられ、炭も品切れになっていて、―銀座食堂にて半搗米の飯を出したり。皆黙々としてこれを食ひ些かも不平不満の色をなさず。国民の従順にして無気力なることむしろ驚くべし。畢竟二月二十六日の軍人暴動の効果なるべしーとある。「ぜいたくは敵だ!」と当時ラジオが叫んでいたのを私も憶えている。またー男女身だしなみの悪くなりしこと著しく目立つようになりぬ。東京従来の美風、小ぎれい、小ざっぱりしたる都会の風俗は紀元二千六百年に至りて全く消え失せたりーと。また、東京の繁華は昭和八、九年をもって終局を告げたりと見るべしーと慨嘆している。

 昭和16年初頭に至り、荷風は戦争に対する自分の意見を隠さぬようになった。−日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満州侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄かに名目を変じて聖戦と称する無意味な語を用ひ出したり。・・・−とある。6月20日、−余はかくの如く傲慢無礼なる民族が武力を以って隣国に寇することを痛嘆して措かざるなり。米国よ、速に起ってこの狂暴なる民族に改悛の機会を与へしめよー 十月十八日 日米開戦の噂益盛なり と記している。

 戦後は熱情をもって書く文がめっきり減り、1日1行強の淡白な記載が続く。相変わらず浅草通いが多い。その中で、昭和27年11月3日文化勲章受賞式出席の記事は目立つ。−玉座の右側窓寄りに吉田首相、左側に岡野文相が立ち、吉田首相箱入りの勲章及び辞令を手渡しせらる。食事の後受賞者のスピーチがあり、熊谷博士は結核と治薬、朝永博士は原子物理学と高価な実験装置、辻博士は親鸞聖人実在せずの妄説、安井氏はロートレックと版画の話で、それぞれ面白かったので、自分はまとまった話をしないで済み、訥弁の重荷を下ろしたーと述懐している。司会者は浅草の踊り子の話などされたら困るので、敬遠したのではないだろうか。


<フリーセル> このところ、フリーセルというゲームにはまっている。よく知られたゲームだが、念のためにその説明をWikipediaから借用すれば以下の如くである。 フリーセル KDE.フリーセル(FreeCell)は、一人用のトランプゲームである。バラバラに並んだカードをフリーセルと呼ばれる4つのスペースをうまく活用して、全てのカードをホームセルと呼ばれる場所に片付けるのが目的である。

 ルール
 まずジョーカーを除く52枚のカードをよく切り、左から順に数字が見えるようにして8列に並べる。左から4列は7枚、残りは6枚となる。これとは別にフリーセル、ホームセル用の8つのスペースを用意する。 プレイヤーは以下の法則に従って、一度につき一枚だけカードを移動することができる。 列の先頭にあるカードは移動できる。他の列の先頭にあるカードと色が違っていて、番号が置こうとする列における先頭のカードの数字より1つ小さい場合、そのカードを列の先頭につなげることができる。カードが無くなった列は自由にカードを置くことができる。

 8つの内、4つのスペースはフリーセルと呼ばれ、カードを4枚まで自由に置いたり、列に置けるなら取り出すことができる。 もう4つのスペースはホームセルと呼ばれ、同じスートのカードをAから始まって数字の小さい順に重ねることができる。ホームセルに置いたカードは取り出すことができない。 52枚全てのカードをホームセルに重ねられれば勝ち、カードがどれも動かせなくなった状態やカードが動かせても他の列と行き来するしかできなくなった状態は負けとなる。

 Windows版
 Windows版フリーセルの初期状態は、ある擬似乱数発生器に初期値を与えることによって決定されている。この初期値がゲーム番号である。ゲーム番号には#1〜#32000(Windows XP版では#1〜#1000000)が存在する。ゲーム番号はランダムで選択されるが、ユーザー側が任意で番号を選ぶこともできる。

 というわけで、一人遊びのゲームなのだが、与えられた局面(状況というべきか)でどこから手をつけてどういう風に有望な姿にもっていくか、かなりの読みが必要になる。とても終局まで読み切るのは無理なので、一区切りつくまで読む。この点は囲碁・将棋に似ている。囲碁・将棋と違うのは、相手がこちらの読みにない手を打ってくる恐れはないことである。それと勝負が付くまでに要する時間が短くて、1局5分から15分でかたがつく。以前はインターネットで囲碁対局ができる場があって、そこで対局していたが、知らぬ人と打つと思惑の違いから不愉快なこともあり、億劫になってやめてしまった。それに比してこちらはいつでも好きな時に勝手に始められるし、読みによる脳への刺激も老化防止に役立つだろうという思惑もあり(正直に言えば本来勝負事が好きなのだ)、また勝率がよい(成績は後述―負けるより勝つ方が気分がよいのは当然)一方でいつ負けるか判らんというスリルもあって、このところ1日に10局以上試みるようになってしまった。

 パソコン上で楽しめるトランプ類のゲームはいくつもあるが、最初の設定(配牌)で大勢が決まり工夫の余地が少ないものが多く、このように勝負が実力によって大いに左右されるものは少ない。邪魔なカードを一時的に預けておく預け棚(フリーセル)の数がルール上4となっているのが絶妙であって、これが3でも5でもこのゲームは甚だ興を殺ぐものになる。これと使われる列の数が8であることも重要な関係がある。なおWindows XP版に登録されている 1,000,000件の内10件は解がないことが明らかになっている。

 1月30日現在の成績は、勝ち数375、負け数18、連勝数61、連敗数1、現在23連勝中、勝率95%というもので、連敗はしていない。暫く前から平均して20局に一回の割合で負けていて、勝率は95%を1%前後するようになっている。ゲームの回数を重ねる内に勝つ要領が判って来た。ホームセルにカードを重ねていくのが最終目的だが、途中では暫くホームセルのカード数が稼げなくても、8列の中の連結したカード群の数と連結数を増やすように努めることが後の作戦を助けることと、一時的に極端に長いカード列ができたり、一時的にホームセルのカード数がスートによって極端な差異が生じても憚る必要はないことも経験上判ってきた。また列の上部に本来どうしても整理したいカード(1など)があるのだが、フリ−セルのスペースの関係などから強行すると破綻することが判った場合、逆にその列の下方にカードを積み増す手があれば、当面の解決からは遠ざかる事を百も承知の上で流れに逆らわず思い切って積み増していく。多くの場合こうした後でいずれ一旦積み増したカード列をよそへずらす機会が生じて、宿願の列の上部をめでたく整理できる機会が訪れる。急がば回れである。

 フリーセルのカードが捌けず、どうにも動きが取れないと見通しを失って、投了やむを得ぬかと思いながら動かせるカードを動かしている内に、突然隘路が開けることが平均2回に1回あって、そのお蔭で勝率が90%から95%に上がっているように感じる。どうでもよいことだが、こういう時は読み勝ちではないので本来は情けないのだが、勝ちを拾った故に大変嬉しい。とにかくこのゲームは多くの場合一目では手を付ける筋が見えないが、苦考の末カードがうまく捌け出した時の快感はゲームを終了した時にも残っていて、再度困難に挑みたくなる誘惑をもっている。


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