―囲碁―


 第1章

 1999年5月

<故人追憶> 先月村上文祥氏が逝去された。2年先輩であり営業と技術に分れて仕事の上での付き合いはほとんどなかったが、囲碁の師になってくれ、いつも気安く好意的に接してくれて私が会社の中で最も大きい影響を受けた人である。このほど「棋道」に2ページの特集記事が組まれ元気なころ(アマ十傑戦最後の優勝―15年前)の写真で往時を想い出した。囲碁というゲームを社会人としての企業人生にも巧みに応用した人と思う。彼が折々考えたことを文書にできていたら随分人の参考になる語録になったと思う。
 独身寮時代から碁は逆立ちしても敵わなかったが、将棋は一度だけ平手で負かしたことがある。尤もその後で紫の袱紗から取り出した将棋駒(逸品らしい)で容赦なく打ちのめされたが。負けず嫌いのくせに人に憎まれない人だった。人徳というべきか。研究心が強く井目置かせる碁を進んで打つのに感心したものだ。社内の事務屋さんにして技術分野への理解が最も深かった。歳を取るとほどほどに逃げるのが普通だが人並み以上の好奇心を隠さなかったことに私は率直な好意を持った。お互い暇になったのでこれから改めて碁を教えてもらおうと思っていた矢先で残念だ。肝臓は酒席の多いウチの営業幹部の宿痾である。

 1999年6月

<テレビ囲碁> 北京で行われた日本・中国・韓国三国の7棋士によるトーナメントが土日にかけて連続放映された。持ち時間各10分、後は30秒の秒読みという短時間の勝負である。国を代表して打つのに気負いのないはずはないが、皆表面は実に静かに落ち付いて対局する。流石に勝負どころでは秒読みの声につれて着手する石音が高くなる。見習うべきは中盤無暗に領域を広げようとせず自分の石の活形を確実にし、あるいは石を捨てても外勢を張り、間合いを計る冷静さだ。4局で6時間、観戦するだけで力が入った。特に武宮、依田の日本人棋士の碁が共に外勢をたくみに活用する息を呑む迫力には酔わされた。
 韓国で実力一と言われ、一旦勝勢になったらまず勝ちを逃さないことで定評のある李 昌鎬が相手のミスで予期以上の収穫を得て勝勢に立った直後に相手の地にヤキモチを焼いて深く踏み込み、相手の反撃で持ちこみになりかけて解説者に逆転だと叫ばせた。ところがそこで時間のない相手が平和時には絶対に手を抜けない地点に時間稼ぎに一手打った時、李が一旦手を抜いて争点にズカズカ踏み込み先手で決められるだけ決めた上で元の地点に手を戻して相手の勝機は去った。結果は幸いしたがこのようなな名手でも第3者から見れば魔がさすように余計なことをする衝動を抑えられないのは矢張り人間だなと興味深く思われた。考えてみれば時間のない中で一局一人150手近くを正確に打つなど至難の業ではある。そこには一手打つのに何時間もかけたりする二日制の碁では表面化しにくい不完全な美がある。決勝は依田紀基が一度だけアッと叫んでヒヤリとさせたが李 昌鎬をうまく抑えこんだ。

 2000年2月

<秒読み> 棋聖戦第4局がテレビで中継されている。棋聖趙治勲と挑戦者王立誠だ。二日制の碁で二日目の夕方、碁は中盤たけなわだが趙治勲は持ち時間9時間をほぼ使い切って秒読みに入った。一方の王立誠はまだ3時間ほどをあましている。毎回見られるパターンである。趙治勲の場合凝り性で序盤に惜しげもなく時間を使い、自分の構想を確立して優位を築こうとする。やがて趙治勲は残り時間を使いきって残り1分になった。普通の人だとこうなったら盤面の形勢が互角なら大いに不利と断じられるところだが、趙治勲の場合はこうなってからが無類に強く、挑戦を受ける大事な碁をこの形で何十局と制してきたのだ。
 解説者によれば形勢は趙治勲にやや厚いというところで王立誠は凌ぎに見通しがハッキリしないような一杯の打ちまわしを試みた。趙治勲は身を沈めて必殺の一撃を狙った。解説者は全体の形勢は未だしだが何とか危うい石を凌ぎ切るギリギリの手順を示した。ところが王立誠の着手は解説者の示す手順をふまず、間髪を入れず趙治勲はそれを咎めた。王立誠の石は大きくちぎられ無残な形になった。しかし結果的にはそれが誘いの隙だった。
 数手進んだときにそれまで盤面の中央で独立した眼形が三つあって厚いことこの上なかった趙治勲の石が欠け目になっていた。そこでの容赦ない秒読みに追われ7,8,9で打ち下ろした石は辺との連絡に不備があり、王立誠は即座にそこを突いて切断に成功し中央の大石を捕獲した。早い進行に解説者も説明がおろそかになる状況でまさに肉を斬らせて骨を斬るドラマだった。時間がないとメロメロになってしまう私は平然と秒読みをこなす趙治勲が羨ましいが少しばかり憎らしく思っていたが、これで彼も人の子と少々溜飲を下げた。後にふりかえってみると、異才趙治勲はこれを機にタイトルから遠ざかっていった。転機だったのである。

 2000年7月

<本因坊戦> 台湾出身の挑戦者王銘えん(王偏に宛)九段が韓国出身の若き趙善津本因坊を七番勝負4対2で破りタイトルを奪取した。他の棋戦のように衛星テレビで報道しないので、最終戦は適当なタイミングでインターネットへ入り込んでは戦況を観察していた。趙本因坊は以前の対局でもそうだったが序盤から大きな実利を確保し、中盤には私が王九段の立場ならどこから手を付けるか絶望的になる局面を作り上げた。ところがそのあたりからの黒番王九段の打ちまわしが絶妙で、増えるのは黒地ばかりみたいな応接が続くことになる。よく見ると白は序盤に築いた領域を確保するために積極的な打ち回しを控えざるを得ない立場に追い込まれているようなのだ。局後の王九段の感想は「並大抵の苦しさではなかった」というものだが、それは私の見るところむしろ逆転(見かけ上は)され疲労困憊した趙本因坊の言いたい台詞だったろう。囲碁のような勝負が娯楽というのは無責任な観察者だけで、当事者にとっては局面のあらゆる事象に油断なく備えながら次々と打開策を案ずる気苦労の連続である。本局はどうだったか知らないが、王九段は対局中激しくぼやき、自らにビンタをくれ、自分の服でも何でも噛み付くと言われる。このところ私は囲碁ネットで相手構わず積極的に挑戦する気力が少々衰えた。エネルギの蓄積が必要だ。

 2003年2月

<ホープ登場> 棋聖タイトル戦に山下敬吾七段が登場した。現棋聖は王立誠で十段位も確保しているダブル・タイトルホールダーで、変幻自在な棋風でつかみ所のない碁  といわれる。不思議なことにこのような目覚しい実力者王立誠が山下敬吾に対する従来の成績は1勝6敗と断然負け越している。 山下敬吾挑戦者は北海道出身、高校数学教師の息子で父の手ほどきを受け小学2年に小学名人戦優勝、菊池康郎氏の主宰する緑星学園に入学、以後囲碁一筋に研修に努める。緑星学園では対局をする子供たちに正座をするように指導していて、山下氏も当然そこで鍛えられているからタイトル戦の厳しい対局で夕方になっても決して正座を崩すようなことはしない。
 棋聖戦は今までのところ2勝1敗で山下リードだが、第1局は特に印象が強かった。山下は白番で厚く打ちまわし、王は機敏にアチコチ侵略してくるが、黒は死活のはっきりしない石が2群あってとにかく薄い。その内山下はどちらかを御用にするのだろうと見ていると夕方テレビ中継の終わる直前には両方とも活かしてしまった。解説の林海峰九段はこれでは望みがないというご託宣だったので残念と諦めたが、後でインターネット・読売新聞に入ってみたらなんと山下が圧勝している!棋譜を辿ってみると実は一度も王が優勢になった場面はなく、厚く厚く打っている山下は終盤ジワジワと優勢を拡大して遂に盤面でも白がリードしてしまったのだ。

 第2局では黒番山下が封じ手の手番になり、専門家たちの予想ではずっと手を抜いていた左辺黒模様の不備に手を入れる筈というものだったが、着手は右辺から中央に配した一群の石をガッチリ補強するものだった。果たして王が左辺に手を付け、そこでも妥協する手段があったのを黒が最強に応じたため、外壁は残したものの黒模様変じて白地になってしまった。解説の専門家の批評では負ければこの封じ手が敗着になるだろうというものだったが、山下は厚く打った封じ手の石を足場にして右辺の白石を攻め、決してその白石を取りはしないもののジワジワといつの間にか全局的な優勢を築いてしまった。
 私も随分専門家の碁も見ているが、大抵は決めるべき機会に決めないと形勢を失してしまう。強い碁打ちは皆言い合わせたように機敏に走り回る。彼のように行くべきと思う時に慎重にジックリ打ち進めていて、悠長なようでなおかつ最後にはチャンと元を取る腰の重い打ち方には舌を巻いた。碁の深遠さに改めて感じ入る。実は本日第3局の実況放映があり、白番だが期待していたのだが今日ばかりは悠長に打ち過ぎて、王に先手で生きられてしまい万事休した。今回は調子に乗り過ぎて安易に流れたようだが、今後に期待したい。
 最近台湾、韓国、中国出身の若手が母国だけでなく日本の囲碁界での活躍もが目立って、生粋の日本人は木谷門の面々の高齢化で寂しくなったが、依田紀基(現名人)に次いでようやく囲碁界に待望の若いホープ山下が現れた。頑張って欲しい。

 2005年6月

<高尾紳路> 第60期本因坊戦が戦われている。片や張翔(本当は木偏に羽で“ウ”と読むのだが、この字が使えない)本因坊、片や高尾紳路八段。張は台湾出身の林海峰の弟子で、高尾は藤沢秀行の弟子。30年、40年前は林と秀行がタイトルを争った。張は今や日本棋界の第1人者であり、名人・本因坊を併せ持つタイトル・ホールダーとして史上最年少である。趣味は詰め碁創作で、難解として知られる。最近海外の碁界は韓国と中国が強く、日本の棋士は各種優勝戦に出場しては負けてくるが、張はつい最近優勝を飾った。一方で高尾はまだタイトルはない。私は今まで高尾をよく知らなかったが、最近数年N.H.K.で勝ち残り、決して派手さはないが手厚い碁を打っている印象があった。今回のタイトル戦登場で師匠の藤沢秀行が久々にテレビ画面に現れて、「互角に戦うだろう」と言った。もう少し踏み込んで言いたいところを我慢した風だった。高尾は師匠譲りで酒が強い。性格も豪放な方らしい。一方張は酒は嗜まず、乗り物酔いをする。二人とも若いが性格・体質は真反対というほどに違う。この二人の対戦成績は6勝4敗と高尾がリードしている。張に対してこのように勝ち越している人は他にいないらしい。

 第1戦では高尾が手順良く大模様を完成させたところへ張が深々と打ち込んだ。この石を取られたら碁は終わりである。控え室で次の手の予想をしている観戦の専門家は皆言葉を失い、誰も次の手を言い出す人はなかったという。何しろ詰め碁の神様、天下の本因坊が打ったのだ。高尾は一旦ボウシしたが、張が横に一間に飛ぶと、下を走って自分の根拠を確保し上へ追い出した。上から一間に圧迫すれば上への出口はないが、ここで活きられたら一遍に負けになる。張は巧みに捌いて上部へ脱出する。高尾は及び腰にならぬように自分の石の疵を補って追うので一見ぬるく見えるが、相手の逃げる先に先行していた張の石に凭れ攻めを試みる。ここで張は隠忍自重して早逃げするチャンスがあったのだが、自分の捌きに過信してか、一手高尾につきあった。途端に高尾の手がひらめいてビシビシ形が決まり、あっという間にポン抜きをした張の先行石が危うくなり、コウにもちこまれた(局後の張の感想ではコウになっては勝負あった)。この後の張の2枚腰は凄く次々と戦線を移動してアチコチ手をつけるが、高尾は一歩も緩まない。あそこは緩めた方が安全という専門家の評のあったところを危険とも思える最強手で押し切った(中押し勝ち)。8割に近いという高い勝率を誇る張の先番を緒戦で敗かしたのは大きい。

 第2戦は徹頭徹尾コウ争いがつきまとった。張はコウ争いに紛れて巧みに高尾の小桂馬締まりの左上隅をかすめ取り、高尾は実利を譲って愚直にコウを継いだがこれが厚く、思わぬところに模様ができかけた。張は巧みにこれを消しにかかる。今度は張の辺の渡りがコウになり、お互いに損コウまで打って頑張り、張がコウを継ぐが形勢は細かくなった。寄せで一見強引な高尾の侵食がコウになった時、張にはもう適当なコウ立てがなく、4手もかけて囲った白(張)の右上隅が黒地になって決着が着いた(4目半勝ち)。こうしてみると華麗な張に対して鈍重な高尾が後半に追い抜き、張は息切れしてしまう不思議な展開だ。(対局後:左が高尾、右が張)
 かくして第1,第2戦を高尾は連覇した。7番勝負の本因坊戦は多分6月中には決着は無理だろうが、果然高尾の旗色がよくなってきた。性格的に苦手なものを張は感じているのかもしれない。張の棋風は全盛時の趙治勲に似ていて実利にどん欲だが、厚みを作る高尾はその逆を行く。張の巻き返しなるか、これからが楽しみである。

 ―その後の進展を追記しておく。第3戦も勢いに乗った高尾が白番を快勝してタイトル奪取に王手をかけた。張相手に3連勝するなどということを戦前に予想した者はいなかったと人々は口々に語り合った。第4戦は“車の後押し”と専門家に厭がられる押しを6本も打った張が高尾ばりの外勢をうまく利用して争点を逸した高尾を中押しで破って一矢を報いたが、第5戦(6月27・28日)で手堅く打ち進める高尾に対して、張は目まぐるしく動いた。微差をめぐって相手の裏をかく着手の応酬によって中盤の黒地と白地が入れ替わった。張は懸命に追いすがり逆転したかに見えたが僅かに半目差が及ばず、1勝4敗で本因坊位を譲ることになった。6月の内に決着が着いたのも予想を裏切った。勝率8割を超えるという張の黒番を3回とも制したのが結果的に大きかったが、先行する張に慌てず騒がず付いていく高尾が中盤に決して遅れていないのが印象的だった。抜群に地に辛い張の碁風に対して、高尾が味よく手厚い碁で対抗したのが張の弱点を突いた形になったと私は感じた。囲碁の玄妙さを実感させられた本シリーズであった。―


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