第2章
2005年9月9日

<小林 覚 登場>
名人戦が始まった。名人は昨年依田紀基からタイトルを奪取した張 翔。今年の挑戦者は長年雌伏していた小林 覚。第1局は9月7、8日平塚で行われた。前夜祭で小林は“タイトル戦に到達するまで長い道のりだったが、こうなれば目に物をみせてくれる”と見栄を切って参会者を沸かせ、一方の張は“小林さんのよいところを少しでも学ぶ勉強の場にしたい”と謙虚な姿勢を見せた。
実際に始まって見ると、握って黒番になった張は足早に展開する素振りを見せた。一方の小林は左上小目を占め、一間に高くかかった黒を一間に高くはさんだ。ここで張が大桂馬に飛び出す意欲的な応手を見せると、小林は長考の末隅からかかった黒石に突き当たるごつい手を打ち、黒の立ちに下をはね渡る筋の悪い手を打った。張は切られた石を下に伸び次いで二間に横に飛ぶ素直な対応をして、小林が上の黒石に攻めかかり、互いに挟みあって再度小林が挟んだ黒石にごつくぶつかると、張ははさまれた黒石群を軽く捨てた。序盤20手を経ずして、小林の石は重複して効率が悪いのに対して、張の石は間断なく要所に先行して優位に立った。第1日の終わりの封じ手の後で観戦者に形成判断を求めると、この時点ではまことに珍しいことであるが、多くのアマチュアたちがはっきり黒の側が優位と唱えた。
悪いことに小林は封じ手直前に気短に相手の石に利かしを打とうとしたが、第2日目は封じ手から張の反撃が始まる。優勢を自認している張の石は決して踊らない。一歩一歩確実に相手の石を割く。腰の浮いた小林の石は打ち進むほどに確実に絡め取られた。終局まで張の着手に疑問手は見当たらなかった。
第2日目昼食後間もなくの異例に早い投了となったが、長い感想戦に付き合った張には全く疲労の色がなく、満足の表情を隠そうとしなかった。テレビ中継で解説に当たった武宮九段はこのところ極めて高い勝率を収めている小林九段に遠慮してあからさまな批判を避けていたが、序盤の彼の腰の引けた着手は気に入らなかったようだ。代わりに大矢九段が第1日の段階でこの序盤の折衝についてはっきり黒が優位に立ったことを数値まで上げて説明していた。
武宮九段はなまじ半目負けなどよりは今度のような負け方の方が諦めがつけやすいから、次回は気分を一新して向かえるだろうと述べた。だが相性というものがある。本因坊戦での高尾九段と違って今回戦うまでの小林九段は張名人に若干引け目を感じていた気配があるが、今回の対局でどうやら決定的なコンプレックスをもってしまったように思われる。今回は白番で相手に先行されて焦る不利もあったかもしれないが、私の勘では今回のタイトル戦では小林は態勢を立て直す事ができずに惨敗するように思う。
<小林 覚 惜敗>
2005年11月10日
前記の文を書いてから2ヶ月が経過した。本日名人戦は第7局2日目を迎えた。このタイトル戦は張翔名人が3連勝した後、小林覚挑戦者が3番続けて返して互いに3勝3敗のタイとなってこの最終局を迎えた。この経過は大方の予想を裏切るものだったであろう。私は第1局を観ただけで不遜にも今シリーズにおける小林の惨敗を予想してしまった。実際第1局は2日目の昼頃には勝負がついてしまったし、その負け方が惜敗とはほど遠く、両者の実力差は格段のように見えた。小林覚は本年かなり高い勝率を収めて好調であることは承知していたのだが、張の応手の冷徹ぶりが余りにも鮮やかだったので、これは明らかに相性が悪いと見えたのだ。事実第2、第3局とも2日目夕刻のテレビ放映の時間には勝負がついてしまっているという具合で、小林は簡単に土俵を割ってしまい、これは予想通りの結果になるなと見えた。
第4局会場での前夜祭のスピーチで小林は“張名人の強さを実感した。自分の年齢を考えるとタイトル戦はこれが最後になるかもしれないが、最後まで全力を尽くす”という殊勝なことを言ったという。しかしここから小林は巻き返しに入る。推測するに永らく2日制の碁を打っていなかったので、時間を有効に使う要領が掴めなかったこともあったのではないか。一方で張には当初見られた精彩が薄らいだように思われて、第4、第5局をズルズルと連敗した。張は中国へもよく出向いていたし、少し対局過多で疲れていたのかもしれない。よく言われることだが、7番勝負では第6局を制した方がタイトルを握るという。勝負の勢いというものがあるからだ。その第6局は中盤断然優勢になった小林が時間があるのに決め所を逸して細碁になり、芯の疲れる寄せ合いの結果辛くも半目を残した。張は追い上げる形だったが、半目追い抜くチャンスはあったらしい。
かくして勝負は第7局に持ち込まれた。こういう場合追い上げた方が有利というのが常識のはずなのだが、今回は不思議とそういう声は出なかった。勝負の綾は第1局と同様に封じ手にからんでいた。第1局と同様に封じたのは小林だった。然し今度は後から張に感想を聞くと“ああ来られると困るな”と前夜考えていた手が開かれた封じ手だった。二つの石のからみ攻めになり、果然もつれた。張は長考した。しかしその数手後小林が気軽に利かしと考えて打った手(解説者もこれは利かしになると説明していた)に対して張から鋭い切り返しが見舞った。この折衝で先手で収める筈の小林は後手を引き、張が僅かながら有利になった。その後の張の着手には淀みがなく、優勢に震えるどころか最強手を連発して小林を突き放してしまった。最後はお互いに持ち時間1時間以上を残して小林の投了になった。今回の解説者は羽根棋聖だったのだが、観戦者の立場では対局者の厳しい読みには僅かに及ばないことを実証した。局後の感想で張は辛勝した安堵感を見せたが、第1局後のような余裕はなかった。しかし終盤の張翔は第6局の小林と違って鬼の如き緩まぬ強さを見せて掉尾を飾った。小林も封じ手までは善戦した。かく言う私は勝手な予測をしたことを反省させられた。
2006年5月9日

<本因坊戦第61期> 今年の本因坊戦は変則プレイオフの結果、羽根直樹、依田紀基を連破した山田規三生が挑戦者に名乗り出た。山田はまだ二日制の七番勝負の経験はない。私は現本因坊の高尾紳路が好きなので、この一連の勝負を取りあげる。
○第一戦 先番:山田。第一日打ち掛け前に左辺の折衝を先手で切り上げた山田は右辺中央の白石に下から一杯に詰め、白が右上星の黒に小桂馬にかかる形で三間に開くと、黒は星からコスミつけて白が立った時に低く打ち込み、白の上ツケに棒に下がった。最強の攻撃である。隅へのアテコミがうまく行かないと見た高尾が3三に入って小さく生きると、山田は渡りの好形を得た。二日目はどう見ても白に軽いサバキの形がなく、明らかに山田が一本取った。N.H.K.の朝の放送は高尾の長考中に終了し、夜の放送再開は大相撲のためにいつもより遅く午後6時からとなった。
形勢は一転して白が優勢になっていると解説者は言う。右辺から中央へ向かっての競り合いで黒がもたついたらしい。上辺左方で白がコウをぶちぬいている。持ち時間は黒が10分を切り、黒はまだ1時間ある。下辺左方でコウが続いていて上辺折衝の余波で黒は白の地にメリ込もうとしている。解説の淡路修三九段は白は何とか下から渡ることができると指摘したが、高尾はダンゴになった上側のコウを続けてブチ抜いた。そのために黒は二手を使って下辺を黒地にしてしまった。実利は30目を超える。淡路は白が辛抱しても残っているし、そうすべきだという意見だったようだが、高尾は退嬰的な手は眼中になかったようだ。逆に黒に実利を与えて中央に盤石のアツミを作った。そこで慎重に読みを入れた白がグイと曲がりを打って上辺と中央の黒石を割いた。さあどうなるかと固唾を呑む間もなく、山田はあっさり投了した。どう見ても両方の黒石をしのぐのは無理だったのだ。

2006年5月30日
○第二戦 今年の高尾の対戦成績は12勝11敗で、近年の高尾には珍しい不成績なのだが、流石に二日制の碁は山田に対して第1戦に一日の長を示した。さて第2局はどうなるかと見ていると、序盤早々左上辺白の山田がカカリに付けられたところで手抜きをして珍しい形ができた。更に右上辺で数手の折衝後に白が常識的にはキリを防いで守るべき所で手を抜いて左上辺に手をつけると、黒の高尾も常識的な応手を避けて手を抜き、右上辺のキリに回った。結果として白は左上辺に大きく食い込んだ。意地も感じられる手抜きの応酬である。普通の対局ではある箇所で折衝が始まると一段落するまで暫く常識的な手順が続く。統計でも取ってみれば分かることだが私が時折覗くインターネット碁会所対局では普通は持ち時間が少ないせいでこの一箇所での平均継続手数が長くなる。手抜きを観戦記者などは“衝撃的”などと評するし、手抜きは思いも変えず一方に有利な結果をもたらす可能性も高くなるが、持ち時間の長い碁では対局者も十分にそれを検討しているから、そういうリスクも減って手抜きが頻発して観戦者を予想が外れてハラハラさせることになる。こういう傾向は囲碁というゲームの複雑性を増すから、良い傾向だと思う。2006年6月8日
○第三戦 広島・因島で行われた。左辺でのねじり合いから布石のない碁になった。原因の一つは黒番の山田が普通なら屈するところを敢然と伸びきったためで、白の高尾は左上辺で形は悪いが少なからぬ実利を得た。代償として黒は左下辺に大模様を張る。白は狭いところに打ち込んで何とか捌こうとする。黒は捌かせないように固く固く打ち、白石全体の一網打尽を狙うが、黒は巧みにコウに持ち込んで代償を取った上で、なお白の浮き石の攻めに余韻を残す。結局序盤に実利を先に与えた黒は最後までそれが取り返せず、終盤は無理を咎められて万事休した。この三局までを観ているとお互いに黒番はコミを意識し過ぎ無理をしており、寧ろ白の方が気楽に打てているように見える。特に山田は自然体で打てていない。なお今回羽根直樹九段の冷静な解説は好感が持てた。2006年6月13日
○第四戦 佐賀県唐津市で行われた。高尾の先番。上辺で黒白がせりあって中央へ向かう隙を見て黒は抜け目なく右辺に実利を稼いだ。白の厚みが有効な攻めにつながらず、黒は下辺と左下隅で独立に生きた上で、中央の大石はピッタリ2眼を確保した。解説の結城聡九段によればいくつかの罠があったが、高尾はいずれにもひっかからず、形勢微細で僅かに黒がよいかという予想だったが、高尾は厚い打ち方に終始し左下隅で決め手を放って中押し勝ちを収めた。結果から見ると白石の2群に対して黒石は5群に割られているから、黒の方が余裕がなかった筈だが、そうは見えなかったし、山田の白の攻めに今ひとつ迫力が感じられなかった。高尾は昨年とは相違して今年は不調なのだという。相性もあるのだろうが、その高尾に対した山田は気圧されていてなんとなく見劣りする。本局では高尾が頭をかかえるようなシーンは全くなかった。2006年6月27日
○第五戦 山形県米沢市で行われた。山田の黒番。左辺で黒は地を稼ぎ白は早々と左辺へ侵入することを諦めその上を厚く塗った。逆に右辺は狭いところに白は2箇所で小さな世帯を持った。左辺の白の外勢がものをいうか。黒がそれをうまく消すかが焦点になった。解説の石田芳夫九段によれば中原の情勢やや白有利で二日目の夕方を迎えた。2006年7月12日
○第六戦 高尾防衛 対局場は芦ノ湖湖畔、竜宮殿新館に設営された。左辺下方の競り合いで白石は手をかけた割にハッキリとした眼形が確保できず、割を食った感がある。この白石の眼形が不確実なのに黒の高尾は狙いをつけ、上辺を塗ってその厚みで遠まきに脱出路を塞ごうとした。こういうときに山田は相手の意図を百も承知の上で、相手の手に乗って地を稼ぐ。黒も更に打ち進めると、流石に山田は弱い白石を一手補強し、その間に黒は右上隅に地を確保する。白は右上を下がって侵分を強調する。黒は構わず遂に大々桂馬で白の大石に攻めかかった。