―囲碁―


 第3章

 2006年9月9日

<第31期名人戦>   張翔名人に対する今期の挑戦者は名人リーグに参加したばかりの高尾本因坊が新参のハンデイキャップをものともせずに予選を抜け出した。1年半前の本因坊戦の組み合わせ:高尾―張が再現することになった。最近の高尾本因坊の勝率はさしてよくないが、こういう大勝負は別なので、注目することにしよう。

 第1局:新潟県長岡市。序盤平穏なスタートと思われたのが、白番張の妥協しない打ち方によって両者ともに一歩間違えれば奈落の底に転落する際どい折衝に変じた。左上隅で張にウッカリの着手があって黒に一手ヨセコウの味を残し、幸便に黒は外勢を得た。


 2日目はこの味を含んでの折衝になったが、高尾は優勢を意識したのか着手が守勢に転じ、白に猛烈な追い上げを喫した。右辺と上辺で黒石がかみとられた。途中の状勢を3度ほどインターネットで見に行ったが、私の感触では追い抜かれたと感じた。左上隅は白がコウを頑張って黒石を取りきった。検討室では局面はごく微細な状勢を告げていた。あにはからんや、289手で黒番高尾の半目勝ちになった。1日目の形勢が実感以上に黒がよかったとしか考えられない。

2006年9月20,21日

第2局 大分県別府市。対局前の張名人の表情は眼つきが鋭く、高尾挑戦者も負けずに気合が充実しているようで、対局が始まると2日制の碁だというのに、たちまち10手以上打ち手が進んだ。右上隅の走りで高尾の白は満足な分かれを得た。その後高尾はジックリと腰を落とした打ち方で、左辺を黒が独占する形勢になったが平気でこれを許した。この辺は優れた大局観である。二日目、下辺中央の白石の眼形が完全ではなく、早くそれを確保して黒に外勢を与える選択もあったが、中央へ首を出す打ち方でハラハラさせながら頑張る。盤側の検討によれば何度も黒がたちまち優勢になりそうなチャンスを悉く凌いだ。遂に自陣を拡げ相手陣の発展を抑える絶好のカケ(130手)に手がまわる。10目ぐらい囲えそうな中央上部の黒地を巧みに消した。夕方大寄せが済んだ段階で控え室の検討は白僅かに優勢だが、黒がコミを出すのは困難という形勢判断を出した。210手で張が投了、白の中押し勝ちとなった。数えたら2目半の差だろうという。

 本年の高尾はこれまで22勝17敗で後半になって僅かに勝ち越しただけ。一方の張は海外遠征も含めて勝率は8割を超えている。ところが高尾と張の勝負になると話は変わってしまう。解説者たちも的確に指摘できないが、高尾は張に負けないコツ(心理戦も含めて)をどうやら掴んでいるように思われる。第1局でもそうだったし、本局も局後の検討はほとんど行われなかった。あの手が悪かったという敗着の指摘が敗者(張)の側から出ないのだ。張は天を仰いで慨嘆する様を見せたが、早々に盤の石を崩してしまった。敗者が多くを言わないのだから、高尾紳路も付き合いようがない。張のような天才は盤側の人にたまには敗因を率直に尋ねると役に立つようにも思うが、性格だからこれも致し方ない。頽勢挽回はできるだろうか。

2006年9月28,29日

第3局 神戸市有馬温泉。右下隅、黒番の高尾が一間に高くかかった白を一間に高くはさんでここから戦いが始まった。張の大桂馬に対して黒はゴツくぶつかって出切る強引な手法を選んだ。その後の応酬は石に含みをもたせる巧みなもので、白は右辺下方1線のツケ(36手)で一本取ったが、黒は右辺の石を右上に連絡することに成功し、第1日目の内に右辺、右下隅、左上隅に地を確保した。本来手数の進まぬ筈の第1日目の打ち手が97手まで進む余り前例のない早い進行となった。黒の封じ手が中央左寄りでガッチリ断点を固く継いだのに対して、張は上辺を大きく囲いにかかった。他にはあまり白地はないが、ここが大きくまとまれば、黒も容易ではない。

 少しづつ侵食する手は考えられるが、この模様を大きく荒らす具体的な手段は私には着想できなかった。果然黒は左上押さえ込みの最強手(盤側の評価)に次いで中央第2線に深々と103手目を打ち込んだ。こんな手は全く考え及ばない。控え室では丸ごと活きるか死ぬかの決着が10手以内に着くと予想した。どちらかといえば黒乗りの雰囲気だった。しかし白も強く抵抗し、結局相当部分をもぎとられながら、黒はある程度の荒しに成功したが、形勢は微細になった。ここで黒は左下隅に侵入し、なおかつ下辺の白石の眼形不確実を攻めたが、この厳しい方針は張の巧みなシノギに遭って功を奏せず、自分の方も十目以上の地模様が消えて眼二つに変じてしまった。結果的には相手の下方での連絡を容認して共栄方針を取る方がよかったようで、攻めればよいというものではないことが実証されてしまった。結局208手で高尾が投了した。最後まで打てば黒はコミを出せない形勢と見られる。張の二枚腰の強さが目立つ一局だった。

2006年10月11,12日

第4局 熱海市。張は本年41勝10敗という素晴らしい戦績で、最近は早碁選手権にも優勝して目下5冠王。ただ対する高尾は張には勝ち越しており、石が踊らぬ重厚な棋風。在来の経緯を見ると、張に対する白番は容易に負けない感触がある。この碁は張の黒が外勢を張るのに対して大模様の地にさせないように、地味だがしぶとく右辺で食いついた。二日目の午前中上辺中央で黒の模様の中で堅実に2眼を確保すると、根拠のハッキリしない右辺の白石に先手で手をまわし、朝日新聞の戦況見出しには“本因坊居直る”と出た。その直後に張は左下隅の3三に入って白地を抜け目なく削減、下辺中央が最後のせめぎあいの場になった。しかし手を戻した筈の右辺の白石の死活に見落としがあったらしく、包囲された後4目の白石をかみ取られた。これではもう高尾に勝ち目はないと思ったが、左下隅のツギを打ったりして、追いつかれたことは確かだが意外に細かいという。

 今度は左辺で黒はコウ材が多いことを頼りに次々とコウを挑む。高尾は下、次いで上と謝る。控え室で武宮陽光四段は盤面10目は黒がいいという観測を出したという。盤に向かう高尾は決して諦めた様子はないが、ぼやきが続く。シンの疲れる寄せが続く中で、今度は控え室で形勢微細、半目勝負という声が出たという。もうテレビの中継時間はとうに過ぎて、30分ごとに朝日新聞の囲碁欄を覗くと、このような刻々と移り変わる状勢をコマメに描写している。予想された終局時刻を1時間も越えた。もう一度囲碁欄を覗くと“364手で高尾の半目勝ち”と出ていた。これは第1局に匹敵する奇跡だ。棋譜で終盤の着手を追ってみると、右辺の折衝で黒に軽率な応手が出たようで、白に食い込み(252、254)を許す。多分これが武宮四段の観測との差を生んだのだろう。最後は息の詰まるようなコウ争いが延々と続いた。最後の364手目の半コウつぎを白が打って終局となった。その場面は従ってテレビ中継されなかったが、恐らく張は呆然と天を仰いだのではないだろうか。勝負にツキは免れないというが、これは凄いドラマだった。

 土曜日の囲碁将棋ジャーナルの解説によれば、序盤と中盤に高尾が優勢を確立するチャンスがあった。特に中盤のそれは下辺に一手利かしを打てば、黒に4目の白石を取り込まれずに済んだ。終盤には白、黒各一回勝勢確立の機会を逃している。364手という長手数で両対局者とも疲労困憊、若干判断力が鈍ったのかもしれないが、通してみると高尾に厚い碁だったことになる。

2006年10月18、19日

第5局 静岡県伊東市。混迷の第4局を落とした張名人にとって、落とせば後のない対局になったが、悲壮感などはミジンも見られない。序盤は高尾の黒が腰を落として堅実に打ち進め、第1日目については黒が悪くない形勢という盤側の評価だった。但し白に指摘すべき悪手はなく、差はあっても僅かであろうと推測された。

朝日新聞の囲碁欄のインターネット速報は時間の経過とともに状勢を伝えるタイトルを更新しているので、これを見ただけで形勢がわかる。本局の速報タイトルを時間順に並べると、@実利の名人、厚みの本因坊 A両者自信の進行。ここまでが1日目。それが2日目になると、B張名人、鋭い踏み込み C検討の趙善津九段、「白厚くなった?」 と続き、D名人、揺るぎない自信 となって、E張名人の2勝目、高尾本因坊に中押勝 で終わった。終局は異例に早い午後4時だった。総手数216。 例によってこの二人の着手は1日目にどんどん進み、99手に達した。100手目の張の封じ手は形の悪いヒンマガリ。しかしこれで着実に下方から黒模様を減じている。2日目の数手後白は上方から黒模様を減ずべく、大方の予想より一歩踏み込んだ(104手)が、これに対する適切な応手が意外になく、一方白は予想を超えた隅の押さえ(112手)で粘ってきた。これに対し局後の検討ではコウ争いの危険を冒して黒に頑張る手があった。これは難解で直ぐには結論のでないものだったが、白の104手で劣勢に立った黒としては後から考えると、ここが最後のチャンスだった。だが黒は危険を避けて矛を収めてしまい(117手)、これを境目に白は打つ手打つ手がツボにはまり、黒石はよれてきた。この後白は巧みに収束を図り、乗ずる隙を見せなかったので、寄せを打ち切れば盤面でほぼ同等という形勢になっていたようだ。本局は特に二日目において高尾の気合負けであった。なお本局の立会人は前年挑戦者になりながら惜敗した小林覚九段だったが、局後の感想で両対局者の読みが合っており、かつ深いのに舌を巻いていた。

2006年11月2、3日

<第6局 高尾名人位奪取> 場所は名古屋東急ホテル。ウッカリしていて第1日目の対局を観戦しなかった。第2日目の朝、気が付いて早速棋譜を眺める。その局面を右に示す。速報タイトルは下辺の状勢切迫と報じていた。一見すると高尾の白が下辺に押し込められ、脱出困難で非勢に思われたが、よく見ると黒石に欠陥があって活路があることが分かった。前日コウに勝ってブチ抜いた78、80の二手は手厚い。控室の評は黒がやや手を焼く感じとあった。解説の大竹九段は高尾の封じ手を大層の期待をもって見守っていると述べた。私は割り込み(6−十四)ではないかと固唾を呑んだが、開封された手は中央へ向けての素直な一間トビだった。なるほど黒は自石の欠陥のために切断に行けないのだ。黒は右下の白石を封じ込める一手を打って白石の厭味を強調すると、白は構わずぶつかって上記の欠陥を脅かし、隅に飛び込んで相手の活路を奪い、黒が接続を確かめると、巧みに右下と中央下辺の白石の接続を図った。黒も抜かりなく右下に侵入するが、白も左下隅に眼を確保して中央との連絡のために断点を接ぐ一手を省いてしまう。両者見事な応酬である。眼形の怪しい石は当面なくなって、主導権争いの中央の折衝が続く。高尾は我慢強く黒につけいる隙を与えない。私には黒地が大きく見えるが、こういう碁で高尾の白は見かけほど遅れていないのだ。

 局後の大竹の評によると、白の164手目は劣勢落ち込みを防ぐ必死の頑張り。それに対して黒はタケフ、タケフと並んで自石の接続を確かめ、逆に相手の石を切断するチャンスだったが、167手目が張らしからぬ後退で逆に白の168手で接続の不備を咎められて一本取られた。例によって2日目の速報タイトルを時間順に並べると、@白堂々の進出、A張、昨夜からの読み、B白122手目のオサエは大きい、C分かりにくい形勢、Dやや白ペースか、E名人の寄り付き、と進んだが、F(196、198手で)白勝勢か となった。事実この2手は2日目夕刻放送再開直前に打たれたのだが、大竹は見掛け以上に大きいと指摘して勝負の目途がついた口ぶりになり、その後は高尾の慎重で手厚い応手が続き、張に逆転の機会は訪れなかった。結果は午後5時55分、275手で白の3目半勝ち。残り時間は白9分、黒は38分であった。張名人は終盤非勢を悟り、投了を考えたようだったが、最終局であることも考えて寄せまで打ち終えることにしたようだ。

 これで高尾紳路は目下日本最強と見なされている張翔を下して、本因坊に次ぎ名人位の二冠を獲得した。振り返れば第1局と第4局の半目勝ちが大きかった。特に第4局は本人の弁によれば数えられなくなりてっきり負けと思いながら終局したら運よく勝っていたと言う。張翔に対する高尾紳路というのは相性の強さを感じる。それは恐らく張翔の心底にあり、特に高尾の白番は粘られてどうにもコミが出し切れないコンプレックスのようなものがあるのではなかろうか。そのために最終局のようにいつもの鬼をもひしぐ強さを出し切れず、ポッキリ折れる碁を打ってしまう。

 大体名人リーグ戦に今期高尾は初参加で優勝して挑戦者になり、タイトルまで獲得してしまったのは記録物らしい。また名人と本因坊の両タイトルを取ったのは史上6人目という。例によって感想戦はない。終局後感想を求められた高尾はまだ呆然とした顔で、タイトル戦が始まっても、どうせ負けるのだからタイトル戦を打てるだけで幸せと気楽に打っていた。第4局に運良く勝ちあと1局となって初めてプレッシャーを感じたと言う。無欲の勝利である。未熟なのでこれから勉強してタイトルに恥じないようにしたい、すぐ師匠(藤沢秀行)に報告に行きますと言う。それにしても勝敗を決めたのはやはり大寄せだった。このような大勝負は切れば血が出る中盤の折衝では決まらないものらしい。寄せというのは改めて難しいことを実感した。


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