―囲碁―


 第4章

<本因坊戦第62期> 
 今期の挑戦者決定リーグ戦は張翔が先行したが終盤に失速2連敗して脱落、逆に最後に浮上した依田がプレイオフで蘇を破って挑戦者として登場した。彼は“前半負けが先行し、挑戦者などとんでもない、残留できればオンの字と思っていたから、こうなったのは奇跡がいくつも重なったからだ”と語っていたが、一方で“こうなったら絶対にタイトルを取る”と宣言した。挑戦者がタイトル戦を前にしてこんな広言を吐くのも珍しい。一方の高尾紳路は控え目だが早くも3連覇がかかる。今年の依田紀基(右)の戦績は19勝7敗と破竹の勢い。片や高尾はリーグ戦が少ないこともあって、6勝4敗。だが両者の対戦は5勝5敗と5分である。私には依田が不遜に見えるし高尾を応援したいので、このシリーズを連載する。

 2007年5月11日
 第1局 和歌山県白浜、コカノイベイホテル。高尾が先番となる。序盤高尾が積極的に動き、依田は受身にまわるが、下辺でソツなく一目を抱えて遅れない。二日目、高尾は中央から下辺へ手厚い壁を築いたが、依田はこの壁に切りを入れ、それを起点に相手の石にもう一本切りを入れ、巧みに石を捨てて中央上辺に勢力を築いた。高尾側の対応に不満があったか。上辺中央に侵入した黒に巧みに白は右と左から利かして(特に右からの利かしは黒の侵入を先手で止めた)上辺に少なからざる地を確保して優位に立ったと思われた。高尾に指摘すべき悪手があったわけではなかったが、依田の巧手が目立った。席を外す依田に余裕の表情があり、解説者は白優勢を告げた。大寄せが打ち終わったと思われる夕刻、高尾は1時間を費やす長考をした。私は高尾が投了するのかと思ったが、盛んに姿勢を変えていたから本人には全くその気はなかったようだ。右上で黒は一目をかみ取り白は手厚く手入れをした。そのまま放映時間(午後6時)が切れた。

 念のために9時過ぎにインターネットで毎日・棋譜の進展を覗いて驚いた。黒の半目勝ちになっていた。依田が“この碁を負けては勝つ碁がない”と嘆いたのではないかと瞬間に思った。棋譜を追って見ると、その後は黒がアチコチを皆打ち回してしまったかのように見え、最後には上辺を強引にコウに持ち込みこれを勝ち切って手止まりの一手も黒がものにしていた。依田の感想は“自分は終盤のコウに弱いので、コウ争いにもちこまれてからは半目負けになるのではないかという予感が早くからしていた”だった。終盤の形勢に解説者の言うほどの差はなかったのだ。それにしても高尾の寄せの凄さを見せつけられた。依田の強気は消えたであろう。高尾の感想は“序盤からずっと悪いと思っていた。最後に何とか追いついたが、これからはもっと楽に勝たなければいけない”だった。見かけの謙虚さよりは強気の発言だった。依田の発言を聞いて内心反発していたのだろう。


 5月22,23日
 第2局
 韓国チェジュ島のチェジュ・シルラホテル。依田紀基の黒番。20手ほどは互いに堅実にジックリ打ち進んだが、高尾が上辺に打ち込んでから局勢が険しくなり、白は強引に黒数子を取り込んだが、黒は代償に外勢を厚くして一群の白石がシチョウに取られる形になりかけた。高尾はシチョウを先手で防ぐために左辺へつけていった一子をポン抜かせ、第1日打ち掛けの時点で依田は労せずして優位に立った。高尾がじれて一人相撲を取った感がある。

 2日目は朝は国会中継、夕方は大相撲中継のためにずっと放映がなかった。午前に1回、午後に2回インターネットで局面の進行を見に行ったが、いずれにおいても依田は中央の眼形に乏しい白石を睨んで手厚く打ち進めており、圧倒的に優勢と見た。中央上部で黒8子が手を抜けば捕獲される形になってはいるが、黒が断点をつげばそれはそのまま相手の石の断点を脅かすことになり先手だから切断はされないと見た。盤面を見回して、中央の白石が収まるためにはまだ一苦労が必要で、右辺に構えた白石も上から圧迫されて頼りなく見え、白が勝つ可能性は極めて少ないと判断した。

 大相撲の時間が終わり、済州島からの放映が始まって局面を見ると、なんと白は中央上部の黒8子を捕獲し、この石に逃げられたら点がなければならない断点へ手を入れるのを省けてしまっている。しかし後手になったことには相違ない。解説者によれば圧倒的に黒がよかった局勢だったのが、白が追いついて険しい状勢になっているという。依田が形勢を楽観して急所を逃がしたことが言外に窺われる。但し黒8子を取る前に白が逃げ回ったために、右辺の白は目一つにいじめられ、ほうほうの態で下辺へ逃れでようとしている。私ならこの石を取りにいくところだが、依田は味の悪い手は打たずこの石が下辺をはいまわって辛うじて眼形を確保するのを許してしまう。この折衝で下辺に見込めた筈の若干の黒地も消えた。手を抜いたためにコウになった左下隅も高尾はなんとか凌ぐ。依田は右上隅でハネツギを打ち、高尾が手を抜いたので、断点のキリに回ると、高尾は隅を利してコウに受ける。見かけの上では依田に追いつかれたことへの動揺の表情はない。えんえんとコウ争いが続く中で放映時間が切れる。解説者はこのコウを譲っては白に勝ちはないと宣言した。

 9時過ぎにインターネットで局面を見に行くと、右上隅のコウは白が勝っていて、碁は348手の長手数で終わっている。手止まりは黒だったが、毎日の画面は表示に配慮が足りずどっちが勝ったか分らない。まさか自分で地を数える気にはならない。翌日の朝刊でやっと黒の1.5目勝ちを知った。局後の感想は依田:“1日目から打ちやすい碁になったと思った。欲張り過ぎて、マギレようのない碁がまぎれてしまった。(勝ったけれど)ひどかった”、高尾:“上辺の折衝で見損じがあっり、ずっと苦しかった。いつ投げようかと思っていた。最後は差が詰まったが、どう打っても負けていたでしょう”だった。本局において依田の忍耐強い体質を実感した。


 6月6、7日
 第3局
 岐阜県可児市、花フェスタ記念公園。高尾の黒番。第1日は互いにジックリ打ち進め、つば競りあいのような形にはならない。右辺の折衝で高尾が長考してケイマに構え、手を抜いていた白に中央進出を容易に許す形にしたことに控え室で異論が出る。しかし戦闘は下辺に移り、下辺の白石を黒が激しく攻めたてるのに白が反撃、その過程で先のケイマが効いてきた。打ち掛け直前白は激しく切り違えた。

 2日目に入って高尾が冷静にノビを打って左下隅を確保すると依田は手厚く断点を補う。先手を得た黒は右上隅をはねついで4隅を確保すると、白は悠揚迫らず断点を味よくかけ継ぐ。解説の石田芳夫九段が依田の自信をもった打ちぶりに感嘆し、これで遅れていなければ大したものだという。しかし高尾の黒が中間の白の厚みの消しにまわると、白は攻めあぐね、黒は相応の中地をもって収まったので、数えれば10目以上の大差になることがはっきりして、依田は投了した。187手だった。結果的に見ると、高尾に先行を許した依田の異常な落ち着きは自己過信に終った。二日目の高尾に打ち過ぎはなく、終始冷静だった。

 高尾の感想は第1日は黒が悪く悲観的な気分だったという。依田はタイトルを取った際に本因坊就位の名をもう決めてあると公言したと聞いた。事前にこういうことを言うと、位の方が逃げていくのではないだろうか。高尾の方は2度続けてタイトルを取ったが、自分などは未熟だとまだ称号を名乗ろうとしない。尤も“紳路”という名とうまく結びつく雅号が見つからないのかもしれない。


 6月18、19日
 第4局 福島県福島市 摺上亭大鳥。今年の二人の成績は高尾が11勝8敗、依田が22勝11敗である。黒番の依田は右上隅を小目から一間に構えた。この形は最近では珍しい。第1日目依田は左辺に打ち込んだ石を左上隅と連絡して実利で先行する。第2日目対局開始して間もなく白の84手目は忙しい最中なのに落ち着きはらったツギに手を戻した。だがここを黒に切られるとどう受けても黒が楽をするので、この手は地味な好手らしい。これで6の七と4の十五が見合いになり、左辺下方の白模様を黒に蹂躙されたあたりのハンデイを回復したとも考えられる。控え室の予想になかったこの手で依田は調子がつかず迷ったかも知れない。

 ところで夕刻5時に放映再開された局面を見ると、上記の見合いと言った両方を白が打ってしまっている。見渡して別のところで代償を取られているわけでもない(実は黒は左辺の地を拡げたのだが)。対局室の二人を見ると、依田は静、扇子で煽ぐのみ。高尾は動、席を立ち、また戻り、上着を着、また脱ぎ、しきりなしに姿勢を変える。よく見ると依田は局勢に望み少なく沈鬱、高尾はポカを打たぬように心を落ち着けようと努めているように見える。持ち時間も高尾の方が1時間近く多い。午後6時直前に高尾は最も味のよい手(176手)を打った。本シリーズの勝利宣言のようにも見えた。時間切れで結果は当日報じられなかったが、コミ分ぐらい白がよい感触だった。依田は第3、4局とも打ち掛けの夜謡曲で参加者を楽しませたそうだが、本職の方はいずれの局も決め手が得られず冴えなかったし、シリーズ前の予測に反して早々と1勝3敗に追い詰められた。

 高尾は“右辺を囲うことができて勝ちになったと思った”と述べているが、そのきっかけは右上隅のツケ(106手目)の絶妙のタイミングにあったというのが専門家の評である。高尾はこの手がスジになることを、裾を払った上辺の黒をぶこつに押した序盤に睨んでいたという。後日新聞解説を読んでその読みの鋭さに感嘆した。テレビ解説の武宮九段は終盤下辺の白の寄せに“あっ”と叫び、“これで2目以上違う、こんな手があっては白の優勢は決定的になった。こんな手を見落としてはオレもダメだなあ”と述懐した。本局は依田の敗着を探すより高尾の相手につけこまれない慎重な打ちぶりが光った。結果的に見ると2日目朝の84手目が本局高尾圧勝の基になったのかも知れない。碁の玄妙さを思い知らされる。


 6月25、26日
 第5局   新潟県新潟市 ホテル・オークラ。
 高尾の先番は右上隅小ケイマ締りから割り打ちの白を上から詰め、一方白は左辺をミニ中国流に構えるジックリ腰を落したスタートになったかに見えたが、白が激しく5の五に臨み、黒が後ろを遮ったので、右上隅に白が強引に潜りこむ形に進んだ。黒は代償に上辺に進み、左下隅を決めた後、左上隅を小さく活きる。白は左側中央に模様ができかけて黒は楽観できない形勢にも見える。黒は73手で右辺に手を入れて左辺消しの足がかりの厚みを設けた。

 打ち掛けをはさみ白が上辺に壁を塗ろうとすると、黒は反撥して中央にケイマに飛び出し、白は右上に一手を入れてハッキリ眼形を作り、それを見た黒は上辺へ手を戻す。この折衝で大模様の拡大は防がれたが、代りに白は下辺の打ち込みに回る。このあたり両者虚虚実実の相譲らぬ応酬で優劣つけ難い。

 黒は85手から中央白模様の消しにまわるが、その後一転して93手から下辺に打ち込まれた白の切断にまわる。ここで依田はこの手を逆用して100手から押し出して下辺の白石を捨て、85手以下の一連の黒石を切り離す。その結果黒は下辺を大きく囲い、白は中央を拡大した。これは依田の思い切った決断だったが、結果は黒の得たもの方が多かったのではないか。まだ微差で白優勢だったが、黒3子を取らされた134手が緩着で逆転、この後の黒の寄せは精密を極め、白は遂に勝機をつかめなかった。203手で2目半黒勝ちとなり、高尾が本シリーズを4勝1敗で締めて本因坊戦3連覇を達成した(写真は終局後の感想の場面)。

 本シリーズを通じて高尾は序盤の不利を耐え忍び、中盤から寄せでジワジワと逆転した。依田は第1局でこの高尾の追撃の迫力を痛感させられ、第2局こそメロメロになりながらも辛うじて逃げ切ったが、第3局以降はこの寄せの迫力に押されっぱなしになった。第5局の決断(100手)も長い競り合いに耐え切れず、逃げに走って墓穴を掘ったのではないだろうか。そうであれば闘う前から依田は高尾に心理的に負けていたことになる。依田は43歳、高尾は30歳で一回り違うが、明らかな気力差があり、本因坊のタイトルはまぐれではないことを今回の高尾は実証した。


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