―囲碁―
第5章
<第32期名人戦>

第1局
2007年は挑戦者に張翔前名人を迎えることになり、第1局は9月6,7日に広島で行われた(写真は前夜祭の高尾名人と張)。張翔碁聖は本年抜群の勝率である。事前に知らなかったので、第1日打ち掛けの局面から碁を観戦し始めた。一見すると、右上をはじめとして張翔の白はガッチリ実利を稼ぎ、黒が拮抗するのは容易ではないように見えた。第1日目を終えての感想は張翔は“形勢に自信がある”であり、高尾名人は“仕方がなかった”であって、やや不十分な分かれであることは認める口ぶりだった。黒は下辺から中原にかけて大模様があるが、これをまとめきるのは容易ではなさそうだった。控え室の形勢判断は白やや良しで一致。

しかし第1日目の夕方、形勢に自信をもつ張が右辺で決め打ちをしたことが裏目に出ることになった。黒は封じ手でいいタイミングで白のダメヅマリを誘い、巧みに右下の白のハネツギが先手になるのを封じた。黒94手ののぞきに対して白95の出で応えた辺りが圧巻で、昼前の時点で黒は“望外の”形で最大の囲いを果たして優位になったのではないかと武宮九段に言わせた。速報は午後1時過ぎに“やや黒の厚い形勢か”となり、3時には“小松、黒が盤10の形勢と宣言”と進んで、早くも3時57分終局、黒4目半勝ちとなる。優位を掴んでからの高尾の打ち方は自信に満ち、張を淡白に諦めさせる迫力を感じた。翌日の“囲碁・将棋ジャーナル”によれば、白134手目でもう一路右へツケていちかバチか開き直る手段が有力だったらしい。高尾は平凡な白134をその右に135と抑えて勝利を確信したという。この時点の張は自分の見通しの甘さに気落ちして、こういう非常手段で開き直る気力をなくしていたようだ。持ち時間は十分にあったにも関わらず。いくら普段の成績がよくても、タイトル戦の高尾は別だと張は改めて思い知ったに違いない。一瞬の隙に抜き去った高尾の強さに舌を巻く。
第2局
9月19、20日:長野松本のホテル・ブエナヴィスタ。名人高尾は30歳、挑戦者張は27歳。囲碁という競技も超一流には若さが求められることを実証している。両者の対戦成績はこれまで高尾の16勝に対し張の15勝。このところの両者の挑戦手合の成績(本因坊も名人も高尾が張から奪取した)のために数字は僅かに高尾に傾いている。しかし張の全般的な成績は最近抜群であって17連勝したりしていて総合成績は602勝213敗。ためにこのところ対極過多気味である。第1局との間にも海外対局を含めて3局打っている。ただ高尾名人は今年に入って黒番の成績はよいが、白番の勝率は3割を割っているという不成績だと報道された。

第1日目両者の気合が合うのか序盤から手数が伸びる。立会いの岩田達明九段は白番の高尾が右上で2間高はさみに対してハザマを空けて飛んだのを見て、この碁も面白くなるだろうと語った。確かに私などすぐに平凡なコスミを考えてしまうが、白番というのはこういうところで発想を変えなければいけないらしい。しかし張もさる者、常識的な3線の白への上ツケではなく隅からコスミつけた。こうして黒が辛くかせいで走る。手数が進んで83手目を張が封じた。張の打ち手には緩手が見当たらず、右上・右下を確実に活き、左下に大きい地を取り込んで黒に弱点がないのでやや優勢に見える。
第2日目黒は依然として主導権を保持して手厚く打ち進め、白はひたすら耐え忍ぶ。しかし昼食過ぎの119手で控え室の彦坂9段は黒優勢を宣言、早々と打ち手が進んで2時20分、187手で黒中押し勝ちとなった。最後まで寄せても盤面10目以上の差になったらしい。結局第1日目に優勢を築いた黒に対して、白は遂に勝負手をしかける機会を見出し得なかった。それだけ黒に隙がなかったと言えるだろう。黒の完勝である。解説者によれば白102の手は折角取り込んだ27,33の黒2子を上部に脱出させぬために必要な手固い一手ではあるが、黒に103と手を戻されてはもうチャンスはない、乾坤一擲8-5と覗きを打つ最後の機会だったかと言う。だがこれとてまぎれを求めるだけで、成算のある話ではない。どう打つべきだったかは指摘できないが、第1日目の右下隅を楽に治まらせたあたりに私は不満を感じた。

第3局
9月26、27日:宮城県仙台市茶寮宗園。高尾の黒番。この碁の序盤は極めてユニークだった。黒が右上へ小目、すると白は右下へ同様に右辺寄りに小目。次いで黒が左上左辺寄りに小目、すると左下へ同様に左辺寄りに小目。次いで黒が右下にケイマにかかると、白は右上にケイマに。黒が左下に一間にかかると、白は左上に一間にかかり、総がかりの形になった。明らかに白の張が仕掛けている。次いで黒が左下に低く一間にはさみ白が3三にツケた時、黒が右下にケイマにかけると白は右上でケイマにかけた。黒が這えば白も這う。黒がノビれば白もノビる。こうして真似碁に似た応酬が続いた(右上図)。立ち会いの石田九段は「面白い。こんな碁形は滅多にない。双方意地の張り合いだ」と評した。

第2局でもそうだったが、張は実利を稼げる状況ではヌカリなく地をかせぐ。黒の高尾は左上で巧みに石にクセをつけ、白の中央の外勢をケイマ、ケイマでうまく消す。しかし真似碁含みだった余韻で白にも結構地が付いて黒も容易には勝てぬ気配が漂う。高尾名人の方が残り時間が少ない。以下インターネット速報のタイトルだけを時間経過の順に示す。
中央の攻防始まる<終局は4時以降?<形勢依然として細かい<息詰まる終盤の寄せ合い<石田九段白半目勝ちを予測<名人秒読み白優勢で最終盤に<名人驚異の粘り<張挑戦者が2勝目― となって白の1.5目勝ちに終わった。総手数318。
名人の粘りというのは左上で3の一にコウを抜かれた時、常識的には黒は1の二に1目抜いて譲るのだが、豊富なコウ材を頼りにヨセの続く間コウを頑張ったことを言うのだが、流石に最後まで無傷で耐え凌ぐことはできなかった(無傷なら半目黒勝ちという予測が終局まぎわまであった)。張は1時間半ほどあった残り時間をほとんど使い切って、慎重に対応を誤らなかった。しかし両者とも終局時には疲労困憊、張も間際まで自信がなかったと語った。高尾は65手目がおかしかったと言う。多分6−九のキリだったのであろう。遂に高尾は得意の黒番を落とした。

<第4局>
10月10、11日 伊豆修善寺の鬼の栖。張の先番。対局前は張の表情が硬かった。「第3局は闇試合みたいになった。高尾さんにはやられっぱなしでもう何とかしなければいけない」と語った。一方今年の高尾は白番の勝率が顕著に悪いというのが気になる。第1日いつもは手厚く外勢を張る高尾が左上、左辺と低く実利を選ぶ。また右辺でも続けて開きを打つ。結果は黒が手厚い構えを中央に築く。第1日目の速報は“序盤緩やかな展開”と出たが、1日目夕刻黒は右辺の白地にカラミかけ、2日目には粘りのあるコウに発展する。2日目午前中に早くも“挑戦者やや打ちやすい”と出てしまう。白は第1日目に緩手が出た。78手目は先に82とあてるべきだったらしく、黒79と点がれてから82と打ったために手を抜かれた。また黒が89と臨んだ手に対しては98と我慢して受けるところだったらしい。白90、92の2手はその後の黒の侵分に対する有効な凌ぎになっていなかった。翌々日囲碁将棋ジャーナルにおける山下棋聖の指摘である。
本来白地だった筈の右辺に黒に潜り込まれては地が明らかに足らなくなる。しかしコウを頑張っても白は取り切るのに2手かかる。黒は巧みに上辺の一団の白と右辺を割いてきた。更に上辺と左上の白も黒123のコスミで連絡の望みを切断された。しかも白は右辺を取り切るためにもう一手かけなければならない。速報タイトルは“上辺のシノギが勝負の山に”と出たが、手厚い外勢をバックに黒が先手で上辺の白に襲いかかった。白が先手でも楽ではないと思われるのに、黒が先に手をつける順にまわっては、10数手で白投了となったのは止むを得ない。対局終了は午後3時41分。高尾名人残り時間13分、張挑戦者2時間41分。
張はこれまで高尾とのタイトル戦の成績が悪く、3回にわたってタイトルを奪取され、或いは保持されてきたが、ここへきてどうやらどうしたら高尾に勝てるかのコツをつかみかけているように思われる。前回(第3局)も本局も消費時間はかなり高尾を下回ったし、前回は終盤ややもつれたが、序盤の打ち回しなど相手より精神的に優位に立っている気配が感じられた。訊かれても決して白状はしないだろうが、もうこれからは高尾に負け越さないぞと内心手ごたえを掴んだように思われる。高尾にとってハードルは高くなった。

<第5局>
10月17、18日 兵庫県神戸市御所坊。高尾の先番。黒は右下、左上と手厚いツギを打つ。白の張は例によって手早く打ち進め、72手目で四隅を確保する。対抗する黒は右辺に大きい地を構える。白は左辺から中央へ飛び出した一群の石がまだ弱く、黒はこれを狙って自石相互の連係と勢力拡張を図る。黒は下辺で手順よく利かしを打った。張の打ち手は早く、第1日目の封じ手は110手を張が封じた。早くも速報のタイトルは“1目を争う碁”と出た。
2日目は右上辺の境界線の決め方をめぐり、右上の白石の活きを確保するために白に後手を踏ませるべく黒はコウがらみで頑張る。下辺から中央への白の飛び出しに対して控え室の予想に反して黒は135、137手で右辺を一杯に囲い、それではと下辺中央の黒に襲いかかる白138手に対して逆側から139、141手と打って143手でうまく凌ぎ、白が下辺を渡るのを見て待望の147手の1目かみとりに回った。この間の高尾の読みは控え室検討陣を上回った。
速報タイトルは“一進一退”、“難しいヨセ合い”から“僅かに黒厚いか?”に変わった。実は局後の検討では147手以降白に勝機はなかった。終局は午後3時7分。223手で黒2目半勝ち。残り時間高尾13分、張3時間23分。早い時間の終局は毎度のことだが、それは張の早打ちによる。第1日目の右辺の黒地の囲い方には多少歯がゆい感じがあり、恐らく打ち掛けの時点では張は悪くないと思っていたのではないだろうか。白番で四隅を取ってしまう張の打ち方にまともに対抗できる人は今の日本棋界には少ないだろう。しかし本局2日目の高尾名人は冴えていた。

<第6局> 11月1,2日 山梨県甲府市常磐ホテル。張の先番。高尾名人は苦手の白番で、素直に打っては勝機は訪れないという思惑からか、あちこちで手を抜くような忙しい打ち方をした。23手目右上隅のかけに手を抜いて左辺の白の根拠作りにかかり、黒が左上隅に入ると、白は右辺に打ち込んで黒に上を塗らせたところで上辺のかけられた石を14-三と引き出し、上辺の地をかせぐ。黒は手厚く打ち、右辺の白に迫る。白は手堅く打てば眼形だけは確保できるのだが、そうはしないで右下隅の地を拡げる打ち方をする。当然黒は下からのノゾキで眼を奪う。白は右辺を捨て幸便に右上隅に一本ツケを利かして下辺のヒラキにまわる。ここで黒は右辺に一手入れて取り切ったがこれが少しぬるかったのではないかと批判が出た。しかし黒は相当広い地を確保した。
二日目、白は左下へ二間に開き、左下隅を脅かす。黒は下辺中央上から消しにまわるが、白は手を抜いてすかさず左下に入る。黒は下辺に潜り込み、活き形を確保して代償を取る。結果として眼二つでも隅を活きられた周りの黒の眼形が乏しくなり、白に上方へ追い立てられる形になった。白は中央の黒地模様を先手で消して178手目で待望の18−三の下がりに回って右上隅を確保した。ここへ来て白僅かながら厚いのではないかという控え室の評が出た。
しかし白が左辺を稼ぐと黒は上辺の白地を侵蝕してしまう。対局室では高尾が絶え間なく身体を神経質に動かしている。張は右ひざを鋭くパアンと叩いた。どこかウッカリしたことに気付いたのだろう。解説者の武宮九段は夕刻白が少しよさそうだと言ったが、実際は超微細な形勢が続いたらしい。二人の対局には珍しく6時の放送終了時には終局しなかった。午後6時1分終了。255手で白の半目勝ち。残り時間白2分。黒51分。例によって張は1日目形勢に自信をもっていたようで、消費時間も少なかった。本局高尾に意表の着手が多く、私には付いていけない手が何手もあった。最終手は黒だったから強いて言えば厚い半目だが、高尾名人執念の勝利と言えるだろう。これで両者3勝3敗となった。

<第7局> 11月8,9日 静岡県熱海市あたみ石亭。改めてのニギリで張の先番となる。立会い工藤九段、解説石田芳夫、サポート青葉かおり。張は上辺向かい小目から中央より右へ一路寄せて低く構える。高尾は上辺左隅にケイマにかかって、右下の星に黒がかかって隅にケイマに走ると左上を二間に開いて右下黒の3三へのコスミを許し、更に右上へ一間にかかる忙しい打ち方をする。右下は黒にはさまれて窮屈になり、このサバキに応じて黒に右辺の大模様の可能性が生ずる。右上せまく開いた白石にボウシされていよいよその傾向が強まるが、高尾は構わず41手目下辺に食いついていく。速報は“名人仕掛ける”と出る。白は左下を忙しく打ってやっと先手を取り右上へ手を戻すが、黒に上から圧迫される形になる。この辺黒番の時のような厚く構える打ち方とは全く異なる。
上辺中央から左へ黒は上を塗る形を取った。更に黒は左辺で111手から白を封じ込め、返す刀で下辺の白が手を抜いていた所を味よく噛みとる。ここを速報は“挑戦者鮮やかな打ち回し”と報じる。白は上辺ハザマを突き、黒は2目を取らせて味よく上を塗ろうとする。そうなっては白はジリ貧だからしつこくはみ出す。黒は単独で隅を活きれば何でもなかったのだが、方針を継続して外側をケイマ、ケイマでかぶせていった。白は他に打ちようもないので142とツケこし、これを黒は遮って抱えた。格言に言う“ケイマのツケ越しさえぎるべからず”をやってしまった。白は隅を抑え、更に152とアテこんだ。速報は“急転直下黒の危機”と出た。黒は抱えた一子をポン抜き、白は断点を154と継いでコウに備えた。遂に黒の隅の2子取り込みに対して白はほうりこみのコウに行き、162とコウをブチ抜いてしまった。左上に大きな白地が出現した。いくら何でも白勝ちになったと皆が思った。
右上の白は隅のハネ伸びで小さく活きた。しかし黒167手のケイマで右辺の地を完成させ、上辺中央のキリ離された3子の白が生還できない状況は予断を許さぬ形勢と控え室もすぐ気が付いた。黒187手のケイマの走りが手止まりで速報は“黒に残る気配”と出た。後は目ぼしい争点はなく、午後5時42分、292手で2目半の黒勝ちとなった。どうやら張挑戦者はコウになった時点でコウを譲っても勝ちを読み切っていたようだ。外野の無責任な騒ぎようとは大差である。これで名人のタイトルは張に移ることになった。高尾は善戦したが、矢張り白番は苦し紛れな打ち方が目立つ。張は友人に自分はあまり悪手を打っていないのに高尾に負けると高尾の強さを認めていたそうだが、率直に見て張に一日の長があると感じた。
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