国際テロ


 第11章

<イラク混迷の増大> 衆知の如く米国は国連を無視してイラクに戦争をしかけ、軍事的に制圧してしまった。予めパウエル国務長官が国連・安保理で言明した生物・化学大量破壊兵器の存在は未だに発見されない。当時のイラク政府はその存在を否定し、その故に国連はそのような兵器の探索調査を開戦の前提として先行すべき旨主張したが、米国はこれを自明のことと押し切ってしまった。ここへきてブレア英首相は議会において参戦の根拠として大量破壊兵器の所在についての偽りの報告書を掴まされたのではないかと厳しく追及されている。米下院議会でも政府の情報歪曲の疑いで聴聞会を開いた。
 日本政府はイラクへの自衛隊派遣のための新たな法案を国会通過させようとしており、小泉首相は国会で菅民主党党首から大量破壊兵器が発見できず戦争の大義を示せない米国をまだ支持するのかと詰め寄られたが強引に押し切った。今や窮地に立っているブレア英首相を訪日を機に全面的に支持した。
 バグダッド陥落後既に2ヶ月余が経過したが、イラクの治安状況は日に日に悪化し米軍兵士が襲撃される状況が収まるどころか激化しており、米軍現地司令官は現状をゲリラ戦状態にあると明言した。民衆の憎しみ・反米感情は増大していつ暴動が起こるか分からないとまで言われており、あろうことか潜伏中のサダム元大統領がテープの録音放送で国民に米軍への抵抗を呼びかけたのが時宜に合う始末である。米政府は米軍駐留の長期化を言明しているが、駐留している軍隊の士気は日時の経過とともに落ち、如実に報道されてこそいないが厭戦気分は高まっているようだ。早々と大統領は空母の上で世界中に勝利と戦争終結宣言をしてしまったし、残留している軍隊にこの際明確な戦略上の目標がない。
 サダム元大統領も大量破壊兵器も発見できず、治安の回復も実現できない現状はさまにならないのが度を越している。米国はこの際国連に後事を託して早々に軍隊を引き揚げたらどうか。メンツの上からも国益の上からもその選択肢だけはないと頑張るのだろうか。まだ若干時間があるが派遣される日本の自衛隊にどういう役割を演じさせるのか、判断と指示が不適切なら小泉内閣は一挙に国民の支持を失う。

<爆弾テロの横行> 8月1日ロシア南部北オセチア共和国モズドクの軍病院で敷地内にトラックが突入・爆発、死者は50人に達した。負傷者は300人以上と伝えられる。犯行命令はチェチェン武装勢力のバサエフ野戦指令官が発したとの見方が強い。トラックに積載されていた爆薬は約1.5トンと推測されている。
 8月5日昼ジャカルタ市内米資本系高級ホテル“JWマリオット”正面車寄せに乗りつけた車が爆発し、オランダ人を含む13人が死亡、約150人が負傷した。7日に昨年10月のバリ島爆弾テロ事件の実行犯に対する最初の判決公判が開かれるところだったので、警察当局はこれに反発するイスラム過激派“ジェマー・イスラミア”の犯行と見ている。インドネシアの株式市場は事件発生を受けて急落した。
 8月7日イラクの首都バグダッドのヨルダン大使館前で車両が爆発し少なくとも11人が死亡、65人が負傷した。大使館前に駐車していた小型バス内の爆弾が遠隔操作で爆破されたという。爆発直後イラク人の若者たちが大使館内に乱入し、反ヨルダンを叫びながら荒らしまわった。
 9.11事件直後は航空機ハイジャックが国際テロの主役になったかに見られたが、警備の強化対策が一般化するようになると、果然自動車が有力な手段になってきている。遠隔操作まで登場しては望ましくないがこれからなお流行るだろう。華麗なビルの爆破効果は相当なものだが、車がビルに近づくことは容易に防げないし犯人逮捕もむずかしくなろう。

<イラク状勢> 8月19日国連イラク事務所が入っているバグダッド中心部のカナルホテルは警戒の隙をぬって突っ込んできたタンクローリーに積載された爆弾によって爆破された。当時国連による記者会見が開かれていてホテル内には外国人記者など300人がいた。死者は23名、負傷者は100名を越えると報じられ、デメロ国連事務総長代理は一旦は負傷と伝えられたが長時間崩壊した瓦礫にはさまれ出血多量で死亡した。
 ゲリラの攻撃対象は米軍からこれに協力するヨルダン軍、更には石油輸送管から水道水の送水管などのインフラ設備にまで及んできたが、遂に頼りとすべき国連組織にまで拡大され手がつけられなくなってきた。盗人にも3分の理などと言うが、強いて言えば治安回復を図れない米国軍の無力さを天下に明らかにして困らせようというのか。だが統制のとれた交渉相手が不在(表面にでてこない状況)であるために混迷は深まるばかりである。イラク支援のために現地に滞在するN.G.O.の人々も一時撤退を考えている模様である。
 このところ駐在する米兵士の士気は落ちるばかりで、記者会見に臨む米軍現地司令官も困惑を隠さないようになった。ゲリラ攻撃に怯える米軍は撮影のために進行中の戦車にカメラを向けた報道カメラマンをロケット砲をかついで狙っているゲリラと誤認して、公道上衆人環視の中で戦車兵が射殺してしまった。「かかってこい」と力んで火に油を注いだ形のブッシュ大統領だが、もしこの状況を開戦前に見通せたら間違いなく別の道を選んだと思われる。人間の予測能力の限界をまざまざと見せ付けられる。
 国連のアナン事務総長は如何なる観点からも容認できないとテロを強く非難する一方で、国連は決してテロに屈しないしイラクから撤退することはないと言明した。国連の歴史の中でも最大の危難に見舞われたわけだ。米国の専横に永らく抑え込まれている国連だがこれを機に災いを転じて福にする方策でもあるとよいのだが。

<ロードマップ破綻> 8月19日イエルサレムの中心街で2両連結の大型路線バスが自爆テロによって爆破され、19人が死亡、約100人が負傷した。イスラム原理主義組織“イスラム聖戦”と過激派組織“ハマス”は直ちに犯行声明を発し、イスラエルは決まりかけていたヨルダン川西岸パレステイナ自治区からの追加撤退を無期限に凍結すると発表、次いで西岸への侵攻を開始し、ガザ地区ではハマス最高幹部の一人アブシャナブ氏をミサイル攻撃で殺害した。これに応じてハマスは“停戦”の正式終了を宣言した。
 先にイスラエルはハマスが再軍備を進めていると非難し指名手配者の逮捕に乗り出していたが、今月に入ってハマスとイスラム聖戦の幹部殺害に至り今回の大規模報復を招くことになった。6月米国の仲介によって鳴りを潜めていた殺戮の応酬は復活し、“ロードマップ”が掲げた施策の第一歩“停戦と占領地からの撤退”は振り出しに戻った。アッバス・パレステイナ自治政府首相は自爆テロを非難する一方でミサイル攻撃をも非難する声明を発表した。彼もアラファト前代表同様に報復の応酬を止められない。
 一方で調停役だった米国政府はイスラエルの反攻は防衛上止むを得ないと容認する姿勢を示し、相も変わらずユダヤ寄りに立ってパレステイナ側の反感を買っている。調停を始めた時からこのような事態は十分に予想されたわけで、ここで新たな方策が出せないようでは米国も何をやっているのか、なまじ手を出さないより悪い結果を招いている。

<宗教テロ> 8月29日イラク中部にあるイスラム教シーア派の聖地ナジャフの金曜礼拝が行なわれていたイマーム・アリ・モスクで駐車中の自動車に積載された爆弾が爆発、説教を終えモスクから出てきた“イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)”の最高指導者ムハマド・バクル・ハキム師をはじめとして80名余が死亡した。
 最近イラク内で人口の60%を占めるシーア派内でフセイン政権の弾圧を逃れてテヘランでハキム師が結成した組織SCIRIとフセイン政権時代一貫してイラク内に留まったサドル派の対立激化が伝えられていた。サドル派は米国占領に徹底して反対し、米軍の影響下で組織された統治評議会を認めていない。指導者のモクタダ・サドル師は独自の軍隊を創設するなど米国との協調を拒否、反米を貫くサドル派の姿勢はシーア派住民の人気を集めているという。
 旧フセイン政権シンパの存在は以前から認められていたが、ここへきてその正体が現れ始めていて、イラク国内は内戦状態の様相を呈し始めた。軍事・政治優先の姿勢では宗教世界の支配は覚束ない。サダムを追い出した後の米国にはイラクの民衆の支持を得るために有効な信条・論理が欠落している。米軍の治安維持能力は日を追って低下していくように見え、収拾がつかなくなる一歩手前とも感じられる。

<チベットの悲劇> ダライ・ラマの自伝「チベットわが祖国」(中公文庫)を読んだ。著書は彼の誕生した海抜9000フィートのタクツエル村(現在の青海省湟中県)の美しい高原の描写から始まる。地方の生活のすべては宗教に基礎をおいており全チベットを通じてほとんどの人が誠実な仏教徒であったとある。彼は述懐する。“私は地位の低い農民の家の出身であることを嬉しく思ってきた。もし私が金持ちや貴族の家に生まれていたら、私は身分の低い階層のチベット人たちの感情や考えを十分に理解することができなかったであろう”と。第13世ダライ・ラマの転生者探しの末に彼が選ばれる経緯の叙述が続く。彼は第14世として選ばれた後も6歳から24歳に哲学修士として最終試験を受けるまで伝統に従って宗教哲学を含む教育を受けた。
 彼は在来のチベットの特性として計画的な孤立を挙げる。その一つは天然・自然の条件で、インドまたはネパール国境から首都ラサに至るルートは2ヶ月に渡る旅であり、彼自身の誕生した村からはそれよりはるかに遠かった。また国境は中国の海岸線や港から1000マイル以上離れている。第2に過去の中国との抗争の経験から外国人をなるべく国内に入れないようにして、世界から離れていることが平和維持の最良の方法と考えられていた。国民は自らの文化と宗教を追及する以外外部に何の関心ももたなかった。だが今回中国による征圧を受けるに及んで、彼はこの孤立政策は誤りであった、世界各国と積極的に交流しておけばこういう惨めな目には遭わなかっただろうと告白している。
 チベットは世界中で最も宗教的な国家といわれてきた。大部分のチベット人は精神的な事柄が決して物質的な事柄に劣るものではないと考えていた。国内には途方もない数の寺院があり、全人口の10%が僧侶または尼で、そうでない人々も極めて信心深い。貴族や裕福な地主と貧しい小作人の貧富の格差が大きくても、人々は運命の不平等を甘受する傾向がある。それは仏教の説くカルマの法則で、人々が前世で蒔いた種をこの世で刈り取っていると信じているからである。

 1950年には中国を共産党が制覇してしまっていて、チベットは軍事的な支配だけでなくその唯物的な教義に脅かされることになった。この脅威に対してチベット議会は英、米、インド、ネパール諸国に中国の侵略中止を勧告してくれるように要請した。最も関係が深かった英国はインドが独立した以上地政学的に援助は無理と断り、インドは武装抵抗せず平和交渉に徹するようにアドバイスするだけだった。米国も丁重に断ってきた。侵略が実際に始まり国連に提訴したが、国連総会は英国の主導によってチベット問題を棚上げし審議しない決定を行なった。この時ダライ・ラマは中国軍大軍の前に我々は見捨てられたと実感したという。そして国連加入申請もしなかった過去40年余の孤立的な隠遁政策が報いを受けたと知った。
 彼は中国軍のこれ以上の国内への進軍を防ぐために自分たちにできることは最善を尽くして中国側と折衝することだけだったと述懐する。チベットはそのための政府代表団を北京に派遣し、中国側はそこでチベットが中国の一部であることを前提とする17か条から成る協定草案を提出、代表団が本国にそれを持ち帰ることなく協定に署名することを強要した。彼もチベット政府も調印された協定の内容をラジオ放送で初めて知った。協定には“チベット人民は団結して帝国主義侵略勢力を駆逐し、祖国中華人民共和国の大家庭に復帰する”とあり、中国軍がチベット軍を吸収合併しチベットの外交上のすべての権限を剥奪していた。なお協定にはチベットに現存する政府制度を変更しない、ダライ・ラマの地位・職務・権限を変更しない、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重し寺院を保護する、人民の生活水準を向上させる、各種の改革を受け入れるなどの強制をしないといった記述もあったが、後で考えるとこれらはすべて一時的な気休めの文言だった。
 次いで1万人を超える中国軍が進駐してきて広大な地域を占拠し、食糧など乏しい資源を徴発した。将軍たちは貧しく余裕のない国情を理解していなかった。民衆の忿懣は暴発の懸念さえあったが、ダライ・ラマは非暴力を唱えて沈静化に努めた。次いで彼は中国政府から招待を受け、周囲の反対を押し切って中国人民全国代表会議に出席するために北京に赴いた。途中西安でダライ・ラマに次ぐ宗教権力をもつパンチェン・ラマに会い、北京に同道した。彼は世俗的な権力はなかったが、この政変の中で同じ運命にあった。
 ダライ・ラマは2度ほど毛沢東に会った。最初に会ったときは“仏教は確かによい宗教だ。釈尊は人民の生活条件向上に努めた方だし、観音菩薩は心優しい女性だ”と述べたが、次に会ったときには“私はあなたをよく理解している。だがもちろんのことだけれど宗教は毒だ。宗教は二つの欠点をもっている。まずそれは民族を次第に衰えさせる。次にそれは国家の進歩を妨げる。チベットとモンゴルは宗教によって毒されてきたのだ。”と低い声でささやいた。彼は毛沢東が宗教の手強い敵であることを知った。毛沢東は親愛感に溢れているように見え、“身体に気をつけなさい”と別れの言葉を告げたと記している。彼は周恩来にも会った。彼は友好的だったが、抑制的で毛沢東ほど率直・解放的でないように見えた。彼は実務的で何事も冷酷・無慈悲に推進するだろうという印象を受けた。後日彼がチベット弾圧政策を承認したと聞いたときに毛沢東の場合と違って私は少しも驚かなかったーと記している。
 ダライ・ラマがラサに帰り着くとやがて民衆に反中国・反改革の気運が高まってきた。市中の至る所に中国非難のビラが貼られた。国境の向こう側で行なわれている民主改革のみじめさを知った民衆は改革に反対し、逮捕の手を逃れるために山に逃れた。山岳はゲリラ戦術にとって絶好の場所であった。−最近のアフガンと類似した話だー このような状勢でダライ・ラマはインドで行なわれる釈尊の生誕2500年祭ブッダ・ジャヤンテイに招待された。彼はそれに応じ国境の高い峠を越えてインドへ入った。インドで彼はネール首相に実情を訴え、ネールは辛抱強く話を聞いてくれたが、同時に彼はインドが何も積極的なことはできない、ラマに帰って17か条の協定を忠実に守るように説くだけだった。
 国内情勢の緊迫を理由に周恩来から帰国を促されてラサに戻ってみると、中国は山にこもったゲリラとそれを支援していると疑いをもった村や寺院に対して無差別な攻撃・爆撃を加えていた。僧侶や俗人指導者たちは屈辱的な扱いを受け、投獄され、殺害され、拷問を受けた。仏像・経典・建築物は破壊され、さげすまれ、宗教を冒涜する布告が出された。更に中国はゲリラに直接もしくは政府を通して武器の引渡しを要求した。彼ら軍部は反乱が止まないことに怒り狂い、実在しない帝国主義者とそれをかばう政府を責めた。将軍は演説で“腐った肉のあるところに蝿が集まる。しかし腐肉を取り除けば、もう蝿に悩まされることもない”と言った。ダライ・ラマに言わせれば“蝿はゲリラの戦士であり、腐った肉は私の内閣か私自身であった”と。17か条の協定は疾うに中国側から破られてしまっていた。

 遂に破局のときが来た。ダライ・ラマに中国軍の兵営における観劇の招待が来たのだ。彼は断ってはまずいと都合のよい日時を報せたが、条件はダライ・ラマが護衛兵なしで軍の兵営の中に入ることと分かるとラサの市民に疑惑が広がった。人々は彼が誘拐され、中国へ連れ去られる恐れがあるので、彼を中国軍兵営に行かせるわけにはいかないと決議した。定められた日時が近づくと群衆は離宮を十重二十重に包囲した。止むを得ず彼は将軍宛に観劇に行けないことになったことを伝えるように指示した。将軍は怒り狂い、“我が政府はいままで寛容であった。しかしこれは反乱である。これが忍耐の限界である。我々は今こそ行動に出る。だから覚悟していろ”と言い放った。
 多数の重砲が搬入されノルブリンカ離宮に標的を絞りつつあることが判明すると、すべての役人、市民はダライ・ラマの命を救わねばならない、そのためには即刻離宮をはなれてもらわなければならないと考えた。彼に時間的な余裕は与えられず、みすぼらしい兵士の姿でひそかに夜の城外へ出た。小さな皮舟で河を渡り、決死の脱出行に出発した。彼の通る道にはいざとなれば命をかけてでも彼を守ろうとする民衆がいた。出発して48時間後中国側はノルブリンカ離宮、ラサ宮殿、ラサ市内に向けて砲撃を開始した。もはや軍は彼を殺害することを躊躇しなかったのだ。中国軍は廃墟と化した離宮で死体を調べまわった。侵略開始8年目にして中国はチベット人が外国人の支配統治を決して快く受け入れないことを悟り、無慈悲な大量虐殺によってそれを強行しようとしていることが分かったと彼は述べている。
 中国軍の追跡を逃れる険しい山の必死の逃避行が続いた。従者には老人もいて旅は極めて困難だった。ラサの穏やかな生活に慣れた人々にとって19000フィート以上の山を越えることは容易ではなかった。旅の途中で中国側がチベット政府を解散させたことを聞いた。それまで彼らが維持していた17ヶ条の内の唯一の約束―ダライ・ラマの地位を変更しないーを破った。彼は臨時政府の樹立を宣言し、併せて亡命を決意した。インド政府宛に亡命者としての保護を要請する手紙をもたせた使者を出発させた。国境を越えると一行はインド政府の暖かな歓迎を受け、彼はチベットに残っている国民に配慮した穏やかな言葉の声明を発表した。「インド政府の歓迎に感謝し、チベットを襲った悲劇に心から遺憾の意を表する。願わくば紛争がこれ以上の流血を見ることなく速やかに終息することを」というものだった。これに対して北京政府から声明が出され、―ダライ・ラマはラサの反乱分子によって誘拐された。いわゆるダライ・ラマの声明なるものは本人の意思ではなく、帝国主義侵略者の意思を反映している嘘と抜け道にみちたものであるーと述べていた。
 インド政府は一行の当面の落ち着き先であるムゾリーの町宛に特別列車を仕立ててくれた。そこに落ち着くと彼は17ヶ条協定を正式に拒否し、法律家国際委員会宛に提訴した。法律家国際委員会は50ヶ国の法律家3万人に支持され構成された独立した国際的な協会である。委員会は今世紀初頭に締結されたチベット関係の諸協定を調査・検討し、ダライ・ラマたちが完全な主権国家でありかつ事実上の独立国家であるとの結論をくだした。委員会の調査によって恐ろしい多くの事実が明らかにされた(同委員会報告書「チベット問題と法の支配」)。何万というチベット国民が殺された。彼らは共産主義に反対したとか金をたくわえたという嫌疑や地位のために裁判も受けないで殺された。彼らは銃殺だけでなく、死ぬまで鞭打たれたり、生きながら焼かれたり、腸を抜かれたり、首を切られたりした。こうした殺人行為は公衆の面前でなされ、知人たちはそれを見物するように強制された。僧侶たちは特に迫害され、辱められ、嘲られて死んでいった。
 ダライ・ラマたち亡命直後だけでなく、文化大革命でも迫害は強化されたらしい。ダライ・ラマはーヒマラヤの陰にかくれてチベットは巨大な囚人収容所のようであるーと述べている。彼の訴えにも拘らずチベットが開放されることはない。この随筆でも2002年7月の<消されかけの文明>でこの悲惨な事実を知って少しばかり取り上げた。形は違うがロシアのチェチェン、パレステイナ、イラクなどでもテロと紛争は続いている。しかし第2次大戦後チベット人ほど苦しんだ人々はいなかったのではないか。そしてその苦しみは今日現在も持続している。仏教を捨て人権を抑圧し続け国家覇権にこだわる中国にアジアの盟主たる資格はない。

<イラク治安激悪化> 12日イラク南部ナシリアに駐屯するイタリア軍警察本部に自爆テロの大型タンクローリーが突入し、4階建てのビル前面が崩壊してイタリア軍兵士、警察官など22人が死亡した。これはイラク駐留の米国以外の軍隊にとって最大の被害となった。先にバグダッド周辺地域で兵員輸送中の米軍ヘリコプターが続けて携帯式地対空ミサイル攻撃により撃墜され多数の死傷者が出たばかりだが、イラク南部は比較的安全と見なされていた。しかし一説によれば5日ほど前にウサマ・ビン・ラデインが「攻撃対象を南部に移す」という指示を出していたと言われる。
 米海兵隊と違ってイタリア軍警察は友好的で住民の間でも評判がよく、“これまで何も問題が起きたことはない”といわれ、住民は事件の後現場に駆けつけ、イタリア人をイラク人同様に救助したという。爆発で近くの住宅も壊され、通行中の市民も多く巻き添えになった。写真を見ると運転席周辺は完全に破壊されているが、車両後部の大型タンクはほぼ無傷のままに残っており、車両は爆弾搭載のために利用されたことが分かる。
 このような事実から明らかになることの一つはここではテロリストと住民は一体化した感情を有しておらず、上部(アルカイダ関与か?)の総合的な戦略によってテロリストたちが動いていることだ。犯行声明は出されておらず、米軍とそれに追随する外国人部隊は速やかに立ち去れという意思は感じ取れるが、反抗グループの実態はまだ明らかにされていない。もう一つは犯行が自動車を利用した自爆テロの形をとることが恒常化していて、人間が爆弾を直接に携行するのに比して甚大な被害を与え得る爆薬量を積載でき、9・11事件での航空機ハイジャック以後の有力な武器になってきていることだ。
 米軍がバグダッド市内に入った4月上旬にフセイン政権が忽然と姿を消したことは不思議ではなくなる。それは、諜報機関を核にしたフセイン政権が、地下に潜って米軍と戦い続けることを決定し、実行したということだった、と考えられる。米軍の侵攻によって崩壊したのはフセイン政権の表の部分で、裏の部分はまだ生き残っている。ブッシュ大統領が空母艦上でイラク制圧を宣言した時に、彼はフセインが戦いをゲリラ戦に切り替えたことを悟っていなかった。今や米軍はミサイルや地雷、更には自動車による自爆攻撃などのゲリラの軍事抵抗に相当に手を焼いている。こうなると小泉政権が現憲法の下で積極攻撃もできない日本の自衛隊をイラクに派遣するのはどう考えても無理がある。



第12章に続く

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