第14章

<中東・12の火薬庫> “中東迷走の百年史”(新潮新書)と題する小冊子(著者 宮田 律)が12の地域を選んで欧米・ロシア諸国がそれらの地域に如何にして20世紀に負の遺産を残したかという経緯と、それを背負わされた民衆がイスラム原理主義という思想を得て、国際テロに発展する恐れのある危機の火種を醸成しつつあり且つ燃え上がらせている実態を記している。
まずその12の地域を列記してみる。1)イラク、2)イスラエルとパレステイナ、3)サウジアラビアとイエメン、4)イラン、5)トルコ、6)クルド(イラン、イラク、トルコの山岳地帯)、7)アフガニスタン、8)カシミール(インド対パキスタン)、9)中央アジア(ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン)、10)カフカス(チェチェン、グルジア)、11)東アフリカ(スーダン、ソマリア、エチオピア)、12)マグレブ三国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)。
地域別に現在の状況だけでなく、20世紀初頭、あるいはその前から今に至るまで紛争の種蒔きとそれが如何に育って現在に至ったかについての歴史を顧みた論評が加えられている。それらの一部を要約してみる。
1)英国とフランスは第1次大戦中に敵国オスマン・トルコのアラブ地域を分割する密約を結んだ(サイクス・ピコ協定)。英国はアラブの指導者ファイサル・イブン・フセインを初代国王に据えてイラク王国を樹立したが、第2次大戦後王政に不満を持つ軍人らによる4度のクーデターの後、サダム・フセインという独裁政権がバアス党・軍・治安組織という“フセイン・システム”を作り上げ、少数派のスンニ派を率いシーア派、クルドを抑圧して対外膨張策を取り、イラン・イラク戦争を仕掛けた。イラン革命で反米に転じたイランを抑えるために米国は積極的にイラクを支援、大量の武器を供与した。次いで1990年イラクはクエートに侵攻、多国籍軍を組織した米軍に敗れて膨張策は破綻した。イラクは米国を見誤った。米国がイランに挑んだイラクに組したのは単に“敵の敵は味方”の論理に過ぎなかった。
その後2003年米国は大量破壊兵器の存在を前提としてフランス・ドイツ・ロシアなどの支持を得ないままにまがりなりにも安定を得ていたこの国の攻撃に踏み切った。最近になってパウエル国務長官はこの情報が誤っていたことを公式に認めた。アナン国連事務総長は米国の行為は国連憲章に違反したと断罪した。サダム・フセインを排除しても民族・宗教の分裂と米国に対する国民の強い反感の中で間断のないテロによって治安は回復せず、民主主義制度を定着させることは至難の業である。
2)英国は第1次大戦当時、敵国オスマン・トルコをゆさぶるためにアラブ、ユダヤ双方に相矛盾する密約を交わした。アラブの指導者フセインにはオスマン帝国のアラブ地域に独立アラブ国家を建設する “マクマホン協定”を、金融面でシオニストの協力を得るためにユダヤ人に民族郷土を建設する“バルフォア宣言”を交わした。この結果大規模なユダヤ人の移住に伴い、パレステイナ人の大規模な暴動が発生した。第2次大戦で紛争解決は先延ばしされたが、ヒットラーのユダヤ人虐殺に対する同情から戦後ユダヤ人国家建設を国連が公認した。これはユダヤ人迫害の罪をアラブ人の犠牲によってあがなうもので、パレステイナ人および周辺のアラブ人にとって到底容認できるものではなかった。その結果が4度にわたる中東戦争だが、イスラエルの圧倒的な軍事力によってアラブ側は敗れ、生活環境を更に劣悪化したまま状況を改善できないでいる。相互に憎悪の感情をエスカレートしたイスラエルとパレステイナのテロの応酬に状況打開の見通しは全く立たない。
3)1932年イブン・サウードによってサウジアラビヤが政教(イスラムと王政)の融合した国家として発足した。イスラム教が王制にとって諸刃の剣である不安は当初から内在した。1990年台に湾岸戦争において米軍を招きいれたことがイスラムの伝統的価値観に目覚めた人々の反撥を招き、オサマ・ビン・ラデインは反王政に転じた。親米の王政とイスラム過激派の対立は次第に激化しており、イラン王政末期と類似している。
イエメンは20世紀初頭英国の介入によって南・北に分けられたが1990年ソ連の崩壊によって再び統一された。湾岸戦争で親イラクの姿勢を取ったためにサウジは数十万人のイエメン労働者を国外追放処分にし、イエメン経済に大打撃を与えた。イエメンはオサマ・ビン・ラデインの出身地でもあり、イスラム過激派の動向にサウジは神経を尖らせている。
4)1979年親米一辺倒で国民に圧政を布いたパーレビ王政に対してイスラムが革命のゆりかごになり、王制は崩壊してシーア派によるイラン・イスラム共和国が成立した。反米意識の強かった聖職者ホメイニの指導によるイスラム的規制に対して、次第に高まった不満を背景に1997年改革を唱えるハタミ大統領が登場してある程度の親米感も見せたが、“悪の枢軸”の一国に入れて敵視するブッシュ米政権によって反米に戻りつつある。誇り高いイラン国民はイスラム国家群とは必ずしも協調しない。
5)嘗てオスマン・トルコ帝國は広汎な版図を誇っていたが、第1次大戦の結果解体された。しかし言語・民族・文化を通じて中央アジアを中心に国境を越えた汎トルコ主義の連帯感が残っている。トルコ共和国はケマル・アタチュルクが中心になって築き上げたイスラム世界で始めての民族国家で、トルコ民族が多数派を構成する。トルコは87年以降再三にわたりEUへの加盟を申請してきたが、イスラム文化圏のトルコをキリスト教のヨーロッパは拒絶し続けている。これによってまたトルコ国民のイスラムへの傾倒への度合いが強まりつつある。
6)クルドは中東で人口で4番目に多い民族でイラン、イラク、トルコ3国にまたがる“クルデイスタン”と呼ばれる山岳地帯に住む。16世紀以来オスマン帝国の権威に従っていたが、第1次大戦以後“セーブル条約”が将来の独立を視野に入れた自治を約束していたにも関わらず、クルデイスタンの石油資源に注目した英国はその地を自らが委任統治するイラクに含め、クルドは英国・帝国主義の犠牲になった。またクルドはケマル・アタチュルクの独立を支援したが、新政府成立後トルコはクルド人のアイデンテイテイを凄惨な方法で抑圧した。第1次大戦中、英仏は密約によってアラブ世界をそれぞれの勢力範囲におき、宗教・民族の実態を無視して国境の線引きを行い、新国家を造成した。中東の様々な問題の遠因はそこにあるが、イラクに組み入れられたクルドの悲劇もそこに始まる。イランでも革命前後を通じて少数民族クルドに対する抑圧は続いていて、クルド人の不満は鬱積している。
8)1947年英国はインドの解体に当たり、ヒンドウー教徒やシーク教徒が多数を占める地域をインドに、イスラム教徒が多数居住する地域をパキスタンに割り当てて分割した。その際にカシミールの帰属を明確にしなかったことが紛争の原因である。以後4次にわたる印パ戦争でも決着は付かないばかりか、インドとパキスタンの宗教対立の様相を呈し、インド国内のムスリム少数派(1億3000万人)の安全をも脅かすようになった。
10)カフカスといえば嘗てソ連時代にアルメニア・グルジア・アゼルバイジャンの三共和国をめぐって紛争が起こり、ソ連崩壊の引き金の一つになった。今日の焦点はチェチェンである。18世紀末ロシアは南方への拡張政策を展開するが、後にチェチェン民族運動の英雄とされるシャイフ・マンスールが率いるイスラム神秘主義教団の強い抵抗に会う。しかしロシアの南下政策は継続し、東グルジア(1801)・オセチア(1806)・アブハジア(1810)・北アゼルバイジャン(1813)・アルメニア(1828)を征服した。チェチェン人はロシアに抵抗して敗れ再三にわたる強制移住を余儀なくされた。
現在のチェチェンはこのようなロシアの抑圧への宿怨を基にカスピ海に面しているダゲスタンとの合邦による独立を望んでいるが、ロシアはカスピ海沿岸の諸資源確保のためにチェチェンの分離独立を断じて認めることはできない。北オセチア小学校の惨劇もこのような背景で発生した。チェチェン武装集団の拠点になっているグルジアとロシアの関係も頓に緊張の度を加えている。

<ブッシュ大統領再選> 10ヶ月以上に及ぶ米国大統領選挙は11月3日ケリー民主党候補がブッシュ氏に当選を祝福する電話をしたことで決着した。選挙は2000年に次いで大接戦になったが、開票の終盤、勝敗の鍵を握るオハイオ州での実質的な敗北をケリー候補がいさぎよく認めた。同時に行なわれた上下院議員選挙でも共和党が過半数を制した。大統領は勝利宣言の後に「あらゆる国力を動員してテロとの戦いに全力を尽くす」と述べた。彼は記者団との会見で“イラクの聖戦アルカイダ組織”を率いるザルカウイ氏(自衛隊の撤退を要求し、先日日本人幸田氏の首を斬った)が潜んでいると見られるイラク中部ファルージャに対して、選挙終盤に一旦手控えていた大規模攻勢を近くかけることを否定しなかった。ファルージャは暫定政府の統治が及んでいない地域の代表的存在で、このまま推移すれば1月に予定される国民議会選挙の重大な妨げになる恐れがある。ブッシュ大統領再選を受けて米国の防衛関連銘柄と医薬品銘柄の株価が上昇した。
イラクへ単独攻撃をかけてフセイン政権を打倒し、後にその大義であったはずの大量破壊兵器が存在しなかったことを認めたブッシュ政権だが、大方の予測に反して米国民の過半数の支持を受け、少なくとも国内ではその政策を承認された。選挙戦を通じて民主党ケリー候補の追及が煮えきらず不十分だった感は否めない。またケリー候補は国民にブッシュに代わる政権の明確で好ましいヴィジョンを示せなかった。ジョージ・ブッシュ氏を個人的に評すると、演説の歯切れがよく論旨が明確である。私が聞いてもよく分かる聞きやすい英語を話す。独特の口調はテレビ画面を見なくても誰が話しているか、聞き間違えることはない。あの声は忘れられない。個性が強いことは政治家にとって必要な要件である。彼は9・11事件を100%政治的に利用し、明らかにイスラム圏の人々を敵に回したが自国民の団結する動機を捉えた。それが世界人類にとってよいことだったかどうかは疑問である。彼の政策評価はいずれ歴史が下すだろう。しかし彼の採った道は彼、ならびに米国民にとっては必然だったことが証明された。

<報道管制> チェチェン(右地図)紛争は詳細が世界に報道されない。ロシア政府はチェチェンに外国人記者を入れさせない。関連するテロ情報は抑え込む。モスクワ劇場占拠事件で129名の観客が巻き添えを食って死亡した原因になった催眠ガスの名は公表されていない。瀕死の人質が運び込まれた病院が解毒治療のために特殊部隊にガスの種類を問い合わせると、「機密情報だから教えられない」という答えが返ってきたという。北オセチアのベスランで起きた学校占拠事件では300人以上の犠牲者(大部分がこども)が出たが、この事件の詳細は当局から発表されていない。なんとか真実を取材したり報道しようとする記者は不当に逮捕されたり暗殺されかけた。
発端はソ連瓦壊間もなくの91年にチェチェンによる独立宣言である。これを安易に許せばダゲスタンや沿海州などの石油・天然ガスなどの資源を有する地域が次々に独立し、ロシアは崩壊することを危惧した。エリツイン時代の94年に始まったこの戦争は99年首都グロズヌイの制圧を目指したプーチンによって継承され、2000年2月上旬のグロズヌイ陥落でプーチンは大統領の座を獲得した。ロシアは前回の紛争のチェチェンとの和平合意でチェチェンの実質的な独立を認めていた。そのチェチェンをプーチンはロシアに取り戻した。ロシア連邦軍の攻撃による犠牲者は20万人以上と推計されている。1989年の人口が127万人だから約1/6が殺された。広島原爆の死者数に匹敵する。第1次チェチェン戦争で数多くの記者が取材し悲惨な映像が連日ロシアのお茶の間に届き、反戦運動と停戦の流れを生んだ。第2次チェチェン戦争を始めたプーチンはチェチェンから報道陣を締め出したのである。プーチンはKGBの出身であり、情報秘匿の効用を熟知している。
米国報道機関のイラク報道に関して米当局は以前から強い圧力をかけていたが、アルジャジーラ・テレビの報道には不快感を示すに留まっていた。ところが最近になってイラク暫定政府の組織がアルジャジーラ・テレビのバグダッド支局に乗り込んで、同局を閉鎖してしまった。米当局の意向を受けたものであることは明らかで、同テレビがファルージャでの民間の結婚式を米軍が誤爆したのを大きく報道したことが発端と言われる。イラクの現状についての公正な報道は世界の視聴者に届かなくなった。一方で“ジハード”を自称する集団の人質殺害の威嚇や処刑の映像もテレビには流せなくなったのも事実だ。
<イラク選挙> 2005年1月30日イラクの国民議会選挙が実施され、事前の予想に反して投票率が50%を超え、独立選挙委員会は推定投票率を60%と発表した。結果はシーア派の大勝と見られ、建国以来の少数派スンニ派支配の構図は崩れた。中部ファルージャやラマデイなどスンニ派地域の投票率は低調だが、イラク中・南部のシーア派地域、北部のクルド人地域では9割前後の投票率になると伝えられる。開票と集計には1週間以上を要すると推測されている。
シーア派最高権威シスターニ師の支持する連合会派“統一イラク同盟”が圧勝し、シスターニ師は“投票したイラク国民”に謝意を表明した。長期間サダム大統領の下で屈従を強いられてきたシーア派の人々にとって長い圧政から脱け出る日が遂に来たのだ。。しかし少数派となったスンニ派と少数民族のクルド人とを如何に取り込んでいくかが大きい課題として憲法制定と統一政府の樹立に至る過程に残っている。
ブッシュ米大統領は同選挙を“明確な成功”と称賛した。国連のアナン事務総長も選挙結果を“民主化への一歩”と評価し、各宗派に和解を呼びかける声明を出した。フランス政府など欧州諸国も高投票率を評価する声明を次々に出した。
選挙当日武装勢力による投票所攻撃(主として自爆テロ)の死者は35人に達し、被害はバグダッドに集中した。29日夜にはバグダッド中心部の米大使館がロケット弾攻撃を受けて7人が死傷、また30日英空軍のC130輸送機が墜落(撃墜?)し、英兵少なくも10名が死亡した。これらの被害はしかし憂慮された被害の規模を下回ったと言えるだろう。もちろん今後もイラク国内のテロが消滅することは有り得ないが、これを契機に政情の好転につながる希望は出てきた。それはまだ長い道程になるだろうが。

<ロンドン同時テロ> 2005年7月7日、ロンドン市内の地下鉄車内3箇所、地上の2階建てバス車内1箇所で、就中地下鉄は午前8時50分頃ほぼ同時に爆弾が破裂、50人以上が死亡(オルドゲート駅周辺など一部では死体の搬出・分別が困難で、死者は100人を超えるという説もある)、重体22人を含む約700人が負傷した。捜査当局は地下鉄3箇所で使用された爆発物は時限装置付きのリュックサックに入る程度の小型高性能爆弾であったと発表した。事件は同日からグレン・イーグルスで開かれた主要国首脳会議(G8)に合わせて企てられたと見られ、ヨーロッパのアルカイダと見られる犯行声明がインターネットに掲げられた。声明ではこれは“アフガニスタンおよびイラクにおける英軍の殺戮行為への報復”であるとしている。
1日前にシンガポールで開かれたオリンピック総会で2012年の開催地誘致成功に歓喜したロンドンは一転して混乱と悲嘆に包まれた。1日中市内の公共交通機関は杜絶、至る所で検問が行われ、人々は徒歩で遠い家路へついた。サミットの議題には急遽テロ対策が追加され、“何の落ち度もない民衆を殺害するテロには断じて屈しない”と宣言するブレア英首相の後ろに7人の首脳が立つ姿は印象的だった。彼は何度も“innocent people”を繰り返した。政治家にとって言葉は何よりの武器である。一方で日本政府が画策していた国連安保理改革へのサミットの協力要請は事件のせいもあって吹き飛んでしまった。
2004年3月11日午前7時30分、スペインの首都マドリード中心部の三つの駅で四つの列車内で10分以内に次々に爆弾が破裂、約200人が死亡、約1500人が重軽傷を負った。爆弾は携帯電話で起爆する遠隔起動型だった。今回のテロ事件はこの事件との類似点が多い(12章 スペインの列車爆破)。しかし更にふりかえれば、1995年3月20日の日本における地下鉄サリン事件で丸の内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成の計5編成の地下鉄車内で霞ヶ関に代表される首都中心の機能攪乱を狙ったオウム真理教集団の神経ガス・サリンによる無差別テロが世界の耳目を驚かせたことをもう人々は忘れかけている。今回の事件は明らかにこれが下敷きになっている。
第2次大戦中の日本軍の神風特攻隊の自爆攻撃は今でもイラクで頻発している自爆攻撃の発想の基になっている。平和を愛する日本と自称する日本人が実は世界中に国際テロの種を播いたことを否定できない。これだけ爆弾テロが横行し、それを防ぐ有効な手だてがないために、ダイナマイトの発明者であり、ノーベル賞の創始者であるアルフレッド・ノーベルを呪詛する人間が出てくれば、、同様に見当違いではあるが日本人も決して“innocent”ではなく、テロの元凶を育んだとして呪詛の対象にならぬとは限らない。人として生まれ育てば、誰も“全く罪がない”と言い切ることはできないという自省が必要なようだ。
しかし表面的には今回のテロへの憎しみは多分キリスト教を信じる欧米人のイスラム教への敵意を一層醸成するだろう。ブレア首相は“大部分のイスラム教徒は今回のテロを憎んでいることを忘れてはならない”と発言してはいるが。一方でテロを継続するグループの常時念頭にあるのは、一貫して自分らこそ正義であると主張してやまず、反省のかけらもない米英政府とその追随者にあることは確かだろう。
情報機関の発祥の地であり伝統的に情報通であったはずの英国当局が今回のテロを予知できなかったが、事件発生6日目に遂にロンドン警視庁は実行犯4人を特定した。4人はいずれもヨークシャー州に住むパキスタン系英国人で、事件発生直前の午前8時半前にキングズクロス駅に集合し、そこからそれぞれ地下鉄やバスに乗り込んで行ったことが監視カメラで確認された。4人はいずれも自爆テロを実行した模様で、内3人の遺体は確認された。当初報じられたような時限装置によるテロではなかった。これで自爆テロを常套手段とするイスラム過激派の関与が濃厚となった。英捜査当局は2500台以上の監視カメラを検証し2000件を超える市民の情報提供の助けを借りて威信を回復した。なお実行を指揮した指導者は国外に逃亡した模様で特定に至っていない。
7月21日ロンドンで2度目の同時爆破テロが実行された。同様に地下鉄3箇所とバス1カ所だったが、いずれも大きな爆発には至らず死者は出なかった。ロンドン警視庁は3人の実行犯を、またイタリア当局がローマで1人の実行犯を拘束し、4人全員が逮捕されたことが報じられた。何故2回目が不発に終わったのかは明らかにされていない。
<エジプト> 7月23日午前1時15分、エジプト・シナイ半島、紅海沿いの高級リゾート地シャルムエルシェイクで連続自爆テロが発生し、死者は少なくとも88人(その多くがエジプト人)、負傷者は200人に達した。爆発はホテルなど3箇所で起き、国際テロ組織アルカイダ系“アブドラ・アザム旅団”を名乗る組織がウエブ上に犯行声明を出した。この地はエジプトが最も治安の強化を図り、外国人観光客や国際会議を呼び込んできた場所である。ムバラク政権は9月の大統領選挙を前にその威信低下を狙われた。
エジプトでは97年11月17日、ルクソールで武装集団が外国人観光客に向かって銃を乱射、日本人10人を含む67人が死亡した。エジプトはイスラム社会に属しながらも、近代化や過度な親米路線が過激派組織に狙われている。こういう自爆テロが近々終息する見通しは全くない。むしろ世界的な観光地に蔓延する恐れがある。こういう事件を起こす人々の心情に“反米”と併せて繁栄に対する反感もあるのだろう。宗教というものの本来の役割はこういう事件の根源を除くことにあるはずだが、現実はその逆を行っているのは人間の愚かさと矛盾の表れで、救いようがない。