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 『山猿塾』は、ジャーナリストの青木慧さんがFAGRIメンバーの支援も受けながら、兵庫県丹波市(当時は市島町)に自力で建設した、自給生活創作の場です。その活動は『山猿塾だより』として、現在は、コミュニティfolomyのフォロ「農と食のフォロ:でんえん・ふぁぐり村」(folo:fagri)の会議室丹波『山猿塾』だよりに連載されています。folomyに移転する以前の旧FAGRIに掲載された『山猿塾だより』は、このサイトなどでお読みいただけます。

 『山猿塾』のはじまり

 現場を巡るジャーナリストの第一人者、青木慧さんが兵庫県丹波市(当時は市島町)市ノ貝に耕作放棄地を入手して、その保存・活用方法についての質問をパソコン通信「ニフティ・サーブ」の旧FAGRI・第13会議室に書き込んだのは、1993年のことでした。


00576/99999 ******** 青木 慧(さとし) 教えて 休耕田の活用法
(13) 93/01/14 23:26 コメント数:3

 一昨年末に丹波高原の山間(兵庫県市島町)に、約700坪の棚田(山田)を買いました。兼業農家とまではいかないと思いますが、ここで野菜や果物などをできるだけ自給自足しながら(コメづくりは無理?)、物書きの仕事をつづけていく考えで、自然から学び直しながら、その体験を記録していくつもりです。

[ 旧NIFTY SERVE 当時のメッセージから抜粋 ]

 さっそくFAGRIのメンバーたちから、いろいろな土地活用のアイデアやノウハウが提供され、1993年に『キャンプ山猿塾』としてテントを張り、現地での生活拠点づくりからスタートしたのが『山猿塾』。
 人が人として生活するために、あまりに目先の利便性に頼り過ぎていないか、生物として『生きる』本能を忘れてはいないか、
 現代社会の商品経済に可能な限り頼らず、自然から学ぶことを大切にしながら、自らの力で生きることの意味を人々に問いかける青木さんの活動が始まりました。

 『山猿塾』の足跡


 1993年10月、耕作放棄地だった原野にテントを張っての『キャンプ山猿塾』が行われ、次いで暮れから正月にかけて、冬場のキャンプも行われました。これから『山猿塾』の活動は本格化します。また地域の人々との交流も始まり、FAGRIのメンバーたちの訪問も活発化してきました。

山猿塾:冬の山猿塾(初期の画像)  1994年暮れに完成した丸太小屋を拠点にした活動は、それまで山猿塾に深く関わってきたFAGRIのメンバーたちとの使用権の共用という形で広まっていきます。この小屋は「ひまわり小屋」と名付けられました。利用に際しては、メンバーでルールが決められるなど、自主的な運営も始まりました。

 1995年1月17日に関西地方を襲った大地震「阪神・淡路大震災」では、参加メンバーの安否も心配されましたが、被害はなく、山猿塾も無事に活動を継続することができました。

 そして、青木さん家族はこの年、「ひまわり小屋」を拠点として、現地に自宅の建設を開始しました。また夏のキャンプまでには水道もひかれ、自給自足体制をめざした耕作も始められました。

 市島町に居を構えて地域との交流も深まった『山猿塾』が、1996年1月に朝日新聞に紹介されて以降、マスコミによる取材なども活発化してゆきます。それにつれて、山猿塾をめぐる環境も少しずつ変化し始めます。



 『山猿塾』の変化

山猿塾:夏の開拓小屋


 この頃、インターネットが爆発的に普及をはじめ、パソコン通信ネットを瞬く間に凌駕してゆきました。その背景にあるのは、「情報」に対して求めるものの変化です。コミュニケーションを通じて、社会への関与と参画の場を自らが求めてゆこうとする、パソコン通信やフォーラムが支えられてきた考え方よりは、第三者的に外から眺めるだけの情報活用を指向する考え方が、インターネットの普及で広まってゆきました。
 それと並行するかのように、志をともにする有志たちがつくりあげた『山猿塾』を、単に見学したり見物したりという、興味本意の訪問者が増えてきたのです。

 マスコミが持つ力に戸惑いつつも、本当に目指すことを見失うことなく活動を続けようとするメンバーたち、反面、マスコミや訪問者への対応で精神的な負担が増えてゆき、本当にやりたいことができなくなる、そんな葛藤が生まれてきたのが、この頃でした。

 1997年1月、自力で建設した青木さんの自宅『創作住宅』が生活拠点としてついに落成、地元での披露も行われて、さらに地域に溶け込んだ生活が始まりました。
 しかし、青木さんの活動がマスコミ報道などによって知られれば知られるほど、時を選ばずに訪れる外部からの見学者も増え、賑やかなイベントと化した「山猿塾キャンプ」に参加しては、都会感覚のまま傍若無人に振る舞う子どもたちと注意や躾もできないその親たちへの「闘争宣言」を『山猿塾だより』で表明するまでに。地に足をつけた活動を目指す人たちと、興味本意の『利用者たち』の軋轢は、秋のキャンプ・ファイヤーで一気に表面化し、生活の場で火遊びを始める子どもを見かけるや、ついにキャンプ・ファイヤーにバケツの水をかけての即刻中止宣言。これが転機になって山猿塾キャンプも事務局主体の運営に変えられ、『山猿塾』づくりに自ら関わってきた少数の人たちによる地道な支援活動へと戻ってゆきます。


 『創作住宅』へ

 『創作住宅』建設の過程を描いた著書は『やったぜ! わが家を自力建築 − 毒漬け住宅に住めるか』(汐文社刊)として刊行されました。そして建設過程での建築フォーラムでの発表なども含めて、山猿塾の建築物への関心も高まってゆきます。その中から、山際での自給自足生活と森林資源の有効な利用のビジョンが明確になってきました。
 また、ひところの興味本意の訪問者たちも次第に減り、山猿塾が目指すものへの共感を持った人々との落ち着いた交流が、ようやく定着を始めました。

 食料の自給体制はさらに充実、小麦の栽培も本格化したり、鶏小屋が完成したり、いよいよ『第3種兼業農家』としての生活が軌道に乗り始めます。
山猿塾:創作住宅の本宅

 地域社会の暮らしと環境を守る拠点へ

間伐材の搬出作業  青木さんにとっては手入れされず放置されたまま山林は資源の宝庫。材木や燃料ばかりではなく、樹皮などの腐植物や長年推積した腐葉土も良質の堆肥になります。農繁期である冬は、積雪をうまく利用して間伐材を搬出する“林繁期”。間伐材を用材だけではなく燃料としてもフル活用しながら、さらに地元の人々にも地元の森林利用を再認識してもらいたいとの思いから、森林資源の活用も本格化します。

 1999年1月には著書『ゼロからの山里暮らし』が刊行されて、創作住宅を紹介した著書とあわせて、実験・実証の場としての山猿塾の全貌が紹介されました。

 同じ年の新明け早々、山猿塾が地域社会の中で新たな役割を果たす転機となる事件が発生。市ノ貝の集落に住民を買収した大規模な墓地開発計画が進行していることが明らかになり、自然環境を守るための反対運動が本格化します。青木さんの現場ジャーナリストとしての経験が地元に役立つことになり、市ノ貝地区の役員になっていた青木さんは、山猿塾を反対運動の拠点として機能させ、反対運動を通じて地域の人々との強い信頼関係が深まってゆきます。

 そんな土地に根差した生活は、経済的な意味での豊かさとは全く違った簡素なもの。眠れる資源の間伐材を燃料にこれほど消費してもいいのだろうかと自問しながらも、自然の再生産サイクルを活用した簡素な生活スタイルを再評価しようと、青木さんのシンプルライフへの転換が始まります。この年の作付け計画では、稲作の拡大と飼料・堆肥材料の自給方針が掲げられ、自然の循環に委ねられずゴミになる物質は生活の場からもできる限り排除する意志が表明されます。

間伐材をフル活用した施設群


 闘病と山猿塾の実践は継続中

 山猿塾での生活に大きな転機が訪れたのは、2005年の夏。青木さんが右足に違和感を覚えて病院で検査をしたところ、大きな腫瘍が発見されて右足の大手術となりました。しかし入院中も闘病生活を綴った「山猿塾だより」は続きます。医療現場の現実や患者とどう向き合い、いかに情報提供を行うべきか。青木さんのジャーナリストとしての視線は、医療の現場にも注がれることになりました。

 入院と退院を繰り返しながらも、退院の際には右足のハンディを創作道具などや作業方法の工夫で克服しながら、山猿塾での自給的生活の実践は続けられています。  大病と戦いながら山猿塾での活動を続ける青木さんからの報告は、「山猿塾だより」として、folomyの「農と食のフォロ:でんえん・ふぁぐり村」の会議室「丹波『山猿塾』だより」に連載されています。

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© Copyright 2001-2007 FAGRI, 青木 慧(「山猿塾だより」本文)

last update: 2007年 5月 5日