二宮尊徳 を 正しく知ろう
 現在の二宮金次郎尊徳のイメージは、尊徳の死後まもなくに富田高慶によって著された「報徳記」を基にかたちづくられています。
 「報徳記」の大部分は、比較的正しく記述されているのですが、金次郎の偉大さを誇張する面が強く表に出てきてしまって、脚色や省略が諸所にあります。
 また、金次郎の死後間もなくして発足した維新明治政府が、富国強兵政策を推し進めるにあたって、一般国民・特に農民に対して忠孝、勤務精励、勤倹節約等の思想を浸透させるために、農民の味方の立場を取っていた金次郎尊徳の存在を悪用したことから、残念ながら、ゆがんだイメージが国民の間に広まってしまったのです。
 しかも、現在に至るも、そのゆがんだイメージを正しいものとして固持している人達が多数いることは、非常に残念です。
 そこで、微力ながら少しずつ研究の成果を披露して、金次郎尊徳の本当の姿を明らかにしていきたいと考えています。

 
二宮金次郎(尊徳)の略歴。

 天明七年 (1787年)七月 小田原郊外 栢山村(かやまむら)で生まれる。
 五歳、    暴風雨で酒匂川の堤防が決壊し、自家の田畑が岩石や土砂で埋まり、荒地となる。
 十四歳 、  父が死亡、十六歳で母が死亡、弟二人を母の実家に預け、金次郎は親類の万兵衛宅の世話になる。
         ここから、金次郎の自家復興のための行動が始まる。
 二十四歳、 もうある程度の資産を有していて、江戸見物、伊勢、奈良、大阪、四国の金毘羅などの見物に出る。
 二十六歳、 小田原藩士、服部十郎兵衛(千二百石)家の仲間(ちゅうげん)となる。このとき論語等に親しみ始める。
 二十九歳、 服部家から戻る。
 三十一歳、 最初の結婚。
 三十二歳、 服部家の財政再建仕法を引き受ける。 
         老中となった小田原藩主大久保忠真から、篤農家として表彰される。
 三十三歳、 妻が金次郎のもとを去る。
 三十四歳、 岡田峰右衛門の娘波と再婚。考案した年貢枡を藩主に献上。
 三十五歳、 伊勢参り。長男弥太郎誕生。宇津家桜町領調査の指示あり、現地調査のため出張。
 三十六歳、 宇津家桜町領復興の命を受ける。名主役格。五石二人扶持。九月に桜町陣屋着。
         十二月栢山村に戻り、全財産を処分し、翌年三月妻子同道の上桜町へ移転。
         この後、一部の心の広い住民の協力を得ながら、事業を根気良く進めるが、地元住民や小田原藩士の
           中傷、反対活動などに遭い、信念に揺らぎをきたすようになる。
 四十三歳、 一月に江戸へ出掛けた後、四月まで行く方知れず(最後は成田山で座禅)。
         2年前から桜町へ赴任していた抵抗勢力の中心人物豊田正作が、三月に小田原に帰任。
 四十五歳、 宇津家第一期仕法期間終了。青木村仕法開始。
 四十七歳、 凶作。各地で暴挙発生するが、桜町は尊徳の凶作予知により、対応ができて穏便に推移。
 四十八歳、 鳩ヶ谷三志桜町陣屋を訪れる。
 四十九歳、 谷田部・茂木藩(細川家)仕法開始。豊田正作が改心して、志願し桜町再赴任。
 五十歳、   全国的大凶作。飢饉のため各地で騒動。桜町領平穏。烏山藩(大久保家)救援開始。
         その他の関係藩や村に食料救援する。大磯宿川崎屋孫衛門打ち壊しに合う。
 五十一歳、 藩主忠真の命により小田原領内救援。忠真死去。大塩平八郎の乱(大阪)。
         桜町仕法、一応終了。烏山藩仕法開始。
 五十二歳、 川崎屋仕法開始。小田原領内仕法開始。下館藩仕法開始。谷田部・茂木藩仕法中断。
 五十三歳、 青木村仕法完了。高田高慶入門。烏山藩仕法中止。
 五十六歳、 老中水野越前守から出頭命令。幕府御普請役格で登用される。利根川分水路検分他命令あり。
 五十八歳、 日光神領復興仕法目論見提出の命あり。古河藩家老鷹見泉石と面会、泉石宅で世界地図を見る。
 五十九歳、 「二宮翁夜話」著者福住正兄入門。江戸大火、類焼で書類焼失多数。中村藩(相馬家)仕法開始。
 六十歳、  小田原藩仕法中止。
 六十一歳、 真岡代官山内薫正の手付となる。
 六十二歳、 真岡へ移転。
 六十四歳、 福住正兄箱根へ婿入りのため尊徳のもとを去る。
 六十七歳、 日光奉行手付に転じ、日光仕法開始。
 六十九歳、 今市に移転。函館奉行から北海道開拓のため門人の派遣依頼あり。
 七十歳、   死去。(安政三年)


二宮尊徳は何をした人なのか

二宮尊徳関係者年齢推移

現代語翻訳「二宮翁夜話」

小説「華胥の國へ(かしょのくにへ)」 あらすじ


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 二宮金次郎尊徳を側面から支えてくれた下野と常陸のボランティア達

 二宮金次郎尊徳をやっつけようとして意気揚揚と赴任してきた男が、その後、自分から望んでずっと随身するようになってしまったこと。その男の名は、豊田正作。

 二宮金次郎の教えを一番良く理解し、守ったのは、関東地区と静岡県地区の豪商と先進的な思想を持った大地主達

 江川太郎左衛門、鷹見泉石、寺門静軒との交流

 顧客満足を常に目標にしたディスカウント商法が報徳店(ほうとくだな)、報徳商法

 標準化の完成(第1次の完成)によって広がりを見せた二宮金次郎尊徳の構造改革・財政強化システム

 ケチを最大の敵と見た二宮金次郎尊徳

 リーダーは有言実行を旨とすべきことを身を以って示した二宮金次郎尊徳

 文化事業のパトロンとして支援を行った二宮金次郎尊徳

 記録・文書化を徹底させた二宮金次郎尊徳

 百年後までを視野に入れておけと教えた二宮金次郎尊徳

 三村で4000石の石高しかなく、その4000石の4分の1しか実収がなかった村々が、天保飢饉の時期には、30,000石以上の藩を2つといくつかの旗本領を同時に支援する実力を持つようになっていたこと。

 etc.


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