その後の江田・金谷氏(その1)



五条坊門の捕り物

1344年春、京都の五条坊門で捕り物があった(「師守記」)。「太平記」はこの件について、児島高徳が脇屋義治(義助の子)と共に潜入し、夜討ちを謀っていたが、発覚したので逃亡したとする。この直前まで、丹波守護代・荻野朝忠らが幕府軍に攻撃されていたことについても(「前田家所蔵文書」)、「太平記」は児島らに応じたものだとしている。

五条通・壬生川付近

「五条坊門」の正確な場所はわからないが、
この近辺だろうか。



観応の擾乱と京都攻撃

1350年10月に始まった観応の擾乱(足利兄弟の対立)は、翌1351年8月には第二幕を迎えた。足利直義は北陸をまわって鎌倉に入り、京都の尊氏と向き合うことになった。これを見た江田、金谷ら新田氏の残党は、9月に丹波・但馬で蜂起した、丹波守護の上野頼兼(足利一族)を殺害した(「園太暦」)。さらに江田・金谷は京都を窺い、石清水八幡宮まで進出した。

石清水八幡宮

「園太暦」1351年9月7日は、
ここに江田行義が入ったという情報を記している。
石清水八幡宮から淀方面を望む

「観応二年日次記」によれば、
この時「新田金野」が八幡(すぐ右手)に
攻め込み、反撃に遭って切腹したのだという。
「金野」(カナヤ)は、金谷経氏か
その一族だろう。
神応寺(石清水の山麓)

足利尊氏は10月24日に南朝に降伏する形をとり、
11月4日に京都を出撃して鎌倉に向かった。
「仁和寺文書」は、この月「新田江田殿」が「大将軍」として、
丹波などに兵糧を賦課したというが、江田らはこの期に
軍の増強を図ったということだろう。




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