越後新田党の興亡(その2)



1340年代前半には、宮方は全国的に逼塞することになった。態勢を挽回しようとして常陸に向かった北畠親房も1343年に破れ、楠木正行も1348年1月に四条畷で戦死した。新田党では、義貞の3男の義宗、脇屋義助の長男の義治が、越後、上野あたりに息を潜め、義貞の2男の義興が関東あたりにいたようである。
越後は武家方の上杉氏がほぼ制圧したが、南部には新田一族が残っていたようである。また小国、風間、村松、河内あたりの豪族も基本的には新田派だった。

1345(興国6)年
1月30日、守護代の長尾景忠の子・清景が、沼川で挙兵した祢智、仁科氏の討伐に向かう(村山文書)。
2月20日、祢智、仁科氏を鎮圧(村山文書)。

沼川は現糸魚川市。

1346(正平1)年


1347(正平2)年


1348(正平3)年


1349(正平4)年


1350(正平5)年
9月、信濃、常陸、越後以下に宮方が蜂起の噂(園太暦)。
9月17日、上杉憲将は越後如法寺の宮方を攻撃に(南狩遺文)。

久々に越後で宮方が蜂起。如法寺は三条市。小国氏とかつての河内氏(既に没落か?)の勢力圏の中間にあたる。攻撃に向かった上杉憲将は、武家方の越後守護・上杉憲顕の長男。
10月26日、足利直義は尊氏と対立し、京都を脱出。
12月13日、足利直義は南朝に帰参。

この年、とうとう「観応の擾乱」が勃発した。


1351(正平6)年
2月26日、高師直、師泰ら殺される。
8月1日、足利直義は京都を脱出、北陸へ。
10月24日、足利尊氏が南朝に帰参。
11月4日、足利尊氏は京都を出撃。
11月15日、足利直義は鎌倉に入る。

直義側の要請による高一族の殺害を経て、再び足利兄弟は対立。直義は北陸をまわって鎌倉に入った。
11月20日、尊氏派で下野守護の宇都宮氏綱(?)が越後柿崎に侵入。直義派で越後守護の上杉氏と交戦(岡本文書)。
稗生氏(小千谷市)、荒蒔氏(清里村)、宇賀地氏(堀之内町)などの豪族が、宇都宮に呼応。宇都宮氏は、12月には上野国(現群馬県)の直義派を破った。またこの月、駿河国(現静岡県)では尊氏の本隊が勝利を収めた。三浦和田氏は駿河の戦いに尊氏派として参加(三浦和田中条文書)。


1352(正平7)年
1月5日、足利尊氏、鎌倉に入る。
2月26日、足利直義没。

敗亡の直義は降伏。尊氏が鎌倉に乗り込み、恐らくはその指示で直義は殺された。しかし直義派は、養子の直冬を戴いてこの後も抵抗を続けた。
2月29日、中院某が越後国府から池氏の攻撃に向かう。村山信義が参陣(村山文書)。
閏2月9日、式部卿親王(宗良親王か?)が村山を賞す(村山文書)。

池は尊氏派になっていたので、越後の宮方に攻められることになった。
閏2月6日、宗良親王は征夷大将軍に(系図纂要)。
閏2月15日、新田義興は上野国新田荘の長楽寺に禁制を掲げる(長楽寺文書)

武家方の分裂を見計らって、新田兄弟はこの日、上野国で挙兵した。「園太暦」にも、「武蔵守義宗」がこの日に挙兵した旨伝えてきたとの記事がある。
閏2月16日、尊氏派の三浦和田茂実はこの日から黒川城に篭り、直義派の上杉憲顕の軍を防ぐ(色部文書)。
越後では直義派の領袖・上杉憲顕が宮方と結び、尊氏派の北部の三浦和田氏を攻撃した。三浦和田氏は、上杉の守護代・長尾氏と所領をめぐって争っており、それがこのような色分けに繋がったのだろうか。越後の反尊氏派の中で、新田兄弟に従い関東に乱入した者がどの程度いたかは不明。「太平記」は、大井田、羽川、篭沢らの新田一族、「風間信濃入道、舎弟村岡三郎」「高梨越前守」「千屋左衛門大夫」らの豪族の参加を伝えているが、真偽は不明。
閏2月16日、新田義宗、義興は武蔵の「国中之処」を焼き払う(赤堀文書)。また「諏方祝已下一国軍勢」が鎌倉に向けて発向したとの風説(園太暦)。「園太暦」は、新田義宗がこの日上野を平定して武蔵に向かったと報じてきたとする。
上野国は前年12月に尊氏派の宇都宮氏綱が一旦平定していた。しかし、上杉・新田の連合軍が巻き返し、宇都宮軍は退いた。
閏2月17日、足利尊氏は鎌倉から出奔(町田文書、ガイ簡集残編、古証文)。
尊氏は危険を察知して鎌倉を離れた。「園太暦」はこの日も合戦があったとする。
閏2月18日、新田・直義派は鎌倉を落とす。尊氏以下は「武州狩野河」に立て篭もる。宗良親王ももこの頃碓井峠に至る。
尊氏は狩野川の城(現神奈川区)に難を避け、鎌倉は陥落した。宗良親王も信濃から上野との国境まで進出。
閏2月20日、金井原、人見原などで合戦(赤堀文書、町田文書、古証文、ガイ簡集残集、黄薇古簡集)。
閏2月23日、新田義興や北条時行は鎌倉を逃れ三浦半島へ(名草清源寺文書など)。

一旦は鎌倉を占領した新田軍だったが、金井原(現東京都小金井市)、人見原(現小金井市から府中市)で敗れ同地を放棄した。
閏2月28日、高麗原、小手指原で合戦(赤堀文書、町田文書、古証文、ガイ簡集残集、雲頂庵文書)。新田義興らは、鎌倉に入る(張州雑志抄、鶴岡社務記録、佐藤文書)。
宗良親王が率いる信濃勢の援軍を得て、高麗原(現埼玉県日高市)、小手指原(現所沢市から狭山市)で再び合戦。新田義宗は恐らく北方に敗走、南方にいた新田義興、脇屋義治は鎌倉に突入してここを占領。
3月2日、新田義興は鎌倉を出て河村城へ。
3月8日、尊氏、相模に発向(古証文)。
3月12日、尊氏は鎌倉に入る(鶴岡社務記録など)。

結局鎌倉の保持はできないと悟ったのか、新田軍は河村城(現神奈川県山北町)に退いた。
3月15日、尊氏は河村城の攻撃を開始、しばらくして落城(古証文)。
河村城が陥落し、敗亡の新田義興は行方をくらますことになった。『太平記』は、義宗は一足早く笛吹峠の戦い(高麗原、小手指原の戦いに対応させたものか?)で敗れて散り散りになったとする。またこの日、足利義詮が京都を奪回した。こうして、宮方の攻勢は結局失敗に終わった。
5月24日、新田義興は水野致秋に武蔵花俣郷を与える(張州雑志抄)。
花俣郷は現足立区。新田義興は武蔵に逃れていたのだろうか。後述するように、新田義宗や脇屋義治は越後に逃れていたようである。
8月3日、尊氏派の池、多却、石坂らが蔵王堂を攻撃、次いで大面荘に篭る(村山文書)。
8月5日、風間越後守、村山らは大面荘を攻撃(村山文書)。
8月8日、尊氏派の三浦和田茂実らは、小国氏を攻めるため浜中に発向(色部文書)。

蔵王堂は現長岡市、大面荘は三条市。越後では、上越を押さえる上杉憲顕(直義派)が、中越の小国氏(宮方)と連合し、下越の三浦和田氏(尊氏派)と戦うという図式ができていた。これに、上杉に代わって越後守護に任じられた宇都宮氏(尊氏派)がからむ。小国氏は相変わらずの新田党で、風間、村山氏もまだ宮方だったようである。しかし、山古志村の池氏は、完全に尊氏側に立っていた。


1353(正平8)年
6月9日、旧直義派の石塔、山名は、楠木氏と連合して京都を占領。
「太平記」では、逃げる足利義詮を追って、堀口貞満の子・貞祐が、佐々木秀綱(道誉の子)を討ち取ったとしているが、これはいかにも唐突でありフィクションだろう。
7月29日、足利尊氏は鎌倉を離れて京都へ。後には関東執事として畠山国清を残す。
関東よりもむしろ京都が危ないと考えたのか、尊氏は1年半ぶりに上洛した。
10月25日、三浦和田氏は、中越の宮方を攻めるべく阿賀野川を越える(三浦和田文書)。
「河内凶徒等」を「城内」に追い込めたというが、河内氏が雷城(現村松町)に復帰していたのだろうか。
11月5日、三浦和田氏は小国城に向かい、新堀宿で合戦(三浦和田文書)。
11月6日、三浦和田氏らは「古志郡乙面陣」に集合(三浦和田文書)。
11月8日、小国城の宗良親王、新田義宗、脇屋義治は逃亡(三浦和田文書)。
11月13日、三浦和田氏は蔵王堂に着く(三浦和田文書)。

新堀宿は現分水町、乙面は現出雲崎町。いずれも小国、風間、小木氏らの勢力圏である。「村山文書」によると、この時村山氏は尊氏派として戦ったようである。この後の戦いぶりからすると、新田主力の逃亡先は、加茂市南東部の岳山城や長岡市南部の村松城だったか。


1354(正平9)年
4月17日、北畠親房没。
宮方の謀臣の死。
9月23日、宗良親王、千種顕経、新田義宗、脇屋義治、魚沼一族は宇加地城を攻めていたが、この日三浦和田氏が救援に駆けつける(三浦和田文書)。
宇加地城(堀之内町)は、早期に宇都宮氏に投じた宇加地氏の城。ここを新田の主力が攻めたわけである。「魚沼一族」というのは、十日町や津南の新田一族のことだろうか。


1355(正平10)年
1月22日、足利直冬、山名、石塔らの軍が入京。
足利直冬派による京都の単独占領。
3月4日、上杉憲将、宇佐美一族は顕法寺城で挙兵(村山文書)。
3月12日、風間長頼、村山隆直らは六角峰で上杉軍を破り、さらに顕法寺城を攻める(村山文書)。
3月25日、顕法寺城が陥落(村山文書)。
3月26日、風間らは、上杉軍が逃れた柿崎城を攻撃(村山文書)。

直冬派の上杉氏は顕法寺城(現吉川町、府中の東30キロ)に兵を集めた。この段階で、それまで宮方だった風間氏も、村山氏に続いて尊氏派に投じた。もしかすると、当主が代わった結果なのかもしれない。
4月2日、「賀茂口」の「陣峰」で、三浦和田氏は河内の宮方を破る(三浦和田文書)。
4月3日、和田三浦軍は蔵王堂に到着(三浦和田文書)。
4月7日、木野島で宗良親王、脇屋義治と、和田三浦、宇都宮らが合戦。また大島荘平方原でも合戦(三浦和田文書)。

陣峰は現加茂市中心部、木野島は現長岡市南部、平方原は長岡市中心部。越後北部の尊氏派は、加茂や長岡の山岳部から打って出た新田主力と戦った。この戦いには尊氏派の「守護」も参加したというが、宇都宮氏のことだろう。
4月14日、柿崎の上杉軍は没落、降伏(村山文書)。
4月16、17日、信濃の小笠原氏(尊氏派)は、上杉憲将、禰津弥次郎らと戦う(小笠原古文書)。

信濃勢と上杉軍の衝突場所は不明だが、越後を追われた上杉軍を追討したのだろうか。禰津弥次郎は直義に取り立てられ、一時期信濃守護代を務めていた。
8月前半、宗良親王が信濃で諏訪、仁科を味方にして合戦(園太暦)。
8月20日、信濃府中の桔梗原で、宮方(諏訪、千野、金子、三輪ら)と尊氏派(小笠原、坂西、麻生ら)が激突(矢島文書)。

戦いは信濃国に飛び火した。桔梗原は現塩尻市南部。この戦いの勝敗は不明。


1356(正平11)年
10月21日、上杉憲将、信濃高井郡で敵を撃退(市河文書)。
10月23日、北信濃の小菅寺で上杉と尊氏派が戦う(市河文書)。
10月28日、北信濃の平林で上杉と尊氏派が戦う(市河文書)。

小菅寺は現飯山市、平林は現野沢温泉村。上杉軍は北信濃の市河氏を味方に付けていた。
12月9日、宇都宮氏の越後守護代(?)・芳賀高家は、村山隆直を誘う(村山文書)。
宇都宮氏の下、芳賀高貞が上野守護代、高家が越後守護代として、上杉領の蚕食を推し進めていた。


1357(正平12)年


1358(正平13)年
4月30日、足利尊氏没。
安定が訪れないまま死没。後は義詮が継ぐ。
10月、新田義興没。
『太平記』では尊氏派の謀略で武蔵に招かれ、矢口渡(蒲田の近く)で謀殺されたことになっている。細かな事情を伝える史料は他にないが、『大乗院日記目録』では10月10日に武蔵で自害、『由良文書』では10月13日に矢口渡で自害となっている。おおよそこの頃に謀殺されたのだろう。


1359(正平14)年
上杉憲顕は越後三宝寺城に兵を集め、東城寺城を攻撃(諸州古文書)。

場所がよくわからないが、これまでの活動領域からして、吉川町の一帯だろうか。敵はおそらく宇都宮(芳賀)軍だろう。
この年、関東執事の畠山国清は大軍を率いて上洛、南朝の本拠を攻める(太平記)。
畠山国清には、これをきっかけに京都の幕府に勢力を及ぼそうという意図があったのだろう。


1360(正平15)年
この年、畠山軍に攻められた南朝は、信濃の宗良親王に救援を依頼(李花集)。
秋、関東武士や仁木氏が畠山から離反、畠山軍は解体。

これで畠山の切り捨て、上杉の復帰の道が開かれた。
この年、越後の上杉軍は赤田城を攻める(諸州古文書)。
赤田城は現刈羽村。この段階で上杉が北朝側に復帰していたのかは不明。取りあえず、侵入者である宇都宮側との攻防は続いた。


1361(正平16)年
11月、畠山国清は伊豆に落ちる。

これに伴い、上杉憲顕が武家方に復帰か?
12月、細川清氏や仁木氏の助けを得て、宮方が一瞬京都を占領。


1362(正平17)年
7月、細川清氏、讃岐で敗死。
9月、畠山国清は討伐軍に降伏、流浪。
11月2日、「風間入道跡」が、将軍義詮の命令で大友氏時に与えられる。

これを執行したのは上杉憲顕。既に越後守護に復帰していたことがわかる。また、この年か前年に、上杉は新田の本拠の「上田、妻有両城」を攻めた(諸州古文書)。上杉、新田の提携も10年で破れたわけである。


1363(正平18)年
3月24日、関東公方・足利基氏は、上杉憲顕に関東管領になることを依頼(上杉古文書)。
3月28日、上杉憲顕は越後を出発し鎌倉へ。

上杉は関東のNo.2に復帰。
8月26日、足利基氏は自ら出陣し、武蔵岩殿山に芳賀高名を破る。
上杉の復帰により、宇都宮氏綱は越後、上野守護を解任された。守護代として両国で活躍していた芳賀高貞、高家も追い払われ、不満を持った彼らの父・高名は岩殿(現東松山市)で挙兵した。かなり奮戦したようだが、結局は鎮圧された。


1364(正平19)年


1365(正平20)年


1366(正平21)年


1366(正平22)年
4月2日、足利基氏は、新田に内通したとして鎌倉左京進、安東九郎ら22人を処断(細川頼之記)。
4月26日、足利基氏没。

基氏が、死ぬ間際に禍根を断つために行わせたとか。
12月7日、将軍義詮没。
後には3代将軍・義満が立った。

1367(正平23)年
3月11日、後村上天皇没。

閏6月17日、上杉憲顕は川越で平一揆を破る(喜連川判鑑)。
足利基氏が直轄軍に取り込もうとしていた平一揆(武蔵の平姓の武士団連合)だが、基氏の死で上杉氏に潰された。
7月、新田義宗、脇屋義治は「越後上野ノ境」で挙兵。上杉憲顕は憲将、能憲、憲春と千葉、宇都宮、結城、小山らに討伐させ、義宗は戦死、義治は出羽に逃亡(喜連川判鑑)。
「細川頼之記」は、挙兵場所と攻撃に向かった顔触れはこれと同じことを書いている。攻防が50余日続き、義宗が越後で死んだという記事もある。「栃木県庁採集文書」は、新田軍は沼田荘に攻め込み、3月18日に合戦があったとする。「宮下寺過去帳」では、義宗は7月10日に死んだとされる。わりと長期の攻防戦の末、夏頃に死んだと考えるのが無難か。
9月19日、上杉憲顕没。
新田氏を実質的に滅ぼした末に大往生。

1368(正平24)年
1月2日、楠木正儀は武家方に降る。

新田も潰滅し、山名、大内などの有力者もほぼ帰参し、宮方が優勢なのは九州だけに。

1369(建徳1)年
1月、新田の残党が「武蔵上野ノ間ニ出張」(喜連川判鑑)。
2月9日、上杉朝房、畠山基国はこれを武蔵本田で破る。破れた馬渕、中村らは信濃へ(喜連川判鑑)。

武蔵本田というのは現埼玉県川本町。信濃に逃亡した残兵は大河原城に集まったか? 半ば伝説の世界・・。

・・・・・


1379(天授6)年
4月8日、幕府は妻有荘を上杉憲方に交付(上杉古文書)。

越後新田一族の本拠地が、完全に上杉氏のものになった。

この後の室町、戦国期にも、小国、大井田、中条を称する豪族は残った。1350年代の上杉氏との提携、1367年の新田本宗家の滅亡などで、新田一族・与党も逐次上杉の被官になっていったのだろう。



戻る