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ここだけの話 <16>〜<20>
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<16> 私の世代は幼い頃に多少歴史的仮名遣いに触れている。が、間も なく使用するのは現代仮名遣いになった。この時のいきさつなど を知ったのは大学生になってからである。戦後行われた種々の 改革のひとつに国語国字改革もあった。作家、国文学者、国語学 者、教育者などの間で論議が交わされたのは想像に難くない。そ の中に前記の金田一・福田論争があったという。ごくごく端的に 言えば、国語学者の金田一京助氏は発音通りの表記を是とする 立場であり、作家であり英文学者の福田恒存氏は歴史的な表記を 支持したという。金田一氏が何故発音通りの表記を提唱したか。 お恥ずかしい話であるが、私はこの講義で初めて発音と文字の 関係の問題を意識することになった。日本人にかぎらぬことであ ろうが、人間が文字を手にして間もない頃、発音と文字は一致し ているのは当然である。ところが時代が下るにつれて、発音は 変化する。しかし表記は旧来のままにした。したがって部分的に 発音と表記にずれができてきた。考え方を元に戻して発音通りの 表記をする事に何の問題があろうか、というものである。連衆のひ とりの「昔は表音主義だったのだから…」という発言もそれと軌 を一にするものなのだ。 私の親の世代は、初めは現代仮名遣いに相当な違和感を持ち、 結局なじめず、完全には会得しないまま逃げ切った人たちも多い ようである。我々は改革後も文庫などで読む近代の小説は歴史的 仮名遣いだったので、高校に入って古文を習い始めても、その点 ではたいして苦労はしなかった。単に、古文や詩歌の世界に入る なら歴史的仮名遣い、ふだんの生活は現代仮名遣いと了解して 住み分けてきただけである。 それがここへきて連句という複数のメンバーで創り上げる文芸 の世界で、仮名遣いに対する姿勢を問われることになるとは思 いがけないことであった。(03、3、1) <17> 仮名遣いの問題を連句識者の方に直接、間接におうかがいしたこ とがある。統一すればどちらでもよいだろう、とか、私は歴史的 仮名遣いに統一している、というご返事が多かった。当然といえ ば当然のことで、私の悩みを解決するものではない。リンクをた どって連句作品を探ってもみた。歴史的仮名遣いに統一している ところは、たとえカタカナ語を含む句、時事句も例外にしていな い。一方、古来からの式目にも無縁な現代風連句では、古語や古 典語法が使われることがないので、現代仮名遣いに統一して全く 違和感も問題もない。 だが、連句コンクール参加作品集などには、やはり混乱の様相が 見えてくる。さすがに一句の中での両者併用はないけれど、一巻 の中で古語法による句は歴史的仮名、現代的な句は現代仮名の ものがあるし、歴史的仮名に統一しているように見えて、事実は しきれていないものや、どちらでもない誤った表記のものもあら われてくる。 連句作者には年齢的にも幅がある上、連句そのものが歴史的伝 統を踏まえたものでありながら、現代また愛好者がふえつつあ ることを考えると、仮名遣いの問題はこれからの連句の方向と 関りをもつ、というより関係づけて考えなければならないもの であろう。 現在の私自身はといえば、古語や古典文法に則った句に現代仮名 を使う時の嫌悪感は覆うべくもない。ひょっとして傍からは無知 の謗りを受けはしないだろうか、などとなけなしのプライドめいた ものが頭をもたげても来る。そして結果として、そのような蟠り を持たずに済むような句を心がけるようにはなった。 しかし、発句には切れ字をいれるのが通常。「かな」「けり」「や」、 これらはすでに現代語ではない。それを発句に掲げていても現代 連句と言い切れるものかどうか。まだまだ結論に到れない。 (03、3、15) <18> 昨夏、それまで句会に使っていたパルテノン多摩の部屋が取れ ず、臨時に会場を移すことがあった。宗匠以下大方の連衆の 母校の同窓会館である。随分久しぶりの訪問だった。大学は隣 だから、地下鉄の駅からは学生時代に往復した道。歩道などな くて、歩きにくいのはちっとも変わらない。懐かしい建物もある けれど、ともかくお店、とくに飲食店が増えたなと思う。学生の ころは、駅前道路の向こうにお鮨屋さんが一軒あったのだけが 記憶にある。四年生になったばかりの頃、通り道に喫茶店が出 来た。横目に見ながら友人と「卒論ができたら、きっとね。」と 言い、本当に翌年一月の提出を済ませるまで一度も入ることは なかった。今の学生が聞いたら、「うっそー」と言うだろうか。 店の名は「モンプチ」。今は見当たらない。 会館はいたく質素だがこざっぱりとして、職員の方々も親切だ。 予約済みの部屋に入る。明るい窓はありがたいが、カーテンが ない。「すみません、クリーニングに出しておりまして。」 まず、お茶を淹れようとするが、「湯沸かし器でなく、電気ポット でお願いします。ガス台もお使いにならないでくださいませ。」 もの心ついた時は戦争の真っ只中、戦後の乏しい生活も決して 忘れてはいない。学生だった四年間だって、教室に冷房などありは しなかった。こんなことでたじろぐ世代ではない。が、そこにあり ながら使えない湯沸かし器やガス焜炉とは、こはいかに! 同窓会というものは、同窓生によってまかなわれていくもの。 大学と違って、国から資金が出るものではない。我が同窓会は、 湯沸し施設を整えることもできないほどの財政逼迫なのだろ うか。この会館を句会に使うことになったのを機に、我が宗匠 は滞納していた同窓会費全額ン万円を一時に払い込んだという。 聞いたときは、「何で今更」「誰も調べたりしないでしょうに」 と訝ったものだが、宗匠は「いや、そういうものじゃない。」 と、節を曲げなかった。宜なるかな、である。 句会そのものは、半分はガラス越しなれど七月の陽を浴びつつ、 半分は一箇所に集中するクーラーの風に足元を気にしながら、 それでも懐旧の情など詠み込んで終わった。 帰りがけ、すぐ近くの別大学のはるかに立派な同窓会館の地下 レストランでコーヒーを飲みながら、似たような歴史を持つ大学 なのに……と、広く落ち着いた佇まいを見回した。(03、4、1) <19> この度掲載の作品(2)「アーステレフォン」をお読みくださった方 は、見慣れない連衆名にお気づきのことだろう。中国籍の女の方 だが、故国では大学の日本語の先生。来日、五年を経て学位を取 得、この3月に帰国された。離日直前の一日を連句に参加してい ただいたわけである。日本語が堪能なのには、まず正直に驚く。 俳句に関心をお持ちとのことで、季語の存在も、五・七・五、七・七 の韻律もすでに身についておいでのようだ。連句は初めてとのこ とで、式目についてその都度ひと言添えれば、苦もなく連衆に加 わってしまわれる。いつもの連衆だけだったら、おそらく出て来 ないであろう「嫦娥媛」、絶対に出てこないだろう「布薩戒(パー ティモッカー)といった言葉がちりばめられて、国際色豊かな巻 になった。中国からのお客様に敬意を表して、と、「李白」が詠み こまれると、すぐさま「猿」をテーマの付句が出されるすばやさ。 「もうすこし具体的な猿の様子があるといいけど。」と捌きの言 葉があったが、「流れが急で見えないんですよ。」との答え。 「両岸猿声啼不住 軽舟已過万重山」など思い起こして、さも ありなんと笑いが広がった。 満尾の頃にはお疲れのようだったが、「楽しかった、帰国してから 皆に伝えたい。」とうれしいことばを残して部屋を後にされた。 ここのURLのメモもお渡ししたが、見ていてくださるだろうか。 (03、4、15) <20> 四月初め、会員の中の五人と姉妹会のひとり、計六人は伊賀の旅に 出かけた。言うまでもなく芭蕉のふるさと。芭蕉を肌で感じ てもらいたいという我が宗匠の企画によるのだが、そこは手留さん 自身の故郷でもあるのだった。 新幹線を名古屋で関西線に乗り換えて一時間十五分、亀山駅へ。更に乗り換えの ために立ったホームは閑散として駅員さんもいない。出発予定時刻 が近づいても入線の気配もない。さすがに心配になる。ふと、一人が言う。 「あの電車じゃないの?」見れば結構な長さのホームの端っこに薄紫色の車輌 がひとつ。お客もまばらに乗っている。それだった。ワンマンカーである。 三つ目柘植駅で下車。瓦屋根の小さな素朴な駅舎がうれしい。タクシー二台に分乗。 芭蕉公園に着く。翁ゆかりの福地城跡を公園にしたものだ。 上着もいらないような暖かさ。木立も豊か、桜は三分ほどだが、この 気候で一気に開きそうな気がする。 芭蕉は父と死別後江戸に出、母の葬儀の折に一度故郷に帰っている。 そして四年後、「笈の小文」の旅で江戸をたち、再びふるさとを 訪ねた。 句碑『ふるさとや臍の緒に泣くとしの暮』 人の多く出入りする葬儀の折とは異なる涙を流したことだろう。 公園から程近い万寿寺は松尾家の菩提寺。芭蕉の供養塔もある。中の 桃青殿には翁の木坐像があり、毎年十一月十二日にはここで時雨忌 が行われるという。俳句や連句に季語として忌日を使う例はよく見かけ るが、この地の人々の時雨忌への思いは格別のものに違いない。 次の目的地は猿蓑塚。タクシーの運転手さんが頼りなのだが、 土地の人ではないとのことで、知らないという。案内板が あるわけでない。地図で調べ、携帯電話で同僚に尋ね、樵さんに きき、Uターンまでして探してくれた。遂に「あそこだ。」「どこ?」 ・・え?見えてきたのはなんと”サルビノ温泉”。似た音の聞き違えによるもの とは思うけれど、一方、乗客の顔を見ての運転手さんの思い込みも手伝ったの ではないだろうか。また引き返す。お彼岸も過ぎて日も永くなった。 あわてる旅ではなし、明るい日差しの中、田園風景を眺めながらの ドライブも悪くない。 やっと見つけた「猿蓑塚」。地図を見れば道路のすぐそばに表示があ るし、観光案内書にも「車道沿いに」と書かれてはいる。が、事実、 整備された車道の、ほんの道端にそれはあった。 句碑『初しぐれ猿も小みのをほしげ也』 「あの運転手さん、大騒ぎしてこんなもの見にきたのかって思った でしょうね。」という誰かの言葉には思わず笑ってしまったが、 時は春、午後の日を浴びつつ車道に向いて立つ句碑に、かえって 土地の人の一生懸命さが伝わってくるようだ。 新大仏寺に到着。俊乗坊重源上人によって開祖され、快慶の阿弥陀 如来を本尊としているが、衰微して荒れ果てた時期もあったという。 芭蕉は「伊賀新大佛之記」のなかで、こわれた仏像が積み上げられ 大仏の頭部分のみ上人堂のかたわらにあったと記し、 「涙もおちて談(ことば)もなく、むなしき石臺にぬかづきて」 句碑『丈六に陽炎高し石の上』 その日はここの宿坊「重源閣」が宿。部屋数はかなりあるが、お客は ほかにはいないらしい。しばらく寺周辺の散策。高みから見渡す周囲に、 人の往来もとりあつめたる家並みもない。ふだん都会のビル街で暮らして いるわけではないけれど、田畑の景は心が安らぐ。 夕食の卓につく。なんと繊細で美々しいお料理の品々。思いがけない 素材が思いがけない形で次々に運ばれる。どれもおいしい。運んで くるのは作務衣を着た若いお坊さん。長身剃髪の姿が端正だ。 料理素材のことなどきき、ついでに尋ねる。 「お幾つですか?」僧職のお方に、なんという俗な質問を。断って おくが、問うたのは私ではない。しかし、聞き耳はたてた。 「三十路です。」目を伏せておだやかに答える。 「お若いですねえ。学生さんかと思った。」と、これも私ではない。 僧はこれには答えず、一礼して障子を閉めた。 宿坊の夜は冷える。広い二間ぶち抜きの部屋で石油ストーブに寄り 添って談笑する仲間の声を布団の中から聞いていたが、いつかその 声もすーっと遠のいていった。あとから聞けば七時半頃のことだと か。夜中、ストーブの石油切れでなんとやらの騒ぎもまったく知らず 太平楽な熟睡のうちに旅の初日は終わった。(03、5、1) |