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<21> 二日目、カーテンを開けると今にも降り出しそうな空が広がっていた。 寒い、洗面の水の冷たいこと。ここは宿坊、湯沸かし器などのあらば こそである。朝食前の散歩は体の芯まで冷える思いだった。 バスで上野駅へ。駅前の産業会館で荷物をロッカーに入れ、徒歩の旅が始まる。 芭蕉翁生家に着く。表通りに面したどこにでもありそうな木造の町屋、 小さめの石柱だけが目印だ。中は梁や柱が黒光りして年代を感じさせる。 入り口から奥まで土間が通じ、生活の場としてのありようをうかがわせる。 家具什器なども飾り気なく置かれ、よくぞ保存していたものと感心した。 そとにはここにも『古里や臍の緒に泣くとしのくれ』の句碑がある。 芭蕉公園のが自然の石 を思わせるものだったのに対し、こちらは磨きあげられた四角四面の 石碑である。生家の裏には釣月軒。芭蕉が処女句集『貝おほひ』を 執筆した所といわれる閑かな庵だ。伊賀に帰省したときは、ここで起居 したという。文机と行灯が置かれていた。 句碑 無名庵跡 『冬籠りまたよりそはん此のはしら はせを』 程なく愛染院。昨日訪れた万寿寺も松尾家の菩提寺とされていたが、 説明によれば、ここも松尾家の菩提寺。ここにはともかく両親の墓 もある。五十一歳で没した芭蕉の遺骨は大津義仲寺に葬られたが、 服部土芳ら伊賀の門人たちは、ここの藪陰に遺髪を埋め、碑を建てて 故郷塚とした。それは今、藁葺き屋根のお堂に収められた形になっている。 元禄七年、盆会のため故郷に帰ったときの吟が本堂の前にあった。 句碑『家はみな杖に白髪の墓参り』 そして、故郷塚のすぐ近くに 句碑『数ならぬ身となおもひそ玉祭り はせを』 「尼寿貞が身まかりけるとききて」と前書きのあるこの句、芭蕉が 旅の途中、江戸で寿貞尼が没したと聞き、先の盆会と同時に ひそやかな追悼の法会を営んだ時の吟とされる。。寿貞尼のことは 殆どわかっていないらしいが、芭蕉はその死を深く悼み、書状の中 で、「何事もゝゝも夢まぼろしの世界 一言理くつは無之候」と したためたという。 細かな雨に傘を広げて寺町を歩く。しもた屋といった風情の家の並ぶ 道。念仏寺の枝垂れ桜は見事だが、いかんせんどんよりした空に桜は 映えない。花はさかりに、などと粋がってみても、やはり青い 空のもとでこの桜を見たかった。大超寺では有名な閻魔様に拝謁し、 しばしば連句にすべりこませる嘘などは許容範囲との了解をとりつけ ておく。 蓑虫庵は町中と言ってもいいようなところにあった。が、そこは そこだけまったく異なった世界のように閑静である。分厚い藁屋根 の門を入る。無名庵、西麓庵、東麓庵、瓢竹庵とともに芭蕉翁五庵 のひとつだが、現存するのはここだけとのこと。服部土芳の住居跡 に造られた茶室造りの草庵。木立に囲まれて、端然とした佇まいだ。 土芳の庵開きの折に芭蕉が贈った句がその名の由来とか。 句碑『みの虫の音を聞きにこよ草の庵 芭蕉』 が、他方、土芳の庵号が「些中庵」で、「蓑虫」と「些中」が同音 相通ずるのでそう呼ばれたともいわれている。蕉門伊賀連衆の中心 であった土芳は七十四歳で没するまで、ここで著述に励んだ。その ひとつが今、わが連句会で読み続けている『三冊子』。少しばかり 粛然とした思いを味わう。土芳供養墓所や翁像を安置する芭蕉堂を めぐり、行き遇うたは”わらじ塚”。芭蕉が帰郷の際に脱ぎ捨てたわらじを 土芳が貰い受けて塚にしたことによるというが、古くなった石造りの 防火用水桶(この語も古い。使う人も、わかる人も・・)によしず風の 蓋を乗せたような姿である。開けては見なかった。見たいとも思わな かった。だが、土芳の芭蕉へ思いがこのようなものさえ残したという のは事実である。 台石の上に不安定に乗っかったような碑がある。なんだか後ろの 太い木をあてにしているようだ。丸々と滑らかな感触。 句碑『よく見ればなつな花咲く垣ねかな はせを』 今風に言えば癒し系と言うのかもしれない。 そして、もうひとつ蓑虫庵のリーフレットが名碑と紹介するのは 句碑『古池や蛙飛こむ水の音 はせを』 細長の直方体の面取りしたような碑だが、上のほうにかなり大きな 円い窓が開けてあって、向こうが見通せる。蕉風開眼を表していると いう。中央に句を刻み、下方には蛙、多分飛び込む時の姿なのだろう。 手足(と言うのかどうか知らないが)を真っ直ぐに伸ばし、水泳選手の 飛び込みスタイルが浮き彫りになっている。適度に古びてそれなりの 風格はある、が、ここに蛙を? それもこんなリアルな蛙を? それで いいって、芭蕉さんが? そーぉ? 蓑虫庵を後に、やや本格的になってきた雨の中を六人衆の旅は更につづく。 (03、5、15) <22> 愛宕神社に向う。芭蕉が仕えた藤堂家も所縁を持つ藩主藤堂高虎の多額の 資金提供によって建立されたもので、神殿の前には古い木造の舞台が設置 されている。橋懸かりがないので能舞台ではないのだろう、神楽 のためのものかなど話し合ったが、祭礼には人が多く集まるらしい。 ここでも桜が雨にうたれていた。 そして先頭を歩いていた手留さんの足がぴたりと止まる。「ここが 上野高校。」母校なのだ。道に面した広々とした校門も、1900年に 旧三重県第三尋常小学校として建てられた木造校舎も県の重要文化財 に指定されており、旅行案内書にも登場する。春休み最中で、生徒の 影は見えず、低く閑やかな校舎の後ろ、木立の向こうには上野城が その頭頂部をみせていた。お城に見守られて、ふーん、手留さんて、 こういうところで勉強してたんだ・・、ふっと自分の母校に思いを 馳せる。近くの米軍基地から毎日のように大型軍用機が爆音 轟かせて飛び立っていった。授業も聞こえなくなるような音だった。 でも、閉塞感などはなかった。生活も決して単調ではなかった。いろんな 人材が揃っていた。地味な色の 背広と真っ黒な詰襟がやたらに多い学校だったけれど、女の子だって 結構毎日楽しかった。ねえ、智さん! さて、お昼。約束のお店へと足取りは軽い。手留さんの高校時代の お友達が手配してくださった、お豆腐料理の「わかや」。お座敷に 招かれ一息つく。当のお友達二人も同席していただけて、細く華奢な 串にさしてずらりと並んだ味噌田楽などなどいただきながら、宗匠の 高校生のころの話に耳を傾ける。何だって全部一番。ちょっと別格。 品よく飾らないお二人の言葉は、四年間の学生生活を共にし、 更にその後を知る我々にはなんの違和感もなく肯ける。上野高校も 見てきましたと言うと、「素敵な学校でしょう!」間髪を入れず返 って来た。自分の母校にこんなに誇りを持てる方々がちょっぴり 羨ましく、再び母校を想う。ホコリ高き我が母校を。 お一人は俳句をなさるという。時間があれば、 この地の句会や行事などうかがってみたかった。 上野高校様は、今回掲載の作品(1)二十韻「勅命香」の巻にもご登場 いただいている。今や連衆の間での知名度は万智さんの神奈川県立橋本 高校などの比ではない。 思いがけずお土産をいただいたり、知らぬ間に会計が済んでいたりで、 気の利かぬ関東勢は恐縮しつつまだ降り続く雨の中を 鍵屋の 辻へ向かう。赤穂浪士、曽我兄弟とともに日本三大敵討ちといわれる荒木又右衛門、 渡辺数馬の仇討ちの場である。この敵討ち、近松半二の「伊賀越え道中双六」 などに脚色されているが、赤穂浪士ほどにはポピュラーではないような気がする。 個人的には私は敵討ちの話は好きでない。又右衛門 自筆の起請文などの資料を展示する伊賀越え資料館があり、首洗い池が 濁った水を湛えていた。近くには茶屋があり、そこの奥さんも上野高校の 同級生という。それらしい装いの女性も入って、四人の同級生がカメラに おさまった。ここでお世話になったお二人と別れる。 隣には矢尼母神社、ずらりと並ぶ鳥居が印象的だった。 崇廣堂へ。文政年間、伊勢津藩の藩校として建てられたものである。 その名を「書経」からとった「崇廣堂」の扁額は、当時の藩主藤堂高兌の 依頼により米沢藩主上杉鷹山が揮毫したものという。当然右横書きで重厚 なものだ。 講堂や正門など、当時のまま残ったものもあり、国の史跡に指定されている。 上野城は高所にあり、三方を川に 囲まれた要害の地にある。天正年間に造りはじめられ、伊賀、伊勢の大名として 入国した藤堂高虎が徳川家康の命により、大阪側との決戦に備えて大改修。 日本一高いという三十メートルの石垣が築かれている。 五層の天守閣は完成直前の台風で倒壊、その後、大阪夏の陣で豊臣家が滅び たため必要がなくなり、再建されることもなかったが、昭和十年、三層の 天守閣が築造された。木造である。ものの本によると(などと格好つける のはやめよう。web 検索で垣間見ると)このお城にまつわる話には面白い ものがある。五層の天守閣は台風によるものではなく、豊臣家が滅びた あと豪華な天守閣を持っていては、徳川家から疑いを持たれはしないか という慮りから、自ら壊したのではないかとか、藤堂高虎は城修築に際し、 伊賀忍者を利用して全国百四十余りの城の縄張り図を盗み写し、それを元に 築いたとか、三十メートルの石垣の上で高校生だった横光利一が逆立ちして みせたとか、その石垣、実は大阪城の二の丸の石垣のほうが五十センチ高いとか。 いずれも真偽のほどはわからないが、五層の天守閣が台風で壊れたのではない という説は私の心をくすぐる。のっそり十兵衛を持ち出すまでもなく、心柱 を持たない五重塔は地震に対して非常に強い。嵐に対してもスネーク・ダンス でもちこたえる。いくら完成前とはいえ、台風で倒壊したというのは信じがたい からだ。忍者云々や逆立ち、高さの競り合いのことは私にはどうでもいい。 少しお城に拘り過ぎたようだ。堀の外も見よう。 (03、6、1) <23> 上野城の二の丸はいま上野公園となり、芭蕉記念館、俳聖殿、忍者博物館がある。 芭蕉記念館。芭蕉自筆は「華咲て七日鶴みるふもとかな」等五句発句切、 「きのもとに汁もなますも桜かな」発句短冊など。そして、あの影印でよく見る 「市中の巻」。伝芭蕉筆や複製もの、また山口青邨や稲畑 汀子等の句などが展示されていた。俳諧作法書から始まる歳時記の変遷は、 初めて 見るもので興味をひく。所蔵品 すべてが展示されているわけではないし、本当に貴重な資料は研究者だけが閲覧 できるもので公開はされない。三、四年前だろうか、品川の国文学研究資料 館で「奥の細道の軌跡」という特別展があり、自筆とされる「奥の細道」「幻住 庵記」「許六離別の詞」あるいは去来宛書簡などを見る機会を得た。他にひとり ふたりしかいないような一室だけの会場で、吸い込まれそうな気持ちで見たもの だ。その時と比較してしまうからであろうか、少々物足りなさも感じた。あの 資料館特別展では展示物のほとんどが個人蔵とされていたことを思い出す。 それはともかく、記念館には春休みを利用しての親子連れの姿も幾組かいて、 こんな幼い時から芭蕉を身近に感じて育つのかと驚きとも羨望ともつかない 思いを抱かせられた。 忍者博物館。手留さんから「どうする?」ときかれて、真っ先に「見る!」と 答えたのは私。別に芭蕉忍者説を検証しようというわけではない。 二条陣屋、木更津や戸隠の忍者屋敷、 金沢の忍者寺など見てきて、そのからくりが好きなのだ。この頃はどこも建物 が古くなって危険なため、見せる場所を減らしたり職員がやって見せるだけに なったりしているが、 やはり自分で悩んで迷って考えるのが面白い。しかし、ここも本物の忍者屋敷で のからくりは忍者スタイルの職員がやって見せるだけだった。 代わりに忍者グッズに触れながら屋敷内を探っている気にさせる体験館、 忍者学の学べる伝承館など、やはりさすがの伊賀であった。 この博物館を出て見ると、あろうことか六人いたはずのわがツアーは四人に 減っている。さては隠遁の術!などとくだらない冗談は誰も言わない。 已む無い事情で一泊しかできないひとりとは入館前に別れ、手留さんは 駅まで送っていったのだった。 俳聖殿は伊賀焼の芭蕉像を安置しているが、建物の外見はユニークだ。芭蕉の旅姿 を表したもので、まろやかな屋根は旅笠、下の八角の庇は袈裟、柱は杖、 「俳聖殿」と書いた木の額が顔なのだそうだ。でも、屋根はなんだか茸みたい だし、芭蕉がそんな細面ではなかったと思うし、杖を何本も持つはずないし・・・。 それは、デフォルメというものなのだと言われるだろうけれど。 上野天満宮(菅原神社)は道真公七百七十年忌に二十九歳の当時宗房と 名乗っていた芭蕉が、処女作 「貝おほひ」を奉納したところだ。「貝おほひ」は午前中見た生家 裏の釣月軒で執筆したといわれ、左右三十番の発句合わせの形をとって、その ひとつひとつに判詞を加えたものだが、芭蕉に対しておぼろな知識で これを読むと、その意外な叙述にびっくりする。その刊行を 機に芭蕉は江戸へ出てゆく。すぐ近くには小さな松尾神社 がほんとにひっそりと建っていた。「松尾神社」と書いた提燈が下がっているだけ だった。「ねえ、ねえ、今度会心の作が巻けたら、こっちに奉納しない?」と 喉まで出かかったが呑み込んだ。八つの侮蔑と憐憫の眼が十分予想できた から。 この日予定していた見学場所は廻り終えた。駅前の産業会館に戻り、近くの 茶房で休む。伊賀牛のお店での夕食を控えたここで、きれいな和菓子を目の前に、 知に働くか情に掉さすか、それは個々の判断に委ねられた。芭蕉の句から いただいた、と店員さんの言う桜の花の形の干菓子「さまざま桜」を、連衆留守番組への お土産に買う。 伊賀焼のお店を覗く。千四百度の炎で何回も焼くことによって、灰を被って 自然釉となり独特の味を出すのが技法だとか。荒びた感じのする焼物だ。 土色の器を買ったとまとさん、自宅で現在ご愛用の由。 夕食は伊賀牛のお店「金谷」へはタクシーで。 鉄板で焼いて供される伊賀の牛肉はとろけるように軟らかく、 素材そのものの味も十分に堪能出来た。意外にもここで働いている女性お一人も 手留さんの同級生と判明。 ここでも我が宗匠の高校時代の話がでる。やはりずば抜けた秀才で、と。 感じ入って聞いていると、手留さんがのたまう。「それをわからせようと 思って連れてきたんよ。」・・・このひとことなからましかばと思ひしか。 タクシーで「サンピア伊賀」へ。 ここには、芭蕉の湯という天然温泉がある。「温泉においでの時はこれを お持ちになってください。」とフロントで渡されたのは”通行手形”と書かれた カード。入り口で忍者姿のお姉さんにこれを見せるのだ。お風呂にもいろんな種類の お風呂があり、後で知ったが、和風露天風呂には 句碑「月そしるへこなたへいらせ旅の宿」 があったらしいが、私は見ていない。もし知っていても、温泉につかりながら 眺めるなどということは、ためらったかもしれない。 湯上りにはミーティングで旅の復習をしばし。これがなかったらこの旅行記を書く 気にはならなかったに違いない。それぞれシングルの部屋に分かれて、二日目は 暮れた。(03、6、15) <24> 三日目の朝は島ヶ原駅に降りた。 まず向かったのは薬師堂。自然の花崗岩に彫られた 磨崖仏は四体。本尊薬師如来像と阿弥陀三尊像、いずれも一メートルたらずの大きさのもの。 出産後の女性がお参りすると母乳がよく出るようになるのだとか。財力、権力に物言わせて、 一流の仏師に彫らせた像よりも、こんな仏様が庶民の祈りを聞き届けてくれそうだ。 南北朝時代のものといわれている。 次は正月堂。良弁僧正の高弟実忠和尚が聖武天皇の勅願によって開基したとつたえられている。 寺の号は観菩提寺なのだが、修正会が旧正月にとりおこなわれ ることから、一般にこう呼ばれるようになった。ここのお水取りは、奈良東大寺の先輩格らしい。 古式に則った盛大な儀式が執り行われるという。国の重要文化財とされる本堂も楼門も 京都、奈良の古刹に見るような堂々たる風格だ。本尊の十一面観音像は三十三年に一度公開 される秘仏で、この前は昭和五十七年だったそうである。 何とか降らずにもちこたえている中、靄に煙る山々や広々と広がる畑を眺め、 他には誰も人も通らない道を歩きながら、今日はもう芭蕉関係の見学はないのだと思い、 ちょっぴり寂しさを味わう。 岩屋山へ向かう。案内地図が頼りだが、道に標示がないのでわかり にくく、歩みが止まることもある。地図の読めない女を自認する私はこのようなとき決して口を出さない。 お菓子の包みなど開けて待っている。仕事のトラックなどは行き過ぎるが道を聞く余裕はない。 見当をつけて歩き出した。仕事中とも散歩中ともつかない男性に会い、岩屋山への道を尋ねる。 気軽に踵を返して案内してくれるその人は、立ち止まって「今、鍵を持ってきます。」と家に入った。 二十九代目の当主だった。両側から大きな岩に迫られるような細い石段を上ると岩窟に本尊 十一面観音菩薩が祀られている。 行者堂へ。狭く急な石段の上のお堂は建て替えて間が無いのだろうか、新しい。 自然石の岩屋の中に石刻の不動明王がといわれるが、そんなことより四月というのにマフラー に埋もれずにはいられない こんな場所での修行。ぬくぬくとしていては修行は出来まいとは思うものの、 冬などはさぞや寒かったことだろう。下りの石段をそろそろと下りながら、 加古川鶴林寺の行者堂を思い出した。あそこは瀬戸内の温暖な気候。瓦葺きの神社様式の 一間ほどながら重厚なお堂だった。あっちなら、夏のひと月ぐらい籠ってみたいなどと 不届きなことを思っていた。 島ヶ原というのは大和街道沿いに位置し、幕末動乱のおりにはかなりの人が 利用した宿場町である。旧本陣岩佐家はこの街道で、ただ一つ現存するものだそうで、 宿泊人の名をとどめた資料などが保存されていた。 大降りにはならないが上がることのない雨に旅姿も湿りがち。道筋でひとりが靴を 買い換える。一足の靴のために五人もはいってくる客をどう思ったか、店の女主人が あたらしい靴下をサービスしてくれた。ついでに、昼食のとれそうな場所をたずねるが、 近まにはないらしい。駅の近くであったかいお饂飩、お蕎麦をとの計画は立ち消えた。 JAの小さなお店を見つけるが、思うようなものはない。結局、駅構内の硬いベンチで バナナと自販機で買った缶コーヒーがその日の昼食であった。他のお客などはいない。 前日のお豆腐料理や、伊賀牛とは雲泥の差。「昨日とえろう違いまんねん。」などと 怪しげな関西弁で笑い飛ばしておいた。出立までのしばらく、駅舎を外からしみじみと眺める。 ここに鉄道が通じたのは明治三十年だそうだ。宿場町の頃がしのばれるようなたたずまい。 お手洗いも別棟の、それはそれは昔懐かしい代物だった。お隣上野駅付近の賑わいがうその ようである。 復路の列車は二時三十五分発。途中柘植でさらに水口へと足をのばす三人と別れる。 手留さん、有難う、いい旅でしたよ。気をつけて行ってらっしゃい。こちらは二人、亀山、名古屋と 乗り継いで、東京に向かった。 いま、キイを打っていると、曾良を伴った芭蕉の旅姿絵が浮かび、そして芭蕉を講じられた 井本先生のお姿が浮かぶ。穏やかに、ふくめるように語られた授業、忘れられない いくつかのシーン。 それらがどんなに貴重なものだったか・・・・・・。受け止めるにはあまりに未熟だったわが身を 振り返りながら、 思いがけず長くなってしまった旅の記録を終わることにしよう。(03、7、1) <25> ここに会の裏話を書き始めて、ちょうど一年になる。 まだ、作品集の話もでていない頃だったと思うが、五周年を目の前にし、発会の頃からを振り 返ることがあった。このサイトには作品を載せているし、活動の記録も載せてきた。だが それらだけではとても測り得ない仲間内の触れ合いが私の脳裏を駆け巡る。途中入会で歌林 の黎明期を知らない人もいる。これから入会するひとは、会のあらましを知りたいと思われる かもしれない。そんなことを考えて書き始めた。理由はもう一つある。 もし、歌林連句会が今のメンバーが居なくなったあと隆盛をきわめ 、ある時はどこか の結社のように主導権争いや分裂騒動が起きるなどして、文学史上名を残す ようになったとき、何らかの記録が残っていたら後世の研究者はラクだろうという親切 心からである。笑う勿れ、この世の中何が起こるかわかったものではないのだから。 書き始めても 最初は誰にも知らせず、トップページの右下隅にメモ用紙のような形の小さな小さなアイコン をおき、そこからリンクされるようにしておいた。パソコン使いの会の仲間も、サイトを見て くれている友人達もなんにも言ってこない。「ひそやかに」という看板のもと、それこそ地下室 にひとり居るような感じで、勝手気儘に書いていた。秋のある日、毎日覗くサイトに「別の Web Pageを検索する時にお使いください」と書いた検索機能があるのを見つけ、試しに「歌林 連句会」と入れてみた。出てきた。大学の後輩が主宰する某連句サイトのリンクに載せていた だいているので、そこに引用されている。と、次の瞬間わたし自身がフリーズしてしまった。 「ひそやかに」が拾われているではないか!indexから拾われ易いと教えられたのは、あとから である。大慌てで別のページにリンクさせ、こんどはもう少しわかりやすい位置に、小さな ドアのアイコンだけを置き、説明はなしにした。ただ、文章に登場する某氏には事後承諾を 得べく、存在はお知らせし、場所は黙っておいた。間もなく返信メール。かなり探された様子 で、「それにしてもひそやかに過ぎ・・」とのこと。私がにんまりしたのはいうまでもない。 しかしそれからひとりふたりと「見た」と声をかけてくれる人があらわれるようになった。 今年一月、コンテンツを増やしたついでに看板も今のものに替え、地下室へのドアも自動(?) にした。一応のご案内文も掲げている。 書き始めて一年、発会以降の諸々の記録もほぼ書き終えた。さて、このページも終わりに すべきかどうか、思案の最中である。(03、7、15) |