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<31> 気候がよくなってしのぎ易くなると、往復はがきが来はじめる。 クラス会などの案内状だ。が、この度到着したのは差出人住所が 愛知県。「すてきな三句」入選の知らせであった。前後して歌林の メンバーからも、電話やメールで同じく入選の連絡がはいった。 応募したのも忘れていたが、愛知県の桜花学園大学の一九九九年 秋桜祭の一環としておこなわれる「とよた市民キャンパス連句まつ り03」の「すてきな三句」募集というのがあったのだった。 連句の魅力である「三句のわたり」を見るもので、前年以降 の連句作品の中から、任意の部分三句つづきをぬきだして応募する。 独吟不可、三句は長・短・長でも短・長・短でも可、というものである。 七月のころ、宗匠手留さんのところに案内があったそうだが、大学の 後輩、矢崎藍さんも関係しておいでだからと、「送っといて。」と 応募要項を手渡された。「三句のわたり」の良し悪しなんぞが私に判断できる わけがないのに。手留さんの指示はいつもこれだ。「・・・しといて。」 「・・・してよ。」と相手の能力を遥かに超えた仕事を、いとも簡単に 預けてくる。ただ救いは、結果がどうであろうと文句を言われたことが ないことである。 やるっきゃない(=やっときゃいい)のだ。作品集『転石』を繰り、 古いプリントをめくり、 十篇余りを抜き出した。さらに一・二篇にしぼってもらうべく 一枚にまとめて手留さんに提出。宗匠一瞥して 「いいよ、みんな送っといて。どうせ入選しないんだから。」 「・・・・・・。」 応募には、一作品ごとに三句をハガキ一枚に書き、作品(巻)名やら連衆名、 代表者の住所・氏名とこまごま書かねばならない。その夜は ハガキ一枚書くごとに、「どうせ、入選しないんだから。」を頭の 中で繰り返しながら十一・二枚をしたためた。 この募吟、七人の選者の特賞、俳諧寒菊堂賞、恋三句賞、時事三句賞。 ほかに秀逸、入選、適宜数、となっているが、応募の結果は次の三篇の 入選だった。 大草原馬の背分ける風もなし 具体的から抽象的へ 漠々とテロ討論のうすら寒 身の内に滾る火のあり皿磨く 南も北も雪の連山 それぞれの「原理」獣の角のごと 明日は誰オセロゲームの政官界 魅惑誘惑疑惑困惑 木曽駒の妻恋う眼月渡る 入賞はしなかったし、入選は「その他おおぜい」ではあろうけれど、 宗匠の予測が外れたことだけは事実である。(03、10、15) <32> 十月二十一日、連句結社「猫蓑会」の主宰、 東明雅さんの訃報が新聞に載った。亡くなられたのは二十日。八十八歳でいらしたと いう。 連句に関りだして、まず初めに手にした本のひとつが中公新書の 『連句入門』であり、そしておうふうの『連句ー理解・鑑賞・実作ー』であった。 三省堂『十七季』は、季語集として式目集として持ち歩かせていただき、 この頃は綴じ目が少し怪しくなっている。 句会や文音の折には 「メイガ(本名はアキマサ)さんの本によると・・・」という言葉が指標として 何度も登場した。直接のご指導をいただく折はなかったけれど、 ふっと師を失ったような頼りなさを感じてしまう。 歌林の連衆ではないが、二年ほど前に新宿朝日カルチャーの 連句教室に通った人の話によると、教室で講義をなさるのは高弟の方 だったが、いつも後ろに立って質問などに答えていらしたとのこと。 温和で高雅な、透き通るような感じの素敵な先生だったと 彼女は言う。 講義のあとのお食事会にも同席され、新入りの生徒を近くに招いて 座らせてくださるのだが、恐縮してしまって、お話などとても できなかったとか。十分察しがつく話だ。 かなり前のことになるが、ある新聞に、若い女性記者が、このごろ愛好者が 増え始めた連句に挑戦してみた、といった記事を載せていた。 参加したのは「猫蓑会」。そして、主宰の東明雅さんを紹介するなかに、 名刺の肩書きには「俳諧師」とだけあったという件には、なんだか とても惹かれて今も忘れられない。 ご冥福を祈るばかりである。(03、11、1) <33> 連句会に続いて「俳諧書を読む会」を起こして五年。『去来抄』を終え、 『三冊子』も「わすれみづ」後半にはいる。後は『去来書簡集』『旅寝論』 『俳諧問答』『篇突』…と進んでいく予定。それぞれの担当者も決まって、 皆さん準備に余念がない(でしょうか?)。隔月の会であり、 ずっと後のほうに当たっていると、何年先のことか見当もつかないのだが。 そして、この十月から新たに加わったのが、芭蕉連句を読むこと。 『三冊子』は午後からなので、その同じ日の午前中に行うことになった。 まずは宗匠から前以て資料プリントが配られた。はいはい、いつも ありがとうございます、とバッグにしまって二ケ月、その初めての会合の 二・三日前にクラス会で顔を合わせた数人、「ねえ、あのプリント、 どうすればいいの?」などと密かに言葉をかわすが、誰もわからない。 『去来抄』や『三冊子』の時のように、担当が決まっていないのだ。 そういえば、宗匠から誰かやらないかと言われ、名乗り出る人もなく うやむやになったような気もする。宗匠はこのクラス会に欠席で、確かめる術もない。 第一、今頃尋ねて「あなたがやって。」だの、「順番に受け持つ。」だのと 言われたら薮蛇……。他人に教えることを生業としてきた人間も、本当は他人に 教えてもらうことがこの上なく好きなもので……。 一抹どころではない不安をもって会場へ。だが、メンバーが席に着いたところで 宗匠はあっさりと「これは、私がするから。」と。他の方々は知らないが、私の 気分はまさに \(^0^)/~ だった。こんなときにこの顔文字を使わないでいつ使うのだろう。 最初は、貞徳十三回忌追善「野は雪に」百韻。宗匠手留さんはもとより、 古典に和歌に造詣の深いメンバーの言葉に耳をかたむけながら、若き芭蕉(当時22歳) が初めて「宗房」の名で一座した巻を、付けの妙を楽しみながら読み始めたのである。 (03、11、15) <34> 「文音」というものがいつごろから始まり、誰がそう名づけたのか 全く知らないのだが、時間的に地理的に座を持つのが難しい人々には、 手ごろな手段には違いない。殊に最近はネットを使った連句の座が たくさんあるようだ。 歌林の中にも文音連衆はあって、ゆっくりとのんびりと巻いて いる。利点は賦物などの普段の例会ではなかなかできない試みも できることだ。そんなものの最初は生類づくし「蜘蛛手の水」の巻だった。 半歌仙程度でも、普通の式目以外にもう一つ条件が加わると、 こんなに難しくなるものかと、あらためて思ったものである。 現在も一巻進行中だが、最近の作品は、日本文学俤づくし 「石屋戸」の巻。 これは、日本文学史上著名な作品をほぼ時代順に並べ、その俤を詠み込むのだ が、書名や作者名は出さずに、「あ、あの作品だ」と誰もが気づくようにしようと いうのだ。 月、恋、花も定座におくと、作品によっては、難事業になってくる。 打越にまで気をつけると、付け心などどこかへふっとんでしまう。 最初の約束事の確認が甘くて、連衆を戸惑わせてしまったこともあったが、 はるか大昔の読書の記憶をたどったり、結局全篇を読み直したりしながらの 皆さんの協力をいただき、無事満尾にこぎつけた。 出来上がった巻を面白いと言ってくれる人もあり、みんなの苦労の甲斐が、などと思った ものだった。が、その後、去来書簡など読んでいると、芭蕉のいう「俤」の意味の 深さを教えられる。徒や疎かに俤づくしなどと口にするものではないと 反省もさせられた。 だが、“お知らせ”は忘れた頃にやって来た。 「2003年連句文芸賞」に「石屋戸」入選のお知らせをいただいた。 これも宗匠から応募したらと勧められたものだったが、入賞ではない ので賞金にはまたも無縁である。忘年会も近いのに。歌林のみなさま、すみません。 お役に立ちませんで……。(03、12、1) <35> 京王線、小田急線、多摩モノレールの「多摩センター」駅を降り、 ゆるい坂を上り切ると例会の会場「パルテノン多摩」がある。 まことにゆるい坂なのだが、歳時記やら辞書やら眼鏡やらの 入ったバッグを持って上ると、思いのほか勾配を感じる。ノルマの 発句はまだ完成していない、下五がなんとも落ち着かない、いいわ、 誰かカッコイイの出してくれるでしょ、などと考えながら、パルテノン 神殿(!)へと歩を運ぶのだ。 夏に山形県に旅をした。芭蕉ゆかりの山寺があり、それを臨む東側の 高台には「芭蕉記念館」がある。そこへは舗装されただらだら坂を 上って行くのだが、道の片側にはコンクリートの階段が設えられていて、 上り始めの看板に「俳句の道」とあり、「この石段は五、七、五の リズムになっています」と書いてある。 なるほど階段は、五・七・五、五・七・五、五・七・五、五・七……と 区切られて続いている。階段を踏みしめながら、一句、二句と俳句を ものしなさいというのだろうか。 何も知らずにただ「俳句の道」という言葉を聞いて、こういうものを イメージする人がいったい何人いるかしらと考え、笑いがこみ上げた。 観光客を意識してのものかも知れないが、こういう土地の人々には、 さりげなく芭蕉を敬い俳句を愛する心があるように思えてならない。 それにしても「俳句の道」でよかった。「歌仙の道」や、まして「百韻の道」 などとあったら、もう段数を考えただけで後ろを向いて逃げ帰ったことだろう。 師走になった。例会の座が満尾する頃には外はすでに暗い。クリスマスの イルミネーションがきらびやかに多摩センターの坂を飾っている。 (03、12、15) |