永仁の壺

(12)  『永仁の壺』  村松友視著 


 年が変わってまた日がずんずん流れていきます。賀状には「今年がいい一年でありますように」と書いてくだ さるものが多かったのですが、去年の天変地異を考えると複雑な気分です。
 今月は村松友視作『永仁の壺』です。永仁の壺事件について私は、加藤唐九郎、贋作ということを印象深く 覚えていますが、何がどうだったかということは、よく分かっていなかったので、この本を是非読んでみたいと 思いました。
 この小説は、単に「永仁の壺事件」の顛末を書いたものではなく、なかなか複雑な構成になっています。いく つものエピソードが、みんな「本物と贋物」「嘘と真」「虚と実」という対立にかかわっていることに気付きま す。
 そしてもう一本の柱となる話があって、それは、村松友視とほとんど等身大の作中の「私」が、書きかけで 止めてしまった作品を再び書き上げることになるいきさつで、その小説は「小説家の身分」をテーマにしたものです。小説家を名乗る男が旅館に長逗留して料金を払わずに逃げて捕まったという新聞記事を材料にして、作家である「私」の自意識を書いていきます。 その二つの話が綯い交ぜになって進行します。
 作者村松友視は、明治生まれの流行作家村松梢風の孫ですが、父親が27歳で亡くなり、母親が20歳で友視を産むと、梢風は自分の子として戸籍に入れ、母親は再婚しました。 これも戸籍の嘘、出生にまつわる作り事としてこの作品のテーマに重なってきます。
 小さな出来事としては、「私」が、キャッシュカードの窃盗団の犯人に疑われて刑事に質問されたこと、鉄道 の足尾線が廃線になるのを防ぐために住民が当番制でサクラ乗車する話、梢風の愛人が、文士の妻としての役割 を演じる話、世界中の著名美術品の模作を作って展示している美術館のこと、銭湯のペンキ絵の富士山のこと、 など巧みに盛り込んであります。それらが、本の帯に書いてある「本物でなければ、贋物なのか!」というテ ーマに収斂していきます。
 本題に入ります。
 また帯の文句ですが「陶芸界を揺るがした世紀のスキャンダル」といわれるのは、どういうことだったのでし ょう。世間一般に知らされたのは、鎌倉時代の「永仁二年」と奉納者「水埜政春」の銘がある古瀬戸の壺が、 昭和34年に国の重要文化財に指定されたものの、瀬戸の陶芸関係者から、古瀬戸の贋物ではないかとの疑惑が出され、重文指定を持ち掛けた文化財保護委員の小山冨士夫が、贋作だったと認め、36年に指定解除になったことです。その間に重要無形文化財保持者の加藤唐九郎がその壺は自分が作ったと告白したので大騒ぎになりました。 当時私も加藤唐九郎が「永仁の壺」と言われるものを作ったらしいということは分かったのですが、それがどう いう贋作か、なぜ贋物を作ったのか、その後、加藤唐九郎は世間に騒がれた贋作作家にしてはあまり糾弾される こともなく、陶芸家として堂々たる大家であるのは何故なのか、不思議に思ったことを覚えています。
 概略はそういうことなのですが、そこに到るまで、その「永仁の壺」は、長い道のりを辿ってきました。
まず作られたのは、昭和12年でした。唐九郎が知り合った人物が、アジアを統合する新しい宗教を作る構想を 持ちかけ、鎌倉時代に新羅から入ったという白山信仰を柱に大陸と日本の両方に総本山を置くので、その神器に する瓶子一対、狛犬一対、香炉を唐九郎に焼くように頼みました。しかし戦局が変わって大陸に簡単には行け なくなり、新宗教の話はご破算になり瓶子一対だけは、注文者の手に残りました。昭和18年になって、志段 味村という愛知県の村に青少年鍛錬道場というのを名古屋新聞が作ることになり、その村の村長が瓶子の1つを 持っていて、シンボルとしてこの瓶子を置こうと思い立ち、箔を付けるために道路工事現場から出土したように見せかけました。ここまではこのお神酒徳利はあくまでも神器、シンボルとして使われるはずでした。ところがその村長が、お金を持ち逃げされて困り、その壺を売ったのです。こうして壺は根津美術館に入り世間の目に触れることになりました。鎌倉期の古瀬戸の出土品として(永仁2年作となるとそれまでに見つかった古瀬戸最古のものより18年古いことになります)。このころ加藤唐九郎は古窯址から出土した陶片を何百個も根津美術館に持ちこみます。壺と破片を見てその美しさに感銘を受けたのが、小山冨士夫でした。唐九郎が松留窯と称する古い時代の窯址まで自分で作り、自作の陶器の破片を埋めた行為は私にも理解しがたいものです。作ったときと用途が変ってしまった成り行き上、壺を本物の鎌倉期の出土品に仕立ててしまおうと思ったのでしょうか。 第2次世界大戦が終わり、昭和21年に設立された日本陶磁協会は瀬戸周辺の古窯址の調査をし、その報告会に 松留窯製の永仁の壺も展覧されました。そして昭和24年ごろ、小山冨士夫はこれを重要美術品に指定するよう に提案しますが、銘の文字が鎌倉期の文字ではないという反対意見などがあって却下されました。その10年後に小山冨士夫が再び重文指定を持ち出したことを、作中の「私」はいぶかしんでいます。海外流出を防ぐためという事情もあったようですが、そのときは反対者もなく、永仁の壺は重要文化財になりました。その後の経緯は前述のようです。 作者村松友視はこの事件の当事者たちの人間像を小説家らしい観察眼で推理しています。
 もちろんみんな鬼籍に入っている人達です。中でも主役の二人、加藤唐九郎と小山冨士夫については、慎重に 中立の立場をとりながら、その性格、事件への対処の仕方、その後の生き方を描いています。唐九郎はさまざま な仕掛けをしているのに、罪の意識は希薄です。瀬戸の地元では、模造品を作ることは、一つの修行でもあり 、日常茶飯事です。その上重要文化財になるいきさつを本人は知らなかったというわけです。唐九郎の側に立つ 人は、鑑識眼がなくて騙される方がバカだと平然と言っています。小山冨士夫を無類の人格者、陶磁器研究家と して尊敬する人たちは、唐九郎が周到に仕組んで自分の作品を古瀬戸に見せかけたしたたか者と思っています。 そして唐九郎は自伝を書いたり、事件のことを屈託なく対談で語ったりしながら、陶芸家として押しも押されも せぬ地位を築いて、生涯を終えます。小山冨士夫は、文化財保護委員を辞任し文部技官としての公職を離れ、陶 芸家になって成功しますが、事件に関しては語りません。そもそも「私」村松友視が永仁の壺事件に興味を持つ きっかけになったのは、小山作のぐい呑みを手にしたからです。
 さてここまで詳細に調べ推理してきた作者は、これまで誰も言わなかった大胆な推理をします。加藤唐九郎は 「陶人の魂」を見せるために自作を永仁の壺に仕立てて陶人としての自らの誇りを示そうとした、小山冨士夫は そのことに気付いて敢えて騙された共犯者ではないか、というのです。いかにも小説家らしい穿った見方です。 そうして作中のいくつかのエピソードも騙す方が悪者で騙された方が善人あるいは愚か、というふうには書きません。分かっていても騙されたままでいる騙され上手、騙した人の心情に寄り添って信じ続ける人など微妙な人間関係や人間心理を描いています。  もう一つの柱「小説家の身分」についての作家自身の考察はどうなったでしょうか。
 第1章から引用してみます。ある割烹料理店での「私」です。
  「自分には不相応な店のカウンターで、名のあるぐい呑みで酒をあおることを、平然とこなすには程遠い性格だ 。緊張した、あがったような状態で私がどこへ着地するかといえば、どうやら小説家の貌をつくることであるら しい。これは、私が自分自身に向ける疑惑みたいなものだが、その疑惑が完全に晴れたことは、一度もない。」 という自意識です。そして作中の小説は、小説家である主人公が「私はゆっくりと詐欺師の貌をつくり上げ、東 京の街へ向って嘘くさい一歩を踏み出した」という一節で終わっています。小説の中に、もう一つ小説が出てく るという入れ子構造になっています。
ところでテレビのお正月番組で歌舞伎の生中継がありましたが、私がたまたま見たとき、村松友視がゲストと して出演していました。品格のある顔立ちで、文学者らしい感想を述べ、なかなかの貫禄ながら嫌味がなく、 屈折した心情など微塵も見せない爽やかさでした。考えてみれば、小説こそ「虚実皮膜の間」にあるものです から、事実そのままと受け止めてはいけませんね。
 私たちも自分の中にある欺瞞、ごまかしをたまには洗い出し、検討してみる必要があるでしょう。他人の嘘 に気付いたら、その深層心理にまで思いを致してみるのも面白いかもしれません。また私ぐらい年を重ねてく ると、自分を取り繕う必要もなく、ありのままに生きている積もりですが、時には、心も「装う」ことがあって もいいのかもしれません。
 『永仁の壺』は新潮社発行、1700円です。
               2005年1月11日 録音   1月30日 記
 


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