1、賦物の作品例(『莵玖波集』を中心に)
2、鎖連歌の実際(『問はず語り』から)
3、二葉亭四迷と連句
4、芭蕉と俳諧連歌式目
「師の門にその一書あれかしといへば、甚つゝむ所也。法を置と云事は重き所也。……法を出して
私に是を守れとははずかしいき所なり。差合のことは時宜にもよるべし。先は大かたにしてと也。
たゞこゝろざしある門弟は、直に談じて信用して書留るもの、蜜にわが門の法ともなさばなすべし。」
服部土芳は俳論『三冊子』の「白雙子」の中で、上のように記述したあと、俳諧の連歌の式目に
ついて述べている。その中に紹介されている芭蕉の言葉を、すこしずつ追いかけてみた。これは
あくまで、「師の曰く」などの表現で地の文とは区別されているところのみを取りあげたもので、
事実上は、他の歌論書などからの引用であると言われる部分も含まれていることを注記しておく。
本文読解においては、南信一氏著『三冊子総釈』(風間書房)を参考にさせていただいている。
恋句の事
昔は二句続けるのをよしとしたが、恋の句は格別大事なもので、真の恋心の句をたやすくつくれるものではない。一句でとめてもよいで
あろうか。前句に恋の句とも恋の句でないとも判断し難い句のあるときは、必ず恋の句を付けて、前の句と共に二句とも恋の句とすべき
である。この場合はこの句だけでよく、さらに恋の句を続ける必要はない。だが、やはり恋のことはその座の宗匠に任せるのがよい。
旅の事
旅の句は二句続けるのがよい。沢山続けてよいのは神祇、釈教、恋、無常、の句。旅や恋は難しいところだが、また面白いところでもあ
る。連歌の教えにも、旅の句は、たとえ田舎で作るのであっても、都を思い、逢坂山を越える気持ち、淀の川船に乗っている心地、旅先で
都の便宜を求める気持ちを本意にしなければならないとある。また、旅は東海道のひとつの旅路も経ていない人はよい俳諧を詠むのは
覚束ない。
等類の事
他人の句に等類であるとは気づきにくいが、それより自分の句に自分の句が等類になっていることに気づかぬものだ。等類になっていない
かよく分別して句を味わわなくてはならない。自分の句と等類になって差し障るような他人の句がある時は必ず自分の句を引き下げるべき
である。趣向のこらしかたには表と裏があるものだ。句にもよるとはいうものの、他人の場合は大様に見逃し等類とせず、採り上げるべき
だ。
また、
都をば霞とともに出でしかどあきかぜぞ吹くしら川の関
みやこにはまだ青葉にて見しかどももみぢ散りしく白川のせき
後の歌は(青、紅、白と)色を分けた趣向で等類となるのをのがれたと昔からいわれているが、そうだろう。この歌は四月頃に都を出て、
十月に白川に着き、紅葉の散り敷いて、前の能因法師の歌を思い出し、いよいよその歌の優れているところを感得したという心で詠んだ
うたなのだろう。是によって等類になるのを逃れている。
切字の事
昔から用いてきている文字を使うべきだ。連歌俳諧の本に詳しくでていることだ。切字がないと発句の姿にならない。付句の姿になる。
切字があっても付句の姿の句もある。それは本当に切れた句でないからだ。また、切字がなくても切れている句もある。そこの弁えが
切れ字の最も大切なことだ。切れている句、切れていない句の句柄は自然に悟るのでなければ理解できない。昔からの口伝がある。
(芭蕉は常に先人の定めた道を大切にして示した。)
あこくその心は知らず梅の花
という句についていえば、切れた句ではあるが、切字は確かに入れたほうがよい。切字がないと初心者の道の惑いになってよくない。切字の
用い方は常に慎まねばならない。ましてそれほどでもない句は、作るのを思いとどまってもよい、切字は常にたしなんで用いるのがよい。
文章の事
(序文、跋文等についての記事、省略)
句合判の事
(ここには芭蕉の言葉の引用はない。本文の概要を載せておく。)
発句合(発句を左右で競わせ判定する)の判定について、
衆議判は連衆が寄って議論、批判するもの。蛙合(深川芭蕉庵で蛙の句を左右において句合を行った)も衆議判のやりかただった。
だから判者もはっきり決まっていない。
本判は、判者が懐紙の終わりの跋、または序を書き、句引(句合の最後に左右の作者の名前、勝、負。持の句数を書く)もつけるものだ。
歌には歌合というものがあって、即座の判、兼ねての判というものもある。即座の判は左右に文台をすえ、判者が坐る。左右から互いに
論難批判を言い合い、判者は是を聞く。しかしそれには拘泥せず、判者は判定を書く。第一番は多く持(引き分け)にする。
懐紙の事
(懐紙は百韻が正式で、五十韻、歌仙は略式。連歌の古式は表十句、名残の裏六句、月七句去り、花は裏表に一個所ずつ。初表の中に
名所の句が必ずひとつあるべきだ。と述べたあと、師の言葉を紹介しているが、南氏は「月七句去り」は「十句」の誤りではないかと
記されている。)
古式の連歌では初表が十句だったという先例を守って、初八句の後、裏の二句が過ぎるまで、表では嫌うものの類を連歌では今でも用いな
いというが、俳諧では差し支えない。連歌では竜・虎・鬼・女・目立つものは初表に嫌う。俳諧でも、鬼、女はよくない。竜と虎は差し支え
ない。そのほか、人を殺す・切る・しばるなどの類は初表に採用してはいけない。また百韻で一箇所より多く用いてもいけない。
(恋の詞・述懐など初表で禁じられているものを祝言として言った句はどうか、との問に対し)
句によるだろう。(内容を伴わない)文字だけならかまわない。祝言(めでたい言葉)にいいなしても、他人の上のことをのべたら述懐に
なるので、用いてはならない。「花のさびしき」といったものは(内容は述懐ではないので)かまわない。「崩れた壁にさがる夕顔」などひ
どい貧しい家をあらわす句は作らないほうがよい。が、他人がこのような句を作ったときはとがめないほうがよい。
(恋・無常その他、表では避けるべき故事や古典を心にふまえて表面にあらわさない、また、恋や無常を他のものに託して詠んだ句はどうか
という問に対し)
だいたいは表八句には嫌うものだ。場合によることではあるが、気持ちのうえで、好きではない。詞に出さず心に嫌うことを持っている作者
は清くなく、心汚い。隠さず全て句に表現するがよかろう。だが、それらは表八句のすがたではないので、いつでも差し支えない、詠みなさ
いということではないのだ。
(古今の人の名を初表に出すことはどうかという問に)
今の人の名は謹まねばならない。昔の人の名はものによっては差し支えないだろう。しかし、好ましくはない。気持ちの上で好きでないのだ。
(懐紙に恋の句がなかったらどうだろう。昔からそれがないと面白くないとされてきた。なくてはならないものなのか、恋の句を好むのは
なぜか、という問に)
これは至って大事なことだ。懐紙に恋を目立たせることは、神代において、(イザナギ、イザナミ)二神が婚姻して日本の国が始まったごと
きもので、恋がなくてはつまらないことだ。よく謹むべきである。
歌仙は三十六歩也
歌仙は三十六歩すすむようなものである。一歩も後戻りしようとする心なく進む。付句が進むにしたがって心が改まるのは、ただ先へ進も
うとする心だからである。
発句の事
土芳によれば、芭蕉は発句は重苦しくないあっさりしたのを好んだという。
脇の事
脇は亭主が句を詠むべきところで、それは(客人への)挨拶である。発句に神祇・釈教・その他(普通、発句で詠まれない)特別なものが
ある時は、それに応じて脇を付けなさい。たとえ言葉にださなくても、(発句に応じた)心をもっていなければならない。ただし、水祝い
などの語を恋としてではなく、普通の季語として使った場合は、脇は恋でなくてもよい。発句に従うべきだ。
脇は第一に発句を受けてつり合うこと専一に、寄り添って付けるのがよい。句にひと趣向こらすこともあってよい。最後の文字は、体言に
し、すわりをよくしなければならない。仮名でとめる場合も自然にあるが、それには心得、口伝というものがある。発句によく対応し、
一体になる心が第一と思いなさい。脇の作者の心得るべきは、発句が出たらよく聞き取り、特別のことが詠まれていなくても、わきの作者
のほうから発句の句意をはっきりさせるように挨拶して、発句の意をよくとらえて脇をつけなさい。発句の心を十分理解せずに付けるの
は、失礼この上ないことである。
第三
脇に対してそれほど付いていなくても、転じて格調高くすべきである。
(哉留めの発句の場合は)第三を”にて”と同じ意味になる”に”留めにするのは差し支えないが、”にて”留めにはしないものだ。
発句が恋や神祇などのもので、脇がそれに添うものである場合、第三は必ずここから転じて離れなくてはならない。
四句目
重苦しいのは四句目のあるべきすがたではない。句中に作意をこらしてはならない。
発句から春または秋の季が続いて、四句目で花や月を詠むことは決してあってはならない。
五句目・七句目の事
(ここに芭蕉の言の引用はない。『俳無言』によって記述がある。)
「三て五覧」といって、第三がて留めならば五句目はらんで留めよとあるが、五句目をらんで留めない場合は、七句目をらんで留める。
第三の後一順してからは長句を重んじ、月の座は老功の人にあてるべきだ。初表に同字を嫌う。て留まりやはね字留まりは初おもてに必ず
あるべきものだ。
うらに成りて
(ここにも芭蕉の言の引用はなく、『俳無言』によって記述がある。)
連歌に「四春八木」として裏の四句目を春とせず、八句目に高い植物を詠まないという禁制があるが、俳諧でも同じである。しかし他人が
春の句を出したら、これを呼び出しの花として花の句を付けてもよい。
月
(月の定座をこぼすことは)五十句以内(百韻の前半)にはあってはならない。後半になってからならば、少しの興を添えるものにもなる。
歌仙の場合は差し支えない。百韻の略式のものだから。
月の定座において、月の字や有明が差合を生じたときは、月の異名を用いなさい。どのような異名を用いるかは詠む人の考え次第だ。
月は長句で詠むのが勝っている。月の定座に落月や無月の句はつつしむべきだ。が、それもときによるもので、詠んではいけないという
法式があるわけではない。
初表に月を二箇所で詠むことは稀にある。この場合、一巻に月の句が八つになる。名残の裏では、稀にも月を詠むことはない。
花の事
(正月に花を見る、九月に華咲く、などという句はどうか、実際には梅、菊、牡丹などを心にもって、表面は花と表し正花とした句は、
その心に抱いた草木に従った季を持たすべきか、という質問に対し)
九月に華咲く、などという句はよくない。正花にならない。たとえ、(梅、菊、牡丹などの)名木を表に出さず花とだけいっても正花
である。華というのはもともと桜のことではあるが、(連歌俳諧では)一般に春の花のことをいうので、これ等(名木を表にださず花と
だけいったもの)を正歌としてあつかわなかったら、花の句が沢山出てしまってはなを賞でる心が軽くなる。
宗祇の時代までは百韻に花は三箇所、雨は一個所であった。宗長の時にいたって、名残の花一個所、雨一個所勅許を蒙りたい旨上奏せられ、
その後、花四本、雨二つにきまった。以上、連歌の方式である。
以上
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