for Lee Eunjoo

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イ・ウンジュ追悼 ★ミ

「バンジージャンプする」と輪廻

イ・ウンジュ(Lee Eunjoo)

1980.12.22.-2005.2.22.
170cm 48s Atype
檀国大学演劇映画科卒

 雨ですね。あなたが初めて傘に入ってきた日のように……

 イ・ウンジュさんがなくなったということを、友人からメールで聞いた。
 そんなことがあるか、と思って新聞を見たら、小さな記事が載っていた。
 鷺沢萌さんがなくなった時のような、ショックを覚えた。そしてRの時のように。
 萌さんは35、Rは29、ウンジュさんはまだ24。
 あまりにも若い、残念な、惜しまれる死だった。
 美しい女性たち。文章や音楽や演技の才能もある。才色兼備のひとたち。
 なぜ、そんなに死に急ぐの、生き急いだの。きっとまじめ過ぎたのだね。
 自らの作品に、演技に、厳しかったと聞く。デリケートで内面的で、外面から予想される気強さとはうらはらに、弱くナイーブなところもあったのだろう。

 ほかならぬ『バンジー・ジャンプする』のヒロインであることが、あまりにもその映画の内容と似合っていて、寂しさと切なさを増した。というより、『永遠の片思い』も『ブラザーフッド』も見ていない私にとって、イ・ウンジュとはすなわち、テヒである。もちろん映画の登場人物と実際の役者の生涯が違うことは百も承知だ。だが、銀幕のイメージを大切にしたいこともまた確かだ。原節子のように、作品の中の自分を人々の胸に残しつつ、実際の世界からは幕を引いて退場する女優のように。もしかするとウンジュさんは、『バンジー・ジャンプする』のテヒのままに、彼から、観客から、人々から、心の中の恋人としていつまでも記憶されたいと思ったのかもしれない。そんな気さえする。もしそうだとしたら、ヒロインと重ね合わせて見ることも、失礼ではないばかりか、かえって役者として生きた人間にとっては本望とも言えるのではないか。

 テヒはこの世から突然、姿を消す。
 だが、それは永遠の別れではない。再会の機はあるのだ。
 そして実際に再会してしまう。それがこの映画のメッセージであり、魅力でもある。死は終わりではなく、絶望でもないということ。いや、始まりであり、希望でもあるのだということ。それは喜ばしい知らせ、福音である。
 突然、事故で逝ってしまったあなた。それはもう十七年も前のことになる。だがいまだに忘れることはできない。そう、十七年。え、十七年? そうだった、Rがなくなってからも十七年になるのだ。十七回忌というけれど、もはや忘れなくてはいけない定めの年月になる。だが、なかなか忘れ去ることはできない。可哀想で忘れ切れない。数々の美しい思い出が、走馬灯のようにフラッシュバックのようにありあり蘇ることがある。年をとればかえって短期記憶は消えて、昔の思い出ばかり残るのだろうか。
 そう言えば確か、映画でも十七年、ではなかったっけ。

 青年の時に死に別れた男は、今は教師をやっている。
 この教師である、というところがまた、他人事とは思えない。私も、しがない高校教員をしているから。
 彼は生徒たちに言う。信じられないような奇跡というものはあるのだと。
 空から一本の針が地球に落ちてきて、一人のひとの上に当たる確率はどのくらいだろう。
 私が昔見たオーストラリア映画で、空を飛んでいた輸送機が間違えて冷蔵庫をひとつ落としてしまい、たまたまその日、家の外の庭で寝ていた妻に当たって死んでしまった男の話というのがあった。一体そんな死に方をする人がどのくらいの確率であるだろうか。ほとんど全くあり得ない、限りなくゼロに近い、でも決してゼロではない。
 それは悪い話だが、でも、良い話だってある。ロトくじで、積もり積もったキャリーオーバーがすべての桁で一致して当たる確率。これは数学的にきちんと計算できる。たまたま一枚買った馬券が万馬券、億馬券になる確率。いや、何も買わなくてもただ歩いているだけで、ある日、道に一億円落ちていないとも限らない。
 だが、事故や金儲けの話が言いたいのではない。
 人との出会いこそ、実はあり得ないような奇跡なのかもしれない。だって、地球上に何人の人間が住んでいるっていうのさ。確か、六十億だったかな。すると、あなたと隣人のであった確率、奥さんとか、恋人とか、友人とか、同僚とか、先生とか、通行人とか、人生でひとりの人と出会う確率は、六十億分の一。すごい奇跡だよね。

 遠藤周作に『深い河』という小説がある。映画にもなった。
 心に染み入る作品で、しみじみと泣ける。
 インドを旅行している、あるツァーの参加者たちのグループが主人公だ。ひとりひとりが語るうちに、どうしてこのツァーに参加したのか、その人生が見えてくる。
 何人かの人物たちが登場するのだけど、一番涙をさそったエピソードは、ある中年の夫婦のお話だ。妻が、がんで逝ってしまう。ご主人は奥さんのことを深く愛していた。
 その奥さんが、死ぬ間際に、苦しい息の下からこう言い残す。
 「わたし、きっと生まれ変わるわ。だから、あなた探して見つけてね」
 そこで、旦那様は探しに行くんだな。生まれ変わって、このインド亜大陸のどこかにいるかもしれないって思って。そして、村々をたずねて、人々の顔を見て、似た娘はいないかってさがしまわって、果てはインドの霊媒師だの祈祷師だのに会って、前世や来世のわかるという彼らに、日本で死んだこれこれしかじかの女は今、どこにいますかと聞いて、教えてもらってたずねていくんだ。でも、その少女は何も知らない、わからない。
 夫は確信を持つことができない。
 仮に生まれ変わったとして、六十億の針の中から、一本の針を見つけることなんて、どうしてできようか。顔も違って、記憶も残っていないとしたら、何を手がかりにしたらいいの。広い広いビーチの砂浜で、ひと粒の色の違う砂を見つけるより難しいかもしれない。

 もうひとつ好きな映画で、『リトル・ブッダ』というのがある。
 キアヌ・リーブスが、昔話のシーンで釈迦を演じている。『マトリックス』もかっこいいけど、彼の東洋的なマスクは、こうした役に向いているように思う。
 お話はこうだ。現代のアメリカのある街に、黄色い服を着たラマ僧たちが突然やってくる。そして言う。
 「おたくのお子さんは、うちの大僧正の生まれ変わりです。国に来ていただいて、あとをついでいただきたい」
 どうして、そんな荒唐無稽なことが信じられよう。両親も初めはもちろん拒否する。だが、そのうち親しい友人が死んだりすることがあって、いったい死とはなんだろう、人は死んだらどこにいくのだろう、そんなふうに悩んで、ちょっとチベットに行ってみようかなとそういう気になる。そして家族で出かける。
 祭りでにぎわうカトマンズの喧騒の中で、父親は僧侶に問う。
 「無常とは、なんですか」
 「今見ているこの都会の大群衆。これが百年たてば、だれ一人としていなくなる。それが無常ということだよ」
 今でも、新宿や渋谷に行って、高層ビルから見下ろす都会の雑踏や、スクランブル交差点で青になったとたんにごった返す人ごみを見ていると、この言葉を思い出す。百年たてば、彼らも自分もこの世にはいないのだ、と。それは絶望だろうか。
 だが、彼らが生まれ変わるとすれば、また出会えるとすれば、希望はあるのだ。

 輪廻の思想、である。
 そもそも東洋的な信仰だろう。教義的にはもとは仏教だろうが、それ以前の古い原始的な民間信仰にそのルーツがあるように思える。
 中国映画にもこうした発想の映画があって、『テラコッタ・ウォリア』やその名も『大輪廻』というのがある。百年、千年の悠久の時を超えた、恋し合う男女の再会の物語だ。
 そして、同じ東アジアの韓国映画にもある。その中で私が一番好きなもののひとつに『銀杏の木のベッド』がある。
 現代、大学で教える画家が、ある日、市場で気に入った骨董品の銀杏のベッドを家に買ってくる。すると彼のものに、ひとりの姫君の幽魂が現れる。なんと、彼女は古代、新羅あたりの時代からやってきた。画家は昔、彼女と恋しあった男の生まれ変わりだったのだ。画家が買った骨董品の銀杏のベッドにまつわる悲恋の秘密が解き明かされていく。
 まるで聊斎志異かアラビアンナイトか何か、いや日本むかし話か、そんな古代の御伽噺のようなストーリーが、美しいCGや音楽によって、現代のSF映画としてよみがえる。いや、こういうお話をSFとはあまり私は呼びたくない。Scientific Fiction、だが、Fictiton ではなくてFantasy、いや、Factかもしれないではないか。

 回り道をし過ぎたようだ。
 話を、『バンジージャンプする』にもどそう。
 そう、もう予想のできるとおり、つまりはそういうお話なのだ。
 なくなったテヒは、いや、「なくなった」のではない。この世をいったん去ったテヒは、また生まれ変わるのだ。
 だが、その彼女とふたたびこの地球上で出会える確率は、果たして何分の一だろうか。地球上の人類の数を分母とするなら、六十億分の一。たとえほんとうに生まれ変わっていたとしても、彼女とふたたび会うなんてことは、宇宙を飛ぶ人工衛星から落ちてきた部品に当たるよりもあり得ないことではないか。たとえ自分から探してみるとしても、はたしてインドにいるのだか中国にいるのだか、太平洋の真ん中に落とした真珠を拾うように、ついには探しえないものではあるまいか。
 だが、分母が六十億、限りなくゼロに近いけど、それは決してゼロではない。

 あれから十七年。
 なくなった年に、またこの世のどこかで人間として生を受けているとすれば、もう十七歳になっているはずだ。
 十七歳? では、高校生になっている年のはずだけど。
 この映画を見て以来、私は教室で生徒の顔をふと眺めることがある。そう、彼らの中に、彼女はいるかもしれないから。うちの生徒が聞いたら、「せんせい、おかしいんじゃないの?」と言われるかもしれない。そう、単なる空想と笑われよう。
 だがもし生まれ変わったのなら、そして、六十億分の一の奇跡を通過して、今この場所に、このクラスにいるのなら、私はわかるだろうか、彼女が。顔や格好が変わっていても、声や話し方が変わっていても、性格の癖は、魂のしるしは、残っているだろうか。
 自信がない。そう言えば、彼女は前から、私は男に生まれたかったの、とそう言っていたっけ。母親は、あなたが女に生まれたときにがっかりしたと言う。ひどい話だ。だけどあなた自身も男まさりの性格だったっけね。もし男になっていたらどうしよう。

 イ・ウンジュ。彼女は、硬質の美貌を持っている。なよなよてと女っぽい感じではなくて、どことなくボーイッシュな香りを漂わせている。情緒ばかりに流れず、どこか知的な面影をたたえている。時として冷たいというような印象を与えることもあるのだが、それは彼女にむしろ生真面目な清純な美質があるからではないか。
 そんなところが、Rにも似ていると感じられるし、鷺沢さんにも似ているような気がする。鷺沢さんの場合は、写真と作品から受ける印象だけど。逝き急いでしまう人は、そうした性質を持ち合わせているものなのだろうか。あまりに純粋に世の中を見つめ、自分に厳しく接してしまう、実は弱いデリカシーを持ちながらそれを素直に外に出せずに突っ張ってしまって、誤解の狭間の中で苦しんでしまうのか。
 R、あなたはとても知的で冷静なようでいて、実はとても柔和で優しい人だった。
 いや、いつの間にか、イ・ウンジュと私の恋人の姿を重ねてしまったかもしれない。勝手な思い込みなのだろう。だけど、そうした思い込みも、映画を見ていて感情移入する時にはありがちなのだ。そんな錯覚も、映画の楽しみに数えてもいい。
 ああ、輪廻でも何でも、彼女にもう一度会いたいと思うのだ。

 それでも私は、正直に言って、この映画の後半の展開はあまり好きになれないのだ。これは見る人の嗜好や性癖や価値観によってまったく違うものだろう。もしかすると、私とはまったく逆に、この映画のストーリー構成を面白い、斬新な試みだと見る人もいるのだろう。この作品に寄せられる好意的な評価はおそらくそうした人たちのものだろう。
 だが、映画に対する評価も、他の芸術作品同様、究極的にはやはり個人の好みの風向によるものだと、今まで数多くの映画をめぐる傑作駄作論争に巻き込まれてきた私は断言ししてもよいのだ。くどくどした言い回しや言い訳はもうやめておこう。私はこの映画の後半の展開が好きになれなかった、それだけの理由で十分だ。
 私はもっと、ふつうのラブロマンス、たとえ大時代だと言われようが、「大輪廻」や「銀杏のベッド」のような、太古の男女がふたたび相貌を変えて、また同じような恋愛を果てしなく繰り返す、そうしたお話が好きだったのだ。そう言えば、銀杏の木というのは雌雄異種なのである。すなわち、人間と同じように男の木と女の木がいるのだ。

 だが、実はそれは少し前までの私の思いだったことを告白せねばなるまい。
 私が今、信じているのは、信じたいのは、「輪廻」ではない。
 それでは、何か。「復活」なのだ。
 「輪廻」も「復活」も似たようなものだ、と言われるだろうか。違うのだ。
 「輪廻」は「生まれ変わり」である。だから、いつどこに誰として生まれるか、いや何として生まれるかすらわからない。ある時は、人としてではなく、犬や猫かもしれないし、虫けらかもしれないし、あるいはイチョウの木や野に咲くラベンダーの一輪かもしれない。だが、私はそれでは嫌なのだ。だいいちそれでは、彼女だかどうかもわからない。自分が自分であることすらわからない。お互いに永遠に気づかないかもしれないではないか。
 私が望むのは、「復活」なのだ。「よみがえり」なのだ。
 日本映画で少し前にヒットした映画に、その名もそのまま「黄泉がえり」というのがあった。韓国でも人気の美男俳優、草薙の演技が光っていた。昔恋した人、今はなくなった人が、まったく死んだときの姿そのままで現れ始めるのだ。それも一人や二人ではない。あちこちで死んだはずの人が、家に帰ってくるという神秘的な現象が起こり始める。
 これこそ、私が望んでいる姿なのだ。
 他の動物や植物ではない。あくまでもう一度人間として。
 しかも、どこのだれかもお互いにわからない他人としてではない。生前そのままの姿として、生まれ変わって再び、同じ意識と記憶を持ったまま、ふたたび会いたい。Rよ、あなたと会いたい。ずっと不実であったことのおわびを述べたい。そして、イ・ウンジュさん。鷺沢さん。あなたたちとも よみがえってお会いしたい。この世では会えなかったけけど、天国でお目にかかりいろいろお話をお聞きしたいものだ。

 イエス様は、十字架にかけられてから三日後に、生きていた時そのままの姿でよみがえられた。そして、アダム以来人間に定められた死の定めを解き放たれ、復活の初穂となられた。すなわち、イエスを信じるものは誰もが罪許され永遠の命を得ると約束されたのだ。
 荒唐無稽な、と言われるだろう。それでもいい。まことの教えは、賢い人には示されず、かえっておろかに信じるものに示されたのだ。この真実なる逆理。
 これは単なる思い込みではない。今まで聖書の言葉や不思議な啓示によって明確に示していただいたことだ。そのあかしの話は、また折があればお話したい。
 私は、イエス様に賭けてみよう、と思う。
 主よ、信じます。どうぞ、復活させてください。
 彼女と、もう一度合わせてください。
 バンジージャンプしなくても、ふたたびよみがえれますように。
 イ・ウンジュさんの魂の救いをも、お祈りいたします。アーメン。

 追伸
 昨夜は雨。イ・ウンジュの早世を思い、Rを思い出して悩んでいた。
 今朝起きてみると、外には一面に雪が降り積もり、東京は銀世界。
 今夜帰ってくる時、空を仰げば白い冬の満月が煌々と光っている。
 そして、次の満月は今年のイースター、復活のときに当たるのだ。
 これもひとつのしるしだろう。イ・ウンジュが逝って三日になる。

バンジージャンプする
公式サイト: http://www.bungee.jp/


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