for Lee Eunjoo 2

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イ・ウンジュ追悼 (2) ★ミ

「永遠の片想い」の追想

イ・ウンジュ(Lee Eunjoo)

1980.12.22.-2005.2.22.
170cm 48s Atype
檀国大学演劇映画科卒

 また雪が降るとあなたのことを思い出します
 あなたがなくなってから私も永遠の片想い…

 イ・ウンジュがなくなってから、『永遠の片想い』を見た。
 近くの大きなレンタルショップに行ってみると、「韓流」コーナーに十本ほど並んでいたこの作品のDVDがすべてなくなっていた。
 なくなってから、あらためて見るというのは遅い。いつもこうだ。鷺沢さんの時も、なくなってからその小説を読み出してみた。生きているときには、教科書に載っていても時間がなくてとばしてしまっていたのに。よく著名な作家がなくなると書店の平積みに著作が並んだり、有名な監督が死ぬとテレビで追悼番組として遺作を放映したりする。
 そんなときに、今さらと思いながらつい読んだり見たりしてしまう。そしてこんな優れた作品を作っていた人だったんだと、認識を新たにし再発見をするのだが、それは逆に言えば、生きているときにその才能に気づかず存在に重きを置いていなかったという、自らのうかつさを恥じ入る機会でもある。だが、遅くても気づいたほうがいい。

 映画館にかかっているときには、結局見に行かなかった。
 チャ・テヒョンが出ている映画ということだったが、彼のイメージは最初に見た『猟奇的な彼女』で強烈な性格の彼女にいじめられる冴えない青年という役どころで固定されていた。その役者に初めて出会った映画というのは第一印象を形成してしまうもので、例えばアン・ソンギは『鯨とり』で見たので今もあのインテリ乞食が忘れられない。
 映画の広告では、その冴えないチャ・テヒョンが、しかも、二人のかわいい女性にもてるということで、チラシやポスターの写真もそういうものが多かった。男である自分としては、なんだいい気なもんだ、面白おかしいラブコメだろうが、などと思っていた。
 ところが、じっさいに見てみると、楽しいコメディとは縁遠く、映画全体にいい知れぬ寂寥感が漂っている。さみしい。そしてそれはいやな感じではなく、ロマンチックで胸を打つ、一種いい感じのさみしさだ。漱石の言う人生の「さみしさ」にも通じようか。こんないい映画ならもっと早く見ればよかった。
 ひと言で言えば追憶の悲哀とでも言おうか。
 なにかこう別れの予感に満ちている悲愁の香り。

 手紙と写真が、映画の鍵となる。
 ある青年のところに、繰り返し手紙がやってくる。
 韓国人はほんとに手紙が好きだなと思う。よく映画に手紙が出てくる。口で言えばいいところをわざわざ手紙やメールやメモで、という設定がよくある。ふみの好きな国民性なのかもと思ったりする。その名も『手紙』という映画では病気で死んだはずの夫から、希望を失った妻に励ましの手紙が毎日郵便受けに届くという、ちょっとしたミステリー仕立ての設定で、真相が明かされるにつれて涙腺の故障してしまうお話だ。
 『接続(コンタクト)』では、電子メールを通じた見知らぬ人との出会いが描かれる。ふたりは街で、レコード店や電車ですれ違うこともあるのだ。だが、メールやチャットは何度も交換して親しく話しているのに、気づくことがない。あなたも街を歩いているときに、ネットでの知り合いと出会っているかもしれない、そうした現代のすれ違いロマン。
 この『永遠の片想い』の中間部で印象的なシーンがひとつあって、青年が少女に言づけのメモを渡す。もうひとりの知り合いの女性に渡してくれと言うのだ。わざわざ他人の手を仲介しなくても直接渡せばいいのに。あるいは、わざわざメモなんて書かなくてもじかに口で言えばいいのに。そんなことをも思わせる場面だ。
 しかも渡すときに、男はこう言う。
 「ぜったいに、途中で読んじゃだめだよ」
 実はその手紙の内容は、その言づけを頼まれた少女に読んでもらうことを期待した内容なのだ。ぜったいに読まないで、ということで、かえって読みたくなるという気持ちをくすぐるような言葉で。その少女が、その手紙を読むのかどうか、それは映画を見ていただければわかる。私が言いたいのは、なんとも回りくどいやり方だということで、こんなところにも手紙が恋の思いを伝えるのによく使われるという面がうかがえる。

 話を最初にもどそう。
 主人公の青年のもとに、繰り返し繰り返し、手紙が送られてくる。差出人は不明。住所も書いていない。手作りの和紙を折って作ったようなやさしい雰囲気でセンスのよい、ピンクやうすいグリーンやブルーのパステルカラーの、表面の手触りが織り布のようにでこぼことした素朴な紙質の封筒。
 ところが開封して中をあけると、出てくるのは便箋ではない。メモでもなければコピーでもない。ただモノクロの写真が一葉入っているのだ。それは風景であったり、静物であったり、あるいは「小さな恋のメロディ」のように幼い男の子と女の子のむつまじい姿であったりする。そして、その白黒の単色の写真に白いペンで、メッセージが書いてある。
 あのころに帰れたらいいのに……
 そういったひとことのつぶやきが、一行の言葉が、長々と延々とうらみつらみを書き連ねた繰り言ではなく、単純に簡潔に短いがゆえに深い余韻をもって見るものに訴えてくる。そしてモノクロの余情ある映像とあいまってその相乗効果を増して、コピーとポスターのように、短信と絵葉書のように、響き合って心にこだまする。
 今日もそれをコルクのメッセージボードに画鋲で貼り付ける。
 昨日とおとといと、一週間前と、それらの写真がまたコラボレーションとして相互に響きあって、ひとつひとつは短くても連歌のようにひとつながりの物語としてのメッセージとなってくる。
 いったいこの手紙をいつも書いて投函する人はだれなのだろう。
 消印を見て、郵便屋さんに聞いても、わからない。だが、郵便屋さんは郵便屋さんで、そのやさしい手紙たちを、かわいい封筒を届けながら、送り主は受け取り手は誰なのだろうと、考えている。

 「あしながおじさん」という名作がある。少女のもとに、「あしながおじさん」というニックネームの人からいつも手紙が届く。貧しい境遇にある彼女のもとに、彼は生活資金を届けてくれる。交通遺児のための「あしなが」募金の名称はこの小説に基づいている。
 だが、単に金銭的に援助をしてくれるだけでは、つまらないのだ。少女は日記のように、毎日あったことを、悲しいことやつらいこと、あるいはうれしいことや楽しかったことを書き連ねて送る。時には、顔の見えない相手にあたることもある。
 そして、手紙の主との出会い……
 手紙というのは、なんとも詩情のあるものだ。
 この『永遠の片想い』の中に、劇中劇のように映画が出てくる。青年と二人の少女とが、映画館で映画を見に行く。その作品は……
 『イル・ポスティーノ』
 イタリア映画で、タイトルは「郵便屋さん」といった意味だ。そう言えばこの映画、日本で公開されたときに、私も見に行ったっけ。
 イタリアの海辺の、風光明媚な田舎の村に、自転車をこぎながら郵便を届ける郵便屋さんをめぐるお話。ノーベル賞作家の実話に基づくお話。作家の手紙を届ける彼。海を見ながら、作家と語り合う郵便屋さん。二人の友情。やがて悲しい別れ……
 この映画を見て、乙女は涙する。家に帰って家族に言う。
 「イル・ポスティーノって映画、見たことある?」
 やはり、この映画のひとつの大きなテーマは、手紙なのだ。

 私が学生時代つきあっていた恋人のRも、筆まめな人でよく手紙をくれた。
 そして、二人で映画を見に行った。それから、遊園地にも出かけた。
 映画の中で、遊園地に行ってジェットコースターに乗る場面がある。
 楽しい場面のはずなのに、どこか悲しい。
 『八月のクリスマス』にも、そんなシーンがあった。アイスクリームを食べて、ジェットコースターに乗って、でもなぜか悲しい。やがて不治の病によって訪れる別れが予感されていた。そして『イル・マーレ』。時を越えて会おうとする二人。場所は同じだけど時の違う、時間差のデート。ひとりひとり別々に乗るジェットコースター。いつまでも会うことのできない運命に定められた二人。
 『永遠の片想い』では、男一人の両脇に二人の女性が乗る。さぞかし楽しいだろうと思うのだけど、そして実際に楽しそうにはしゃいでいるのだけど、それでもさびしい。
 もしかすると、遊園地って哀しいものなのかもしれない。私が昔、Rと行った遊園地は、今のディズニーランドのように立派なテーマパークなんてものじゃなくて、昔ながらの遊園地だった。豊島園とか後楽園とか。でものんびりした楽しさがあった。
 ジェットコースターが怖いというので私は乗ろうとしなかった。子供っぽいねと彼女に笑われた。豊島園にはスクリューコースターとかパイレーツとか怖いのがあった。そういうのは乗らなかったけど、ゴーカートとか観覧車とか乗った。
 そうそう、豊島園には「アフリカ」っていうレールを行くゴンドラに揺られているうちにアフリカ旅行ができるっていう施設があったっけ。こないだ行ったらもうなくなっていたけど。そしてアイスクリームなんか食べて、写真を撮った。
 そう言えばあの頃、私はよくカメラを持って写真を撮っていた。今ならデジカメや携帯電話だけど、当時は小さなフィルム式のカメラを常に持参していた。どこかに遊びに行ったり、食事をしに行ったりするたびに撮って、あなたは恥ずかしがっていたっけ。
 この映画では、主人公がカメラをもってよく写真を撮る。機種はニコン。ちなみに韓国ではこのメーカーは人気があるようで、『江原道の力』でも出てきて、主人公が「Nikon」を「ナイコン」と呼ぶのがご愛嬌だったっけ。
 冒頭の回想シーン。写真が最初の出会いのきっかけになる。青年は、花の写真を撮っている。喫茶店で働いているけど、ほんとうになりたいのは写真家らしい。そこに花ではなくて少女が、ファインダーの中に現れるのだ。その後もストーリーの中で、ずっと伏線となって使われていく。そして別れも、また写真……。

 映画を見ていて、デジャブのように、ある想い出が私の脳裏にフラッシュバックした。ずっと忘れていた記憶だったのに。封印していた記憶なのに。悲しくて思い出したくない記憶。だが、映画のような映像は、こうした記憶を不意に呼び覚ますことがある。
 結婚記念の写真。
 私はRと、結婚記念の写真を一緒に撮ったことがあるんだ。あなたが花嫁衣裳の純白のウェディング・ドレスを着て、私がタキシードの背広を着て。花のブーケを持って、二人で並んで。あなたは恥ずかしそうに頬を赤らめて、少しうつむいていた。
 私はその写真を、大事に持っていて、ときどき友達にも見せたりしていた。
 「おれ、もう学生結婚していたんだ」「えぇっ、ほんとかよ」
 みんなをびっくりさせたところで、笑って種明かしをしたもんだ。
 実は、結婚式の衣装を着て写真を撮るというイベントがあったんだ。知り合ったばかりの頃、私が自分の大学の学園祭に誘って、その時に偶然見かけた催しだった。
 私は、恥ずかしがる彼女を無理に誘っていっしょにポラロイドに納まった。あとで考えてみたら、そのイベントは仮装大会とか、今でいうコスプレなどではなくて、結婚候補、交際相手を探すために自己紹介用の写真を撮ってくれるという企画だったんだ。だから、一人で撮るべきであって、二人で撮るものではなかったらしい。道理で、係りの学生もけげんな顔をしていたと、あとで彼女に言われてから気づいた。
 その時に、彼女が言った言葉が、忘れられない。
 「結婚前に、結婚写真を撮ると、結婚できないってよく言うのよ」
 そう、あなたの予言は、当たってしまったのだ。
 今、あの時の写真がどこにいったのか、どうしても思い出せない。あなたがくれといって渡したのか、私がなくしてしまったのか、あるいはあなたがなくなってから、つらくて捨ててしまったのか。あんなに大切にしていた写真なのに、どうしても思い出せない。
 そして、あなたと本当の結婚写真が撮れなかったのが、残念だ。

 この映画は、なんともはがゆい話でもある。
 なぜなら、ふたりの乙女に好意を寄せられながら、青年はいずれの女性にも心を決めることができないからなのだ。あるいは、青年が心をどちらかに決めようとしても、今度は女性たちのほうで、つかまえようとする手から逃げて行ってしまうからだ。
 昔から、こうした三角関係を描いた映画はよくある。そういう分類から言えば、古典的な恋愛映画ということになろうか。そう言えば、韓国語の元のタイトルはずばり、「恋愛小説」だった。一枚の色あせたセピア色の写真のような、古風な恋愛小説。
 だが、少し違うかもしれないのは、その恋愛の不成立の理由に、三角関係の根底にあるのが、女性二人の友情であるという点だろうか。だが、この女同士の友情という設定も、日本ではそれほど多くないかもしれないが、韓国や中国では実に多く描かれる関係なのだ。「女ともだち」映画とジャンル分けしたくなるくらいよくある。
 韓国では例えば、『ディナーの後で』『サイの角のように一人で行け』『301・302』などがその種類の代表的なものになろうか。
 もっとも日本でも最近、晩婚や非婚化、結婚しないシングルライフを選ぶ女性というのも増えていると聞く。珍しくはなくなっているかもしれない。
 だが、男のほうから見ると、どうも歯がゆかったりする。どうして、どちらも好きなのに、お互いに愛しているのに、結ばれないのだろうか、結婚できないのだろうか。
 あまりにも、プラトニックな関係。結婚はおろか、フィジカルな交渉も持たれない。キスすらもためらい、触れることにすらも慎重な、そんな精神的な憧れの恋愛。
 ふりかえってみると、私もそうだった。学生時代は、若いころは、妙にプラトニックな理想的な愛に走ったりもするものだ。
 彼女は淋しかったかもしれない、と今でも思う。男を知らないままに、なくなってしまった。生き残って年齢を重ねてくると、俗な言い方をすれば、あの人にも女性としての喜びを味わわせてあげたかったなと、そんな中年じみた考えを持ったりもする。
 しかし、清らかなままで逝った、それもまたよかったのかもしれないとも思う。清純なまま召された彼女は、きっと天国にいけるのだろう。

 なかなか許せないのは、自分のほうだ。
 なぜなら、私こそ、二人の複数の女性の間で迷っていたから。しかもそれは、この映画のように、女性たちの友情のせいでもなく、女性のほうの心変わりでもなく、単なる私の不実だったから。この点には、弁解できないものがある。申し訳なく思っている。
 その代わり、私は彼女のことをずっと追想し続けることになってしまった。それが報いといえば報いであろう。それすらも同時に、甘く切ない追想でもあるのだが。

 手紙と写真。
 それは、死者を追想するための道具であるようにさえ思える。
 どちらも、あとに残るのだ。
 人がなくなると、あるいは人と別れると、その手紙も写真も焼き捨ててしまう人もいるようだ。だが、私はそれが今でも、できないままでいる。
 彼女を、二度火葬してしまうようで、どうしてもできない。取り出して見る勇気もないのだが、さりとて処分してしまうこともできないでいる。
 人の書いた手紙は、その人がその時に考えたことを、その時にあった出来事を、今もタイムカプセルの中に保存したかのように、文字の上に残している。
 また、写真はさらに、そのうつりゆく表情を、喜怒哀楽の感情を、フィルムの上に蒸着して、ありし時のままに鏡の内に映したかのように保存してくれている。
 『八月のクリスマス』は、写真家の男の話だった。彼は、お客さんや家族や友人や恋人や、そして自分自身の写真を撮り続けていく。ひとつ心に残るエピソードがある。
 ひとりのおばあちゃんが、きれいな伝統衣装の姿に正装して、夜に店を訪れる。
 「きれいに撮ってね、私のお葬式の写真に使うのだから」
 写真のことを、「死者の芸術」という人がいる。そう、写真は撮ったその瞬間からたちまち過去のものとなるから。死ねばもちろん、たとえ死ななくても、刻々と死に近づく人間にとって、それはすでに死んだ時間の、失われた瞬間たちの記録なのだ。
 その意味で、写真は常にお葬式の写真なのだ。
 そして同じ意味で、手紙は常に他者への遺言なのだ。
 Rよ、あなたは言っていたね。
 「そんなに写真ばかり撮ってどうするの。別れたあとで想い出に見るの」
 「私の送った手紙、もし私がなくなったら、とっておいて読んでね」
 あなたは死に魅せられたのか、死に魅入られたのか。たくさん写真を撮られ過ぎて、たくさん手紙を書き過ぎて、魂を吸い取られてしまったのだろうか。

 そして映画も、いや、映画というメディアこそ、まさしく過去を保存するものだ。
 イ・ウンジュよ。
 若く逝ったあなたは、若いときのままに、二十四歳の時のままに、銀幕のスクリーンの上に解凍されるまで、フィルムの上に冷凍されたようにきれいに保存されている。
 あなたの笑い声も、憂いの表情も、言葉のひとつひとつの抑揚も、立ったり歩いたりする、立ち居振る舞いのそれぞれも、みな生きた時のそのままだ。
 俳優というのは、なんと素敵な職業ではあるまいか。あなたという存在そのものが、いつまでもそのままの姿で鑑賞され、永遠に追想され続けるのであるから。
 ジェームス・ディーンのように、あなたはひとつの伝説となった。
 そして、Rよ。私はあなたのために、この文を捧ぐ。
 文章を書き記すことで、あなたへの追想とともに、私の思考もこうして残るのだから。それが、私がつたない文を書き続ける理由である。

                    2005年3月4日 世界祈祷の日
                    〜 イ・ウンジュが逝って10日、東京は大雪


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