for Lee Eunjoo 3

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イ・ウンジュ追悼 (3) ★ミ

「ブラザーフッド」の悲痛

イ・ウンジュ(Lee Eunjoo)

1980.12.22.-2005.2.22.
170cm 48s Atype
檀国大学演劇映画科卒

 はかない戦いの中でゆえなく過ぎて逝った
 報われることのない多くの魂たちに捧げる

 原爆の日そして終戦記念日。八月は平和をつい考えてしまう月である。
 『ブラザーフッド』を今ごろ見た。少し前に話題になった戦争映画だが、私はどうも戦争ものは苦手だ。悲惨な場面が続くと見ていて苦しくなってしまう。それでもこういう機会に一度見ておこうと、あえてレンタル屋で借りてきた。
 もっともこれは太平洋戦争ではなく、朝鮮戦争の映画なのだ。6月25日(朝鮮戦争開戦の日)に借りてきたのだが、そのときは見ることができず、再び借りてきた。

 冒頭、発掘のシーンから始まる。
 埋もれた土の中から、動物の骨、いや明らかに人骨とおぼしき骨が掘り出されてくる。
 「ジュラシックパーク」や「ヨンガリ」でもあるまいに、なぜ発掘からかと思ったが、これは古代の遺跡発掘ではなく、現代の戦跡発掘なのだ。
 コンピュータで名前や番号が照会されて、戦士の身元が確認されていく。そう、朝鮮戦争で犠牲になった無名の戦士たち、野ざらしの無縁の魂たちが、ようやく半世紀の時を経て、泥の中からよみがえってくるのだ。
 骨の多くは、確認されないのか引き取り手が見つからないのか、集団で合葬される。日本なら坊さんがお経でも上げるところだろうが、韓国らしく、儒式の祭壇で、人々がひざまずきひれ伏して、追悼と鎮魂の祈りをささげる。
 この初めの場面にまず、じんときた。
 日本でも、戦時の遺骨収集団というのが、毎年のように編成される。そして、太平洋戦争の時の、広い、ほんとに広げすぎた、遠くの戦跡を訪ねていく。南洋のジャングルに埋もれた骨を拾いに行く。そして、埋葬して慰霊する。
 理屈を言わなくても、精神的に日本人にはよくわかるシーンだと思う。終戦の日が、ちょうどお盆であること、休みで帰省して墓参りすること。そんな庶民的な民族儀礼と重なって、情緒としても心の琴線にふれてくる。

 この映画、このあとは予想されるとおり、過去の戦争の回想シーンとなってくるのだが、その本編がなかなか見ていてつらい。しんどい。引いてしまう。
 一言で言うと、まことに悲惨な映画であって、イ・ウンジュがこの映画に出ているのでなければ、おそらく借りて来なかったかもしれず、最後まで見なかったかもしれない。
 いささか正視に耐えないような場面もまま見られた。
 だが、戦争というのは、こういうものなのだ。
 この映画のどこが見るに耐えないかというと、戦闘シーンのリアルさだ。これはCG、コンピュータ・グラフィックの技術進歩によって可能となった。同じ監督のヒット作「シュリ」を見たときにも思ったのだが、人の頭や体が砲撃や銃撃で飛び散るようすが恐ろしく生々しい。こんなところをそんなにリアルに描かなくてもとも思う。まだ家庭用テレビの小さな画面で見たからいいが、劇場の大画面で見たら気分が悪くなりそうだ。
 同様の理由で、スプラッタムービーと言われるホラー映画も大の苦手だ。
 だが、繰り返し言うが、戦争というのはこういうものなのだ。
 日本のチャンバラも、映画だときれいな立回りで、歌舞伎のように一種の様式化された踊りのような殺陣だが、実際は手や足が飛ぶ、耳や鼻が飛ぶ、抜き身をふりかざしているわけだから、それは悲惨なものだという。子供がごっこでやるようなものではない。
 戦争も、コンバットのようにかっこいいものと思っているととんでもない。戦場の体験者が一様に語るのは、艦砲や迫撃砲の弾幕が暴風のように突然どかどかとまとまって降ってきて、何だかわからないうちに肉塊と吹き飛ばされて終わりといった、修羅場。
 そうした戦場の、死と一秒先に隣り合わせの、理不尽なまでの凄惨な臨場感を、このCGはうまくとらえている。だからこそ見るに耐えないのだが、また見なくてはいけないのだろう。そして戦争の冷酷さ、非人間性を思い知るべきだろう。

 さて、イ・ウンジュの話になるのだげど、出番はあっけないほど少ない。
 この映画はタイトルどおり、兄と弟、ブラザー同志の絆、深い兄弟愛を描くのが主眼であり、どうも親子や夫婦や友愛というのは、二番目におかれているようだ。
 ここも実は、日本人が見ていると、韓国人が感じるほどは深く感動を感じないところではないかと思う。というのは、韓国人は肉親をとても重んじる。親子に関しては日本も同様だろうが、兄弟姉妹、親戚の結びつきがことのほか強い。
 いくら実の兄や弟のためとはいえ、ここまでやるだろうか、やり過ぎじゃないかという話の設定が随所に見られて、そこが今ひとつ感情移入しきれないところだ。
 イ・ウンジュは、主役の兄の若い新妻として出てくる。
 もうひとりの主役である弟にとっては、兄嫁となる。
 ここのところの夫婦愛を、もう少し詳しくていねいに描いてもいいのではないかとも思う。だが、出番が時間的に少ないから、重要でないというわけではない。逆に、わずかな時間だからこそ、その部分が光っていて、映画全体にいい味を加えている。

 イ・ウンジュの妻の役のどこがいいのか。三点ほどあげておこう。
 以下、ネタばれになるところも、多少。

 まず、その気丈さ、たくましさである。
 朝鮮戦争が勃発したときに、彼女はあれもこれもと荷物を持って逃げようとする。よく地震や火事の時に、女性は家の家財道具を持って逃げようとする。
 もちろんのこと、そんな財産には気をとられず、着の身着のままでも、まず命あってのものだねと手ぶらでも逃げなくてはならないのが、避難の鉄則だろう。
 だが、どうしても捨てられない、捨てにくいものもある。そうした気持ちを正直に、行動をありのままに描くところに、生活感・現実感が出てくる。

 余談になるが、吾妻ひでおというちょっとカルトなSF漫画家がいて昔よく読んだ。彼のまるで非現実的といえるお話の中で妙に現実感のある場面があった。タイムワープだかなんだかで、未来の核戦争後の荒廃した地球に飛んでしまった家族。普通なら世界の破滅に呆然とするところだが、女たちは「どのあたりが私たちのうちだったのかしら。冷蔵庫に入れてあったもの、まだ食べられるかも」と、地面を掘り始める。もろちん、ブラックユーモアのギャグなのだけど、うん、女というものはこんな環境でも生き延びられるかもしれない、となんだかリアリティを感じた。
 男は天下国家を論じ、大義正義をふりかざして、熱くなって戦争を起こす。後さきのことなど考えているのかどうか。だが、女は冷静だ。まず、明日の暮らしを、今晩のごはんをどうするのか、そこを心配する。何がめしの話だ、戦いが先だと、イデオロギーに燃える人はいうだろう。だが、違う。断じてそうではない。大切なのは、まず、暮らしでありめしである。腹が減っては、いくさなどできない。だが、精神主義に走る志士たちは、食わなくても戦おうとする。そして、当然負ける。先の戦争の日本はそうだった。
 ジョージ・オーウェルのSFの古典的名作「1984年」。今はもう実際の年号のほうに二十年ほど抜かれてしまったがも、書かれた当時は近未来小説だった。全体主義国家の恐怖政治のおそろしさを余さず描いている。すでに崩壊したソ連、そして、今の北朝鮮を思わせる。理想思想、主義主張が先行して現実の経済の破綻した、自由のない二十四時間監視される牢獄の世界。どこにも明るさも希望もない、暗黒の絶望の世界。
 だが、この小説の中に、一点だけ明るい描写がある。
 主人公は、路地裏で洗濯をしている、とあるプロレタリアートのおばさんのたくましい尻を見る。そして思う。「この尻にこそ、未来はあるのかもしれない」と。

 回り道はこのくらいに。
 イ・ウンジュは、夫婦で飲食店を開いていた。
 6月25日、運命の日に、北の軍隊は南進してきた。ソウルは、三十八度線のすぐそばだ。山の向こうには、夜空をこがして戦いの火が見え、爆撃の音が聞こえる。すぐにでも逃げなければ、命があぶない。だが、急がせる夫に対して、彼女は言う。
 「店の商売もようやく軌道に乗ってきたのに、みな捨てていかなくてはならないの」
 口惜しさが、肌からよく伝わってくる。とても気丈な、凛とした表情を見せるだけに、よけいに強く感じられる。もともとそうした演技が、彼女はうまい。
 ここがただ、戦争だから、はい、そうですかと逃げるだけでないところに、リアリティがある。生命はもちろん一番大切だけど、人があゆんできた生活、財産、業績、生きがい、汗、努力、そんなものをすべて葬り尽くしてしまうのが、戦争のむなしいところだ。
 戦争を、国益でもなんでも、何かの利益のためにするという考えは根本的に誤っている。戦争は、国民の財産、個人の資産をも蕩尽し、破壊してしまう。勝ったら利益があるだろう、などと考えることが土台、おかしい。勝っても負けても、経済的には損失なのだ。
 人と人での個人的なけんかでも、お互いにものを壊しあったら、損に決まってる、そうした常識的な判断がなぜできないのだろう。

 もうひとつの場面。米が不足する。食うものがなくなる。
 そこで、名簿に自分の名前を書くだけで、ちょっと集会に出るだけで、米の配給があると聞いたら、参加しないわけがあろうか。
 彼女は、そちらを選んでしまう。いかにも、女性らしい。
 男だったら、いや、男女分けはいけないのかもしれないが、思想にこだわる人だったら、「武士は食わねど高楊枝」で、拒んだだろうか。いや、食わねばならぬとなれば、闇市の物資でもたけのこ生活で売られた着物でも盗品の米でもなんでも、もらえるものはもらったのではないか。戦後の日本で、闇のものを拒んで、死んだ検事もいたが。
 そうした女性の率直なたくましさが、家族の生活を支えた。だが、それが悲劇の始まりだった。普通の人が普通に暮らせない、それはいかに理想を唱えようと悪い社会だ。

 イ・ウンジュの魅力。二つめに、その可憐さ、純情さである。
 いくらたくましいとはいえ、女らしさを捨てきるわけではない。
 乏しい物資の中で、化粧をしたり、風呂に入ったり、身だしなみは整えようとする。新妻としての結婚生活の中で、恥じらいを見せる。
 そうした、気丈さの中に、清楚な色気や、純情な美しさがあるところが、また彼女の本来持っている特質なのだと感じる。

 ひとつだけエピソードをあげておこう。
 喧嘩っ早い夫が、また血を流してくる。
 そこで、妻が小さな布切れを出して渡す。自分で編んで作ったもののようだ。
 「ハンカチよ」
 さりげない場面なんだけど、ここもいい。
 「たけくらべ」で、美登利が信如に渡そうとする、切れた下駄の鼻緒ではないけれど、こうしたささやかな行為に感じられる、やさしい心根。
 相次ぐ戦闘、肉弾と流血の殺伐とした描写に食傷しているときに、この一抹のほっとする情景がいい。ハンカチの素材のやわらかさ、あたたかさまで伝わってきそうだ。このシーンがあることで、疲れた心のひと休み、荒れた精神の休憩という感じがする。
 男は戦い、女は休ませる。
 そんな区分けも、最近は軍隊や自衛隊にも女性が入る時代でもあり、アナクロといわれるかもしれないが、男女に関わらず、戦士の休息は心なごむ。
 このハンカチは、その後また、悲しい運命を持つことになるのだが。

 ひとつことわっておきたいことがある。
 男は戦い、女はそれを「銃後」で支えるなどという図式まがいのことを言うと、なんだか戦争を良いと言っているようだが、決してそうではない。
 この映画は、そうしたかつての戦争映画のステロタイプではない。
 例えば、昔の映画になるが「アベンコ空輸軍団」で、朝鮮戦争に赴く兵士たちを見送る若い恋人の女性。あるいは「従軍手帳」で、戦没兵士の手記を読んで感動して志願してゆく兵士をあこがれの目で見送る女性。そうした、ある意味でかっこよい兵隊さんたちを、銃後から支えて見送る「宇宙戦艦ヤマト」の「真っ赤なスカーフ」のようなロマンチックな女性。だが、現実はそうではなく、「靖国の母」的な美談の女性ではなく、見送りたくない見送りをしなくてはならない、悲劇の中の女性。
 そもそも、この主人公の兄弟自体、参戦したくて参戦したわけではない。弟は、戦時の臨時徴兵にひっかかって街頭でしょっぴかれたのだし、兄は、病弱の弟を案じて参戦しただけなのである。後に残された妻は、母は、家族は、失いたくない者を失ったのである。悲しい。そうした悲しさの美なのである。

 イ・ウンジュの魅力。最後に、そのはかなさ、あわれさである。
 彼女は、あっけなく死んでしまう。予想される展開とはいえ、あまりにもはかない。
 先に言ったように、あまりに出番が少ない、扱いが小さい。だが、そこがまた、いいのではないかとも思った。凛とした気丈な表情の中の、言い知れぬはかなさ。
 戦いでは、多くの無名戦士たちが逝った。戦士だけではなく、たくさんの庶民、名もなき普通の人たちが殺されて死んでいった。いや、「名もない」わけではなかった、いずれもちゃんとした名前があった。だが、なくなる時に、そしてなくなってからも、誰にも省みられることなく、埋もれていった人たち。
 戦争というのは非情なものだというが、特に近代戦はそうである。原爆、空爆などの大量殺戮兵器ができたことで、一斉に全面的に物体のように、人間は駆逐され殲滅されてしまい、あとに何も残らない。そうした無名性、個性の剥奪。
 思えば、お互いに名乗りをあげて一騎打ちしたような戦国時代の武勇伝や果し合いなどはまだ、人間的だった。爆弾を空から落とすときに個々の人々の名前はわからない、個性はまったく無視され黙殺されるのだ。それこそが、ただの殺人でなく集団虐殺だ。
 関東大震災の朝鮮人犠牲者しかり、アウシュビッツのユダヤ人から、現在のルワンダの虐殺にいたるまで、血塗られた道程。
 まったくあっけなく、集団の中の一人として、イ・ウンジュもこの世からなくなってしまった。そうした人々が実際にいた。映画のように、愛する人の腕の中で息たえることができた人はまだ幸せで、そして少数だったろう。
 そうした不条理なはかなさに、かえってリアリティがあるのだと思う。

 だが、彼女の言葉と行い、幸せな時代の生活と個性をわずかでも描きこんでいるので、その最後の死が深い意味を持ってくる。
 というのは、これは持論なのだが、文学というのはそうした個々の人の顔を描くものだと思うから。例えば東京大空襲の死者十万、太平洋戦争での日本の死者三百万といっても、それはデータであって、その数値には顔がない。それは歴史学であり政治学だ。
 ところが、例えば「ガラスのうさぎ」や「火垂るの墓」で、ひとりの人、ひと組の兄妹、ひとつの家族の姿を追っていく。それが文学なのだが、そのことによって、人は戦争の悲惨さというものを知る。あくまで個人の生きざま、死にざまをとことん追っていくことで、そうした人々が集まった数万、というリアリティが感じられる。
 「火垂るの墓」の最後のことば。このように戦中、戦後の闇の時代に、飢え死にした哀れな兄妹が、当時、いったい何十人、何百人いたことか、と。
 イ・ウンジュのひとりの妻の行いを描いていくことで、このように悲劇のうちに別れた夫婦が、失われた家族がいかに多かったか、戦争全体の悲惨さが浮き彫りになってくる。

 この映画は、全体としては荒唐無稽な筋立て、無理の見えるストーリー展開もあって、非常に優れた作品かというと必ずしもそうでもない。最初に、リアリティのある映像だとほめたが、後のほうになると、コンバット張りの、あり得ないような戦闘場面、英雄的な行動といった描写も目立つ。朝鮮戦争という歴史自体を、若い世代に伝えるための教育的要素もあるような気がする。
 だが、イ・ウンジュの出てくる、少ないけどぴりっとした存在感を持ったいくつかのシーンは、この重っ苦しい、重厚長大な作品の中で、ある種のさわやかさ、軽やかささえ感じさせてくれる。少なくても私は、見終わってからあらためてふりかえって、彼女のシーンばかりが強く印象に残っている。まるで、死んだ人のことをしのぶように。いや、彼女はほんとに死んだんだけど。
 みなさんは、どのようにお感じだろうか。

 それにしても、と思う。
 イ・ウンジュって、どうしてこう死ぬ役が多いのだろう。
 何か、予感があったのだろうか。
 死神に、魅入られていたのだろうか。
 死ぬ演技を繰り返すうちに、自ら死に引き寄せられていったのだろうか。
 だが、死ぬことによって、人々に生というもののはかなさを知らせてくれた。
 彼女の死を悼むと共に、多くの戦没者の慰霊と追悼をあらためて心から祈る。

                    2005年8月15日 終戦記念日


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