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イ・ウンジュ追悼 (4) ★ミ
「スカーレットレター」と背徳
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イ・ウンジュ(Lee Eunjoo)
1980.12.22.-2005.2.22.
170cm 48s Atype
檀国大学演劇映画科卒
パールだと? むしろ、ルビーだ。……それとも珊瑚?
いや、少なくとも紅い薔薇かな? おまえの色からすると。
ホーソン『スカーレットレター』より
イ・ウンジュがこの世を去って、ちょうど一年になる。
この機会に、遺作『スカーレット・レター』を見た。
前から見ようと思っていたのだが、怖くて見ることができなかった。
それは、彼女が自ら命を絶った理由が、この作品にあるかもしれないから。
そして、彼女の姿を見るのが、つらい作品であるかもしれなかったから。
ちょうど前日に借りてきたレンタルビデオを、デッキに入れる。
しばしためらい、プレイボタンを押し、いったん止めたが、また押した。
〜 イ・ウンジュさんは、2005年2月22日に永眠されました。
そんなおことわりのテロップが、冒頭に流れた。続いて、本編の字幕。
〜 おいしそうな実をつけた木があった。
女はその実をもいで食べ、一緒にいた夫にも差し出すと、夫もそれを食べた。
創世記、アダムとイブの神話だ。暗い予感がする。それは当たった。
いたましい作品だった。あまりにも、彼女の姿がいたいたしい作品だった。
そして血なまぐさい映画だった。紅の血の色が目の前から去りやらない。
スカーレットレターとは、血で描かれた字であったのか。
背徳の恋を描いた作品だ。
彼女はミュージシャンとして登場する。
その姿の輝いていること。その歌の美しいこと。だが悲劇は予感されている。
ハン・ソッキュの演じる刑事が、彼女と道ならぬ恋をしている。彼には妻がいるのだが、歌手である彼女との奔放な逢瀬をしばしば楽しんでいる。
刑事の彼が、ある殺人事件に関わるところから、映画は始まる。その事件自体が、すでに充分に血なまぐさい。頭を割られた男。写真館で働くその妻の秘められた秘密。
美しい歌手と、美しい写真館の女と、報われない美しい妻と、その表面的には並行しながら真実としては交わることのない秘密と、それに関わる不実な刑事の男。そうした罪深い人間たちの錯綜する映画、とまとめてしまってよいのか。
私の目には、そうした登場人物の人々は、すべて背景とかすんでしまい、イ・ウンジュのいたいたしい姿だけが終始、そして見終わったあとも、私の心に残り、巣くい、また私の胸を痛め、さいなみ続けているのだ。
彼女はなぜ、このような映画に、あえて出演してしまったのか?
彼女がその生命を懸けてまで証ししようとしたものは、なんだったのか?
見なければよかったろうか。いや、見ておくべきだったとは思う。
彼女がその身体を張って演じたものを、一度は見てあげなくてはいけなかったろう。
イ・ウンジュのヌードは、とても美しい。スマートだ。しなやかだ。
しかし、か弱い。か細い。華奢なのだ。ふれれば折れんかのように。
カメラは大胆に、彼女の全裸をとらえる。そして、ハン・ソッキュとの熱情的なベッドシーンを、扇情的なからみ合いを。
それが豊満でたくましいグラマラスな肉体ではなくて、繊細でもろくてツゥィギーな、人形か子供のように可憐な肢体であるところが、いたいたしいのだ。
同じような感覚を、私は『ハッピーエンド』で、あの童顔で大胆なぬれ場を演じた、チョン・ドヨンにも感じた。そこまでしなくても、と思わせる演技だった。
だが、イ・ウンジュの場合は、はるかに切なかった。
この肉体が、この撮影のあとすぐに、失われてしまうことを知っているのだから。
そして、彼女が自ら死を選んだ理由が、このヌードシーンかもしれないのだから。
彼女は世を去る前に、この映画で裸を演じたことについて言及していたそうだ。
ただ話題としてふれただけではなく、それが恥ずかしいとも言っていたともいう。
でも、とある映画ファンは言う。
彼女は確か処女作となる『オー・スジョン』でも、裸を演じていたではないかと。
それは確かにそうだった。だが、今回見て思ったのは、その描き方がはるかにこちらの映画のほうが、大胆で生々しくリアリスティックだということだ。
ありありと、そこの目の前にヌードがあるようで、その肉体がありありと細部まではっきりとカメラがとらえていて、手を伸ばせばふれられるように、そう、五感で言えば触覚的なレベルで、実在的に描かれている。
決してけなしているわけではない。いや、それは美しいのだ。
三流のポルノ映画、露骨な安物の映像とは、はっきり一線を画している。
特に感心したのは、水にひたされたヌード。歌手という設定の彼女の自宅に、プールのようなバスルームがあり、そこで彼女はワイングラスを水に浮かべながら、プールサイドに腰掛けて男と睦みあう。その背後からぐるりと巡るカメラに捉えられた肢体。
まさに人魚のようだった。まさに画面から水がしたたってくるような。
こんなところが、触覚的だというのだ。冷たく柔らかい触感が伝わってくるような。
あまりにもその描写が見事すぎて、その見事すぎるがゆえに、この映像を見た本人は、まるで自分が、観客の前でストリップを演じてしまった後のような、白昼に通りをストリーキングして歩いてしまった後のような、いたたまれない羞恥を感じたのかもしれない。
カメラマンは罪であるか、監督は罪であるか。見た観客も罪なのだろうか。
彼女が悪女タイプの俳優だったら、そんなに見ていて苦しくはなかったろう。
だが、彼女は不倫の悪女を演じるには、あまりにもチャーミングな可愛げがある。そして、その表情がとても人間的で切ない。子供ができて、生んでみたいと切々と訴えるところ。病院に行けと言われ、男に捨てられそうになって怒るところ。それでも相手のことが好きで、泣きながらまた抱かれるところ。どれも胸がきゅんとする痛みを感じて、思わず抱きしめて慰めの言葉をかけてあげたくなるような、男心に訴えるような表情を見せる。
そう、映画はやはり演じる人の個性に引っ張られるところがある。
もしこの役を他の人が演じていたら、もっとあっさり見られたかもしれないのに。
彼女の演じる作品は、ほかのものもそうだけど、どうしてもほうっておけないような、助けてあげたくなるような気持ちを起こさせる。
でも、どうしてそんな彼女が、出る作品ごとに、非業の役柄が多いのだろう。
まさか、監督の嗜虐性を刺激するわけでもあるまいが。しかし、この作品の彼女への仕打ちは、ひどい。いくら劇中の人物とはいえ、あんまりだと思う人も多いのではないか。ここまで悲惨で無道な目にあわせずとも、と思う。ラストは目を覆いたくなる。見ていてこちらも息苦しくなってくるほどだ。見終わった後も、気持ちが沈みこんだまま。
生々しいヌードと共に、このむごたらしい最期の姿がまた、彼女の精神にいたいたしいトラウマを与えてしまったのではないかとまで考えてしまう。
監督は、脚本家は、演出者は、何を描きたくて、ここまで彼女の役柄を、遠慮も仮借もなく苛め抜いているのだろうか。それは、姦淫への懲罰、不倫への代償とでもいうのか。そうした道徳的なメッセージの映画なのだろうか、これは。
そういえば、宙を舞う天使像たち、振り下ろされるマリア像、そして祭壇のシーンまで見られる、それは不品行を戒める宗教的な寓意であるとでもいうのだろうか。
このように考えてきて、私は無性に原作が読みたくなった。
いや、果たして「原作」であるのか、それはわからない。
というのは、同じタイトルの「スカーレット・レター」、あるいは「緋文字」という、ホーソンの小説がある。この話に出てくるヒロインの娘、パールについて、この映画の中でイ・ウンジュが言及している。
「私の生む子にも、パールという名前をつけようかしら」と。
有名な作品で気にかかってはいたのだが、正直言うと、私は今まで読んだことがなかった。それで、この機会に邦訳を読んでみた。そして、映画と比べてみた。
一言で言うと、似ても似つかぬ、とまでは言わないが、似て非なるものであると思う。
小説の「緋文字」のほうが、はるかに優れていると感じた。
まず、ロマンティックな恋愛ドラマである。映画のほうは即物的な推理サスペンスドラマに過ぎない。
また、ヒューマニスティクでもある。映画ほど非人間的な冷徹さはない。
そして、良い意味で宗教的な救いがある。映画の展開にはどうにも救いがない。
だが、筋立ては大きく違うが、テーマとしては共通点もなくはない。具体的に言うと、いずれも「姦通」小説ともいえる作品なのだ。しかし、小説には当時のアメリカの清教徒、ピューリタンの過酷な道徳的社会に対する批判があり、世間的には罪であっても内面的に罪を認め悔い改めることで救われていくという真の意味でキリスト教的な人間愛、そして恋愛のロマンティシズムがある。
映画はこれとむしろ方向を逆にしているようにさえ思えた。すなわち、当時と違って現代は性風俗に対してよく言えばおおらか、悪く言えば堕落した時代であるのだが、小説とはベクトルが違って、それをむしろ断罪しているかのようなところがあるように思える。彼女には不倫の結実としての娘も与えられず、二人の精神的な結びつきもない。ラストにはただ精神の荒野と、果てしない後悔があるだけのようだ。
あるいは、清教徒時代の寓話を、現代の韓国社会に翻案すれば、ストーリーやメッセージもこのようにベクトルが転換されるとでも言うのだろうか。
それにしても、イ・ウンジュは、なぜあえてこんな映画に出たのか。
未見だが、原作に忠実な「スカーレット・レター」もハリウッド映画で作られているという。原作どおりなら、そのヒロインはまことに魅力あふれる、奔放さと敬虔さを併せ持った人物であり、女優なら誰しも演じてみたいと思わせることだろう。
監督は、あるいは言葉巧みに「スカーレットレター」の韓国版を作るのだとでも言って、彼女を口説いたのであろうか、とまで勘ぐりたくなるほどだ。
そして、そのうえで彼女を苛め抜いて、ノイローゼにさせて、死なせてしまったのだとしたら、監督の所業はやはり罪ではあるまいか。そう断罪したくなる。
いや、しかし、そうではない。罪なるは、私自身なのである。
告白せざるを得ない、この映画のような、道ならぬ恋がかつて私にもあったことを。
私も、ある人と、みなぞこで睦み合い、また、しとねを共にしたことのあったことを。
そして、秘められた密室に、ふたりして罰のように閉じ込められたことのあることを。
それぞれ、定められた掟にそむき、背徳の暗い悦びに身を焦がしたことのあることを。
それが、どれほど人をわしづかみにする魔力のあるものか、経験したものは知っている。
そこから信仰によって離脱したはずの私を、今なおまだつかもうとするあの魔力を。
かかるがゆえに、この映画を私は他人事として見ることができない。
いたいたしい、あまりにもいたましい。
映画のワンシーン、ワンシーンが、良心をぐさりぐさりと、刺してくるのだ。
私は彼女を死なせてしまったし、魂を救いの道に導くこともできなかった。
だが、罰せられるべきは私である、禁断の実を勧めたのはアダムだったから。
そしてそれでもなお、彼女は魅力的だったと、今でも恋い慕う気持ちが抜けない。
彼女もチャーミングだった、小柄で知的でスマートだった、イ・ウンジュに似て。
あの身体が、あの感情が、あの知性が、今は失われたかと思うとたまらない。
おまけに最期に、私は彼女に冷たかった。精神的に傷つけてしまっただろう。
攻められるのは監督ではなくて、この私自身ではないか。いや、そのとおりだ。
私もこの映画の男のように。いつまでも、彼女を慕って悼んで泣いていたい。
同じ過ちは、もう繰り返してはいけない。不品行の代償はあまりに大きかった。
イ・ウンジュさん。あなたに、感謝しなくてはならない。
あなたが生命をかけて訴えたこの映画で、私はやはり生き方を学ばねばならない。
あまりにつらいラストであることが、まったく甘くない結末であることが、私に悔いろと言っている。
私がこの映画がきっかけで、原作の小説を読んだことまで、偶然ではなく、ひとつの導きであったかのような気がする。
あなたはほんとうに優れた女優だった。
あなたに、紅い「A」の字の称号をお贈りしたい。
それは、「Adultery(不義)」の象徴ではない。
それは、「Actress(女優)」の象徴である。
あなたは、紅い血でいろどられてしまった。
白いパールを生むことはできなかったかもしれない。
だが、あなたは紅く輝く見事な薔薇のルビーとなった。
女優の中の女優、イ・ウンジュの魂に栄光と平安あれ。
A
2006年2月22日 イ・ウンジュ一周忌
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