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「恋する神父」の愛と信仰
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見えない神が見えるのに、
人の心は見えないの……
「恋する神父」 (原題「神父授業(sin-pu su-eop)」)
若い神学生ふたりが、ミサの練習中に大失敗してしまったことから、
田舎の教会に送られて特別修行をすることになる。
これがうまくいかなければ、卒業して司祭に叙階されることはおろか、
退学処分が待っているかもしれない、という土壇場。
ところが派遣された田舎の教会に、突然現れたアメリカ帰りの神父の娘。
奔放な彼女に振り回されてしまう、若き神学生の運命やいかに。
このように冒頭のあらすじを書くだけで、これはラブコメの雰囲気。
キリスト教は出てくるものの、それはあくまでラブストーリーを盛り上げる
ための背景の題材に過ぎないという見方もされてしまう映画だろう。
だが、そうした取り上げ方の中でも、韓国のキリスト教、カトリックの信仰
や儀式のようすの一端を垣間見られる点が、なかなか興味深い作品だ。
ここではカトリックの儀式が、コメディの材料とされている。
まず最初、ミサの最中に、聖なるパン、ホスティアをうやうやしく運んでいた
神学生が、すっころんで派手に聖堂内にばらまいてしまったりする。
パンは、キリストのおん体とされている。特にカトリックではそうだ。
プロテスタントでは、パンとぶどう酒をいただくのは、あくまで「記念」
のためとされているのだが、カトリックは「化体説」と言って、ミサの祈り
によって、実際にパンとぶどう酒が、キリストの体と血に変わるとする。
ミサで、信徒に拝領される平たいパンのことを、ホスティアというのだが、
正式なやり方では、神父が信徒の口の中に直接入れる。しかも、その時に
介添えの助祭が、平たい金属のお皿を下に差して、残りくずを拾うようにする。
パンくずひとつも、おそれおおくてこぼせないわけだ。
さらに、プロテスタントでは、ぶどう酒あるいはぶどう汁も飲むのだが、
カトリックでは神父だけだ。これは、万一、イエスの血潮をこぼしては大変、
という理屈らしい。信徒が飲めないのは、少しさびしいのだが。
「ぼくの村の神様」という映画があった。
ナチスが蹂躙していたころの、ポーランドの村のお話。そこで、ユダヤ人の
少年をかくまっている、一家のお話。当然、少年はユダヤ教なのだが、親戚の
子供といつわっているので、ミサにも出ることになる。
さて、彼は聖なるパン、ホスティアをいただけるのか、ということになるの
だが、これは映画を見ていただくことにしよう。ただ、印象に残っていたのは、
パンは聖別される前は、ただのパンに過ぎない、ということ。
だから、「恋する神父」で、神学生が派手にホスティアをまきちらしてしまう
けど、これはまだ聖別前だから、セーフということになるだろう。まして、
映画の撮影なので、明らかにこのパンには祈りはこめられていないから、
キリストの体をまいているわけではない。ご安心を。
どのくらい、カトリックの信徒たちが、この聖体を大切にするか。
韓国映画に「アガタ」という作品があって、これは本作品と同様、神父の
許されない恋という題材だった。もっとも、「恋する神父」のほうでは、
女性は未信者であるのに対して、「アガタ」のほうは修道女であるので、
よりケースは深刻であったのだが。
この作品の中で、主人公の修道女アガタの父が病気で臨終ということに
なり、その時に、神父が聖体を食べさせるところがある。ところが、父が
咳にむせて吐き出してしまう。おそれおおいということで、神父がそれを
拾って口にし、痰から肺病にかかってしまうという場面がある。
そこまでやるか、という気もするが、ことほどさように、聖なるパンは
大切なものだ。カトリックでは、聖体を収める聖櫃があって、そこにパンが
入っている時には、紅いランプが点っている。
キリストの体は今ここにおはします、というしるしである。
個人的な話になるが、私の通っている教会で、若輩者ながら昨年選挙で
執事に選ばれたので、このパンとぶどう酒を運ぶというご奉仕を、毎月の
礼拝で勤めさせていただいたことがある。
いや、何が緊張するといって、これは緊張するものですよ。
大きな教会なので、七人で分けて運ぶのだけど、もしも万が一、途中で
すっころんでまいてしまったら、大事なので、やたら緊張する。今年は
辞退させていただいたが、私には荷が重過ぎると感じた。そもそも、
給仕したりという仕事は、不器用なので苦手なのだ。
それでも、この一年間の体験は、得がたい貴重なものだった。
そうした体験からしても、ここでホスティアをまいてしまうというのは、
見ていて、あぁっと叫びそうになるくらい、大変なことなんである。
この映画は、そのように儀式を、コメディのネタとしてあれこれ利用して
いるので、敬虔な信者の方が見たら、あるいは眉をひそめるかもしれない。
もう少し例を挙げてみよう。
聖水を、二日酔いでのどが渇いたといって、女の子が飲んでしまう。
聖水というのは、ちょっと妙に神々しい雰囲気のあるものだ。聖堂に
入る時に、入り口に小さなボウルがあって、これは教会によってその
形状は違うのだが、水が張られている。
これで指先をしめらせて、胸の前で十字を切るのだ。
私はカトリックの聖堂にも時々出かけるのだが、この聖水が好きだ。
比べるといけないのかもしれないが、神社に行くと、御手洗の水が張って
あって、それで手や口をすすいでから、神前に向かう、あれと似ている。
神のみ前に立つ前に、まず「みそぎ」や「はらい」をする、という
日本人には親しみやすい、神道の発想に類似しているのだ。
「聖水」というと、映画で私がすぐ連想するのが「エクソシスト」。
子供のころにホラー映画として流行して、見たがけっこう怖かった。
というか、気持ちの悪い映画だった。スプラッタの先駆けという感じだ。
悪霊が少女にとりついて、いろいろな怪奇現象を起こす。それを、
エクソシスト、すなわち霊媒師がやってきて、悪魔払いをするという話。
少女の顔がおそろしい形相となり、首が三百六十度ぐるりと回ったり、
口から緑の液体を吐き出したり、恐ろしい声でしゃべったり,不気味な
ことこのうえない。夢にうなされそうなほどだ。
それに立ち向かう、エクソシストの武器が、十字架と聖水。
小さなびんに入れた、透明な液体を祈りながらふりかけると、まるで
硫酸を浴びせたように、悪魔が焼け焦げてぎゃっと言ってとびのく。
なんだか、子供心に「聖水」ってすごいな、と思ったりした。
ところが、その聖水を、酔い覚めの水として飲んじゃうってんだから、
こりゃどうも、しょうがない。下戸にはわからぬ酔い覚めの水は甘露水、
なんていう川柳があったが、いやいや、それどころじゃない。
昔、ロシアの田舎から来た使者が、フランスの貴族の食事に招かれて、
手を洗うフィンガーボールの水を、お冷やの水と間違えて飲んでしまった
という笑い話があるが、そのくらい大変な失態だぞ。
のどが、硫酸みたいに焼け焦げなければいいが、いや、もちろん現実には
そんなオカルト映画みたいなことはない。信仰から言えば、逆にそれに
よって、病気が治るかもしれない、となるだろう。
カトリックでそうした奇跡の「聖水」といえば、ルルドの泉が有名だ。
フランスのルルドで、聖母マリアが顕現するという奇跡を目撃した少女。
村人は始め信じなかったというが、そこからあふれ出た泉を飲んだり、
浸かったりすると、不治の病も治ると言われ、全世界から巡礼者が来る。
実際に、医者から見離された病気が治ったという医者の証言も残っている
のだろうが、さて、真相はいかに。信じるものは救われる、ということか。
なんだか、聖体と聖水の話だけで、ずいぶん話し込んでしまった。
その他、映画に出てくる話をあげると、きりがない。
教会付属の幼稚園の園バスを、園児をのせたまま暴走させたり。
聖堂の隣の庭で、高校生の不良少女たちがたばこを吸っていたり。
ミサ用のワインを、くすねて飲んでしまったり。
スータンと言われる神学生の黒い制服を着て、ディスコに行ったり。
神学校の宿舎を抜け出して、ロシア娘の「羊」を救いに行ったり……。
しかし、この映画では、それらのエピソードの数々が、ほんとうに
神を冒涜し、儀式や教義を否定しているといった確信犯的な涜神に使われ
ているわけではない、ということを、私は強調しておきたい。
あくまで、ギャグ、パロディの道具として使われているに過ぎない。
その点、むしろ罪は少ない、というか、無邪気なものだとさえ思える。
いや、かえって、そうした扱いで親しみが増すような気さえするのだ。
キリスト教が正面から題材として扱われることは、たとえパロディや
ギャグであっても、日本の映画では実に少ない。
それに比べると、韓国映画では「ハレルヤ」「三人組」など、しばしば
キリスト教を主調にした作品が見られることは、うれしい気がする。
さすがに、三割がクリスチャンの国、という気がするのだ。日本では
わずか一パーセント、この壁はやすはり大きいのだ。日本のドラマで、
クリスマスや結婚式だけは別として、ふつうの場面で、神社におまいり
したり、仏壇に手を合わせるシーンはあっても、教会で礼拝するという
シチュエーションが出てくることは、まずないと言っていい。
さらに私が言いたいのは、この映画のキリスト教は、単に話を盛り上げる
ための背景とか、ラブコメの道具立てに過ぎないわけではないということ。
ギャグの題材である一方で、敬虔なところがまた垣間見られて、いい。
まず、カトリックの儀式が、当然のことながら随所に出てくる。
カトリックのお堂というのは、いいものだ。この点については、私は
プロテスタントなのだが、カトリックの聖堂のほうが好きだ。
あのきれいな、ステンドグラス。色とりどりのガラスのモザイク壁画を
通じて、自然の空の光が聖化されて舞い降りてくる、その神々しさ。
そして、ところどころに配される、聖マリア像。
プロテスタントのほうは、特に原理主義的な場合、こうした聖像を、
偶像崇拝的であるとして嫌う傾向がある。だが、それを極端にすると、
ユダヤ教やイスラム教のように、魚や鳥や獣の姿さえ描くことは許さず、
バーミヤン石像の文化財破壊のような暴行さえ引き起こしてしまう。
邪教の人身御供を捧げる非人道的な神々ならいざ知らず、マリアや
聖人たちの像を飾って、それらを拝むというより、それによって信仰心
を触発されるということは、あっていいことだと私は思っている。
とにかく、カトリックの聖堂はいずれも美術的に美しい。
野外の白いマリア像に、ブルーのリボンがかけられているところで、
静かに夜中に祈る若い神父の姿、まことに敬虔で絵になる光景だ。
美術だけでなはい、音楽もまたいい。
グレゴリア聖歌のような、静かな聖歌が流れると、もうそれだけで
じんときてしまう。もちろん、歌について言えば、プロテスタントの
讃美歌もいい。わかりやすく、親しみやすく、何より歌いやすい。
ドイツのコラールをもとにした讃美歌は、もともと会衆がいっしょに
口語で単純な旋律でそろって歌うことを目的にしている。
これに対して、カトリックのほうはどちらかというと、聖歌隊がラテン語
で歌って、礼拝の雰囲気をかきたてることに主眼があるように思える。
だが、グレゴリアのように、平易で素朴なメロディーもあるのだし、
最近は歌詞や祈祷文の口語化も進んでいる。また、音楽によって神々しい
気持ちになるということは、単なる雰囲気作りというだけでなく、祈りに
入る精神の姿勢を作るという意味では、大切なことではないかと思う。
映画の中で「シスターアクト(邦題は「天使のラブソング」だったか)」
を思わせるような場面もあって、ご愛嬌だった。
田舎の教会のおばあちゃんたちが集まって、結婚式の聖歌の練習をする
のだが、これがみなさん音痴でちっとも揃わない。
そこで、神学生が仲間たちを呼んで、若者たちによる即席の聖歌隊を
結成する。そこで歌われる歌は、グレゴリアやバロックではなく、ポップな
歌謡曲のノリで、歌詞といいメロディーといい、わかりやすい。一同は
歌うだけでなく、歌に合わせてダンスを始める。
教会の会衆のおばあちゃんやおじいちゃんも、いっしょに楽しんで、
体を揺らすように踊るようにリズムに合わせて歌い始める。このへんは
いかにも韓国人らしいノリのよさかもしれない。祝宴などで両手を空に
あげて踊り始める光景は、琉球や朝鮮ではよく見られる光景だ。
だが、単なる面白おかしい余興というわけではなく、その歌詞はあくまで
神をたたえる賛歌である。やはり、讃美歌、ゴスペルなのだ。
神様、私にかわいい花嫁を与えてください、ふたりを幸せにしてください、
あなたの恵みをください、アーメン、と。
聖堂の美術、聖歌の音楽と見てきたが、カトリックで何より素晴らしい
のは、こうした美術や音楽をふまえた、儀式の荘厳さだ。
映画の中では、おそらく実際の聖堂で、実際の聖職者や信徒によるロケと
思われる儀式の様子が、いくつか挿入されている。
ミサや結婚式の様子も良いのだが、特に、司祭叙階の儀式などは、普段
目にすることが少ないためか、その敬虔な姿勢に胸打たれる思いがした。
叙階される神学生たちが、聖堂を埋め尽くして祈る、白いベールをかぶった
信徒たちの間を進み、そして、前に進み出て一斉に五体を投地してひれ伏す。
神のみ前に、ひたすら頭を低くし、身を投げ出して祈る。
そして、ひとりひとり、誓いの言葉を述べる。
神に献身し、奉仕する、その尊い生き方。見ているほうも自然に頭を垂れ、
映画のロケとわかっていても、つい一緒に前途を祈りたくなってしまう。
よくプロテスタントは説教中心、カトリックは儀式中心という。
プロテスタントは牧師だが、カトリックは「司祭」と言う。司会は会を司る。
司祭は祭りを司るという意味、すなわち祭礼を行うものである。
み言葉による説教も大切だが、心を尽くして神に祈る祭儀も大切である。
そろそろ、本題、中心のテーマに入ろう。
このような、神に身を捧げる献身の儀式を見るにつけ、思う。
彼らは生涯、独身を誓うのだ。
このことの重み、ということを思う。先に述べた「アガタ」でもそれが
テーマだった。なぜ、カトリックの神父は、結婚できないのか。なぜ、
修道女は結婚できないのか。ここはいまだに牧師とは違うところだ。
まだ年の若い青年や乙女にとって、それはほんとうに苦しいことだ。
それが、この映画のような、現代的な恋愛を描いた作品であるだけに、
よけいに身につまされ、心にしみてくる。
これは、表面上は、わりあいと能天気なラブコメのようだけど、
根本的には、妻帯できない神父の、禁じられた恋の苦しみという、
しごく真面目で深刻なテーマなのだ。
神をとれば、恋を捨てなくはならない。恋をとるなら、その逆だ。
かつて、「僕たちのアナ・バナナ」というハリウッド映画を見た。
タイトルも知らないという人が多いだろう。実は私も知らなかった。
とある旅行先で、ふと夜中につけたテレビの、深夜映画劇場でかかって
いた。途中から見たのだが、なぜかとても魅きつけられる作品で、
帰ってから近くのビデオ屋で捜して、借りてきて見た。
タイトルは何か、いかにもおどけた感じのコメディという感じで、
実際に話としてはラブコメなのだが、テーマとしては、「恋する神父」と
同様の主題を扱っている、ちょっと考えさせる映画なのだ。
三人のかつてのクラスメート、親友たちが、大人になってから再会した。
男が二人と、女が一人。
一人の男は、ユダヤ教徒のラビ。もう一人の男は、カトリックの神父。
そして、女はばりばりのキャリアウーマンの、しかも美女。
この三人の間の三角関係が、ストーリーの中心を織り成していく。
文化的には、日本人にとって特に親しみの少ない、アメリカのユダヤ教徒の
ようすが描かれていて、興味津々だ。彼らは、アメリカ社会では決して
マイナーでなく、政財界に強い力を持っていることがよくわかる。
それと、ピューリタン的なプロテスタントがほとんどというイメージを
持たれているアメリカで、カトリックもどっこい、先のケリー候補やケネディ
大統領に代表されるが、けっこう勢力があるという実態もわかる。さらに、
ユダヤ教とカトリックの交流まで描かれる。
と、宗教的な文化理解という意味でまことに面白い作品なのだけど、
それはさておき、神父の彼は、基本的に女性と結婚してはならない。
ところが、ユダヤ教ではラビになるには、結婚していないと信用がない。
ただし、お相手は普通なら同じユダヤ教徒。
ここで、さて、キャリアウーマンの彼女は、どうするのだろうという
ところが、このお話の山場なのだが、それは実際にご覧いただこう。
でも、その解決のしかたは、やはり文化性のせいか、「恋する神父」とは
ひと味もふた味も違うように、比べて見ると思えるのだ。
それにしても、神様に奉仕すること、すべてを捧げて献身するということ
の、尊さ、そして大変さということを、あらためてしみじみと思う。
プロテスタントのほうでは、これはあまり悩まないことなのだけど。
仏教でも、もとは僧侶に妻帯を禁じていた。今でも、タイなどの仏教国に
行くとそうらしい。日本では、親鸞の浄土真宗以来、妻帯が普通になって
いく。最初は生臭坊主と、ずいぶん軽蔑もされたらしい。
結婚するかしないか、それには長短、両方があると思える。
結婚しなければ、妻を喜ばそうと心を用いることがない。その分、
神様に奉仕することに専念できる。確か、パウロが書簡にてそういう
ことを述べている。できることなら、結婚しないのが望ましいと。
でも、耐えられないのなら、結婚して一夫一妻でいることとも言う。
結婚しているほうがいいだろうと思えるのは、世間知らずにならない
こと。特に、結婚しているがゆえに生じる、夫婦の悩み、子供の悩み、
そういた世俗的な悩みをも知ることで、信者のそうした同様の悩みをも
理解して相談に乗ることができるのではないか、ということだ。
じゃあ、自分ならどうかと尋ねられれば、結婚しない生活には耐えられ
ないかもしれない。妻も子供もないという、さびしさに。
少し、俳優の話もしよう。
主役の、クォン・サンウの神父が、とにかくかっこいい。
映画館に来ている、多くの女性客の目当ては、彼らしいのだが、男の目
から見てもなかなか男前だ。甘いマスクで、母性本能をくすぐりそうだ。
神父にしかられたり、禁じられた恋の思いに、思わず涙ぐんだりするところ、
男なら泣くな、といいたくもなるが、その弱さがまたいいと思う。気丈な、
悩まないマッチョな男性だと、この役にはあまりはまらない。優柔不断で
気弱で、恋か信仰かと、身もだえして悩むところが色気がある。
それに対してヒロインのほうは、これはファンの方がいたら申し訳ない
のだけど、ちょっときつさのほうが目立ちすぎる気もした。
この性格の強い女性の設定は、ヒット作である「猟奇的な彼女」などを
意識しているような気もするのだが、あのヒロインと比べると、同じく
気丈なタイプでありながら、少し、やさしさと、そしてあえて言うなら
知性美にややかけるような気もした。ちょっと辛い評価かな。でも、
これは脚本のせいもあると思う。
「猟奇的な彼女」は、前半の気弱な男と、気丈な女のかけあいが、
とにかく抱腹絶倒で笑えたのだけど、それに比べてちょっと中途半端で
そのため前半のコメディが今ひとつすかっと笑えない。もっともこれは
やはり、神父の禁じられた恋、という、ある意味シリアスな設定が根本に
あるからだろう。それは割り引いて考えておこう。
神父のクォン・サンウのかっこよさに助けられているところがある。
白いカラー、黒いスータン、すそのスカートをひらめかせ、聖書と
ロザリオを手にした神父姿が、なかなか絵になる。
彼が神父授業として、特別に、彼女を説得して、洗礼をさせるという設定
があるのだが、こんなかっこいい男なら口説かれてもと思うだろう。
友達の神学生が、いくら神様がかっこいいと言っても、そう言う本人が
かっこ悪くちゃ、その気にならないよなどというが、さもありなん。
このかっこいい神父を見ていると、「アガタ」の、イ・ポヒを思い起こす。
彼女も、ほれぼれするくらい、美しい修道女だった。美女を通り越して、
なんともセクシーなくらい妖しいほどの美貌だった。
こういう映画を見ていると、あらためて、もったいないなと思う。
こんないい男が、あるいはきれいな女が、独身で暮らすなんて。
それは、キリストの花嫁ということか。では、男は。マリアの花婿か、
いや、キリストの代行者ということか、それゆえ神父なのか。
神か、恋か、それは難しいが、尊い選択である。
信仰とは何か、恋愛とは何か、人生とは何か。
そんなことを、考えさせてくれる映画である。
では、最後にいくつか、私の気に入った台詞を挙げておく。
やはり神学生の彼が、未信者の彼女をなんとか説得して洗礼をさせようと、
いろいろと神や聖書について語るところ、ここはどの場面も良かった。
(テラスで、聖書を読んでいるふたり)
「……八、あなたは盗んではならない、
九、隣人に偽証してはならない。
十、隣人の家をむさぼってはならない、
ふう、これで十個ね。」
「教理問答に備えて、おぼえるんだ」
「あなたは、全部覚えているの」
「ぼくは、聖書をみんな暗記しているよ」
「じゃ言ってみて。まず、悔い改めの祈り」
「私は罪を犯しました。お許しください……」
(気がつくと、彼女はもう寝ている。)
(かっこよくおめかしした神学生、あらわれる)
「あら、今日はずいぶんかっこいいわね」
「神様って、どんな姿してると思う」
「知らない、見たことないんだから」
「ぼくみたいに、かっこいいんだよ(meos-iss-ta)」
(高台からソウルの街を見て)
「あなたはこの街の人々が目に見えないの」
「ぼくには、建物しか見えないよ」
「目に見えない神様が見えると言うのに、
どうして、人が見えないの」
(胸に下げているロケットを開いて見せて)
「この中には、イエスとマリアの絵が入っている。
始めは、両親の写真を入れておいたんだ。
でも、父がおまえにとって大切なものを入れなさい、と言うから。
そのとき、一番大切なものが何か、気づいたのさ」
「『デオ・グラシアス』って、あなたよく言うわね。
どういう意味、ラテン語なの?」
「それはね、ひとつの暗号なんだよ。
『神さまに感謝します』という意味なんだけど、
『愛しています』って、直接言うのは恥ずかしいだろ、
だから暗号で、小さな声でささやいてお祈りするのさ」
〜 素敵な映画を、デオ・グラシアス 〜
2005.8.17. ケアリの誕生日に
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