浜松市  わごうちょう
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大正坂ニュース   2006.12号 / 2002.12号 / 2002.5号 
深谷イレブン通りニュース 橋特集 / 2006.10号 / 2003.05号 / 2002.12号
 
 
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《和合町の沿革について》(和合町自治会会員名簿などから抜粋引用)・・・・日本の和合町

我が和合町は、三方原大地の一角にあたるが幕末まで「和合」の地名は出てこない。江戸時代の古文書にも見当たらない。明治中期になって字(あざ)名としてやっと記録に出てくるので、このころ付けられた地名と思われる。「馬合」から和合に変化したのではないかという古老の説も伝わっている。

もともと、和合町の小字は非常に多く、札木、鵙(もず)ヶ谷、馬橋、治平前、川向、東ノ谷、東岨(ひがしぞう)、西岨、東平、奥平、中平、マグソ谷、宮下、六瀬、イチゴ谷、銭取場、権現谷、地蔵西、角力場、元屋敷、馬舟平などがある。呼名から推測するところでは、山あり谷ありの起伏に富んだところだったことが伺える。

馬生会館所蔵の古文書によると馬生村、馬船村というのは江戸時代の文書のなかに見られるが、「和合」という地名はそのころのものには見当たらない。馬生村、馬船村については最も古い年代としては馬生村は天保12年(1841年)、馬船村は弘化3年(1846年)にその地名があったものと思われる記録が見られる。

和合町となったのは明治9年の7月〜12月のころと思われる。某氏が内山家所蔵の文書を調べたところによると明治10年2月17日付の文書に敷地郡和合村と記されたものがあり、明治9年12月付のものにもそれらしい記載もあるとの由である。

明治22年4月1日、村合併で和合村は富塚村に入って富塚村字馬生、富塚村字馬船となり、さらに現在西和自治会の地域は富塚村字寸田谷、同じく字新谷となった。やがて昭和11年、富塚村が浜松市に合併した時、それらの字が独立し、合併して和合町となった。

平成7年現在の和合町自治会の世帯数は約3000。ちなみに和合町西部は西和自治会となっている。

また、静岡新聞社昭和54年刊「静岡・清水・浜松・沼津 町名の由来」にも「和合」と「富塚」の由来の記載がある。


この大正坂(たいしょうさか)について『わが町文化史 台地と水と輝き(浜松市立高台公民館編、平成11年1月15発行)には次のように記載が見られる。

佐山種苗典店前の信号機から、和合町と和地山の境の道を西に入って、段子川(だんずがわ)に架かる大正橋までの坂を大正坂という。
大正時代にこの坂の北側を削り、道幅を広げたことから名付けられたもので、当時としては大事業であった。
それ以前の道は近郊の農家の人々が、農産物を積んだ荷車(大八車)がすれ違うのがやっとであったこの坂道も、道路の拡幅によって大八車のすれ違いも容易になり、姫街道と権現谷方面との交流が活発になった。
現在は、湖東・富塚・西インター方面と、市の中心部を結ぶ重要な道路となっている。



 坂は「大正」なのに段子川の橋はどうしたことか 「大昭」??

大昭橋から北を望む。源流は小豆餅(あずきもち)とか。佐鳴湖に注ぎます。昔はとてもきれいな川だったようです。
佐鳴湖北端の安座港(あんざこう)で陸揚げされ馬車で運ばれた小麦粉を挽く水車が沢山あったらしい。また、日本酒用の採水も行われていたとか。それくらいきれいな水だったのですね。でも、昭和50年代には佐鳴湖汚濁の元凶となった家庭排水でいっぱい、濁り泡立ってました。今は下水道整備が進みすっかりきれいになりましたよ。

次の地図は相当に独断に満ちた書き方です。

俗称「深谷イレブン通り」・・・・・地図の赤い道です。写真付きです。

深谷商店とセブンイレブンを結ぶ道、これが俗称「深谷イレブン通り」です。オートレース帰りのクルマとか通り抜けのクルマで結構交通量が多いのです。でも、ラッキーなことにあまり大きな事故がありません。運転手さん、ありがとう。



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私の知っている「大正」はこちらしかしメンテに手が回らずリンク外れも多数あり、すみません。