我が和合町は、三方原大地の一角にあたるが幕末まで「和合」の地名は出てこない。江戸時代の古文書にも見当たらない。明治中期になって字(あざ)名としてやっと記録に出てくるので、このころ付けられた地名と思われる。「馬合」から和合に変化したのではないかという古老の説も伝わっている。
もともと、和合町の小字は非常に多く、札木、鵙(もず)ヶ谷、馬橋、治平前、川向、東ノ谷、東岨(ひがしぞう)、西岨、東平、奥平、中平、マグソ谷、宮下、六瀬、イチゴ谷、銭取場、権現谷、地蔵西、角力場、元屋敷、馬舟平などがある。呼名から推測するところでは、山あり谷ありの起伏に富んだところだったことが伺える。
馬生会館所蔵の古文書によると馬生村、馬船村というのは江戸時代の文書のなかに見られるが、「和合」という地名はそのころのものには見当たらない。馬生村、馬船村については最も古い年代としては馬生村は天保12年(1841年)、馬船村は弘化3年(1846年)にその地名があったものと思われる記録が見られる。
和合町となったのは明治9年の7月〜12月のころと思われる。某氏が内山家所蔵の文書を調べたところによると明治10年2月17日付の文書に敷地郡和合村と記されたものがあり、明治9年12月付のものにもそれらしい記載もあるとの由である。
明治22年4月1日、村合併で和合村は富塚村に入って富塚村字馬生、富塚村字馬船となり、さらに現在西和自治会の地域は富塚村字寸田谷、同じく字新谷となった。やがて昭和11年、富塚村が浜松市に合併した時、それらの字が独立し、合併して和合町となった。
平成7年現在の和合町自治会の世帯数は約3000。ちなみに和合町西部は西和自治会となっている。