シルレル 「三十年戦史・上巻」 索引集
2009年7月30日 望月 文雄
人名・家名索引
アドルフ・フリードリッヒ(瑞典将軍)278、
アムブロス・スピノラ将軍(瑞典将軍)164、164、
アルトリンゲル将軍(瑞典将軍)285、
アルブレヒト大公(皇帝マクシミリアン2世の3男)112、
アルベルト王族系ザクセン選挙侯( アルブレヒト系(ザクセン公) [編集]アルブレヒト・
アンハルト侯クリスチアーン(新教同盟加入者)75、76、134、134、135、145、
アルンハルム元帥(ザクセン軍)249、249、249、249、249、282、295、296、
アンスバッハ邊彊伯(アンスバッハ (Ansbach) は、バイエルン州ミッテルフランケンに属する郡独立市。)132、
アンリー(ヘンリー・フランス王=ブルボン朝初代のフランス王(在位:1589年 -
1610年))四世 66、78、78、78、79、80、80、80、80、81、81、81、81、82、83、83、83、84、84、84、84、84、84、85、87、132、132、150、150、150、150、151、152、174、
英蘭王ゼームス (ジェームズ6世(James VI)およびジェームズ1世(James I)、チャールズ・ジェームズ・ステュアート(Charles James
Stuart, 1566年6月19日 -
1625年3月27日)は、スコットランド、イングランド、アイルランドの王。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:1567年7月29日 -
1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年7月25日 -
1625年3月27日)である。非公式にはグレートブリテン王の称号も用いた。スコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子。ジェームズの即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることは無かった。ジェームズは男色家=ホモセクシュアルで知られている。1582年、ガウリ伯ウィリアム・リヴァン(William
Ruthven, 1st Earl of Gowrie)の計略により、ジェームズはリヴァン城(Ruthven
Castle)に軟禁された。翌年リヴァン城からの脱走に成功したジェームズは、1584年にガウリ伯を処刑し、直接統治を行うこととした。)123、123、123、123、124、124、124、124、124、124、124、124、124、126、145、152、152、153、153、153、153、153、153、153、153、153、153、153、153、165、165、165、169、169、169、169、174、174、174、
英蘭使節等(イングランド使節等) 214、
エリザベス女王(イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年 -
1603年)。テューダー朝最後(第6代)の女王。当時弱小国家であったイングランドの独立を維持し、「よき女王エリザベス」と慕われたが一方でカトリックを迫害した。別名グロリアーナ(Gloriana、「栄光あるもの」の意)。
) 12、22、152、
エルネスト系ザクセン選帝侯( エルンスト系(ザクセン公) [編集]ヨハン・フリードリヒ1世(1547年 - 1554年) ヨハン・フリードリヒ2世(1554年
- 1566年) 77、77、77、78、
ヴァイマール侯(ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ(Sachsen-Weimar-Eisenach)は、ドイツ中部、現在のテューリンゲン州、にかつて存在した侯国の領主。)145、
ヴァレンシュタイン伯クリスチアーン(ベーメンの最も裕福な貴族、武勲赫々たる名将・ティリーと並んで皇帝軍の2将軍・フリーラント公) 181、181、181、181、181、181、182、182、182、182、182、182、182、183、183、184、184、185、186、186、187、187、187、188、188、188、188、189、189、190、190、191、191、191、192、192、192、192、192、193、193、193、193、193、194、194、194、194、194、195、195、195、195、196、196、196、197、197、197、197、197、197、198、198、198、199、199、207、207、207、208、209、209、209、209、209、209、209、209、209、209、210、212、212、213、214、214、214、214、214、214、214、214、214、214、214、214、214、214、214、215、215、215、215、215、215、215、215、215、215、215、217、217、217、217、217、217、218、218、218、218、218、218、218、218、218、218、219、219、219、219、219、219、219、220、221、221、236、236、237、237、240、244、244、244、249、249、256、
ヴァンサン公(不明) 210、
ヴュルテンベルク公(エーバーハルト3世 Eberhard III 生没年:1614-1674 父:ヴュルテンベルク公ヨーハン・フリードリヒ
1628-1674 ヴュルテンベルク公)167、203、206、
ヴュルテンベルク代官 ()271、
ヴィルヘルム5世ヘッセン=カッセル方伯(ヴィルヘルム5世〔Wilhelm V., 1602年1月13日 -
1637年9月21日〕は、ヘッセン=カッセル方伯(在位:1627年 - 1637年)。「不変伯(ドイツ語:der Bestandige)」と呼ばれる。モーリッツ(学者伯)とその最初の妃であったアグネス(1578年
- 1602年)の息子。)184、188、272、272、278、278、278、278、278、278、278、278、278、279、
多くの諸侯(ライプチッヒ協定の諸侯を指す?) 253、
オラーニエン公(不明)22、
オルテンブルク(ライン同盟構成国の一侯?)233、
オレンジ侯(オラニエ公ヴィレム〔ウィレム〕1世〔Willem I, 1533年4月24日 -
1584年7月10日〕はホラント州、ゼーラント州他の総督(在位:1572年 -
1584年)。八十年戦争勃発時の中心人物。オランダ独立国家〔ネーデルラント連邦共和国〕の事実上の初代君主。「沈黙公」と呼ばれる。)151、
ヲルガスト(不明) 238、
カッセル〔方伯〕のヴィルヘルム (エルネスト系の数多き英雄と並ぶ)144、144、144、144、144、145、273、273、273、
カッセルのゲオルグ(ヘッセン州に属する。交通の要衝にあり、ヘッセン=カッセル方伯が拠点とし、選帝侯宮廷都市として栄えた。ヴィルヘルム6世(Wilhelm
VI., 1629年5月29日 - 1663年7月16日)は、ヘッセン=カッセル方伯(在位:1637年 - 1663年))143、
ガーブリエル・バトリ(ジーベンビュルゲン領主)125、
カプチーン教團僧ジョセフ(不明)212、212、212、212、212、213、213、213、213、213、214、214、
ガポール(トランシルヴァニアの将軍)166、166、166、166、166、166、
彼〔グスタフ・アードルフ〕の情愛濃かなりし妃〔ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントの娘マリア・エレオノーラ〕231、
彼の娘(英蘭王ゼームスの娘・エリザベス・ステュアート)165、
彼の孫(英蘭王ゼームスの娘・エリザベス・ステュアートの子カール1世ルートヴィヒ)165、
カール五世(カール5世(Karl V, 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝(在位:1519年 -
1556年)。スペイン王としてはカルロス1世(Carlos I, 在位:1516年 -
1556年)と呼ばれる。宗教改革期の動乱やオスマン帝国の圧迫といった困難な時代にあっても、当時のヨーロッパから新大陸に広がる広大な領土をたくみに統治した有能な君主であったが、晩年には相次ぐ戦争に疲れて自ら退位し、修道院に隠棲した。) 14、18、18、18,18、19、24、43、144、146、148、
カルヴィン 17、35、72、
ギース家 14、
宮中伯ヨーハン・カージミール(新選挙侯・)67、67、67、72、231、
クニップハウゼン(リュッツェンの戦い〔Schlacht bei Lutzen〕は、三十年戦争中の1632年11月16日(旧暦11月6日)にドイツのライプツィヒ南西、リュッツェン近郊で行われた戦闘である後列はドド・フォン・クニップハウゼンが執った。)233、
クリスティーナ(瑞典王グスタフ・アードルフの娘)231、
クリスチャーン・ヴィヘル・ブランデンブルク代官)203、255、255、255、255、256、256、256、256、256、257、257、257、257、258、260、266、
クリスチャーン四世(デンマーク王クリスチャン4世(Christian IV, 1577年4月12日 -
1648年2月28日)はデンマークとノルウェーの王(在位:1588年 -
1648年)。一般には、60年間にわたって善政を敷き、数多くの改革をおこなったデンマークの名君の一人と見なされている。中世はカルマル同盟を築き大国として存在した。しかし対外的には、三十年戦争の敗北等により国力の衰退をもたらし、北欧での覇権を失う事となった。)154、154、155、157、
クレメンス八世(ローマ教皇(在位,1592年-1605年))113、
グスタフ・アードルフ(ヨーロッパ諸国から「北欧の獅子」と恐れられたグスタフ2世アドルフは三十年戦争に介入し、ドイツでプロテスタントの盟主として、カトリックの盟主ハプスブルク家(神聖ローマ皇帝)と戦った(古ゴート主義の理念の拡大による)。グスタフ2世アドルフ自身はリュッツェンの戦いで戦死したが、スウェーデン軍はその後もドイツで戦いを続け、ヴェストファーレン条約で北ドイツに広大な領土を獲得、一躍北方の大国となった(スウェーデン・バルト帝国)。)154、156、156、156、157、157、157、157、157、157、157、157、157、157、157、157、158、158、158、158、158、158、158、158、158、159、159、159、165、177、178、178、178、183、183、197、197、213、213、215、218、219、220、220、220、220、220、220、220、220、220、220、221、221、221、221、222、223、223、223、223、223、223、223、224、224、224、224、225、225、225、225、225、225、225、226、227、227、227、227、227、227、227、227、227、227、227、228、228、229、229、230、230、231、231、231、231、231、231、231、231、231、231、231、232、232、232、232、232、232、232、232、232、233、233、233、233、233、234、234、234、234、234、235、235、235、235、235、235、235、236、236、236、236、236、236、236、236、237、237、237、237、237、237、238、238、239、239、239、239、239、239、239、240、240、240、240、241、241、242、242、243、243、244、245、245、245、245、245、246、246、246、247、247、248、249、250、250、251、251、251、252、252、252、252、252、253、253、253、253、253、253、253、253、253、253、254、254、254、254、254、255、255、256、256、256、257、257、257、258、259、260、260、261、267、267、267、267、268、268、268、268、268、268、269、269、269、269、269、269、270、270、
270、270、270、272、274、274、274、274、274、274、274、274、274、275、275、275、275、
275、275、275、276、276、276、276、277、277、277、277、277、278、278、278、278、278、278、278、278、278、278、279、279、280、280、282、282、282、282、282、282、282、282、282、283、283、283、283、283、283、283、283、283、283、284、284、284、284、285、285、285、285、285、287、287、287、287、288、289、289、290、290、290、290、291、291、291、292、293、293、293、293、294、294、294、295、295、295、296、296、296、297、297、297、297、
グスタフ・ヴァーサ(グスタフ1世(Gustav I, Gustav Eriksson Vasa, 1495年 - 1560年9月29日、在位1523年 -
1560年)はスウェーデン国王・ヴァーサ王朝の祖。1509年から1514年にウプサラ大学に学び、1518年から翌年にかけてスウェーデン独立派の貴族としてデンマーク軍と戦って捕らえられる。1520年、ストックホルムでデンマークによるストックホルムの血浴が起こると、脱出してダーラナに帰り1521年にこの地方の農民を率いて反乱を起こし成功した。スウェーデンの摂政となることを宣言し、1523年スウェーデン国会(Rikstag)に選ばれて国王となる。1527年、ヴェステロースで開かれた国会において法律を定め「この国では簡素で真実なる神のみ言葉のみを弘めるべき」とし、ルター派の教義を全面的に認め、スウェーデン教会がローマから分離するきっかけをつくった。ついで国土の26%を占めるカトリック教会の土地を没収し、国土の5%にすぎなかった王家の土地を拡大し財政基盤を改善した。行政改革を行い、ダーラナやスモーランドに起きた地方の反乱を厳しく鎮圧した。ヴァーサ王は宮廷が大陸風の華やかなスタイルをもつことを重要視し、この時代に聖書のスウェーデン語訳も完成し、宗教改革者ウーラウス・ペトリによって詩や神学の書物があらわれた。)154、154、155、156、157、
グスタフ・ホルン(1628年、スウェーデン軍の陸軍元帥となった。1630年、スウェーデンは三十年戦争に参戦し、ホルンはグスタフ・アドルフとともにドイツに上陸し、同年コルベルク要塞を攻略した。その後、一軍を委ねられたホルンは、フランクフルト・アン・デア・オーダーに侵攻した。1631年、ブライテンフェルトの戦いではスウェーデン軍の左翼を指揮し、勝利に貢献した。)233、287、290、
グラーツ家(グラーツ〔独: Graz〕は、オーストリアの人口第2の都市で、シュタイアーマルク州の州都。)112、
グラーツの太公フェルディナンド 58、58、58、105、
軍使シャルナセ(フランス)223、
ケルンの選挙侯ゲープハルト(不明)64、64、64、64、65、65、65、65、65、66、66、67、67、67、67、67、67、67、68、69、
ゲオルク・ヴィルヘルム(1619年−1640年、ブランデンブルク選帝侯となり、同時にプロイセン公となる。決断力に乏しい君主で、三十年戦争の混乱の中で内部に不一致を抱えてカトリックとプロテスタントの両陣営を往復し、双方の軍にブランデンブルクを荒らされた。)76、77、96、96、96、189、243、243、243、137、143、143、143、143、143、143、143、250、255、268、268、269、269、269、269、269、269、269、269、270、274、274、274、274、274、275、275、275、275、284、
後者(瑞典王)254、
皇帝軍の将軍連(ティラー・ヴァレンシュタイン伯クリスチアーン等) 254、
皇帝の弟たる維納の大守(皇帝フェルディナント二世の弟名前不詳)126、
皇帝マクシミリアン二世(1564-1576=世襲公ルードルフ〔二世〕と太公マチーアスの父) 111、112、113、
皇帝マチーアス(マティアス〔Matthias, 1557年2月24日ボヘミア - 1619年3月20日ボヘミア〕は神聖ローマ皇帝〔在位:1612年 -
1619年〕。マクシミリアン2世と皇后マリアの子。マティアスが神聖ローマ皇帝に就任して以降、彼の政策は、帝国内のカトリックとプロテスタントの融和を進めることを望んでいたメルキオル・クレスルに支配されていた。この融和政策は、妥協に反対的なハプスブルクのカトリック教徒に反対された。特に弟マクシミリアン3世大公の反対は著しく、カトリック強硬派のフェルナンド大公〔フェルディナント2世〕の続投を望んだ。1618年にボヘミアのプロテスタントの反乱が始まったことにより〔プラハ窓外投擲事件〕、マティアスはマクシミリアン3世を拘束し、融和政策を変更した。しかしマティアスは老いて病の床につき、マクシミリアン達が自分の地位を奪うことを防ぐことができなかった。フェルディナントは既にボヘミア王になっていたが、マティアスは帝位にとどまった。
結局マティアスが死の床につくころには、新旧両派の対立は回避することが出来ず、最後にして最大の宗教戦争、三十年戦争が勃発してしまうのである。皇后アンナ・フォン・ティロルとの間に子供がなかったため、従弟フェルディナント大公(フェルディナント2世)が帝位を継いだ。)92、92、92、92、92、92、92、93、
皇帝フリードリッヒ三世(フリードリヒ3世(ハプスブルク、1286or89 - 1330、対立王位: 1314 - 1325、共治王位: 1325 - 1330)
77、
皇帝フェルディナント二世(1619-1637は太公カールを父に、バイエルンの公女マリア・アンナ、マクシミリアン1世の妹、1574年 -
1616年と結婚、7人の子がいる、)112、112、112、112、112、113、113、113、114、114、114、114、114、114、114、114、114、114、114、115、115、115、115、116、116、117、117、117、117、117、117、118、118、118、118、118、118、
118、118、118、119、119、119、119、120、120、120、121、121、121、121、126、126、127、127、127、127、127、127、127、127、128、128、128、128、128、128、129、130、130、130、131、131、132、133、133、133、133、134、137、138、138、139、139、139、139、139、139、139、139、139、139、139、139、140、141、141、141、142、142、142、142、143、143、143、144、144、145、158、158、159、160、160、160、160、160、160、160、160、160、160、160、161、161、161、161、161、161、161、161、161、162、162、162、162、162、162、163、163、165、167、169、169、169、169、169、169、170、171、171、171、171、172、173、173、173、173、173、175、175、176、176、176、176、176、177、177、179、179、180、180、180、180、180、180、180、181、181、181、182、182、187、187、190、190、191、191、191、191、191、191、191、192、192、192、192、192、192、193、193、193、193、193、193、193、193、194、194、195、195、197、198、198、198、198、199、199、199、199、200、200、200、200、201、201、201、201、202、203、203、203、203、204、204、204、204、205、205、206、206、206、207、207、207、207、207、208、208、208、208、208、208、208、209、209、209、209、209、209、209、209、210、210、210、211、211、211、211、212、212、213、213、213、213、213、213、214、214、214、214、214、214、214、214、214、214、214、214、215、215、215、219、219、220、221、221、223、223、224、225、227、229、231、232、234、235、235、235、235、235、235、236、236、237、237、237、237、237、237、241、242、242、243、243、248、248、248、249、249、249、249、249、250、250、251、251、251、251、253、253、254、255、255、256、259、259、269、269、270、270、271、271、271、271、272、272、272、272、275、278、278、280、281、281、281、281、282、293、294、295、295、296、296、296、296、296、296、296、297、
皇帝フェルディナント二世の子供
クリスティーネ(1601年 夭折)
カール(1603年 夭折)
ヨハン・カール(1605年 - 1619年)
皇子 フェルディナント3世(1608年 - 1657年) 204、
マリア・アンナ(1610年 - 1665年) バイエルン選帝侯マクシミリアン1世妃
ツェツィーリア・レナータ(1611年 - 1644年) ポーランド王ヴラディスワフ4世妃
皇帝ルードルフ二世(ルドルフ2世〔Rudolf II.,1552年7月18日 - 1612年1月20日〕は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝〔在位:1576年 -
1612年〕、ハンガリー王〔在位:1572年 - 1608年〕、ボヘミア王〔在位:1575年 −
1612年〕。マクシミリアン2世と皇后マリアの子。幼少時をスペインの宮廷で過ごしたため、イエズス会の影響を受けて厳格なカトリック教徒となった。1576年に父マクシミリアン2世の後を受けて皇帝に即位する。父は宗教に対しては寛容策を採用することで皇帝権力の強化や国内の安定化を図っていたが、ルドルフ2世はそれを廃し、徹底してプロテスタントを弾圧した。これが原因で国内情勢は一気に不安定化し、国内各地で反乱が勃発する。特にハンガリーの反発は凄まじく、ルドルフ2世は穏健政策として1606年、同地域における信教の自由を認めた。しかしもともと政治能力に欠け、国政を重臣に任せきっていたルドルフ2世の政策は不徹底だったため、1608年にハンガリーで大規模な反乱が勃発した。事ここに至って遂にルドルフ2世はハンガリー王位を放棄し、弟のマティアスにその王位を譲っている。翌1609年、ハンガリーのように反乱が起こることを恐れたルドルフ2世は、ボヘミアにおける信仰の自由を認めたが、これもハンガリーと同様に政策が不徹底だったため、ルドルフ2世の死後、神聖ローマ帝国内において三十年戦争が勃発する一因を作り上げてしまったのであった。生涯で一度も結婚しなかった。1612年、60歳で死去。後を弟のマティアスが継いだ。) 244、
皇帝の代官スラヴァータ(大審判長) 102、102、102、102、103、
皇帝の代官・男爵マルティニッツ(カールシュタイン城主) 102、102、102、102、103、
国王(バーデン邊疆伯ゲオルク・フリードリッヒ)167、
ゴート族(ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の古民族。)17、
コリニー(ガスパール・ド・コリー=バリテルミーの虐殺で殺されたフランス貴族)14、22、
コルドゥバ将軍(スペイン軍)164、167、
トルクワート・コンティ将軍(皇帝方将軍)238、238、239、239、
コンデ(コンデ公ルイ2世)14、
サヴォイ公 (サヴォイア〔イタリア語:Savoia, フランス語:Savoie, 英語:Savoy〕
は、南ヨーロッパの歴史上の地域名。フランスではサヴォワといい、現在はフランスのサヴォワ県とオート=サヴォワ県にあたる。11世紀の初頭、神聖ローマ帝国がこの地方を征服した際、この地方はサヴォイア家の始祖となるウンベルト1世・ビアンカマーノの所領となった。以来サヴォイア家のサヴォイア伯領として発展し、1416年にはサヴォイア公国となるが、1563年には宮廷がシャンベリからトリノに遷都される。) 110、110、110、120、120、
ザヴェリ公(不明) 246、
ザクセン公モーリッツ(ザクセン選帝侯〔在位:1547年 - 1553年〕シュマルカルデン戦争で皇帝カール5世に味方し、選帝侯の位を授かった。)25、
ザクセン・ラウエンブルク公(不明)257、
流石の勇将(パッペンハイム将軍)263、
司令官(オクセンシェルナ・)274、
シャウムベルク伯(皇帝軍・最高指揮官)243、246、
ジギスムント(ジグムント3世は政治的思惑により幼くしてポーランド王国かつポーランド・リトアニア連合の首都クラクフへ預けられ、カトリック改革の主導的存在であったイエズス会の手で教育を受け、本国スウェーデンおよびヴァーサ家がルター派プロテスタント国家であるにもかかわらず熱烈なカトリック教徒となった。このため、。1592年、父ヨハン3世が死去すると、ジグムント3世はポーランドを出国せずにスウェーデン王位を継承し、叔父カールが摂政としてスウェーデンを治めたが、近世的な君主と国家との宗教的一致を損なうジグムントとスウェーデンとの関係は、次第に悪化していった。)155、156、156、156、156、156、158、158、158、158、158、159、159、159、159、159、159、159、196、220、221、223、223、
ジーベンビュルゲン侯ベートレン・ガボール(ジーベンビュルゲン〔ルーマニア中部・北西部の歴史的地名の領主〕93、95、116、125、126、126、126、126、126、126、127、130、131、134、134、134、136、166、166、166、166、166、175、184、186、186、186、186、187、187、187、187、187、
ジーベンビュルゲンの諸侯(ジーベンビュルゲンはルーマニアのトランシルヴァニアの別名ザクセン人から選ばれ国王に任命された国王裁判官が置かれ、最高機関としてシュトゥール議会を持っていた。ザクセン人はこうして、マジャル人支配層、セーケイ人とともにトランシルヴァニアの特権階級を形成し、フス戦争の影響を受けた1437年のマジャル人、ルーマニアの農民反乱〔ボブルナ農民蜂起〕の鎮圧後、この3者で三民族同盟が結ばれる。この同盟でいう民族は民族的区分とともに身分的区分を含み、マジャル人、ザクセン人、セーケイ人のみが民族として公認され、ルーマニア人は否認された〔この原則は19世紀まで維持された〕。)229、
シュヴァルツェンベルク大臣(皇帝から密に給与を受けていたザクセンの人物)269、
シュタイエルマルク(オーストリアの州)のカール 42、
シュトラウスブルクの僧正(司教)レーオポルド大公 77、
シュミット大尉(マクデブルク防衛軍将校)263、
書記ファブリチウス(不明) 103、
諸侯(神聖ローマ帝国内の領地を持つ貴族)40、40、40、61、66、163、163、208、207、208、209、209、209、214、248、248、252、
司令官(パッペンハイム)263、
神聖羅馬皇帝(皇帝フェルディナント二世) 118、
神聖羅馬皇帝フェルデェナント(神聖ローマ皇帝、在位:1556年 - 1564年)26、
瑞典の軍使フォン・ファルケンベルク 229、
瑞典の使節() 221、
西班牙(スペインの)王フェルディナント2世(1619-1637)79、147、
西班牙(スペインの)将軍スピノラ()170、
世襲公ルードルフ〔二世〕(1576 - 1612:
ルドルフ2世)42、42、44、44、44、44、45、48、49、50、50、51、52、53、57、58、58、58、58、59、59、59、59、59、59、59、59、59、59、59、60、60、60、60、60、60、61、61、61、61、62、62、62、62、62、62、62、62、63、63、63、66、66、67、69、69、70、70、75、75、75、76、76、76、77、77、77、79、86、86、86、86、88、89、89、89、89、90、92、92、92、92、97、97、98、98、99、106、111、116、119、119、120、120、121、131
ゼーデルマンラント公カール(当時スウェーデンでは新教ルター派が広まっていたが、ポーランドはカトリック国であり、シギスムンドはスウェーデンをカトリックに戻すことを図った。このため弟カールらスウェーデン側はシギスムンドに対する反感を強め、シギスムンドがポーランドに戻ると反乱を起こした。シギスムンドはポーランド軍を率いて反乱討伐に再来したが敗退し、カール(カール9世)がスウェーデン王に即位した。)155、156、
ゼニと称する星学者 215、
前記の二冒険家(ブラウンシュヴァイク公クリスチアーンと猛将マンスフェルト伯爵エルンスト)190、
前者〔フランス〕254、
選挙侯 (氏名不詳)211、212、237、
選挙侯フリードリッヒ三世() 72、
選挙侯フリードリッヒ四世() 72、72、73、74、
僧正〔司教〕メルヒオール・クレスル()92、
西班牙(スペイン)の許嫁〔マドリードの公女〕153、153、
西班牙(スペイン)王女(名前不詳)174、
その子(チャールズ1世) 174、
大英国王 122、
太公カール(皇帝マクシミリアン二世の末子)112、112、
太公〔皇帝〕マチーアス(神聖ローマ皇帝・在位:1612年 -
1619年)49、49、49、49、49、50、50、50、50、50、50、51、51、53、54、54、54、54、54、54、54、54、55、55、55、55、57、58、58、58、59、59、60、64、76、89、89、89、89、90、90、90、90、90、90、90、91、91、91、92、92、92、92、92、92、92、92、93、93、93、93、93、93、93、94、94、94、94、95、95、95、95、95、95、95、95、97、97、99、100、100、100、101、101、101、101、102、104、105、105、105、105、105、105、105、105、105、106、106、106、106、106、107、107、107、107、107、107、107、108、108、109、110、111、111、111、111、111、111、114、115、120、121、139、
代官シュテンベルク (プラーク城代官)103、103、
代官マルティニッツ (プラーク城代官)103、103、103、103、
代官ロープコヴィッチ (プラーク城代官)103、103、
代官スラヴァータ (プラーク城代官)103、103、103、103、
大審判長スラヴェータ(皇帝の代官)102、
ダムピエール伯(ベーメンの伯爵)107、108、166、
ダルムシュタット方伯ゲオルグ(ゲオルク2世〔Georg II., 1605年3月17日 -
1661年6月11日〕は、ヘッセン=ダルムシュタット方伯〔在位:1626年 -
1661年〕。ルートヴィヒ5世とその妃であったブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの娘マグダレーナ〔1582年 ? 1616年〕の息子。)143、
男爵マルティニッツ(中央ボヘミア地方のカールシュタイン城主)102、
チャールス一世(チャールズ1世〔Charles I, 1600年11月19日 -
1649年1月30日〕は、イングランド、スコットランド、アイルランドの王〔在位:1625年 -
1649年〕。1642年1月、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗。ついに議会派と王党派の内戦が勃発した〔イングランド内戦、ピューリタン革命〕。) 174、
寵臣バッキンガム(バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ〔George Villiers, 1st Duke of Buckingham, 1592年8月28日
- 1628年8月23日〕は、イングランド王ジェームズ1世とチャールズ1世の2代にわたって仕えた寵臣。)153、
父方の親族(スペイン皇帝フェリペ3世(1598-1621)か?)111、
ツヰングリ(ツヴィングリ=スイスの宗教改革者)35、
ツルン伯ハインリッヒ・マチーアス(不明) 233、
嗣子マクシミーリアン二世(在位1564-1576) 40、94、
ツヴァイブリュッケン宮中伯(プファルツ選帝侯家〔ツヴァイブリュッケン家/ノイブルク家/ズルツバハ家〕 −
≪ツヴァイブリュッケン家≫「宮中伯」について、宗教改革においてライン宮中伯はカルヴァン派を支持、1608年にはプロテスタント諸侯を糾合して新教連合を結成、1619年にはカトリックのハプスブルク家の支配を嫌うプロテスタントのボヘミア貴族からライン宮中伯フリードリヒ5世がボヘミア王に選出された。これが三十年戦争の始まりである。しかしフリードリヒ5世は1620年に白山の戦いで敗れ、母の実家のあるオランダに亡命した。)76、
ティーフェンバッハ将軍(ザクセン軍)285、
ティリー伯ヨハン・セルクラエス(バイエルンの将軍ティリー〔Johann t'Serclaes Graf von Tilly, 1559年 -
1632年4月30日〕は、ブラバント出身の将軍、傭兵隊長。三十年戦争ではバイエルン軍を率い、カトリック連盟の総司令官として、戦争序盤の主導権を握った。敬虔なカトリック信徒で「甲冑をまとった修道士」と呼ばれた。リュティヒの貴族)164、166、167、167、167、169、175、175、175、175、175、177、179、180、182、182、182、182、182、182、183、184、184、184、185、185、185、185、186、188、188、188、188、193、200、219、219、239、239、243、244、244、244、244、244、244、244、244、244、245、245、245、246、246、246、246、246、246、246、246、247、247、254、258、258、258、258、258、258、260、260、260、260、260、261、262、262、264、264、264、264、264、265、265、266、267、268、271、271、271、272、272、273、273、273、274、274、276、277、277、277、277、277、277、277、278、279、279、279、279、280、280、281、281、281、281、282、282、284、284、284、285、286、286、288、288、288、289、289、289、289、289、290、291、292、292、292、292、
293、293、293、293、293、293、293、293、293、293、294、294、295、295、295、296、296、
デートリッヒ・フォン・ファルケンベルク(瑞典王に派遣された将軍)257、257、258、260、
丁抹(デンマーク)王クリスチアーン四世(ホルシュタイン公として低ザクセンの国会議員であった。) 177、178、178、178、178、178、179、179、182、184、184、184、185、185、185、186、186、186、186、188、188、188、189、196、197、197、198、198、198、199、199、
199、199、199、199、200、220、229、236、244、
トイフェル(瑞典軍大佐)233、287、
トゥルン伯爵(オーストリア貴族のトゥルン伯爵・ハインリッヒ・マチーアス・信仰擁護者)56、98、99、99、99、99、99、99、101、101、101、101、102、104、106、108、117、137、166、184、185、
トット(瑞典軍将軍)233、277、
トルクワート・コンティ将軍(皇帝方)238、239、239、240、240、
獨逸皇帝(神聖ローマ皇帝フェルディナント二世を蔑んで)231、
獨逸国会議員 254、
内親王イサベラ(スペイン王室?)43、
二大競争者(皇帝フェルディナント二世と瑞典王)255、
ネヴェル公シャルル(ナバラ王国(ナバーラ王国、ナヴァール王国とも、スペイン語:Reino de Navarra, フランス語:Royaume de
Navarre, バスク語:Nafarroako Erresuma)は、中世のイベリア半島北東部パンプローナより興った王国。)210、
熱烈な愛情の長子(グスタフ・アードルフの娘、クリスティーナ女王)157、
ノイブルク公子 96、96、96、
ノイブルク宮中伯(フリードリヒ2世)74、76、77、96、96、
ハインリヒ4世ヴェッティン(1539年 - 1541年) モーリッツ〔1541年 - 1547年〕 - 1547年から選帝侯 )77、77、77、78、
ハープスブルク王族(ハプスブルク家はスイス東北部のライン川上流域に出自を持つ。ハビヒツブルグ(鷹の城)古城が現存。この「ハビヒツブルグ」が訛って「ハプスブルク」になったと考えられている。1273年にハプスブルク伯ルドルフがドイツ王〔皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主〕に選出されて世に出た。ルドルフ1世は、1278年ボヘミア王オタカル2世をマルヒフェルトに破り、1282年にオタカル2世の所領であったオーストリアを息子に与え、ドイツの東南地方に勢力を広げる。これ以降、ハプスブルク家は徐々にスイスの領土を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。1308年にルドルフの子アルブレヒト1世が暗殺されてから一度ドイツ王位〔帝位〕を失うが、オーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世がオーストリア大公を自称した)145、
ハプスブルグ家(現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得) 49、82、
ハミルトン侯(イングランド将軍)276、
ハルベルシュタットの代官(ザクセン選挙侯ヨーハン・ゲオルグ侯の部下・) 168、168、183、
匈牙利〔ハンガリー〕王フェルデナンド一世() 40、41、209、
匈牙利〔ハンガリー〕王フェルデナンド三世(フェルディナント3世(Ferdinand III., 1608年7月13日 -
1657年4月2日)は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位:1637年 - 1657年)、ハンガリー王(在位:1625年 -
1657年)、ボヘミア王(在位:1627年 - 1646年)。フェルディナント2世と最初の妃マリア・アンナ・フォン・バイエルンの子。)210、213、219、
ハンス・デル・プホルタ(ザクセン軍)284、
ハンニバル(紀元前247年 - 紀元前183年または紀元前182年)は、カルタゴの将軍) 80、
バイエルンの王女 96、
バイエルンのヴィルヘルム公(ヴィルヘルム5世〔Wilhelm V., 1548年9月29日 - 1626年2月7日〕はバイエルン公〔在位:1579年 -
1597年〕。アルブレヒト5世の子。)112、
バイエルンの太公リュッティヒ僧正〔司教〕 66、
バイエルンのマクシミーリアン公(マクシミリアン1世(Maximilian I, 1573年4月17日 - 1651年9月27日、はバイエルン公、在位:1597年
- 1651年、後に選帝侯、在位:1623年 -
1651年。バイエルン公ヴィルヘルム5世とロレーヌ公フランソワ1世の娘レナータの長男。) 70、70、71、85、85、85、120、122、127、128、128、129、129、129、129、132、133、133、133、133、134、134、134、136、145、146、146、146、160、160、160、161、162、164、171、189、207、207、207、207、207、207、208、208、209、210、212、214、219、244、244、
バウディッシン(不明)233、
パッサウの僧正〔司教〕太公レーオポルト(パッサウはバイエルン州の都市である。ミュンヘンから電車で2時間強、オーストリア、チェコとの国境に接する。ドナウ川〔Donau〕、イン川〔Inn〕、イルツ川〔Ilz〕の3つの河川がこの地で合流することから、「ドライフリュッセシュタット〔Dreiflussestadt:3河川の街〕」の異名を取る。) 58、58、77、
バーデン邊疆伯ゲオルク・フリードリッヒ(特定できず)74、167、167、167、167、167、167、171、244、
バトリ(トルコ貴族)48、
バネール将軍(瑞典軍)233、290、
バルトロメーウス(バーソロミュー・バルトロミュー=1572年8月24日夜、摂政カトリーヌ・ド・メディチとギーズ公(duc de
Guise:旧教側の貴族)が行った殺戮。)22、22、107、
パッペンハイム伯(皇帝軍の将) 242、257、258、261、262、276、276、286、286、286、287、288、289、290、290、290、292、
閣僚中の裏切り者(ザクセン侯国の)283、
ファルケンベルク(ベルリン市内のトレプトウ地区に関係する人物か)233、262、
妃(英蘭王ゼームスの娘・エリザベス・ステュアート・ファルツ選挙侯フリードリッヒ五世の妻)124、124、124、124、
ファルツ家(プファルツ=ノイブルク公 〔Herzog von Pfalz-Neuburg〕
は、1505年に創設され1808年まで継承された、神聖ローマ帝国の領邦君主の称号である。歴代の公は、帝国内の有力諸侯のひとりであった。ファルツ=プファルツ) 67、132、143、
ファルツ選挙侯フリードリッヒ五世(英蘭王ゼームスの娘・エリザベス・ステュアートと結婚。ベーメン王)74、122、122、122、122、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、123、124、124、124、124、125、125、127、127、127、128、130、130、130、130、130、130、130、130、130、131、131、131、131、131、133、134、135、136、136、136、136、136、136、136、136、136、137、137、137、143、143、153、153、162、162、162、162、162、163、163、163、165、165、165、165、165、165、165、165、166、167、167、167、168、169、169、169、169、169、169、170、171、171、171、171、171、173、173、173、174、179、199、199、201、207、
214、
ファルツ伯令嬢(エリーザベト・フォン・ベーメン(1618年 - 1680年) デカルトとの書簡のやりとりで知られるか?)170、170、
フィリップ二世(フェリペ2世(Felipe II, 1527年5月21日 -
1598年9月13日)は、ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国〔=スペイン〕の国王。1580年からはフィリペ1世(Filipe
I)としてポルトガル国王も兼ねた。スペイン帝国最盛期の国王で、絶対主義の代表的君主の1人とされている。) 12、12、18、19、40、49、
フィリップ三世(スペイン国王・1598-1621)146、147、
フィリップ四世(スペイン国王・1621-1665)146、
フェルデナントー世(神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント1世〔1558-1564〕) 19、19、28、69、
フェルデナンド二世(神聖ローマ帝国皇帝〔1619-1637〕)42、45、46、46、48、69、91、112、112、
フェルデナンド三世(神聖ローマ帝国皇帝〔1637-1657〕) 69、
フェルデナンド・フォン・グラーツ(ベーメン王位継承者・皇帝フェルデナンド二世)97、97、97、100、
フッゲル伯(皇帝軍将校)278、279、
フュルステンベルク(ブラウンシュヴァイク公爵皇帝軍将軍)279、288、
フルステンベルク伯(フュルステンベルク〔現、ブランデンブルク州アイゼンヒュッテンシュタットの一市区〕を創設した。)271、
ブクォア伯(ニーデルラント人・将軍) 107、108、119、126、133、166、166、
ブラウンシュヴァイク侯(ブラウンシュヴァイクは今日ニーダーザクセン州となっている地域はドイツ帝国時代〔1871年-1918年〕には今日の州域は、プロイセン王国のハノーファー州、オルデンブルク大公国、ブラウンシュヴァイク公国の主要部、シャウンブルク=リッペ侯国に分かれていた。それに宗教改革時代からの反映が現れていると考えられる。現在は独立市としてブラウンシュヴァイク市が存在する。ブラウンシュヴァイク〔Braunschweig〕はドイツの都市。ニーダーザクセン州の代表的都市であり、約24万5千人ほどの人口を有する。これは、同州においては州都ハノーファーにつづく規模にあたる。「Brunoの村」の意味。)75、
ブラウンシュヴァイク公クリスチアーン(匪賊) 168、169、169、170、170、171、175、175、175、175、
178、187、189、200、203、236、244、
フランツ・カール・ザクセン=ラウエンブルク公(フランツ・カール Franz Karl 生没年:1594-1660
父:ラウエンブルク公フランツ2世 ラウエンブルク公 妻:アグネス〔父:ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ゲオルク〕
妻:カタリーネ〔父:ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムント〕 妻:クリスティーネ・エリーザベト )242、
ブランデンブルク公女(氏名不詳) 96、
ブランデンブルク太公ヨーハン・ゲオルク(在位:1571年 - 1598年)68、69、
ブランデンブルク邊境伯(ブランデンブルク辺境領 〔Mark Brandenburg〕 は、辺境伯が選帝侯になったことで選帝侯領となる)74、
ブルガウ邊境伯(カール〔1560年 -
1627年〕ブルガウ辺境伯。従妹ジビーレ・フォン・クレーフェ〔ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルムと、フェルディナントの妹マリアの娘〕と結婚。嫡出子はなく、庶子3人。)77、
プラーエ伯の令嬢(ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントの娘マリア・エレオノーラ)157、
ブレーメン僧正(787年 - ブレーメン司教座がおかれる。個人名不詳) 271、271、
佛蘭西の或る領主(個人名不詳) 210、
佛蘭西の軍使(個人名不詳) 223、
フリートラント公(フリートラントはオランダ国内で、二番目に人口の少ない基礎自治体である。ワッデン海上にある西フリースラント諸島の一つ。)194、208、
ベーメン選挙侯(1526年にフェルディナント1世が王となり、1544年に世襲の王国とした。このため、以降ハプスブルク家に保有され(ただし三十年戦争およびオーストリア継承戦争の際に一時ハプスブルク家が王位から追われたことがある)141、
ヘッセン侯家(ヘッセン方伯は、1277年にカッセルに居を定め、1292年には帝国諸侯の地位を獲得する。その後、徐々に南方へ領土を拡張し、15世紀にダルムシュタットなどの都市を領土に加える。最盛期は、フィリップ寛大伯〔在位:
1509年-1567年〕の時代であった。彼は、ドイツの宗教改革において、プロテスタントを支持し、女婿のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒと共にシュマルカルデン同盟の指導者となり、皇帝カール5世と戦った〔シュマルカルデン戦争〕。フィリップの死後、領土は遺言に従い4人の息子に分割相続され、ヘッセン=カッセル、ヘッセン=マールブルク、ヘッセン=ラインフェルス、ヘッセン=ダルムシュタットの4つに分かれた。ラインフェルスは1583年に断絶しカッセルに併合され、マールブルクは1604年に断絶し、この領土をめぐりカッセルとダルムシュタットの間で論争と武力衝突がおき、1627年に分割によって一応の解決を見た。しかし、三十年戦争の終盤において再びこの領土をめぐり、皇帝側についたダルムシュタットと、スウェーデンおよびフランス側についたカッセルとの間で戦争となった。このヘッセン戦争〔1645年-1648年〕で、兵士のみならず一般市民にも多くの犠牲者を出し、人口が激減した。) 143、
ペーテル・エルンスト・マンスフェルト(猛将マンスフェルト伯爵エルンストの息子)109、110、110、110、136、
ベトレン(トルコ貴族)48、
ペトルス(ペトルス・ダミアニ(伊:Pier Damiani、羅:Petrus Damianus、英:Peter Damian、1007年 -
1072年2月21日)はイタリアの神学者。ベネディクト派修道会士で、11世紀にグレゴリウス7世とともに教会改革を推進した。)149、
ヘンリエッテ(特定できず) 174、
ホーエンローエ(ドイツ・フランケン地方を治めた貴族一門。ホーエンローエ=ノイエンシュタイン家はプロテスタント、)135、
冒険好きな息子(次男のチャールズ一世、Charles I, 1600年11月19日 -
1649年1月30日は、イングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1625年 - 1649年))153、153、154、
法王ウルバン八世(ウルバヌス8世〔Urbanus V,1568年4月-
1644年7月29日〕はローマ教皇〔在位,1623年8月6日-1644年7月29日〕。本名、マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ〔Maffeo
Vincenzo Barberini〕
。三十年戦争を通じて見せた聖職者というよりは政治家・統治者としての姿、学問と芸術の庇護、目に余るネポティズム〔親族登用主義〕などさまざまな意味で最後の中世的教皇であった。彼の時代にガリレオ・ガリレイの裁判がおこなわれたことでも有名。)
210、
法王(パウルス5世 〔1605-1621〕
ローマでは、教皇はサン・ピエトロ大聖堂の建造を急がせ、ヴァティカン図書館を充実させた。また、ローマの街に多くの噴水を築き、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂にボルゲーゼ礼拝堂を造らせている。彼は彫刻家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニや画家グイド・レーニのパトロンでもあった。そのほかの教皇の事跡としてカルロ・ボロメオの列聖や、フランシスコ・ザビエル、イグナチオ・デ・ロヨラの列福などがあげられるが、彼も時代の制約を免れえず、親族を盛んに教皇庁に登用した。特に枢機卿にあげた甥のスキピオ・ボルゲーゼが権力をほしいままにし、ボルゲーゼ家の台頭をすすめた。日本人との関わりについてみると、1615年に慶長遣欧使節の支倉常長が彼に謁見している。)148、153、153、153、153、
ホエ・フォン・ホエネック博士(ザクセンの宮廷説教師)251、
ボスカイ(トルコ貴族)48、48、
ポムメルン公ボギスラフ十四世(フォアポンメルンは、現ポーランド領に渡るポンメルンの西部である。ボギスラフ十四世は老弱の人)145、195、234、234、234、235、235、235、238、275、
北方の両国王(丁抹王・瑞典王)196、
マクシミーリアン一世(ハプスブルク家出身のオーストリア大公、神聖ローマ皇帝〔在位:1493年 - 1519年〕77、
マクシミーリアン二世(ハプスブルク家出身のオーストリア大公、神聖ローマ皇帝1564-1576マクシミリアン2世はプロテスタント派に宗教の自由を認め、同時にカトリックを改革しようとしたが、スペインの反対により失敗した。)41、42、45、46、48、49、52、53、53、54、55、55、55、55、55、55、56、56、56、56、56、56、57、57、57、147、
猛将マンスフェルト伯爵エルンスト(傭兵隊長のマンスフェルトをボヘミアに派遣、)109、109、119、135、145、163、163、163、163、163、163、164、164、164、164、165、165、165、166、166、167、167、167、168、169、169、170、170、170、171、175、175、183、183、183、183、184、184、186、186、186、186、187、187、187、187、189、189、189、200、236、244、
勇猛なる宰相オクセンシェルナ(アクセル・グスタフソン・オクセンシェルナ〔Axel Gustafsson Oxenstierna, 1585年6月16日 -
1654年8月28日〕伯爵は、スウェーデンの宰相、政治家、軍人。スウェーデン・ヴァーサ朝のグスタフ2世アドルフとその娘クリスティーナに仕えた名宰相。三十年戦争を戦い抜き、スウェーデンの大国時代を作り上げた人物といえる。)228、230、
マティアスの後継者(フェルディナント2世〔1619-1637〕)111、
マドリードの公使ケヴェンヒルレル(スペイン国王フェリペ3世〔1598-1621〕の公使。)129、
マドリードの公女(フェリペ四世の娘第一王女第一王女 アナ〔フランス王妃〕〔1601.9.21〜1666.1.20〕か?)153、
マリア・エレオノーラ(マリア・エレオノーラ・フォン・ブランデンブルク〔Maria Eleonora von Brandenburg, 1599年11月11日 -
1655年3月28日〕は、スウェーデン王グスタフ2世アドルフの王妃。ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントと妃アンナ・アマーリエ・フォン・プロイセン=ユーリヒ=クレーフェ=ベルクの娘。兄は選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルム。)276、
マルデブルクの代官(ザクセン選帝侯の臣・氏名不詳)178、
マントゥア公(ネヴェル公シャルル?)211、
マンハイム(マンハイム〔Mannheim〕は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州に属す郡独立市。三十年戦争をマンハイムはプロテスタント同盟側で戦い、1622年に兵力による破壊を受けた。) 171、
ミラノの領主(フィリップ4世) 210、
ムートゼンファール(履歴不詳)233、
メクレンブルク公(アドルフ・フリードリヒ1世 Adolf Friedrich I 生没年:1588-1658
) 178、198、214、
メクレンブルク諸侯(氏名不詳) 199、241、242、
モーリッツ(モーリッツ〔Moritz, 1521年3月21日 - 1553年7月9日〕は、ザクセン選帝侯〔在位:1547年 -
1553年〕。シュマルカルデン戦争で皇帝カール5世に味方し、選帝侯の位を授かった。戦争に勝利したカール5世はアウグスブルクに帝国諸侯、都市代表者を集め、ルター派を異端とする暫定規定の受諾を迫った。この時、マクデブルクだけが規定の受諾を拒否したため、カール5世はモーリッツを派遣して同市を包囲させた。しかし、自身プロテスタントだったモーリッツは、カール5世のやり方が許容できなかった。)141、
ユーリヒ侯ヨーハン・ヴィルヘルム(11世紀からのユーリヒ王家)76、
ヨーハン・アウグスト(ザクセン選挙侯の二男)255、
ヨハン・ヴィルヘルム(1566年 - 1572年、 1572年に所領分割 )77、
ヨーハン(グスタフの第二子、第二の後継者・ヨハン3世〔Johan III、1537年12月20日 -
1592年11月27日〕は、スウェーデン・ヴァーサ王朝第3代国王(在位:1568年 - 1592年)及びフィンランド大公〔在位:1581年 -
1592年〕。グスタフ1世と2度目の王妃マルガレータの長男。)155、
ヨーハン・ゲオルグ侯(ヨハン・ゲオルク1世〔Johann Georg I, 1585年3月5日 ドレスデン - 1656年10月8日
ドレスデン〕はザクセン選帝侯〔在位:1611年 -
1656年〕。選帝侯クリスティアン1世の次男、クリスティアン2世の弟。兄に子がなかったので選帝侯位を継承した。
)141、142、142、142、142、142、142、142、142、142、143、172、173、173、173、173、
ヨハーン・フリードリッヒ侯(ヴルテンベルク侯。1503年6月30日 - 1554年3月3日、はザクセン選帝侯〔在位:1532年 -
1547年〕。マルティン・ルターと友好関係にあり、シュマルカルデン同盟の盟主となった。ザクセン選帝侯ヨハンの長男。)74、130、130、134、143、143、144、144、144、144、144、144、144、203、248、248、249、249、249、249、249、250、250、250、250、253、254、254、255、270、270、270、270、272、279、279、279、279、280、280、280、280、280、280、281、281、281、281、281、281、282、282、282、282、282、283、283、284、285、285、285、285、285、287、289、293、293、293、293、294、295、297、
ヨハン・ゲオルク2世(Johann Georg II., 1613年6月10日 - 1680年8月22日は、ザクセン選帝侯〔在位:1656年 -
1680年〕。ヨハン・ゲオルク1世の次男。1613年6月10日、ヨハン・ゲオルク1世とその2人目の妃であったプロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの娘マグダレーネ・ジビッレ〔1586年
- 1659年〕の間に第4子としてドレスデンで生まれた。)204、248、283、
ヨハーン・フス(ベーメン〔ボヘミヤ=チェコ〕の宗教改革者)51、51、
ライプチッヒ協定の諸侯(ライン宮中侯・ザクセン公・ブランデンブルグ辺境伯)253、253、253、254、254、254、
ライプチッヒ同盟の諸侯(ライン宮中侯・ザクセン公・ブランデンブルグ辺境伯) 272、
ライン河の彼岸の宗旨仲間(新教徒)151、
ライン伯オットー・ルードヴィッヒ(ライン宮中伯オットー・ハインリヒ 〔プファルツ選帝侯〕?)233、
ラコッシ(トルコ貴族)48、
リシュリュー(枢機卿およびリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシ(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de
Richelieu, 1585年9月9日 -
1642年12月4日)は、カトリック教会の聖職者にしてフランス王国の政治家。1624年から死去するまでルイ13世の宰相を務めた。)81、150、151、174、174、211、212、213、213、222、222、223、223、252、
リューネブルク侯(リューネブルク〔Luneburg〕は、ドイツのニーダーザクセン州の中心都市。ハンブルクの南東50kmくらいに位置する。侯の氏名は不詳)75、75、75、
両侯(将軍トットとアドルフ・フリードリッヒ?)278、278、
両国王(丁抹王・瑞典王)196、
領主(ヘッセン方伯)274、
ルイ13世(フランス国王、ルイ13世、治世1610年 - 1643年、激越な未成年の王 )150、150、150、151、174、
210、213、223、251、
ルイ13世の母(国王シャルル9世の妹でもあるマルグリット・ド・ヴァロワ) 150、
レオポルト・ヴィルヘルム(1614年 - 1662年皇帝フェルディナント二世の子、スペイン領ネーデルラント総督)255、
ルーテル(マルティン・ルター)17、25、33、51、51、72、
ルードヴィッヒ(プファルツ選挙侯国王、在位:1508年 - 1544年)72、72、
レーオポルト大公(レオポルト5世(Leopold V., 1586年10月9日 -
1632年9月13日)は、オーストリア大公(前方オーストリア(Vorderosterreich)大公)。内オーストリア大公カール2世の息子で、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の弟。?)87、109、
レーゲンスブルクの会議の諸侯(各クライスの成員一覧 5.1 バイエルン・5.2 シュヴァーベン・ 5.3 オーバーライン・ 5.4 ヴェストファーレン・ 5.5
フランケン・ 5.6 ニーダーザクセン・ 5.7 ブルグント・ 5.8 オーストリア・ 5.9 オーバーザクセン・ 5.10 クールライン
) 241、242、242、242、242、
露西亜〔ロシア〕皇帝〔ツアール〕(ミハイル〔1613年 - 1645年)〕)157、276、
ロートリンゲンの太公メッツ僧正(シュトラウスブルク司兼修道院長に)68、68、69、69、
羅馬法王(ローマ法王)15、211、
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地名索引
アイデル(デンマークの川)24、
アイスフェルト(アイスフェルトはテューリンゲン州) 185、
アイレンベルク(ザクセン州、ライプチヒの都市の約 20キロ北東にNordsachsenの地域にある 町。)290、
アウハウゼン(バイエルン州シュヴァーベン行政管区のドナウ=リース郡)74、
アウグスブルク(バイエルン州に属する。中世から近世初期にかけては「黄金のアウクスブルク」とも称された古都。紀元前15年頃、ローマ皇帝アウグストゥスによって設けられたアウグスタ・ヴィンテリコールムと称される植民市がその起源である。中世においては、フッガー家の拠点となり、周辺で採掘される銀や銅がもたらした莫大な富を背景に発展した。宗教改革に入ると、この街で1530年にアウクスブルクの信仰告白、1548年にアウクスブルク仮信条協定、1555年には
アウクスブルク宗教平和令 (アウクスブルクの宗教の和議などとも称される)が定められた。)206、206、
アドリア海(イタリア半島とバルカン半島に挟まれた海である。)148、194、
アーヘン(ノルトライン=ヴェストファーレン州に属する。カトリックの帝国都市=古代ローマ帝国の時代から知られており、ローマ人たちは、この地を温泉保養地として発展させて来た(アクアエ・グラニ)。)63、64、
亜米利加(アメリカ) 225、
アルプス(アルプスは、モンブランの他、マッターホルン、ユングフラウなどの高峰を有し、最高部は氷河に覆われる交通の難所である。)148、210、
アントワープ(ベルギーの都市。フランデレン地域のアントウェルペン州の州都でベルギー第2の都市。)147、
アンハルト(ザクセン=アンハルト州のアンハルト=ツェルプスト郡に当たる地域)145、
イェルザーレム(エルサレム) 117、
英国(イギリス)147、152、
英蘭(イングランド)12、23、67、78、82、140、152、177、178、178、179、186、188、245、
インゴールシュタット(ドイツ・バイエルン州の都市)112、113、128、
印度(インド)147、147、
伊太利(イタリア)17、17、17、17、17、18、83、107、140、174、 210、211、211、225、271、292、
伊太利共和国 82、
伊太利諸国(ミラモ公国、ナポリ王国、ヴェネツァ共和国、ジェノヴァ共和国、フレンチェ共和国等) 211、
維納(ウイーン・オーストリアの首都)46、91、92、92、102、113、117、118、118、118、118、119、119、126、126、126、126、126、126、126、159、179、237、237、237、275、290、294、294、295、
上ライン(バーゼルからヴィースバーデン当たりまでを言うのでしょうか) 295、
上ラインの僧正区〔司教区〕(特定できず) 168、
ウェストファーリエン(特定できず)168、184、184、
ウォリン(特定できず)233、
ウトラクヰスト〔ウトラクヴィスト〕派(特定できず)98、
ウーゼドム(Uznamウーズナム)はバルト海の島で、1000年ころから1945年までドイツ領〔スウェーデンなどの神聖ローマ帝国領邦を含む〕であったであったが、1945年のポツダム会議で島の東側がポーランドに割譲され、ドイツ人は追放された。ウーゼドム島はオーデル川河口のシュチェチン湾の北に位置している。) 234、235、
ウルム(帝国都市・バーデン=ヴュルテンベルク州に属する。世界で最も高い尖塔を有するウルム大聖堂、ルネ・デカルトが直交座標系を思いついた地、物理学者アルベルト・アインシュタインの出生地として知られる)75、132、271、
ヴァイセンベルク(ドイツ・バイエルン州 オーバーフランケン行政管区
クローナハ郡に属する町村〔以下、本項では便宜上「町」と記述する〕。クローナハの南東、連邦道B85のクルムバッハ方面に位置している。)135、
ヴァリス(スイス・ヴァレー州フランス語 Canton du Valais・ドイツ語 Kanton
Wallis)はスイス南部の州〔カントン〕。フランス語圏とドイツ語圏に跨っている州であるが、日本ではフランス語の名称の「ヴァレー州」が比較的多用される。しかしドイツ語の名称のヴァリス州が使われることも多い。)174、
上獨逸の帝国都市(特定できず) 145、
ヴァルトブルク(チューリンゲン州)64、
ヴァーレン村(特定できず)286、
ヴィスマール(ドイツ北部、バルト海に面した小都市である。1229年に都市権を獲得したと言われ、
1301年にメクレンブルクの領地となった。1259年、バルト海を横行する海賊から都市と船舶を守るためリューベック及びロストックと協定を結び、それが後にハンザ同盟へと発展した。)194、
ヴィッテンベルク(正式名称はルターシュタット・ヴィッテンベルク〔Lutherstadt
Wittenberg〕。ザクセン=アンハルト州に属する。宗教改革の立役者であるマルティン・ルターが神学部の大学教授として教鞭をとった地として有名である。)270、283、283、283、
ヴェストハーレン(ノルトライン=ヴェストファーレン州)67、67、
ヴェネチャ〔共和国〕(中世にはヴェネツィア共和国の首都として盛えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」などの別名をもつ。)125、83、132、140、147、148、148、174、177、181、187、210、
ヴェーゼル河(ヴェーザー川〔Weser〕は、ドイツを流れる川である。ヴェラ川とフルダ川がハン・ミュンデンで合流し、「ハーメルンの笛吹き男」の舞台として知られるハーメルンを経て、大都市ブレーメンを流れ、港湾都市ブレーマーハーフェンから北海へと注ぐ。)179、184、185、186、188、293、295、
ヴェラ河(ヴェーザー河の支流) 184、
ヴェルトリン(特定できず) 174、174、
ヴェルペン(エルベ河畔だが特定できず)277、278、
ヴュルツブルク(ドイツ連邦共和国バイエルン州ウンターフランケン行政管区の郡独立都市。ドイツ農民戦争では、マリエンベルク要塞が1525年5月に攻撃されたが、これは失敗に終わった。反乱を起こした農民達はヴュルツブルクの市門の前で手痛い敗北を喫した。旧マイン橋とマリエンベルク要塞の間の坂道の端に農民戦争記念碑が建てられており、農民反乱軍や彼らが12箇条で宣言した信条を思い起こさせる。)85、88、
ヴルテンベルク(ザクセンアンハルト州・ルターの95カ条で有名)74、
ヴォルミールシュテット(エルベ河のマルデブルク寄りの河畔?)277、277、279、
エルザス(フランス北東部に存在する地域圏。1648年 - 三十年戦争の結果、神聖ローマ帝国(ドイツ)からフランスに割譲される。
1870年 - 普仏戦争において、フランス敗北により隣接するロレーヌと併せてドイツに占領される。
1919年 - ヴェルサイユ条約によりフランスが占領する。
1940年 - 第二次世界大戦のフランス降伏により再びドイツに占領される。
1945年 - ドイツの降伏によりフランスに再度占領。以後フランス領土として現在に至る。)84、86、86、87、109、164、169、
エルザス=ツァーベルン(フランス領)68、68、
エルフスナッペン(スエーデンの港町?不明)233、
エルフルト(エアフルト〔Erfurt〕は、ドイツ中央部の町でテューリンゲン州の州都。人口20万。エルフルトとも表記される。宗教改革を行ったマルティン・ルターは、学生時代の1501年から1505年までエアフルト大学に在籍し、哲学を学んだ。彼が修道者を志したのは、エアフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で落雷の危機に会いながらも生還したことがきっかけであった。その意味でエアフルトは宗教改革の原点となった地とも言える。)273、
エルベ河(ポーランド、チェコ国境地帯のステーティ山地から起こり、その後チェコ北部、ドイツ東部を経て、ハンブルク付近で北海へと注ぐ国際河川である。エルベ以東の代表的な国がプロイセン王国、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア帝国。一方以西の国はフランス、イギリスなどでエルベを挟んで、地域の実情が大きく異なっていた。代表的なのが農奴の存在であるが、西では近世初期に農奴の解消が終わったのに対して、東では、19世紀初頭から中ごろまで農奴が存在した。) 183、186、186、188、188、246、258、258、266、270、270、276、276、277、277、284、
王国 (オーストリア貴族のトゥルン伯爵・ハインリッヒ・マチーアス・信仰擁護者領)101、
オーデル河(オーデル川〔オドラ川、独: Oder, 波:
Odra〕は中央ヨーロッパを流れる河川。チェコ共和国北東部のズデーテン山脈に源流を発し、ポーランド国内のシレジア〔シロンスク〕を北西に向けて流れた後、ポーランドとドイツの国境〔オーデル・ナイセ線〕沿いの延長187kmを北上する。ナイセ川・ヴァルタ川などの支流と合流した後、ポメラニア〔ポモージェ〕に入りシュチェチンの北にある潟湖〔シュチェチン湾〕へ入り、3つの川〔あるいは海峡〕に分かれてバルト海に注ぐ。)235、239、247、247、
オーデル河畔ガルツ(ザクセン州ドレスデン地区の町) 239、
オーデル河畔要衝グライフェンハーゲン(ザクセン州ドレスデン地区の要塞・場所特定できず)241、
オストゼー(東海=バルト海)13、
恐るべき共和国(ハンガリー) 105、
墺太利(オーストリア)〔上・下人・人民・軍〕13、16、16、17、17、17、19、20、20、20、20、21、21、24、24、24、24、26、43、44、45、45、46、46、47、47、47、47、48、48、49、50、50、51、51、55、57、57、57、60、67、73、73、76、76、78、78、78、78、79、79、79、79、80、80、80、81、81、81、82、82、82、83、83、83、84、84、86、86、86、89、90、90、91、91、91、92、92、93、96、109、112、114、116、116、117、118、118、118、120、120、120、123、123、123、125、126、126、127、130、130、131、133、133、134、134、141、143、143、145、146、146、148、151、152、153、158、158、166、166、169、171、172、172、174、174、177、181、182、201、204、211、222、235、236、249、249、253、282、294、296、
墺太利領チロール(特定できず)148、
墺太利領の心臓部(ウイーン) 184、
歐州(ヨーロッパ)20、40、82、83、91、150、152、222、236、252、
歐州大陸 79、
歐州諸侯 79、
歐州諸国 159、
歐州列強 81、
王城(プラハ城・プラーク=プラハ) 103、
オスナブリュック(ニーダーザクセン州に位置する代表的な都市である。780年頃、カール大帝が創設した司教座都市がその起源と考えられる。1643年から1648年にかけて、この都市とミュンスターで、三十年戦争の講和会議が行われ、ヴェストファーレン条約が成立している。)
184、
和蘭〔共和国・オランダ人・軍〕(ネーデルラント北部)23、24、67、78、83、96、96、96、97、124、131、137、140、147、151、151、165、169、170、170、170、170、171、174、177、179、183、229、
カッセル(ヘッセン州に属する。交通の要衝にあり、ヘッセン=カッセル方伯が拠点とし、選帝侯宮廷都市として栄えた。グリム童話集やドイツ語辞典で知られる言語学者グリム兄弟が長くこの地にとどまったことでも知られる。)143、
カミーン(不明)238、
カールシュタイン(Karlstejnの中央ボヘミア地方は、チェコ共和国〔ベーメン〕では市場の町です。 )99、102、
カーレンベルク侯国(1432年にブラウンシュヴァイク公国から分割されたカーレンベルク公国も、そうした領邦の一つであった。カーレンベルク公位は1584年に断絶によってヴォルフェンビュッテル公に継承されるが、1635年にカーレンベルク公国はゲッティンゲン公国とともに、再びヴォルフェンビュッテル公国から分割された。そして1636年に首都がパッテンセンからハノーファーに遷されたため、ハノーファー公国と呼ばれるようになった。)179、
貴国(ヘッセン)274、
貴国(ポムメルン公国)235、
ギュストロフ(メクレンブルク=フォアポンメルン州の中央に位置する部分)278、
北の海洋(バルト海)155、
舊教諸国(紳聖ローマ帝国内の) 129、
舊教聯合の諸国(紳聖ローマ帝国内の)184、 185、
キュストリーン(ブランデンブルク近郊の要塞) 243、268、268、275、
希臘羅馬〔ギリシャローマ〕226、226、
クルマウ(チェコ・南ボヘミア州の小さな都市。クルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られる。1601年、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の手に渡る)108、108、108、108、108、
クールラント(人口20万人のクールラント公国は当時ポーランド・リトアニア共和国に従属していた。公国の元首であるバルト・ドイツ人、ヤーコプ・ケトラー公爵はヨーロッパの商船団の中で最も大きな商船団を設立した人物である。彼は西ヨーロッパ旅行を通して熱心な商業思想を提唱するに至った。)159、
クロステルグラープ(ベーメンの首都プラークの大司教領)100、101、101、
皇帝の世襲地(ウイーン・墺太利領の心臓部)184、
クライン()112、113、
グライフスヴァルデ(メクレンブルク=フォアポンメルン州人口は約5万2千人〔2005年〕。ドイツ・ロマン主義の代表的な画家であるカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの出身地である。三十年戦争の結果スウェーデンに割譲されたが、19世紀初頭にプロイセンの支配下に入った。)241、276、276、
グラーツ(オーストリアの人口第2の都市で、シュタイアーマルク州の州都。人口は約24万人。郡に属さない憲章都市)117、
ゲッティンゲン(ニーダーザクセン州南部の都市である。啓蒙主義の影響を受けて創立され、多くの偉人を輩出してきたゲッティンゲン大学を擁する典型的な大学都市として知られる。大学図書館の手前で右手にグリム兄弟がここの大学教授だった当時住んでいた家がある。) 184、
グリュックシュタット(不明) 188、
ゲレスハイム(不明)64、
ケルンテン(ケルンテン州(独: Karnten)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。)112、113、
ケルン〔領〕(ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市。ローマからはキリスト教も早くから伝播した。ケルンには4世紀に司教座がおかれ、のち8世紀末には大司教座が置かれることとなる。ケルン大司教はサクソンやフランクの宮廷で王の助言者となった。ケルン大聖堂の完成の大きな要因はゲーテにより招来されたゴシック様式の見直し、いわゆるゴシック・リヴァイヴァルである。)66、67、68、68、88、
皇帝の世襲地〔オーストリア・ベーメン・シュレージェン・メーレン・ハンガリー等〕254、254、
ゴート〔人〕(ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の古民族。バルト海南部から黒海沿岸部に移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島やイベリア半島に王国を築いた。)232、
この君主国〔神聖ローマ帝国〕146、
是等の国(舊教聯合の諸国)184、
コリン(ベーメンの町?)53、
ゴトラント(ゴトランド島は、スウェーデン領に含まれているバルティック海?最大の島。スウェーデン領南部と、ラトヴィア領?の中間で、ややスウェーデン寄り(西寄り)に位置。島域は、スウェーデン王国の県にあたる行政区〔ゴトラント県?〕に区分されている。)227、
コルベルク(コウォブジェク/コロブジェク {ポーランドの都市} ...)241、243、246、246、
此の国(ヘッセン)274、
サヴォイ(南ヨーロッパの歴史上の地域名。現在はフランスのサヴォワ県とオート=サヴォワ県にあたる。)83、
サヴォイエン(1416年にはサヴォイア公国となるが、1563年には宮廷がシャンベリからトリノに遷都される=サヴォイア公国〔伊:Ducato di Savoia〕は、サルデーニャ王国の前身となった公国である。現在のイタリア北西部とフランス東部サヴォイア地方やニース、ジュネーヴ(現スイス)も含んだ。首都はサヴォイア伯領の頃からシャンベリ〔現フランス〕であったが、1563年にトリノに遷都された)122、132、148、174、
ザクセン(ドイツの州、当時は選帝侯国、ルターを支援したことある、・低)26、111、120、121、123、131、141、142、145、168、171、175、177、177、177、178、179、182、186、188、203、249、257、258、270、273、280、280、281、282、282、283、294、
ザクセン=エルネスト(エルネスト系とアルブレヒト系に勢力が分裂)272、
ジェノア(イタリア共和国北部の州。リグーリア州西部はフランス国境に位置し、南部は地中海に面する。州都はジェノヴァ。)147、
シシリー(シチリア〔伊:Sicilia〕は、シチリア島または、その周辺の島を合わせたイタリア共和国の特別自治州シチリア州〔Regione Siciliana〕の通称である。スペイン王国の成立後にはスペイン・ハプスブルク家によって支配された。)146、
下ファルツ(ライン川とザール川に挟まれた地域) 129、
選立君主国〔ヴァールライヒ〕91、
ジーベンビュルゲン(別名トランシルヴァニア〔Transylvania - ハンガリー語:エルデーィ Erdely]は、ルーマニア中部・北西部の歴史的地名)41、43、46、46、48、48、49、
83、93、96、96、116、123、137、165、181、221、
シェーネベック(マルデベルク近郊のエルベ川沿いの地名)258、
シュヴァーベン(バーデン=ヴュルテンベルク州の中・南部を中心として、バイエルン州南西部などを含む一帯を指す現在となってはやや漠然とした、歴史的な地方名称として残存している。) 69、69、70、271、
シュヴェット(ベルリンを流れるハーフェル河沿いのシュベット湖を持つ都市)246、247、
シュタイエルマルク(オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はグラーツ。15世紀から16世紀には20回にも及ぶオスマン帝国の攻撃に晒され、また同時期の対抗改革により領内のプロテスタントが追放されたため、シュタイアーマルクは著しく荒廃した。)112、112、113、115、115、
シュタルガルト(ポーランド北西部のポモージェ地方にある人口73,000人〔1995年〕の町である。イナ川沿いにあり、西ポモージェ県〔1999年から、1975年から1998年まではシュチェチン県〕のスタルガルト郡の郡都である。)238、
シュテティーン(ポーランド国境の街シュテティーン<シュチェチン>ポーランドの都市で、西ポモージェ県の県都。ドイツ名はシュテッティン〔Stettin〕。ポーランド北西部にあり、ドイツとの国境沿いに位置する。バルト海に面し、ポーランドではグダニスクに次ぐ第2の規模の港湾都市で機械工業などが盛んである。歴史的にプロイセンの影響下にあった時代が長い。)234、234、235、235、238、239、239、239、239、
シュトラウスブルク(ストラスブール=フランス領アルザスの首都)68、68、68、68、68、68、69、75、75、77、84、88、
シュトラウスブルク僧正〔司教〕区 68、
シュトラウスブルク僧正〔司教〕領(フランス、ストラスブルグ(Strasbourg). かつてはドイツ領という歴史を持つアルザス地方の中心都市。 )86、
シュトラールズント(ドイツの都市。メクレンブルク=フォアポンメルン州に属する。17世紀、三十年戦争〔1618〜48〕の講和条約であるヴェストファーレン条約によってスウェーデン領となった) 195、195、195、195、195、195、196、196、196、196、196、197、197、197、197、228、228、228、
シュパンダウ(シュパンダウ 〔Spandau〕
はベルリン特別市において最西部に位置する規模第5番目の行政地区であり、ハーフェル川とシュプレー川の合流点、ハーフェル川の西岸部に位置する。)269、270、274、274、275、
シュプレー河(ハーフェル川の支流。ザクセン州、ブランデンブルク州、ベルリンを流れる。)268、
壽府〔ジュネーヴ〕(ジュネーヴ〔仏:Geneve〕はスイス西部、レマン湖の南西岸に位置する都市。フランス語圏に属し、ジュネーヴ州の州都である。ジュネーヴの歴史は古く、ローマ時代までさかのぼる。その後、神聖ローマ帝国〔ハプスブルク家〕の支配を受けたが、1315年のモルガルテンの戦い等の独立運動の影響でハプスブルク家から離れ、1648年のヴェストファーレン条約によって正式に独立が認められた。近世にはプロテスタントの一派改革派の拠点となり、ジャン・カルヴァン〔ドイツ語読みではカルヴィン〕らによる共和政治が行われた。また、ジャン=ジャック・ルソーはこの街の出身。)23、35、
シュルデ(ベルギー領)13、
シュレージェン(ベーメン〔ボヘミヤ=チェコ〕とポーランドの間に存在した)59、116、124、125、134、137、162、163、183、184、186、186、247、
シュレスヴィッヒ(ドイツの最北端・シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州) 188、
シュワルツベルク領(ザクセン選挙侯領地での区分、・シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン侯国・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国〔以上シュヴァルツブルク家〕)272、
上部伊太利〔イタリア〕200、
瑞西〔スイス〕 130、174、
瑞典〔スエーデン〕(王国・人)12、24、24、24、52、124、131、154、154、155、155、155、155、157、158、158、158、159、188、195、195、195、198、198、199、208、214、220、221、224、224、228、228、228、229、230、230、230、230、235、236、236、237、238、241、242、245、249、249、249、250、250、252、252、252、254、255、273、278、292、
蘇克蘭〔スコットランド〕152、245、
シュトックホルム(スウェーデンの首都で、スウェーデン最大の都市であり、北欧を代表する世界都市。戦闘に備えて、島を囲むように丸太の柵が巡らされていた為に、「丸太の小島」と呼ばれるようになった。これはスウェーデン語で「ストックホルム」と言う。)231、270、
西班牙〔スペイン〕(人・兵・軍・家)11、11、11、17、17、17、17、17、17、17、18、19、19、19、22、38、40、40、43、43、43、56、63、67、78、79、80、82、82、83、83、91、95、96、96、97、109、110、112、114、115、116、120、120、121、131、132、140、146、147、147、147、147、147、148、148、151、152、153、153、158、158、162、162、164、164、164、165、170、170、171、174、179、194、209、210、212、225、244、
西班牙領ニーデルラント(南ネーデルラントは、スペインの支配下に留まる〔スペイン領ネーデルラント〕) 129、
西班牙領ミラノ(フランスのルイ12世がヴィスコンティ家出身の祖母を持つことで公位継承権を要求し攻めてくる。ミラノは占領と返還を何度か繰り返し、1535年から170年に及ぶスペインの統治下に置かれる。)148、
ズーデンベルク(マルデベルク近隣の町)258、
ズント海峡(バルト海に浮かぶデンマーク王国のシェラン島とスウェーデン王国に帰属する
スカンジナビア半島の海峡。バルト海と北海を結ぶ。) 177、
世襲領(神聖羅馬帝国領) 120、121、
セーヌ(フランス中央の川)24、
その港(シュトラールズントの港) 196、
大英国〔イギリス〕 225、
ダム(不明)238、
ダムベルク(不明)241、
ダルマーチェン(不明) 187、187、
ダルムシュタット(ヘッセン州南部の郡独立市。1567年にヘッセン方伯家が分裂し、ヘッセン=ダルムシュタット方伯家が創設され、この都市は宮廷所在地となり、新たな発展の時代を迎えた。しかし、三十年戦争が激化すると方伯は、防衛施設の脆弱なダルムシュタットを捨て、ギーセンに遷ってしまった。かつてダルムシュタットの繁栄を支えたベルクシュトラーセは、各国の軍隊の通り道となり、この街は何度も占領され、略奪を受け、飢餓に苛まれた。)143、
ダンチッヒ(自由都市ダンツィヒ〔独:Freie Stadt Danzig, 波:Wolne Miasto Gdansk, 英:Free City of
Danzig〕は、現在のグダニスク〔ドイツ名ダンツィヒ〕ポーランド王国の直接の庇護を得た16世紀と17世紀はグダニスクの貿易と文化にとってまさに「黄金時代」であった。市民はドイツ人が比較的多かったが、ポーランド人、ユダヤ人、オランダ人、も多数住んでいた。さらにスコットランド人難民もやってきて市民権を得た。有名な天文学者のヨハネス・ヘヴェリウスが業績を残したのもこの時代であるが、彼の父親はチェコ人移民でグダニスクでビール醸造業を営んでいた。これら多民族の住民が混住することにより、街は繁栄を極めた。宗教改革の時代には多くの市民がルーテル派〔主にドイツ系やポーランド系の中産階級〕やカルヴァン派〔主にオランダ系やスコットランド系の中産階級やポーランド人貴族〕を受け入れた。しかしカトリック教徒との深刻な対立はみられなかった。これは時代によって程度の違いこそあれ、ポーランド王国には一貫して民族・人種・宗派・宗教の違いを受け入れる寛容な風土があったからである。)237、238、
チューリヒ(スイス連邦の一州)35、
チューリンゲン(ドイツ中部に位置するテューリンゲン州は、ヘッセン州、バイエルン州、ザクセン州、ザクセン=アンハルト州、ニーダーザクセン州と州境を接している。16世紀、宗教改革においてテューリンゲンは重要な役割を演じた。マルティン・ルターはヴァルトブルク城で聖書のドイツ語訳を行い、1524年のドイツ農民戦争では最後の戦闘となるフランケンハウゼンの戦いの舞台となった。またシュマルカルデン同盟の主導者の一人ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ〔寛大公〕はテューリンゲンを領有しており、この地は反皇帝・親プロテスタントの牙城であった。ヨハン・フリードリヒ寛大公がミュールベルクの戦い〔1547年〕に敗れて選帝侯位を剥奪された後、エルンスト系ヴェッティン家では分割相続が繰り返された〔ザクセン諸公国〕。そのため政治的影響力は低下し、「テューリンゲン」という地名は単なる地域名称となっていった。)272、
チロール(スイス)117、
ツァラ(不明) 187、
ツェルプスト(不明)260、
帝国(神聖羅馬)120、
低ザクセン(ニーダーザクセン州 〔 ドイツ語 :Land Niedersachsen。 低ザクセン語 :Land Neddersassen〕 は、
ドイツ連邦共和国 を構成する16の 連邦州 のひとつで、ドイツ北西部に位置する。低地ザクセン州(ていちざくせんしゅう)とも訳される。州都は、 ハノーファー
。) 220、293、294、295、
デッサウ橋(クリスチャン4世はルター派として、ドイツ中央のテューリンゲンで軍事運動を開始中のエルンスト・フォン・マンスフェルトと同盟し、それから南に向かった。彼の行動は、一週間ほど前にデッサウ橋の戦いで敗北を喫していたドイツのプロテスタント勢力を力づけるものだった。)183、270、
デミーン(メクレンブルクの町西ポメラニア 、ドイツです。これは、デンミン地域の首都です 。 ハンザ都市でバルト海沿岸に接続する。
)241、243、246、246、246、
テューリンゲン(ザクセン公国に隣接する方伯領、現在は州)26、144、185、276、
丁抹〔デンマーク〕(デンマーク王国、通称デンマークは、バルト海と北海に挟まれたユトランド半島と、その周辺の多くの島々からなる、北欧諸国のひとつである。首都はシェラン島にあるコペンハーゲン。中世はカルマル同盟を築き大国として存在した。
1523年にスウェーデンがカルマル同盟を脱し独立。スウェーデンとの300年にわたる抗争が開始される。1626年にドイツ三十年戦争に介入、敗退し、衰退が始まる。そして、1645年のスウェーデンとの戦いで、完全にデンマークは小国へと転落した。17世紀初頭のスウェーデン・ロシア帝国間の大北方戦争においても、スウェーデンに敗れ、敗戦国扱いをされた。北方戦争に敗れたスウェーデンとともに、デンマークも同様に北欧の没落を体験した。)12、24、124、131、154、154、155、155、157、174、195、195、195、196、198、199、200、204、220、223、255、
獨逸〔ドイツ〕(人・軍・低、上部・全・国206、) 11、12、13、19、20、20、20、22、23、24、24、24、24、24、25、25、28、29、29、29、29、29、30、33、33、35、39、40、40、40、40、40、40、40、43、44、44、44、44、45、45、47、47、47、52、52、52、53、53、60、60、60、62、62、62、63、64、65、66、66、66、69、71、71、71、73、78、78、78、78、82、83、83、84、84、85、88、89、93、93、97、97、99、109、109、110、114、116、116、120、120、120、120、121、122、125、127、130、132、139、140、140、140、142、142、144、145、150、150、151、151、153、158、159、159、159、172、172、173、174、175、175、175、175、176、176、176、176、176、177、178、178、179、180、180、182、182、187、188、188、189、190、191、192、192、192、194、195、198、198、199、200、200、201、201、202、203、203、204、205、207、208、208、210、211、211、211、220、221、224、228、228、229、229、229、230、230、232、234、234、236、237、240、245、246、248、249、249、250、251、252、252、252、253、253、255、256、264、265、268、269、269、271、272、276、278、279、280、284、288、292、296、297、
獨逸系統 111、
獨逸の国々 225、
獨墺(ドイツ・オーストリア) 19、
ドォデルシュタット( ドゥデルスタット 南東部の低ザクセン州ではゲッティンゲン地域での都市です。 30年戦争と7年戦争で壊滅的に破壊された) 185、
トゥルンの陣営(トゥルン伯爵の領地)119、
ドーナウヴェールト(バイエルン州)69、74、75、132、
ドーナウ河(ドナウ河?) 126、
トリエント(現在のイタリア領トレント)39、
トリール(トリアー。ドイツ最古の都市。神聖ローマ帝国7選帝侯の一つ)88、
土耳古(トルコ)41、41、43、46、47、47、47、47、47、47、47、48、48、50、50、93、93、
98、116、125、130、141、181、
トルガウ( ザクセン州の北西部、ドイツではエルベ川の堤防の上での町で、これは、地域Nordsachsenの首都です。1523年の宗教改革では市民が大聖堂の聖人像を破壊し、フランシスコ修道院を襲撃。ルターの妻マリエンが葬られている
)283、284、
ドレスデン(ザクセン選挙侯領首都)78、
ナヴァラ(中世のイベリア半島北東部パンプローナより興った王国。824年バスク人の首領アリスタがパンプローナで王として選ばれフランク王国に対する反乱を率いたことによる。ナバラの名は、7世紀のスペインでの西ゴート族の時代が終わりを告げた頃から登場している。
)66、
ナポリ(イタリア南部・カンパニア州の州都)148、
ニーデルラント(ネーデルラント、「低い国」という意味。つまりネーデルランド〔オランダ〕です。)11、15、38、40、40、40、49、49、63、67、82、96、107、107、109、112、133、146、152、164、165、179、225、225、230、
ニーンベルク(ニュルンベルク) 179、、
ニュルンベルク(地元の南フランケン方言ではNamberchともいうは、ドイツ連邦共和国バイエルン州の郡独立市。帝国都市。三十年戦争の時代、ニュルンベルク周辺の地域は、長年続いた陣地戦の戦場となった。ニュルンベルク自体が征服されることはなかったものの、周辺地域の荒廃により交易が廃れ、経済的に次第に衰弱していった。)75、271
ノイシュタット(マルデベルク近隣の町)258、261、262、
ノイホイゼル(スロバキアの都市?)166、
ノイマルクのベールヴァルデ( ノイマルクはドイツ、 オーデル川の東側に位置するプロイセン州の領域だった
。1631/01/23,フランスが、スウェーデンとのベールヴァルデ協定を結んで軍事資金援助を約束する。 )252、
ノルドハイム() 184、
ハイデルベルク(ドイツ連邦共和国バーデンヴュルテンベルク州北西部に位置する都市。ライン川とネッカー川の合流点近くに位置する。ネッカー川及び旧市街を見下ろす高台にあるかつてのプファルツ選帝侯の宮廷であった城跡や、ドイツで最も古い大学ループレヒト=カールス大学で知られる)171、
ハプスブルグ系統 112、
ハプスブルグ世襲領(ハプスブルク家の所領とされたのは、現在のオーストリア、スロベニア、イタリア北部、ラインラント(1797年まで)である。ベーメン王国領
はベーメン(ボヘミア)、メーレン(モラヴィア)、シュレージエン(シレジア)、ラウジッツからなっていた。ハンガリー王国はモハーチの戦いの後、北西部の3分の1がハプスブルク家、東南部と中部の3分の2がオスマン帝国の支配下に入った(オスマン帝国領ハンガリー)83、
ハーヴェル渡河(ハーフェル川 〔Havel〕
は、ドイツを流れる川。メクレンブルク=フォアポンメルン州からブランデンブルク州、ベルリンを流れ下り、ザクセン=アンハルト州でエルベ川に合流する。) 186、188、277、
ハルベルシュタット( ザクセンアンハルト州ハルバーシュタット ) 168、183、203、203、292、
ハルベルシュタット僧正区() 203、293、
ハレ市(ハレ・アン・デア・ザーレ〔Halle an der
Saale〕、通称ハレは、ドイツのザクセン=アンハルト州の都市である。旧プロイセン王国領、旧東ドイツ領に属した。ハレは古ドイツ語で“塩”を意味する。ゆえにハレは古くから塩によって栄えてきた。中世においては、ハンザ同盟の加盟都市として繁栄した。)257、281、284、284、292、293、294、
匈牙利(ハンガリー=1526年には、モハーチの戦いに敗れ、国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年にブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国〔オスマン帝国領ハンガリー〕、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった)40、41、43、46、47、47、48、48、48、48、50、50、50、50、51、51、51、53、55、56、57、57、76、83、91、93、116、126、126、126、127、137、165、166、181、184、186、186、186、186、187、295、
ハンザ同盟都市(北欧 [編集]ヴィスビー、ストックホルム、トゥルク〔オーボ〕、ベルゲン、 ロシア
[編集]、カリーニングラード〔ケーニヒスベルク〕、スモレンスク、トヴェーリ、ノヴゴロド、プスコフ、 バルト海東岸
[編集]、ヴァルミエラ〔ヴォルマール〕、ヴィリャンディ〔フェリーン〕、ヴェンツピルス〔ヴィンダウ〕、カウナス〔カウエン〕、クライペダ〔メーメルブルク〕、クルディーガ〔ゴールディンゲン〕、タリン、タルトゥ〔ドルパート〕、ツェーシス〔ヴェンデン〕、ナルヴァ、ペルヌ〔パルヌ、ペルナウ〕、〔リガ、
ポーランド [編集]、ヴロツワフ、エルブロンク〔エルビング〕、グダニスク〔ダンツィヒ〕、クラクフ 、シュチェチン、トルン、ヘウムノ〔クルム〕、 ドイツ
[編集]、ヴィスマール、エッセン 、オスナブリュック、カルマール、キール、グライフスヴァルト、ゲッティンゲン、ケルン
、ゴスラー、シュトラルズント、デュースブルク、デュッセルドルフ、ドルトムント、
ハノーファー 、ハレ、ハンブルク、ヒルデスハイム、ブクステフーデ、ブラウンシュヴァイク
、ブランデンブルク、フランクフルト・アン・デア・オーダー、ブレーメン、マグデブルク 、ミュンスター、ミンデン、リューネブルク、リューベック、ロストック、
低地地方 [編集]、ズヴォレ、ネイメーヘ〔ナイメーヘン〕、ブルッヘ〔ブリュージュ〕、フローニンヘ〔フローニンゲン〕、) 194、195、225、
ハンブルク市(ハンブルク(ドイツ語:Hamburg。
低ザクセン語:Hamborg〔Hamborch〕漢字:漢堡)は、ドイツの北西部に位置する都市の一つ。正式には、自由ハンザ都市ハンブルク〔Freie und
Hansestadt Hamburg,
フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク〕と称する。1529年には宗教改革をうけいれ、ルター派やカルバン派、そしてユダヤ人の避難場所となった。しかし三十年戦争により、ハンブルクの商業は大きな打撃をこうむった。)229、
バイエルン(ドイツの州、当時公国・カトリック勢力圏)26、67、70、96、112、113、122、123、129、133、162、171、172、173、180、180、180、211、
パッサウの僧正区(ミュンヘンから電車で2時間強、オーストリア、チェコとの国境に接する)58、84、
バムベルク(バンベルク 〔Bamberg〕は、バイエルン州オーバーフランケン行政管区の郡独立市で、バンベルク郡の郡庁所在地。)88、
バルト海(北海・東海)24、177、178、194、194、195、195、196、196、198、198、288、
バーレーンベルク河畔のルッテル村(不明) 185、
東フリースラント(オランダ北部の州。州都はレーワルデン。東はフローニンゲン州と境界を接する。) 170、
ピレネー山脈(フランスとスペインの国境が走る褶曲山脈である) 83、
ピルゼン(ボヘミア内でプラハ、クトナー・ホラに次いで3番目に大きな町であった。フス戦争の間、町はフス派に抵抗するカトリック派抵抗勢力の牙城であった。)108、108、108、110、135、136、163、163、
ファルツ〔上・下〕(プファルツまたはファルツ〔ドイツ語:Pfalz〕は、ドイツのラインラント=プファルツ州の南部の一角を指す地域名。かつてのライン宮中伯〔プファルツ選帝侯〕の領邦で、) 141、162、163、164、164、164、164、165、165、167、167、179、
ファルツ諸州() 161、
ファルツ選挙侯国(1329年に、東バイエルンの「上プファルツ〔マイン川上流地域?〕」とともにヴィッテルスバッハ家が分家しバイエルン公領から独立した。1356年の金印勅書でライン・プファルツ伯は7選帝侯の1つとなった。1225年にハイデルベルクに首府をおいた(1720年まで)。 のち、三十年戦争で新教側についたため、全領土と選帝侯位を剥奪されたが、ウェストファリア条約で下プファルツ〔つまり本来のプファルツ〕を返還され、新設の選帝侯位を授与された。) 71、72、73、172、173、173、
ファルツ領〔プファルツ〕 130、133、153、201、
ファルツの領土(ファルツ選挙侯国に同じ) 207、
フィンラント(フィンランド共和国は、北ヨーロッパにある国家で北欧諸国のひとつ。首都はヘルシンキ。西にスウェーデン、北にノルウェー、東にロシアと隣接する。)227、245、
フリュルス(フランスのオランダ国境に近い処か?)170、
ブトヴァイス(南ボヘミア州最大の都市で、政治・商業の中心地。カトリック教会のチェスキー・ブジェヨヴィツェ大司教座が置かれている。)108、108、108、108、108、119、
フランクの僧正区(特定できず) 164、
フランクフルト(ヘッセン州 1372年にフランクフルトは自由都市となり、1530年ごろにはプ
ロテスタントの拠点のひとつとなった)119、121、127、243、246、247、247、247、254、255、
フランケン(ドイツ中〜南部に位置する地方の名称)74、271、273、295、297、
フランケンタール(フランケンタールは772年に造られ、1119年のアウグスティノ修道院が建立された。1600年要塞にされ、1621年から30年戦争中はスペイン軍に包囲され、また新教軍に占拠された。)164、171、
フランケンハウゼン(テューリンゲン州で、1524年のドイツ農民戦争では最後の戦闘となるフランケンハウゼンの戦いの舞台となった。)272、
佛蘭西〔人・軍・内閣〕(フランス)11、13、14、17、18、23、24、24、24、38、66、66、143、143、147、148、150、150、150、151、151、170、174、174、175、179、200、207、210、211、211、211、222、223、225、251、251、252、252、252、252、253、253、253、254、254、297、
フルダ河(ヴェーザー河の支流) 184、
ブライテンフェルト(ザクセン公国ライプツィヒ北方の小村ブライテンフェルト)279、
ブラウナウ (ベーメンの首都プラークの大司教領)100、101、
ブラウンシュヴァイク(ニーダーザクセン州の代表的都市で、中世においては、神聖ローマ皇帝と争ったハインリヒ獅子公の拠点であった。17世紀よりブラウンシュヴァイク公国の都となる) 179、184、185、185、294、
ブラバンド人(ベルギー・フランダース地方の住民?)49、83、
ブランデンブルク(アンスバッハ侯領、大僧正区〔Furstentum Ansbach〕、すなわちブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯領は、フランケン帝国クライスに属した帝国直轄地で、ホーエンツォレルン家の傍流が治めた。本家筋にあたるベルリンのブランデンブルク選帝侯家〔1701年以降は王家〕と緊密な関係にありながらも、1792年まで独立した領邦を保った。)121、141、145、186、188、208、246、246、247、247、250、255、255、255、269、286、
ブランデンブルク選挙侯国 (ブランデンブルク辺境伯領〔選挙侯国〕は、アルブレヒト1世を初代ブランデンブルク辺境伯として1157年に設置された。アルブレヒトの死後は息子オットーがブランデンブルク辺境伯となり、ポーランドへと領地を延ばした。13世紀半ばの重要な発展としては、ベルリン〔1242年〕、フランクフルト・アン・デア・オーダー〔1253年〕の開基と、シュテッティンおよびウッカーマルクの獲得〔1250年〕が挙げられる。)75、
ブリュン(オーストリア・メーレン州の首都)117、
ブルグント地方 (フランスのブルゴーニュ〔Bourgogne〕地方を指す。ブルゴーニュはフランス東部の地域圏〔region〕 。首府はディジョン。)162、
ブレスラウ(ヴロツワフ〔ポーランド語:ドイツ語: Breslau〕
ブレスラウ、ポーランド西部にある第4の都市で、ドルヌィ・シロンスク県の県都。歴史的にシロンスク地方の中心都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつである。市内にはオドラ川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっている。)137、
プレスブルク(現・スロバキア共和国の首都ブラチスラバ。1536年-1784年:
ハンガリー王国の首都〔オスマン帝国がブダを支配したため、1699年まで、ハンガリー王国は現在のスロヴァキアと西ハンガリーの一部だけを領有していた〕。1542年-1848年:
ハンガリー議会所在地となる(短期の中断期間を挟む)。)166、
ブレーメン領(北部のヴェーザー川の河畔にある都市。ドイツ史上有数の惨禍であった三十年戦争の際も、かつてのハンザ同盟の仲間であったハンブルク、リューベックと同盟を結び、独立を守りきることが出来た。しかし、その講和条約である1648年のヴェストファーレン条約では、スウェーデンに支配権が引き渡されており、事実上スウェーデンの宗主下にあったと言ってもよかった) 186、
ブライテンフェルト(ライプツィヒ北方の小村ブライテンフェルト)286、
プラーク〔ベーメン=ボヘミヤ=チェコのプラハの古称〕55、55、100、101、108、119、121、123、124、134、135、135、136、136、136、137、137、137、137、138、163、181、294、
プレスベルク(ブラチスラヴァ、スロバキア語:
Bratislavaは、スロバキアの首都。人口43万人を擁するスロバキア最大の都市。ドナウ川に面しており、オーストリアやハンガリーとも国境を接する。名称はこれまで幾度も変わっており、現在の「ブラチスラヴァ」の名称は第一次世界大戦後に使われ始めた。マジャル〔ハンガリー〕語では
ポジョニ〔Pozsony〕、ドイツ語では プレスブルク〔Presburg〕と呼ばれる。)49、126、165、294、
プロイセン(プロイセン地方の領域は西側はポメラニア〔ポーランド名ポモージェ、ドイツ名ポンメルン〕でドイツに接し、東はネマン川〔ドイツ名メーメル川〕を境にポーランドとリトアニアに隣接、ヴィスワ川〔ドイツ名ヴァイクセル川〕で東プロイセンと西プロイセンに分けられる。1228年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の発したリミニの金印勅書〔現在では偽造だとされる〕により騎士団のプロイセン領有が認められる)159、220、230、236、
伯林(ベルリンという名前の由来は諸説あるが、スラブ語で池や湿地を意味する「Berljina」〔ベルジーナ〕からきていると言われている。標準ドイツ語の会話における一般的な発音では「ベアリーン」となる。漢字では伯林という表記があてられる)188、
ヘッセン(ヘッセン州 〔Land Hessen〕
は、ドイツに16ある連邦州のひとつ。州都は、州南西部に位置するヴィースバーデン。経済の中心都市は州南部に位置するフランクフルトである。グリム兄弟の生地ハーナウを起点として北へ、グリム童話ゆかりの地を結ぶドイツ・メルヘン街道や、木組み建築の町、アルスフェルトなどの観光地がある。)75、184、184、208、273、279、
ヘッセン=カッセル(ヘッセン方伯は、1277年にカッセルに居を定め、1292年には帝国諸侯の地位を獲得する。その後、徐々に南方へ領土を拡張し、15世紀にダルムシュタットなどの都市を領土に加える。最盛期は、フィリップ寛大伯〔在位:
1509年-1567年〕の時代であった。彼は、ドイツの宗教改革において、プロテスタントを支持し、女婿のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒと共にシュマルカルデン同盟の指導者となり、皇帝カール5世と戦った〔シュマルカルデン戦争〕。フィリップの死後、領土は遺言に従い4人の息子に分割相続され、ヘッセン=カッセル、ヘッセン=マールブルク、ヘッセン=ラインフェルス、ヘッセン=ダルムシュタットの4つに分かれた。) 250、278、279、
ヘッセン山脈(ヘッセン州の山脈) 184、
ヘッセン=ダルムシュタット(ヘッセン=カッセルの注参照)131、
ベーメン〔地〕(ボヘミヤ=チェコの旧名)13、13、13、43、48、51、51、51、51、51、52、53、53、53、54、56、56、57、58、58、59、59、73、76、78、79、80、80、82、83、83、83、84、86、86、87、88、90、97、97、98、98、98、98、100、107、108、108、109、109、110、114、114、114、115、116、117、119、120、120、121、121、121、121、123、124、127、130、132、132、132、132、133、133、133、133、137、138、140、160、162、163、163、164、173、181、181、181、181、215、294、295、296、297、
ベルゲン・オプ・ツォーム(不明) 170、
伯林〔ベルリン〕(ドイツの北東部に位置する都市で、ドイツ連邦共和国の首都である。
ベルリンという名前の由来は諸説あるが、スラブ語で池や湿地を意味する「Berljina」〔ベルジーナ〕からきていると言われている。標準ドイツ語の会話における一般的な発音では「ベアリーン」となる。漢字では伯林という表記があてられる)269、274、275、
北方諸国(バルト海に面する国々) 194、
ホルシュタイン(現在のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州〔Land Schleswig-Holstein〕
は、ドイツに16ある連邦州のひとつで、最北端に位置する。15世紀にデンマーク王クリスチャン1世がシュレースヴィヒ公、ホルシュタイン公を兼ねてデンマークに帰属し、1544年にはデンマーク王家の分家であるホルシュタイン=ゴットルプ家がホルシュタイン公〔神聖ローマ帝国領〕を世襲するようになった。)178、186、188、
ボスニエン(ヘルツェグ・ノヴィ 〔セルビア語:Херцег Нови、イタリア語:Castelnuovo、ギリシャ語:Νεοκαστρον /
Neokastron〕は、モンテネグロの都市。アドリア海沿岸の都市で、コトル湾の入り口、オリェン山の麓に位置している。〔ドストロ岬から直北に向つて進む間が第一湾である。其の突當りにはカステルヌオヴオ〔註〕現ヘルツェグ・ノヴィ
の市街がある。此處はヘルツエゴヴイナ州の入口とも云へる所で、相應の歴史をも有つて居る。ずつと昔十三四世紀の頃は、ボスニエン王の領土であつたものが、其の後土耳其(註)トルコ
の手に落ち、次でヴエニス共和國の領有に轉じ、今より百有餘年前には露國の手に移り、更に佛帝奈破翁(註)ナポレオン
の奪ふ所となり、今度は英國の占領に歸し、其れから終に今の墺(註)オーストリー 領となつた。是は1814年のことである。信夫淳平「バルカンへの旅 25.
要塞都市コトル」より〕)187、
ポー河流域(ポー川〔Po〕は、イタリア北部を横断している、イタリア国内で最も長い川である。アルプス山脈などに源流を持ち、ロンバルディア平原、ポー平原を流れ、アドリア海に注ぐ。総延長は650kmを超える。)211、
ポーデルヴィッツの村(ザクセン公国ライプツィヒ北方の小村ブライテンフェルトに隣接する村)286、286、
ポッダム(ベルリン、ブランデンブルグの中心になる都市)260、
ポムメルン(メクレンブルク=フォアポンメルン州で、フォアポンメルンは、現ポーランド領に渡るポンメルンの西部である。ポンメルンにはポモージェ公国が成立し、13世紀以降、神聖ローマ帝国内に入った。ポモージェ公国は1637年に公家が断絶した。1648年のヴェストファーレン条約により、ポンメルンは東西に分割された。)208、220、228、233、234、235、236、236、237、237、238、239、239、239、240、241、243、246、246、246、247、256、275、276、276、
波蘭〔ポーランド〕 131、156、158、178、194、194、195、221、222、222、229、230、
波蘭〔ポーランド〕領プロイセン(ポーランド王領プロイセンとドイツ騎士団領にあったプロイセン連合に加盟していた都市や侯領は1466年の第二次トルニ和約以後ポーランド王の全面的な庇護を受けて自治権を確保し大いに繁栄した。ポーランド王領プロイセンでは1772年まで306年間、ドイツ騎士団領〔のちにプロイセン公領〕では1660年まで194年間ポーランド王国の強い支配権が及び、ポーランド王の庇護によって平民や世俗諸侯の自由が守られた。)158、223、
マイン河(マイン川〔Main〕はドイツを流れる河川。バイエルン州に水源があり、ドイツ国内を東からフランケン地方を抜けて西に横断し、ヘッセン州のマインツでライン川に合流する。)168、
マインツ(ラインラント=プファルツ州の州都。中世よりマインツ大司教の司教座聖堂の所在地であり、活版印刷の発明者ヨハネス・グーテンベルクの出身地でもある。大司教アルブレヒトは贖宥状の利益を元手にしてさらなる司教位を手に入れようとたくらみ、宗教改革の引き金をひくことになる。しかし、17世紀になると三十年戦争、ファルツ継承戦争などで荒廃した。)88、
マインツの町ヘヒスト(不明)168、
マクデブルク(ザクセン=アンハルト州の州都。大僧正区。1301年、ツンフト〔同職ギルド〕が市政参加を求めて蜂起したが失敗、首謀者が処刑された。
1524年、宗教改革に際しルター派に転じる。 マクデブルク大学は初めて創設されたルター派の大学である。
三十年戦争で打撃を受け、市長オットー・フォン・ゲーリケが復興に力を尽くした。
)144、183、203、203、246、248、248、255、255、255、256、256、256、256、256、257、257、257、258、258、260、260、260、261、261、263、263、264、267、268、268、269、270、270、271、271、272、272、272、273、274、276、276、277、277、280、282、283、289、
マーストリヒト(オランダ南東端部、リンブルフ州の基礎自治体〔ヘメーンテ〕。州都であり、マース川沿いの河港都市。ドイツとベルギーの国境線にも近く、EU〔ヨーロッパ連合〕に関する条約であるマーストリヒト条約はこの基礎自治体で締結された。)262、
マドリッド(スペインの首都)159、
マルカレード(特定できず)229、
マルク・ブランデンブルク(ブランデンブルク辺境領 〔Mark Brandenburg〕183、242、243、243、254、
マントゥア・モンフェラ(マントヴァ〔Mantova〕はイタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県のコムーネの一つで、マントヴァ県の県都である。)210、211、
メクレンブルク(メクレンブルク=フォアポンメルン州のメクレンブルクには、1348年にメクレンブルク公領が成立した。)145、220、241、277、
メルゼブルク(ザクセン=アンハルト州の大司教区、1015年聖ヨハネ・メルデブルク大聖堂が建立された。宗教改革では早期に改革派となった。)293、294、
ミュールハウゼン(バーデン=ヴュルテンベルク州ライン=ネッカー郡に属す町村で、1338年にシュパイアー司教区がこの村の代官職と土地所有権を獲得した。さらに1546年にはこの村に関するすべての領主権を掌握した。宗教改革の頃にはこの村はヒルシュホルン家の所領となっており〔従ってオーデンヴァルト騎士カントンに属した〕、プロテスタントに改宗された。何度も領主が入れ替わった後、1735年にユーバーブリュック・ツゥ・ローデンシュタイン男爵がこの村を獲得した。長い間シュパイアー司教領であったミュールハウゼンとレッティヒハイムでは、カトリックが優勢である。)201、
ミュールベルク(ケドニッツ
〔Kodnitz〕は、バイエルン州クルムバッハ郡〔オーバーフランケン行政管区〕の自治体で、トレプガスト行政共同体の一員。この管理地区に「ミュールベルク
」がある。)24、25、
ミュンステル(
ノルドラインヴァストファーレン州にある都市で、アナバプティスト反乱の場所としてよく知られています。1648年の30年戦争終結時ウェストファーレン条約の署名を行った場所として有名。) 11、184、
ミュンヘン(1158年、バイエルン大公ハインリヒ獅子公によってイーザル川に橋がつくられ、関所と貨幣鋳造、市場の町として創建された。1255年にバイエルンは分国されるが、16世紀初頭からは再び統合されたバイエルンの首都として繁栄した。)127、
ミラノ(ミラノ〔lano〕、イタリアの都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。1535年にスフォルツァ家の血筋が途絶えると、ミラノはスペインの統治下にはいった。)146、148、174、273、290、
ミンデン〔ミュンデン〕(ニーダーザクセン州に属する。人口は約2万5千人〔2004年末〕。かつてはハノーファーシュ・ミュンデン〔nnoversch Munden〕称された。)179、184、
ムルデ河(ムル川?ブランデンブルグ地方は湖沼地帯で特定できず)286、
メクレンブルク(バルト海に面し、ドイツでは最も人口密度が低い州である。メクレンブルク=フォアポンメルン州) 188、189、193、199、237、246、
メーレン(チェコ南部・オーストリア東部)13、48、50、51、52、90、116、117、117、125、134、137、137、160、163、175、181、215、294、
モスカウ(モスクワ)157、178、229、276、
ユートラント(ヨーロッパ大陸北部にある半島。デンマーク王国の本土とドイツ連邦共和国の北端部をなしている。) 178、
ユーリッヒ(ノルドラインヴァストファーレン 州=1609年には、公国は分割され、消滅)76、
77、78、78、78、86、86、86、87、109、
ユーリッヒ・クレーヴェ地方(上段参照・世襲領)76、76、83、
ユーリッヒ(領) 77、84、96、
歐羅巴(ヨウロッパ)11、12、13、13、13、13、15、16、16、18、20、43、57、78、79、79、
80、82、105、140、148、150、220、
余の王国(瑞典) 232、
ライプチッヒ(ザクセン州に属するドイツの都市である。1481年、ライプツィヒでも本が印刷されるようになる。1530年までに、1300種類もの本が出版された。1594年からは、本の見本市のカタログまで出版されるようになり、1650年には、世界初の日刊紙がライプツィヒで登場することになる。)250、284、284、285、286、292、292、293、294、294、
ライン(上・下) 168、175、297、
ライン河 164、
ライン河畔 86、165、
ライン僧正区(特定できず) 164、
ラウジッツ(ブランデンブルク州南部とザクセン州東部に当たる歴史的地域名)59、173、280、
ラッツェブルク(シュレスウィヒ=ホルシュタイン州の町でメクレンブルクに隣接している。) 242、
ランツベルク(ドイツ南部、バイエルン州の町。正式名称はランツベルク‐アム‐レッヒ。レッヒ川沿いに位置する。)254、268、
リーフラント(エストニア最古の大学があるタルトゥはエストニアの学問・文化の中心である。1030年、バルト地方へ進出したロシア人が軍事拠点を築いていた。その後、ドイツ騎士団の支配下におかれ、中世後期にはハンザ同盟の加盟都市となった。その後、一時的にモスクワ大公国によって支配され、17世紀初頭よりスウェーデン領になった。この頃、スウェーデン王グスタフ・アドルフによってタルトゥ大学が設置〔1632年〕され、のちまで多くの研究者を輩出している。)158、159、245、
リップシュタット(ドイツ、ノルトラインヴァストファーレン州の都市。1523年にはオスナブリュック、ドルトムント、スースト、ミュンスターなどの近隣の都市では、
防衛 同盟を 結成 。 )175、
リプニッツ(メークレンベルク=フォアポンメル州の都市)241、
リュティヒ(ベルギーの都市)243、
リューネブルク(ドイツのニーダーザクセン州の中心都市。ハンブルクの南東50kmくらいに位置する。)145、
リュベック(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に属する。バルト海に面する北ドイツの代表都市。かつてはハンザ同盟の盟主として繁栄を誇った。正式名称をハンザ都市リューベック〔Die
Hansestadt Lubeck〕という。) 196、229、
両国(丁抹・瑞典) 198、
リンデンタール(ノルトライン=ヴェストファーレン州のケルン市近郊の町)286、
ルッテル(ルッター〔Lutter am Barenberge〕はザルツギッター市の南郊外にあり、南ザクセンの帝国領内〔今のドイツ北西部〕に位置する。ルッターの戦い〔The
Battle of Lutter, ドイツ語:Schlacht bei Lutter〕は、三十年戦争のさなかの1626年6月27日に、プロテスタントのクリスチャン4世とカトリック同盟との間で戦われた戦争である。戦闘の結果はクリスチャン4世の惨敗で、神聖ローマ帝国のフェルディナント2世が勝利をおさめた。帝国軍を指揮していたのはティリー伯である。)188、
ルーデン島(メクレンブルク=フォアポンメルン州のポムメルンに近く、ポーランドに隣接する島)233、
レーゲンスブルク(バイエルン州東部、オーバープファルツの中心都市であり、ドナウ川とレーゲン川の合流近くに位置する。13世紀半ばに「帝国自由都市」としての特権を認められてた。)74、171、206、209、209、210、211、213、214、237、237、
ロアール(フランス西部の川)24、
ロストック(メクレンブルク=フォアポンメルン州の一都市。中世のハンザ同盟の中心都市。バルト海に面する旧東ドイツ最大の港湾都市で、人口は約20万人。ロストクとも表記される。
1419年に設立されたロストック大学は、バルト海沿岸地域における初の大学である。)241、
羅馬(ローマ)16、17、35、39、43、53、63、66、91、95、113、130、161、232、
露西亜(ロシア) 157、157、276、
ロシェル(ラ・ロシェル〔La Rochelle〕はフランス西部、ポワトゥー=シャラント地域圏の都市である。シャラント=マリティーム県の県庁所在地。)150、
ロートリンゲン(ロレーヌ地域圏〔Lorraine〕は、フランス北東部、ドイツ国境に近い地域圏である。ドイツ語ではロートリンゲン〔Lothringen〕と称される。)170、
ローベル河(1631年9月17日ザクセン州で行われたブライテンフェルトの戦いでの戦闘地の河)286、
ロムルスの民(羅馬人)80、
ロムバルジャ(不明)83、
ロレトー(不明)161、
ロレット(モンマルトルのロレット教会?)113、
ワイセンベルク(ドイツ バイエルン州 オーバーフランケン行政管区
クローナハ郡に属する町村〔以下、本項では便宜上「町」と記述する〕。クローナハの南東、連邦道B85のクルムバッハ方面に位置している。福音派の教区教会に属していたゲッサースドルフとキュプス教区に属していたフンメンドルフを除く残りの地区は、教会組織上は宗教改革以前からすでにヴァイセンブルン教区〔1557年に宗教改革〕に組み込まれていた。第二次世界大戦後にカトリックの新市民はゲストハウス「パラディース」のホールに礼拝室を設けた。)139、
ワルテ河(レヒ川?ランツベルクを流れる川)254、
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事項索引
アウクスブルクの信仰告白(1555年 には ... アウグスブルク信仰告白)25、35、35、35、36、36、37、72、143、
アウクスブルクの帝国議会(1555年9月25日になされた、ドイツにおけるルター派容認の決議である=宗教和議)25、25、29、30、30、31、31、31、31、32、32、32、33、34、34、34、34、38、39、39、39、41、41、41、65、74、201、
新しい期待(英蘭王ゼームスの覺醒)165、
新しい戦争(マンスフェルト伯エルンスト軍の反乱と、英蘭王ゼームスの参戦)161、
壓制的な新規の公課(カルヴァン派教条)131、
アンハルト侯の騎兵隊 135、
異教(カトリック以外の宗教)18、
イズイート派〔イエズス会?教徒〕37、39、43、60、60、104、112、113、120、128、160、
英国(イギリス)の国民 152、
異端者(新教徒) 149、149、
伊太利諸国(都市国家群)148、148、149、
一軍の損失にも代え難き名将(ヴァレンシュタイン)214、
英蘭軍(イングランド軍)276、
英蘭の事蹟(ハミルトン侯が英蘭軍六千を率いてポンメルンに上陸し瑞典軍に加勢したこと) 276、
印度〔インド〕の財宝147、
維納〔ウイーン〕宮廷 131、
ウェストファーリエンの講和条約()278、
ウルトラ・クヰスト〔教会〕(二様の形で聖餐を受ける者)(プロテスタント勢力)52、52、52、52、53、56、
ウルム事件(特定できず) 133、
ウルムの協定(特定できず)164、
ウルムの調停(特定できず) 133、
ヴァレンシュタインの軍〔隊〕 188、200、203、219、256、
ヴァレンシュタイン派(ヴァレンシュタイン・ベーメンの最も裕福な貴族、武勲赫々たる名将)241、
ヴァロン族〔白耳義《ベルギー》東南部のケルト人〕264、
ヴァローン人(ヴァロン族か)108、
ヴィムプフェンの戦い(バードヴィンフェンはバーデンブルテンベルク州の町。マンスファルト軍とバーデン邊彊伯の軍が、バイエルン軍に敗れる。1622年)167、
ヴェルベンの陣営()277、
エルベ渡河(エルベ河はポーランド、チェコ国境地帯のステーティ山地から起こり、その後チェコ北部、ドイツ東部を経て、ハンブルク付近で北海へと注ぐ国際河川である。) 186、
王侯 15、15、15、19、20、
王領都市 99、100、
黄金文書(ゴルデネブレ=)72、
墺太利国会議員 93、
墺太利人 138、
墺太利家 81、109、109、111、132、149、149、
墺太利軍 149、212、
墺太利世襲領 148、
墺太利の軍籍 219、
墺太利の不倶戴天の敵(瑞典王とその軍隊)229、
墺太利領 112、
臆病な宰相〔オクセンシェルナ〕の逡巡 228、
和蘭国民(此の商人根性の国民は英雄的な民族に一変p151参照) 151、
閣僚(ザクセン選挙侯の)282、
改革派(カルヴィン派・改革者)19、37、38、46、52、71、71、72、72、73、74、96、122、122、142、143、201、
回復勅令〔1629年〕(国外追放令?) 204、207、248、255、258、258、271、296、
勝ち誇った敵軍(皇帝フェルディナント二世の軍隊=舊教聯合軍)165、
カッセル系(ヘッセン=カッセル系) 143、
加特力(教・教徒・教会・仲間・派)(カトリック)19、19、20、20、25、26、26、28、29、30、30、31、31、31、31、32、32、33、34、34、34、34、36、36、37、37、37、37、38、38、38、39、39、40、41、45、45、45、52、53、55、56、60、60、62、62、62、63、63、63、64、64、65、65、66、67、68、68、68、69、69、69、70、70、71、71、71、73、73、76、76、78、84、84、85、85、86、88、88、89、91、91、92、92、92、93、93、94、98、106、106、108、114、119、122、125、128、140、140、155、172、172、
加特力王国の宰相(リシュリュー) 222、
加特力各州 140、
加特力国家 223、
加特力派国会議員 95、
加特力社会 94、
加特力聯合〔リーグ〕(軍)85、85、85、86、86、86、86、86、87、88、
加特力領地〔〕 65、
加特力領主〔バイエルン・他〕102、
かの老獪なる将軍(アルンハイム元帥)249、
ガポールの軍(トランシルヴァニア=ルーマニア中部・北西部の歴史的地名の軍)166、
カルヴィン派(カルヴァンの神学は、ルター派など一部を除き教派の違いを超えてプロテスタント諸派に大きな影響を与えた。プロテスタント教会のひとつ改革派教会は彼の思想的流れを汲む教会である。) 14、23、36、64、67、67、71、72、75、122、122、123、130、130、132、132、151、172、201、
彼〔瑞典王〕の進撃 237、
彼自身〔アルンハイム元帥〕の仇(皇帝フェルディナンド二世) 249、
彼の意図(皇帝フェルディナント二世の)224、
彼の官位〔ブランデンブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムのブランデンブルク選帝侯位〕255、
彼の事業〔グスタフ・アードルフの対ポーランド戦、バルト海制覇等〕253、
彼の近親者の一人〔バーデン邊彊伯の近親者) 167、
彼の軍(ティリー軍)286、
彼の軍隊(瑞典軍)234、
彼の成功〔グスタフ・アードルフの〕253、
彼の将士(皇帝フェルディナント二世の) 200、
彼の勢力挽回〔代官クリスチャーン・ヴィルヘルムの〕255、
彼の寵臣(アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン(Albrecht Wenzel Eusebius von
Wallenstein, Albrecht Vaclav Eusebius z Vald?tejna, 1583年9月24日 ボヘミア - 1634年2月25日
ボヘミア・エーガー Eger(現ヘプ Cheb))は、中世の三十年戦争期のボヘミア(ベーメン)の傭兵隊長である。)160、
彼の密かなる願望()297、
彼の兵士(皇帝フェルディナント二世の) 200、
彼の兵力(瑞典王の) 224、
彼等(新教徒の王侯)202、202、202、
彼等(マルデベルク籠城軍)261、
貴下(ポムメルン公ボギスラフ)235、
騎士階級 45、46、57、113、
近親者(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の)160、
舊教〔教会・僧・派・徒・聯合〕(カトリック)
18、19、23、52、84、84、85、86、86、86、87、88、88、89、90、91、92、92、95、95、95、95、95、95、97、97、113、127、127、128、128、128、128、128、129、129、129、129、132、132、133、135、141、141、146、152、158、161、162、162、172、172、176、176、176、176、176、180、180、180、180、180、182、182、182、184、198、200、201、202、202、202、204、205、205、206、206、207、207、207、208、252、252、253、280、296、297、
舊教教会 176、201、
舊教教会の僧院〔教会堂〕 176、
舊教選挙侯 204、
舊教獨逸 145、161、267、
舊教同盟[聯合の間違い?]〔軍〕 128、129、133、219、219、
舊教〔徒〕議員 146、201、
舊教〔徒〕領主 98、205、
舊教諸侯 95、127、251、251、253、294、
舊教徒たつ選挙侯達の友誼()297、
舊教勢力 253、253、
舊教僧正 202、203、
舊教僧領 99、
舊教僧侶 168、
舊教の国会議員 224、
舊教聯合諸国 296、
舊教聯合軍 133、186、244、288、
舊教聯合の将軍(ティリー) 185、188、
舊教聯合の将校 265、266、
舊教聯合の諸侯 207、211、
舊教聯合の勢望 207、
基督教 130、
基督教教会 117、
基督教徒 130、227、
救援軍(瑞典軍)259、
急遽来援する友軍(パッペンハイムの軍)286、
窮迫せる此の都市(マルデベルク)268、
教会〔新教〕100、
宮廷(プラーク?)105、
宮廷説教師()124、130、
金銭もなく素性さへ怪しい山師(猛将マンスフェルト伯爵エルンストを指す)167、
閣僚中の裏切り者(ザクセン侯国の)283、
クロアートの凶暴な一味〔クロアチア人、セルビア地方の住民〕264、
クロアート兵 290、
共和国民(和蘭国民)151、
君主会議 62、
君主権 63、139、
君主国〔スペイン王国〕 146、146、
君主同盟(シュマルカルデン同盟か?)43、
軍〔瑞典軍〕270、
ケルン国会() 66、
ケルン僧会() 66、66、66、
公(ブレーメン僧正?)271、
高僧(司教、大司教)28、45、
皇帝をその居城に(ウイーンの)294、
皇帝側 199、
皇帝側の逃亡兵 242、
皇帝側の委員 205、
皇帝側の将軍連() 243、
皇帝個人の法廷たる維納(ウイーン)の枢密院 62、62、
皇帝軍 108、108、110、126、133、135、137、142、163、179、182、183、187、189、191、191、192、195、198、212、215、219、220、220、221、225、225、229、234、234、234、234、234、235、235、238、238、239、239、239、240、240、240、240、240、240、240、241、241、241、243、246、247、249、251、256、257、257、257、261、263、266、268、268、269、270、271、271、273、275、275、276、276、279、279、280、280、280、284、288、291、292、294、294、
皇帝軍総指揮官(ヴァレンシュタイン伯クリスチアーン)196、
皇帝軍の将軍(ティリー)240、274、
皇帝軍の将兵 275、
皇帝軍の世襲地 294、
皇帝軍の兵 243、247、266、
皇帝軍兵卒 208、
皇帝守備隊 293、
皇帝軍二部隊 273
皇帝に弓を引いた選挙侯(ファルツ選挙侯フリードリッヒ五世)162、
皇帝の威信 207、
皇帝の一臣下 273、
皇帝の援助 210、
皇帝の恩寵篤き一将(バイエルンの将軍ティリー) 194、
皇帝の宮廷 236、
皇帝の禁令 279、
皇帝の偽瞞政策 223、
皇帝の決議(皇帝フェルディナント二世の) 162、
皇帝の裁判権 62、
皇帝の師たり得べきこの要職(皇帝軍と舊教同盟軍の司令権)219、
皇帝の侍従職 217、
皇帝の側近() 194、
皇帝の尊厳() 138、
皇帝の勢力の神経(ティリーの実力と軍隊) 297、
皇帝の代理委員 210。
皇帝の名(皇帝フェルディナント二世の) 224、224、
皇帝の内閣(皇帝フェルディナント二世の)162、
皇帝の復讐心(皇帝フェルディナント二世の)255、
皇帝の黙許 202、
皇帝の利益 199、
皇帝派 77、78、
皇帝=バイエルン軍 134、135、135、164、
国王の身でありながら一平卒の死を免がれ得なかった(グスタフ・アードルフの死)227、
国会議員〔等〕 63、63、79、94、98、99、99、99、100、100、101、104、106、106、109、111、113、115、115、115、116、127、131、133、137、145、177、200、201、203、205、206、224、231、237、245、248、248、250、250、252、
国外移住 205、
国外追放 205、
国内の叛徒(清教徒革命またはピューリタン革命の参加者)154、154、
国法 () 252、
国民の権利(マグナ・カルタ(大憲章、だいけんしょう、ラテン語:Magna Carta、英語:the Great
Charter)とはイングランドの憲章で、ジョン王の権限を限定する法である。ラニーミードにおいて1215年6月15日に制定された。63か条から成る。すべての条文はその後廃止されたが前文は廃止されずに現行法として残っており、成文憲法を持たないイギリスにおいて憲法の一部である。)153、
此の王(ゼームス) 152、152、152、
此の失われた所有物〔舊教教会の僧院・没収された僧院〕176、176、
此の革新(宗教を選ぶか祖国を捨てるか二者択一の通達) 201、
此の會戦(ブライテンフェルトの戦い。三十年戦争中の1631年9月17日(旧暦9月7日)にドイツのライプツィヒ北方の小村ブライテンフェルト郊外でおきた戦い。グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍およびドイツ・プロテスタント諸侯の連合軍と、ティリー伯率いる神聖ローマ帝国皇帝軍が交戦し、スウェーデン軍が勝利した。)290、
此の国(西班牙) 174、
この国の憲法(スエーデンの)155、
此の自己の問題(1621年、スウェーデン王となった叔父(父であるヨハン3世の弟)のカール9世の息子グスタフ2世アドルフ(すなわちジグムント3世にとってはいとこにあたる)がリガに侵攻し、8年にわたるスウェーデン・ポーランド戦争が開始された。戦争当初ジグムント3世はスウェーデン軍に圧倒され、リガが陥落した後、1626年までに属国プロイセン公国(東プロイセン)を占領された。)157、
此の事件(ブレーメン僧正への処置p271)272、
此の島国(イギリス) 152、
此の条約(マントゥア公への采邑授與) 211、
此の政治的手腕のある女王(エリザベス女王)152、
此の総会(ライプチッヒ総会) 250、
此のただ一人の将軍(ヴァレンシュタイン)212、
此の團匪(猛将マンスフェルト伯爵エルンストの軍隊) 164、
此の都市(マクデベルク)261、
此の同盟の条約(1631年1月13日佛蘭西王と瑞典王との)251、252、252、252、
此の匪賊(ブラウンシュヴァイク侯クリスチアーンを指す) 168、 168、
此の僧正区(マルデブルクとハルバーシュタット) 203、
此の不法なる處置(ファルツ選挙侯国をバイエルンの采邑としたこと)174、
此の平和条約(リュベックの平和会議)200、
此の両国(瑞典・丁抹) 195、
此の厄介な国(スペインを差す)148、
この両国が分離するに至った原因(デンマークは、1611年から1613年のスウェーデンとの戦争において勝利を収め(中心となる作戦がスウェーデンの東の砦、カルマルを攻略することだったので、この戦争は一般的にカルマル戦争として知られている)、1613年1月20日の「クネレド条約」においてスウェーデン王のグスタフ2世から全面的な譲歩を勝ち取った。この戦いは、クリスチャン4世が対スウェーデンで唯一、優位に立った戦争となった。)155、
コペンハーゲン条約(1628年) 196、199、
顧問官(皇室または王室制度が存在する国の官職。多くの場合名誉職的な意味合いが強い。
オーストリアでは、王室制度の無くなった現在でも敬称として使用されている。)92、102、
105、124、
顧問官会議 94、
是を見てとって敵〔皇帝軍〕263、
是等の諸侯〔新教諸侯〕176、
最高審判所(最高の帝国審判所p29参照)29、30、61、61、61、
三十年戦争 51、158、
三人の僧侶(ベーメン・プラーク放擲事件p103参照)121、
三名の舊教徒選挙侯(マインツ大司教・トリーア大司教・ケルン大司教 ) 172、
市参事会(帝国都市アーヘン=古代ローマ帝国の時代から知られており、ローマ人たちは、この地を温泉保養地として発展させて来た(アクアエ・グラニ)。63、
在職していた太公(不明)167、
ザクセン軍 285、286、287、287、289、289、290、290、290、290、292、
ザクセン選挙侯国()75、204、
ザクセン兵 284、
ザクセンの国人 142、
シャウムベルク軍の残兵() 246、
自分に仕える将軍(ヴァレンシュタイン)237、
十分の一税 15、
執行委員 206、
将軍の罷免(ヴァレンシュタイン将軍)209、
宗教改革 11、12、12、12、14、16、18、23、24、52、61、113、115、124、149、154、
宗教的勢力() 149、
宗教戦争(三十年戦争を指す)40、
宗教和議(アウクスブルクの) 99、99、100、201、204、204、204、205、205、205、205、205、
修道院 205、206、213、
修道院長 28、
シュタイエルマルク(現在はオーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。当時は辺境伯(Mark; マルク)領)91、
シュパイエルの大審院(シュパイヤー旧商工会議所裁判所Reichskammergericht=最高審判)61、61、62、62、62、62、63、63、
シュトラウスブルク僧院〔修道院〕68、68、68、69、
シュマルカルデン同盟(1531年に、シュマルカルデンにおいてプロテスタント諸侯と諸都市によって結成された反皇帝同盟)25、
シュタイエルマルクの議員 113、
シュレーゼンの国会議員(ベーメンのトゥルン伯爵とその同盟軍) 110、
諸侯会議 93、
将軍の入城式〔ティリー将軍〕267、
新教(徒・派・教会)(プロテスタント) 18、19、19、19、20、22、25、26、28、28、28、28、28、29、30、30、30、31、33、33、34、35、35、35、35、35、36、36、37、37、37、38、38、38、39、39、39、39、41、41、41、42、43、45、45、48、50、52、52、53、56、57、59、60、60、60、60、61、62、63、63、63、64、65、65、65、66、66、66、67、67、68、68、68、69、69、69、69、70、70、70、70、71、71、71、71、73、74、78、79、81、83、89、89、89、90、90、90、92、92、92、93、94、94、94、94、94、94、95、95、95、95、95、97、98、98、
98、99、99、100、101、102、102、102、105、105、106、106、106、110、113、113、114、115、116、118、118、118、120、121、123、127、128、128、129、129、129、133、138、138、140、140、141、141、142、147、149、150、150、150、151、155、158、158、172、172、172、172、173、176、182、200、201、201、202、202、202、203、204、204、205、205、205、205、205、206、206、206、206、208、244、248、254、255、267、295、296、
新教間 223、
新教議員 61、90、92、102、113、
新教国会議員 93、141、176、204、205、248、249、271、
新教僧〔牧師〕会員 68、203、
新教諸侯 78、86、86、91、93、187、224、229、251、271、
新教僧正 250、
新教獨逸 97、127、128、141、198、267、
新教同盟〔軍〕(新教同盟は1608年フランケンのアウハウゼンに於いて結成。ファルツ選挙侯フリードリッヒ四世、ノイブルク宮中伯、ブランデンブルク邊彊伯二名、バーデン邊彊伯、ヴュルテンベルクのヨーハン・フリードリッヒ侯、p74参照) 110、110、110、110、110、120、120、121、121、121、122、122、127、128、128、128、128、128、128、129、130、132、133、133、134、141、141、162、163、163、163、164、164、165、167、167、167、171、175、188、211、
新教同盟員 131、
新教同盟の内容(同盟諸侯は宗教及び彼等お国会の権利に関し相互に一切の侵略者に対して助言と実行とを以て扶助しあひ協力一致すべきこと。敵軍の侵入をうけた同盟国へは其他の国々より即時兵力を以て援助に急行すべく、一旦緩急の場合にはその軍隊のために同盟所属の国会議員の所有地、都市、城塞が開かるべく、鹵獲品あらば各同盟員の貢献の程度に応じて分配さるべきことp74、)74、
新教同盟の領袖達(新教同盟の事項参照、トゥルン伯爵と同志等) 109、132、
新教徒の安全 152、
新教徒の王侯 175、202、
新教徒の黨員 249、
新教徒の擾亂 198、
新教徒の国土 175、
新教徒の軍隊 149、
新教徒の暴民 118、
新教国(同盟参加国及びカルビンン派) 12、
新教〔徒〕同盟〔軍〕evangelische
Union)74、75、75、76、76、78、82、83、85、85、85、85、86、87、87、87、87、87、88、88、88、88、88、88、88、88、93、112、116、161、175、176、272、
新教諸国(新教国に同じ) 141、
新教宗典(新しい教義経典)37、
新教の国王(新教同盟参照) 122、
新教の説教僧〔牧師〕 138、
新教の礼拝(旧教とはサクラメントの相違・除マリア崇拝) 114、
新教撲滅 97、
新教ベーメン(フス派動乱後の宗教改革容認) 57、
新舊教徒 140、
新思想(プロテスタント思想)24、
紳聖羅馬皇帝の王位 293、
紳聖羅馬皇帝の位 213、
紳聖羅馬皇帝の名 213、
信ずる宗教(舊教=カトリック)160、160、
信仰擁護者 (新教・オーストリア貴族のトゥルン伯爵・ハインリッヒ・マチーアス・信仰擁護者領)101、101、
自国内の優勢な敵〔加特力軍〕 152、
シュトラールズント市民(1209年に成立、1234年に都市権を獲得した。街の成立当初はリューベックと対立して街が破壊されたこともあったが、1278年にハンザ同盟都市の一員となり、リューベックとの関係も改善されていった。1370年には、この地でハンザ同盟らとデンマークとの間にシュトラールズントの和議が成立している。17世紀、三十年戦争(1618〜48)の講和条約であるヴェストファーレン条約によってスウェーデン領となった) 197、
邪悪の徒(舊教兵)285、
ジーベンビュルゲン軍(13世紀以来の入植の歴史を持つドイツ語では、初期の入植地の数に準じて、「七つの都市」を意味するジーベンビュルゲン
〔Siebenburgen〕
という名で呼んでいる。中世にハンガリー王国の一地域として、また近世(16−17世紀)に独立侯国として国制上の領域をなした地域を狭義のトランシルヴァニアの軍) 126、
自主独立 248、
十二僧正区〔司教区〕(バンベルク、レーゲンスブルク、バッサウ、アイヒシュテット、フライジンゲr、アウグスブルク、ニュールンベルク、パッペンハイム、ネルトリンゲン、シュパイヤー、メミンゲン、ビーベバッハ?)205、
常備軍(皇帝軍の) 225、
寺録(教会、修道院からの手当)28、
少なからざる彼らの勢力〔加特力教徒〕176、
瑞典王の天幕 226、
瑞典王の同盟国(新教同盟など) 296、
瑞典王の称号 221、221、
瑞典王の速達便(ジーベンビュルゲン宛て) 221、
瑞典(スエーデン)軍 144、144、159、197、197、197、198、206、226、230、235、235、238、238、238、238、239、239、240、240、241、241、241、243、243、245、246、247、247、247、247、249、251、260、261、268、269、269、270、271、275、275、276、276、276、277、277、278、283、283、283、286、286、286、287、287、287、287、287、289、289、289、290、290、291、291、292、294、296、
瑞典ザクセン連合軍 285、288、
瑞典守備隊 247、
瑞典派建員 199、
瑞典の王位 156、221、
瑞典の王冠 285、
瑞典の軍旗 261、
瑞典の軍隊 226、285、
瑞典の軍律 226、
瑞典の国旗 221、
瑞典の陣営 234、283、
瑞典の守備兵 234、
瑞典の銅 229、
瑞典=波蘭戦争(1621年から1629年まで続いた、ポーランド王国とスウェーデン王国の、スウェーデン王位継承権をめぐる「ヴァーサ王朝」同士の戦争。)158、
西班牙軍(将軍コルドゥバが統率するスペインの軍隊) 164、
西班牙代官の運動(ミラノに於けるもの併合に関係するのか。ミラノは1535年から170年に及ぶスペインの統治下に置かれる。イタリアのほとんどの弱小国家はスペインなどの外国勢力に敗れた。ミラノ公国やナポリ王国は併合され、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、フィレンツェ共和国(のちのトスカーナ大公国)等は生き延びたが、弱体化して行った。) 174、
西班牙の副王等(特定できず)148、
聖十字架僧院〔修道院〕 69、
昔日の恩人(ヴァレンシュタイン)249、
昔日の敵(ボヘミア・ファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争) ?)166、
世襲領〔地〕 94、201、201、
世俗的勢力(ローマ法王の政治的意図に出る考え)149、
選挙侯(当時は7選挙侯) 66、66、
選挙侯会議(金印勅書によって規定) 67、141、206、211、
選挙侯全体(金印勅書によって規定) 209、
選挙侯の冠 171、
選挙侯の地位の分割(ファルツ) 207、
選挙侯領地(金印勅書によって規定第一条・選帝侯はマインツ、トリーア、ケルンの3聖職諸侯、プファルツ、ザクセン、ブランデンブルク、ボヘミアの4世俗諸侯の計7侯に定める。7侯の領地) 65、65、65、
戦勝に導いてくれた将軍(ヴァレンシュタイン)212、
戦歴といひ名望ちいひ皇帝に劣らざる唯一の将軍(ヴァレンシュタイン)212、
専制君主の莫大な資力(皇帝フェルディナント二世)228、
枢密院 (皇帝の内閣に当たる組織?)64、
荘園 205、
荘園の領主(国家とは言えない小さな領地の主=フォンに相当か) 100、
僧位(神父、司教、修道士等の資格)28、29、
僧院(修道会)14、16、28、28、130、201、
僧院領(修道院領) 201、
僧院長管轄区(修道院長管轄区)28、
僧会(神父・修道士の会議か)28、
僧官制度 (カトリックの修道士〜法王に至る階級制度)35、
僧正(司教)28、68、68、68、
僧正管轄区(司教区)28、
僧正区(司教区) 81、201、202、203、205、205、
僧正区(司教区)の非合法的所有者 205、
僧正(司教)領地 65、
僧侶(神父、司祭、司教)31、
僧侶〔神父、司祭〕議員 100、
西班牙内閣 129、
西班牙宮廷 129、129、
西班牙の王侯 149、
聖なる処女(聖母マリア)161、
その後継者(ゼームス)152、
その居城(プラーク城)295、
その宗派の敵(新教) 222、
その首領株(舊教聯合の?)207、
その妻の父(不明) 167、
大敵(皇帝軍)285、
大命(皇帝の命令)271、
退却軍(皇帝軍)241、
代官軍(マレデブルク市の軍)257、
代議員(オーストリア貴族のトゥルン伯爵・ハインリッヒ・マチーアス・信仰擁護者領の)101、104、104、
代議員 (トゥルン伯領の)101、101、101、101、101、102、102、103、
大僧正〔大司教〕選挙侯(マインツ大司教→レーゲンスブルク大司教 、トリーア大司教、ケルン大司教 、) 127、204、
大僧正区〔マインツ大司教・トリーア大司教・ケルン大司教 〕 201、
大僧正〔上に同じ〕領地 65、66、100、
ダムピエールの甲騎兵(ダムピエール伯・ベーメンの伯爵))119、
ダルムシュタット系(1476年にダルムシュタットはヘッセン方伯領となった。この時、都市権の安堵と引き替えに方伯の借金を押しつけられ経済状況が悪化した。またこの頃から市参事会と市民階級の間に齟齬が生じ、都市の行政機能が二重化していった。1567年にヘッセン方伯家が分裂し、ヘッセン=ダルムシュタット方伯家が創設され、この都市は宮廷所在地となり、新たな発展の時代を迎えた。しかし、三十年戦争が激化すると方伯は、防衛施設の脆弱なダルムシュタットを捨て、ギーセンに遷ってしまった。かつてダルムシュタットの繁栄を支えたベルクシュトラーセは、各国の軍隊の通り道となり、この街は何度も占領され、略奪を受け、飢餓に苛まれた。またこれらの軍隊や、それを避けて逃げ込んだ周辺農民たちにより持ち込まれるペストにも苦しめられた。三十年戦争終結後は交易の回復とともにゆっくりと再興していった。だが、1693年にはフランス軍に攻撃され、また方伯家の浪費癖が禍し、経済的には苦しい状況が続いた。) 143、
地主階級(姓の前にvonという前置詞がつく家柄) 45、46、
勅令(僧正区の非合法的所有者の国外追放=p205参照)206、271、
ティリー軍(バイエルンの将軍ティリーの軍隊) 168、200、277、279、282、286、291、291、
ティリーの不在中に指揮に当たった諸侯の嫉妬〔舊教聯合の諸侯の〕258、
敵(皇帝軍)289、
敵(瑞典軍)237、286、288、
敵意ある隣国(ポーランド?)276、
敵軍(皇帝軍)261、277、285、285、287、289、290、
敵軍(瑞典軍)286、288、295、
敵の騎兵(ティリー軍) 287、
敵の甲騎兵(ティリー軍) 290、
敵の両軍(ザクセンとブランデンブルク両選挙侯領地軍)281、
手兵(瑞典軍)247、
手兵(ベーメン軍) 134、
勅許状(黄金文書?)76、98、99、100、101、102、102、139、
帝国王侯() 66、
帝国議会() 61、74、94、94、94、95、202、
帝国憲法() 120、140、
帝国審判所()29、34、34、
帝国都市() 162、
廷臣〔ヴァレンシュタイン〕の嘲笑 237、
低獨逸の議員 194、
低獨逸のの修道院 199、
敵軍(マンスフェルトとベトーレン・ガポールの軍隊) 184、
丁抹軍(デンマーク軍) 185、186、188、
丁抹守備兵 197、
丁抹兵(デンマーク兵)194、
丁抹の司令官 197、
獨逸(神聖ローマ帝国)王侯の自由 150、
獨逸(神聖ローマ帝国)各地 200、
獨逸(神聖ローマ帝国)舊教徒 147、
獨逸(神聖ローマ帝国)宮廷 229、
獨逸(神聖ローマ帝国)国会議員 100、253、
獨逸(神聖ローマ帝国)全體 226、
獨逸(神聖ローマ帝国)諸侯 83、144、144、163、272、
獨逸(神聖ローマ帝国)僧正〔司教〕100、100、
獨逸(神聖ローマ帝国)帝位 119、
獨逸(神聖ローマ帝国)同胞 151、
獨逸(神聖ローマ帝国)に於ける有力な牽制の約束(ザクセン大僧正区の皇帝に対する反抗)255、
獨逸(神聖ローマ帝国)の王侯 273、
獨逸(神聖ローマ帝国)の国境及び国内 252、
土 219、224、226、230、
獨逸(神聖ローマ帝国)の軍隊 210、
獨逸(神聖ローマ帝国)の皇帝 147、
獨逸(神聖ローマ帝国)の自由 253、
獨逸(神聖ローマ帝国)の自由の破滅 206、
獨逸(神聖ローマ帝国)の新教徒全体 205、
獨逸(神聖ローマ帝国)の将軍 135、
獨逸(神聖ローマ帝国)の戦争(三十年戦争)153、153、
獨逸(神聖ローマ帝国)の僧〔牧師〕 138、
獨逸(神聖ローマ帝国)の同族 147、
獨逸(神聖ローマ帝国)の最も由緒ある舊家の王侯(ファルツ選挙侯フリードリッヒ五世)194、
獨逸(神聖ローマ帝国)の立法者(バイエルン選挙侯) 207、
獨逸(神聖ローマ帝国皇帝の)兵 135、
獨逸(神聖ローマ帝国)の平和 200、
同派の僧正()203、
同盟(ライプチッヒ同盟)163、177、271、
同盟軍(舊教同盟)280、
同盟軍(イギリス、デンマーク、スウェーデンなどの)83、84、84、84、85、エルザス(フランス北東部に存在する地域圏。1648年 -
三十年戦争の結果、神聖ローマ帝国(ドイツ)からフランスに割譲される。
同盟者(イギリス、デンマーク、スウェーデンなどの新教徒)83、 142、
1870年 - 普仏戦争において、フランス敗北により隣接するロレーヌと併せてドイツに占領される。
1919年 - ヴェルサイユ条約によりフランスが占領する。
1940年 - 第二次世界大戦のフランス降伏により再びドイツに占領される。
1945年 - ドイツの降伏によりフランスに再度占領。以後フランス領土として現在に至る。
)84、86、86、86、
都市の代議員(市参事会員の被選出権者) 45、
當代の二大将帥(瑞典王とケィリー将軍)288、
トウルガウの国会(ボーデン湖を挟んでドイツの向き合うオーストリーの都市。宗教改革では改革派が優勢で、1526と1531ではトゥールガウ州の人口の大部分は、新しい改革派の信仰チューリッヒからの拡散を採用し、カッペル戦争〔
1531〕)で改革優勢となった。) 250、
土耳古〔トルコ〕王宮 130、
土耳古軍 95、
土耳古人 79、
トリエント宗教会議(教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント〔現在のイタリア領トレント〕で召集され、1563年12月4日にピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の公会議。)41、
内亂の嵐(清教徒革命またはピューリタン革命、せいきょうとかくめい/ピューリタンかくめい、英語:Puritan Revolution または Wars of
the Three
Kingdoms)は、狭義には1641年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命である。広義には1638年の主教戦争から1660年の王政復古までを含み、「大反乱」「三王国戦争」もしくは名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とも呼ばれる。)153、
二十分の一税〔十分の一税とは別に加算徴収〕 15、
ニーデルラント戦争〔ネーデルラント=ベルギー、オランダ地方〕(1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれた。)97、244、
ニーデルラントから進軍してきた新手の皇帝軍(ティリー将軍はニーデルラント出身の将校) 133、
二大僧正区〔大司教区〕(マインツ大司教・ケルン大司教 )205、
ノイブランデンブルクの陣(ティリー軍の虐殺)247、
背教者(カトリック教会から離れた者) 19、
匈牙利(ハンガリー)騎兵隊 135、
匈牙利(ハンガリー)軍 91、134、181、
匈牙利(ハンガリー)人 91、108、
叛軍(トゥルン伯爵とその同盟軍)110、134、
叛徒の荘園〔トゥルン伯爵のベーメンの領地〕106、
バイエルン軍〔バイエルン公国の軍隊・皇帝軍〕 70、180、
バイエルン軍及びヴァロン軍〔ヴァロン軍はフランス・ローヌ河沿いの地域の軍隊?〕 135、
バイエルン選挙侯の合法性(ライン宮中伯がシュヴァーベン、ライン川沿岸地域における国王代理。家令〔トゥルッフゼス、ダピファー〕。1623年、三十年戦争に敗れてドイツを追われ、遠い縁戚にあたるバイエルン公に選帝侯位を奪われた。) 200、
バイエルンの軍籍 219、
バイエルンの奴隷 146、
敗走する敵(皇帝軍)291、
ハイデルベルク大学 201、
パッサウの会議(1552年 パッサウ条約締結 )25、
パッサウの軍隊 59、
バーゼルの宗教会議(1431年にスイスのバーゼルで開会されたキリスト教の公会議。)51、
反宗教改革運動(フェルディナンド二世による運動) 201、
パッペンハイムの軍隊(皇帝軍)264、
匈牙利(ハンガリー)王〔1526年には、モハーチの戦いに敗れ、国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年にブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国〔オスマン帝国領ハンガリー〕、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった) 119、
反抗的な国会議員(皇帝に対して=新教徒の国会議員) 271、
バルト海の国王たち(丁抹(デンマーク)・瑞典(スエーデン))177、
一つの君主国(神聖羅馬帝国)154、
ピレネー山脈(フランスとスペインの国境が走る褶曲山脈である。ヨーロッパ大陸とイベリア半島を分ける山脈でもある。)147、
皇帝の版図擴張計画(不明) 208、
ファルツ家の復讐慾と宗教的憎悪(ファルツ家の選挙侯の職がバイエルンの移譲されたことへのうらみp172参照) 172、
ファルツ人(ドイツ・プハルツ地方の住民)24、
ファルツ選挙侯の職(選挙侯=皇帝を選ぶ職) 172、
ファルツ選挙侯の帽子(ファルツ選挙侯フリードリッヒ五世の帽子)153、
フェルディナトド軍(皇帝軍) 211、
フランクフルトの帝国議会()296、
福音〔書〕派〔議員〕 31、32、33、34、34、37、45、46、60、60、72、72、73、73、73、85、87、90、93、122、130、142、155、201、202、206、207、284、
福音書教会の危機 256、
福音派の国会議員 250、
福音派の宗教〔プロテスタントの〕253、
福音派の利益 269、
福音派説教師 173、
不倶戴天の敵(カトリック勢力=神聖羅馬帝国)152、
フゲノッテン〔ユーグノー〕(フランスのプロテスタント)133、
二人の王侯(ヴァレンシュタイン伯クリスチアーンとバイエルンの将軍ティリー) 194、
佛蘭西〔フランス〕王国 132、
佛蘭西〔フランス〕の議員 210、
佛蘭西〔フランス〕全権委員 212、
フリードリッヒの砲兵隊(ザクセン選帝侯フリードリッヒ五世の隊) 135、
ブラウナウの教会(ベーメンの首都プラークの大司教領)101、
プラーク〔プラハ〕の議会 122、
プラーク〔プラハ〕の宮殿 217、
プラーク〔プラハ〕の国会 54、54、54、54、54、
プラーク〔プラハ〕大学 55、56、
プラークの代官(p103参照) 102、102、
プラーク大僧正〔大司教〕56、
ブランデンブルク選挙侯国 75、
ブランデンブルク選挙侯国の領土 269、
平和条約 11、11、20、270、
ヘッセン領民 279、
ベイエルン家 172、
別個の者(ヴァレンシュタイン将軍) 207、
ベーメン一国 105、
ベーメン王 59、106、121、
ベーメン王位 58、58、106、106、132、
ベーメン王冠 116、116、153、165、
ベーメン王国 58、108、110、110、115、122、124、
ベーメン王座 55、
ベーメン係争 88、
ベーメン国会 53、54、54、55、55、55、55、56、56、57、58、61、61、
ベーメン国会議員 121、122、
ベーメン国内 130、
ベーメン国法 53、53、102、
ベーメン契約(バーゼル宗教会議でのフス派の問題にも一応の解決を見る)51、
ベーメン軍 118、118、118、119、121、126、126、126、134、135、137、137、
ベーメン人 53、54、55、56、58、99、103、107、107、109、109、114、114、114、115、138、138、138、138、138、166、166、166、
ベーメン戦争 127、127、128、161、244、
ベーメン全土 138、
ベーメン僧団 53、53、
ベーメン僧侶議員 100、
ベーメン討伐 133、
ベーメン兵 135、
ベーメン騒動(投擲事件p103) 296、
ベーメン紛糾 201、
ベーメンの貴族大官 131、131、135、
ベーメンの市〔首都・プラハ〕の参事会員 99、
ベーメンの新教徒 105、106、
ベーメンの信仰告白 56、
ベーメンの事件(投擲事件103p参照)131、133、
ベーメンの人民 104、116、
ベーメンの僧〔牧師〕 138、
ベーメンの民 107、115、117、122、
ベーメンの勅許状 99、
ベーメンの叛徒 105、106、106、126、151、
ベーメンの叛亂 128、
ベーメンの騒乱 109、
ベーメンの擾亂 128、
ベーメンの分隊 134、
ベーメン法王派 97、
ベーメンの歩兵隊 135、
ベーメン本陣 135、
ベーメン暴徒 117、
ベーメン暴動 88、105、106、
ベーメン領 134、
祕露(ペルー)の竪坑 147、
包囲軍(ティリーの軍)260、
法王(ローマ法王。パウルス5世 (1605-1621) グレゴリウス15世 (1621-1623) ウルバヌス8世 (1623-1644)
インノケンティウス10世 (1644-1655)
)40、66、66、66、68、82、149、149、149、149、149、149、149、149、155、204、
法王派 73、92、96、97、102、131、172、
法王政治 15、17、20、20、20、45、66、
法王廳(バチカン)17、19、19、
法王黨(法王を中心とした勢力)19、28、35、35、38、39、
法王領()83、149、
北欧諸国(北ヨーロッパ〔北欧〕のスカンディナヴィア諸国、フィンランド、アイスランドの5ヶ国の総称である。)141、
北方の両王国の合同(丁抹・瑞典) 198、198、
ホルシュタイン公なる名前 199、
本山〔マクデベルク大聖堂〕267、267、
本山の宣告〔皇帝の要求?〕255、
暴動の頭目等〔トゥルン伯爵とその代議員等〕107、
波蘭(ポーランド)戦争()159、224、
本山僧(ローマ・カトリック神父)会員 66、
マクデブルク大僧正区(大司教区)204、248、
マクデブルク僧会 203、
マチーアス叛亂 (マティアスは1593年に、兄で神聖ローマ皇帝であるルドルフ2世によってオーストリア総督に任命された。彼はそこで、ウィーン司教であり後に自身の右腕となるメルキオル・クレスルと、神聖ローマ皇帝に対抗するための密約を交わした。その密約の結果、1605年、マティアスは病気の皇帝に、ハンガリーの宗教的な反逆者と通交することを許可させた。)89、
マリア崇拝(カトリックの特徴)161、
マントゥアの戦(イタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県のコムーネの一つで、マントヴァ県の県都での皇帝軍の戦p211) 214、
向うところ敵なき我軍(瑞典軍)282、
娘婿(ファルツ選挙侯フリードリッヒ五世) 174、
ミュールハウゼンの選挙侯会議()201、
名譽心強き領主(ヨーハン。ゲオルグ一世)249、
盟友(ザクセン選挙侯)282、
メーレン国会議員 92、93、109、
メーレンの新教徒 117、
ユーグノー(フランスのカルヴァン派)175、
ユーリッヒ継承問題 82、96、
『余のマkrデブルクに向かう』(瑞典王の弁明書)269、
ライプチッヒ協定()254、254、
ライプチッヒ同盟()259、271、271、271、273、279、
ライプチッヒの戦い(ブライテンフェルトの戦い1631年) 296、
ラヴァイヤック凶刃(1610年5月14日、狂信的なカトリック教徒ラヴァイヤックによってアンリ4世は暗殺された。)82、
連戦連勝の国王にして作戦の絶対君主(ヴァレンシュタイン)212、
領主(神聖ローマ帝国内の領地を持つ貴族)19、22、34、34、98、113、
領主階級 57、
領土と人民なき領主(ファルツ選挙侯フリードリッヒ五世)171、
リュベックの平和会議(1629年。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に属する。バルト海に面する北ドイツの代表都市。かつてはハンザ同盟の盟主として繁栄を誇った。正式名称をハンザ都市リューベック〔Die
Hansestadt Lubeck〕という。トーマス・マンの故郷) 199、199、221、
両軍(カトリック・プロテスタント)132、
両軍(ザクセン軍と瑞典軍) 284、
両者(瑞典王と方伯ヴィルヘルム)278、
両派(カトリック・プロテスタント)78、94、94、132、132、200、
両宗派 204、
両宗派の条件(カトリック・プロテスタント)200、
良心的な国王の力(瑞典王グスタフ・アードルフ)228、
リュベリックの平和条約() 204、
ルーテル教徒〔派〕 27、27、30、52、61、67、67、72、74、75、122、130、130、
ルーテル信奉者 72、
レーゲンスブルクの会議 214、
レーゲンスブルクの帝国議会〔1613年〕93、
レーゲンスブルクの選挙侯会議 210、245、
聯合軍(カトリック)160、
聯合せる匪賊(ブラウンシュヴァイク侯クリスチアーンの軍隊) 169、
六人もの選挙侯(ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンベルク辺境伯、マインツ、トリーア、ケルン各大僧正=大司教)214、
籠城軍(マクデベルク市の軍)259、260、260、260、261、261、
羅馬教会(ローマ教会・ヴァチカン)18、29、37、
羅馬教会の王侯 ですらある彼(リシリュー)222、
羅馬の君主 149、
羅馬皇帝(神聖ローマ帝国皇帝)19、
羅馬の大僧正(大司教)149、
羅馬の国政(法王の行政) 149、
倫敦(ロンドン)の議会 92、
我軍(瑞典軍)275、
我身(ザクセン選挙侯)283、
我が領内(ザクセン)280、
和議(アウグスベルクの) 206、
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字句牽引
阿世(あせい、世の中)98、
阿鼻叫喚(あびきょうかん=地獄の苦しみの耐えかねて泣き叫ぶさま)238、
晏如(あんじょ=やすらかに落ち着く)295、
安寧(あんねい=穏やかで平和なこと)152、
圍繞(いじょう=かこいめぐらす)217、227、268、
一籌(いっちゅう=ひとつの謀)178、
鬱勃(うつぼつ=胸中に満ちた意気が、まさに外にあふれようとするさま)272、
雲霞(うんか=くもとかすみ=ひとが多く集まるさま)266、
怨磋(えんさ=うらみなげく)208、
貶して(おとしめして、劣ったものとしてあつかう、いやしめる)60、
慮つて(おもんぱかって=深く考えをめぐらすこと)199、
戈(か=ほこ=両刃の利器に長い柄を付けた刺突用の武器)200、
角逐(かくちく=互いに相手を落とそうとあらそうこと)255、
彼是(かれこれ=あれこれ)230、
苛斂誅求(かれんちゅうきゅう=過酷な取り立て)191、238、
干戈(かんか=たてとほこ=いくさ)200、
寛恕(かんじょ=ひろい心で許すこと)159、
奸侫な寵臣(かんねい=心がねじけていて人にへつらうお気に入りの臣)148、
帰依(きえ=神仏を信じすがること)19、
龜艦(きかん=行動の基準となる物事、かがみ、てほん)232、
跪座(きざ=ひざまずいて)233、
覊絆(きはん、講堂を束縛するもの・牛馬を綱などで繋ぐ)82、
歸服(きふく=こころをよせて付き従うこと)204、
糾合(きょうごう=ひとつによせあつめ、まとめること)185、
胸墻(きょうしょう=敵の射撃弾を防ぐ目的で人の胸の高さほどに築いた土塁)151
居中調停(きょちゅうちょうてい=留まって調停する)132、253、
槿花一朝の夢(きんかいっちょうのゆめ=むくげ、朝顔の花は一朝だけ咲くだけ)292、
炯々(けいけい=鋭く光り輝くさま )218、227、
決河(けっか=洪水にため、河水があふれて堤防を破ること)188、
寇禍(こうか=仇なわざわい)148、
劫掠(ごうらく=おびやかしてかすめとる)168、
此處(ここ)19、
股肱の臣(ここうのしん=手足となって働く臣下。ファルツ選挙侯フリードリッヒ五世に対して働く猛将マンスフェルト伯爵エルンスト)165、210、
茲に(ここに)23、
忽焉(こつえん=たちまち、忽然)211、
扈従(こじゅう=小姓=将軍の側にいて身辺の雑用を世話する役) 217、273、
拱いて(こまねいて=駒抜く)293、
采邑(さいゆう=領地・知行所)173、
嘸かし(さぞかし=さだめし、さぞ)222、
左袒(さたん=加勢する、味方する)273、
簒奪(さんだつ=帝位を奪いとること)221、
誣ひた(しいた=そしる・ありもしないことをいう)130、
首鼠(しゅそ=迷って結審がつかないこと)268
聳動(しょうどう=衝動)105、
耳朶(じだ=耳)200、
呪詛(じゅそ=のろい)211、
璽餘(じよ=残りの)140、
悚然(しょうぜん=恐れてぞっとするさま)267、
慴伏(しょうふく=恐れて平伏すこと)292、
不知不識(しらずしらず)35、
荏苒(じんぜん=物事がのびのびになるさま)240、270、
勢望(せいぼう=勢力と人望)207、
戦々恐々(せんせんきょうきょう=おそれおののくさま)200、
剿滅(そうめつ=ほろぼしつくす)186、294、
齟齬(そご=くいちがい)204、
その麾下の将軍(その、きか=直属=のしょうぐん)201、
擡頭(たいとう=頭をもたげる)211、
民草(たみくさ=民衆)232、
團匪(だんひ=匪賊の団体)164、165、
褫奪(ちだつ=衣服をはぎ取ること)189、255、
誅求(ちゅうきゅう=きびしくせめ求めること)184、
恙(つつが=病=やまい)233、
傳單(でんたん=ポスター)107、
韜晦(とうかい=自分の才能・地位をつつみ隠すこと)198、
都鄙(とひ=みやこといなか)256、
猶更(なおさら)15、23、
僕婢(ぬひ=下僕下女)217、
寧日(ねいじつ=休みの日)101、
犒ひたい(ねぎらいたい)160、
吃驚(きっど=びっくり=驚く)206、
犇めく群衆(ひしめく=大勢が押し合うさま)265、
剽盗(ひょうとう=おいはぎ)189、
放恣(ほうし=勝手気まま)189、273、
澎湃(ほうはい=水のみなぎりさかまくさま)200、
蒙塵(もうじん=天子が変事に際し難を避けて逃れること)185、
輸す(もたらす)178、
喧しい(やかましい=騒々しい、)皇帝 211、
所以(ゆえん=いわれ=理由)267、
容喙(ようかい=口出しする)199、
累卵(るいらん=卵を積み重ねる=危機)119、
流涕滂沱(るていぼうだ=涙のながれるままにしておく)231、
轣轆(れきろく=車などのきしる音)218、
鹵獲物(ろかくぶつ=奪い取った敵の軍用品)202、
和哀協同(わちゅうきょうどう=心を同じくしてともに力をあわせること)232、
罠(わな=他人を陥れるための謀略)211、
寛恕(かんじょ=度量広く、おもいやりの深いこと)297、
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