義士・尹奉吉(ユン・ボンギル)

2005年梅軒尹奉吉義士顕彰会連絡事項                          謹賀新年05年を迎え皆々様のご健康とご多幸を心からお祈り申し上げます。(2005年元旦)『乙酉年』韓国独立運動の英雄、尹梅吉義士暗葬の恨を胸に』秘めて46年、遺跡地に暗葬乃碑が建立され、12年が過ぎました。多くの日本、韓国人は勿論、中国、米国、ペルーからも訪れています。皆様のご支援ご協力で護られて来ました。本年も変わらぬご厚情をお願い申し上げます。    梅軒尹梅吉義士顕彰会(日本)  役員一同       

 尹奉吉義士を讃える文化祭参加案内                                           @4/28-29日は文化祭参加、忠清南道禮山面の義士出身地の温泉ホテルに宿泊。                 A(29日以後離団可)参加者が観光箇所や希望する事等2月末日迄連絡下さい。人数と希望コースを参考に詳細な案内図を、3月末までにご希望者に送付致します。                                 B県外の方は最寄りの空港を利用され、4月某日韓国仁川(インチョン)空港で合流。                

事務局 朴仁祚(電話076−298−7337)


丈夫出家生不還

  〜献詩〜 森閑の聖地             李 一世

古松森閑、静謐野田山の陵域
      義士の威韻漂うが如く
      恭謹して襟を整す。
      「尹奉吉義士暗葬之跡」
      碑石の岩塊は、
     英雄の不抜の剛毅を示すが如く泰然とし
      一字一画は、義士の高邁な
      気概を語るが如く凛然とす。
         
      身を挺して壮挙を敢行し
      驕敵を震撼せしめ
 民族の自尊と、主権還回の志を
      内外に皓示し
      暁明ひとり銃弾の
      標的に立つも、昂然として
      「我為すことをなし、本懐なり!」と莞莞爾たり。

      時に芳春、二十四歳!
      青雲満腔たりて
    敵をんも感嘆せしめ、暗の裡に葬らる。
     悲壮にして聖魂塵土に埋もれ、
     踏るること十数霜、
     然れども偉功朽つることなく、
      甦り来て還郷をはたし
      故国に図の展くうぃ視、
      英勲輝く国烈士の称に浴す。

      遺恨の地ここ野田山に、碑石
      悠然として森閑に座す
      万人内外より慕い来たりて
      偉勲を讃仰し
      追慕伏拝して
      義士の壮図を偲び称え
      民族の栄と共に、永く顕彰し
      範とせんことを期す。

      私の鉄拳で敵を即刻討ち滅ぼす覚悟


 二十三歳、歳月が経つにつれ、われらへの圧迫と苦痛は増加するのみである。私はここに一つの覚悟をした、率直にゆうならば、痩せ細る三千里(朝鮮半島を指す)の山河の我が国を黙って見ている事はできぬ、水火に落ちた人を泰然と見ている訳には行かぬ、これに対する覚悟は他ならぬ私の鉄拳で敵を即刻粉砕することだ。この鉄拳は棺桶の中に入れば無用の代物である。老いれば無用だ。今冴えて私の耳に聞こえるのは、上海臨時政府である。多言不要 この覚悟は上海を目標にし、敬愛する父母兄弟と最愛の妻子と麗しい故郷や山河と別れ、辛い胸の中を握りし,鴨緑江を渡った。  梅軒・尹 奉吉 (1932年自筆 略歴の一部)

 
 尹 奉吉(ユン  ボンギル) 略歴    【同胞通信第四号より 転記】  生い立ち 韓国忠清南道禮山郡徳山面柿里の沐渓(モッパリ)で小川に囲まれた島中島で(川州)で千九百八年六月二十一日、農民である父尹墳 公(故人に付される尊称で公は社会での一般的地位)母金元祥との長男として生まれた。本名を禹儀(ウイ)又は熙儀(ヒイ)と呼び、繼N(ヨンキ)は字名(結婚して実名外につける)雅号は梅軒(メヒョン)であり、奉吉(ボンギル)は渾名・ニックネームである。幼少から伯父の門下生になって漢学を習い、優れた知性を備えていた。

 十二歳の時、三・一革命運動を目撃し、隷属的日本の植民地教育に反旗を掲げ、徳山公立普通学校を自主退学し、崔秉大(チュンピョンデ)先生の門下生となって漢学を修得。新聞や雑誌に目を通し漢詩を多く作った。二年後に成周録(ソンヂュノク)先生の門下生になり、四書三経(儒教典)を就学し、本格的漢詩作家として活躍(三百首現存)し、新しき文学や国家経綸をも研究し知識を広げた。

 社会人となる 十五歳に時「用順と結婚し二児を成した。(模淳は夭折、淙は一九八四年五十代で逝去、直孫七人ご健在。)各誌会においては名声を博していた。成先生より、「君に教えることはもう何もない」といわれて卒えるにあたり、先生の雅号である梅谷の一門であるとの意味から「梅軒』なる号が贈られた。

 一青年が墓域で親の歯かを探すのに、手当たり次第他人の墓標を抜き取り、無学の彼は元の位置に墓標を戻すことが出来なかった。この出来事から、民衆の無知によって国を奪われた事に気付き憤慨した尹奉吉は、十九歳の時に自室を開放し農民啓蒙の為に夜学を開き子弟を教育し、後に多くの民衆の支援により六間もある講堂を設立し、文盲退治に力を注いだ。美風良俗を養う学芸会をも開いた。農民達の意識改革や啓蒙の為に、月進会を作り、自ら会長となり、農民読本三巻を編著し(二巻現存)、新思想の高揚に努めた。

 二十一歳の時ソウルの時兆社の雑誌記者 李 黒龍と頻繁に交流し、新知識や国の内外の政治情勢を知るようになった。農民運動の本拠地として復興院を設立した。その紀念学芸会が開かれ、日本の植民地支配を風刺した劇が上演されて、その内容を当局からマークされ、「要注」の対象となり、以来尾行が続き自らの活動範囲がせばまった。

 植民地支配の野望と蛮行 一八七五年、日本は軍艦「雲揚丸」で朝鮮、京畿道の仁川港沖の江華島に砲撃を加え開港を迫った。その結果日本は、武力を背景に不平等なる江華島条約を結び、壬午戦争と甲申政変にも深く関わった。日清日露戦争で日本は勝利した賜物として台湾と樺太を属領とし、韓国を保護国として初代統監に伊藤博文を任じた。

 反発する民衆に対し、日本は武断政治で対応した。日本は韓国併合政策の傷害として一八九五年に韓国王妃であり国母と慕われていた、明成皇后(閔紫英)を三浦公使指揮によって暗殺した。五百年続いた李王朝最後の王族 李垠(十一歳)を留学の名目で五十六年間日本に人質としたその間に、現日本皇太后の従姉妹の 梨本宮方子 と政略結婚させた。一児である 晋の変死は、王家断続を企む日本側の毒殺論か、日本人の混血を拒む韓国側の仕業か未だに真相は闇の中である。こうして李家は日本の植民地支配により、永久に断絶してしまった。

 植民地にされ、日本側の土地収奪が始まった。二十六代高宗皇帝が典医によって毒殺されその国葬に便乗して二百万人が蜂起した三・一革命運動が起こり、八千人が虐殺され、負傷一万六千人検挙者四万七千人に達した。朝鮮半島に大激動が走った。三・一革命思想を継承する「大韓民国臨時政府」が上海に一九一九年四月に成立し、 李承晩 が初代首席となった。一九二三年九月の関東大震災で朝鮮人六千人が虐殺されたことが朝鮮半島にも伝わってきた。二九年の日本人学生による 光州学生事件は半島全域に反発を招いた。また成興水利組合事件で朝鮮人三人が撲殺された。

   このような蛮行を少年時代より見聞した 尹奉吉 の胸には救国の血が一滴二滴と蓄積し強い憤りとなり、一方監視の官僚の目は日増しに厳しくなった。農民運動の母体である月進会の陣容も整った今、尹奉吉は重大な覚悟をすることになった。上海にある大韓民国臨時政府へと美豆から方向を決めて、亡命への出立を模索。一九三十年三月五日の夜は、身重の妻そして一人息子の淙の三人で床を共にし、心の中で家族、そして住居にも別れを告げ眠れぬ最後の一夜であった。

  亡命  「丈夫出家生不還」(男子が志を立てて家を出たならば目的が達成されなければ生きて還らぬ)の七文字を記した遺詩を状差しに入れて、八粁の道程を歩いて挿橋(サッダル)駅発午前十時頃のソウル行き京南線に乗り、一路目的地の上海に向かった。三月六日 尹奉吉 は二十三歳であった。

 途中、宣川で不穏分子として長期の取り調べを受けた。その為に独立運動を目指している友人も出来、上海の情報を得ることが出来た。旅費を稼ぎながら一年後の三一年五月八日の上海に到着した。 尹奉吉 は野菜商を営みながら、臨時政府の要人とも接触し、金九国務領と念願の初対面も出来て独立抗争を画策した。上海に到着して一年近くたった一九三二年四月二十九日に好機が訪れた。

 上海爆弾事件  上海の虹口(ホンキュ)公園で、日本軍による天長節兼戦勝祝賀式典が二十九日行われた。厳重な検問を通過した一万余人(尹奉吉も怪しまれず入場した)が参加した戦勝祝賀パレードが終わり、続いて天長節の式典に入り、最初の「君が代」斉唱の終わる寸前、尹奉吉は緊張している壇上に向けて高性能爆薬が仕込まれている水筒の蓋を開け、安全ピンを素早く抜き十米程助走し力一杯投げた。午前十一時四十分頃、大音響と共に壇上は修羅場と化し、居並ぶ七人の要員は薙ぎ倒され、周辺の人を含め多数の死傷者がでた。

@白川義則陸軍大将上海派遣軍軍司令官 重傷一ヶ月後死亡
A植田謙吉陸軍中将第九師団長 左肩負傷 左足指全部切断
B野村吉三郎海軍中将第三艦隊司令長官 右目失明 右手小指切断
C重光 葵 駐華日本公使 右足切断
D河端貞次 上海居留民団長 翌早朝死亡
E村井倉松 上海総領事 重傷
F友野 盛 居留民団書記長 重傷
G川口 某 大阪毎日新聞社特派員 外多数被弾

 爆発を確認し弁当箱に仕込んだ予備爆弾で自爆する間もなくその馬で逮捕された。民間人の尹奉吉 は領事裁判に付されるべきだったが、上海派遣軍の主力部隊である第九師団による軍法会議で五月二十一日死刑判決が下された。その後十二月十八日、第九師団所在の金沢に処刑のため連行された。翌十九日、この地より北東二千米の地点の小牛山の一角で銃殺刑に処せられ、午前七時四十分朝露と消えた。

 暗葬  二十四年六ヶ月の短い生涯を終えた遺体は、棺桶に納められ誰にも見届けられず、淋しき墓地内の通路に埋められた。  如何なる大罪人といえども、処刑後の遺体は遺族や知友の要請があれば引き渡すか、もしくは引取人がない場合は、刑務所墓地か陸軍墓地内の一隅に埋め十糎角で一米の墓標を建てる、と陸軍刑法等に明記されている。父親が断指してわが息子 奉吉 の遺体返還要求の血書を当局に提出したが、却って苛酷な仕打ちを受けた。当時金沢には六百人位の朝鮮人が住んでいたが、反日思想もなく全く無事平穏な空気であった。金沢へ極秘護送し、そこで処刑するという当局の策が効を奏した。尹奉吉は金沢の地にては僅か十五時間五分だけの命であったが、十三年の永い足跡を残したのである。

 当時石川県下在住一七百人の朝鮮人の中、字を読める極く僅かの人も特高監視下の世情の中全く傍観の域を出ず、口端にするものもなく数ヶ月ですっかり忘れ去られてしまった。

 遺体の捜索  日本敗戦の翌年三月二日、大韓民国臨時政府東京出張所より、尹奉吉義士遺骸奉還団 徐相漢団長 以下四名が、陸軍省より入手した野田山地籍図を携えて、当時の朝鮮人連盟石川県本部を訪れた。青壮年三十名が集まった席上、上海義挙事件の内容と 尹奉吉義士 について説明があった。

 「金沢の野田山墓地の何処かに朝鮮民族の英雄 尹奉吉義士 の遺体が暗葬されている。何ヶ月掛けても遺体を捜査せねばならず、代替に土を持っていく訳にはいかぬ。」という要員達の口を揃えた固い決意に、皆は奮い立った。

 作業の計画が練られ、総合的見地から 陸軍墓地管理事務所からの視界内と決められた下部周辺の松林や荒地に掘削の鍬やスコップの音が響き、墓地内の静寂を破った。県下から集まった五十余人の若人は手に出来る豆も気にせず懸命に捜し求めた。

 三日目の午後、情報係の朴聖祚氏が、暗葬後、読経された覚尊院主 山本了道尼僧(92年還化)を伴ってきた。師の指す地は、現在焚き火をしながら発掘交代者が休憩している通路であった。唖然とした。直ぐに消火し塩で付近を清め全員が深々と礼を行い、謙虚な態度で慎重に作業を進めた。まず十字 刑 架、続いて靴、そして朽ちかけた木棺の中から腐った背広の下に子根と絡まっている遺骨を発見した。眉間が貫通された頭部より、当時金沢医専の学生であった 朱鼎均氏がアルコールにて洗骨し、収骨された。

 義士は一九三〇年三月六日に亡命し、十六年後の四十六年に奇しくも同じ、三月六日に遺体が発掘された。

遺骸発掘の推移写真(当時の記録・撮影者 金 昌律)

           野田山の空地に発掘開始                                            
         1946年3月4日、野田山の空地に発掘開始               当てのない発掘にさまよう 

                                                         
            探求者での慰霊祭(三子牛山)                      二日目、曽根元憲兵の証言の場所を

                    
                                                              
               山本了道尼に教えられた場所を                   尼の指摘した場所は上下墓所の通路

                                                     
           棺発見・慎重に発掘作業を行う                      蓋を取り除いた瞬間・息をこらえ

                                                                      
                 遺骨の収納                                        発掘隊に守られて恨の野田山を下る

                  

                                      
           金沢市金屋町・朝連本部に仮安置                 三月九日、祖国へ無言の帰国へ

士は一九三十年三月六日に亡命し、十六年に奇しくも同じ、三月六日にいたいが発掘された。 
遺体発掘者名簿  本部長 徐 城民  総指揮 朴 甚燮  作業部長 朴 東祚
写真  金 昌律   渉外  具 範植  金 基億   輸送  慮  慶沫   情報  朴 聖祚
食料  尹・西村
朴三得  朴章福  朴正會  朴錫相  朴起東  朴仁祚  李孫徳  李守燮  李健雨  李章雨
朱鼎均  文敬柱  尹載燠  柳英洙  白順基  姜海星  元旦徳  梁重日  成守岩  閔炳勇呉萬碩  卞聖律  劉菜玉  秋秉道  秋甲祚  「順伍  (姓のみ)高柳  金文(本名不明通名)福田  山本  中田  松山  藤本  春山  宮本  河村  山村  村中 金本  花川  伊藤

帰国  遺体は三月九日午後三時六分発六○二号上野行き列車の二等客車一輌を借り切り、徐相漢団長 朴東祚警護隊長等七名に見守られ、停車駅毎同胞の追慕の花と涙の送迎を受け東京へ・・・・・。臨時政府東京出張所内に安置され、毎日在京同胞の供養が続いた。白貞基 李奉昌 尹奉吉 の三義士の遺骨が揃い、東京の桜田門外にて合同追慕葬が行われた。三千五百人が参加し、同胞愛の涙が地を濡らした。白貞基義士は長崎県の諫早刑務所で獄死、李奉昌義士は浦和刑務所で処刑され、尹奉吉義士は金沢で処刑されたのである。

 五月中旬、連合国軍総司令部の好意により、米軍艦にて三義士を韓国の釜山まで葬送した。六月十五日大追悼式が釜山で挙行され、特別臨時列車にてソウルに到着。七月七日ソウル運動場にて十余万人参加の初めての国民葬(国葬)が行われた。ソウル中心部の龍山区の高台にある、孝昌公園内の三義士墓域で、故国の土壌の中に、安葬され永久の眠についた。合唱

 暗葬の跡地永久保存へ  韓国独立運動の偉大なる英雄であることだけは胸に刻まれた。処刑地、暗葬地と周辺には深い思い出が私(朴仁祚)にあった。戦時中、毎年の春秋に陸軍墓地で戦没者慰霊祭が行われる前日に、小学校の私達が大掃除に動員された。かき集めた塵埃等を、こともあろうに先生の指示で尹奉吉義士が暗葬されている真上で焼却した。知らなかったといえども惨い、あまりにも惨い。私達は計六回もこの上で焼却作業をさせられた。遺体はこの参道の真下に見捨てるが如く埋められていた。

 十三年の間遺体の上を幾多の人が歩いたことやら。動物の死骸でさえ通路のど真ん中に埋める人はおらぬであろう。神仏崇拝を重んじる精神を大きく逸脱し、亡き仏に憎悪を込め鉄槌を打ち下ろす、二重三重の処刑に他ならず、誠にお粗末な所行と言わざるを得ない。若し韓国の地であったら国家が「梅軒暗葬事績地』として、政府管理により永久保存されるであろう。

 義士の遺体発掘に関与して、民族の英雄の軌跡地を永久保存しようという決心をした。遺体発掘写真十五枚が唯一の証拠であった。ことある毎に在日同胞に保存を訴えるが、義士に関する知識は皆無で、頷くのみ。四十年の間前進はなかった。

 一九八七年、とある縁で発掘写真と遺体発掘者の生存が韓国側に知れわたった。国からの支援のある尹義士関連の顕彰の施設や団体の存在がわかり、双方が驚いた。義士の実弟 尹南儀先生が現地に訪れ、碑建立を夢見る私を注目した。両肩に重荷がのしかかって来た。

 その後文化人ら四人で碑建立へ足並みが揃うかに見えたが、志向が合わず、消滅。八十九年に二つの民族団体に相談したが、私の意とするものではなかった。九十年中頃暗葬の跡地に建っている県の焼却炉の撤回の申し入れに対し、廬泰愚大統領の来日間際でもあり、県は直ちに移設したことが韓国にまで伝わり、野田山に対する関心度が深まった。韓国サイドより七月十一日に「韓国スタイルの亀板と碑身、龍冠を彫刻して金沢港まで送るから処刑地若しくは周辺に殉国碑を建立するように』との要請、後日「五十坪程の用地に建立し小公園に』との要請があった。暗葬の跡地は狭いのと「移葬不顧』( 遺体を移したらその跡地には見向きもしない)の習慣から暗葬の跡地は不要であるとの空気が伝わって来たが私は「暗葬の跡地』に固執した。構想において大きな相違が明らかとなり、殉国碑の建立は果たしから遠のいた。

 韓国で懸案であった処刑地と暗葬地が、私達の動きによって特定された。九十二年四月二十九日は、ちょうど上海義挙六十周年の節目に当たる。そのため韓国では、国家的規模で「梅軒尹奉吉義士義挙六十周年紀年事業推進委員会』(会長は 金泳三現大統領)が九十一年十一月に結成された。

@上海義挙現場の虹口公園に銅像建立
Aソウル良材洞にある梅軒尹奉吉義士紀念館広場に銅像建立
B日本殉国現地に記念碑建立(野田山)
C尹奉吉義士 伝記の発刊
D紀念式典 国際学芸大学 復興院復旧 文化祭(月進會)
これらの大事業が推進された。

                            故国を望む二つの碑

                      
           梅軒尹奉吉義士 殉国紀念碑                        尹奉吉義士 暗葬之跡

 韓国独立運動の英雄である尹奉吉義士 が一九三二年十二月十九日この周辺で銃殺刑に処され暗葬されたことを永久に忘れず、再び不幸なる歴史を重ねることがないように、韓日友好親善を願い、九十二年四月二十一日に殉国六十周年を紀念して、推進委員会と在日民団の手によって建立された。韓国スタイルの碑石の三点は韓国で彫刻されたものであり、欄干と床石板は韓国産の花崗岩を現地業者が加工したものである。紀念碑えの参拝は黙祷でおわるのが韓国の習慣である為、焼香、燭台、花立等の設備はない。そのため特に夏は折角の花が萎れるので手製の花挿しを備えた。

 九十年四月、「指紋押捺問題を考え学ぶ金沢市民の会」(以下「市民の会」)に招かれて 尹奉吉義士が暗葬されていた跡地の問題の概略を述べた。 尹義士 に関しては「市民の会」のメンバーは始めての様だった。その後約二年間、調査や研究学習を行い、碑建立に賛同する四団体で「ユンボンギル暗葬地跡を考える会」を結成し、代表に金沢大学の鶴園祐助教授を選出した。先ず知られざる 尹奉吉義士 の軌跡を広く知らせることから始めた。

 尹義士が処刑された地は既に整地され、国有地となってい特定するのは困難である。発掘写真と発掘者の証言により特定された暗葬の跡地こそ正に史跡であり、私は飽くまでもこの地に固執した。九二年十二月十九日の義士殉国六十周年紀念日を工事竣工日と定めた。

 九十年四月、「指紋押捺問題を考え学ぶ金沢市民の会」(以下「市民の会」)に招かれて 尹奉吉義士が暗葬されていた跡地の問題の概略を述べた。 尹義士 に関しては「市民の会」のメンバーは始めての様だった。その後約二年間、調査や研究学習を行い、碑建立に賛同する四団体で「ユンボンギル暗葬地跡を考える会」を結成し、代表に金沢大学の鶴園祐助教授を選出した。先ず知られざる 尹奉吉義士 の軌跡を広く知らせることから始めた。

 市民運動が展開され、会員達は手弁当で協力し工事の手伝いにあせを流し、又募金運動も行われた。会議において論争もあり紆余曲折もあった。しかし全国から韓国、朝鮮、日本人五百余名より多くの浄財や激励の言葉が寄せられた。義士の出身地の徳山にある農民運動の母体の月進会より三十名の参加もあり、総勢八十名による竣工式が、十二月十九日に行われた。

 日本人は勿論、在日の二世以降の人も神仏に対する信仰習慣を持つ人が多いため、棺を型取った封墳(土盛り)の中に義士の棺と処刑前の二枚の写真を久谷焼皿に焼き付けし、伊勢谷功師が導師となられ、記念法要にて納められた。又、義士の頭髪は収集に困難を極めたのでそのまま埋め戻した、と発掘者朴起東氏が証言された。遺骨を収集された朱鼎均氏は、七箇の骨が不足していたが、これは拷問による指等の欠損か又は十三年の歳月で溶解したのか、或いは土の中に混じっていた為に未収なのか不明であり、永久保存工事された暗葬の跡は墓であるといっても必ずしも間違いでないであろうと思う。

 尹奉吉義士 を独立運動の闘士にさせたのは、朝鮮を植民地支配した日本である。上海爆弾事件は正にこれに起因したのである。再び他国を侵略してはならず、一番近い隣国との友好親善のためにも、この事業を風化させてはならぬのではないだろうか。

 工事竣工後運動体の母体は解散し、保存会が作られ、翫正敏師と会長に迎え、暗葬之地を史蹟として位置づけ維持管理されている。
@自然石(約一屯花崗岩)寄贈 金相基氏  (岐阜県在)
A碑文 揮毫(隷書) 水堂 申 仁弘先生  (神戸 在) 
B月進会 よりの協力    尹 圭相会長  (韓国 在) 
C亡命遺誌碑  寄贈    朴 起東氏    (石川県辰口在)
D工事竣工式に月進会より 保存工事運動の母体の会、土木工事の中村建設、朴 仁祚に感謝状が贈呈された。
E九五年四月三十日ソウルにある梅軒尹奉吉義士紀念事業会より、朴 仁祚に感謝状が贈呈された。
F保存会の名は「梅軒尹奉吉義士暗葬之跡保存会」(現・・・)

                  
           説明板取り付け工事・朴仁祚副会長                  残雪を掃き清める朴仁祚氏

    目次へ    TOPへ