自転車 第一章 段差二糎米   その1 甲状腺

自転車(改題・或るニートの半生)  第一章 段差二糎米 

   
その1 甲状腺

 文雄は着替えをしながら思った。「病気は幾つ持っていても病人じゃないんだ。戦おう。」着替えを終えると文雄は玄関に出、片隅に置いてある圧縮ポンプ付きの空気入れを手に庭へ回った。後輪のバルブにポンプのホースを接続し、ポンプを押した。「今日は横羽線の下を大師橋まで行き、競馬場まで行ってみようか、三十分位掛かるかな」と自問。空気入れを外し、玄関の片隅に戻すと扉を施錠して裏庭に戻った。

 梅雨前からの発汗・悪寒が取れず半年以上に及ぶ体調不全。高血圧症・狭心症・糖尿病と成人病のオンパレードを持病とする文雄は病気との付合いにはなれていたが、長引く発汗・悪寒の継続に心中穏やかならぬものを感じ、集中力の衰えを「老人性なのか」と改めて認識しないわけにはいかなかった。その週の初め、N病院で受診した時、文雄は血糖値ばかりを気にする主治医に、発汗・悪寒をうったえた。主治医は文雄の咽喉もとに手を当て「咽喉には異常が見られませんが、甲状腺の異常を調べましょう。血液検査をして貰います。下の血液検査室に寄ってください」と言った。

 病院から帰った文雄は「家庭の医学」という本を探し始めた。電話帳や官公庁での発行物を入れてある押し入れをあけて調べたが無い。階上の物置に入れてある書架は足の踏み場もないほどに乱雑で、四つある書架のほとんどが中段以下は手も入れられない。今は客間にしている階下の六畳が学習塾の勉強部屋であった時、その部屋は文雄の書斎であり、日曜日には礼拝室であった。妻、淑子の要求でその部屋を客間とするために、文雄はテーブルや事務机を処分し、テーブルの下に置いてあった郵便物や事務用品をダンボールに入れて階上の物置に置いてあるのだ。さらに文雄は自分の健康用にとローラー式の歩行機を買い、物置の中央に置いてある。「だめだ」と文雄は目的の本をそこから探すのを止め、客間の本棚に入れてある百科事典で「甲状腺」を調べる事に思いなおした。百科事典は淑子が半世紀前、長男が中学入学に際して購入した物である。

 グランド現代百科事典のこうじょうせん〔甲状腺】の説明は「脊椎動物の鰓嚢壁(さいのうへき)から発生する内分泌腺の一つ。甲状腺ホルモンを分泌する。Thyroid(gland)ふつう、頸部の消化管の腹側にあるが形や形状は動物によって多少異なり、哺乳類と爬虫類では一体をなしているが、鳥類や両生類では左右に分かれて対をなしている。また魚類ではその組織細胞がえらや肝臓にまで分布していることがある。成人では甲状軟骨(のどぼとけ)の内側にある。左右の両葉と中間の峡部に分かれ、甲状腺濾胞と多数の毛細血管からなる。濾胞は、一層の上皮性細胞に囲まれた嚢状体で、内腔に甲状腺コロイドをたくわえる。

 【機能】甲状腺が正常に発達し、機能を発揮するためには海産物食品などによるヨード摂取を必要とする。海に遠い大陸内部にはしばしば甲状腺腫の患者がみられるが、その甲状腺は著しく肥大しているにもかかわらず、機能は不全である。甲状腺の機能不全で発育障害がおきると甲状腺性のこびと症や幼稚症をまねく。クレチン病は前者に精神衰弱をともなたものである。成長後の機能不全は粘液水腫を起こす。逆に甲状腺機能が過度に昂進するとパセドー病(グレープス病ともいう)になり、眼球突出・心拍頻数・甲状腺肥大などの特有な症状をもたらす」とある。

 病名は七つあり、逐一に書出すと次のようである。甲状腺炎・甲状腺癌・甲状腺機能冗進症・甲状腺機能低下症・甲状腺腫瘍・甲状腺線・甲状腺中毒症である。それぞれの説明を書出すのは大変なので、冗進症と低下症の場合を書出そう。「成因から、※パセドー病とブランマー病とに分けられるが、大部分はパセドー病である。ともに甲状腺ホルモンが多すぎるため、動悸、疲労感、体重減少、多汗、手指の人民の力ふるえ、気がいらいらする、食欲克進、微熱、下痢、不眠などの症状が起こる。患者の多くは、寒がり、皮膚がかさかさする、体重増加、便秘、疲労感、月経不順、いびき、声のかすれ、脱毛、意欲の低下、眠けなどを訴える」とある。

 なお、低下症の原因として、挙げられている説明を書き加えておこう。「@甲状腺に対する自己抗体のために甲状腺が破壊された場合、Aこれも自己抗体によるが※橋本病で甲状腺組織が破壊された場合、Bパセドー病に対する外科手術で甲状腺を取りすぎたため、あるいは放射性ヨード療法で放射性ヨードの量が多すぎたために、甲状腺が強く破壊された場合など」があげられている。

 文雄は自分の症状が甲状腺克進・低下症のいずれかの判断は出来なかったが、甲状腺の異常から発生していると考えついた。肩の重心何が取れたように思え安堵した。来週には血液検査の結果が分かる、主治医も対症療法を考えてくれるだろうと思うと部屋に閉じこもっていてはならないと考え、自分の一番苦手の運動にと自転車乗りの実行に移ったのである。


自転車 第一章 段差二糎米 

その2 市電通り

 小春日和りの中、文雄は渡田小学校脇の道に銀輪を走らせた。その小学校に文雄を入学させるために、両親が新田神社の近くからこの小学校の門前の二軒長屋に引越して来たという。
何故か分からないが、二番日の姉は新田神社近くの田島小学校に通っていた。一番目の姉、兄、三番目の姉と三人の姉・兄は田島小学校から渡田小学校に転校したのだ。兄と三番日の姉は両親の借地にそれぞれ持ち家を建てて居住している。

 兄は復員後、一年余りで日本鋼管に就職し、電気保全の仕事をしていた。文雄は五・六年遅れて兄と同じ日本鋼管に入社した。兄は定年まで大人しく勤めていたが、文雄は十五・六年で日本鋼管を退職し、藤崎にある東京ラジエーターに再就職する。戦前から兄とは仲の良くない兄弟であった(いずれ日本鋼管での文雄の体験談を語る時、兄姉との関わりに触れよう)。

 小学校脇を抜けると旧市電通りに出る。市電は文雄が小学生のころ走り始めた。正確には小学生が国民学校に変わった年というべきか。川崎市南部は京浜重工業地帯といわれ、市もそのように自認していたのだが、昨今は重という文字をとらなければならない。

 市電通りに出る時、文雄は昭和電線のブロック塀を見て驚いた。塀の向こうに二階か、三階建ての大きな建造物が建てられているのだ。文学サークルの仲間が夫婦で勤めており、文雄の弟も中卒で養成工として入社、後三年で定年になる。今年、文雄が味の素系列の会社にアルバイトで働いている時、バスで駅前に出るので市バスに乗るため、昭和電線の門前でサークルの仲間が夫婦でビラをまき、工場の移転反対運動を叫んでいたのにと文雄は胸を締め付けられた。

 新しい建築物はイトーヨーカ堂とか。文雄がアルバイトをしていた味の素本社工場の近くにあった東洋鋼管が閉鎖され、イトーヨーカ堂が建てられて開店したのは去年だった。それは多摩川の下流・六郷川に近い。その近くの旭町商店街はかなりの影響を蒙り、幾軒かの商店が店仕舞を余儀なくされた。そこは東京寄り、そこから自転車で十五分南に走ると市電通りにぶつかる。近くには県立川崎南高校がある、うわさではほど遠くないうちに、廃校になり、県立川崎高校に合併されるという。

 文雄が市電通りに出たとき、川崎市環境局の集塵操車が停留所の前に駐車し、歩道の銀杏の木の根元に集められていた塵の袋を積んでいた。文雄は川崎市環境局で働いている外国籍職員交流会の会長がいるかと、顔振れを覗き込んだがそれらしい顔はない。昭和電線の門の前にも環境局のセンターがあるのだ。あの会長は川崎市の国籍条項撤廃が、市長の点数稼ぎで、一八二職務もの未解放職務を残している事を承知しながら、積極的には差別撤廃の運動には参加しない、一九九六年五月以前に市職員に成った外国籍職員は縁故就職だったのじゃないかという考えが頭に閃く。

 ふれあい館が出来る前後市職への採用が一般市民には知らされずに行われていて、それに義理を感じていれば、差別撤廃の叫びも挙がるわけがない。文雄は指紋押捺の時、最初の拒否者だった彼が否後、しばらく大阪の方へ帰っているという話を思い出していた。

 昭和電線のブロック塀が終る所から、市電通りに交差して、日本鋼管の西門、JR南部線と鶴見線の浜川崎駅に行く道がある。昔は天飛川が流れ鮒や川蝦・ざりがにの宝庫だったが、文雄の初めの子が小学生になる頃、暗渠となり、姿を消した。

 交差点で赤信号の変わるのを待っていると、渡由小学校の東側の道から乗用車と軽トラックが数台市電通りに出てきた。赤信号を突っ切ろうとした、文雄は「危ない」と口篭って自転車のブレーキを握った。ガタンと前輪が車道へ出て止まる。この道を幾年、日本鋼管へ通ったのだろう。文雄の人生を大きく変えた日本鋼管製造株式会社。しかし、その交差点から日本鋼管はまだ見えない。

 信号が変わり文雄は市電通りを産業道路に向かって自転車のペダルを踏む。ガタンガタンと自転車は歩道の段差を登る。文雄はふっと「歩道と車道の差は二糎米という身体障害者の車椅子への配慮規程」を思い出した。

 若い時に結核性関節炎に掛かり、右足の踝から切断した姉はその二糎米がとても危ないのだと文雄に言い聞かせていた。その姉は食堂の入り口のモップによく躓いていた。そして川崎駅が駅ビルを造り、バス乗り場へはアゼリアという地下街にエスカレーターで降り、五十三段の階段を登らなければバス乗り場へは行けない事に立腹し、身体障害者仲間で盛んに市当局に苦情を申立ていた。

 川崎市は障害者には申し訳ないが、駅へは隣接するデパートが開店してから、デパートのエレベーターを使ってください、バス乗り場へはアゼリアヘ降りずに、柵に障害者専用の通用門を取りつけます、開閉は通用門の所に駅員へ連絡するインターホーンを設備しますから、それで我慢してくださいとの事。

 足の不自由な人にはエスカレーターの下りは、怖くて使用出来ないという事を全く理解していないのだ。弱者不在の行政感覚。 


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その3 産業道路

 行くてに原色の賑々しい幟がはためく。「スノー・タイヤの引取りを断つたタイヤ屋だ」文雄は呟きにもならない声で呟くと右手の茶色のビルを見上げた。

 NTTが十年はど前に分局として建築した五階建てピルだが、営業を始めて二・三年もしないうちに営業をやめ、系列の携帯電話企業に貸与したようで、今はデジタルネットという看板が入口の上に取り付けてある。その他にも木工造りの立て看板や急拵えの箱型の受付が入口付近に、所狭しと取付けてある。

 ビルが泣くような汚らしさだ。文雄はそこがまだ分局だった頃、一度だけ扉を開けた事を思い出した。幼い時に二宮の叔母の養女となった妹の亭主の不始末を片付けるためだった。

 その先はもうすぐ産業道路。二階建てで上はハイウェイの横羽線だ。産業道路が旧市電通りと交差する所は鋼管通りも交差していて、交通の難所である。市電が通っていた頃はロータリーになっていて、円形のガードの中央が刳り貫かれて市電の線路が走っていた。 横羽線の工事が始まる頃、市電の運行も中止となり、ロータリーは危険だという事で取り壊された。ロータリーは危険なのだろうか。この夏、ドイツ・オーストリアをパック旅行した文雄は、旅先で幾つものロータリーに出会い、それが交通信号よりも、ずうっと便利であることを実感したのだ。

 ロータリーが存在していた頃、その手前の右手には「魔の池」と呼ばれていた人工の池があった。産業道路建設のため堀り起こしたと、人伝てに聞いた気がしたが、危ういので長姉に電話で問合わせると、魔の池は二ケ領用水が作られた頃からある池で、市電を通すために、半分埋め立てられたという。

 その昔、夜中に近くを通ると池に呼び込まれるといわれ、それが魔の池の名前の言われだという返事が返ってきた。戦後もじめじめとした低地で雨降りが二、三日続くとすぐに床下浸水するありさまで、バラック住宅のほとんどは朝鮮人が住んでいるという風説が立っていた。

 文雄は数年前から関わった戦後補償裁判に関わる幾つかの光景を思い出した。金景錫は戦時中日本鋼管に強制連行され、強制労働させられたあげく、ストライキの首謀者として、全身殴打で半死半生の目に逢わされた。戦時中にストライキ?を支える会の結成会場での金景錫の証言に驚いた事。彼が日本鋼管で強制労働させられていた関係場所を調べた事。スタディ・ツアーで魔の池の跡地近くにツアーの参加者を案内して、産業道路下のガード道が分らなくなり困った事が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。

 金景錫達がストライキで立て篭った須田町食堂はロータリーがあった交差点のすぐ向こう側で、今は市営バスの停留所になっている。

 文雄にその事を教えてくれた人もそのロータリーから歩いて二、三分の所に住んでいる。その人の名は伊藤英作。剣道教師七段、川崎区剣道連盟会長、川崎市剣道連盟常任理事、星武館星野道場師範の肩書きを持つ。

 この人は実名で、自分が戦時中日本鋼管で指導員をしていたと電話連絡をしてくれたが、住所、電話番号は明かしてくれなかった。そこで、文雄が探して指導員時代の話を聞き取る事になったのだ。二度無駄足を踏んだ後で、文雄は伊藤英作に逢い、所謂、半島技能養成工に関わる彼の体験談を聞く事ができた。

 集団脱走し、埼玉県の大宮で全員が大宮の警官に逮捕され、伊藤英作は上司の指示で大宮ヘトラックで連れ戻しに行ったそうだ。十五名ほどの若者(技能養成工)をトラックの荷台に乗せ、逃げないように荒縄で縛った事。途中で雨に逢うも濡れる侭に走って帰った事、生々しい語りが記憶に蘇る。

 彼は今の日本鋼管正面前とか、須田食堂の隣に扇町工場の半島技能養成工の寮が三つあった事とか、自分を慕ってくれた若者達の話はしてくれるが、肝心のストライキに付いては全く知らないと話した。

 二度日の聞取りには、金景錫夫妻、山下弁護士、谷川、山本、文雄の六名が参加。しかし、金景錫に直接関わる話はなかった。戦時中の事なので、鍼口令が厳しかったのか、三日続いたストライキの日本人証人は発見出来なかったのだ。東京地裁の判決では、事実関係を認定した点だけが取柄である。


自転車 第一章 段差二糎 

その4 青酸カリ

 ロータリー近辺の史実回顧が続く中、文雄は自転車の揺れで我に返った。見ると、向こう側は正門、文雄の自転車は二階建ての、羽目板代わりに波型トタンの建物の前にいた。建物の中はスクラップの山。ショベル・カーとスポット磁石をフックに吊下げた天井クレーンが目に入る。

 文雄の脳裏に田中幸子という少女の顔が閃く。そこは彼女が住んでいた建物だったのだ。五十数年前、この産業道路を、毎日同じ時間に、ほぼ、同じ場所で文雄は美しい顔の少女に出会った。それとなく、少女の行く先に気を付けると、以外にも少女は文雄と同じ富士電機川崎工場の門を潜った。

 いつか文雄は彼女に想いを馳せるようになっていた。帰り道でも時折、前後していることもあった。文雄は友人から彼女の現場を知るようになった。しかし、どうしても声が掛けられない。その頃、文雄は青酸カリを包んだ新聞紙が作業衣のポケットで濡れていたので取り出し、現場のガスコンロで燃すと言う事件を起こしたばかりであった。

 青酸カリが燃える時の嫌な匂いは、五十数年後の今も思い起こせる。ツーンと鼻を突き破るような刺激、目には煙が来なかったが、来れば目も刺激には耐えられないだろう。その強烈な匂いに、近くでモーターのコイル・バーを加工していた青年労働者が気付き、近寄って「持田!お前、一体何を燃したんだ」と激しく詰め寄った。現場には二人の他は誰も居なかったので、事件は二人の胸中に収められた。

 その日の午後、文雄は青年に呼ばれ、彼の家に招かれた。彼の父親は貿易商だったが、戦時中は商売ができず、横浜市内の工場に動員されて、その時も同じ工場で働いていたようだ。

 磯子区磯子。番地も場所も今の文雄には思い出せないが、考えれば彼との出会いが、後の文雄の生涯を決定させるきっかけを創ったのだ。彼は同僚の小川という樺太(カラフト・現在のサハリン)からの引揚者で敬虔なクリスチャンであった人の影響で、生糸検査場で宣教していた宣教師の礼拝に参加していた。

 文雄を自分の家に招いた彼の名は原田雅彦。原田は文雄の異常な行動に哀れさを感じたのか、昼食には文雄が食べた事のない親子丼を馳走した。四方山話の後、原田は自分が受洗して間もないけれど、一緒に教会へ行ってみないかと文雄を誘った。文雄は次の日曜日から三度、原田と一緒に、横浜の生糸検査場の礼拝に参加した。原田は文雄の将来を心配して、なんとか立ち直るきっかけを提供したかったのだ。宣教の想いに燃える若者の情熱が燃えていたのだろうしかし、文雄の教会通いは三度で終わった。

 文雄は原田から貰った新約聖書を手にして、毎朝のように産業道路を歩いて、富士電機の工場へと足を運んだ。手にした新約聖書が面白く、楽しい訳ではない。自分の目で読み、頭で考えてみなければ、キリスト教への判断は出来ないのだ。文雄はマタイ伝の処女降誕の記事にまず蹟き、その先は読んでも身が入らない。

 そんな時に田中幸子が目の前に現れたのだ。読んでも分らない聖書は文雄を苛立たせた。そして、田中幸子への慕情が募る。文雄は機械工場の真柄に自分の悩みを打ち明けた。打ち明けられた真柄は良い迷惑だったが、持ち前の人の良さが災いして、拒否も出来ず、ずるずると文雄の相手になった。真柄は文雄の話を聞いて、自分より一級下の文雄の異性への思慕の激しさに驚いた。

 しかし、毎日のように、工場の昼休みに卓球をしている仲間の文雄を除外する事など、思いもよらなかった。文雄の気持ちを察して田中幸子の名前・現場を調べて伝えたのも幼い友情だったのだろう。気が合うというのか、真柄は文雄の告白を聞いてから、以前よりも親しみを感じたのである。

 その夏の盆踊りが魔の池のそばの広場で行われた時、真柄は文雄を盆踊りに誘った。田中幸子が踊りに来ることを耳にしたからだ。真柄は踊りの輪に幸子を見つけその後に付いて踊り、文雄に声を掛けた。その声が聞こえたのか聞こえなかったのか、文雄は踊りの輪に入らない。

 文雄は幸子への思慕が厚くなるほど、大勢の前で幸子に話し掛けることが、憚られたのだ。憚れば憚るほど、思慕の念は燃え上がる。幸子は母の言いつけを守って、真柄の伝えた文雄の慕情を無視。母が命懸けで自分と姉の手を引いて、満州(現在の中国東北部)から引き上げた事が、鮮明に焼き付いているからだ。「男の誘いに乗ってはいけません」という母の声はなによりも大切だった。

 その後、文雄が幸子に出会ったのは、文雄が淑子と結婚して二年ほど後の事だ。幼児科で診察を受けている長男の様子を見に、日本鋼管病院へ足を運んだ時、入口のロビーで文雄は、小学校へ上がるか上がらない位の女の児の手を引いた幸子と出会わせた。その時、文雄は幸子の頬がさっと赤らんだのを見逃さなかった。
 「お元気ですか」と文雄は初めて幸子に声を掛けた。幸子は赤らめた頬を少し下げたが、声は出さなかった。


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その5 ストライキ

 産業道路の北側歩道は、上を走る横羽線の日陰となり、日中でも薄暗い。南側の歩道へ移るには歩道橋を渡るか、交差点を富士電機寄りへ横断歩道を渡り、もう一つ横断歩道を渡らねばならない。朝のラッシュ時にはバスを降りた会社員が歩道橋を利用するぐらいで、日中ではほとんど利用者はいない。

 文雄が歩道橋を利用したのは、金景錫所縁地のスタディ・ツアーの時だけである。その日は小雨降る肌寒い晩秋の日だった。すでに幾個所かの所縁地を訪ねた後で、戦時中に受けた暴行の後遺症で左足を引きずっている金景錫は、濡れた縞鋼板の階段を登るのも苦しがった。文雄は景錫に請われて彼の右脇に腕を回した。

 そんな思い出が脳裏を横切った。歩道橋を南へ降りると目の前は市バスの停留所、戦時中金景錫らがストライキで立て篭もった須田町食堂があったという。停留所といってもそこは大型バスが五、六台は入る広場で、バスプールとでも言えるものだ。その広場の東・南は植林されていて、一見公園のように思える。木立の向こうには二階建ての日本鋼管労働組合事務所がある。建物の前は日本鋼管の通用門だ。一九五九年(昭和三十四年)春闘で、鉄鋼労連傘下の日本鋼管労働組合はストライキを回避した八幡製鉄を除いて、富士製鉄他二十社の労働組合と共にストライキに突入。

 無辜、四十九日を頑張り通す。このストライキの総体的な枠組みを『京浜の高炉』(書物・日本共産党京浜製鉄委員会監修・吉崎俊一・山村信吾編著)という書物から引用する。
 ……四十九日ストをたたかいぬいた鉄鋼労働者……

 賃金増額二〇〇〇円、退職金・勤続三十年で二二五万円を要求した昭和三十四年(一九五九年)春闘の第一回団交は一月二十一日、 本社でひらかれたが具体的な回答はなく、一月二十五日、総評、中立系の三十四年春闘共闘委員会が発足、鉄鋼労連もこれに呼応し 、この日第十四回臨時大会を山開催、闘争体制を確立、拡大中央山闘争委員会(拡中間)へのスト権委譲を決定した。

 投票総数二一九票、無効・白票九票、賛成一八九票、反対二二票、二月十日、鉄鋼労連第一回拡中闘はストライキ日程を討議し、二月二十五日、第一波全面二四スト、三月三日を起点とする第二波圧延部門を中心とする長期部分ストを決定、労連・単組への討議に 移した。

 二月中旬、各単組のスト権批准一般投票の結果が発表になった。鋼管川鉄六八・九%、同鶴鉄七三・五%、同富山八五・五%、同新潟五八・二%、同本社七二・〇%、八幡五一・六%、富士広畑七二・八%、同室蘭七五・六%、同釜石六七・四%、同川崎五九・四%、住金尼崎三一・八%(不成立)、同和歌山、大阪職組の二組合は単組で集約。神鋼四三・囚%(不成立)、同高砂五五・七%、同大久保五七・二%、同長府五三・七%、同門司四七・〇%(不成立)、同名古屋八四・七%、同東京一九・一%(不成立)。

 当時、文雄は二十七歳、ノンポリであったが、圧延関係部署でストライキに突入した支部である。当初は一日おきに組合本部に詰め、後半には徹夜でオルグに出かけた支部役員の帰還を待つこともしばしばであった。

 記憶に残っているのは、副支部長で同じ職場の荒木が富士鉄釜石へオルグにいった報告である。「八幡から分かれた富士だが、八幡と違い全額獲得まで頑張るぞ! 鋼管川崎も頑張れ!と逆に激励された」と顔を赤らめて話していた。後にその荒木と職制の軋轢の最中に立つとは、文雄の察知できることではなかった。

 ストライキ中止は非スト部門の第二製鋼(転炉)の反ストライキ行動が起爆とされたが、鋼管労組の組織内部というよりも、鉄鋼労連という上部団体の体質にあったようだ。

 前述のスト権委譲の投票結果にみられるように、八幡労組の動きがその年の春闘終焉のキーとなったのだ。八幡労組の宮田兄弟の策謀説は、後年の兄弟の政治への転進が暗示している。

 この鉄鋼労連の争議に先立つこと六年前、全自動車総達の春闘では日経連の画策《日産争議中、日経連が新聞記者をよんで一席もうけ、『日産を徹底的にやる。全自動車をたたく、日産の経営者は甘すぎる。あんな労務政策ではだめだ』〔全自動車中央執行委員会】(全自動車)最終号…一九五四年十二月五日号…〔新聞記者との座談会〕=日産争議一九五三/五月社》という転換期の証言者達の記録が、重く文雄に圧し掛かる。

 日本鋼管の経営陣はシームレス鋼管のシェアを住金に奪われるという危機意識に苛まれ、ストライキ破りに労務畑は必死に努力したことは否めない。このストライキ以降、会社側の労働運動潰しはすざまじい。文雄が所属していた職場は検査課の中でも最も労働運動の職烈な職場で、中心人物は副支部長の荒木であった。文雄はその荒木から「寺元ナイズされた人物」と嫌われていた。そんな荒木一派の陰口は当時のその職場の職制機構から生じたものといえないこともない。 


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その6 労務管理

 この年の夏、教会の先輩高橋の帰国を待ってダブルウエディングを挙げる予定だった文雄は、アメリカにいる高橋が挙式計画に不満を抱いているという、美知の言葉に何故か咽喉に小骨が刺さったような気持ちだった。竹田先生の提案に森牧師も賛成だと意思表示をしたのに何故?違和感が文雄の胸中にいつまでも残った。

 ストライキの後、倉庫の先輩の寺元が現場に降りた。油井管の班長だ。寺元は資材課からの配転者で、同期に記号をやっている佐野がいた。寺元は陸軍軍曹で、敗戦はインドネシアで迎えたという。市会議員小清水と親しく、地域のボーイスカウトの隊長をしていた。寺元は文雄が倉庫に配置されたとき、文雄が自分の中学の後輩であることを知り、こいつは面倒を見なければと、弟分のように感じていた。

 佐野は寺元と一緒に、資材課から五管検査に配転された。戦時中は輜重関係の下士官で、経理を担当していたその技量を買われて記号の仕事をまかされたのだ。記号の仕事は五管検査でその日に行った作業の纏めをするのだ。

 五管検査は、油井管・特殊管・ガス管ジュート巻・試験材という班単位の作業区分があった。油井管にはネジ検査が附帯していた。油井管とガス管ジュート巻は昼夜二直体制である。油井管は石油採掘の為、地下にボウリングするドリルパイプのケースとか、油送のラインパイプで、アメリカからの受注が圧倒的に多かった。ガス管は水道や都市ガスの輸送に使用する。特殊管はボイラー用とか、船舶用でデリックブームなど多種多様である。ジュート巻はガス管に麻布をコールタールでパイプに巻き付ける作業である。

 文雄の最初の配置は油井管であった。五インチ半の油井管が多く、アメリカ人の立会い検査が年中続いていた。荒木は油井菅の班長で、ストライキの時は検査支部の副支部長だった。色話しが好きで、大声で話し、部下の若い者を笑わせていた。荒木の部下には、文雄と同期に本工になった藤原がいた。

 藤原は飲み屋の娘を孕ませ、結婚を迫られていたが、臨時工の薄給に酒飲みで、アパートを借りられないで居る時に荒木に助けてもらったのだ。戦時中は少年航空兵であったという。

 油井管のもう一方の班長は丸山という。丸山には二人の義兄弟が五管検査にいた。ガス管班長の小崎とジュート巻班長の野呂である。

 試験材の担当は宮田である。彼は荒木の世話で、桜新道の飲み屋の娘と結婚した。その娘は当時市役所で働いていたという。宮田は家付き娘の入り婿で、宮田は妻の姓で、旧制の専門学校出である。面長・色白なインテリという感じの青年である。試験材は主に特殊管のサンプルが多い。単独で行う仕事で、事務所や検査室との関わりが多く、それなりの実力を必用とした。

 ジュート巻きの班長は二人いて、一人は倉庫から降りた野呂と言った。野呂は小崎の長姉の夫である。野呂は倉庫職の後輩である文雄に好意を持っていた。小崎も丸山も文雄に親しみを持っていた。

 丸山は文雄より七〜八歳年長だが、囲碁を始めたばかりの文雄を相手に昼休みは勿論、時には定時間後も文雄と手を合わせた。半年も経たずに、丸山の方が常先になってしまった。小崎は小崎で自分の妹を文雄に嫁がせたかったと残念そうに話した。小崎はふっくらとした面長で、目鼻立ちの良い青年である。丸山は角張った顔で少し浅黒い肌で、軍隊経験を持ち、階級は寺元より一階級上の曹長だった。

 文雄に囲碁を負けるようになると、文雄と顔を合わせる度に「おい文雄お前強くなったな、俺が教えたんだからな」といった。野呂はやや小柄で色白、軍隊経験を持っていたが、階級などは口にしない。家族に金が掛かるのか、いつも残業をしていた。

 二交代制の職場でストライキの時の職制は職長一名、組長三名、班長八名である。職長は文雄が入社・配属されてから三人目の佐藤である。息子・娘とも二人ずつであったが、ストライキの後、間もなく長男がオートバイの事故で死亡。通夜の席で男泣きに泣いていた。鋼管通りは追分に近い裏通りに住居がある。組長の一人は細川といい、現役と徴兵で八年は中国に居て、面白い体験をしたと話している。ガス管関係の作業を束ねていた。部下には新井(ガス管)・小崎・野呂・北原(ジュート巻)がいる。細川が貰う軍人恩給の額は誰もが知りたがったが、細川はその話しになると口をつむった。

 油井管の組長は河合という。小柄で目がクリクリした中年の男で、特殊管もガス管も試験材も、皆こなした経験者である。ストライキの後、五管検査の組織変更が行われた。

 池上の中径管工場が本格稼働し、五管は工場側も検査もかなりの人数を中径管へ転籍させる事になった。連日のように朝、組合の支部会議が行われた。各職場一斉であり、職場毎に情報を電話で連絡しあい、進行状況を確認した。三管が早く終わった、何でだ?

 職場委員の一人が電話にしがみついたままで情報を確認する。一・二菅も終わった。五管はどうして終わらないんだ、問い合わせの電話のベルがうるさい。

 組合本部はストライキ後、現場の人事異動は支部一任で、以前のように本部決済をしない。それだけに支部の労働意識が問われる。荒木は支部一任という本部案が提案された時、労働運動で一番大切な連帯感が損なわれると反対したが、本部提案賛成の多数決に涙を飲んだ。

 小崎が組長で中径管検査へ、寺元は班長のまま中径管検査へ、特殊管棒心の小山(班長代理)が班長で一・二菅へ.文雄は棒心でガス管へ。班長は特殊管棒心だった福田。この男はストライキの時の職場委員の一人だ。別の職場委員、藤原は油井管のまま、棒心。文雄の後任の倉庫職は、文雄と同期本採用の荒。臨時工の檜山はそのまま倉庫職留任。特殊管棒心・小山の後は職場委員で福田と一緒に配転してきた毛塚。

 文雄の班には共産党員の鵜之沢がいるぞと、職長の佐藤が文雄に囁いた。寺元の後には製鋼から田所が班長の資格のまま配転して来る事になり、五管検査の職場討議は喧騒の渦が巻いた。検査の経験を持っていないのにどうして班長が勤まるのかという意見である。現場職制では収まらず、労務係長を呼んで課職制の意図・見解を正す事になり、組合本部役員も立ち会う事になった。


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その7 小料理屋

 池上の中径管工場の稼働は労働者の配置転換だけでなく、組合費の給料天引きという基本的な意識破壊を招いた。だが総評にしろ、総連にしろ、官公庁の労働組合全てが問題の重大さに気がついていない。或いは問題に感じても無視しているのだろう。

 その原因はIBMセンターの設立にある。日本鋼管の経営陣はストライキ収拾直後、待ちかねたようにIBMセンター設立を打ち出した。組合本部も支部からも異存の声は上がらなかった。ストライキで住友金属や川鉄にシェアを大きく荒らされたという事実が労働者にも実感される状況だったのだ。

 ストライキ反対・即中止を要求したデモ隊を繰り出した製鋼支部から製鋼の班長を其の侭、五管検査へ配転させるのも、五管検査の体質変更を企んだものだ。

 文雄と高橋のダブルウエディングは梅雨明けの、暑い七月十二日だった。高橋よりも七歳年長の美千代はまさかの成婚を心中から喜び、アメリカ西海岸の町にある神学校にいる高橋と話して決めたという梔子(クチナシ)を式で使う花とした。

 淑子から相談を受けた文雄はとっさの返事が出来ず、口篭もった。白い花ならカーネイションにした。まだ胡蝶蘭は出廻わっていなかったのである。

 文雄は富士電機の原田を招待した。青酸カリを新聞紙に包んで、作業服のポケットに入れ歩いていた頃、文雄を心配し、教会へ連れていってくれた人なのだ。それは文雄に出来るせめてもの恩返しだった。文雄の会社の知友は少なく、寺元と宮田、事務所の久保、それに小学校同級生の井田。寺元は幼い娘を連れてきた。

 新婚旅行から帰り出社すると、組合費天引きの話しが出ていた。天引きかよと文雄がブツプツ言っても誰も気に留める者もいず、職場委員たちも「集めなくなって良かった」と口々に呟いていた。九月に入ると班長の福田がガス炉の囲いの中へ文雄を呼び込んだ。福田は声を潜めて「おい、文雄、今度の木曜日定時間で上がって、貝塚の八千代って小料理屋へ行ってくれよ、場所が判らなかったらバス停の所で待っててくれよ。俺はバスで行くから、この事は誰にも言うなよ、職制からの通達だからな。」と言うと廻りを見回して現場事務所へ戻った。

 木曜日午後五時十分前、文雄はバス停・貝塚に降りた。誰も来ていない。キョロキョロと廻りを見まわしたが、福田の姿は見えなかった。「探してみようか」文雄は一言呟いて、民家や八百屋の廻りに目をやったが、それらしい小料理屋は見当たらない。「しょうがないな」と呟いて文雄がバス停に目をやるとパスから降りる福田の姿があった。福田も文雄を見つけ声を掛けてきた。

 「八千代が判ったか」「いや判らん」という文雄の返事を聞いて福田は「すぐそこだよ、入口が反対側なんだ。それで一寸判りずらいんだ」と言った。その声が何か「場慣れしているんだぞ」という響きを含んでいるように文雄には思えた。

 バス停から裏へ廻るような感じの所に小料理屋「八千代」の入口はあった。二人が連れ立って格子戸を開けると、声を掛ける間もなく、「いらっしやい」という声がして、浴衣姿の中年で、若造りなお上が姿を見せ、「どうぞ、どうぞ。福田様ですね」と言った。

 お上は福田の返事を待つまでもなく、二人を奥まった和室へ案内した。二人が出されたお茶を飲んでいると、ほどなく、労務担当の係長山本が部屋に姿を現した.山本はお茶を下げさせ、すぐに料理を運び込ませた。

 膳が整うと、山本は「ご苦労様、今日は特別に暑いですよね」と含み笑いをしながら、福田よりも文雄に語りかけるような素振りで、「どうぞ、どうぞ、ぐつと干して下さいよ」とビールを注いだ。「僕よりも、福田さんを先にして下さいよ」と文雄がいうと、福田は遠慮して「係長こそどうぞ」とビール瓶を取り上げた。「うん」と言いながら山本はコップを取り福田の差し出すビールを受けながら、「今日は遠慮しないでどんどん飲んで下さい。会社持ちですから」と思わせぶる。

 「持田さんはクリスチャンですってね。酒駄目なんですか」と言いながら文雄のコップにビールを注いだ。「禁酒禁煙は教派によって違いますから」と文雄は山本の問いかけをかわした。

 「じっは労務としては五管検査の状況に困っているんですよ。分るでしょ。ストライキが会社にどんな大きな被害を齎したかを、…過激な労働運動が被害を大きくするんですよ…どうしたら良いんでしょうかねえ、考えて下さいよ」と山本は二人に……というよりも文雄に向かって謎掛けをした。

 文雄は「係長、今日のこのような事はどういう人たちにしているんですか」と質問した。すると福田が「いや、私達だけではなく、棒心以上の人皆にしたんですよね、係長?」と口を挟んだ。山本はそれには答えず「持田さん、お願いです、持田さんには鵜之さんの事もあって、現場に降りて貰ったんです。協力して下ださいよ、お願いします…今日はこれぐらいにして飲みましょう。福田君、さあ、元気にやりましよ、遠慮しないでくださいよ。さあ、さあ」とビール瓶を福田に向けた。

 その夜、文雄はまんじりとも出来なかった。「五管検査を変えるって? 確かにワンマン班長が居るからな。荒木を配転させれば問題解決だ……俺が動くか、動く時なんだな」。布団からそうっと半身を起こして、文雄は大きく息を吸い込んだ。傍らの淑子は目も覚まさずに眠っていた。

 翌朝、出社した文雄は福田をガス炉の所に呼出し、自分の意図を告げた。福田は領いたが何も言わなかった。文雄は「事務所に行って来る」と言葉を残して立ち去った。   


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その8 配置転換

 秋も深まり、立ち並ぶ工場群の割れ目に顔を出した空も、いつもより青さが冴えて見える。秋になってスモッグが少なくなったのだろうか、いや、乾燥した空気がスモッグの滞留を嫌っているのだろう。荒木の配置転換が職場討議に掛けられた日の朝の空模様である。荒木に面倒を見てもらった面々は誰一人発音しない。押し黙っている彼らの一人一人を素描してみよう。

 河合組長−荒木が班長になる大分まえ、荒木が群馬の太田から妻子を呼ぶために売買契約をした六つ角近くの三十坪の土地を、河合は自分も妻子を呼ばなければならないと、荒木に話し、荒木から権利を醸って貰った。

 福田組長−妻子ある身で食堂の賄いの女性と出来て仕舞い、離婚問題で二人の娘の処遇を荒木に解決して貰う。宮田−荒木の世話で桜新遁の飲み屋の一人娘の婿養子になる。

 赤羽ー戦時中は憲兵曹長であった割には小心な男で、長野の両親の面倒を見る見ない、妻子の住まいをどうするかと事で、荒木に小田二丁目に借家を見つけて貰う。藤原−飲み屋の娘と恋仲になり、身ごもらせ所帯が持てずに七苦八苦していた時、アパートを世話して貰い、娘の両親の了解を取り付けて貰い、所帯を持った。その他、臨時工の人達を入れればもっと人数が増えるだろう。さらに正義感の強さと上司に対しても明確に発音し、不条理な物事には、徹底的に解明を要求する姿勢は彼の右に出る者がなかった。

 荒木は自分の配置転換について誰一人反対を表明する者の居ない事を確認すると、黙々と配置転換先の電縫管検査へ移動した。十一月始めである。

 世論は安全保障条約の改定を巡って異常な騒ぎの内に新しい年になった。文雄は暮れに、妊娠中の淑子が通勤途中で出血をするという異常に直面し、慌てたが、お腹の子供を大切にと、夫婦の意見の一致を見、暮れ一杯で淑子は有楽町にある、三機工業を辞めた。

 文雄は不慣れな二直勤務を堪えていた。寒い冬の夜中、水圧検査を終えたガス管を検査台上に並べ、両方からハンドライトを当て、内面の目視検査を行うのである。

 南北に延びた工場は大戸を閉めても、北風が吹き抜け、手足の指先がかじかんで痛い。仲間が一緒に居るし、稼がねばならないという思いが、文雄だけではなく、現場で働く者の暗黙の了解事項であった。

 六月十日羽田空港から都心への道でハガチー来日阻止のデモ隊が組織された。昼前、構内にハガチー事件発生のニュースがスピーカーから流れた。日本鋼管の仲間がほとんどらしいという情報が口伝てに伝わる。誰だ、何処の現場の奴だ。好奇心で社内中が仕事の手を止めた。ハガチー事件のほとぼりが冷め止らぬ内に、文雄へ配置転換の内示が来た。瞬間、文雄は撃ちのめされるようなショックを受けた。頬から血の気が引いていくのを覚えた。「野郎、汚い事をしやがって」。その日、文雄は忙しい作業を其の侭に定時間で帰宅した。

 翌朝、始業のサイレンと共に日勤者全員が現場事務所に集まった。配置転換の職場討議である。文雄の他、二人が配転の対象だった。文雄の配転先は電縫管である。「やってくれたな−」という思いが、冷静さを取り戻した文雄の感想だった。職務は電縫管に移ってから職長と話合うという条件だった。

 「何が会社の為だ」憤りは文雄の胸からなかなか消えない。「誰が俺をおっぽり出したんだ」、疑念も沸く。忠誠心はその日以来文雄の胸中から消えた。電縫管の職長の一人は三管検査から異動してきた阿久沢といった。表面大人しく見えたが、子飼いではないという不安が離れない。

 反対の直の職長は一・二管検査で支部長をやった髭面の雲井である。文雄とは顔見知りであるが、一緒に作業をした経験もない。単に挨拶を交わすだけの間柄である。「借りてきた猫」が文雄の立場であった。元来、電縫管は二インチ以下の細い管で、条鋼を丸め、合わせ目を電気溶接してパイプにするのである。浜町四丁自にあった三機工業がアメリカ資本・技術で生産していた。日本鋼管は三機工業の買収に失敗して、夜光町に電縫管工場を建設する羽目になったのだ。夜光町は池上町の東側、水江町へ行く道路を挟んで池上町と向き合っている。

 市電が造られた頃は、終点が桜木であったが、戦後、朝鮮戦争で景気の回復に伴い、塩浜まで延長され、夜光町に工場が林立するようになってから、京浜急行の終点小島新田まで延長され、大師線と連絡するようになったのだ。淑子は文雄の通勤先が何処になっても関心を示さなかった。

 荒木が電縫管へ配転させられた時には長男を妊娠中で、勤務先の三機工業の株式課では年来が忙しい時で、猫の手も借りたいのであった。文雄と結婚しアパートとは言えない、個人の二階を貸し部屋に改造した所を借りて、新婚生活を送っていた。家主が文雄と同じ日本鋼管の労働者で、機械課の組長をしているとの事で、心なしか安心して住めるのが取柄のように思えた。

 有楽町へ行くには、大島一丁目からバスで川崎駅に出、東海道線を新橋まで乗り、新橋から有楽町までは、京浜東北線か山手線に乗りかえる必要があった。年末とか、年度末は女子事務員も真夜中まで仕事に追われた。そのような時には課長か部長が気を利かせて、自宅までタクシーで帰宅させるのであった。

 六〇年三月二十二日に淑子は鋼管病院産婦人科の分娩室で二二三〇グラムの未熟児を出産した。文雄から母に婚前交渉があったのではないかと疑われたと、憤りの言葉を聞いた時、何故か可笑しさに、苦笑した。「お母さんたら、失礼ね、娘の私を信じないなんて」と。

 初児の義樹は乳のみが良いとの事で、一週間後には保育器から出され、母乳を飲むように指導された。猿のような赤子でも、自分が腹を痛めた児への愛着は他の妊産婦と同様である。初児を生んだばかりの淑子には夫、文雄への万全の気配りは出来なかった。

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その9 仇同士

 ハガチィー事件の四日後、組合本部に警察の手入れが入り、書記長の松田と中央執行委員の中村が逮捕された。第二製缶の武藤と梅田、動力の水野らも。警官が工場内に入って労働者を逮捕、連行するというのは日本鋼管創業以来のことではないか。

 逮捕者を出した現場の驚きは勿論、警察官や連行される者たちを見ようとラインから離れる者も出る騒ぎ、文雄には何故、松田や中村がという疑問が残った。執行部の二人は羽田の現場へは行かなかったのにと。

 今にして思えば、既に執行都内では左派・右派の対立と、日経連の睨みの元で、経営者たちの策謀が働いていたのだ(後で知ったのだが、戦時中朝鮮半島から、強制連行された半島技能工と呼ばれた青年労働者たちが、勤労部次長の「半島技能工の育成」という報告書を読んでストライキに入った時、首媒者と目された青年たちが、第二製鋼所事務所に連れ込まれ、暴行を受けてから、臨港警察の警官と特高に連行されたという)。

 六月十五日早暁、夫のうめき声で目を覚ました伸子は「お父さん、お父さん、どうしたのお父さん」と隣に寝ている荒木の肩に手を掛けて、揺すり起こした.寝ぼけて半身を起こした荒木の寝巻きは、襟元が汗で濡れていた。

 「お父さん、こんなに汗かいて。どうしたの、どこか具合悪いんですか。今、着替えを出しますから、お父さん、着替えて。」

 語りかける伸子に「起きるからいいよ」と返事をして、荒木は立ち上がり、伸子の出した下着に手を通した。柱の掛時計は三時少し前。「ウウウー」と大きく背伸びをし「おっか、すぐ出かけるから、朝飯はいらんよ」と一言を残して荒木は部屋を出た。

 駅向こうの新聞販売店へ足を運びながら、荒木は又、うめいた。「松田がねえ−」「あいつは俺の主張を退けたんだぞ、あの時なあ。二重橋へ突入しておけば、ハガチィーなんか来なかったんだ。お前が止めたんだぞ、松田」。

 「馬鹿、馬鹿、ばか」思わず大声をあげて、荒木は驚いたようにあたりを見回した。あの時、それは「血のメーデー」と言われた一九五二年五月一日(昭和二十七年)の出来事である。

 翌日の新聞ではデモ流れの二〇〇〇名と合流した、全学連・旧朝連朝鮮人・日高労働者四〇〇〇名が、宮城前で通行人の老婆を巻き込み、死亡させたと報道された。

 しかし、デモの流れの詳細は記事にない。荒木の胸中には玉砂利の軋む音が蘇っていた。「宮中突撃―宮中突撃―と叫んで足を踏み鳴らした俺をお前は止めたんだぞ。「なんで止めたんだ、馬鹿野郎―なんだ、このざまは!」。

 去年、松田と一緒に富士鉄・釜石へオルガナイザーとして出かけた、思い出が荒木の胸を熱くしていた。後学のために、朝日新聞の記事から見出しを列記しよう。

 「デモ隊一都暴動化す」「警官隊五千と乱闘」「皇居前に乱入」「米自動車を焼討」「重傷百、軽傷四百、検挙百三十」「解散後の暴行」「国際的な反響を重視・政府反共対策に拍車」「騒擾罪を適用・計画的行為・早急検挙は困耗」。

 これら括弧で括った文言が一貫の中に並べられているのだ。新聞配達を終え、その足で荒木は会社へ向かった。「ブタ箱で」と呟く荒木。ラッシュアワーで込み合う南部線の車両のつり革を握った二の腕に汗が伝う。「ざまアない」。

 昨年十一月の配置転換以来、水江製鉄の稼動、IBMセンター設立、組合費天引き、IE(タイムスタディによる職場生産ライン合理化)。矢継ぎ早な経営陣の圧迫が、荒木の脳裏を横切る。「持田が来るんだって。知っちやいねえ」荒木の呟きに、周りの人々が訝しげに顔を覗いた。

 電縫管へ配置転換した文雄が荒木と顔を合わせたのは、半月ほど過ぎてからだった。荒木は二交代制勤務の夜勤だった。荒木が日勤になって二日ほどして、昼飯時に二人は顔を合わせた。文雄はなにか面映い思いだったが、荒木は気にしていない素振りをしていた。文雄はツンとした荒木の顔に、複雑な影が走るのを見たような気がした。

 二人の間に立って、青木組長が執成すような口調で「荒木班長、ご存知でしょうが、先々週、五管検査から配転された、持田さんです。五管検査では一緒ですから、私がこれ以上言うことないですよね」と言った。

 その言葉の裏には、荒木班長よりも有利な立場にいることを匂わすような、ニュアンスがあった。それを敏感に嗅ぎ取った荒木の「ああ」という返事は、木で鼻を括ったように、空々しい感じがした。文雄もとぼけた口調で「荒木さん、宜し<」と会釈した。

 荒木が文雄に声をかけたのは、秋口に入り、涼しさが風に感じられるようになってからだった。
「ヤー持田くん.君の文章を読まして貰ったよ。君があんな文章を書くとはね。驚いたよ」「あんな文章ってなんですか」文雄が聞返すと「ほら、九月の機関紙の」と荒木は言葉を継いだ。

 「ああ、あれね、組合才を給料から天引きするという、組合の提案ね。会社の申入れを鵜呑みにして、そんなことで、労働運動がきちんと出来ますか、冗談じゃない。そうでしょ、荒木さん。労働者のコミュニケーションが無くなるじやないですか。乏しい懐から、組合費をだして貰う、信頼関係の確認でしょ、一番の基本を、楽だからって、給料天引きなんて、労働組合が容認して、組合員の承認を求めるなんて、労働運動のすることじやない」、何時になく文雄は興奮気味に話した。

 「そのとおりだよ。持田君はいつから、そのように考えてるんだい」荒木はいぶかしげに文雄に尋ねた。「荒木さんたちは俺のことを寺元ナイズされてると言ってたね。少し浅薄だよ。寺元は寺元。俺は俺。俺は単純に影響されないよ」

 文雄の返事を聞いて荒木は言った「そうか、俺が見損なっていたんだ。持田くん、今度、家に遊びにこないか。なにも無いけれど、うどん位、食べさせるよ、善は急げだ、日勤が終わる日、一緒に帰ろう。どうだい」と。


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その10 職場機関紙

 電縫管検査に配置転換したことを文雄から聞いた時、淑子は何か心の隅を隙間風が通り抜けるような寒気を感じた。しかし淑子はそれが夫の会社の労務政策に対する激しい怒りから生じた現象であるとは思えなかった。彼女も文雄のように労働者の家庭の娘として生まれ、祖父も父も生真面目だけが取柄という、雰囲気の中で成長した。

 淑子の心の隅を過ぎった隙間風は、緑内障で入院している父の見舞いへも、足を遅らせている不満がそうさせたのかも知れない。幼い義樹の手を引いて、新川橋の眼科病院へ父を見舞った。

 父は五十前なのに、孫を持つ身になったことを笑うように話した。両眼とも緑内障の手術を受けなければならない父の経済的な負担の重さを思った。

 四人の弟妹と酒飲みの義父、病身の義母を抱えた生活の苦しさ。女性としては大柄な母は自分の父が酒を飲むようになった原因が、戦時中会社に回されてきた捕虜たちの作業指導中の事故であるとも知っていたが、それを誰の責任とも問えず、いらいらと酒に紛らす父に不満を言わない夫の我慢強さに、感謝していた。

 淑子が文雄との結婚に踏み切ったのも、父母の家庭の生活に追われる息苦しさから逃れ、自分の手で自分の家庭を築きたいとの一念であった。

 義樹を膝の上に抱き上げた父の眼帯姿に、一言も愚痴を言わないで、緑内障の手術を受ける強さを感じた。三ケ月はかかる入院で、実家の経済は大丈夫なのだろうか。それとなく父に匂わしてみたものの、父は笑って返事を避けた。

 ふとその時、結婚式に参加した同僚の「平沼さん、あんた持田さんと結婚しても、良い生活は出来ないわよ」という言葉を思い出した。でも私が選んだ道だから、後悔はしない。

 淑子は眼帯の上から、分厚い眼鏡をかけた父の顔を見つめた。二歳も半ばを過ぎた義樹は未熟児で生まれたなどとは思えないほど順調に発育していた。

 夫の不満を受け止め難く感じる自分をどうすることも出来ない苛立たしさ、円満な夫婦ってなんなんだろう、身ごもったマリアを妻に娶ったヨセフの記事が淑子の記憶に蘇った。

 電縫管検査で文雄は現場の仕事はせずに、間接資材や計器類を取扱う業務を担当することになった。自ら選んだ窓際族である。条件は日曜日休み、交代勤務はしないということである。常昼勤務は誰でも望むところだが、当時の鉄鋼生産工場現場では、交代勤務手当てがなければ、人並みな生活は望み難い。

 共稼ぎは子供が生まれない間、というのが相場であった。班長で交代勤務の荒木でも労働契約に違反して、早朝の新聞配達をしたのである。子供四人の社宅生活で.淑子は結婚した年に義樹を身ごもり、暮れの通勤ラッシュで危なく流産するところであった。年内で仕事を止め家庭に入った。家計を助けるため、文雄の姉の縫製を手伝っている。

 文雄が家計の苦しさを度外視して、私企業で現場作業から離れた理由は、クリスチャンとして、日曜礼拝を家族と共に守りたいという一事である。常昼で生活出来ない労働者生活に挑む、クリスチャン労働者の意地であろうか。

 文雄は現場の勤務には拘束されない立場を利用して、五管検査の経験を持つ労働者の連帯を保つ連絡係りの役割を担った。毎日自転車で夜光町から川崎工場へ通った。資材殊・検査裸・工作堺・営繕課。それらは業務のためであり、やましいことはない。それらを回りながら、それぞれの工場を巡り、五管検査出身の仲間と連絡を取り合うのだ。会社は組合の申入れを受諾したということで、共済会を作り、従業員(組合員)の冠婚葬祭慶弔金を、従業員に負担をさせ、会社の負担を軽減せた。

 また、身分制度を導入し、従業員意強を強化しはじめた。これが成立すれば、職能給の導入がし易くなるというのだ。この様な連続した企業の合理化政策に文雄は抵抗を感じた。
 その捌け口に労働組合の支部機関紙への寄稿活動が始まつたのである。

 文雄の寄稿活動に検査裸職制と組合本部は五管検査の藤原班長を、支部機関紙の責任担当として任命し、文雄の動向を調査・牽制する行動に出た。それは、自主検査方式が導入されるまで続いた。この藤原は荒木の世話で結婚し、荒木の取巻きで五管検査の職場委員になり、四十九日のストライキでは、スト中止の連絡で、号泣した男で、文雄とは臨時工から同期本採用になった男だ。

 文雄が五管検査の倉庫業務に付いた時、文雄が班長候補になったと気にし、「持田は寺元ナイズされている」と叫んでいた男なのだ。犬に成り下がってという反感が文雄の胸を横切る。

 支部機関紙の編集会議では文雄に逆らうことなく「そうですよね」と相槌を打ちながら、文雄の一挙一動を観察しているという男なのだ。文雄が日本綱管を辞めるときには、作業長になっていた。

 荒木と文雄が五管検査時代のいさかいを解消し、五管検査時代の連帯感を深めようとしている時、工作課に配置転換していた荒の福山配転の話が出た。自衛隊上がりの荒は努力家で、夜間大学へ通っていたこともある。藤原と同じ、二十九年五月に本採用された、文雄と同期になる。荒は田舎が福島県で広島の福山へ転勤することに迷い、幾週間か荒木に相談していたのだ。五管検査から工作課に配置転換するときの条件は、班長になるというものであったが、福山配転の話が出たときにはまだ、班長には昇格していない。福山では班長にするという確約で配せ転換案を飲んだのだ。

 この年、川崎労働組合は委員長が北詰になり、船山は連合委員長に就任した。水江製鉄所が独立した企業となり、組合も別になったからだ。同じ川崎で境が隣接し、労働者の大半は川崎工場からの配置転換者だというのに。
組織を分ける必要があるのか、川崎でも水江でも組合の一本化が要求されたが、企業経営陣に押し切られた。

 文雄は毎週欠かさずに出席している、聖書研究会の存在に疎ましさを感じ始めた。出席者の大半が大卒のホワイトカラーで、現場労働者が置かれている状況への、配慮も、考察も語られないからだ。  

自転車 第一章 段差二糎米 

その11 夜学

 荒が福山工場への配置転換を飲み、始めは単身赴任で、家族寮が確保出来次第、家族が引越すことになった。文雄は荒の送別会の幹事となり、健康組合施設である「嬉野」の利用申し込みを済ませた。「嬉野」は、川崎の赤線地帯の外れにある元料理屋だ。

 それがどのような経緯で日本鋼管の施設になったのか文雄は知らない。部屋数は十位もあっただろうか、年末、年度末、ボーナス時期には利用者が続出し、抽選となることが多かった。

 荒の送別会は年度末の移動には間がある二月なので、抽選にはならずにすんだ。当日、荒は年長組になる娘の手を引き、妻の徳を連れて参加した。 五十人ほどの五管検査関係の仲間が集まった。半数以上が、移動先からの参加だ。酒が回ると、「おい、藤原はどうしたんだ。小松はなんで来ないんだ」という声が上がる。「真部、お前声をかけたんか」騒がしさが増す。

 「持田、お前福田と宮田に連絡したのか」「なんで福田と宮田に連絡しなきやいけないんだ」「初めての福山行きじゃないか」「いくら始めてでも、声掛けられるか」、残留組からの言い掛かりに、むっとする文雄。文雄は自分の直接の上司だった福田の、ガス炉での顔を思い出し、「糞、あの野郎」いまいましさを噛み潰すように唇を噛む。

 荒木が大きな声を出した。「皆さん、今日はこんなに大勢が、軍ちやんの送別会に集まってくれて有難う。俺たちは五管検査から出されたけれど、戦う労働者なんだ。あの四十九日の戦いを戦ったんだ。軍ちゃんは職場委員で頑張った、だから工作課へ配転され、今度は福山へ配転になるけど、皆が軍ちやんを信頼してるから、集まってくれたんだ。みんな有難う、軍ちやん有難う。福山へ行っても、仲間だぞう。徳ちやんも忘れないでね」。荒木の声はいつしか涙声になっていた。

 「じゃ、皆で幸せの歌を歌おう、終わったら軍ちやん、挨拶してよ、それから又、皆で歌おう」、荒木の掛け声で歌が始まった。

 「しあわせは おいらの願い 仕事はとっても 苦しいが
 流れる汗に 未来をこめて 明るい社会を 作ること
 みんなと歌おう しあわせの歌を
 ひびくこだまを 追って行こう」

 歌が始まると皆は立ち上がり、肩を組んで歌った。荒も、年長組の娘も、徳も手を繋いで、歌った。

 「私は、昨年五管検査から工作課へ配置転換になりました。又、今度は福山へ配置転換になります。福山は遠いので、皆さんとは中々、顔を合わせることが出来なくなりますが、五管検査は私の故郷です。皆さんのお顔、皆さんとの思い出は生涯忘れません。」声を詰まらせた荒の挨拶は途切れた。

 「町から 村から 工場から はたらく者の 叫びが聞える
 はたらく者が はたらくものが 新しい世の中を つくる
 はたらくものこそ しあわせになる時だ
 われらは われらは 労働者」
 
 参加者はいざこざを忘れて、手を取り合って歌い続けた。

 数日後、荒木は文雄と柳沢・赤坂を連れて、荒軍治の住まいを訪ねた。
荒が家族より一足先に福山へ立つのだ。荷作りを手伝うという口実である。二月の夜は寒い。文雄は徳の荷作りの手伝いをと思うも、手を出すほどのこともなく、徳の仕草を眺めていた。

 徳はためらいもなく、箪笥の引出しを開け、軍治の肌着を取り出しては行李に詰めた。引き出しの底になると、新しいシャツやパンツが二組・三組入っている。文雄は徳の女の心使いを見る思いがした。荷作りはほどなく終え、皆は徳の心尽くしの鍋を囲んだ。

 荒の住まいは四軒長屋の一番手前で、六畳と四畳半、玄関の脇に一坪ほどの台所があった。長屋の向かいは社宅のような造りの家が二軒並んでいる。

 荒の住まいの真向かいには、細川伍長が住んでいる。荒は細川伍長の世話で、その長屋に入居したのだ。その近くに文雄が両親や兄弟たちと、戦後三年ほど住んでいた家がある。長雨があると、近くにある池の水や道沿いに流れるどぶ川が溢れ、床下浸水になるような低地であった。

 酒席が賑やかになると、細川が顔を出した。色の白い、口元に八の字型の皺が深い顔である。北支から中支へ二度出征した経験を持つ。軍人恩給を受給し始めたが、額については口外しなかった。旨そうな匂いを嗅ぎ付けると何処にでも顔を出すタイブである。

 荒の家族は三月中に福山へ移った。娘の小学校入学問題があり、転校させるよりも始めから、福山の小学校に入学させたいという希望からである。

 その年の梅雨明けの看い朝、文雄は日本鋼管聖書研究会の指導牧師である鈴木に一時間に余る長電話を掛けた。クリスチャンの救いと社会生活についてである。隣人を省みることが許されない企業組織の中で、「救い」を自認・自覚するということにどのような意義があるのか、という質問である。

 文雄にとって、所謂「救い」はヤコプ書を藁の書と退けたマルチン・ルッターの信仰義認のように片手落ちのように思えてならないのだ。

 クリスチャンである労務課長が会社の方針に基づいて、現場労働者の労務管理を行い、企業の労働者収奪に加担していく。仕事として矛盾を感じないで、教会生活をエンジョイする。社内でバイブル・クラスに顔を出して勉強していることをそれとなく、ひけらかす、偽善者という思いを文雄は払拭できない。鈴木牧師は文雄の質問に手を焼いた。
 その夜、文雄は淑子に夜学の神学校で学びたいと告げた。


自転車 第1章 段差二糎 

その12 苦汁を飲む

 文雄の話を聞きながら淑子は生理が遅れていることが気になってきたが、文雄には告げなかった。長男の義樹が目の離せない悪戯さかりで、寝付くまでは気が張りっぱなしの毎日で、転勤後は文雄の給料が目減りしているのも気になっていた。

 しかし、文雄の希望に反対はしたくなかった。夫の希望を受容れながら、自分たちの家庭に自分の意志を反映させるべく努力をすればいいんだと、結婚当初の考えを再確認した。

 しかし、考えないことにしている結婚式の時の同僚の言葉が脳裏をかすめた。「川崎の労働者と結婚しても、幸せになれないわよ」、幸せなんて人が決めるものじやないと、内心に呟いたとき、義樹がむずかりはじめた。

 目白にある聖書神学校には既に文雄の友人、知人が数名入学していた。同じ教会の後輩の大場はその年に、前年には渋谷教会と松江の知人が二人。松江からの男は軍役服務中に肺結核に確り、松江の国立療養所で療養中に敗戦を迎えた青年だった。文雄より五歳はど年長のこの青年は、文雄よりかなり遅く授洗したが、回心時の心象がよほど大きく、深いものだったようで、年余の信仰生活を経たに過ぎないが、熱心に病院伝道を実行していた。伝道者になりたい一念で五年の学生生活では長すぎると本科一年聴講で、後は松江に帰り伝道生活に集中すると決心していた。

 渋谷教会の青年は武蔵野音楽大学を出、中学の音楽教師である。出身は愛知、浜名湖畔でうなぎのような気性の青年である。次の日曜日の礼拝後、文雄は大場に心中を吐露し、彼の意見と入学に関する体験を聞き、願書等の入手を依頼した。

 文雄の願望は瞬く間に教会中に広まり驚きと危惧の囁きが始まった。暫くして入学願書を手にしたとき、文雄の目に先ず入った文字は新制高校卒業若しくは同等の学力を有する者という入学資格であった。旧制中学中退の文雄の最も忌み嫌う学歴である。唯、救いは「同等の学力を有する者」という一行である。入試は面接と小論文だけというのも文雄に期待を抱かせた。文雄は一年だけ在籍した身延高校に最終学年の成績表を請求した。

 一九四五年三月下旬、文雄は妹と弟の手を引いて山梨は南巨摩郡睦合村の県道を母と一緒に歩いていた。三月十日の東京大空襲から半月後のことである。東京大空襲の日、文雄は学徒動員で奉仕させられていた芝浦電気六郷工場を、空襲警報で定時間前に自宅に返されていた。一旦、警報は解除されたが、日が暮れて暫くすると、いきなり空襲警報が鳴り響き高射砲と機関砲の音がけたたましく響き始めた。ゲートルを巻き、戦闘帽をかむって、家の外に出ると、南の空にB25型爆撃機が羽田方面を目掛けて飛んでいる。

 高度は二、三〇〇百米もあるだろうか。ボーイングB25をそんな低空で見たのは初めてである。探照灯(サーチライト)が幾本となく交差し、夜空は昼のように明るい。サーチライトに照らされたB25爆撃機は地上砲火をものともせず、低空のまま幾機ともなく東京へと飛んで行った。

 何十機となく。日本軍の戦闘機が二機三機とB25爆撃機に襲い掛ったようだが、B25は一機の墜落もない。サーチライトと地上砲火の幕の中を巨体の銀鱗を輝かせて飛んで行ったB25。

 北の空が真っ赤に染まった。
 空襲は真夜中を過ぎてもまだ止まない。東の空が明るくなり、火の手の反映が消えるころやっと爆音もしなくなった。

 その日は文雄の十三歳の誕生日だった。一八九六年(明治二十九年三月十日は日露戦争で旅順の二〇三高地が日本軍によって陥落し、ロシヤ軍のステツセル将軍が降伏した日といわれ、大日本帝国の陸軍記念日とされていた日だ。アメリカ軍はその日を狙って東京を爆撃したのだ)。

 一九四五年四月七日、文雄は父に伴われて県立身延中学校の校門を潜った。校長室へ行くと髭をはやした校長が「持田君、君は川崎市立工業学校から転校した訳だが、それは、今は戦時中で、富士宮の同格の学校へ通うのは大変なので、特別に認めたのです。この学校は県立ですから、市立よりも格が上なのです。このところをよく心得てください」と文雄の顔に目を光らせながら言い渡した。

 「二年三組に組入れますから、担任の先生に就いて教室へ行ってください」という校長の声と同時に担任が現れ、父が低く頭をさげた。担任は文雄を教室につれていくと、クラスメートに紹介し、「明日から甲斐大島に疎開してくる工場の建築用材を身延駅から甲斐大島に運びます。一旦学校に集合すること。担任が付添いで監督します」といい渡した。

 翌日から七月三十一日まで、文雄たちの学年は甲斐大島の工場建設資材運びに学徒動員された。文雄にすれば、川崎市立工業学校入学後の二学期から連続の学徒動員であった。ある日は富士川に川原から工場の基礎に使う石を一日五個、背負子で担ぎ上げ、ある日は裏山の伐採地から杉の生皮を五杷、担ぎ下ろす作業であり、転校当初の数日は身延駅から甲斐大島の工場建設地まで、鉄筋を十本かついで十キロメートルもの道を歩くという重労働であった。

 都会育ちで小柄な文雄には一日一日の労働が体にこたえた。土地育ちの学生は殆どが農家育ちで担ぐ仕事には経験があった。文雄が漬物石大の石二つをやっと背負子で背負うと、クラスメートの大半は三つを担いだ。杉の生皮でも同様である。中には五束を一度に背負子に括り、一気に山道を下る猛者もいた。

 しかし文雄が本当に苦しんだのはあの運命の八月十五日以降のことである。夏休みは学徒動員であるから、八月一日からということになった。文雄は敗戦の勅語を父方の郷里から母方の疎開先に戻る道すがらに聞いた。それは三時の玉音放送であった。

 三日ほど父方の郷里に弟を連れて遊びに行った。母方の疎開先での食い扶持を少しでも軽減させるためである。昼飯を食べ、手土産に芋と大豆を少しばかり下げ鞄に入れているとき、隣の嫁が「なにか重大発表があるらしいよ」と叔母に話しているのを小耳に挟んだ。四歳の弟の手を引きかさかさに乾いて、藁草履が動く度に土壌が舞う、極暑の昼下がりの田舎道を根熊から和田峠にさしかかるとき、峠下の農家から玉音放送が途切れ途切れに聞えてきた。

 内容は良くは分からない、なにか泣き出しそうな声がしていた。峠越え四里の道を歩いて母方の疎開先へ帰り着くと、日当稼ぎから帰った父が母に、「日本が負けた、天皇陛下がポツダム宣言を受納する勅語を報道されたんだ」と話していた。

 雲ひとつ無い青空の暑い一日だった。樽桶に日本刀を針ネズミのように取り付け、その中に身を潜めて鬼畜米英の魔手を逃れるという夢から文雄は解放された。

 文雄の苦難は八月二十日から始まった。敗戦の翌々日、身延中学から登校指示がきた。同じ村落のお寺に同級生がおり、電話もあったので、そこに電話連絡されたのだ。同級生の名前は、鴫治中といった。彼は文雄に村落のうわさ話を語った。「文雄さん、あんたの妹さんは不登校なんだって。それに、あんたのことも、焼出されで、日当稼ぎをしながら、倅を中学にやるなんて。考えられないよって言ってるよ」と治中は告げた。同じ村落から人が羨む中学に通っているという気安さからの言葉には、嫌味はなかった。

 しかし、文雄には、腸が煮え繰返るような噂だった。その鴨治中とはクラスも同じで、登校も下校も、通学路も、汽車も一緒で何でも話せる間柄であったので、彼に対する怒りは湧かなかった。

 十月に中間試験があり、文雄は数学と英語で○点に近い成績だった。文雄は転入の時の校長の言葉を思い出した。「今の二年生は一年生の時、全教科の他、英語も勉強しました。入学のとき、文部省から英語は敵性言語だから教科から除外するように通達がありましたが、この地方はアメリカ・カナダヘの移民が多い所なので、通達は無視しました」。

 川崎の工業学校では英語は文部省の通達に従い、この学校は工業学校なので、実地の勉強になりますからとの理由で二学期から学徒動員に応じることになり、一年生は芝浦電気の六郷工場へ働きに行ったのだ。ABCも分からず、方程式も学ばずに工場で働かされたのだ。「臍(ほぞ)を噛む」という言葉があるが、文雄は正に臍を噛んだ、噛み続けざるを得なかった。
 苦い思い出を噛み締めながら、文雄は最終学年の成績表を新制身延高校に請求した。


自転車 第1章 段差二糎 

その13 岡田五作

 一九五四年三月一日、(昭和二十九年)日本鋼管労働組合では、船山日出男が第十七代の委員長に就任した。彼は一九六五年(昭和四十年)四月まで丸十一年一ケ月に及ぶ委員長生活を送るのだ。一九六二年に日本鋼管労働組合連合会が発足し、船山はその連合会の委員長を一九六五年四月まで勤める。

 文雄が臨時工で入社したのは一九五三年二月十二日である。その時の委員長は石田芳雄(第十五代は、一九五二年十月一日〜一九五三年三月一日)。次は本橋順が第十六代委員長となり、翌年の三月一日に船山にバトンを渡す。

 一九四六年に労働組合が結成されてから、八年の間に十六代も委員長が変わっているのだから、一人の人物が十一年も委員長を続けるというのは、異常であるように思える。

 船山が委員長になった年の五月一日に文雄は先輩の臨時工四、五十名を差置いて本採用になった。同じ現場から本採用になった者は四名である。荒、小松、真部、藤原。本採用の内示が個々人にされたとき、上田職長が「持田、お前が合格するとはね、まさかと思ったよ」と、揶揄とも感嘆とも取れる言葉を投げつけた。

 一九六二年九月一日、水江工場が完成し、独立した企業となり、労働組合も独自になつた。労働組合は京浜製鉄所、鶴見製鉄所、水江製鉄所となり、それぞれに委員長が存在したが、日本鋼管という企業傘下で個別の組合運動も必要だが、団結して共通の課題を集約して、運動を発展させたいということで連合会が発足したのだ。

 文雄は船山委員長になってからの経営者側が提案し実行してきた、企業体質改善策を数えてみた。
▼一九五五年(昭和三十年)、生産性向上運動実施。TWI(指導者養成講座)開始。
▼一九五七年(昭和三十一年)、事務・技術系職員の資格制度導入。
▼一九五九年(昭和三十四年)、組合費天引(チェックオフ)実施。
▼一九六〇年(昭和三十五年)、IE(工程経費改善)実施。
▼一九六一年(昭和三十六年)、共済会発足。
▼一九六三年(昭和三十八年)、職務給導入、自主検査方式 制定。

 労働者の首を絞める施策ばかりが現場労働者の職場討議を経ず、組合本部報告として承認されることが慣習となっていった。そんなある日、文雄は教会の仲間、富田に誘われて彼の勤める三菱横浜造船所の聖書研究会の秋季修養会に参加した。場所は田園調布教会。教会は東横線の田園調布駅から歩いて五分位のところにある。駅から教会までの道は静かな住宅街、庭庭に植え込みや、木々が繁り人通りもない。

 指導牧師は岡田五作、彼は四年のアメリカ留学を終え、新興住宅地の田園調布を宣教の場所として選び、気鋭の伝道者の生活に入った。田園調布は武蔵野も東端に位置し、市制が敷かれる以前から、高級住宅が点在する東京都の郊外である。川崎の長屋に育った文雄には、心なしか抵抗を感じる町並みであった。

 田園調布教会での三菱・横浜造船所聖書研究会修養会での岡田五作の印象はなぜか文雄には残っていない。三位一体をどのように体験しうるか、復活とはなにか、甦りを実証できるか。聖霊とはなにか。それを体験的に実証しうるか。それらのキリスト教の中心命題への探求から離れた信仰論は、よしそれがどんなに感動的であっても文雄の心線に触れなかった。一日の修養会は満ち足りない思いを文雄に残した。帰路、富田に感想を漏らした。それ以降、富田からの誘いはなかった。

 一九六三年に入ると文雄は神学校入学試験のための小論文作成に取り掛かった。日本鋼管入社後十年の集大成とも言えたその小論文の主題は「職域伝道の危機・これで艮いのか、日本の職域伝道」。

 それは企業への忠誠心が宗教改革者たちの職業召命観で裏打ちされた考え方として容認されている。従ってそれは自己満足をもたらし、弱者切り捨を問題視しないというイエスの精神に反する状況を生み出しているという内容の告発文であった。

 二月の末、文雄は仕事を休んで日本聖書神学校の入学試験を受けた。試問を終えた人が次の指示された人に入室を伝えるという形で試問される。室に入った文雄は氏名と所属教会名を名乗った。正面には白髪、白髭の老人が座っている。校長の金井信一郎だ。向かって右手の奥に岡田五作が座り、その手前には藤田政直、左手の奥には高柳伊三郎、手前には新谷徳治が座している。

 「お座りなさい」という、金井校長の指示に従った文雄に最初に質問したのは高柳伊三郎だった。
「持田さん、あなたの提出された最終学歴の証明書ですが、封筒は山梨県立身延高校になっていますが、中身は身延中学ですね。高校ではないじやないですか」と詰問調だ。

 文雄は答えた。「おっしゃるとおりです。私は提出した履歴書に、旧制身延中学二年退学と書きました。今その学校は新制高校になっていますから、高校の名入り封筒が使われたものと考えます」と返事をした。

 金井校長が「大きな問題提起の論文ですね、ところでこの教授の方々でどなたかお知り合いの先生はおられますか」と尋ねた。文雄は「一度だけですが岡田先生にご指導を受けました。私の友人が三菱横浜造船所に勤めておりまして、そこの聖書研究会を岡田先生がご指導されておられ、私はそこの修道会が田園調布教会で行われたおりに参加させて頂きました。その折、岡田先生のご指導をお受けしました」と答えた。

 入試面接を終え、文雄は最終学歴を問題にされたことに、怒りを覚えた。二週間ほどして神学校から通知が届いた。胸を膨らませながら、封を切ると「全科聴講で入学を許可します」とあった。大きく吐息をして文雄は目を閉じた。


自転車 第1章 段差二糎 

その14 16時52分発大宮行、16時58分発東京行 

 「ねえ、お父さん。義樹の写真が鋼管通りの写真屋のウィンドウに飾ってあるって真柄さんの奥さんが言ってたけど、知ってる。」「いや、知らない。」「今日、奥さんに言われたのでお使いに行ったついでに見てきたの。確かに義樹よ。出窓の手すりにつかまって、にこつとして、顎によだれが垂れているの。ほら、去年の春、その窓で義樹の写真を写したでしょ。あれよ。あなたも見てきたら。」「わかった。今度、行ったら見てくるよ。」「お父さんたら、又、今度ね、義樹、お父さんと一緒に見てらっしやい」。

 文雄の神学校入学式には、牧師の森、副牧師の高橋、教友の真柄夫妻、富田、仲人の今井夫妻、そして淑子が義樹を連れて参加した。今野は仕事の手が抜けないと辞退した。教会外の友人、知人、家族は一人もいない。

 電車を待ちながら森が言った「持田君、批判を忘れずにな、鵜呑みはいけないよ」と念を押すように言った。 淑子は臨月近い大きな腹をして、義樹の手を握っていた。夕方のラッシュアワーだが上がりの電車は比較的に空いていた。
「義樹、お父さんはね、今日から毎日、この電車で学校へお勉強しに行くのよ。義樹はもうすぐお兄ちゃんだから、良い子にしてね」と内心の不安を隠した。

 入学式後のレセプションで渋谷教会の弓田や予科二年になった教友の大場が森牧師の所に集まって来、大場が前年の秋に入寮した学生寮に案内すると申し出た。大場は川崎の親元から、勤務先の横浜へ通い、そこから目白の学校まで通う不便さ、通学時間を切り詰めたいということで入寮したのだ。

 学生寮は夜学の神学校の自慢の施設だ。一階には集会室、食堂、炊事場があり、二階に学生たちの部屋になっていた。一部屋に二名、入口側と奥とに机が置かれ、ベツトの上がロッカーになっていた。広さは六畳位か、互い違いになったペットの中央が一メートル弱の通路になっていた。狭い。寮費は月三〇〇〇円、自炊.食事は食堂使用だが、寒い時期には内緒に部屋で夜食を摂ることは黙認されていたようだ。

 学科は英語・ドイツ語・ギリシャ語が必須。新約学・旧約学・新約釈義・旧約釈義・教義学・教理学・教会史も必須学科。他に社会・心理・文学があり、本科では説教学が必須に加わり。ヘブライ語が選択学科となる。ドイツ語・社会・心理・文学は選択となる.英語はリーダーと文法とに別れ、週三時間。一日の時間割は月曜日の第一時限は全校礼拝、月の第一週は教師もしくは講師、以後は本科生。授業は二・三時限。火〜金曜日は一・二・三時限。土曜日は休み、日曜日は奉仕教会でのサーヴィス。

 学生のほとんどが昼間は仕事を持っていた。会社員・銀行員・出版社社員・教職者。アルバイトと職業は様々。文雄が本科生になったとき、自営業の人がいた。独身者・所帯持ち・女性・男性と性・年齢もばらばらで、ただ、二十歳以下の人はいなかった。

 文雄の苦手は英語だが観念して極力努力する以外に道はない。リーダーの講師は新屋信子。金井校長の娘で旧約学、旧約釈義の教授・新屋徳治と結婚していた。目鼻立ちのよい顔で愛想が良かった。テキストは高一か高二程度の内容らしいが、文雄には難しかった。 文法の講師は後に新潟に出来た敬和学囲の校長に要請された、大田俊夫.色白、丸顔で、なんでも心得ていますという感じの初老に近い男だ。文雄が入学した年の夏休みに、聖地旅行をして、感激した事柄を得々と話して聞かせた。

 また、彼は自分の入信した動機が、近くに住む、アメリカ人宣教師のバイブルクラスであることを幾度となく繰り返し話した。文雄の毎日は英語また英語で明け暮れた。夜九時に講義が終え、直ぐに目白駅に向かって急ぎ、山手線内回りで品川へ、二十一時四十八分か五十三分の東海道線下りに乗れれば比較的早く帰宅できた。

 夕食を終えると二十三時である。それからの二時間が英語の自習時間。自習と言っても、妻の淑子がサポーターだ。彼女は高校で英語が得意で、就職後、高田英語学園へ結婚するまで会話のレッスンを受けていたのだ。

 文雄の勉強方法はリーダーをノートに書き写し、訳をフレーズの下に書き込むという方法だ。どうしても和訳が付けられないとき、淑子に教わった。我武者羅に書き、四苦八苦して和訳をする、という毎日が続いた。

 英語の受講は講師の顔を見るのも嫌だったが、子供時代とは異なり、投げ出さなかった。ペーパーテストは何時も六十点以下で、追試を受けたが逃げなかった。同じ語学でもドイツ語、ギリシヤ語はクラス中が初めての体験なので、特に苦労するということもなく受講できた。英語以外では引け目を感じることはなく、中にはペーパーテストでトップ点のときもしばしばあり、学ぶ悦びのような感情が沸くこともあった。

 五月なかばを過ぎると淑子が陣痛を訴えるようになった。電縫管工場から川崎工場への用事ということで、文雄は仕事中に家へ立ち寄り、淑子の様子を伺った。給料日から一週間が過ぎた日、朝の出勤時に淑子の差込がいつもとは違う気がして、文雄は九時に電縫管工場を出て、家に帰つた。

 産気付いた淑子の「お父さん、良かった、生まれそうだから病院へ連れて行って」という言葉で、義樹を姉に預け、自転車の荷台に淑子を乗せ鋼管病院へ運んだ。産婦人科へ行くと淑子は直ぐ産室に入れられた。入院手続きを済ませ、文雄は仕事に戻った。

 目白の学校へは妻の出産でと電話連絡で欠席を届けた。定時間で仕事を終え、病院へ急いだ。新生児室のガラス窓越しに見る赤子は、文字通り赤い顔をし、手足も赤かった。手足を活発に動かし、皺のある顔も蠢いている。体重三七〇〇グラム、大きな赤ちゃんだ。産後の疲れで淑子はうたた寝をしていたが文雄の声で目を開けた。

 安産だったせいか、顔色が良い。出血も比較的に少なく経過良好という医師の診断に文雄は安堵した。一旦帰宅し、姉に預けた義樹を引き取り、親子で病院に足を運んだ。義樹は「弟、弟」とはしゃいで保育器を覗き込む。淑子の入院中は毎朝、義樹を姉に預けて文雄は出社し、定時間で仕事を終え、市電で川崎駅へと急いだ。十六時五十二分上り、大宮行き・十六時五八分東京行き。この何れかの電車に乗らなければ目白の夜学に遅刻するのだ。


自転車(15)第1章 段差二糎 

その15 休学
 
二年間の予科を終え、本科一年に進級するとき、ヨルダン社に勤めていた学友が、自分は出版の仕事で宣教をすると退学の意思を文雄に伝えた。そこに使命を感じるならば、自分が信じる道に進みなさいと文雄は励ました。

 弘樹と名付けた次男の二度日の確生日を祝った後、文雄は絶え難い胃痛を感じた。一晩うなり通した翌朝、淑子が作った粥を一口、口にすると猛烈な吐き気がして、吐血した。胃潰瘍の再発だ。

 淑子は直ぐタクシーを呼び文雄を車に乗せ、子供も乗せ、鋼管病院へ走らせた。救急治療室へ案内される。当直医が問診をし、個室へ。一昼夜食事なしで翌日、胃カメラ室へ移される。注射をされ、部分麻酔の舌下剤を口中に含まされる。診察台に寝かされ、唾を飲み込まないようにと注意される。小指ほどのチユウブが麻酔された喉を通る。「ウエ」と胃液を吐きそうな感じだが、胃液は出ない。 深度四十二センチ・カメラ二時方向、六時方向、十時方向・深度四十五センチと胃カメラが動く。わずかな動きが喉を刺激し、吐き気を催す。吐き気を堪えると目頭に涙が浮かぶ。「畜生」と声を飲む。「終りました」と言う声でカメラ技師(担当医)が一気にカメラを抜く。「ゲープ」と思わず膨らんだ胃から空気が出る。付添っていた看護婦が車椅子に文雄を乗せ病棟へ帰る。

 淑子は礼拝後、大場に事情を話し、入院が二ケ月以上になることと退院後半月の療養が必要になるからと、一年の休学の届けを夜学に出すように依頼した。義樹が生まれた年の暮れから翌年二月一杯の入院、自分が選んだ相手の病気、夫の回復と育児が私の役目と割り切った。

 近くに住む文雄の姉が、縫製の仕事を始め、淑子に手伝いを依頼したので、義姉の仕事に精を出した。二人の子供は近所の子供たちと日がな、一日駈けずり周り、あまり手が掛からなかつた。毎夕、使いの足で病室に子連れで立ち寄り、文雄の様子を見守った。義樹も弘樹も病室の患者たちの人気者になっていた。

 文雄が出社したのは暑さが盛りの八月になっていた。二月に自主検査方式になり、検査課の工場担当部門は廃止され、製造部門に吸収された。文雄はゲージ担当ということで、電縫管製造工場に配属された。

 荒木は過流検査工長として現状維持のまま、電縫管製造工場籍になった。文雄の部署には一冷缶工場の現場倉庫担当から配転した小菅という二十五、六の男と養成工上がりで二十二歳の大間という既婚者がいた。三人は電縫管製造工場の現場倉庫という職場で、勤怠管理は電縫管A班の工長が行い、作業長は五十嵐と言った。

 文雄の給料は電縫管検査へ配転したときと変わらない。検査でも製造でも査定の変化を付けずらかったのだろう。しかし、文雄は別の判断をした。給料が変わらないことは定期昇給、賃上げに相当する分の査定が落ちたのだと。

 年下の同僚となった小菅はヘルニア持ちで季節毎に腰の痛みを訴えた。大間は中学二年のとき、日本鋼管に勤めていた父を工場でのガス事故で失い、中学卒業後養成工で入社した。先行きに不安を感じた母親は大間が成人するとすぐ、所帯を持たせたのだ。

 文雄はその職場でも、四月から夜学へ行くことを口実に日曜日休みを職制に認めさせた。週休日には平常出勤し、外回りの仕事をした。川崎地区の検査・工作・材料課・電気課を巡るのである。荒木班長の要望や、提案はそのときに行うのである。川崎地区・池上地区、たまに水江地区にも足をのばした。

 胃潰瘍で仕事を休んでいるとき、文雄は自分が夜学の神学校に学ぶ労働者であること、勤務先の日本鋼管での問題を、聖書研究に集まる職員たちに訴える方法はないかと考えた挙句に、パンフレットの発行を思い付いた。立志伝・労働観・現状分析・日誌・雑感等聖書との関わりで問題提起をしたかつた。日誌・雑感は無教会派の牧師が発行している「牧歌」という冊子にヒントを得、労働観はシモーヌ・ヴエイユの思想で共鳴する部分を紹介し、立志伝はアメリカの黒人指導者ブツカー・T・ワシントン。これは速読用に部分訳の付いたリーダーを本屋で見つけたのである。
 パンフレットの題名は「刈入れ」と名付けた。


自転車(16)第1章 段差二糎

その16 福山製鉄所

 文雄が復学した年に、日本鋼管は現業部門の社員制度に資格を取入れ、賃金を資格に基づく職級配分を導入した。資格は一般職=A社員一級から一〇級、工長・作業長は監督職とし、B社員(旧職員)の主事・主幹と同等とした。職級は一級から一〇級(高卒現業は二級から始まり、大卒は四級から始まる)業務給査定。職級では職能点、成績点の二査定分野に分け、夫々の上限点、標準点、加減点を設け、さらにそれらを総配分点で制御するという複雑な賃金体系を敷いた。

 この賃金体系は職務給という名目で呼ばれたが、別名ゴマすり給と言われた。職務給が導入される前年、文雄が胃潰瘍で休学した年にはQC・ZD運動が全社的に展血開され、QC(作業改善)は月間個人別に一〇件提案というすさまじい労務攻勢がかけられた。

 この年、連合会委員長だった船山が引退し工程課の係長になり、暮れには課長に昇進した。総評傘下・鉄鋼労連の労使協調路線が日本鋼管で実現した第一号である。組合員の評判は「船山さんは良くやったものね、当然だよ」というものであった。四九日のストライキ以降六年目の出来事である。

 一九六六年は鉄鋼労連がIMF・JCに加入したが、上部団体指導のもとなので、下部組織には関係ないと無関心であった。経済成長に乗り、労使協調路線が確定したことを示し、総評が世界的レベルに到達したことを自他共に容認する祭典であった。

 総評は本当に労働組合として実質的に世界レベルに達したのか、スト権は確立しても一発回答にストライキをしない春闘が続き、経営協議会の報告を繰り返す本部執行部の在り方に文雄も荒木も形骸化した労働運動を感じていた。

 早暁二時に就寝、七時に起床、始業十分前に出社というパターンで、文雄の二足草鞋の生活が続いた。淑子は育児の合間を見ながら縫製の手仕事にせいを出した。胃潰瘍が治って休学した年に半年、人並みの生活に戻ったものの、本科生をやり直す夫の体調が何時も気がかりであった。

 文雄が本科三年の年の五月三十日、祖父徳一が亡くなった。享年七十八歳、年齢的には長寿の方に入るのだろうか。淑子は祖父が酒を飲んでは赤ら顔で自慢話をし、父母に酒をせびるのが嫌だった。祖母は夫徳一が酒浸りになっても口一つ出さずに、部屋の隅に座っていた。父は数年前に緑内障で両眼を手術したが、文雄が本科生になった年、希望が丘に五十坪の土地を購入した。徳一は希望が丘に引越してから度々、行方不明になった。ボケ老人というはど酷い状態ではないが、年に二・三度は行方不明になった。希望が丘の環境が故郷の新潟を思い浮かばせる田園風景が残存していたので、散歩を楽しむあまり、帰り道を忘れてしまうらしい。母のふみは「お蔭様で土地のお百姓さんと知り合いになれて、春になると筍や茸を沢山戴くのよ」と笑った。

 祖父徳一の通夜の日、忌引きで仕事を休んだ文雄は次男・弘樹の手を引いて、希望が丘へと出かけた。弘樹は久しぶりに両親と外を歩くのが楽しいのか、あどけない顔を文雄に向けて言った。

 「パパ、ぼくつまんないな、だって、ぼくのお誕生日におじいちゃん死んじゃったんだもん。ぼく、お誕生日なくなっちゃった。おじいちゃんなんで五月三十日に死んだの」「おじいちゃんはね、弘樹がおじいちゃんのことを忘れないように、弘樹のお誕生日に亡くなったんだよ」と、とっさに浮かんだ思いを文雄は弘樹に伝えた。

 翌年三月十七日は神学校の卒業式で、入学式には参加しなかった今野が夫婦で顔を見せた。仲人の今井夫妻は出席しなかった。今井夫人が独身時代に一度自宅に招かれ、聖書の勉強の手ほどきを受けた経験があり、文雄には淋しい思いがした。森牧師はその日の説教者浅野順一とは面識があり、セレモニーの時に話し込んでいた。文雄の同期には佐古純一郎が飛び込みで卒業生になった。母教会で牧会する牧師がなく、牧師職の必要に迫られていたのだ。佐古は大学教授でよりも、作家として有名であり、文雄が休学した年には神学校で、キリスト教文学の講義を行っていた。昭和二十年代後半に神学生として在籍したこともあったという。

 その年の夏、宍道湖湖畔で文雄は弓田や大場と共に教師按手札を受けた。先に松江で開拓伝道を行っている獅子が記念にと出雲名物の瑪瑙のカフスを三人に贈った。義樹を連れて行った日本基督会の大会のことである。

 文雄はこの大会の後、広島の福山製鉄所を見学する予定を立て、荒軍治には連絡を付けてあった。文雄にはこの大会に苦い思い出がある、ヨハネによる福音書一九章三〇節「すべてが終った」という十字架上のイエスの最後の言葉の解説・証言を三人に求められ、文雄はうろたえたのだ。誰がイエスの最後の言葉を解説できるのだろうか。

 宍道から備後落合を経、塩町で福福線に乗り換え福山へ行き着くのに一日がかりで福山駅に出迎えた荒は待ちくたびれて帰宅してしまい、文雄はタクシーを拾いやっとの思いで荒の住む春日町能島を尋ね当てた。

 夏の陽はすでに落ち宵闇が足元を暗くしていた。幾年かぶりで逢う荒の顔は髭が伸び浅黒い。挨拶もそこそこに荒は遠来の文雄と義樹をテーブルにつかせた。山海の珍味が処狭しと並べられたテーブルから皿が落ちそうだった。

 文雄は川崎の現状、自分に暗黙の内に課せられた選択肢、四直三交代制か福山転勤かという選択肢の説明をした。皆がテーブルを囲んでいる時に工場から荒に電話がかかり、クレーンの調子が悪いから直ぐ出社してもらいたいという要請。荒は断ったが電話は再三鳴り、荒は文雄に詫びて、出社した。

 二時間ほどで帰ってきた荒の顔は疲れが見えた。呼び出しは週に二・三度あるという。「なまじ、工長なんかになったって、忙しくて殺されちゃうよ」と荒はぼやいた。翌日は荒の案内で福山製鉄所を見学した。タクシーを門前で降りると、工場は内海に張り出した埋立地にあり、大きな建屋が二つ、内壁はなく夫々の建屋に天井クレーンが三・四台走行していた。

 文雄は荒の説明よりも、門脇から排泄されているドス黒く、茶色の廃液が印象に残った。この廃液が瀬戸内の海を汚染しているのだ。隣接する明景、鞆の浦の海の汚染も遠くないと思わざるを得なかった。転勤も四直三交代も嫌だと文雄は心を決めた(つづく)。

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