自転車

自転車(改題・或るニートの半生) (43) 第三章後半 通り抜け禁止

   その11 再び、味の素ダノンで

 文雄がフランス行きの土産を買ったのは三月三日、区画整理の後、小田三丁目二五番地に変わった日本鋼管独身寮を発見した日であった。正午に原告の金景錫・梓澤弁護士等と東京地裁で書記官に意見書を提出し、昼食を一緒に摂ったあと皆と別れて浅草は仲見世に行った。迷ったあげく、雪駄一足と数本の扇子を買った。
 
 三月八日、金景錫の日本鋼管訴訟裁判には、神奈川シティユニオンの労働者が傍聴席に入りきれない程参加した。大半は労働争議中の人でいろいろな国籍の人がいたが、韓国籍の人が数的には多かった。五十年前、強制的に徴用され日本に連行され、日本鋼管では半島技能工と蔑まれ、ストライキを実行したということが関心を引いたのか、彼らは金景錫のハングルで話す証言に聞き入っていた。文雄はこの目、自作の論文を関田牧師・梓澤弁護士に手渡した。

 翌日、文雄は名糖運輸の武藤所長に電話を掛け、アルバイトの申し込みをすると二十九日に再度話し合うことになった。文雄はフランス行きのことが気に掛かったが、アルバイトで就職する話が決まるときに事情を話し、了解を求めることにした。その前に歯医者・眼鏡作りと慌しい日が続いた。四月一日から文雄は味の素ダノンの出荷部門を担当している名糖運輸で働くことになった。五月にはヨーロッパ旅行で半月問アルバイトを休むという条件は容認された。

 再就職前の十日前、全造船日本鋼管支部の持橋と金景錫さんを支える会の安原から神奈川シティユニオンを脱退する美好祥子の処遇に就いての相談を受けた。祥子はパートタイマーとしてダスキンで働いていたが、正社員とパートタイマーの大きな賃金差を承服しかねて待遇改善を求める要求をダスキンに提出し、労働争議は地労委から東京地裁の裁判になっていた。彼女は金景錫さんを支える会の事務スタッフでもあったが、自分の労働争議支援の体制が神奈川シティユニオン内部で上手に組織できなかったことから、書記長役を降り、他の組織に移行する決心を固めていた。ユニオンの外部にいる文雄には本人の意向を尊重する他に選択肢はなかった。

 土曜日の二七日は教育委員会社会教育課主催の人権講座の最終回で、講座終了後文雄は同盟教団登戸教会の住吉牧師はか四名の女性と打ちあげ会を行い、住吉が労働運動に関心を寄せているということで、三十日に文雄の家で情報交換することになった。

 名糖運輸でアルバイトをはじめた文雄に全自動車の風呂橋から、四月三日午後、浜松町の船員会館での年次例会参加要請がなされた。その日はアルバイトを午前中で終え、浜松町へ急いだ。メインは金ウォンジユという精華大非常勤講師の韓国自動車産業における労働争議レポートであった。交流会では通訳をした小園という若い女性リポーターが神奈川県で行って在日韓国・朝鮮人問題研究の、山田昭次グループで調査員として参加していたと自己紹介をした。

 翌日、浅田教会のミサに参加し自宅での礼拝を守った後、文雄は渋谷・宮下公園で行われたフォーラム伽が主催する死刑執行抗議集会に参加し、エドワード神父と神奈川シティユニオンを離れた美吉祥子に会った。東京の過激な集団と目される労働運動グループと行動を共にしていた祥子は挨拶をするとすぐに顔をそむけた。エドワードは大きな体を揺するようにしてデモ行進の真ん中を歩いていった。

 八月のACO代表者会議までに秋の国際会議でのハングル通訳を探す役目を持っていた文雄にとって、小園リポーターとの出会いは幸運でもあった。小園と連絡を取り合っているとき、身世打錫を始めた宋富子の函館公演の話が並行して進んでいた。公演先を探していた富子に文雄はACOの函館グループを紹介すると、富子は次女が医師と結婚して函館に住み、孫が保育園で差別を受けているのでと、乗り手に舟と話が進みんだ。ある朝、文雄が富子に函館の加茂夫妻を紹介して帰ってくると、ヨーロッパツアー旅行の申込みをしていた国際ロータリーから催行中止の連絡が入った。パリのアンドレとの約束になっているので、文雄は慌てた。古い新聞を取り出し、記憶を遡って、JTBのエーゲ海・ローマ・パリという旅行案内を探した。このツアーは国際ロータリーのツアーより割高であったという記憶があったのだ。翌日、JTBに電話すると五月一六日に催行するツアーがあり、文雄の加入を了解してくれた。

 四月二十日、文雄はピッキングのアルバイトから製品引取り作業に変わり、武藤所長から新入社員にその作業の指導・教育を依頼された。コスモ研機の派遣社員の移動が激しく、名糖運輸で文雄が働き始めたてとをダノン側が関知し、コスモ研機の派遣を取りやめて名糖運輸に切り替えたらしい。文雄の時給は八三〇円から一〇三〇円に昇給し、勤務時間も正午から二一時までと変わった。コスモ研機の時の就業時間と全く同じになった。
 

自転車 (44)第3章 通り抜け禁止 

その12、脱尺貫法

 一九九三年五月十六日二十一時ジャスト、文雄が乗客になったオリンピック航空四七八便は成田の空に飛び上がった。日本を初めて出国する文雄に特別な感傷はなかった。苦しい家計を支えている淑子の心中を彼が少しでも思いやれば、ギリシャ・ローマ・パリなどという贅沢な旅行は出来るはずがない。アンドレに会い、外国の地を歩いてみたい欲望は文雄の心情から家族への配慮を消し去っていた。

 シートベルトをしたまま居眠りをしていた文雄の耳にパーサーの甲高い声が「四七八便はもうすぐバンコック空港に到着します。燃料補給が一時間半掛かりますのでその間、機外に出て空港内でショッピングされても結構です。」という言葉が入ってきた。ゴトンという着地の音とショックが伝わってきてOA四七八便は地上滑走に入った。真夜中の十二時。バンコック空港の免税店は一軒も開いてはいなかった。ショーウィンドーに飾ってあるウイスキーの値段は成田と変わらなかった。「高い」と呟きながら文雄はタイ国の庶民は空港なぞ恐らく関わりのない設備で、国外に出稼ぎに出られるのは中流に近い生活をしている人々ではなかろうかと考えていた。

 機内に戻った文雄はシートベルトを締め、目を閉じた。「アーア、味噌汁が飲みたい」という声が中央座席のほうから聞こえて文雄は首を回して声の主を探した。それは八組の新婚カップル内の花嫁の一人だ。「一晩しかたっていないのに」と女の顔を眺めながら「田舎娘」と心中に呟く。OA四七八便はトルコのアナトリア高原の上空を飛んでいたらしい。

 丸窓を開くと機内に朝の光がさし込んだ。緑と茶色の模様が隠れ、青い海が見えるとすぐに島が見え、飛び去って行った。またすぐに島影が眼下に現れる。「エーゲ海か」と首を捻っているとスチュワーデスが朝食を配りはじめた。

 アテネ空港は快晴で日差しが厳しかった。アテネスタジアムは三〇〇〇年昔の施設とは思えない。数人の青年がトラックの奥の方で練習をしている。バスは狭い道幅の市内を抜けて岡下の道をアレオパゴスに向かって走った。バスが停車しガイドが麓の木の間に見え隠れする洞穴を指差し「あれが哲学者ソクラテスが幽閉されていたという伝説の洞穴です」と。伝説という言葉に力を入れて説明した。それは鎌倉の谷あいに見られる矢倉とは異なり四角い手掘りのように見えた。バスがその岡を巡ると谷の向こうの岡にパルテノン神殿が見えた。

 その夜の宿泊はアクロポリスホテルという神殿が一望できる峰続きのホテルであった。夕食後ホテルの屋上に出るとオーナー自慢の神殿が目の前に肇えていた。出てきたオーナーは添乗員に二言三言話し掛け、彼女を抱きしめ頬のキスをした。日本人の前でキスされた添乗員は頬を赤らめながら「オーナーが皆様にワインのボトルを二本ずつサービスするそうです」と告げた。オーナーは文雄の質問に答えて、パウロが問答したアレオパゴスはあの小さな岡の麓にありますとホテルの前方の森を指差した。

 翌日のエーゲ海クルーズで三つの島を巡ったが文雄は観光の他には産業らしい産業が見あたらない狭い島内で島民はどのような生活手段を持っているのだろうかと案じた。最初の島には中心部の岡にコリント式の神殿があり、島の観光のメッカとなっていた。アクロポリスの神殿を小さくしたような神殿はBC四九〇という年号と俯瞰図が書かれた銘盤が大理石に填め込まれていた。

 帰路のバスの車窓から、小さなガソリンスタンドの防火壁に佇む少女を見かけた文雄はもの悲しい感傷に陥った。ギリシャの男たちは海員になって世界を股にかける人が多いという。川崎に市電が走っていたころ、駅前でトレイン・トレインと市電を探していたマドロスの英語は片言で、文雄の英語とおつかっつだった。あのマドロスはギリシャ人だったのだろうか。あの少女も航海に出ているマドロスの恋人を待っているのだろうか、それとも父親を待っているのかもと。

 二番日の島では港町にあるカテドラルではなく、岡の向こうにもう一つのカテドラルがあるという添乗員の言葉で文雄は町並みを出て、岡伝いに歩いた。三十分歩いてもそれらしい建物は現れない。麓道の脇にはコクリコの赤い花が咲き誇っている。一重の赤い花は情熱よりも侘びしさを感じさせる。孫らしい幼子の手を引いた老婆が文雄を珍しげに見て通り過ぎたあとは又、無人の道。十分も過ぎたろうか、ジーパンに半そでのTシャツ姿の男が通りかかった。文雄は中老のその男に声を掛けた。 途切れ途切の会話で、岡向こうのカテドラルまでは片道二時間掛かると言われ、近くにあるというカテドラルまで案内してくれることになった。彼は港町に孫を向かへに行くという。日本にはこ一度、航海の途中で立ち寄ったと話した。横浜・神戸・函館と片言で話す被の頭髪は胡麻塩で短くかりこんであった。彼が案内してくれたカテドラルは港町にあるそれであった。

 浜辺には葦簾張りの焼鳥屋のような店が建ち並び、コンロで小魚を焼いていた。ランニング姿の漁師風の男が数人輪になって焼き魚を食べている。皿を見ると鰯のようであった。飲み物は地ビールか。茶色の液体がコップに泡立っている。一人がポータブルラジオのボリュームを上げた。午後三時、傾きかけた太陽がまだ暑い日ざしを投げていた。

 ギリシャの物価は安い。日本の十分の心か、十五分の一か。一見小さそうに見える家家だが、中を覗くと広い。畳数での比較はできないが、幾つかある部屋の一部屋は十二畳十五畳の広さの部屋は狭いという感じだ。白亜の壁の中には畳という概念は通用しない。
 

自転車(45)第3章 通り抜け禁止 

その13 メトロ

 アテネ二泊の後、朝早くローマに飛んだ。コロセウム・凱旋門・トレビの泉と市内観光は一瞬で、バチカンの少年聖歌隊のコーラス練習が記憶に残った。ローマ空港のイタリア軍の銃剣を持った物々しい警護、文雄の撮影願いは無碍に却下された。ロビー・ラウンジ・階段といたるところに自動小銃を背負った兵隊が見張っている。昼食を取ったレストランのメニューでは日本の相場にゼロを二つつけたような値段だが、リラは円の一〇〇分の一と思うと日本の半値かそれ以下、食べ物は安い。

 四日目昼前にドゴール空港到着、市内観光はお決まりのコース。二日目は朝から夕方まで自由時間。文雄はハイヤーで十三区のイポリット教会へ出向いた。そこにはアンドレ神父がいるのだ。場末のような感じだが教会の前の道は広い。挨拶の後出されたコーヒーを飲みながら思い出話にひと時をすごした文雄にアンドレはメトロ駅に文雄を案内し、切符を渡してルーブルヘの行き方を教えた。

 文雄は楽しみにしていたルーブル博物館には入場したものの、館内案内が理解出来ず、案内人に聞いても言葉が通じないで同じ部屋に幾度も出くわす始末。文雄は立腹してルーブルを後にし、ボン・ヌフ橋をオルセー博物館側に渡り、セーヌ川の河畔を歩いた。橋から橋を求めるようにして。時にセーヌ川に浮かぶ遊覧船を見物しながら。歩き疲れて幾つ目かの橋を対岸に渡って橋の銘盤を見るとブラボー橋とあり、シャンソンで歌われていることを思い出した。

 その夜のセーヌ川遊覧は昼間見た一番派手な遊覧船であった。前日ホテルのディナーで予定変更されたエスカルゴ料理も出され、四時間もセーヌ河畔を散策した文雄を満足させた。船上から眺めるエッフエル塔はイルミネーションが眩く輝き、オペラ座のフレンチカンカンを見損なった新郎たちをも満足させた。

 翌朝、朝食を取り終えると文雄は添乗員・同行者にわかれを告げメトロで十三区に向かった。セーヌ川河畔散策では迷子にならなかった文雄だが、メトロは苦手で乗り換え駅で反対側のホームに移動したため危うく行き先を間違えるところであった。二駅行ったところで間違いに気がつき、戻って電車を乗り換えイポリット教会のある駅に到着した。教会まで五分とは掛からない駅なのに出口を間違えたのか、教会が見えない。広い交差点をぐるりと巡って反対側に教会の屋根を見出した文雄は安心した。

 パリの街路には犬の糞が多いから歩くときには良く気をつけるようにとアンドレが文雄に注意した。確かに糞があちこちに転がっている。茶色・黒色・黄色、色とりどりだが頂けない。街灯や街路樹があって散歩に向いた路はど糞が多い。野良犬なのだろうか、それとも買主がつれた犬の糞の後始末をしないのだろうか。アンドレにも答えられなかった。アンドレは事のついでだがと「フランスでは市街地の清掃の外国人は使わない」と文雄に告げた。蔑まれやすい職業に差別されやすい外国人を就職させないという配慮らしい。

 オルセー美術館へ行く道すがら、アンドレは放送局に勤める弟のアパートに立寄ったが弟一家はロワール川沿いに買った農家を別荘に改造するため、土日は家族ぐるみで出かけるらしく留守だった。そのアパートは共用の玄関は分厚い板ガラスの扉で、電子ロックで施錠されていた。アパートを後にして街路を曲がると売アパートの張り紙が文雄の目についた。覗き込むように見ると売値二〇〇万フランで3LDKと内容が記されていた。レート八〇円として一六〇〇万円、文雄は目を疑った。一部屋の大きさが日本とは違い十坪(三十三平米)は下らない広さがあるのだ。日本ならば一億円はするのにと思った。

 オルセー美術館を出てアンドレは近くのマーケットに寄った。缶詰とバターを買い、入り口近くに並べられた果物を眺めながら文雄に話した、「フランスでは輸入品に対する価格規制が厳しく三〇%以上にマージンを掛けてはならないという法令があり、違反すると一週間の販売停止、二度目は一月、三度目は営業停止なのだ。消費者を守るためにね」と。

 夜のミサが終わってアンドレがモンマルトルに行こうと言い出した。芸術家の街として有名なことは以前から知っていたが、アンドレが日本へ来るまえ八年間モンマルトルの教会で青少年補導をしていたことは初耳だ。アンドレはモンマルトルの岡の登りがきつい事を知っているのでケーブルカーで登ることにした。サクレ・クール寺院はアンドレの嫌いなカテドラルだ。理由はパリ・コミユーンで反コミューン側に属したからだという。テルトル広場でアンドレが買ったベルギー産のビールの甘いこと蜂蜜を舐めているようだった。帰りのメトロは超満員だったが、文雄はアンドレについて気楽だった。

 それにしてもパリのメトロは階段が少ない。これでパリの地下下水道の下を走っているのだろうかと気を揉ませるほどだ。東京の地下鉄に乗るには、何十という階段の他、エスカレーターを乗り換えたり、老人や中年過ぎの婦人には向かない。乗り継ぎも一駅の問を歩く位の距離があり、別れ路が多く迷路のようだ。パリのメトロを一人で乗り、一度は乗り換えに失敗したものの、乗りなおして行きつけたが、東京の地下鉄ではパリのメトロほど簡単丁には乗り換えられない。大手町の地下鉄の乗り換えの多さ、乗り継ぎまでの距離の長さ、別れ路の複雑さ、文雄の苦手の乗り物が東京の地下鉄なのだ。同じホームから行く先の異なる電車が幾本か発車しても、行く先表示を利用者が明確に判断できれば、登り降り、乗り換えに十幾分も歩き、ホームを越えて別のホームでやつと乗り変えられるというような不自由さはごめんだ。

 十三区のイポリット教会前の駅で乗客を分けて、手動ドアを開いたアンドレはさすが疲れた顔色。文雄を近くのホテルに案内するとすぐに教会へ戻った。寝付くまでアンドレは文雄が歩いたというセーヌの十三の橋の名前を考えはじめた。ボン・ヌフ、ボン・デ・ザール、カルーセル、ロワイヤル、ソルフェリーノ、コンコルド、そこまでがやっとであとは寝息に変わった。
 

自転車(46)第3章 通り抜け禁止 

その14、フランスの蕨

 翌日は日曜日でアンドレの担当するミサは十時過ぎに終わり、アンドレはオヴエール・シユル・オワーズヘ車を飛ばした。幹線道路から丘陵地帯に入った所にオヴエールの教会がある。教会前の広場には幹線道路に向けてゴッホのオヴエールの教会の絵が大きな看板に描かれている。教会の前の広場に沿って丘を登ると左手に広大な畑が広がっている。畑の始まる所の右手に垣根で囲われた墓地がある。入り口は開き戸になっていて、手前にある潜り戸が普段の通用門だ。通用門から左手の垣根に沿って三、四十メートル進んだ場所にゴッホ兄弟の墓がならんでいる。盛り土の上に蔓を這わせた質素な墓だ。

 オヴエールのノートルダム教会から車で一時間の所にモネ美術館がある。ジャンヌ・ダルク教会があるルーアン市の手前で、ジヴィルニーという小さな町だ。南向きもなだらかな丘には広い庭を持った別荘風の建物が点在する。谷底の部分が車道になっていてルーアンヘの道に出る。睡蓮で名高い池には今も睡蓮が浮かぶ。水は青緑で濁った感じだが、睡蓮は紅白の花びらを開いていた。浮世絵に惚れ込んだというモネの家は廊下も階投も浮世絵で一杯。どの部屋も庭も見物人で溢れていた。文雄たちの前で入場券を買った夫婦はスペインからの観光旅行者であった。

 シェルプール市は核燃料再生工場が存在することで有名だが、それは最近のこと。文雄や淑子の記憶には「シェルプールの雨傘」というラヴストーリー映画の題名が僅かに残っていただけ。第二世界大戦でノルマンディ上陸作戦が行われた地方の都市という以外の知識はない。核燃料再生工場から日本向けの核燃料が海上輸送されるので、シェルプール港沖合いで、ピースボートが輸送反対運動で停船しているというニュースがシェルプールという都市名を記憶に呼び返したのだ。

 アンドレの案内で核燃料再生工場まで来たが、時間に制限され、工場内に入っての見学は出来ない。入り口の前に核燃料再生をモデルで説明するインフォーメイションタワーがあり、専門員が常駐していた。三十歳前後の彼は二人にタワーの説明と工場設備のビデオを上映し、かなり細やかに説明を加えた。再生工場の資金は日本とイギリスが折半で負担し、中国にも再生燃料を輸出していると分厚いリーフレットを手渡してくれた。タワーから工場が展望出来、時間があれば自動車で敷地内に入り、工場内も案内しますと熱っぽく説明した。核燃料再生工場、ラ・アーグはジョブール高原にありシェルプールから車で三十分。

 ラ・アーグ工場を後にしたアンドレは港の見える丘に車を運んだ。戦時中は陣地であったと言う丘は小高く螺旋状に車道は作られていた。乗用車一台分位の道幅で道脇は野草で一杯。草いきれが車の中にまで満ちてくるような感じである。アンドレが「暑いなら窓を開けてもいいよ」と文雄に言った。領いた文雄が窓を開けると道端の雑草の大半が蕨であった。穂先は開いておらず、摘み草が出来るようだ。「フランス人は蕨を摘み草しないのか」という文雄の質問に「わらび?」とアンドレは首を傾げた。ACOやシティユニオンの連中と良く野外パーティをやったのに経験がないのか」と文雄が首を傾げた。

 丘の下は広い公園になっていた。展望台になっている頂上には青銅製の俯瞰図が設置されている。公園の丘下部分を眺めていたアンドレが「あれはジプシィ(ロマ)のための宿泊設備だ」と言って指を差した。二、三アール位の一角が方形に区切られトイレと水道が設備されていた。ヨーロッパでジプシィの生活は馬車が自動車に変わっても、定住をしない民族性は変わらず、ほとんどの国が放置しているようだ。アンドレはフランスが彼らの生活に役立てるために公園内にそのような設備を備える配慮を強調したかったようだと文雄は理解した。文雄が「ジプシィ」という言葉自体が差別用語であると知ったのは後のことである。

 アンドレは川崎在住二十年の大半は労働神父ですごした。彼が帰国後入手したプジョーは在日中の工場災害(公傷)で保証された賃金の一部で買ったと文雄に話した。赤色をしたプジョーを高速で駆るのが彼の気分転換になるら
しく、ハイウェーに出ると一二〇キロ一三〇キロは遅く、一五〇、一六〇キロが常速であるようだ。モン・サン・ミッシェルからサン・マロヘのハイウェーもブルターニュの故郷へのハイウェーも一六〇キロで走った。

 アンドレの実家は普段は留守だが、子供の誰かが帰郷するときには町の養老院にいる母親が戻って家を掃除・手入れして子供の帰宅を待つという習慣である。アンドレは翌日見学のためにと母親を伴って文雄をその養老院に案内した。部屋は二つに別れていて、寝室と勝手が別になっている。食事は自室で行っても良いし、院の食事を申し込んでも良い。四畳半と六畳位の広さの部屋に見えた。総ガラスの開き戸で室内は明るい。建物は夫々の部屋が中廊下を挟むようになっていた。玄関のポーチも明るく広い。費用は地方自治体負担。外出は事前申し出制で制限はない。聞いて気が遠くなるような話であった。

 アンドレに誘われ、文雄は外に出た。建物が三つ、母屋と納屋、それに道具小屋。母屋は二階建ての部分が元のもので平屋になっている部分(二部屋)は家畜小屋を住居用に改造したという。他の兄弟が家族連れで帰省したときに使うように兄弟で改造したという。一部屋の広さは十坪ほどでベッドが二つゆっくり出来る。「私の両親は小作農で、この母屋で親子・両親を養うことは大変だったので、パリに出てガス会社で働いたのです。パリに戻ったらガス会社で働いている叔父さんがいるから案内しましょう」と言葉を切った。

 敷地内には広い農地をバックに母屋が立ち、母屋を底辺に左側に道具小屋広さ三十坪位、母屋の前、庭を挟んで納屋があり納屋の広さは四十坪か、道具小屋よりやや広く、洗濯機と物干しのロープが張られ、半分は車庫になっていた。乗用車二台は十分、寄せれば三台が楽に収納できる。庭に出たアンドレが納屋の屋根を見上げて言った「この屋根のスレートはこの地方特産の薄く割れる石を父が割り剥がして作った瓦なのだ。それを父と私で屋根に葺いた。とてもきつかったけれど楽しい体験だった」と。

 母屋は真ん中が玄関、中廊下、階段、トイレ。左側が炊事場兼リビング。中廊下の反対側が居室。二階は階段を上がつて中廊下を挟んで居室が二つ。部屋の広さは大人用のベッド三台が収納できる。さらに三台の机とロッカーも収納できる広さ。十二坪はあるのではなかろうか。六畳は三坪である、この一室の広さが小作人の母屋の部屋の広さなのだ。

 屋敷の説明が終え、アンドレは久しぶりに故郷の田園を散策する心地よさを味わった。小麦が色つき始めた畑を過ぎると、鉄条網で囲われた牧場では牛が幾頭も人懐かしさに近づき、後を慕ってついてくる。牧場が終わると木立が始まり、足元がぬかるんでいる赤土の小道。後に続く文雄は小道の脇に雑草と混じって蕨が生えているのを見た。アンドレは地主の家の悲劇を語る。父親の時代、地主は綺麗な嫁さんを向かえ農仕事に励んだ。嫁も庭で麦の穂をしごく仕事を楽しんでいた。しかし、その楽しみが悲劇に変わった。嫁の衣装の端が脱穀機に巻き込まれ嫁は若い命を失った、地主は悲しんでその後は嫁を娶らないでいる、それで彼には片意地な性分が出来てしまったのだと。

 アンドレの故郷の屋敷前の道にも蕨が伸びていた。翌朝、文雄は目ざめると外に出て蕨の新芽を摘んだ。アンドレと母親に蕨のおひたしを食べさせようと。
 

自転車(47)第3章 通り抜け禁止 

その15、持ち家

 三日日の朝、アンドレと文雄はアンドレの母親と叔母に別れを告げてシヤルトルに向かった。日差しの良い朝であった。野中に地蔵ならぬイエスを抱いたマリア像が立つ野分け道を左に進むとすぐ、一軒の新築中の家が左手に見えた。アンドレは車を止め、窓を開いておはようと声をかけた。庭先には白いセメントと砂が捏ねられていた。ブロックが幾段にか積み分けられている。ブロックの前にいた初老の男が「やあ!アンドレさん」と近づいてきた。「昨日からまた始めたんですよ、倅とその友達が手伝ってくれています。良かったら降りて見てくださいよ」と男は言った。

 アンドレに促されて文雄も車を降りた。初老の男はアンドレと握手し、建築中の家の中に案内した。まず、地下室に案内し、ここはワインや食料を保存します、食堂は一階ですが中二階をベランダ風に出したんだ、晴れた日にはそこで食事が出来るようにね。見晴らしが良いから、身内や友達を呼んでね。楽しみだよ。」と意気揚揚と説明する。アンドレは頷きながら文雄を初老の男に紹介して言った。「日本からきた友人で、二日ほど母と叔母と過ごしたんです。これからシャルトルヘ行き、大聖堂を見学してパリに戻るのです。今朝は会えて嬉しかった、頑張ってください。完成したら連絡をお願いします」と別れを告げた。

 車に戻るとアンドレが説明した。彼はパリで個人タクシーをしていて、休日には倅と一緒に屋敷を建設しているのだ。時間は掛かるけれど自分の好みに建築できるし、コストも安いからねと。文雄はフランスという国が地震の無い国だということを実感した。生活を楽しんでいる労働者の姿があった。

 パリに戻るとアンドレはガス会社に勤めていた叔父の所へ文雄を案内した。四〇年前アルジェリア人と間違われて警官に射殺されたアンドレのすぐ下の弟の墓地の近くに叔父の家はあった。ガス会社の社宅である。同じような家が並んでいる、終戦後の市営住宅のような町並みになっている。しかし、庭が広い。家の広さの三倍から四倍はあるように思える。叔父の家に入ると家族が次々とアンドレを抱擁し頬にキスをして再開を喜ぶ。案内された部屋はダイニング・キッチンで居間でもあった。その広さはアンドレの故郷の家と同じであり、部屋数も作りも同じであった。ガス会社の現業員は地方の小作人と同じレベルの住居が保証されたのだと文雄は感じた。

孫の男の子が裏の芝生の上で遊んでいた。芝生の向こうは野菜畑、その向こうは果樹園になっている。それぞれの広さは社宅の家と同じ位の広さであった。部屋に戻ると家族全員が顔を見せていた。アンドレは文雄に家族一人一人を紹介した上で、叔父に尋ねた。「叔父さん、叔父さんはもうガス会社は定年になったのでしょう。社宅を出なくてもいいのですか」と。「ああ、子供が同じ会社に勤めればその侭、続けられるんだ。自分で家を建てて出て行けば、それはそれで良いんだ。うちじゃ娘がガス会社に勤めたからね」と娘の顔を見た。芝生で遊んでいたのは娘の子供であった。

 帰りにアンドレはもう一人の叔父をその家に訪ねた。パリの郊外にある叔父の家は敷地が三〇〇坪位あろうか。背の低い門柱の脇は生垣になっていて、屋敷は門柱から入って十メートルほどの所にあり、母屋に続いて納屋が建てられていた。二人が訪問したときには叔父は畑に出ていると叔母が畑に走った。呼ばれてきた男は大きな木靴を履いていたが、納屋へ行き木靴を脱いだ。文雄は木靴に見とれた。木靴には湿った泥が付着している。

 挨拶と紹介を終え三人が家にはいると玄関のポーチの机にはコーヒーとクッキーが用意されていた。夫々の近況が話され、家族の安否が語られしばしの交流がなされたあと、叔父が席を立ち奥からキャベツとトマトを持って出てきた。自宅の菜園で採れた物で無農薬だからと説明した。アンドレへの手土産だ。叔父はごつごつとした両手でアンドレの手を掴み、元気でな、体に気をつけて頑張れと別れを告げた。

 車に戻るとアンドレは「叔父は今も共産党員で地区委員をやっている。私の父も共産党員だったが、死ぬ三年前にカトリックの洗礼を受けたんだ。母がとっても喜んだ」と言った。この叔父の家は広い車道に面していて、その道はロワール地方への道だとアンドレは説明した。

 イポリット教会へ戻った二人はリヨン行きの切符の状況をインターネットで確かめた。いくら探しても二等の切符は売切れで一等しか残っていない。一等で良ければインターネットで申し込みが出来るのだけれど、二等は駅で確認しないとだめだとインターネットは止めた。翌朝パリ・リヨン駅に行く道はラッシュで一時間かかった。二等の切符は売切れでインターネットはうそではなかった。アンドレに送られて文雄は十時発のリヨン経由マルセイユ行きTGVに乗車した。

 リヨンも観光に過ぎなかったが、そこで文雄は中世の建造物をその侭に生活の場としている庶民と出会い、ソーヌ川の氾濫で一階が地下室のようになっている建物が其の儘、使われているのを見た。文雄を案内した神父はドッパーと言ったが、彼は十年近く日本で宣教した経験の持ち主なので日常会話位は日本語を話した。駅に出迎えたドッバー神父が最初に案内したのはフルヴィエール教会であったがそこへ行く道すがらソール川沿いを歩き、中世から度重なる洪水で屋根下の窓が半分以上道に埋まっている建物を示し、現在もこれらの建物には住民がいるのですと説明し、窓ガラス越しに部屋を覗く様子をみせた。

 フルヴィエール教会は高台の上に建ち、教会の前は旧市街の広場になっていた。かってはここに市が立ち、品物別に市の開催日が異なったと説明した。教会の反対側に石造りの五階建ての建物があり、分厚い木製の開き戸、その片方に潜り戸が設えてあった。文雄がドツバー神父の説明を聞いていると、一人の青年が扉の前に立ち、潜り戸に付けられている電子ロックを操作して、戸を開けた。ドツバー神父は青年に近づき、内部の見学を頼んだ。青年は心地よく了解し、二人を招きいれた。

 建物は円形をしていて、一つ一つの階が五つの居住に区分さ一れていた。五階まで同じ造り一だ。階段は厚さが四十センチメ−トルで半円形の大理石でそのような大理石がステップ幅を空けて積み重ねられ、階段となり、建物の大黒柱ともなっていた。文雄は石の文化をまざまざと見、味あわされた。

 翌日はペルージエという中世の城下町の見学が組まれていた。リヨン市から四十キロメートルほど離れた農村地帯の中にある丘上の街だ。街までは自動車で登れるが街中の見学は歩きだ。一間位の狭い道は煉瓦が敷き詰められ、家々も煉瓦造り、街全体が煉瓦色で、街の回りには、防壁が築かれ、所々に見張りの櫓がある。道は渦巻き状に家々も前を通っていた。戸口の上部には紋章が掲げられている。紋章はその家の商売を示しているということだ。三十分もあれば街中を見学できる。ドツバー神父はイポリット教会の神父たちにと昔風のパイを買い文雄に持たせた。パイの直径は六十センチメートルもあった。古い商業の町リヨンが産業革命の煽りで激しい変化に見舞われたが、中世の施設が大事に活用され、庶民の家族が今も生き生きとその場で生活している、調和された現代と中世がフランスにはあった。
 

自転車(48)第3章 通り抜け禁止 

その16 アウシュビッツで

 一年後、文雄は浅田カトリック教会でエドワード神父から、ポーランド旅行の計画を打ち明けられた。四月十八日から十一日間、ワルシャワ・クラクフ・アウシユビッツなどの見学で費用は概算二十万円という。来週返事をするからと言ったものの、文雄の心は参加に傾いていた。淑子は定年後のアルバイト的な仕事をしている文雄が費用を自分で出すならと反対はしなかった。

 一九九四年四月十八日午後○時四十分、エアロフロートSU五八二便は定刻に離陸。あれよあれよという間に日本海を横切りシベリア上空へ。飛行機の窓から地上を眺めていた文雄の目に砂漠の風紋のような大地が飛び込む。一時間も同じような地表が続いたが、それは、山頂がテーブルのように平になっている雪山。雪山の間を大蛇のように身をくねらせた河が流れている。十時間後、飛行機はモスクワ空港に到着。モスクワでは空港敷地内のホテルで一泊、ロビーからチェックアウトするのに一時間。ホテル行きのバスを待つこと三十分。ロビーからバス停までの途中にある階段はエスカレーターがストップしたまま。階段を降りドアを出ようとすると、ホテル行きの乗客全員がドアの前で足止めされた。ホテルは個室だったが常備されているバスは湯が出ず、シャワーは水。

 翌朝、空港に戻り、食堂で朝食することになったが、テーブルの上は前の客の使った食器がそのままに残っていて、ウエイトレスの姿はない。エドワードが食器を数点手にして横のドアを開けたので、文雄も食器を持って後に続くと、奥から声がして、「私たちは朝食の休憩時間なの、邪魔をしないで」とつれない言葉。エドワードも文雄も開いた口がふさがらない。天井には赤銅色の傘をつけた灯りが薄暗い。

 ワルシャワ行きのSU十一号機は定刻を一時間十分遅れて、小雨のけぶるモスクワ空港を飛び立つ。雲の上に出ると日差しが強い。出された機内食はモスクワのゆで卵と一切れのバター、コーヒーと食パンとは異なり、豪華な感じ。モスクワを出発した時間にワルシャワ空港に到着。フライト時間は二時間半。十分そこそこで入国手続きを終え、ゲートを出たところでドルをズロチに変える。一ドルは二〇五〇〇ズロチ。ポーランドでは平均的家族の家計費は月約十ドルという。普通の家族では共稼ぎしないとその金額に達しないという。文雄たちの九泊十日の滞在費は一人六二〇ドル、ポーランドの一般的家族の半年分に当る。文雄は浅田カトリック教会の日曜日ミサに参加するコワルスキーさんたち数人のポーランド人の顔を思い出した。

 原稿の枚数に限りがあるので、文雄の手帳に書かれたメモから、アウシユビッツで聴いた生き証人の話を紹介しよう。

 一九九四年四月二十二日、昨夜、エドワードとZさんとの意見相違で、中に入り話し合う。十一時半、チェストフーバー郊外に来る。ヤヌラゴチ(輝く岡)。シエンキピッチの洪水という小説のテーマになった教会。黒い聖母の教会、伝説では黒い聖母は霊と力によって満たされていると信じられている。

(五・六世紀イスタンブールで造られた)。十七時アウシユビッツ近くのホテルに来る。アウシユビッツの生き証人ゾフィアさんの顔が輝いていた。別れの時に。

 ※朝六時十五分前に起床。朝食後、排便あり。バルバラさんがネックレスと鈴を付けて来る。驚き。生き証人は七十八歳のゾフィアさん。「一九四三年五月十三日にアウシユビッツ収容所に連行される。その前一年間はワルシャワ刑務所に収監されていた。(対ドイツレジスタンス運動の通信員をしていて)、一九四〇年からアウシユビッツ収容所は存在していた。ワルシャワ刑務所から最後に三十人の罪人がこの収容所に送り込まれ、収容所の警備をさせられた。彼らはナチスに残酷な形の方法を教えた。ドイからの女囚九九九名が送られてきた。そして屠殺者とされた。

ゾフィアさんが収容された時、五十万人が収容されていた。この収容所では一五〇万人以上が殺されたが正確な数値は不明。書類はドイツ軍が退却する時に焼却したから。その他二〇〇〇人のジプシー、一四〇〇〇人のソ連人がいた。

 一九四二年からユダヤ人を計画的に殺害する所に指定された。最初のユダヤ人はガスで窒息させられ、死体は焼却炉で焼かれた。仮プレージンカ(?)で四つの焼却炉が造られ、科学的に処理された。私はユダヤ人が降ろされた停留所のすぐそばに住んでいた。この収容所で死んだ人は焼却炉で焼かれた人の数よりも多かった。逮捕された人はポーランドの知識人が多かった。

 この収容所のなかでレジスタンスが行われていた。地下運動をしていた故に逮捕された人々が獄中で獄外の人との連絡が取れるようになったが、その陰では多くの人が射殺された。抵抗運動のありがたいことは、外の情報と内部の事情を交換することにカがあった。クラクフからBBCへ(内部事情が)流されていた。それゆえ、アウシユビッツのことは秘密ではなくなっていた。

 この収容所は一九四五年一月まで続いたがドイツ軍は歩ける収容者は二日間歩かせた。当時五十五万人の人が収容されていた。途中で歩けなくなった人はドイツ軍人に射殺された。駅まで着いた人々はドイツ国内の各収容所におくられて行った。
※ゾフィアはA・Kという地区の地下組織で情報活動をし、地区新聞を発行していた。逮捕された時は二十歳。

質疑応答
Q ドイツはどのような償いをしたのか。
A ポーランドはソ連の占領下であったので損害賠償は求めなかった。一九七  0年になり、人体実験を受けた人の損害賠償を求めた。現在生きている被  害者は小額の保証金を貰ったが、ドイツ政府からではなく民間から来る。
Q ワレサ政権はドイツに賠償を求めないのか。
A 解放されてから賠償を求められない立場にあった。司教団の手紙のあるよ  うに、敵意を持たずに生きること。しかし、最近の新しいナチスの台頭を  心配しています。
Q アウシユビッツでは生きるための努力と裏切りがあったと思いますが、生  きる上でどういうことが一番大切だったのでしょうか。
A 連帯しあえる同士がいなかったら生き延びられなかったでしょう。
Q ゾフィアさんは結婚されたのですか。
A 主人は先年亡くなりました。他の解放された女性と同じように、子供を産  めなかった。

 収容されていて、数ケ月入浴出来ない、体を洗えない、飢えと汚れからできた塵挨扱いで。厚手のすみれ色で花柄のワンピースにカーデガンを羽織ったゾフィア未亡人は語り終えた満足感で頬が紅潮していた。皺が深く刻まれた両手を差し出して、文雄たちに握手を求めた。
 

自転車(49)第3章 通り抜け禁止 

その17 従軍慰安婦

 ポーランド旅行から帰って二週間後の朝、文雄に、高麗事務所の朴寿音という女性から電話があった。「是非、相談に乗ってもらいたい。勝手ですが明晩水道橋の事務所までご足労願いたいのです。甚だ恐縮ですがお願いいたします。」と鄭重だが押しの強い依頼であった。

 高麗事務所には膝が抜けかけたジーパン姿の痩せて、頬がこけた若者が一人でいた。文雄が来意を告げると、散らかった机上の冊子を取り除けて、コーヒーを出し、文雄に奨めた。青年は反対側の机上から一枚のコピーを取り上げて文雄に渡した。

 その年一月二十五日正午、ソウルの日本大使館前で抗議の割腹自殺を図った三人の女性、元日本軍「従軍慰安婦」金福善、李容洙、文玉珠さんたちに関する雑誌「世界」のレポートをコピーしたものであった。そのコピーを手にして読み下した時、文雄は用件が何であれ相談に乗ろうと決心した。一時間はどして寿音と白川が事務所に顔を出した。寿音は文雄に礼をいい、白川とジーパンの青年(一得)を紹介し、本題に入った。

 「実は、ソウルの従軍慰安婦にされていたおばあさんたちが、四十八人日本に来たいと言っているのです。今年一月二十五目にソウルの日本大使館前での割腹自殺未遂事件はご存知でしょうか。あの人たちはどうしても来日して、政府、行政に訴える。野宿してでも日本に行くと私に連絡してきたのです。野宿させる訳にもいきませんし、相談する人がおりませんで、金景錫さんの支援をなさっておられる持田牧師なら相談にあずかってくださると考えまして」「分かりました。」と文雄は即、返事をし、「三十人位なら逗留させてもらえるあてがあります。そこへは直ぐに連絡しましょう。しかし、逗留する場所だけでは三十人もの人のお世話は出来ません。体制をどうするか、ボランティアの話し合いを行う場所が必要でしょう。都心近くで相談できる部屋を探せますか」と文雄が尋ねると、白川が「渋谷の城西教会は」と言った。「そうですね、城西教会の牧師さんは死刑反対運動の人たちの相談会に事務室を利用させているようですから、頼めばOKしてくれると思う」と文雄は同意した。

 城西教会へは白川が依頼の電話を入れることになり、文雄はその場で浅田カトリック教会のエドワード神父に依頼の電話を入れた。「一週間位の滞在なら大丈夫だけれど、食事の世話や、週日の集会に支障が生じる可能性があるから、教会の役員たちに相談する必要がある。すぐに相談するから時間をください」とエドワード神父は好意的な返事。

 五月十五日夕刻、城西教会には二十名近くの人が集まった。半数は三十人という人数の世話を一週間も続けるのは無理だと、韓国スワニー闘争団の世話の経験から断定する意見に同調した。話が纏まらず、翌日再相談となる。十七日の夜、寿音から文雄に電話が入り、浅田教会での逗留依頼をせがまれ、文雄はエドワード神父に確認すると返事をする。翌朝、エドワードは文雄から、二十一日にハルモニたちが来日することになったという連絡を受けて驚いたが、乗りかけた船、動揺はみせなかった。

 二十一日正午、丸の内の勤労福祉会館で来日した従軍慰安婦たちの記者会見が行われる予定で、文雄は司会を担当したが、時間を過ぎてもハルモニたちは到着せず、成田に出迎えた白川と平沼から問い合わせの電話が入る。寿音は状態がただならないことに気付き、参議院議員の伊藤に電話を入れ、事情を問う。伊藤の返事はソウルの日本大使館がビザの支給を拒んでいるということであった。伊藤議員の仲介が功を奏しビザ交付が決定。一行は二十四日正午に来日することになった。寿音は集まった新聞記者たちに平身低頭して詫び、状況の説明をする。

 二十四日正午過ぎ、文雄たちは緊張で青ざめた顔色の婦人たちを成田空港で出迎えた。慰安婦にされたハルモニは十五人、付き添いの家族が七人、合計二十二人の集団であった。空港から参議院議員会館までタクシーに分乗し、議員会館の会議室で記者会見がはじまった。狭い会議室は来日の二十二人と支援者、テレビ局のカメラ、新聞記者たちで満室となり、議員の参加は三、四名であった。

 慰安婦のリーダー金福善(キム・ボクソン)ハルモニが話しを始めようとした時である。中年の女性が文玉珠の(ムン。オクチュ)手を掴み、「あなたは私のグループなのだから、私と一緒に来て」と無理強いに連れ出そうとした。寿音と白川はその女性の手を掴み、肩を抱えて外に連れ出した。文雄はあっけにとられていたが、後日その女性がハッキリさせる会の会長であることを知った。ハッキリ会は翌年の村山首相提案の国民基金支援団体になった。

 記者会見は二時間に及び長旅と緊張の時間が長く、来日の二十二人は疲労困憊の様子をみせていた。記者会見が終わると、ほとんどのハルモニが洗面に走った。永田町からタクシーで東京駅に出るとラッシュアワーの時刻で、湘南列車のホームは通勤客で一杯。一列車遅らせて二十二人を乗車させた。座席に座った老人たちの顔は疲労でゆがんでいる。川崎駅に到着すると、列車をまっていた通勤者たちが、降りる人を押しのけて乗車しようと文雄に突っかかってきた。文雄は我知らずに叫んだ。「この車両には韓国から来た年寄りが二十二人、ここで下車するんです。韓国の老人二十二人を下車させてください」と。そして、ドアが閉まらないように自分の背をドアに押し付けた。

 川崎駅でも半数ちかくがトイレを要求した。文雄は谷川に半数をゆだね、バスの乗車場を指示して、半数の人とボランティアを誘導して浅田行きのバスに乗った。下新田のバス停から教会までは二、三分だが、その夜は三十分も掛かったような思いだった。教会では教会員の婦人たちがキムチやナムルなどの料理を作って逗留の人たちを待っていた。二十一日、成田まで無駄足を踏んだ平沼夫人もまざっている。礼拝堂の前の部屋には布団が並べてあり、すぐにでも体を横たえられるように支度してあった。炊事場・食堂・神父の勉強部屋が二十二人の来客のために用意されていた。

 谷川が誘導した残りの人たちが到着すると拍手が沸いた。教会の婦人たちが食事を奨めたが疲れて誰も料理に手を出さなかった。その夜、明日からの移動体制をどうするかということが一番の心配事であった。正雄の妻、光子が知人のマイクロバスの運転手を紹介し三日間はバス持込で彼が運転してくれることになった。あとの三日間はバスだけ貸してくれるという好意の申し出がなされた。一番の心配事が解決し文雄は安心した。しかし、文雄はアルバイトとはいえ、連休が許される立場になかった。半月前には二週間近くのポーランド旅行で仕事を休んでいたので。

 朝晩、文雄は浅田教会を訪ね、韓国からの訪問客の様子を見た。毎晩翌日の行動計画が練られた。浅田教会の宿泊は一週間という約束なので官庁への交渉が終えた後の宿泊先の検討を早めにする必要があり、話し合いの結果、横須賀・藤沢・埼玉の三ケ所に二泊し最後は藤沢に集合することになった。横須賀は文雄の担当で船越教会に二泊することになり、通訳は浅田教会の平沼夫人が同行することになった。

 二十七日、総理府への申し入れ行動で、盧清子(ノ・チョンジャ)ハルモニが総理府の警備職員に胸を強打されて、擬似骨折を負うという事件が発生した。痛がる盧清子ハルモニを横浜の港診療所まで運び、診断を受け、診断書も書いてもらった。その晩のこと、ハルモニたちが銀粧刀(ウンジャンド)という小さな刀を自殺用に、各自が持っていることが分かり、エドワードは容易ならないと判断した。彼は十五人のハルモニたちに銀粧刀を礼拝堂の机上に預けて行動するようにと説得。全員が納得して銀粧刀を礼拝堂の机上に預けた。しかし、二、三人は夜の内に自分の持ち物に戻したと戻さなかったハルモニが密かに告げた。

 二十八日朝、文雄はTシャツの前後に赤いマジックで「私は公娼ではない、人生をかえせ」「謝罪せよ、天皇・日本政府」と書いて、ハルモニたちに披露した。狂喜したハルモニたちが文雄のその場で着るようにせがむ。Tシャツ姿になった文雄に李容沫(イ・ヨンス)ハルモニが抱きつき、強く抱擁しました。この日は午後から八丁堀の勤労福祉会館で報告集会を行い、その後、銀座から日比谷公園までデモストレーションを行い、公園ではキャンドルサービスで、祈りの会をする予定であった。

 ハルモニたちは勤労福祉会館の舞台上で持参してきた銀牲刀を各自が取り出し、それを舞台下に投げ捨てた。「私たちは勝った。私たちは勝った」と口々に叫びながら。

 デモストレーションも見事でった。エドワード神父と文雄はデモの先頭に立ち、玉先(オクソン)ハルモニはチヤンゴを叩き、玉珠ハルモニもケンガリを叩いてデモを続けた。ハルモニたちは交差点に来、信号待ちになると踊りだし、七十歳を過ぎた老人とは思えない。三時間におよんだデモ行進が日比谷公園に到着したときにはハルモニ全員が踊りだした。エドワードと文雄がキャンドルサービスの場所を探しに行って帰って来るまで踊り続けていた。
 

自転車(50)第3章 通り抜け禁止 

その18、表敬訪問

 二回目七月行動が終わった翌日、一九九四年七月三十日には、自民党との連立内閣を組織した村山首相が、六月六日の戦後補償フォーラムで「個人補償の実現に努力する」と言った自分の発言を無視して、「元従軍慰安婦に対する個人補償の考えは無い」と表明。文雄は社会民主党に対する信頼感を失った。六月六日の戦後補俄フォーラムには文雄も参加していて、社民党委員長村山の発言を「良し」とし、声援の拍手を送っていただけに失望は大きかった。

 「ハルモニたちを迎えるつどい」は行動完了後、事後のあり方を巡って支援側内部の対立が生じ、東京・埼玉が別グループ結成し分裂した。そのため文雄は金景錫の日本鋼管訴訟を支える会と不縁状態になってしまった。ハルモニたちの十月行動時に「ハルモニたちを支える会」を発会させ支援活動を継続した。その前後は日本の政治体制が大きく変動し、戦後補償問題を巡る市民活動にも亀裂が生じた。

 金大中拉致事件、韓国良心犯釈放運動、戦後補償裁判等でリーダー的な立場の高木健一弁護士、和田秀樹東大教授、高崎宗司東京外語大教授、竹村泰子・清水澄子両参議院議員、ハッキリ会の臼杵敬子等が「民間募金」運動推進を五十嵐官房長官に提案したというニュースがハツキリ会から漏れてきた。八月三十日村山連立内閣は「戦後五十年プロジェクト・チーム」を発足させ、臼杵を除いた上記の面々はチームに名を連ねた。

 ハルモニたちの来日行動はその後一二月行動へと続いた。十月行動では首相官邸要請・座り込み、川崎・千葉・つくば・茅ヶ崎などでの集会を開いた。十二月行動には沈美子(シン・ミジャ)ハルモニやフィリピンのマリア・ヘンソンさんが合流。文雄はマリア・ヘンソンさんの要求の調整に苦心した。言い分を明確に聞き取れず、エドワード神父の助けでやっと話合いに決着がついた。入国ビザが出ず、白川が伊藤議員秘書という名目で外務省に掛け合い、ようやく発行されたビザを持ってマリア・ヘンソンさんは日本人弁護士とフィリピン人の女性弁護士に伴われて、予定より三日遅れで参加した。言葉の通じない惨めさを味わう文雄だった。一方、マリア・ヘンソンはエドワード神父がいないと憤懣をあらわにしていた。

 ハルモニたちが帰国した後、文雄の家に私服の刑事二名が表敬訪問を始めた。呼び鈴の音で文雄が玄関に出ると、三十代のスプリングコートを羽織った若者が二人、ドアの外に立っていた。文雄の顔を見ると二人は「吉田さんてご存知ですか」と問い掛けた。文雄がどこの吉田さんですかと問い返すと「いや−」と二人は言葉をにごした。「あなたたちは誰」と文雄が質問すると「じつは空き巣の被害届が出されたものですから、調査に来ました」と言う。「空き巣?」と文雄が聞き返すと「はあ」と気のない返事。「最近、近くで空き巣の被害にあったという話は聞いていませんが。どこで被害があったのですか」とまた聞き返す文雄。口ごもった二人は「どうもお邪魔しました」と挨拶して帰っていった。

 年が明けると二人は姿を見せなくなった。文雄が二人を見かけたのはソウル行きの準備で自転車で走り廻っていたときであった。追分交差点で信号待ちをしている文雄に二人が「持田さん、お忙しそうですね」と声を掛けてきた。文雄が「しばらく姿を見せませんでしたね」と言うと、「はあ、阪神大震災で神戸の方に行っていましたから」と二人が口を揃えた。

 その頃、大邱(テグ)では李容沫ハルモニが挺対協の水曜デモに参加し、ソウルの事務所の所有・家賃の支払いが停滞するという事態が生じ、ハルモニたちの間に波風が立っていた。ハルモニたちを分裂させたくない、滞納している事務所の家賃、支払いを支える会で肩代わりできないかと、逼迫した状態になっていた。阪神大震災の余燼でハルモニたちへのカンパは減少していた。

 桜川公園で地域住民参加のイベント開催という情報を得た文雄は事務局会議に参加を提案した。ハルモニの訪日前なので、彼女たちの存在をアピールする方法が討議され、パネルを作ることになった。相模原からボランティアに参加している樋川が写真屋を紹介し、文雄がフィルムの選択と写真屋との交渉役になった。障害者福祉施設を経営している文雄の姉が、施設の製品の展示と売上カンパを申し出、支える会はバザーで出店することになった。

 幾度か巣鴨の写真屋に足を運び、A3サイズのパネル五枚を製作してもらった。日本に駐在する大使館・公使館・領事館に従軍慰安婦問題を訴える手紙を出そうと提案した日野市在住の島田紀子も、茅ヶ崎でPTA会長をしてがんばっている菅原光子も、ダンプカーの運転をしながら、独学でフランス語をマスターした金福植(キム・ボクシク)も桜川公園に集まってきた。しかし、朴寿音母子は用事を理由に参加しなかった。初夏の日盛りの中でボランティアたちは著名集めとバザーの売り込みに勢をだした。売上は一万円に届かず、署名は二八三筆であった。パネルを眺めて質問する子供連れの夫婦に文雄たちは汗をかきながら説明した。

 桜川公国でのバザーを終えた一週間後、寿音と文雄は韓国へ旅だった。金浦空港から大邱(テグ)行きの便に乗り換え、大邱のホテルについたのは夕方とはいえ、陽が高い午後であった。ホテルには容沫ハルモニが待っていた。しかし、容沫ハルモニは大邱に住む他のハルモニに連絡をとると用事があるからと帰つていった。大邱は大きな火災の後に新たな地域開発を行っており、文玉珠ハルモニの住まう市営住宅まではかなり迂回しなければたどり着かなかった。

 玉珠ハルモニは遠来の二人に挨拶をすると直ぐに体を横たえ、寿音の話を聞いた。2DKの住まいは広くはないが、老人夫婦には丁度良い広さに思えた。深い皺を刻んだ玉珠ハルモニは一年前の気力は残っていなかった。部屋の一面に並べられた象嵌装飾の箪笥のくすんだ藍色が彼女の顔色をより青ざめさせていた。ソウルの事務所の名義を会に変え、福善ハルモニと容洙ハルモニの二人の処遇について話し合いがなされた。話し合っていると、石福任(ソク・ボクイム)ハルモニが夫と連れ立ってやってきた。寿音がいきさつを説明し、明日はソウルの事務所にハルモニたち全員が集合し、全体会で話を進行させようということになった。

 韓国からかえった文雄は六月行動に、カトリック労働運動(ACO)の神奈川支部長の任務に追われた。湯河原で一泊のリクリエーションの地引網はゴンズイばかりで獲物はさんざんだったが力を込めて引く網の重さが心地よかった。

 五月二六日夜、帰宅して、T高校の飯沼と支える会の会計整理の打合わせをしているとき、あの二人の刑事が半年ぶりに表敬訪問にきた。
 

自転車(51)第3章 通り抜け禁止 

その19 川崎縦貫道路

▼文雄のメモ
 一九九五年六月七日、十一時半まで国会議員あての、六月十二日の署名提出の連絡に時間が掛かり、一分遅刻。仕事を終え、回り道をして一二〇分テープを買う。名簿整理に事務所へ行く。エドワードの聖書研究会に参加。百恵にカセット・テープを渡す。麻衣・飯沼とニュース四号の編集とハルモニ来日スケジュールを煮詰める。

 一九九五年六月八日、午前中郵便局へ行きカンパ振込みを降ろし事務所へ行く。封筒造りを始めると琉球新報から速達料金六十円不足。夕方署名収集者の名簿を作成。飯沼は新設の電話器の作動が悪く接続に苦労する。

 一九九五年六月九日、午前中、ハルモニ基金の中間会計報告をワープロに入れる。出勤しようと早めに昼飯を食べ始めると白川から電話。事務所に居てくれとの事。名糖に欠勤の電話を入れ、事務所へ行く。留守電三本。四時、ホテル・イースト21東京へ行く。ハルモニ出向かえに手違いがあり、寿音不機嫌。

 一九九五年八月十日、午前中、訪韓会計報告をワープロに入れ、打ち出してから事務所へ行く。荒井・飯沼が来ていた。麻衣が来る、くたくたの様子。白川、午後一時に到着。六月行動と八月行動について話し合う。会計報告は再度見直し。飯沼は毎週、針治療を受ける。白川はJR労組は革マルだと危険視している。

 一九九五年六月十一日、浅田へは行かず、机上を整理し、家での礼拝を行う。午後メッセージ要旨を纏め、支える会の会計と名簿の整理。夕食後、賛同会員名簿をワープロに。矢中さんより八月行動にハルモニが来日するかと問い合わせあり。八月は中止と返事。日野の島田さんに連絡する。

 一九九五年八月十二日、朝、参議院議員会館への準備を終え、事務所へ行く。伊藤議員から電話あり。白川に代わり、マスコミの反応が今一不出来と愚痴。午後、議員会館での集会を終え、弥生会館に移動、ハルモニの宿泊を決め、歓迎夕食会。席上、伊藤議員から参議院議員への立候補を薦められるも辞退。

 一九九五年六月十三日、疲れて午前中、何も出来ず。ハルモニたちの帰国見送りに参加せず、出社。一二時ジャストのタイムカード打刻。夜、百恵に電話で伊藤議員の伝言を伝える。不服な様子。座覇に電話で八月十二日のパネラー要請。承諾を得る。恵理が沖縄舞踊をする由。

 ハルモニたちの来日は、嵐のような激しさで支援者たちに襲い掛かり、エネルギーを要求する。頑なに接見を拒否する政府要員・国家官僚たち。戦争責任問題を回避し、国家無答責で政府を擁護する裁判官等。文雄の政治への絶望感が煽られる。十一月行動で三人のハルモニをつれて寿音はつくばに住井すゑを尋ねた。寿音にとって「橋のない川」の作者、住井すゑは解放文学の大先輩であり、憧れのひとであった。文雄は同行したい思いに駆られたが、アルバイトの仕事とはいえ、度重なる欠勤を考えると、諦めざるを得ない。

 落ち着きの無い生活を維持するのに、文雄のアルバイトは続く。川崎競馬場の向かいには医王院という古寺があり、顔に目鼻が無くなった地蔵がある。塩掛け地蔵の由来で大師道の名所になっているが、文雄はヤクルト味の素ダノンに在職中は、そのことすら知らずにいた。毎日のようにその寺の角を自転車で通り過ぎる時、目にするのは「川崎高速縦貫道建設反対」という立看板であった。それは歩道橋の脇・寺の生垣に沿って立てられていた。その前を通るたびに、何で反対するのだろうという疑問が文雄の脳裏をかすめた。

 年が変わり八月四日の朝礼で、高橋所長が「川崎高速縦貫道工事が、このダノン工場の敷地に掛かる為、九月一杯で現在の作業は中止され、狭山のダノン工場へ移転されます。そちらで、配送作業がおこなわれます。再就職の手配は私の方で考慮しますから、ここでの配送業務が終わる日まで、今まで通りに仕事を続けてください。」

 文雄は二ヶ月先に高橋所長から再就職先を世話されるという状況を考えるのも嫌だった。その日から新聞折込の求人広告に目を通し始めた。九月の二度日の日曜日、折込広告で東扇島のサンミックスが倉庫要員でホークリフト(プラッター)の運転技能所有者募集を見つけた。翌日、電話を入れ面会日を設定、名糖を休んで面接にいった。雨の降る日で見知らぬ工場へ入る時は気持ちが重い。六十歳を過ぎてからでも三度日だった。

 待合室にいると、文雄の前に中年過ぎの女性が待っていて文雄の顔を見ると頭を下げた。文雄も会釈を返すとその女性は同じ職場でピッキングをしている人であった。「九月一杯なので、仕事探しなのか。同じだな」と感傷が走った。翌日、その人に結果を聞くと扱う荷物が重量物なので、五十歳を超えた女性ではと断られたと呟いた。文雄は翌週の月曜日から働くことになった。文雄六十四歳。

 文雄の話を聞いた淑子は、「九月一杯で今の勤めが終わるのなら、仕方ないわね」と承知し、「でも、東扇島は遠いわよ」と言葉を継いだ。淑子は文雄が東扇島で働くことに因縁めいたものを感じた。自分の更年期障害が終わった後、一年半働いた広川運送の事務所が東扇島の宝組倉庫にあり、市営バスを乗り継ぐ忙しなさを味わったからである。

 文雄が配属された部署はケンタッキーの関東地区小売店へのドーナツツ用小麦粉や調味料、サービス用品の需給であった。倉庫のレイアウトが未熟で棚の配置、先入れ先出しを必要とする袋物の保管、全てが素人の配列でしかなかった。久しぶりに倉庫管理の仕事に文雄はやりがいを覚えた。一月も経たないで課長は倉庫のレイアウトを文雄に依頼し、森という若い正社員も文雄に頼った。アルバイトは三ケ月契約で書き換え時には、人事課長の斎藤がタイムレコーダーの奥から大声で印鑑の提出を求めた。

 年の瀬近くなったとき、文雄は桜本教会に呼ばれた。日の暮れた夜道を自転車で行く桜本教会はTRS川崎工場の横で、その先には文学サークルの仲間、斎春子の家があった。集まっていた顔ぶれで、見知った顔は無い。集まりの目的も文雄は知らなかった。
 

自転車(52)第3章 通り抜け禁止 

その20 国籍条項撤廃

 一九九六年四月三〇日川崎市長、高橋清は記者団に向かって大見得を切った。「国の外交や国防とは違う。地方公務員の仕事は市民生活に密着した公共サービスで、外国人が行っても大きな違いはない。世界に開かれた地域社会づくりを市は目指しており、在日外国人の就職の機会が広がることが大切だ」と。

 文雄は五月一日の朝刊の記憶は鮮明ではなかった。桜本教会には文雄を入れて六人が集まっていた。崔の促しで自己紹介が始まり、文雄にも各自の特徴が理解できた。崔はかつて川崎教会の執事で日立就職裁判の支援組織のリーダーで、今は川崎教会から離れていた。日立就職差別裁判の当事者の朴、市職で民関連の山本、社会運動家の上野、フリーで保育活動を行っている文多恵、自己紹介が終わった時、牧師の藤田が顔を見せ、持田に言った。「持田さん、私の神学校時代はご存知でしょう。クリスマス劇でスターでしたから」と。「いや、私は全く記憶がないのですよ。クリスマスに劇をしましたか」文雄は首を傾けた。

 山本は崔が市の国籍条項撤廃を「差別を残している」という発言にクレームを付けた。「そうは言っても国籍条項を撤廃したことは評価すべきでしょう」と。すると朴が「一八二職務と最終の決裁権のあるラインの課長職への登用制限はどうなんだ。差別ではないのか」と迫った。山本は「差別性が残っているけれど、まず国籍条項を撤廃したことは評価するべきでしょう」と食い下がる。崔が「山本の言うことは尤もだ。しかし、段階的に職務制限が解消されるという考えは出来ない」と釘を刺した。山本は「評価すべきものは評価しなければ運動の協力関係は困難になるのではないか」と評価を強調した。

 夜半近くなって翌年の一月二十六日に国籍条項完全撤廃を求める、川崎集会を開催することになった。パネラーにエドワード神父、民関連事務局の金、山本、崔が選ばれ、朴は川崎市の問題点を解明し、文雄は代表、文は司会と役割を決めた。話合いは一月二十六日の前に川崎市が行った国籍条項撤廃で制限された職務について問題点を解明する集会を持とうということになり、期日を九日に決めて解散した。

 元旦の朝、文雄はがら空きのバスに乗った。七年連続の正月出勤だ。四谷上町でバスを降り、十字路を渉って歩道橋に登った文雄を弱い太陽の光が包んだ。北風が文雄にジャンパーの裾を締めさせた。「寒い」独り言を呟いて階段を下りた。乗り換えのバスは来ない。東扇島は川崎市に最初の埋立地浮島の先にある。公園の北側に海底トンネルがあり、バスやトラック・マイカーはこのトンネルを通らずに東扇島へ通うことは出来ない。文雄が東扇島へ通うようになって数か月した頃、自転車で島に通勤している労働者を幾人か見かけ、同僚の小金沢に自転車で来る道があるのかと質問した。横で文雄の質問を聞いていたパートの松井が「私は今日も自転車で来たのよ。公園の中に自転車が通れるトンネルがあるの。バスの本数が少ない時間は便利よ。昼休みに教えてあげる」と口を挟んだ。

 北風の吹きぬける塩浜公園脇のバス停には文雄以外の待ち人はいない。川崎駅からの直通バスも本数が減っているのか、なかなか姿を見せない。自転車にすればよかったと文雄は後悔した。元旦の朝から、人通りのない産業道路でペダルを踏む自分の姿を想像して文雄は舌打ちをした。八時五分過ぎ、いつもより二十分遅れで直通バスが来た。そのバスにも乗客はいなかった。八時二十五分、文雄はサンミックスのタイムカードを打刻した。作業着に着替えて現場に出ると、小金沢が眼帯をしてブラッターの点検をしていた。九時、出勤してきた正社員の森は挨拶もそこそこに、指示票を置いて姿を消した。パートの女性たちの姿はない。十一時過ぎに課長が顔を出した。作業の進行については一言も声を掛けない。眼帯を外せない小金沢にピッキングをさせて文雄は終日プラツターの運転をした。六名の女性パートの内、松井だけが課長の横田と同時に出社した。 

 翌日、小金沢の目の物貰いが酷く腫れ、目が塞がっている。十時の休憩時間に文雄は課長と森に向かって、午後四時頃には集荷が終わるから、その時点で小金沢を帰宅させるように頼んだ。出荷は文雄が行うからという条件で。だが課長の返事はなかった。二階で作業をしている文雄の所に、帰りの挨拶に立ち寄ったパートの阿部が「小金沢さんは定時間まで帰れなかった」と告げていった。三日目、小金沢は物貰いが破裂し仕事を休んだ。社員の森は現業につかず、負担は文雄に集中した。その日の帰り、三階冷凍庫の正社員、札野が四谷下町まで自慢の四輪駆動で文雄を乗せてくれた。その好意が文雄の気持ちを和ませた。

 一月二十六日、浅田教会のミサには参加せず、自宅での礼拝を淑子と二人で守り、昼食は摂らず、途中でサンドイッチと牛乳を買い、労働会館へペダルを踏む文雄。途中でバイクに乗ったエドワード神父が声を掛けて自転車の文雄を抜き去った。会場はすでに一〇〇人以上の人が集まっている。受付を済ませ、人ごみのはずれでサンドイッチを食べる文雄。二〇〇人近い人の前で、挨拶をする文雄の声はあがり気味。

 「私は住民を管理しようと思って公務員になったのではありません。いろんな障害を持った人たちや生活に困っている人たち、あるいは国籍の違う人たちも、その人らしくその人の希望するところで健康で暮らしていけるようにするためにはどのようにすれば良いのか、知りたい情報は何か、どうすれば必要な情報を知ってもらえるのか、という視点で働いているわけです」とアピールすノる鄭香均さん。

 「国民主権論というものも、実はまやかしの魔法の杖です。勿論、「当然の法理」という訳のわからない論理というのも、これもまやかしです。まやかしの論理にまたまやかしの概念を付け加えて、これで納得しろというのがこの東京地裁の判決です」と新美弁護士。

 「私は何も今勤めている日立を辞めて、川崎の市役所の職員になろうと思って公開質問状とか抗議文を出しているわけではないんです。いま、私たちがこの差別を前提にした川崎方式を認めてしまうと私たちの後に続く子供たちに、私、子供が三人いますけれども、十年、二十年後になんて言われると思いますか。アツパ(父ちゃん)たちは日立闘争だ、地域活動だと言いながらなんでこんな差別を前提とした国籍条項撤廃に、自治体に一言も文句を言わず、抗議もしなかったんだって言われますよ」と朴鐘碩。

 「川崎市の国籍条項撤廃は、非常に不十分でありながらもとりあえず開いたということは一つの前進だということが言えると思います。…でも実際には、川崎市は結局は朴さんも言っていた通り、出世できないのになんで入るのかという議論があると思います。これは、次の第二ラウンドとして私たちも取り組みを強化していきたいなというふうに思っています」と金。

 「けれども、川崎市がとりあえずは現段階では政令指定都市だとか県の中では一番で入り口だけでも開けたわけですから、そういう意味では今までのケースからいきましても、完全撤廃まで向かって何とかやっぱり川崎がトップをきっていきたいなというつもりでこれからも頑張りますので、よろしくお願いします」と山本。

 「川崎方式は、差別を見抜き闘う感情、価値観、生き方を点検するリトマス試験紙であります。私はできるだけ多くの人と話合い、連帯して、川崎方式に対して即国籍条項の完全撤廃を求める、その輪を広げたいと思っております」と崔。

 「川崎市当局は同和人権担当だとか、とにかく誰か必ず配置して、…川崎市が結構在日韓国人・朝鮮人側に立って、業者、その資本あるいは経営者を叱ったとおもうんですよ。何でこんなことしてくれるんだとか、就職差別じゃないか、やってたとおもうんです。ところが、そういう経過があって就職差別はしちゃいけないって川崎市はわかっているはずにもかかわらず、今回の国籍条項撤廃ってのはいったい何なんだっていうのはあるわけ。つまり、僕にしてみれば就職差別しちやいけませんよといっておきながら、実はこれは国籍条項を撤廃したんじゃなくて就職差別をおこなったんだというように私にはとれるんです」と会場からの声。
 

自転車(53)第3章 通り抜け禁止 

その21 解 雇

 「日本人が働く職場で韓国人が日本人と肩を並べて、それを共生だとか何とか言ってますけれども、それはごまかしなんですよ。日本人の労働者たちが職場で人間らしく生きられない状況の中で、韓国人が何で人間らしく生きられるんですか。実際市職労の人たちの意見では、日本人が俺は朝鮮人に使われるのは嫌だ、そういう意見があるわけです。市職労の中で、そういう中に朝鮮人を入れて一緒に働くことが第一だとかいうのが僕にはよく理解できない」(会場からの声)。

 「先ほどの鄭さんが涙を流しながら長い間悩みながら、食欲を失うほどありのままに本音を出して人間として生きることができないような状況を作り出すとはどういうことなのかと。良心的に生きようとするならば、そういう観点から皆さんと一緒に考えていきたいと思います」(エドワード)。

 「日々生活していくとその差別っていうのは今日から制度的に禁止します、じやあ明日から差別はなくなるかって、何もなくならないですよ、そんなこと。日々の人間同士の接触の中で、それぞれが知り合うことから差別はなくなつていくわけで、そういう意味ではさっきもあったように市職労の中にどんどん外国人が入って日本人が外国人と接触する中で差別というのはなくなっていくんだと、そういうことは本当に思っています。だから運動を非難する事は簡単ですよ、でも今何ができて、何をなすべきかってことがもっと大切であるんで」と会場からの声。

 「今の川崎市のあり方、撤廃のしかたは欺瞞的ですよね。その欺瞞の中に入って、そこをこじあけるというのは、僕は最初から原則に戻ってそれは駄目だという所から出発して対決するのに比べると、数十倍もの努力を必要とするのではないかという気がします。ましてやそれが常識化していつのまにか語られなくなる、それをむしろ行政は期待しているんじゃないかと、そんな印象をもちます」(会場からの声)。

 「川崎市ははっきり言っています。”今回の川崎方式は、差別ではありません”ー川副さんという課長、人事の実務的な責任者ですね。彼ははっきり今回の川崎方式は差別ではありません、ジョブローテーションがなんだかいろいろ考えて、そして最終的に差別じゃない方法を考えたというのが川崎市の公式ないいかたです」と崔。一息入れて「私たちの立場は合理的な差別を公権力が認めている限りこれは絶対に許されないという立場です。差別に正しい差別も悪い差別もないんですよ」と強調する。

 「一つは、認識を共有化しなきゃいけないのは、国籍による差別はいけないということですよね。国籍条項問題は全然、採用においては開いた形になってますけれども、ただ実際にはいけない職務があったりだとか、任用に制限があって、非常にこれは民族差別の問題であるし、国籍条項が全然解決していないというのは共有できる所だと思います。じやあ、それをもってどうするのかという、これからの戦術とか戦略の問題の中で何をしていくのかっていうのが一番大事であつて、それをあいつらがああ言つているとか、こいつらがこう言ってるみたいな発言は、これはもう草の根的な運動の中では一番いけない事だと思います」と金。

 「言いたい事はまだまだいっぱいあるんですけれども。一つは国籍条項完全撤廃を目指すという事で、やってきたわけなんですけれども残念ながら力足らずと言いますかそれは私たちの市に対する働きかけの「弱さでもあるし、市の主体性の無さということと、いろいろなことがあると思いますけれども、それで課題を残した、本質的にはやっぱり解決にはならなかったということで、ある意味では非常に悔しい思いをしているのはやっぱり私たちもそのうちの一人です。それだけはわかっていただきたいと思います」と悔しさを口にした山本。文雄は山本の悔しさが市の施策に対するものだけではないと感じた。 

 会が終わり、有志で交流会が行われた。会場を去る参加者の中に作家の平林がいた。文雄は彼女の挨拶を受けながら心が和んだ。彼女は文雄が要請された従軍慰安婦たちの日本政府への申し入れ行動には必ず参加し、食事や宿泊の手伝いをしてくれていた人で、文雄は親しく話したことはなかったが、身近な知人が参加してくれたように思えたのだ。

 交流会にはパネラーの三人が参加せず、運動の進展に陰を落とした。川崎市の国籍条項撤廃を市民運動の成果と見なす、青丘社グループと差別を行政が実行したと判断する文雄たちのグループとに分かれたのだ。交流会には長野や岡山からの参加者が出席し、帰りの汽車の時間を気にはしたものの、運動を盛り上げようとする機運が盛んであった。

 文雄が働くサンミックスのトモス集配部は正社員の指導力不足で、現場が荒れていた。課長の横井は仙台支店で購入担当の課長で現場経験が不足し、現場監督は正社員の森に委ねていた。横井が来てしばらくして、東京本社から小島という社員が配属されたが、不器用で倉庫の仕事は素人同然であった。フォークリフトの運転技能講習は受けていたが、ブラッターの運転が出来ず、理解力も良くない。本社では営業と支店の連絡を仕事にしていたという。妻帯者で幼稚園児の娘と実母の四人家族であった。配転前の本社時代は六ケ月間ノイローゼで病欠していたという履歴を、文雄は後日になって知った。

 リーダーの森はブラッターの運転技術が未熟で、パレットに積まれたメリケン粉の袋をしばしば損傷させ、報告せずに放置していた。また六人いる女性パートタイマーヘの処遇が甘く、朝礼後二十分も世間話をしていた。文雄や小金沢が集荷の段取りをつけるまで遊ばせておくという毎日で、小金沢は毎日のように文雄に不満を打ち明けた。二月に入って文雄は森に女性パートの就業にクレームを付けたが、森はリーダーの立場を固執し、文雄のクレームを無視し続けた。

 三月に入り、文雄が受診のために休んだ翌日、顔を合わせた小島が青く強張った顔をしていた。文雄が様子を問い合わせたが小島は顔をそむけ返事を拒んだ。十時の休憩時間に文雄は小金沢から、昨日の午後、三時休憩の時に小島が森から腹部を殴られているのを目撃したと話された。小金沢は休憩を終えてから小島に横井課長に報告するように進めたが小島に断られたと言うことも告げられた。

 文雄は正社員森の配置転換の必要を感じ行動を起こした。横井課長に森のパートタイマーヘの処遇を報告し、善処を求めたのだ。翌日、森は朝礼でパートタイマーの作業方法の変更を伝えた。文雄や小金沢が集荷の段取りをしている時に、小物部品の集荷をするように指示をしたのであつた。文雄たちは彼女たちの小物集荷のパレット配置から作業を始めた。不満がパートの女性から出た。今までは九時から仕事を始めれば良かったのに、入時半の朝礼が終わって直ぐに小物集めなんてと既得権の主張のような不満をもらし、休業者が急増し始めたのだ。

 五月になって職制の変更があった。森が一階の積み込みと冷凍庫作業に配置転換し、トモス集配は森の配転先の作業長が転入してきた。労働組合の副委員長を経験している河野も一緒に配転して来、職場の雰囲気が一転した。小林作業長はトモス集配の作業の流れを習得するのに三ケ月以上の時間を掛けた。新しく柳屋うどんの集配が始まり、二階の倉庫を使用することが決定し、文雄は小林作業長から倉庫内の棚配や作業場の設定に協力を要請された。河野は自分は新人だからと作業長や文雄たちにくどく説明した。彼は肝臓を悪くして、長期病欠をし、冷凍庫作業をする体力が無いというハンディを持つていた。

 事件は十一月二八日に起こつた。昼食の時に食堂で顔を合わせた斎藤人事課長が文雄に午後の作業が始まったら人事課長の席に来てくれと告げた。文雄が斎藤課長の所へ行くと課長は室に人がいないことを確認してから、自分の机の脇に椅子を用意し文雄を座らせ、おもむろに言った。「持田さん、就業契約は今まで私が半年ごとに書き換えていましたが、今回の書き換えはしません。契約が終了したら再契約は行いませんから。了解していただけますか」と。

 文雄は寝耳に水という感じでショックを受けた。「え。再契約しない。何で。私がサンミックスに不都合な作業をしたのですか」と文雄は斎藤課長に問いただした。「いや、所の方針で再契約はしないということなんです」と言って口を閉ざす斎藤。文雄は「承服できません。課長の言ったことは耳にしましたが、はい、分かりましたという返事はしません」と言い放って文雄は席を立った。

 その日の夕方、文雄は神奈川シティユニオンの事務所へ行き、書記長村山に事情を話し、入会の手続きをすませた。六十六歳にして雇用問題での労使交渉を自分が当事者で行う事態に立ち至ったのだ。
 

自転車(54)第3章 通り抜け禁止 

その22 焦 り

 十一月三十日午後、昼食をすませると文雄は中島二丁目の誠一の家に行った。サークル仲間の成允植に新井英一コンサートの入場券を渡すためであった。誠一や梅田は五九年の砂川事件や六十年のハガチー事件に関与した民青の猛者たちだが、四十年を経ようとする今では、若い頃の激しさは失せ定年退職後はNKK時代から継続している文学サークルを日本民主主義文学同盟川崎支部と名付け、月に一度会合を持っていたに過ぎない。誠一は文雄に向かって、「持田さんは定年過ぎてからの活動が凄いですね。僕は持田さんを伝記風に書こうと考えていたけれど、書けなくなつた。持田さんの行動に付いていけないもの」とぼやくように漏らした。

 英一のコンサート券を一枚も買わずに何言っているんだ、という内心の思いを隠して允植に券を渡すと、文雄は例会を抜けた。ミスタードーナツツヘ行ってダスキン本社の電話番号を聞きだそうと文雄は足を速めた。サンミックスの部課長等がキャンペーン用の景品を幾度か不正持ち出しをする現場を見ていたので、解雇問題に有利な条件になるかという見込みを抱いたからである。しかし、ミスタードーナツツの店長はダスキンの電話番号を知らなかった。

 「ダスキン」文雄は呟いた。美好さんはどうしているのだろうと正義感の強い祥子を思い浮かべた。正社員とパート・タイマーの賃金格差を差別であると東京地裁に提訴して既に三年以上の歳月を経ていた。熱心な夫の社会運動を支え、パート・タイマーである自分の取り組みとして起こした訴訟だが、支援者が少なく運動としての発展がなかった。裁判半ばにして夫の匹田は脳卒中で介護の時間すら持てずに他界してしまった。歳老いた義父の面倒見が祥子に残されたのであった。文雄は勝気な祥子の眼差しが眩しかった。 

 解雇宣告をしておきながら作業の忙しさは変わらない。習い始めたパソコンの講習へ行けない日が続いた。慰安婦の支援で共同代表をしていた佐竹京子から電話が入った。奄美大島からなので時間を無駄にできない。用件は寿音から脅迫されたということであった。ソウルの事務所の所有権を巡る訴訟で佐竹が寿音に不利な証言をしたことへの恨みらしい。文雄への恨みもくどくどと話していたという報告であった。文雄は佐竹に礼を言い受話器を置いた。

 五日後は金景錫の高裁裁判が行われた。「強制連行」という事実の証明が可能かどうかという質疑応答になった。国側の弁護士たちは「募集が私企業でなされたのだから強制連行ではない」という論陣を張った。原告側は「企業の募集であっても実際は脅して、無理やりに連行し、被連行者の意思が無視されているのであるから、強制連行である」と主張し意見は対立したままである。安原・三宅・美好という三人の女性が裁判を見守り、文雄に会釈した。

 サンミックスでの作業は針の莚のようである。病気勝ちの小林作業長と病気で通院中の河野は文雄に言葉を掛けるのをためらっていた。夏前にアルバイトをやめた遠山が歳暮になって復職した。嫌がって辞めたのに何故戻ったと理由を聞くと「作業長に頼まれたから」という返事。「遠山君は新しい仕事を始めるといつて辞めたじゃないか。新しい仕事はどうしたの」と質問しても答えない。公傷を私傷に変えられた仲間の消息も語らない。

 新井英一のコンサートは盛況であった。文雄は従軍慰安婦問題で行動を共にした伊藤親子の自費出版の本を販売していて英一の歌は後半部分だけしか聴けなかった。ダミ声というのか生い立ちに抵抗し続けた野太い声が教育文化会館ホールを圧した。

 翌日、池袋のネットウェーブジャパンヘ足を運び、インターネット・デジタル広告店の契約をした。パソコン一台とネオフロンティアというショッピングモールのCD−ROM一枚、インターネットマーケッティングマニアル/インターネット情報管理マニアルというファイルを買い取り広告代理店を設立するというものである。経費九七六、五百円を六十回分割で分割手数率四・〇八〇、分割手数料合計三九八、四一二円をGEキャピタル・ファイナンスに支払うという内容であった。広告代理という仕事に全く無知な文雄は努力で開発可能と判断したのだ。

 その夜、文雄は茅ヶ崎の菅原光子・鷺沼の文多恵を加藤登紀子のほろ酔いコンサートに誘っていた。多恵は風邪で来ず、光子と二人でテアトル・スリンガーのロシア料理に舌鼓を打ってからコマ劇場へ行った。最前列で登紀子の歌を聴くというのは贅沢に思えた。帰宅するとクレジット会社から確認の電話があったと淑子が告げた。

 年内は休日がなく、出荷の仕事に追われる文雄に不愉快な出来事が続いた。最後の三日とも文雄のタイムカードが無く、斎藤課長は調べておくと言葉を濁した。

 一九九八年元旦、文雄はカメラをポケットにしていつもより一時間遅くサンミックスに出かけた。作業場と作業状況の写真が必要になるかも知れないという村山委員長のアドヴアイスを受けてのことである。乗客のいないバスに乗り、四谷で乗り換えてサンミックスの門を潜った。三階の作業場には横田課長と小金沢が作業をしていた。横田は文雄の顔を見ても挨拶をしなかった。文雄が「明けましておめでとうございます」と声を掛けると「おめでとう」と呟いてプラッターに乗り、倉庫の奥へ姿を消した。
 

自転車(55)第3章 通り抜け禁止 

その23 被 告

 正月八日、文雄はシティユニオンへ顔を出しサンミックスの現場状況を話すも委員長は関心を寄せない。社内の無規律は再契約拒否とは無関係のようだ。帰宅して、広告代理の仕事を始める。インターネットに広告をのせる相手を探さなければならない。新聞広告を見て話しに乗りそうな会社・学校を選ぶ。当方の売り込み文言を構想する。ここまでは良いが、電話での勧誘とか、戸別訪問での売り込みは性に合わない。ディレンマをどう克服するか自信がない。

 正月十日、池袋のネットウェイブジャパンへ電話アポイントの講習に行く。昼過ぎから夜の七時まで掛かって七人の受講生が交互にマニュアルを読んでは指導員のチェックを受ける。三十代半ばから五十代過ぎまで、文雄は最高齢であった。自分の代理店を立ち上げ、印鑑やネットウェイブジャパンとの金銭出納に使う三和銀行の普通預金を開設する必要があった。受講生は高崎・静岡・川越などからきていた。脱サラを狙う人たちのようであった。

 十一日朝、文雄は寿音からの電話で起こされた。寿音は咳き込んだ調子で「ソウルのハルモニたちの事務所が自分たちの言い分が通じたことを告げ、文雄を日本で起訴するから覚悟しておけ」という脅迫であった。文雄は「好きにしてください」と受話器を置いた。寿音の脅迫電話のことを、埼玉の信川と板橋の福植につたえると、福植はソウルの福善ハルモニが五百万ウォンの損害賠償を命じられたことを告げた。文雄は寿音にせがまれて自分やエドワードが一九九五年の二度三度渡韓した時の、寿音の意図を把握していなかった自分を恥じた。

 十二日、サンミックスとの交渉をするという連絡が入り、文雄はシティユニオンに出かけた。村山委員長は斎藤課長との幾度かの交渉の未、一月三十日にサンミックス本社で団体交渉をするようにファクスで当方の要求を求めることになった。留守勝ちな文雄にはパソコン教室アビバからは連日模擬試験受講の督促電話が入っていた。

 十八日早暁、希望が丘の稔が「今、清子が危篤状態だ」と電話連絡を寄越した。六時文雄と淑子が家を出ようとすると、功から清子の死を告げる電話がきた。二人は道々、淑子の両親たちが希望が丘にマイホームをつくってからは、身内がどんどんと欠けていくことに割り切れない思いを深めていることを語り合わざるを得なかった。長女の淑子は二人の弟と妹の葬儀の手はずを決め、文雄に合意を求めた。文雄は話が纏まると、新横浜で行われる全造船の旗開きに出かけた。その夜、淑子は妹の日記帳二冊を文雄の前に差し出した。この前後の文雄の手帳は三日間日付けが前後している。

 一九日、高橋印房で社印を受け取り、太陽生命で入金、希望が丘へとあり、二十一日の欄を二十と訂正し、午前八時川崎駅西口集合、横浜地裁へ、その後、田町の三菱本社前で争議アピール。行動後、帰宅して、清子の日記をコピーし希望が丘へ、永井住職に清子の通夜をしてもらうとある。二十日の欄は二十一と訂正され、清子の葬儀、野辺送りの出来事のメモが書かれている。 二十二日の欄には四つ五つの俳句が書かれ、二十二という日付けの下に細書きのボールペンでアビバヘ行き二十五日三級試験を受けることと登紀子クラブヘの送金したというメモ書き。

 一月二十九日、ユニオン一日行動。大鳥居のセガ、九段下の住宅都市整備公団、都営新宿線の端江駅、新日本建設と三箇所を巡り、富士工芸の労災隠し追及は時間切れで中止。夕方、ユニオンで韓国の正月を祝うとある。翌三十日はサンミックス本社で本社人事部の部課長と川崎工場の斎藤人事課長と交渉をするもサンミックス側は、弁護士を通じての話合いにしたいと主張し、物別れになる。

 この頃、淑子は教室に使っていた一階の六畳を文雄がいちじく通信の発送を止めて二年になるのにそのまま自分の作業場のように使っていることに不満を感じていた。客間として自分のささやかな夢を生かしたいと考えるようになっていた。淑子から話を切り出されると文雄は嫌だとは言えなかった。

 文雄が横浜地方裁判所からの通知を受け取ったのは四月四日であった。前日ポストマンの不在連絡に発送元横浜地方裁判所という文字を見て驚いた文雄が本局へ出向き裁判所からの郵便物を受け取り、開封するとサンミックスの提訴による裁判を五月二十二日午後一時十分に開催するからという出頭通知書であった。週明けの月曜日、文雄はユニオンに行き通知書を村山に渡した。裁判所の通知書を一読した村山は直ぐに文雄に言った「小川弁護士に依頼しましょう。彼はユニオンの裁判を幾つも担当しているから」と事も無げに言った。「サンミックスが原告で俺は被告か」文雄は望みもしなかった裁判で自分が被告の立場を余儀なくされ呟いた。

 二日後、文雄は味の素の下請け会社宝サービスの入社面接に出かけた。渡辺という課長が文雄の経歴を見て「ダノンで働いておられたのですか、ダノンからは幾人もうちに来られていますよ」と言い、名前を挙げた。文雄が「え!」と驚くような人名もあった。翌週の月曜日からの出勤が決まった。 三月十二日から始めていたガソリンスタンドでの夜間アルバイトを止める連絡に行くと、社長は困った顔をして、不承不承、領いたのであった。

 週末の土曜日、文雄たちの市民運動体は「当然の法理」について学ぶために、「定住外国人と公務就任権」の著者、中井清美を大阪から招碑していた。文雄には代表者としての任務が課せられていた。僅かなことなのに、代表者挨拶のポイント押さえに集中する気構えが出来ずに苦しんだ。次の学習会で憲法学の小関教授を招碑する役割も文雄に任されていた。目くるめく変化の日常の内に文雄は漂っていた。
 

自転車(56)完 第3章 通り抜け禁止 

その24 閉鎖されたトンネル(最終章にかえて)

 産業道路の池上新町に向かって文雄は自転車のペダルを踏んだ。日本鋼管の前の昔ロータリーだった交差点の東南側は市バスのターン広場になっているが、そこが戦時中には日本鋼管の下請けで須田町食堂があり、昭和十八年に日本鋼管で働いていた朝鮮出身の技能工たちが、会社の処遇に怒り三日間のストライキをその食堂で行ったという史実が存在したことは誰も知らなかった。その近くに住む当時の指導員・佐藤圭作の申し出で文雄が佐藤と二人で確認した事柄である。

 ストライキのリーダーだと決め付けられ、重傷を負わされた金景錫が日本鋼管と日本政府を相手に損害賠償訴訟を行わなければ、景錫が住まわされた独身寮跡地も確認できずに、無関心のまま闇に葬られて記憶の外に忘却されたままに過ぎたであろう。

 ターン広場から大師方面に向かって文雄は自転車を走らせた。右手は夾竹桃の植え込みが続き、浜町・浅野工業団地(元日本鋼管製鋼部・高炉跡、三機工業跡)を過ぎると池上町、ここは戦前から戦後にかけて日本鋼管の鋼砕捨て場であった。今は産業道路の上に横羽線が走り羽田空港・都心への主要交通路になっている。

 池上新町の交差点を水江町に向かって自転車を漕ぐ文雄は夜行町の電縫管工場が姿を消していることは知っていた。跡地に川崎市が火葬場建設に動いていることも知っていた。しかし、水江町が出来て三十年もたつのに、水江町がどのように形成されたのか意識になかった。自転車のペダルを踏みながら、文雄は五十六年前の記憶をたどり、日立造船の手前にあった入り江の岸壁を探した。日立造船を望む場所で自転車を降り、昔の岸壁を探したが何処にも見当たらない。

 疎開先から川崎に帰り、復学の望みを絶たれた文雄に声を掛けた小学校の同級生の石井。彼は義務教育を終えると、日立造船の養成工になっていた。毎日を持て余している文雄に出会った石井は文雄に自分が勤めている日立造船に就職を奨めた。その好意を受け、文雄は日立造船に就職した。朝に夕に池上新田から歩いて日立造船に通ったのだ。入り江のようになっていた場所にあった造船所の手前がくびれていて、コンクリートの護岸から護岸沿いの海中には小鰯の群れが帯のように長く長く続いて泳いでいたのを毎朝のように眺めてから会社の門を潜ったのだ。コンクリートの護岸は何処にあるのだろう。文雄の努力は空しかった。

 諦めて文雄は自転車を夜光町から塩浜へと走らせ、千鳥町へ向かった。ちどり公園から東扇島へ自転車で渡ろうと考えたのである。数年前、サンミックスに席を置き、アルバイトで働いていた時に自転車で、バスが通る海底トンネルの他に自転車で交通できるトンネルがあることを教えられ、幾度も利用していたからである。夜光町からちどり公園までは二十分は掛かる。塩浜陸橋が自転車ではきつい登り道なのだ。どちらからの道もきつく長い登りになる。春先だというのに文雄の額は汗ばんだ。時たま行き交う自動車が時間外れに走る文雄の自転車をいぶかってか、事故の心配も無いのにクラクションを鳴らして行く。

 ちどり公園のタワーの横を地下道に向かって自転車を乗り入れた文雄が見た地下道は入り口にパイプが横に結束され、通行止めの表示がなされていた。通り抜けに自転車で五分は掛かる長いトンネルで何か事故が起きれば発見のしようも、連絡方法も無い工事用のトンネルには違いないが、バスか乗用車以外に島に渡れない状況を作り出した港湾当局が腹立たしい。川崎市の市民提案拒絶の姿勢そのものではないか。文雄はこみ上げてくる怒りを抑えて、公園の海側に出た。釣り人が四、五人海に糸をたらしていた。護岸の転落防止柵に近寄ると足元にヒトデが十数匹干からびていた。どうしてヒトデが打ち上げられたのか、文雄には理解できなかった。海面までは二、三メートルもあり、海底の生きものであるヒトデが柵を越えて打ち上げられた現象が納得できないのである。

 文雄の脳裏にブルターニュの海岸で漁師船にまざって幾艘ものヨットが浜に横たわっていた砂浜蘇った。そういえばシェルプールの港でも数え切れないヨットが堤防の上に引き上げられ、その一艘をティーンエイジヤー位の青年が懸命に手入れをしていたことを.日本は四方全てを海に囲まれた国なのに、大らかに海で遊ぶ風習は育たなかった。企業利益の追求に、私生活の犠牲を強いることは当然のこととしてきた労働運動、企業戦士と言われることを当たり前とする国民性。川崎港は市民の意思を問うことなく、国策と地方行政、巨大企業に欲しいままにされているではないか。

 川崎の臨海部は衰微する私企業や市民無視の国策・地方行政に委ねたままで良いのか。海を市民の手に取り戻す手立て・手段は無いのだろうか。手すりに背をもたらせ、文雄は大きく深呼吸した。(終わり)

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