トルコ紀行 

                         2006年3月29日   望月 文雄

1 タシケント                                                

亡妻の遺品の処理の目安がつき、私は目まぐるしい日常を離れたかった。3月末に届いていた旅行会社の案内書を開いたとき、ヨーロッパではなく中近東、できればトルコかなと漠然と思いついた。こげ茶色のインデクスはトルコ・エジプト・モロッコとかいてある。トルコのページを開くと、眼についたのは、9・10日で1 4万9800円という安い費用。DM−606という番号を控えて、旅行会社に電話で申込む。予約番号は4870−848、最終キャンセルは5月13日。翌々日、同じ旅行会社から「トルコ15日間モニター周遊、14万9800円という案内の葉書を落手、アレ!と眼を見張る。早速、葉書にある電話先に連絡、フライト決行の様子がわかるまでは、2つの予約をしたいと意向をはなすと、どちらかに決めてくださいという。モニター周遊の催行は決定かと念を押すと「はい」という返事がかえてきた。左記の予約はこちらで取り消しますというので、コースと予約番号を伝える。
 今回は一人旅、とは言うものの、亡妻の分骨と使わなかった入れ歯を入れた小さな骨壷と写真を携帯することにした。 夫婦での海外旅行を楽しみにしていた妻への思い。
 
ウズベキスタン航空?始めて聞く航空会社名、インターネトで探索すると、ロシアから独立して間もない中央アジアの国であることが分かった。しかし、私の記憶にはシベリア抑留者の何万人がシベリアから移動させられた国(当時は地方)とは思いもつかなかった。旅行に出る10日ほど前、ネットで海外安全情報を探索すると、4月にイスタンブールでの爆弾事件が発生したこと、ウズベキスタンで大統領への反対デモが発生したが、現在は平安。しかし、治安には注意をということだった。その情報を見たとき、2週間ほど前に、デモ参加の民衆数百人が殺害された模様というニュースが流れたことを思い起こした。出発日の1週間前、添乗員からね確認と注意事項の連絡電話が入った。2件の情報を伝えると「現在は落ち着いていて、治安は守れれているので、催行ね変更はありません」という。

トルコ周遊を決めてから、観光のポイントをどこに置くか迷った。数冊のガイドブックを購入し、ページをめくっても、ポイントが絞れない。コースの案内状から、宿泊地や観光予定地を書き出し、主要な場所を調べてもだめ。イスタンブールはビザンチン帝国の首都で、コンスタンティノーブルという都市だったのだから、その歴史に親しもうと、塩野七生の「コンスタンティノ^ブルの陥落」を読むことに決めた。キリスト教の最初の公会議が開かれたニカイアとか、使徒パウロの誕生地タルシシ、カナン入植まえのアブラハムが父と暮らした、ハランも、箱舟伝説のアララテ山もは旅行のコースに入っていないので、聖書中心の重点は取れなかったのだ。後でこれが大失敗だったことになるのだが。

羽田空港のフライトが予定より1時間遅れて、11時を廻り、関西空港へ寄るコース設定が腑に落ちなかったが、週2便のウズベキスタン航空は成田発関西空港寄港でウズベキスタンの首都タシケントへフライトする定期航路が設定されているらしい。関西空港で若干の同行者が乗り込み、フライトしたのは午後1時過ぎ。

タシケントに到着したのは現地時間で夕方5時半過ぎ。飛行時間13時間弱はモスクワ経由でヨーロッパへ行くときの、成田〜モスクワ間とほぼ同じ所要時間だ。添乗員がウズベキスタン観光とトルコ行きは空港内のバスが異なるので、乗り間違えないようにと再三説明する。HY528便を降りると、機外の温度は30度を遥かに超えている、日本の真夏、灼熱という気温。体中から汗が噴出す。空港内の移動用バスが2台ずつ、左右に分かれて止まっている。確かに、どっちに乗っていいのか戸惑う。添乗員の小旗を目印に流れに従う。                         

                
                    タシケント出入国管理事務所

タシケント空港は軍用空港も併用とかいう人のささやきが聞こえたが、確認の必要はない。バスはノンステップの床が低い形、座席は中央部分左右に背中合わせのものが2つづつ装置されているだけで、乗る人の大部分は立ちっ放し。持物は小型のユックサックや、サブザックなのだが、トルコ観光へのグルーオウらしい団体が3組も乗り込んだので、通勤の満員電車のようだ。べとつく肌が触れ合って気持ち悪い。

移動は4・5分かかる。古めかしい2階建ての建物の前で下ろされた。大きなプラタナスの木が建物の前に植えられていて木陰をつくっている。旅行者は外階段から2階へ上がり、添乗員の入国手続きの間、奥の待合室で乗り継ぎ便の案内を待つ。待合室は休憩座席の後ろが広い階段で、1階に降りられる。1階は椅子が5・60席あり、ウオータークラーが売店側の壁際に備えられている。使い捨てのプラスチック製コップがクーラーの側面に備えてあり、料金は不要。サービスらしい。反対側に洗面所があり、その北側が出国検査室、兼待合室だ。この待合室は出国検査完了者専用。飛行機に搭乗するものは各自がチケットをチェックされた上で、移動バスに乗車する。

この建物は国外旅行出入国の施設として作られているらしいが、規模が小さい。自国の海外旅行者はいたって少ないのだろう。(昨年末世界陸上競技の東京会場で体操選手権があり、ウズベキスタンの女子選手が出場していた。1人で参加したのではないのだろyが、国の選手に選ばれて日本へ来るのに、あのタシケント空港からフライトしたのかと思うと懐かしさを感じた。エリートだから選ばれたのに相違ないが)。

私は洗面所の男子トイレで、用意してきたインシュリンの注射をした。トイレのドアの施錠がきかず、少し嫌な気持ち。リュックサックの中の、妻が苦笑しているようだ。汗拭きを全部トランクに入れて預けてあるので、取り出せない。乗り継ぎに要した時間は1時間余り、待合室の2階のテレビは日本とトルコのサッカーの実況放送だったようだ。イスタンブールへの飛行時間は約5時間だという。「アーァ」という同行者たちのため息が一斉に出る。皆疲れているようだ。エコノミー症候群に罹った人が1人もいないのは、夫々に旅慣れているということか


2 イスタンブール (2日)

イスタンブール (その1)                        
タシケントからフライト約5時間、イスタンブールのアタチュルク空港に到着、入国検査を受け、飛行機預けのトランクを確認、両替をすませて、専用バスへ。バスは旅行中は専用。ドライバーの名はグルエン。総勢34名なので40人乗りなバスには若干空席がある。隣座席が空くということは贅沢なのだが。

夜空の雲がなく、月影が爽やか。空港内は暑さで汗だくだったので、夜風が心地よいこと。添乗員が「ホテまではこのバスで15分。明朝は7時30分に出発しますから、支をお願いします。ホテルの枕銭は新通貨で1トルコリラ(日本円で90円)、トルコリラがなければアメリカドルでもかまいませんが、日本の百円コインは使わないでください、両替所でも日本のコインは扱いませんので、」と説明する。ホテルでも両替しますが、空港の両替所よりも若干率が悪い場合もありますが、一度に高額紙幣を両替すると、管理がたいへんですから、適当に」と気配りの効いたアドバイス。

イスタンブールに来たんだという感慨が去来する。ホテルはコンクリートの壁が両脇にある狭苦しい道を抜けて、高速道路に面したところに玄関がある。部屋割りと荷物の受け取り、部屋への運搬は今夜に限り、自分運び。真夜中の12時半。日本時間では朝の6時半。24時間眠らずに来たのだから、疲れるのは当たり前。これからの14日間健康を維持できる労にと念じる。

ホテルの朝食はバイキング方式。6時半には食堂の入り口が込み合う。パン・ヨウグルト・オリーブは週種類づつ。牛乳・ミネラルウオーター・コーヒーは蛇口付きポット。果物はりんご、プラム、きゅうりは一口の大きさにスライスしてある。肉料理は大なべに、ソウセージは4・5種類スライスして大皿に盛ってある。幾組かのグループや個人・夫婦様々な客でごったがえすバイキングの陳列場。席は自由。トルコらしい食事を朝食で求めるのは、団体旅行では無理なようだ。

バスツアーが始まる。ガイドはサイトさんという30歳前後の美男。トルコの観光ガイドの国家試験はとても難しいらしい。並みの教職課程の数倍も難しく、エリートだという。最初に案内されたのはブルーモスクといわれるスルタンアフメット・ジャミィ。6本の尖塔(ミナーレ)が巨大なドウムを囲むろうに、紺碧の空に向って屹立している。バスをおりてジャミィの前に急ぐ。大通りは自動車の交通が激しく、横断歩道は見あたらない。ガイドのサイトが、トルコには横断歩道が殆どありません。自動車は歩行者を無視してスピードを出しますので、自動車の交通量が多い道の横断には気を付けてください、といいつつ、頃合を見計らって自動車を避けるように横断する。

                            
    ブルーモスク                      古代城壁と民家

ブルーモスクの前は歩道の脇に木製ベンチが2列、5列にならんでいる。モスクの門までは公園になっていて、花壇がきれいだ。ベンチの脇が門への通路で、ベンチの向かいに旅行者目当ての土産屋が1軒。土産のほかにミネラルウオーターやアイスクリーム、スナック菓子などが売られている。ガイドは一行にミネラルウオーターの購入を勧めた。「トルコは暑い国で、先週、雨季も明けたので、水は必要です。旅行者は水道の水をのまないようにしてください。水道はあまり設置されていませんが、その水を飲むと下痢や腹痛を起しやすいですから。水はミネラルウオータにしてください、と。

モスクの門を入るとミナーレは見上げなければ尖塔の先が見えない。「6本ミナーレは建築を指示されたメフメット・アーが『アルトゥン(黄金)の塔』を建てよといわれたのを『アルトゥ(6)』と聞き違えて建てたものだ」と伝説を説明する。6本のミナーレを見上げるには、首を空に向けて、180度体を回さなければならない。青空に煌くミナーレは太陽の光線を受けて眩しく輝いている。コンスタンティノーブルを占領したスルタンアフメッド1世の誇らしげな容貌と合体しているようだ。

スルタンアフメッド・ジャミィの裏側に廻ると、建物の裾にあたる部分の水道の蛇口がずらりと並んでいて、溝の縁が腰をおろせるような高さになっている。「この水道はミサに参加する信徒たちが足を洗い清めるためのものです。わたしたちはこれからジャミィの中にはいります。足を洗う必要はありませんが、履いている靴は脱いで、各自が持って入場します。袋を持っていない人には、廊下に袋の入った入れ物がありますかsら利用してください、と付け加えて説明を終えた。裏庭は芝生の緑が鮮やかで、プラタナスの植え込みが静けさを守っている。

仏教で寺の大きな部屋を伽藍というが、ジャミィの中は正に伽藍、広々とした広間の天井はドームで、直径2メートル以上あろうかという柱が数本立っている。広間の片側が通路というのか、見学者の広間になっていて、天井から幾つもの輪のように吊るされた電灯も明かりで場内を照らすという感じではなく、薄暗い感じ。周りの壁、柱は青いイズニック・タイルで装飾されていて、淡い光に落ち着いた情景を醸している。この伽藍の床に敷き詰められた絨毯も見事だ。

私は南側の部屋の鴨居に掲げられているペルシャ文字の額に気をとられて、ガイドにあれ何て書いてあるのかと質問すると、古い言葉でわたしには読めませんという返事が返ってきた。花壇が整えられている伽藍の庭(最初に入ったきた場所)に出ると空の青さが一際、凄いほどだ。この空の青さは十数年前、始めての海外旅行でギリシャで味わったとき以来のもの。門の遥か向こう左手にアヤソフィア博物館が見える。アヤソフィアでは漆喰のしたから出てきた創設当時のモザイク画を見物できると私は胸をときめかした。何といっても、キリスト教を容認したコンスタンティヌス1世が帝都のシンボルとして建立を始めた当時世界最大の教会堂である。幾だびか焼失したが現在のものは537年時の皇帝ユスティアヌスが6年の歳月をかけて建立させたビザンツ様式の大聖堂なのだ。

次に案内されたのは地下宮殿と呼ばれる地下貯水池。4世紀から6世紀にかけてつくられたこの地下貯水池はコンスタンチノーブルの用水池として作られたもの。イスタンブールとなってからのこの都市の重要なトプカプ宮殿をはじめ地域のの水瓶であという。広さは約9000平方メートル、高さ8メートル、コリント様式の円柱、336本で天井部分が支えられたが現在は90本の柱は無くなっているらしい。地下宮殿の名称の言われは定かではないが、奥の2本の柱にギリシャ神話のメドゥサの首2首が、1984年の大改修で、2メートルに及ぶ泥が取り除かれたときに、発見され名所になったという。直径2メートルの大理石の柱の基礎部分に浮彫りされたその首は、そぞろ恐ろしい。蛇である髪の毛が額にのたうつ。多神教でもあるギリシャ神話の恐怖の女神を地上から抹殺するために、地下の柱の基礎にしたとか。1首は寝たよyに横向きにされている。

                   
  メドゥサの首(るるぶより借用)                    アヤソフィア

 地下宮殿を出るといよいよ期待のアヤソフィアだが、ガイドは門の中の入らず、外に立って説明を始めた。説明後入場するのかと思っていると、時間が限られているので、今回は外から外観を眺めるだけだという。がっかり。昼食の場所へはバス移動ですからここでは休憩15分とそっけない。残念。塩野七生の「コンスタンティノーブルの陥落」にあった、攻防の城壁は見られるのだろうかと期待をそらす。

 昼食はバス移動20分。マルマラ海に面した高速道路脇にあった。そこに行くまでに破損した古代の城壁添いにバスは運行したが、誰一人城壁に関心を示す同行者はいない。紺碧の空と海面。高速道路は海面と余り高さが違わない。海を走るという錯覚を遮るものは崩れた古代城壁。レストラントは」その城壁を利用して造られていた。食事げ出るまでの間、私は海と城壁沿いの高速道路を歩いた。1452年から翌年にかけてビザンティン帝国は、オスマン・トルコの若いスルタン・アフメッドとの壮絶な闘いを行い、この城砦の堅固さに、幾十倍かのトルコ軍の猛攻撃に耐えたのだ。そのような歴史は征服者には感慨の価値もないのだろう。取り壊すには費用が掛かりすぎる残物を感覚の働くトルコ人が現代に利用しているのだ。しかし、そのように利用されることで名残を留めていてくれるのが嬉しい。


3 トロイ (3日目)

チャナカレ

 城砦を利用して造られたレストランを出ると、バスは一路ガリポリ半島を宿営地チャンアカレと走る。左側にはマルマラ海が見え隠れする。道の両側には同じようなタイプの建設中の建物が多い。2時間3時間走っても同じようね風景。やたらと目に付く建設中の家屋。どうして?と呟く。呟きが聞こえたわけでもないが、ガイドが「この近辺は別荘地として、発展中です。建設中の家屋が多いのは、建て主が資金が貯まるまで建設を一時中断しているからです。働いて資金ができれば再開します。放棄したわけではないのです。」と弁解がましく説明した。みんな納得顔。

 後ろの席から小声で「この半島は物凄い激戦地で、海峡の向こう岸には戦勝したトルコ軍の慰霊碑があるんだよ。何万の兵隊が死んだんだ。壕からにげださないように、各々が足を鎖で縛って敵と戦ったんだって。凄いでしょ」「えぇそんなことがあったの、私は日露戦争のとき、ロシアの艦隊がダーダネルス海峡で合流して、インド洋に出て、太平洋を東支那海へ航海してきたことは小学校で教わったけれど、トルコ軍の多大な戦死者がでたなんてしらなかった。第一次世界大戦の時の話?」と問うと「そうだ」という。後日調べると、ガリポリの戦いといい、連合軍はトルコ軍の抵抗に合い、敗退した。トルコは第一次大戦に敗北したが、新しい国家としての基盤を作ったという歴史がある)。

 チャッナカレに到着したのは4時間後、コリンホテルはマルマラ海に面して新築されたホテル。特に眼を引く遺跡はない。昔は巡礼宿で4月25日のマンザック・デイは夜明けの祈りが、スペインの牛追い祭りとかドイツのビール祭りに匹敵するような祭りらしく、その時には観光客で宿泊施設の予約は困難どという。

「旅人よ  立ち止まれ!
 無意識に踏んでいるその土は
 かって時代の終わりの目撃者だったのだ

 聞きたまえ!
 この静かなる塚の中に
 かっては鼓動していた民の心臓が眠っているのだ」ネジメッティン・ハリル・オナン作詩(ガリポリ戦跡碑

            
 チャナカレの灯台                         ダーダネルス海峡

ダーダネルス海峡

 翌朝ダーダネルス海峡をフェリーボートで渡る。60数年前、この海峡に自分が来るなどとは夢想だにしなっかた。デッキは風が強い。向かいの海岸線近くを白い大型船がエーゲ海方面へ運航して行く。反対側から出たフェリーボートはかなりの間隔を空けて、チャァナカレへ向っていった。

トロイ

 トロイ(トゥルワ)の遺跡全体は柵で囲われていて、大きな遺跡という感じではない。手渡されたチケットをゲイトの改札機に入れて出てきたチケットを受け取って中に入る。広場の右手がこんもりとした木立になっていて、有名な木馬が東北を向いて立っている。ガイドは木馬を無視して、木立を通り抜ける。行く手に掘り起こした残土が小高くなっているが、踏み固められた小さな丘のようだ。

 ガイドは丘の向こう側に立ち、私たちに説明を始めた。足もとの丘はあんぐりと口を開けていて、北の方向に掘り込まれている。私たちが立っている丘は掘り起こした残土に間違いない。そこここに赤いケシの花がさいている。私の記憶ではフランス人神父が「コクリコ」と教えてくれた花だ。エーゲ海の島々にも、フランスのブルターニュと方のも咲いていた国際的な花だ。

 ガイドはドイツ人シュリーマンのトロイ発掘と、彼が掘り当てた財宝について説明を加えた。「彼はトロウ戦争の話を信じて、夢の実現を実行し、幾つか存在する丘の中からこの丘にたどり着き、見事、財宝を掘り当て、トロイ戦争の時のものだと思ったのですが、実はその財宝は第二期王朝(プリアモスの財宝)なのだ。シュリーマンがホメロスのイーリアスに語られているトロイ戦争は、彼が信じたように、伝説ではなく、史実であることが照明されたのだ。掘り出した財宝の認識は間違ったはいたものの、彼のこの事跡はヨーロッパの考古学界に遺跡探検の機運を巻き起こしたことは確かだ。

 9期に及ぶトロイの古跡が夫々の期が一望できる掘割の谷に案内された。谷は左側に深い割れ目を見せていて、期を示す表示板が、期毎に添付されている。その谷の手前、右側はアテネ神殿か。ガイドが第六市(期)の門のところで質問した。「木馬で有名なトロイ戦争の年代を知っている人は答えてください」と。誰も手を挙げない。私も自信はない。それを見た彼は「紀元前13世紀です」という。第七期の出来事なのだ。「コンスタンティノーブルの陥落」でなく、ガイドブックを丹念に読めば良かったという思いが胸を横切る。

アテネ神殿を突っ切って、昔の海があった方向が見張らせる小さな展望台に導かれる。小さいといっても3,40人は立てる。北側には木立が街路樹のように並んでいて、遥か向こうの丘までは平坦な土地。昔は海に流れ込む大きな河だったという。トロイはエーゲ海の置くにある有数の貿易港だったなが、流砂によって河が埋没してしまい、港の機能が喪失したのだという。シュリーマンがどのようなコースを通ってトロイ遺跡の丘「ヒサルルクの丘」に到着したのか知らないが、パウロの世界宣教の旅によく出てくる「トロアス」という港は、地図上では遺跡のあるトロイと同じ位置に示されている。 彼が活躍したころは既にトロイは埋没していたのだろうか。

 トロアスについて忘れがたい新約聖書の記事を紹介しよう。
「わたしたちは、除酵祭が終わったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこの七日間滞在した。

「週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。わたしたちが集まっていた屋上の間には、あかりがたくさんともしてあった。ユテコという若者が窓に腰をかけていたところ、パウロの話がながながと続くので、ほどく眠けがさしてきて、とうとうぐっすり寝入ってしまい、三階から下に落ちた。抱き起こしてみたら、もう死んでいた。そこでパウロは降りてきて、若者の上に身をかがめ、かれを抱きあげて、『騒ぐことはない。まだ命がある』と言った。そして、また上がって行って、パンをさいてたべてから、明けがたまで長いあいだ人々と語り合って、ついに出発した。人々は行きかえった若者を連れかえり、ひとかたならず慰められた。」(使徒行伝20章6〜12節)。

谷の所に戻ってから、第三期の発掘土砂にブルーシートがかけてある場所で説明を受けた。「この土はレンガを作る土で、いまも昔の方法で、補修用のレンガをつくっています。この土壌のように見える部分は、第一期から第三期層のもので、大きな建築物の基礎のようです」と。ブルーシートの覆われている土壌を見て、私は人間の傲慢さ故に破壊された「バベルの塔」の故事を思い浮かべた。シナルという平野がティグリス・ユーフラテス河沿いのあるなら、トロイは全く逆方向だが、時代の共通性はありそうだなどと。

               
  トロイの木馬                    バベルの塔を思わせる日干し煉瓦 
  
遺跡の見学を終えて、最後に木馬の場所に来て、休憩。日差しが暑い。シケット売り場の北側が建物と大きなプラタナスの木陰になっていて、木陰に入ると汗がウソのように消えていく。涼しい。「涼しいですね。木陰がこんなに涼しいなんて日本じゃ考えられない」と同行者がつぶやくように話しかけてくる。

発掘遺跡の南側にはこじんまりとしたローマ風の円形劇場があり、発掘された大理石の基礎部分が散乱していて、一つ一つに番号が書かれている。トロイ遺跡は海岸と海に流れ込む川べりで小高い崖になっていたのだろうか。円形劇場と最初に説明を受け小さな丘はチケット売り場と同じ平面にあり、木馬も同様だ。発掘された遺跡はほとんどが崖の中腹といへるような場所だ。

ベルガマ

トロイからバスで約2時間揺られてベルガマに到着。昔のアクロポリスの一部が残存する。アテネのパルテノン神殿の豪華さはないが、丘に至る崖に残されたアーチがたの歩道を持つ城壁は見事だ。アレキサンダー大王の死(紀元前327年)後、部将の一 人、リュシマコスがエーゲ海地方を手中にし、大王の財宝をこの地に収集、新王国を開くも、彼はシリアとの戦いで戦死。その部下フィレタイオスがペルガモン王国を築く。その後、王朝は次々に河ってもその富は受け継がれたという。残存している神殿は皇帝トラヤヌス(在位98年〜117年)の名を持つ。神殿の主要部分は19世紀にドイツに持ち去られた。  

            
 ペルガマのアクロポリス遺跡             ペルガマのアーチ  

クシャダシのオヌラホテルの早暁、窓辺に立って美しいと言われる日の出を待った。入り江か河か判別のつかない、水辺の遥か向こうから、妙な音が流れてくる。読経のような感じで人の声であることは確か。風の向きによって、途切れることもあるが、かなり長い時間その声は続いた。あとでしったのだがコーランを唱える声だったのだ。私がこの旅行中、早暁と昼食事と日没時に聞いた。祈りは日に5回というので、コーランも5回唱えていたのかもしれない。イスラク教世界なのだという思いを強められたことは確かだ。


4 エフェス(エペソ) (4日目)

エフェス 
        
クシャダシのオヌラホテルを出発したのは朝7時半。この時間が当たり前になったようだ。エフェス(エフェソスとも言う、新約聖書ではエペソ)までは近い。それでもバスで約1時間。丘陵地帯をくねりながらバスが行く。右前方の丘を指差して、「あの丘のうえには聖母マリア教会(エペソ総会議・紀元431年開催場所)があります。反対側の丘、今バスが走っている道続きの丘ですが、その上には聖ヨハネ教会があります」とガイド・サイトの説明。「残念ながら今日の観光予定にはありません。バスを降りたら私の後についてきてください。大型バスが込み合いあぶないですから」と注意。

エフェスの遺跡は丘を下って、小さな谷あいに存在している。丘を見上げるとあの聖母マリア教会のある丘だ。谷あいに干そうされた道があり、道の左右に遺跡がある。私たちがバス通りから入ってきた所は上門といわれるところで、左側は上アゴラ(市場)といい、大きなバジリカ(公共公会堂)があった跡で、突き当たりにトラヤヌス神殿がある。右側には浴場跡、音楽堂跡、市役所跡が並んでいる。ガイドは市役所跡で長い説明を始めた。
「紀元前2000年頃からの歴史を持つこの都市の特徴は市民が、実権を持つことで、あのアレキサンダー大王も市民の要求を受け入れ、アルテミス神殿の復旧を行う。有力市民は町の発展。維持のために経済的努力を惜しまず、市民はその功を称えて親子の像を建立したのです。上水道だけでなく、下水道も完備していてこの側溝は下水道のものです、」と。

大理石が敷き詰められた道をトラヤヌス神殿前まで下ると、神殿の道ばたに浮き彫りされた女神像の大理石が置いてある。誰かが、「この女神像は最初からここにあったのですか」と素朴な質問をする。即座に、「いいえ、神殿の柱の上にあったものです」という返事に一同哄笑。仲間意識が生まれる。
    
            
  ドミティアヌス神殿前の女神像(レリーフ)          ケルスス図書館

街のメイン通りの名はクレテス・ストリート。入り口にはライオンの頭を付けたヘラクレス門。左側は工事中で目隠しの塀が高い。その先にオクタゴン(八角堂)と、ビザンティンの泉。右側にはトラヤヌスの泉、ハドリアヌス神殿、スコラスティキア浴場、公衆トイレと目まぐるしい配置。(公衆トイレは市民の交流の場で、座って用を足しながら語り合うというのが古代ローマの公衆トイレ。落ちた排泄物は溝を流れる水で流される下水方式)。このトイレは遊郭の一部分にあったようだ。ローマ人の遊び好きはあのヴェスヴィオ火山の噴火で埋まったポンペイの街の遺跡にーでも名高い。

この道が右折した角、外側(海寄り)のケルスス(古典医学の権威者・医学論)図書館がある。大理石の建物は現代でも使えそうな感じ。アレキサンドリア、ペルガモンに次いで当時世界3位の蔵書を誇ったという。図書館の南は下のアゴラがあったという。この通りはマーブル・ストリートで、アルカデアン・ストリートが左折するところにに大劇場がある。使徒パウロが幾度か演説した大きな野外劇場だ。私たちは北入口(下門)といわれる場所を出て、バスに乗った。

                
  野外劇場(遠望)                            舞台で説明を聞く仲間たち

ミレト(ミレトス)

「そこから出帆して、翌日キヨスの沖合いにいたり、次の日にサモスに寄り、その翌日ミレトに着いた」(使徒行伝20章15節)。このミレトでエルサレムへ集めた献金を持っていくパウロが、3年間一心に宣教したエフェスの人々に別れを告げたくて、エフェスに迎え人を送ります。彼の別れの話は20章18節から35節までにルカが収録しています。 エフェスからミレトまでバスでは1時間足らず、その時代の陸路はどれぐらいかかったのだろうか。

バスがミレトの大きな野外劇場が見渡せる広場に着くと、現地の人が2,3人近づいてきた。広場の先の道路を挟んで野外劇場がある。2万5000人収容というから巨大なもの。添乗員がチケットを買ってくるのを待って劇場へ向う。舞台に通じる外壁に造られているアーチ型の門をくぐると観覧席の中心に赤地に黄色の三日月と星を染め抜いたトルコの国旗が青空に、へんぽんとはためいているのが印象的。

説明は聞き流すだけで、大理石の客席の大きさに見とれた。太もものあたりまである高さ。観覧している人々の体格の良さが伺えようというもの。日本の野球場の席の高さの倍近くある感じ。最上段に登ると、通路がアーケードのようになっていて、視界が一方に限定される。そこを潜り抜けると、開放されて360度見渡せる。建築物は西南の方向に見えるイリアス・ベイ・ジャミィ(15世紀初頭の建築)だけ。ジャミィに目を凝らすと尖塔の先に巣作りをしたこうのとりが見える。しかし、パウロがエフェスから呼んだ人々に話しをした場所は分からない。古代ギリシャの会議場なのか。

ガイドはライオン湾の方面に歩み始めた。一面に枯れた大きなアザミ。ズボンの裾に棘が絡む。薄紫の大きな種の拳は棘だらけ。港のシンボルだった塔が頭の部分だけを残して埋没している。昔の繁栄はいずこ。まさに荒城。そこここに残る遺跡の説明をうけると尚、人の繁栄に空しさを憶える。北ア ゴラ跡、古代ギリシャ式会議場跡、メネクシェ浴場跡、南アゴラ跡、イオノア式柱廊と一塊になった遺跡の場の一角が初期キリスト教教会堂が建設されていたというものの、それらしい遺跡は全く見あたらない。セルジュウク・オスマンと続くイスラム教世界への変化の過程で消去されてしまったのだろう。

              
  ミレトスの野外劇場                  廃墟に咲くオオアザミ

イリアス・ベイ・ジャミィはセルジュウク時代のモスクで非常に価値の高い建造物なのだ。入口に立つ2本の大理石の柱は、基礎部分のひび割れが大きく、鉄製のバンドで補強されているのが痛々しい。窓や入口の柱、鴨居には細やかな模様が刻み込まれていて、モスクの装飾への心配りが伺える。しかし、このジャミィをジャミィとして用いる住民は皆無といえるようだ。土産売り場や、チケット売り場の人々は別のモスクに集うらしい。セルジュウク朝のジャミィを出て、バスまでの10分は埃道で長い。3、4軒の土産物屋の呼び込みがうるさい。

             
  イリアス・ベイ・ジャミィ                  ひび割れて補強された門柱    


バスの乗ると今度はメドゥーサの首で有名なディディム(ディディマ)へ向った。アポロン神殿は車内からの観光。石という石が巨大な大理石。石の文化どと痛感させる遺跡群。メドゥーサの首もその一つ。顔の中央部分がひび割れしているが、全体はそこなわれてはいない。困惑さと怒りを込めたような容貌はどこか懐かしさを感じさせる。彫刻者は自分のワイフの怒り顔をモデルにしたのか、などと、礼儀に反した空想を誘う表情だ。


5 ポドルムとバムッカレ (5日目)

ボドルム

前日ミレトからディディムを観光して宿泊はボドルムのカリア・プリンセス・ホテルだ。ボドルムの海岸線を走っているとき、ガイドが野外劇場の前でバスを止め、下車するように促した。バスを降りると目の前は野外音楽堂、ミレトほど大きくは無いが整備が行き届いていて今でも使えそうだ。バスを止めた道は高速道路のようだがそうではなさそう。ガイドはトルコの交通状況を説明し、車道に出ないように注意した。私たちが下車した場所は車道なのだが。野外劇場の前には鉄柵が設けられていて立ち入れない。反対側はエーゲ海だ。

ボドルムの旧名はマウソレイソン(マウソロスの霊廟)があった地で歴史の父ヘロドトスの生誕地だという。「イるカに乗った少年」の原作はイタリア公演の成功で大金を得たでアリオンという歌手が、帰国のために乗船した船の中で、乗組員の悪略で命からがら飛び込んだ海で、アリオンの歌に聞きほれたイルカに助けられて船よりも先に、無事ギリシャに帰り着いたという、ヘロドトスの「歴史」第一巻に出てくる話なのです。彼の「歴史」は9巻に及ぶ大作で、その史実は現代でも無視できないものと評価されているようだ。

翌朝ボドルムのヨットハーバーと十字軍が建造したボドルム城へ案内された。ハーバーには林立するヨットの帆柱。岸壁では釣り糸を垂れる男がいた、同行者の一人が声を掛けると、手元の網を上げ、釣った小魚を見せてくれた。大人の手のひら位のもので、名前を言ったが聞き取れなかった。

           
  ボドルム城                       ボドルムのヨットハーバー 

ボドルム城はハーバーを囲みこむ岬にある。ハーバー全体を見下ろすような所で、別名は聖ペテロ城といい、15世紀初頭に病院騎士団が建造したものだという。現在は水中考古学博物館でユニークな展示物があるらしいが入場する時間は無かった。

ボドルムからバムッカレへ向う時、一人の同行者が不明になり、探し出すのに30分掛かった。両替で時間が掛かり、一人になり、バスの所在地に到着できなかったのだという。

バムッカレとは絹の城という意味で、カルシュームを含んだ熱いミネラルウオーター(温泉水)が崖上の古代都市ヒエラポリスの東南地点の崖に流れ出し、崖全体が石灰石のように見えるので付けられた名だ。水量が年々減少しているのが心配の種だという。

ヒエラポリス

海岸の町ボドルムからバスで3時間半延々と続く麦畑の中を走ったバスが着いたのは正午過ぎ、まず昼食。昼食後乗車したバスは10分も走らないうちに、ネクロポリスという古代の共同墓地の真ん中を通ってドミティアヌスのアーチ手前の広場に到着した。近くにはローマ時代の浴場の遺跡もあるが、印象は薄い。ドミティアヌスのアーチの足もとで説明を受ける。トイレだったといわれた場所と古代教会とが重複してあったという説明が、何かピーンとこない。アーチは古代都市の中心部ななっていて、そこから整備された街路(フロンティヌス・ストリート)が始まり、左手に廊柱が並ぶ。ゆるやかな丘の斜面にはそこここに、大理石の遺物が点在し、その先はアゴラ(集会広場・市場)の広場がある。30分の自由時間ではヒエラポリス遺跡の全部はとうてい見学して廻れない。1日必要だといわれている広さなのだ。

          
  ヒエラポリスのトラヤヌス皇帝門               門に続く古代教会跡 (手前巨石部分) 

バムッカレ

 バムッカレはヒエラポリスの丘から歩いて2,30分も掛からないだろう。乗って移動を始めたバスは広い駐車場に到着。

目の前に大きな建物があり、それはローマ時代の浴場を利用した博物館だという。バムッカレといわれる世界遺産の石灰棚は博物館のすぐ南側下手にある。全景をみるには、手前から市街地方面に下る丘の斜面へを幾分下った所にポイントがあるという説明を受けた。

            
   バムッカレ(石灰棚)                   石灰棚で美女の記念写真     

展望をすませてから、石灰棚に足を入れる。下足番はいず、設備も無いので、靴は自分で管理しなければならない。石灰棚は幾つもの層になっている。日本の棚田を想定すれば良い。幾層にもなった棚田はプールのようになっていて、子どもや婦人たちが水着姿でカルシュウム温水の中をはしゃいでいる。片手に靴の入ったビニール袋を持ち、片手にカメラ、背中に小型リュックという姿では、水着になる意味がない。ヌルヌルするプールの中に入り、滑らないように足を運ぶ。2つの石灰棚のプールを歩いて後は乾いた畦(あぜ)を歩く。滑らないように。博物館の南側の丘側面が石灰棚になっていて、上部の巾は1キロメートル位か、下方へは4,500メートル?大きなナプキン状に石灰棚が展開している。途中で白人女性2名が水着姿で記念写真を摂り合っていた。


6 アフロディシアスとクサントス (6・7日目)

アフロディシアス

アフロディシアスはパムッカレからボドルムへ戻るような感じになる。地図を見て、コウスを念入りにチェックしておけば、紀行文をかくときに楽なのだがなどと+一人で納得している。バスでの移動は1時間半でエフェソスよりも人気があるというアフロディシアスに着いた。人気の秘密は古代都市(ポリス)の遺跡が正確に保存されているということのようだ。1キロメートル四方に満たない土地の中に、ポリスの機構を示す夫々の遺跡が残っているからだ。見学者はルートに沿って歩けば、納得できよというもの。

入場券を渡されて入ると右手に、発掘した古代の石棺が展示されている博物館の芝生の庭が目に付く。垣根も古代の遺跡の発掘品のように見える。左手には茶菓で喉を潤せる休憩場やトイレ(このトイレの男女別を示す表示は古代人男女を描いていて人気がある)がある。そのならびの大きなプラタナスの脇の建物は未整理の発掘品置き場のようだ。

            
  男子用トイレの標識                     博物館入口前に置かれた石棺  

博物館の見学は最後にして、こじんまりとした野外劇場た支柱が並ぶアクロポリスに行く。その奥にはギムナジウム(体育館)がある。支柱の群れろ低い角度から、仰ぎ見るようにして、カメラを構えると紺碧の空とマッチして美しい。アクロポリスを下って進むと古代修道教会の遺跡があるが、ブリキやシートで囲われていてカメラを向ける気にならない。道が右に曲がる手前にマルティリオン(マルティリウム)といわれる殉教記念館がある。

             
  古代教会跡                       アフロデーテェ神殿

ハドリアヌスの大浴場の手前にティベリウスの柱廊(関門)が並ぶ。その先の二股道は司教館で前がオデオン(音楽堂)だ。司教館の屋敷内に石榴(ザクロ)の赤い花が綺麗だ。置くの原っぱの先の大きな競技場(3万人収容のコロシアム)がある。野原のような地域を出口に向って歩いてくるとアフロディーテ神殿が無傷で残っている。置くにはこのアフロディシアスの遺跡発掘責任者ケナン・エリムの墓がある。

博物館は目を見張る出土品ばかり。30分や1時間の見学ではとても堪能できない素晴らしさだ。館内は撮影禁止なのに私は気づかず撮影してしまった。貴重な写真を紹介してようものやら。この後、近くのレストランでトルコ風のピザを食べたようだが記憶に残っていない。

             
  博物館内に展示されているレリーフ               博物館外庭の石棺群    

昼食後4時間半ばすに揺られてカルカンへ。車中から時たま見え隠れする地中海は水がとても綺麗だ。海岸線を走る高速道路はまだ建設中の所もある。海沿いの崖を切り開いて道路を造ったらしく、道脇の崖の岩や海岸の砂浜の色が綺麗だ。トイレ休憩をした場所から、崖下の海に遊ぶ幾組みかのカップルが目に入る。

カルカンは人気のある保養地らしく、新築工事中のホテルが目に付くが、道が狭い。大型バスが路上ですれ違うことな殆ど不可能。ところどころに退避用の空き地がある。大抵はカーブしている所だ。ホテル名はクラブ・クサントス。大型バスが通れるのというような細い道を直角にカーブしてはしる。対向車は退避場でバスが行き過ぎるのを待つ。ホテルの前にバスを着けるときが見物だった。ホテルの玄関は道路から直角に曲がってバスの車体ほど奥まったところにある。玄関前は巾6メートルあるかないか。運転手ノクールエさんは私たちを下車させずに、玄関前にバスを乗り入れた。皆の拍手を受けて彼は赤らめた顔をほころばせた。


カルカンのホテル入口のトルソ

翌日はクサントスからサンタクロースの町カレへ。 ロンリープラネットの自由旅行ガイドによれば、地中海西部というこの沿海地方は、1970年代までは、牛、馬、ロバなどの荷物を運ぶ動物しかおらず、そういう動物に揺られるか、四輪駆動車ぐらいしか行けない場所だったという。このガイドではクサントスの世界遺産は紹介されていない。日本での初版第一刷は2004年1月(但し原本は1985年7月初版・2003年3月8版によるとある)。私の記録でも捜すのが困難なのでサンタクロースの活動したカレ(デムレ)の町へ行こう。この町は全泊地カルカンから約50キロメートル東に寄った港町で地中海沿岸の高速道路を飛ばせば3時間でトルコ第三の都市アンカルヤに着く。

カレ(聖ニコラス=サンタクロース)

聖ニコラス教会の横は公園(昔風に言えば、アゴラ)のようになっていて、広い駐車場には大型バスは十数台並び、観光客が溢れている。昼食を先に済ませるというので、予約のレストランへ案内されるが、レストランの前に観光バスが2台止まり、同じような観光グループを降ろしている。まぎれずにガイドの後を追うのがしんどい。

聖ニコラス教会は司教館(3世紀に建造され、1043年に修復され東方正教会のバシリカになる)で、外見はさほど大きくは感じないが、内部に入るとかなり大きく感じる。照明が弱く、フラッシュ撮影は禁じられているので、私のDVDカメラも余り役立ちそうもない。4世紀の迫害で殉教した(343年)彼の棺桶が安置されている場所は無照明なので、撮影は出来ない。壁面に残るフレスコ画や、モザイクタイルの床は、大勢の観光客に踏まれ、触られているにもかかわらず、まだ鮮明だ。しかし、保護を考慮した対策が求められるであろう。(イスラム教徒が大半のトルコでは対策が考慮されるか疑問だが)。

           
  聖ニコラス教会の床モザイク                    聖ニコラス(サンタクロース)像   

サンタクロースはトルコ語でノエル・ババ。この伝説は4世紀のカレで始まった。キリスト教の司教、後の聖ニコラスが、結婚持参金のない村娘たちに匿名でプレゼントを贈ったのだ。彼はコインの入ったバッグを煙突から落とし、その”天からの贈り物”で、村娘たちは嫁いでいけた。(ロンリープラネットの自由旅行ガイドより転記)。


アンタルヤ

 「アンタルヤは最近成長過程の大都市、トルコで3番目に人口が多いが、市当局は正確な人口掌握ができていず、現在は推定1千万人から1千200万人ではないかと言われている」とガイドの説明。「生活が困難な近郊農業地の人達が、就職口を求めて流入しているのだ彼らは都市生活を可能にする技術を持っていないので、就職できずに、野宿者になる人も多いので、治安が心配されるようになっています」と補足説明。

この街の名所はローマ皇帝ハドリアヌス(在位117〜138年)の記念碑(門)、高さ38メートルを持つイヴリ・ミナーレ(尖塔)、カレイチと呼ばれる旧市街などが見張らせるカラアリオウル公園が名所。 公園からホテルへの道筋にあったネムの街路樹が花盛りで美しい。地中海に面した古代都市アッタレイヤという古名だという。今日明日2日間の宿はアウグストス通りのジェンデル・アンタリヤという高級ホテル。

           
  ハドリアヌス門の歴史を思わせる轍痕                   街路樹ネムの花

ホテルの各部屋から白砂のビーチが見渡せるという豪華さ。アンタルヤの港は地中海沿岸の貿易港で、盛んな交易で賑わう。海だけではなく、空港も繁盛。1960年代からの爆発的な観光ブームで、街の発展は凄い。 街中の公園に滝があり、公園でのアイスクリーム売りが餅のように粘るアイスクリームを自慢している。

            
   クルシュンルの滝 (デュデンバシュ公園)            滝のある公園のアイスクリーム売り


7 ペルゲとアスペンドス (8日目)

ベルゲ

ベルゲとアスベンドスはアンタルヤ到着んも翌日に行われたオプションツアーだ。古墳、古墳そしてまた古墳という古墳尽くしのツアーだが、見飽きない。歴史の知識が殆ど無いのだが、日本とは桁数の違う古代の遺跡なので、見飽きることがない。個々の遺跡の歴史への興味がこんこんと湧いてくる。

ペルゲはアンタルヤの東方15キロメートルの所にある。ヘレニズム期の門とローマ時代の門があり、市街の中心の構築された水道設備は凄い。遥か南のアクロポリスから引いてきたという水道が街の中央に流れ、両脇の市道が走る。左側の城壁に沿ってローマ時代の大浴場があり、右側は支柱の外にアゴラや商店がならぶ。ガイドはアゴラの脇にある大きな大理石は肉屋の看板だと教える。

           
  市街の中央に敷設された水道               肉屋の看板 

私が驚いたのはローマ時代の門とヘレニズム(ギリシャ)時代の門の間に初代キリスト教の教会堂(ユダヤ教のシナゴーグ跡か?)があり、それはパウロの第一回の伝道の後に建てられたもの でわないかと考証されているという説明を聞いたことだ。思わず「パウロが」と口走った。ガイドは「はい、そうです」と頷く。「パウロの第一回宣教の第一声がここでねぇ」と、来る前 に、使徒行伝のパウロの伝道旅行をじみちに調べておかなかったことを悔んた。

ペルゲの遺跡の真ん中あたりで、土地の婦人が2人、手編みレースの土産店を開いていた。小さな花瓶敷を数枚購入した。なにせ、パウロの世界伝道第一声が発されたペルガなのだからと理屈を付けて。

            
  アゴラ(市場)の通り                  手作りの土産を拡げた婦人  

遺跡の入口に土産物やコーヒーなどをサービスするショップがある。チャイをくださいと店の人に言うと、自動販売機にあると説明された。2台の自動販売機が並べて設置してある。ガイドも来て、チャイを飲み始めた。私は入口で拾った丸い小石を見せ、こんなに丸いのは川か海が近いのと聞く。「海はすぐそこですよ」とガイド。聞くまでもなかったことなのだ、ペルゲは港町なのだから。(口語訳新約聖書ではペルガという地名になっている)。大型バスで要所要所を巡り歩くから、土地土地の地形や地図が記憶されないのだ。

アスベントス

アスペンドスはペルゲの東32キロメートルにある。ここの見どころはローマの5賢帝の一人、マルクス・アウレリュウス皇帝(在位161〜180年)の時代に建造された1万5000人以上収容する野外劇場だ。それは現在も使われていて、見学に内部へ入ると翌日から行うコンサートの準備中だった。巨大な劇場の全景を写すには、近くに居すぎる。近所にローマ時代の水道橋もあるらしいが、見学コースには入っていない。売店でチャイを買い、木陰にあるベンチで、喉を潤す。それにしても熱い。今日は6月10日。木陰の涼しさに救われる思い。

          
  アスベントスの野外劇場(外観)                 現在も使われている野外劇場(内部)

午後はアンタルヤに戻って市内観光。昼食後、最初に案内されたのはクルシュンルの滝。広い自然公園の中にこんな場所に滝があるなんてと、首をひねるような所に滝があった。次がはアタテュルク像のある広場(ジュムフリエット広場?か)。ここはカレイチと呼ばれる城内を見はらせる広場だ。カレウチの後ろの丘を平らにしたような場所で、城内から海までが見渡せる。左手下方向にイヴリ・ミネーレがあり、その周りに古めかしい家並が続く。公園の南側は開けた近代都市で、幅広く、交通量の多い道路。街の目抜き道路のようだ。

広場のアタテュルク像の脇の坂道を城内へと降ると、右手に統治者中の統治者の名を持つテケリ・メフメト・パシャ・モスクがある。入口前にモスク入場者が身を清めるための丸い泉水があり、周りは木立に囲まれている。左手は古い市場で古美術品や、伝統的な郷土人形(民族の家庭を模造した)が、現代の商品と同列に並べられている。その人形に一家に混ざって記念撮影ができるようになっている。サービスの行き届いたマーケットで、観光客の私たちにチャイやぶどう酒をサーブスしてくれた。私は買うのを諦めた昔のイコンが30ドルから50ドル位の価格で展示されていた。

            
  オールド・マーケット入口                  古美術店に展示されていたイコン

ガイドはイスラム教徒なので、この古いモスクの説明を含めて、行われていたミサへの参加を勧めた。モスクの前ではバザールが開かれていて、幾台かの屋台や、古着のような衣装の売店が出ていた。ミサは約30分。次は、市場に入る。ここの説明はしたので、次の名所へ移ろう。そこはハドリアヌス門(3つの門・チュ・カラブルと呼ばれる)だ。西暦130年ローナのハドリアヌス皇帝がこの町(当時はアッタレイア)を統治した記念に建てられた凱旋門だ。昔の轍で削られたアーチの床が歴史の時代を偲ばせる。

          
  10世紀に建てられた物見の塔                 時計塔 

最後がカラアリオウル公園。ハドリアヌス門から歩いて2,30分のところなのだが、疲れていて歩くのがつらい。地中海を見下ろす高台というものの、ジュムフリエット広場ほどの高台ではないが広い。コンクリート舗装された公園敷地が私の歩みを阻害する。海辺に来るとさすがに見晴らしがよく、ジェンデル・アンタルヤホテルが見えるようだ。(その実確認できなかったのだが)。クルシュンルの滝の公園で食べたアイスクリームが無性に恋しい。


8 シデ(スィデ)からコンヤへ (9日目)


シデ

シデの歴史もかなり古く、紀元前600年頃はアイオリス人〈古代ギリシャ人)の植民地で、アレキサンダー大王に制覇され、後、クレオパトラトマルクス・アントニウスが密会場所として選んだという言い伝えが残る風光明媚な町だ。

シデに来て驚いたのは古代の遺跡の真ん中を大きな現代道路が貫いていることだった。道ばたに遺跡がゴロゴロしている、アスファルト舗装の道路を大型トラックや自家用車がトルコ流儀の猛スピードで突っ走る。道路を横断して反対側の遺跡を見にいくことなぞとても出来ない。 車道も遺跡のなかに造られているという感じだ。日干し煉瓦の側壁や大理石の支柱が立っていたり、転がされたりしている。道の北側には地中海が迫っていて、青い海が見え隠れしている。ふと、文明てなんだろうなどと思ったりしてしまう。

           
  車道の脇に古代遺跡                   遺跡の真ん中を現代の車道がある  

バス移動3時間半、私たちはコンヤに到着。コンヤという街は宗教色の強い街で、飲酒は禁止。ガイドはここの市民の二重人格をユーモラスに語る。「でも市民は夜になると自家用車で郊外に出て、缶ビールを飲むんですよ。夜通しね。翌朝すまして帰宅するんだ」と。彼も割礼をうけているイスラム教徒だが、最近はジャミィに行くことは殆ど無い」と言う。

コンヤ(イコニオム)

コンヤという町の歴史は非常に古いようだ。紀元前6800年頃は近隣のチャタル・ホユクで生活共同体の存在が、4000年前のはヒッタイト人はこの町をクワンナと呼び、フルギア人はコワニア、ローマ人はイコニオムと、トルコ人はコンヤと呼んでいる。(前出ロンリープラネットより)イコニオムという名前がコンヤの旧名であると知れば、もっと自分に合った場所を探せたのかも知れない。

新約聖書に記載されているイコニオムという地名は、使徒行伝13章51節、14章1・19・21節、16章2節、テモテへの第二の手紙3章11節だ。象徴的なヶ所として初出の節を引用しよう。「ふたりは、彼らに向けて足のちりを払い落として、イコニオムへ行った」。こに記事はピシデヤのアンテオケ(アンティオキア・イン・ピシディアは現在ヤルヴァチュといい人口3万人強)での迫害を避けた記事だ。ピシデアのアンテオケ、イコニオムとその周辺でのパウロとバルナバの活動は使徒行伝13〜14章に詳しく記述されている。

コンヤで最初に案内されたのは、メヴラーナ博物館(イスラム神秘主義=旋舞教団の一派であるメヴィレヴィー教団の創始者メヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミーの霊廟だった)。博物館内に入るのも気が引けるような人出。勿論土足厳禁の霊地だ。廟内は入口を含め幾つかに区分されていて、中心は彼と息子スルタン・ヴェレドの石棺で、大きなターバンが巻かれている。メヴラーナの遺品(衣類・楽器・礼拝用絨毯など)や幾種類もの豪華な装飾のコーランの陳列室、衣装、使っていた絨毯や装飾用のものなどが区分けて陳列されている。どの区分も満員で、ガイドする人も大勢。注意を怠ると、自分のグループが分らなくなる。人いきれも強い。

             
  メヴィラーナ博物館                  装飾されているコーラン(聖典)

廟の後ろ、北側は有名人の墓標が列をなしている。その西側は別棟で、地域の歴史性のある特産物の陳列室だ。修行僧の生活を表した人形は記憶に残っていない。その後、案内されたカラタイ博物館(カラタイ神学校)だが、記憶が消えてしまっている。その晩、ホテルの近くにあるデパートに接続しているスーパーマーケットにカメラを持って入場し、店内をスナップし始めたら、店員に止められた、「店内は撮影禁止です」と。陳列方法などのスパイ行為と見なされたのだろうか。

            
  廟の後ろの有名人の墓標                 西側別室の展示品(マサカリ?)    


9 カッパドキア (10日目)

キャラバンサライ

コンヤからカッパドキアへ行く途中にアクサライという人工10万人余の都市があり、ハイウエイ沿いにあるアウズカラ・ハヌというキャラバンサライが私たちが外側観光したところのようだ。

キャラバン・サライ〈隊商宿)という言葉は私たちの心にある異国情緒を誘うのか、生涯に一度でも良いから行ってみたい場所なのではなかろうか。童謡「月の砂漠」は由紀さおりの歌唱で懐かしい。バスでキャラバン・サライへ向かう。トイレ休憩も兼ねたキャラバン・サライ見学。中には入らず外側を見るだけ。私はねばって、入口からサライの中を覗く。幾人かの人が、訝しげに私を睨んだ。外から見るサライはごつごつした城のようで、内部は内壁を利用して幾つもの部屋が造られているようだ。

                                                   
                                         キャラバンサライ(外観)                                       カッパドキア

キャラバンサライの観光を終え、バスに揺られること1時間半。ハイウエイの両側は白茶けたいろの一見荒れ野としか思えない広野になる。ハイウエイの左側に大きく割り込んだ谷間が出現する。右手は白茶けた荒野。ガイドの説明が終わってバスが止まった。谷間が見渡せる場所だ。ハイウエイの無舗装の場所から谷に降りる小道がある。少し広場のようになっていて土産物の露天が一軒ある。子供づれ夫婦の店だ。赤い民族衣装を纏った女の子は3,4歳か。愛くるしい顔で私たち一行を迎える。

「向こうの丘で働く2人の姿が見えるでしょう。おそらく葡萄畑で働いているのですよ。カッパドキアは一見荒地のようにみえますが、肥沃な土地で昔から葡萄の栽培が盛んなところで、ぶどう酒の名産地なんです。今日のお昼に試飲してみてください。ただし、皆さんのポケットマネーでと、笑わせる。

          
  カッパドキア入り口付近の露店                谷向こうの畑で働く2人

次に着いた所は、バスで5分とかからない場所だがハイウエイの左側が小高い丘になっている。バスが止まった所は谷に降りる人道と農道が分岐している所で、広場のような感じ。奥のほうに腹が黄色になっている岩が横たわっている。小高い丘に登ると左手方向にはカッパドキア特有の奇岩が見える。遠望だけではなく、手が届くような場所に三姉妹と名づけられた茸岩が並んでいる。皆が夢中でカメラを構える。三姉妹の側は放列状態だ。

             
  三姉妹と名づけられた茸岩                  黄色い帯状模様が入った奇岩

茸岩を撮り終えた私は黄色い腹帯をしめたような巨岩を写しに行く。バスの隣に2台の自家用車が止めてあり一台の前に人だかりがある。腹帯の巨岩を写した私は興味をいだいて、その群れに近づくと、私たちの仲間の幾人がが、その人たちにカメラを向けている。

群れの中央に青い民族衣装を着、頭に冠を被った少年がいる。ガイドがあの男の子の割礼式で、一族がお祝いに集まっているのですよ。写真を写しても良いと言っていますから、どうぞ遠慮せずにと勧めてくれた。角度がよくなかったが正面に向かうぬは気後れて、脇から写す。ガイドは自分も所y年のころに受けたという。今は殆どモスクには行かないけれどと言い訳をした。

             
  男児の割礼式に集う一族                 奇岩群の中に民家の赤い屋根

昼食時間がせまったので、洞窟レストランへ向かう。石段を降りた右手にレストランの入口があり、左手は別棟の土産物売り場になっている。レストランは天井が低いが席は50ほどもありそうだ。人の手のひらのような感じで、テーブルが放列状態におかれ、テーブルを囲むように岩に座席が掘られている。白壁に絨毯は色が濃い赤。掌の真ん中が配膳部分になっていて、オーナーとウエイターが2人、コックも1人いた。ウエイターもコックもオーナーの息子たちで、年下の少年じみた息子は高校生になったばかりという年頃。ガイドが「今は期末休みなので、オーナーがウエイターの訓練をさせているのですよ」と説明する。その息子はおぼつかない手つきで、注文を聞き、ワインカップを揃えた。ほほえましい。

昼食は美味だが食べたりないような分量だった。人より先にレストランを出て、土産物店へ足を運ぶ。店員が軽く頭を下げる。私は見回して手提げをさがしたが、店の中には置いてない。入口に戻って展示棒に吊るされた手提げから絨毯に使われる模様の物を選んだ。これは、それまでビニール袋に入れて持ち歩いた分骨の壷と小さな写真を入れるためだ。みすぼらしいビニール袋に入れられたまま、トルコを観光するのは、家内は小言を言うだろう。


次に向かったのは見晴らしの丘。谷間に下り走るバスから見える景色は塔のような岩に群れ。大部分の岩には人家の入口のような形の大きな穴が明けられていて、洞穴になっているようだ。窓のような穴が見あたらないのだが。採光はどうするの?と素朴な疑問が湧く。幾つもの洞窟を備えた巨岩、岩の崖が折重なるような所に道があり、乗用車とトラックが走っている。現在も60%の洞窟が住居として使われていますというガイドの説明に納得する。

見晴らしの丘は360度の展望がきく。しかし、興味を引くのは東から南にかけて。西から北は山腹で展望は無い。でも、展望がきく方向は素晴らしい。奇岩や洞窟を持ったとんがりの巨岩。その向こうの山腹には赤い屋根の民家が群れを造っている。私たちが被写体を見極めていると、運転手のグリレエさんがナツメヤシの干した実を持ってきて皆に配った。シコシコと甘い。リンゴやなつめの干物よりもコクがある。歯ざわりはいもかち(茹でたさつまいもの干物)のような感じだが味はネットリとしている。油分が多いのだろう。

この展望の丘には2軒の土産物店がある。東側の店は地元の産物。西南には飲み物とか干物、食品の売店。私は東側の店に入った。入口は崖寄りのある。入ると目についたのが、西南の隅に積まれたセーターの山。まさかカッパドキアで、捜していたセーターを見つけるなんて、観光中は諦めていたのが、旅行前にことによるとカッパドキアは所謂、観光都市ではないので、素朴な土産を見つけるかも知れないという思いがあり、それが現実になったのだ。

極太の毛糸で編んだ白いカーデガンと、同じような極太の毛糸で緑地に白の柄を編みこんだサーターを探し出した。店員が100ドルというのを、8おドルに値切った。交渉を見ていた同行者がわぁと囃し立てる。黒いビニール袋に入れたセーターとカーデガンはかなり嵩張って、持ち歩くのは大層不自由になる。考えた末、旅行中はバスの網棚に載せておくことにした。運転手のグレエレさんにお願いして了解を取り付ける。その時はこの買い物が失敗の原因になるとは思わなかった。

展望の丘での一時が終え、別の見晴らしの場へ移動すると、観光用のらくだとつれた土地の男性がいる。名古屋から参加した中年の女性2人が旅の土産話にと乗ることにした。カメラを廻して、乗るところ、降りるところを撮影したが、2人の了解を得ていないので、写真をサイトには載せられない。カッパドキア地域はとても広い。

カイマルクの地下都市

バスに戻ると今度は地下都しに向かう。地下都市は8層まであるが見学できるのは5層までという。それに、構内ではフラッシュ撮影禁止になっている。入口を内外から撮影してみたが、公開できる代物ではない。狭い通路や足が滑りそうな階段を上り下りして30分。体中が汗まみれになり、低い天井にぶつけた頭が痛む。帽子をかぶっていなければ、傷ができただろう。

                 
  カイマルク地下都市入口(内部から)                地下都市内の教会跡(看板のみ)

地下都市は幾つかあって、相互に地下道で結合していて、地下道の全長は50キロメートルに及ぶという。各フロアーには、食料庫(納戸)に使った竪穴や横穴が掘られ、竪穴には転落防止の格子状の蓋が付けられている。何万人もの人が此処でで生活をしたのだ。それも幾百年の続けて。地上の洞窟住居は現在も住居として60%もが使われているという。

カイマルク地下都市の見学を終え、岩窟住居へ行く前に案内されたのが絨毯工房。工房では絨毯の直売の行っている。まず、数人の女性が絨毯を織り機で織っている工房に案内され、説明を受ける。絨毯の展示室へ行く途中、。生糸を紡いでいる工房に案内されら。そこでは男性が生糸を紡いでいた。展示室ではチャイを振舞われながらの説明会。4、50万円の絨毯の買い付け交渉に入った夫妻もいた。

            
  絨毯を織る女性                   大きな絨毯

岩窟住居体験

その次は洞窟を住居にしているファティマさんの家に向かう。曲がりくねった道は家からかなり離れた場所でバスを下車することになった。坂道を10分も登ったのだろうか、やや広く舗装された農道から左へ入る小道がある。小道に入ると動物特有のにおいが漂ってくる。行く手右側の崖に洞穴が幾つかあり、その一つが牛舎になっていた。柵の奥、薄暗いところで思いがけぬ大勢の人間の訪れにおどろいたのか、牛が一声啼いた。

ファティマさんの住居はさらに50メートルほど奥を左に曲がった所にあった。崖の中腹の洞穴だ。家の前には畑がつくられている。野菜畑だ。山羊の小屋もある。添乗員が太ったおばさんと挨拶している。そのひとがファティマさんだ。彼女は私たちに部屋に入るように勧めた。40人がどうにか入れる部屋の広さ、20畳位か、平米にして60〜70。壁際3分の2は腰掛けられるようになっている。壁は漆喰塗り。出入り口は1っ箇所。寝室は外階段を上がって2階。

            
  岩窟住居のファティマさん              根本の方に岩窟住居


上の娘さんには3人の子供、ファティマさんには孫にあたる。一人は生後半年余りの赤ちゃん、その赤ちゃんを姉さん孫が庭で子守をしている。私たちに挨拶したので、この家族は来客に慣れているようだ。皆が部屋に入るとファティマさんが、娘たちにチャイと手作りのケーキをサービスする。チャイのグラスも揃いの柄。観光客の訪問を予定に入れての準備だということを伺わせる。しかし、現在も生活の場として使われている洞窟を体験できることは素晴らしい。

表に出ると庭には質素なテーブルが2脚、手作りのネッカチーフやハンカチーフが並べられている。チャイやケーキのサービス代が土産の売り上げで稼ぎ出せるということのようだ。ファティマさんは町役場に勤め、英語フランス語もある程度仕えるという。ご主人は定年後地域活動に力を注いでおられるとか。就職難が伝えられるトルコでは安定した生活をしている様子。

バスへ戻ろうと庭先を歩いたとき、「この奥にキリスト教教会」という小さな板の案内板が目に入る、現在礼拝や集会が行われているという。カメラのバッテリーが上がってしまい、写真は写せない。バスに置いてきたリュックの中だ。残念だが訪問は諦める。宮司の息子が後ろから声をかけてきた。「あの女の子、ほら道端の」と。指さすほうに、小学校高学年位の女の子が私たちに向かって歩いてくる。「プリーズ。プリーズ」とたどたどしい英語を口にしながら掌を重ねて差し出す。「何かあったらあげようよ」と宮司の息子。私は手下げから、コンヤのスーパーマーケットで買ったゼリーの袋をとりだして少女の掌に乗せた。「タンキュ・タンキュ」と言葉を残して彼女は分かれ道にもどった。少し歩いて振り向くと、私たちのべつのグループな近づいて、物乞いをくり返していた。

宮司の息子が「私は中国に植林するnpoに参加していて、20年以上前から中国に出かけています。僻地のような場所に日本のNPOの私たちが行き、現地の人たちと植林をするのですが、1度に沢山できるわけじゃないですから、同じ場所に幾度も行くよになります。すると近くの村落から子供たちが出てきて物乞いをするんですよ。やらないようにとはするんですが、つい情にほだせれてやってしまうんです。それが旅重ねると、貰うのが当たり前という状況が生まれてしまう。これは悪い現象なのですが、観光地要素は強まると裂けられない現象なんでしょうか」と口をこごもる。

ギョレメ

この日の最後の観光地はギョレメ。しかし、時間がないので、一番近い、巨岩に掘られたキリスト教の洞窟教会を観光する。手前の入場券売り場の所で、ガイドの説明を聞いていると、土産物売り場の売り子や案内人がうるさく付き纏う。手作りの石に刻んだレリーフや、像を買えとうるさい。買わずに入場すると「ケチ」と日本語で聞こえよがしに言う。奥の左手にある洞窟教会へ向かいながら、宮司の息子が「ほら、今の売り子の汚い言葉。あれなんですよ、さっきの女の子の場合も、旅重ねるとああなっちゃうんえすよ、僕は中国でいやになるほど経験しました」という。僻地の観光弊害とでも言うべきなのか。

洞窟教会は茸型奇岩に造られている。梯子を登らなければ入れない。入った部屋が礼拝堂で壁にフレスコ画が描かれているが、損傷が酷く、絵の内容が分からない。照明もないので、写真撮影には不向きだ。しかし、観光の対象としては見事だ。奥にも部屋があり、明り取りというのか、日本家屋では掃き出しとでも言えそうな大きな開放部分が前後に開いている。木造の階段を引き上げれば外からの進入は困難だ。敵の襲撃を考えるとそこは要塞にもなり得る。しかし、景観だ。企画の茸型奇岩の群れが青空に聳える姿は、土蔵の家を思わせる。
  コンヤで最初に案内されたのは、メヴラーナ博物館(イスラム神秘主義=旋舞教団『踊る教団』の一派であるメヴィレヴィー教団の創始者メヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミーの霊廟だった)。博物館内に入るのも気が引けるような人出。勿論土足厳禁の霊地だ。廟内は入口を含め幾つかに区分されていて、中心は彼と息子スルタン・ヴェレドの石棺で、金刺繍の施された大きなターバンが巻かれている。メヴラーナの遺品(衣類・楽器・礼拝用絨毯など)や、幾種類もの豪華な装飾のコーランの陳列室、衣装、使っていた絨毯や装飾用のものなどが区分けて陳列されている。どの区分も満員で、ガイドする人も大勢。注意を怠ると、自分のグループが分らなくなる。人いきれも強い。

          
  岩窟教会は梯子を登って                礼拝堂の窓

  廟の後ろ、北側は有名人の墓標が列をなしている。その西側は別棟で、地域の歴史性のある特産物の陳列室だ。修行僧の生活を表した人形は記憶に残っていない。その後、案内されたカラタイ博物館(カラタイ神学校)だが、記憶が消えてしまっている。その晩、ホテルの近くにあるデパートに接続しているスーパーマーケットにカメラを持って入場し、店内をスナップし始めたら、店員に止められた、「店内は撮影禁止です」と。陳列方法などのスパイ行為と見なされたのだろう ,

           
  岩窟教会の窓からに眺め              近くの崖上の茸状奇岩       
 

トルコ紀行 その10 ボアズカレ (11日) 
               
カッパドキアを離れる前二、陶芸工房の見学。工房の主オムールさんは、トルコの代表的な陶工どというが、少しももったいぶった素振りは見せない。工房専用のガイドがいることからして、諸外国のツアーの見学コースになっているのだろう。足で蹴って回す、ロクロを片足で操作しながら、手はロクロ上の粘土から離れない。ものの5分と掛からないうちに、壷状の物が形づくられる。ロコロを止め、脇に置いてある粘土を取り分けて、手で棒状に揉みのばすと、ロクロの上の壷に取り付けた。今度は糸を両手で張り、壷を切り離す。水差しだ。

            
  陶芸工房 ロクロを回すオムールさん                     私が買ったコーヒーカップ

絵付けは若い男女が隣室で行っている。薄暗い部屋なのに、彼等は明るさは意識していない。時々、私たちに目を向け、細い筆を動かす。見物されることに抵抗はないようだ。ガイドは説明を終えると、作品の陳列、展示部屋に案内する。コーヒーカップやチャイカップが机上や、飾り棚に、所狭しと並べてある。壁には絵皿が無数に架けてある。写真入りかと目を見張るような絵皿が幾枚か並んでいる。

コーヒーカップを取り、裏を見ると30という数字が入っている。この数字は何と聞くとドルでの値段だという。受け皿とセットの値段だ。他のには45と書いてあるものもある。絵付けの模様が30ドルのものより、手が混んでいる。「高いな」と心中に呟く。「半値なら買う」と呟くように言うと「はい、分かりました」と即、梱包を始めた。1セットしか買わなかった。なにしろ独り身なので。

表に出ると雲1つ無い青空、ギラギラとした太陽が照りつける。バスがターンして位置を決め、運転手のグルエさんが降りてくる。長いベランダには黄色と赤の大きなバラが咲き誇っている。角になっているところに、夾竹桃が赤い花を満開にしている。庭には細かい砂利が敷かれていて、紺碧の空と対極をなしている。日向の暑さもベランダの庇の下では汗が引いていく。

バス移動3時間。ボアズカレに到着するとすぐにレストランへ。野菜と肉の煮込みのランチ、ボリュームが少ないという感じが残る。一休みしてからヤズルカヤを見学する。列を作って並んでいる12神像が有名だが、岩に刻まれた彫像は小さい。1つの像の大きさは50センチメートル足らず。全体の横幅は2メートル位か。ガイドのサイトさんの説明が長い。 12神像は東向きなので、午後の太陽光は撮影に不向きだ。

              
  ヤズルカヤの12神像                            巨岩の間に見る)紺碧の空

12神像が刻まれている岩の前の道は右に大きくカーブしている。12神像の刻まれている大きな岩に向き合うような巨岩を取り巻く感じに。その向こうも巨岩。道は巨岩の間を縫うように延びている。右側の巨岩にも神像が幾体か刻まれていて、12神像よりも彫りが深い。振り返ると巨岩の間、割れ目のような部分では紺碧の空が見える。道が急に細くなって、先へ進めるのかおぼつけない。そこも巨岩が向き合っていて、左側の巨岩の中腹になる部分、高さ3メートル程のところにも神像が2体、間隔をあけて刻まれている。ここはヒッタイト民族の神殿のような場所なのだろう。紀元前1800年頃のものなのだろうか。

                                                    
                                12神像の反対側の巨岩の彫像              

聖書にヘテ人と出て来る人々がヒッタイト族なのだ。ヘテびとに係わる幾つかの記事を引用しよう。創世記25章9〜10節「その子イサクとイシマエルは彼をヘテびとゾハルの子エフロンの畑にあるマクベラのほら穴に葬った。これはマムレの向かいにあり、アブラハムがヘテの人々から買い取った畑であって、そこにアバラハムとその妻サラが葬られた。」

ヨシュア記1章4節「あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう」。

サムエル記上26章6節「ダビデは、ヘテびとアヒメレク、およびゼルヤの子で、ヨアブの兄弟であるアビシャイに言った、「だれがわたしと共にサウルの陣に下って行くか」。

わき道にそれるが、年代考証を若干、アブラハムは紀元前18世紀頃、ヨシュアはモーセの後継者で出エジプトが紀元前12世紀頃、ダビデが王位に付くのは、紀元前1000年前後頃と推定されている。

いずれにしても、ヘテびとと呼ばれる民族とアブラハム以降のイスラエルとの交渉は続き、ダビデの信頼する部下にヘテびとがいたことは、注目すべきだ。この頃、ヒッタイトの帝国は12世紀に滅亡したというが。

私がトルコ旅行を決めるキッカケの1つは、ヒッタイト民族が鉄器を生み出したした帝国で、聖書ではヘテびとと表現されているということを、1981年の秋NHKの教養番組「鉄を生みだした帝国・ヒッタイト発掘」(講演者・大村幸弘)という番組を見たことにある。番組を見て、出演者の著書が日本放送協会から出版されていることを知り、ただちに購入した。その本のまえがきを読んで、歴史の壮大さに驚愕した。その部分を紹介しよう。

「19世紀後半に入り、ヒッタイト帝国の存在がおぼろげながらではあったが、浮かびあがってきた。エジプトのテル・エル・アマルナから出土した粘土板(アマルナ文書)のなかに、ハッティ国(ヒッタイト帝国)の王シュピルリウマという王名、そしてまたアルザワ国(アナトリア高原南部に位置していたといわれる)とエジプトのアメン・ヘテプ三世との間に交わされた書簡が含まれていた。 」・・・中略・・・

「1906年、彼(ドイツのアッシリア学者、H・ヴィンクラー)は、ボアズキョイの発掘調査に本格的に取り組んだ。・・・中略・・・発掘を開始して約一ヶ月ほどしたある日、彼の元に一枚の粘土板が運びこまれた。その粘土板はアッカド語で書かれていた。彼は、それを読み始めた時、一瞬、我を忘れた。その内容があまりにも劇的なものだったからだ。粘土板文書は、エジプトのラムセス二世からヒッタイトの王、ハットウシリ三世に宛てられた書簡で、平和条約(カデシュの戦いの後、両国間に交わされた条約)に関するものだった。ヴィンクラーは、その条約文が、エジプトのカルナック神殿の壁面に刻まれているものとほぼ同一であることを発見したのである。」・・・以下略・・・

1981年の初冬、私はこの本を購入し、読み始めたのだが、カタカナの地名が余りにも多く、略図と地名の照合に疲れて、最後まで読み終わらずに投げ出していた。しかし、序文の印象が強烈で、ハットウシャという地名が脳裏に残った。

ヤズルカヤの岩場に刻まれた神像は、ここが自然の神殿なのかもしれないと思った。ハットウシャシュ(大村氏の本ではハットウシャ)とヤズルカヤの距離は3キロメートルだという。バスは広い丘陵地帯に着く。全体がなだらかな盆地状態で、一見、芝生の緩斜面の平原で、東から北へと丘陵が走り、南は土手、その上に石の城壁。中央にはトンネルが掘られている。西方の丘陵ははるかに遠い。

                                             
 ハットウシャ俯瞰                              ハットウシャの説明をするサイトさん

大神殿の跡は土手の下だが、丘の上だ。東西に伸びる土手と城壁の長さは目測で500メートルか。大神殿跡というけれど、巨大な住居跡という感じだ。入口と説明された所にライオンの置石が1つある。昔は対だったらしいが。その脇に緑の磨かれた石がある。さらにその横に並んでいる礎石には直系3センチ位の真ん丸にドリルで開けたような穴を持っている。穴あけの方法も用途も解明されていない。

               
 現代のドリルであけたような穴を持つ礎石                  大きな素焼きの壷

  
区切られた土台が広がる、左手中央。やや下がった所に大きな素焼きの壷が2つならんでいる。今から4000年も前の遺跡なのだ。大村氏の著書によればプロトヒッタイトと目される人々が住み着くのは紀元前2500年頃だという。ヒッタイト帝国がカデシュでエジプトのラムセス二世と戦い、講和したのは紀元前1275年か6年と目され、そに史実は否定できないのだ。モーセの出エジプトは紀元前12世紀(BC1200以降)と考察されている。アブラハムの生存が紀元前18世紀(BC1800〜1700)であるとすれば、ヒッタイトの定住はすでに実行されていたことになる。

              
  ライオン門(右門柱)                          王の門と名 付けられた東門 

南側の城壁の中央部分にライオン門がある。左右の門柱に獅子頭が付いているが、なぜか左側のものは磨耗が激しい。大神殿遺跡の東側にバスが通れる巾の道があり、外側が城壁になっていて、門がある。神殿から見れば東門というべきか。門柱に塑像があり、発見当時は王像と目され、王門といわれていたが、後にその像が王ではなく、衛兵だと判明したが、王門という言い方が定着してしまっているので、呼び方は変更しないという。この遺跡の発掘は現在でも継続され、住民の生活習慣が研究対象になっているとガイドのサイトさんの説明。発掘した遺物はほとんどがアンカラのアナトリア文明博物館に収められているという。発掘現場にも瀟洒は博物館を造ればいいのにと旅行の最後 のアンケートに書いた。


トルコ紀行 その11 サフランボルとトプカプ宮殿

サフランボル
アンカラの郊外に位置するアンカラのエセンボア エアポート ホテルを7時半に出発したが市内は朝の通勤ラッシュで自家用車の通行量が多く、大型の観光バスで市内を通過するのは気が引けるようだ。やっとの思いでアタチュルク霊廟を望遠できる大通りにバスが停車、歩道橋へ登れというy。左手の岡の上に城壁が見える。

皆がバスに戻ると、道路の向こうで背広の男が左手を振っている。右手には大きな西瓜を乗せている。取りにくれば西瓜をくれると言っているようだが、誰も応じない。添乗員が大声でノー・サンキューと叫んで、バスは出発した。それからサフランボルまでは3時間半の行程。

観光バスの大型化と、観光客の増加で幹線道路の拡張工事が始まっているが、可能な場所から拡張工事を始めているという感じで、拡張工事中のところ、従来」のままの所と状況はバラバラ。予定地の買収がとどこうっている場所もあるらしい。トイレ休憩したガソリンスタンド併用のドライブインのオーナーは土地買収でゴネ得は汚いとボヤイテいる。

休憩が終わりバスが走り出してすぐ、道の脇に老年に差し掛かった女人が2人、コートをきてバスを見送っている。コートの下にも衣服を重ね着をしているようで、体つきがボテボテ、スカートの裾が幾重にもなっている。あんなに着込んで暑くないのかなぁと思う。バスはサッと通りすぎたので、初見の印象での話し。カメラを向けるいちまはない。

工事中の道路は水はけが悪く、プールのようになっていたりする。運転手のグルセルさんも徐行したり、スピ^ドを上げたり忙しそう。3時間近く走ったのだろうか、左側に見え始めた工場は規模が大きそう、5分10分と走っても工場は終わらない。するとガイドのサイトさんが「今、左手に見える工場はカラビュック製鉄所でトルコ最大の製鉄所です」と誇らしげな案内をする。皆は感心したように「そうですか」とくちずさむ。日本鋼管に勤めた経験を持つ私は何か鼻白む思い。だが、日本の製鉄業界の話を持ち出して、カラビュック製鉄所の規模をけなしても始まらない。労働者や株主、社会にどのように貢献しているかは、工場の規模で査定は出来ないのだ。

                                                                 
              ジンジ・ハマム(トルコ風呂)の丸屋根    

サイトさんは「この工場の従業員がサフランボルやその近郊に住んでいて、街に活気を与えています」と補足説明を加えた。終えるとすぐサフランボルの説明に入る。「隊商が盛んだった中世から近代にかけて栄えたサフランボルは17世紀18世紀に通商の盛んな街でした。豊になった商人たちが挙って、小邸宅を建て、現在のような景観の街になりました。近郊の農家は放牧場や丘陵地帯に群生するサフランが、香辛料、として貴重なことを知り、花を摘み、感想させて香辛料とし、生計に役立てました。

サフランの花に囲まれた街なので、サフランの街ということななったのです。1994年のユネスコの世界遺産に登録され、旧市内では家屋の改修や取り壊しには厳しい制限がありますが、改修には街からの補助がでますので、以前の状態に復元するという改修が行われています。町並みを眺めるのはフドウルルックの丘が一番良いでしょう。バスは丘の麓まで行きますから、世界遺産の町並みを楽しんでください」と説明した。バスがフドウルルックの丘の麓に差し掛かったとき、狭い道はバスから民家の窓へ手がとどく近さ。民家の窓に少女が笑顔で私に挨拶をして、顔を隠した。

                                    サフラン有りますと日本語の看板                      お店の外観(アラスタ・パザールで)

確かにフドウルルックの丘からの眺めは素晴らしい。ガイドのサイトさんは懸命に町並みの、個々の建物の説明をするのだが、カメラの操作に気を奪われている私の耳には、言葉が素通りするだけ。彼が指差す建物がどれかが納得できた人は彼の両サイドにいた人たちだけだろう。「あれがジンジ・ハマムです、ハマムがある場所はチャ リュシュ広場で、そこにはバス乗り場もあります。私たちのバスもそこへ行きます。ホテルに荷物を置いてからレストランに案内します」と説明したが、ハマムって何?と聞き返すのも煩わしい。    

             
 フドウルルックの丘から展望                       サフランボル。宿泊ホテル(9棟の1部)

カディオール シェフザーデというホテルは9つの建物に分かれていて、34人と添乗員、ガイド、運転手総勢37人が別々の建物に割り振られた。私は2号館の2Aという部屋だ。浴槽はないが、推薦トイレの扉の前がシャワー室になっている。トイレが水洗で一安心だ。湯船には一晩入らずとも、シャワーで汗が流せればよい。玄関のポーチの椅子に座って建物の作りを眺める。柱、梁は皮を剥いた原木が使われている。基礎は石だ。コンクリートなどは使っていない。ポーチの床も石が敷かれている。素朴な感じが好ましく思える。

            
 道ばたの遺構に腰掛けているオーナー       石畳の商店街で観光客を見つめる子らの娘たち

食堂はホテル直営らしく、通りに面してはいるが、面している部分は民家同様なので、表からはレストランだとは判定できない。中庭に向かって入口があり、室内は明かりが弱く、階段を降りてくださいといわれて、レジの横の階段をおりる。地下室とでもいうのだろうか。サフランボルという街全体が小さく、家々が丘に張り付いている感じだ。レストランが1階と地下に分かれた部屋を作ったのも、土地の狭さという条件下の苦作だろう。

昼食後、チャルシュ広場に集まって、夕食まで自由行動という説明を受ける。狭い街とはいえ、タクシーを拾うわなければ行動範囲は狭い。言葉が不自由なので、タクシーの利用は断念する。同行者は皆近くのアラスタ・ バザールと呼ばれる商店街に散っていった。道という道は総て石畳である。家々が込み合っていて、隣同士に橋のようなもので連結している所が幾つも眼についた。 」

            
 隣同志に連絡橋が掛かっている民家                 連絡橋で繋がっている民家

チャリュシュ広場の上にある公園での出来事は「チャイと緑茶」という拙文ですでに紹介しましたので、記述は避けるチャイを飲み終わってからは狭い石畳で、交錯する小道の写真を取りまった。この夜、ガラス窓から月光が差し込み、夜半過ぎまで寝付かなかった。旅の終わりに近づいているので 寝不足は気にしない。

             
 石畳と石塀の小道                             1度もモアヅィンが聞こえなかったミナレット

トプカプ宮殿
サフランボルから4時間バスに揺られてイスタンブールの到着。昼食が漁港を眼に前にしたレストランだ。客が着席してから人数を確認して、料理に掛かるという手堅さ。ドネルケ バブという著名な料理らしい。ムール貝をスープに泳がせて 付けしたような料理だった。味は良いが1テーブル4人掛けで料理1皿なので、量不足は覿面。有料のワインやビールを追加して飲んでも腹の足しにならない。私はレストランを出て、魚市場の見学をした。     

                 
 店先に並べられた魚類                                トプカプ宮殿厨房展示品 絵皿    

レストラン前に集合して、魚何時場前の高速道路沿いのターミナルまであるいてバスに野津。イスタンブールの街中か観光バスの行列。6月は学校が期末休み(6〜8月の3月)なので、国内の旅行者も多いようだ。バスはシルケジ駅の脇を通って、アヤソフィアの前の四つ角に来た。シルケジ駅の脇を通っているとき、「右手に見える建物がオリエント特急の終着駅、シルケジ駅です。アガサ・クリスチーはイスタンブールが好きで、あの推理小説もイスタンブールで書いたそうです。今日は残念ですが、駅の見学はしません。ごめんなさい」とガイドのサイトさんの説明。

バスはブルーモスクへ行く道と反対の方向へ曲がった。ものの2分と走行せずに、止まる。プラタナスの大木が並木を作っている。木立の奥に見える櫓付きの門が送迎門か、プラタナスの木陰でサイトさんの説明を聞く。かれは終えると入場券を買いに小走りに去った。彼がもどるまで私は送迎門をカメラに入れようとしたが、左右対称の櫓を1枚に入れることができない。

            
 2つの塔を持つ送迎門                   謁見の間前の天井                   

第2庭園も木立が主、正面に幸福と言う名の門がある。なぜ幸福なのか、理由は聞き損ねた。その門をくぐると謁見の間という建物だ。外国からの使いが、スルタンに謁見するために場所だが、さして大きな建物ではない。謁見の間の右手奥が第3庭園で、芝生の北側に樹木が植えられている。芝生は立ち入り禁止だが3,4組のアベックが寝転んで、ゆっくりとした時を楽しんでいる。

植え込みの右手に宮殿の厨房がある。厨房といっても小さな建物ではない。おおきな煙突が10本も屋根に並んでいる。16世紀末には1200人の料理人が居たという。現在は陶磁器の展示場となっている。中国の宋・明時代の白磁や青磁が主だが、日本の伊万里焼の朱皿も展示されている。1万点を超える磁器のうち、4分の1程度が展示されているようだ。

            
 工場のような巨大な厨房                   大人4人でも抱えられない巨木

宝物館にはスルタンの財宝では酒井細大のエメラルドなどが展示されているらしいが、見学者の撮影は禁止されているので、展示物の見学をせず部屋をでた。目の前に大人4人でも抱えられないようなプラタナスの巨木。1460年の建設当初からの樹木であるとすれば樹齢550年はあろうと推測できる、兎に角巨木だ。周りに柵を立てて、触手を避けている。根っこのところに大きな洞ができているが、葉は緑に映えている。衰えの感じは受けない。

           
 第3庭園の芝生に横たわるカップル                人目を気にしないカップル

皆の集まるのを待っていよいよハレムの見学。ハレムは調理場の反対側にある。ハレムの右側は宦官(去勢したヌビア人が主という)に部屋というが、見学のコースに入っていない。手元の案内書では宦官たちの部屋の手前が議事堂と図示されているが、記憶に残っていない。並びにある武器庫は展示室になっていた。私の背の丈より長い鉄砲がケースの中に羅列展示されている。日本の時代では南北朝がおわり足利幕府の時代に相当するのだろう。それにしても、世界の歴史は不思議な共通性があるようだ。この時代、スペインではレコンキスタがキリスト教派の最終的勝利への時代で、フランス・イギリスは100年戦争中と、世界は戦争と動乱の時代だったのだ。

                   ハレムの正面                    展示されている火縄銃

トプカプ宮後の次の見学場所はボスポラス海峡と金角湾が望める第4庭園だ。私はたまらずに、「コンスタンチノーブルの攻防戦でコンスタンティヌス11世が金角湾入口に巨大な鎖(チェーン)を張った場所はどこですか」とサイトさんに質問した。彼が教えてくれた場所には避暑客のテントが沢山あった。対岸の様不明だ。

             
   第4)庭園から見たボスポラス海峡               進入防止の鎖を設置した金角湾 入口

  最後はバーダット・キョシュキュという場所だ。第4庭園とその場所との間にはチュウリップの庭という内庭があり、右手に瀟洒な建物がある。庭弄りを好んだ老后妃のために建物でいわば隠居部屋のようなもの。その庭を通ってバーダット・キョシュキュに着く。壁のタイルがとても綺麗だ。2階へ昇るとアッと息を呑む見事な光景が展開する。

                
 黄金の天蓋のイフタリエ                     テラスのプール越しに 見たイフタリエ
        

テラスにある金色屋根の建物はイフタリエといい、ラマダン月(断食の月間)に1日の断食を終えたスルタンが后妃、と夕刻の食事を摂る場所であるという。ここから眺める金角湾と対岸の新市街は絶景。テラスの奥にプールがあり、プール越しにみるイフタリエはまさに一幅の絵画だ。バーダッド・キョシュキュの壁のタイルも美しい。贅沢の限りだ。

           
 バーダッド・キョシュキュのタイル                      グラント・バザールで買ったチャイ・カップセット

トプカプ宮殿を後にして、私たちはグランド・バザールへ移動した。この旅行の最後の見学場所だ。みんながみんな、思いに秘めた買い物があるのだろう。私は増えた荷物を纏めるために大きめのスポーツバッグと、チャイのコップを探そうと考えていた。

グランドバザールへバスは乗り入れ禁止なので、離れた場所にあるバスターミナルに駐車。ガイドや添乗員は混雑で迷子にならないように幾度も念を押す。人混みのなかを3度角を曲がって、グランドバザールの入口に到着。解散して自由行動になるが、バスまで帰り着くか気がかりな添乗員は、バスまでの光淳を2度説明した。

メインの通りはアーケードが張られていて、両側の商店はなざか貴金属店が多い。何軒も同じような店が並ぶ。脇道が4,50メートル毎にに交差していて、脇道の先はまた広めの道が交差している。自分なりの目星をつけておかないと迷子になりそうだ。添乗員の気持ちが判る。

最初の脇道を左折してカバン店を探した。両側に並んでいる。店頭に並べられているバッグから、さがしたが、見つけるのが困難だ。旅行カバンは一杯あるのだが、手軽なスポーツバッグは見あたらない。同じ側の2軒には無い。反対側へ顔を向けると、店先に並べてあるスポーツバッグが目に入る。値段は、値切るか、と思うも言葉の不安で値切るのはやめる。店員にこれが欲しいと告げると店の中から同じものを持ってきた。50米ドル。

次はチャイコップ捜し。バッグを持って、広い通りを奥へ向かう。手にはカッパドキアで買った手提げに妻の分骨と写真が入っている。毎日ご苦労さんと遺骨に呟く。「もうお使い済んだの」と女性に声を掛けられる。グループの人だ。「いや。まだ、もう一つ」と言って分かれる。かなり奥まであるいたが、瀬戸物や食器の店が見あたらない。諦めて引返そうとしたとき、飛び飛びに、2軒の店が目に居る。店頭を覗くと高値のものばかり。100ドルのものは無い、4桁から5桁。「高いなぁ」と思わず呟く。

もう1軒の店先にくるとこちらはかなり手ごろのものが並んでいる。2桁のものもある。店の中にはいると38ベイドルという値段のセットがあった。金縁のガラス細工で値段もまあまあ。店員が事情を察知して、売り込む。私は「高い・ダウン・ダウン」と告げる。するとかれは「キャッシュか」と聞くので「ウイ」というとそれではということで、値切りの交渉が続く。最終値は22米ドル」値切らなかったスポーツバッグの分まで値切ったような感じの買い物だった。

入口まで戻るもだれも居ない。道順を思い返しながわ足を運ぶ。角に果物の露店があり、美味いというバナナ2本とサクランボを買う。両方で3米ドル。バナナは1本1米ドルで高いが、サクランボは1キログラムちかくで1米ドル、こちらは安い。日本の10分の@以下だ。

トルコの観光旅行も最後に近づく。宿舎はヒルトン・ホテル。添乗員が自慢しているホテルだが、私はバスを降りるとき、編む棚に乗せて置きっぱなしにしてあった2枚のセーターが膨らんだ荷物で、皆の降車を待って取り揃えていたので、トランクとメモ書きの日程表をバスに忘れてホテル入りしてしまった。気が付いてまだいたガイドに告げると、バスは帰ってしまって呼び戻しは出来ないという。今夜はインシュリンも打てず、薬も無しとがっくり。翌朝、出発前にバスからトランク運び込み、インシュリン駐車と服薬をすませる。下のフロントでは皆が私の到着を待っていた。     完

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