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H18.04.14
 

どうして鏡に映ると左右が反転して見える?

「それは視線の方向が裏返っただけ」

 
 

平成 17年暮れ、当サイトの BBS に 「かっこいいお兄さん」 から、「鏡に映すと左右が反対になるのに,上下はそのまま。どうして?」 という 「公案 (?)」 が寄せられた。

試しに Google で調べてみると、既にいろいろなサイトで説明されているが、多くはなんだかしらないが、x軸、y軸、z軸なんてものを駆使した数学的なコンセプトによるものである。こんなもの、文科系の頭にはちっともピンと来ないのである。

そこで、ブログの方で、純粋文科系が納得できる説明の仕方というのを模索してみた。(参照

その折には、"もう少し時間ができたら、「知の関節技」 で、もっと詳細にきちんとレビューしたいと思っている" なんて書いておいて、すっかり忘れてしまったまま、約 4か月が経った。それを思い出して、慌てて図まで入れて、公約を守ろうというわけだ。

 
 

 
 

まず、「鏡に映ると左右が反転して見える」 ということについて、検証してみよう。この 「左右が反転して見える」 というのは、実は不正確な表現で、本当は 「裏側から見たように見える」 というのが、正確なのだ。

もっともわかりやすい基本ケースとして、自分の背後にある時計が鏡の中に、自分自身の像の肩越しに映った場合というのをを想定してみよう。

まず、想像の中だけでいいから、後ろにある実物の時計に振り返り、正対して見てみよう。これは、この問題を考察するのに忘れられがちだが、実は最も重要なファースト・ステップである。このステップを踏まないと、この先、文科系は何も理解できない。

実物の時計に正対してみる。下の 「図 1」 の左側のオッサンがやっていることである。時計はありのままに見える。当たり前である。この 「当たり前」 をまずしっかりと確認する。

 
図 1

そして、次のステップとして、おもむろに回れ右をして再び鏡を見る。「図 1」 の右側のオッサンである。すると、鏡の中の時計の像は裏返って見える。しかし、それは 「時計の像が裏返った」 というよりは、自分自身の 「視線の方向」 が回れ右して、裏返ったのだということに注目していただきたい。

この図で言えば、時計がまともに見えるときの視線は左向きである。視線が右向きになると、時計は裏返って見える。「まともに見えるときの視線は左向き/裏返って見える時の視線は右向き」 (あくまでも、この図でいえばである) というのを、確認しておこう。

鏡に映った時計を見るときの視線の方向は、透明ガラスに時計の絵を描き、自分自身がガラスの絵の向こう側に行って振り返り、絵を裏側から見たのと同じになる。両方とも、視線は右向きだ。


図 2

自分が後ろを振り向けば、時計は本来なら視界から消えてしまうはずなのに、たまたまそこに鏡があるので、時計はそこに右も左もなく、ただ単純平行的に像を結んでいる。しかし、それを見る自分の視線の方向が裏返っているので、「図 2」 のように、透明ガラスに描いた時計の絵を裏から見るのと同じように見えるのである。

これで、説明終わりである。しかし、これでも腑に落ちないという人のために、えーい、ここまできたら、最終兵器的なレトリックでダメ押ししよう。これでも理解できなかったらどうしようもないというほど、単純明快な説明である。それは、こういうことだ。

もしも、半透明の鏡があったとしよう。いわゆる 「マジックミラー」 でもなく、あくまでも半透明なのである。その鏡は、モノを映して像を結ぶが、なにしろ半透明だから、向こう側の景色も見えるし、映った像を裏側から見ることもできるのである。

というわけで、この半透明の鏡に映った像を、「図 3」 のように、「鏡の裏側」 から見てみよう。すると、あーら不思議、結ばれた像の左右は反転していない。しかしそれは、不思議でもなんでもなく、「視線の方向」 が、実物の時計を見るのと同じ方向 (左向き) になってしまったのだから、当たり前の話なのだ。


図 3

ところが、その同じ像をフツーに (ここで 「図 1」 に戻る) 「鏡の表側」 から見ると、「視線の方向」 が逆転しているので、あたかも時計の裏側から見たように見えるのである。

要するに、同じものを裏表からから見ているだけなのだ。フツーに鏡を見る視線というのは、実物を裏から見ているのと同じ方向の視線なのである。

私同様、理数系白痴の文科系諸君、どうだ、わかったか。裏返ったのは、鏡に映った時計の像ではなく、あくまでも、自分の 「視線の方向」 なのだよ。

ところで、ここまでの説明で、「上下の逆転」 については、まったく触れていない。しかし、ここまでいえばもう自明の理である。鏡の像の上下が反対にならないのは、人が鏡を見るときに 「回れ右」 をするだけで、逆立ちしないからである。「回れ右」 と同時に、逆立ちもしてしまえば、鏡に映った時計の像は、左右だけではなく、上下も逆に見えるのである。

ただその場合、人は 「逆さまになったのは自分の方であって、時計の像が逆さまになったわけではない」 と、頭の中で余計な翻訳をしてしまうかもしれない。そんなことはどっちでもいいのに。ましてや、「回れ右」 した時に自分の 「視線の方向」 が逆さまになったという重要ポイントについては、まったく無意識だったくせに。

そういうわけで、以上の考察は、以下の 2つの教訓を含んでいる。

  1. ものの見え方というのは、「自分がどう見るか」 という 「視線」 にかかっているということ。あるのはただ 「視線」 のみと言ってもいいぐらいだ。

  2. 人間の視線というのは、かくも重力を前提としすぎていて、「左右」 は簡単にひっくり返るが、「上下」 という観念には、容易には逆らい難いものがあるらしいということだ。

フィルムを裏返して見ても、裏返っていることには容易に気付かないが、上下を逆にしてしまったら、誰でもすぐに気付く。それほど、重力というものの影響は普遍的なものだ。

字を覚えたばかりの幼児は、ときどき裏返ったように書くことがあるが、上下逆さまに書くということは、まずない。我々も、字を裏返して書くのは比較的容易にできるが、逆さまに書くのは、案外むずかしい。

とまあ、この問題に関しては、x軸、y軸、z軸なんていうしち面倒くさい概念を使わなくても、文科系の日常的な言葉だけで、これだけの説明ができるのである。そればかりでなく、人間の 「視線」 という哲学的命題にまで迫れるのだ。文科系の論理というのは、大したものなのだ。

※ 上記の 3つの図に関しては、「なんでオッサン自身は鏡に映り込んでいないんだ?」 みたいなツッコミはご遠慮いただきたい。そこまで描いたら、面倒で仕方ないから。

 
   
 
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