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「食」 は気分次第のところがある H14.5.15
重いリュックを背負って、尾根道を縦走している。今日の行程は長い。もう少し先に行ってから昼食にしようと思っているうちに、つい午後の2時も過ぎてしまう。気付いてみると、「シャリバテ」
でフラフラだ。もう一歩も歩けない。
そんな時、リュックのポケットからビスケットを取り出し、2〜3枚ポリポリと食べると、あーら不思議。今食べたばかりのビスケットがいきなり消化されてエネルギー源になったわけでもなかろうに、次の瞬間には、腹に力が入ってスタスタ歩き始めている。
こんな経験が何度もある。これだけでも、「食」 というのは気分の問題というのがわかる。何か口に入れたという気になりさえすれば、エネルギーは湧いてくる。
エネルギーという物理的な問題にしてからが、こんなものなので、「おいしい」 だの 「まずい」 だのいう感覚的な問題になったら、それはもう、8割方気分の問題といっていい。気分よく飲み食いすれば大概のものはおいしいのである。
おいしく食べるとは、気分よく食べることである。いやなやつに付き合わされては、どんな高級レストランの料理でもおいしくは感じない。
気分よく食べさえすれば、おいしい上に、栄養にもなる。「気分」 とは大事なファクターである。
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行列のできる店の正味のうまさ H14.4.29
先日、誘われて恵比寿にある某ラーメン屋に行った。その店は
「行列のできる店」 として有名なのだが、昼の 11時半ぐらいだったので、まだ 4〜5人しか並んでおらず、案外簡単に入ることができた。
塩ラーメンを食べたのだが、まぁ、確かにうまい。しかし、「高い値段なんだからこのくらいでなくっちゃね」
といった程度のもので、それほど感動するような味でもない。行列なんかできなくても、もっとうまい店はいくらでもある。
食べ終わって外に出ると、既に
2〜30人の行列ができていた。あの行列の最後尾がラーメンにありつくまでには、少なくとも 30分はかかるだろう。30分並んでまで食べるようなラーメンとは、残念ながら思えなかった。
「行列のできる店」 というのが話題になるが、これはほとんどパブリシティ、つまり雑誌記事やテレビの力によるところが大きいと思う。いったん行列ができ始めると、人が人を呼んでますます行列は長くなる。
しかし、客数が増えると数をこなさなければならなくなるから、どうしても味が荒れる。材料の仕入れだって思い通りには行かなくなることもある。だから私は
「行列のできる店」 というのを、額面どおりには信じないことにしているのである。
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天然酵母のパン作り H14.4.4
実は10数年間も、自家製天然酵母パンを作って食べている。パン生地をこねるのは私の役割で、それを焼くのは妻の役割だ。これだけ年季が入ると、小麦粉を触った手の感触で、水の量の微妙な調整もわかるようになった。その辺の駆け出しのパン屋よりは上手なのではないかと思う。
原料にはかなり凝っている。天然酵母は福島の山奥の渓流で採れた生粋の天然物をわけてもらった。10数年間も我が家の冷蔵庫で子孫を増やし続けている。これだけ長く付き合うと、酵母との一体感ができて、ますますおいしく発酵されるというものだ。
小麦粉は帝国ホテルのレストランでも使っているという噂の、北海道は江別製粉のもの。問屋も小売店も通さず、電話注文で直送してもらっている。個人レベルでは、結構いいお得意先になっているはずだ。
レパートリーはただひとつ。全粒粉をブレンドしたドイツの田舎風パンである。これを食べつけると、その辺の白くてふわふわするだけのパンの味気なさがよくわかる。「味わい」
というものがあるのである。
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食品の表示は怪しいと前から思ってたが…… H14.3.6
食品のインチキ表示は雪印だけではなかったことがバレバレになってしまったが、そんなことは前から薄々気づいていたことだ。
「魚沼産のこしひかり」 があんなに大量に流通しているわけがないとか、本物の松坂牛がスーパーであんなに安く買えるわけがないとか、したり顔で言う人は前からずいぶんいた。本当かどうかわからないが、スーパーの食肉売り場担当者が、「○日から3日間、和牛の特売をするから大量に仕入れたい」と言うと、仕入先には怪しい和牛肉がどこからかいくらでも沸いてくるのだという話も聞いたことがある。
食ってもその違いがわからない消費者には、その程度のいい加減な流通で十分なのかもしれない。
米で言えば、別にこしひかりでなくても、精米してから3日目くらいまでの米を上手に炊いて、その炊き立てを食べれば十分にうまい。
私の周りにも、「六甲の水」 と 「エビアン」 のあの明白な違いがわからない人がずいぶんいる。これはどっちがうまいとかではなく、口に入れたときの感覚の差異を言っているのだが、その差異がわからない人が、米だけブランド米を食べたって、仕方がないのじゃないかという気がする。
● 「蕎麦」
は禅的食物かも知れないが…… H14.1.19
そばが好きである。江戸前、田舎、両方好きだ。酒も一人で飲む
「蕎麦屋酒」 がいい。とにかく、淡々と飲み、淡々と手繰るのがいいのである。
確かに、ツユなんぞはチョッとしかつけない。うまい蕎麦は、本当にその方がうまいのである。大さじ1杯のツユがあれば、大盛り1枚だって食って見せられるが、かといって、初めからホンの少ししかツユを出さないのが本格的蕎麦屋だと勘違いしている店もあって、困り者である。ある程度の量のツユを出してくれなければ、後で蕎麦湯の楽しみがなくなるではないか。自分だけ高級蕎麦屋と思い込んでいる勘違いの店は、そのうち淘汰されるのである。
勘違いといえば、こんなことがあった。
ある日、都内某所のとある有名蕎麦屋に入ったら、隣の席にアメリカ人とおぼしき若い男女 4〜5名がいて、そのうちの
1人がやたらと日本通らしい。蕎麦がいかに日本的なるものを代表する食べ物であるかを力説している。「蕎麦と禅ブッディズムには共通点がある」などと、言っているようだ。フムフム。日本カブレもここまでくれば立派なものだ。
程なくして彼らの席に 「盛り」 が届き、それぞれが神妙な顔をして蕎麦を手繰り始めたのだが、なんだか変だ。いったい、この違和感は何だ?
その原因はすぐに知れた。彼らは全員、音を立てず、必死に 「モグモグ」 と蕎麦を食っていたのである。