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歌人のルーツ 村下孝蔵は本名です 村下孝蔵さんというのは、本名で、お祖父さんがつけられたそうで、ご本人もとても気に入っておられたようです。 また、身内の方にはこの「孝蔵」の「蔵」がついた方が多いそうです。 漢字はどう書かれるのかわかりませんが、お兄さんが「しゅうぞうさん」、お父さんが「しょうぞうさん」、お祖父さんが「かいぞうさん」、祖祖父が「しかぞうさん」とおっしゃるそうです。 ギタリスト村下孝蔵のルーツ 村下さんは、小学校1,2年のころご実家の映画館で見た「ギターを持った渡り鳥」を見て、ほうきを持ち、三面鏡の前に立って真似事をしていたそうです。 村下さんは、中学1年生からギターを始めたのですが、ご実家の映画館で、加山雄三さんの「エレキの若大将」をよくご覧になり、あこがれてたそうです。 ところが、近くの楽器店にはエレキギターは売っていないし、教育委員会もうるさく、親御さんからも反対され、仕方なく自分でエレキギターに似たものを作って練習したそうです。 加山雄三さんのレコードのジャケットを見て、加山さんの身長からギターの大きさを割り出し、弦の代わりに釣り糸を張ったものだったそうです。 三味線のような音で自分にしか聞こえないくらいの音だったようで、音階も正確ではありませんが、ベンチャーズなどでよく聞かれる「テケテケテケテケ!」というのが弾ければ満足できたのでした。 中学1年の時、3年生の送別会にギターを弾くまねで参加しました。その時、3年生の方たちは村下さんが本当にギターを弾いているのだと思ってたそうです。 こういう経験は後の音楽活動にも大いに生きてきたそうです。 1983年ごろのインタビューでは、「将来は自分でギターを作り、それを持ってステージに立ちたいです。」と希望を持っておられました。 村下さんが最初に作ったバンドが「フォータイガーズ」。それから半年後にあの「タイガース」がデビューしたのだそうです。 その後、「ハリケーンズ」に名前を換えたり、高校時代は、いくつかのバンドのリードギターを担当しました。ロックバンドの他、宴会バンド「ワゴンスターズ」と言うのにも参加し、お座敷廻りなんかをしていたそうです。 実家が映画館と言うことで、軍歌や童謡など、多くの曲を知っておりましたから、なんでもバックをつけることができました。だから、すごく重宝がられていいアルバイトができましたとおっしゃっておりました。 当時はプロを目指していたわけではなく、中学3年生くらいのころからテレビがもてはやされるようになって映画館の経営が苦しくなり、自分で学費も稼がなければならなくなり、頑張らないといけないと言うことで、生活をかけてギター練習をしていたのです。楽しいことでもありますし、お金が稼げるので、苦労とは思いませんでした。30分で2000円だったそうですよ。お客さんから何か食べさせてもらったり、学生だったけど、お酒を飲ませてもらったりもしたそうです。 こういう経験がなかったら今の自分はなかっただろうとおっしゃっておりました。 初めての作品 初めて作った曲は「星空のアンジェラ」と言って憧れの加山雄三さんの「夜空を仰いで」や「君といつまでも」などの曲にどこか似ていました。 この曲は、当時のテレビ番組「宇宙家族ロビンソン」の次女ペニー役のアンジェラ・カートライトにこの上なく村下さんは憧れていて、その人に思いを寄せて作ったとのことです。 村下さんは本気でその方に会いたくて、ロサンゼルスに行こうとまで考えたことがあったそうです。 新日鉄時代 村下さんは高校卒業後、水泳でスカウトされ、新日本製鉄八幡に就職しました。 その会社の検定課に所属し、仕上がった鉄板密度や堅さ、傷などを見てA,B,Cなどのランクが決まり値段が付けられたり、もう一度鉄を溶かし直すなどの判断をされてたそうです。 特に山陽新幹線のレールのほとんどを検定したそうです。 だから山陽新幹線を乗られても「大丈夫かなあ?」などとひやひやされてたとか。 歌人夜明け前 新日鉄で水泳の記録が伸び悩み、周りでは楽しそうにしているのに自分はいつまでこんなことをしているんだと嫌気がさしてきた村下さんは、世の中を広く見てみようと、学校という名前を使ってアルバイトなど「普通の男の子」みたいなことがしたくなるのでした。 そうして新日鉄を思い切って退社し、デザイナー学校に入学したのです。 しかし、デザイナー学校を卒業したころにオイルショックが来て、就職口がまったくなく、やむなく広島市内の家具屋に就職したそうです。 家具屋で勤め始めると仕事が忙しくギターがゆっくり弾けなくなってきたのですが、そんな中でもコンテストには応募していたのです。 しかし、そのコンテストをパスしていたのにもかかわらず就職先の会社側がひそかにそれをキャンセルしていたのを耳にして、翌日辞表を提出したのでした。 その後、何か音楽に関係した仕事がしたいということで、レストランでの弾き語りのアルバイトをするようになり、その姿を見ていた某楽器会社のお偉いさんの誘いでピアノの調律学校に入ったのです。 昼は調律学校、夜はレストランでの弾き語りのアルバイトをし、たまったお金で自主出版でLPを作ったのでした。 そのLPが目に留まったり、’79年のオーディションにパスして’80年に「月あかり」でデビューとなったのです。 デビューはCBSソニーであの松田聖子さんと同期となります。 トップページへ |