通学

 震災の時、僕は盲学校の理療科の1年生でした。
 いわゆるマッサージやはりの勉強をするために通い始めて1年目のことだったのです。
 クラスには僕を入れて7人の生徒がいました。
 当初、交通機関もズタズタで、目の悪い者は特に通学するには困難でしたが、中には隣の市などに避難している者もいました。
 僕は普段単独で通学しておりましたが、全盲ですし、危険が多いということで、単独での通学は禁じられました。
 それがたまたま隣のクラスのT君が僕の家から5分以内くらいのところに住んでいて、彼は弱視ではありますが、歩行には全く問題がないので、彼と学校の行き帰りを共にすることになったのです。
 そのおかげで、学校が再開されてすぐに通学ができたのです。
 当初は、盲学校の小中学生が普段使っているスクールバスで通学することになっていたのですが、バスは本数が少ないため、学校から東方面に1本、西方面に1本しか出されませんでした。
 ですので、バスに乗り込んでもいったん学校とは反対方面に廻って行くので、通常の通学時間の2倍くらいはかかっていたと思います。
 でも、そのバスの中での長い時間でさえもT君の明るいふるまいや、日ごろ交流の少ない教師や生徒との交流が楽しみとなったのです。

 クラスメイトの中には3月ころまでほとんど出て来られない者もありました。
 授業自体は本格的に進められず、時には僕一人しか出席していない日もあり、そんな時、担当教師と雑談するだけで終わったことも何度かありました。
 全く出席しない人のことが気にはなるものの、無事であることだけは確認できたので、小さな安心を覚えるのでした。

 学校の体育館は一般の方が避難所として使われておりました。これはその年の7月までのことでしたが、僕たちの授業をするのには何の影響もなく、授業は少しずつ進められました。
 避難所となっていたため、支援物資として、多くの食料が届けられており、僕たちの給食もその中からまかなわれていました。
 お菓子など少し余ったものなどをいただいたこともありましたが、人に見てもらうと、それにはハングル文字が書かれていたようで、韓国製のお菓子なんだと感心しながらいただいたのを覚えています。

 僕は授業を受けるのもノートパソコンをノートにしておりましたから、毎日フロッピーディスクにその日のノートをコピーし、家のパソコンに転送して学習しておりました。
 出席できずにいるクラスメイトに後からでもノートを見せてやれるようパソコンで編集しながらクラスメイト全員がそろう日を待ち望んでおりました。
 しかし、ようやく全員がそろったのも3月のことで、もう3学期も終わろうとしていた時のことでした。
 再会を果たしたものの、大きく雰囲気の変わってしまったクラスメイトがいて、わずかの間にこんなにも変わるものかと淋しさを感じてしまいました。
 しかし、それだけ震災は人の心までも換えてしまったのかもしれません。


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