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新聞取材 盲学校の授業が再開されてから何日目かのこと、再開した授業や生徒の様子などを取材に神戸新聞の記者が学校に来ておりました。 僕にも取材の協力の依頼がありましたので、快く引き受けることにしました。記者の方もカメラの担当の方も女性でしたからね。(笑) 依頼があったのはちょうど給食の時間で、口をもごもごさせながら、記者さんからの依頼に了解したのを覚えています。 授業自体はまだ学校に通えない生徒もたくさんいましたから、時間数も少なく、時にはクラス7人のうち、僕一人しかいないということもありました。 授業中の取材や撮影はなかったのですが、放課後教室であれこれと話をさせてもらった後、記者さんからの頼みで下校の様子を取材することになりました。 通学はまだ単独では許されていなかったので、近所に住んでいたT君をパートナーとして下校しました。 いつもだったら、少しでもさっさと歩きたいので、T君に手引きをしてもらうのですが、この時はなるべく一人で歩くようにしていました。 一人で通学もしていますから、問題はないんですが、震災でアスファルトの道がでこぼこしていたり、瓦礫や家財道具が道に無造作に置かれていたり、車もあちこちに駐車していますから、いつもより障害物競走とすれば、ハイレベルなものになるんですよね。 そういう意味で神経も使いますし、取材中ですから、常に人の目があるというプレッシャーも少しありましたね。 取材があった日は震災からどれくらい立った時のことだかはっきりは覚えてはいませんが、1ヶ月もまだ立っていない段階でした。 だから、いつも通っている道の様子とは違いますし、一方通行を反対方向に突っ走って行く車も見かけるなど、頭の中のイメージに任せて歩くことはできませんでしたね。 学校は駅から近いところにあります。いつも使っている階段が使えず、迂回して別の道を歩かなければならなかったりして、戸惑いながらもどうにかバスに乗り込みました。 時々失敗して何かに突き当たったりすると苦笑いを浮かべながら照れ隠しに冗談を言ったりして歩きました。 バスを降りて家に向かう道の途中で、僕の白い杖が何か小さな穴にたまたま入り込み、一瞬抜けずにいると、記者さんは「こういう時はどうするんですかあ?」と真剣な表情で僕に質問するのです。 僕はそういうことは日常茶飯事なので、大したことではないと歩き始めたんですが、記者さんだけはその穴のところで立ち止まり、その穴をしげしげとながめているようでした。 そんなこんなで家の前までT君も来てくれ、これで取材も終わりかとホッとしていたら、記者さんはなんとなくモジモジ。どうやら家の中も見てみたいとのこと。 震災から後、あらかたの片付けはしていたものの、人を招き入れられるほどきれいではありませんでしたから、困惑しましたが、「あくまで取材だからいいか!」と意を決して二人を中に入れました。 瓦の一部が落ち、壁にひびが入るなどの傷跡があったことを説明し、物が散乱はしたものの、家族はけがもなく無事だったことなどを話したと思います。 やがて僕の部屋に招き入れたんですが、洗濯物をまとめた大きな袋が部屋のすみに置いてあり、ちょっぴり恥ずかしくなりました。 取材の二人は興味深げに部屋をながめ、ステレオのスピーカーが無造作に置かれているのを見て、「これも落ちたんですねえ。これが部屋から出るのに障害になったんですね」と、目の悪い僕が自信直後の避難の様子を気の毒そうにしながら確認するのでした。 目が悪い人がどんな思いで、どんなふうにして避難したのかが知りたかったのでしょうね。 その取材の時は家族は誰も不在で、お茶の一杯も出せませんでしたが、僕にとっては様々につのっていたストレスを吐き出させてくれたやすらぎの時間になったのです。 苦しい胸のうちを反発することなく、取材とは言え、すべてにうなずいてくれる人がいるというのはすごく救いになりました。 みんなが同じ思いをしているのだから、僕だけが愚痴やストレスをぶちまけていてはよけいに周りに迷惑をかけることになりますからね。 後に記者さんから電話があり、補足の取材がありました。 そして、その記事は神戸新聞の大きな紙面を割いて掲載されました。 近所の人たちは口々に「兄ちゃん、新聞に出てたなあ!記事の部分をのけてあるで〜!いらんか?」などと話しかけてくれたりして、本当にうれしかったですね。 震災の翌日から数日、家から一歩も出ず、窓から外の世界を推し量るだけの時間に鬱積していったものも少し解消された僕は、やっぱり外に出て、人に触れ合えることはなんて素晴らしいことなんだろうって思いました。 苦しい時、辛い時こそ人と触れ合って、語り合えるということは大事なことなんですね。 ![]() |