ふらちな事件

 大阪にある視覚障害者の訓練所に神戸から通っていたころのことです。
 その日は、クラブ活動があったのか、帰りが遅く、周りはすっかり暗くなっていました。
 当時、僕はまだ視力をわずかに残してはいたものの、暗いところではまったく全盲のようなもので、街灯や店先の看板の灯りなどを頼りに歩いておりました。
 その日も白い杖を持って、明るい時間帯よりはゆっくりと最寄の駅に向かっておりました。
 訓練所を出て数十メートルほどまっすぐ歩いたところで、自分の身体の前で振っていた白い杖が、「ボンッ!」と何かをたたきました。
 もちろんそこに何かがあるなんて考えてもいなかったから、杖で無意識に勢いよく障害物をたたいてしまったのです。
 どうやらこの音は車の車体だなと感じ取りました。僕は歩道を間違いなく歩いていましたが、車の方が歩道に乗り上げていたようです。
 「こんなところに乗り上げやがって、迷惑やなあ」と小さな声ではありましたが、ブツブツ言って車の脇をすり抜けて歩いて行こうとしていたところ、その車の運転席のドアが開いたのです。
 な、な、なんと、車から出てきた人がツカツカと僕の方へ足早に近づいてきます。
 「わーっ、どうしよう・・・!」、僕はかなりのレベルであせりました。
 そして、さらにその人は僕の腕をグイッとつかんだかと思えば、自分の車の助手席のドアを開け、僕を座席に押し込みました。
 ここまでの一連の動作は無言のまま行われ、その人の表情はまったく読めませんから、最悪の状況を想像してしまいました。まるで拉致事件そのものです。
 僕は緊張感が高まり、胸はドキドキ、身体中に力が入っていました。
 僕はとりあえず杖で車をたたいてしまったことに対して、運転席に戻ってきたその人に謝罪しました。
 そしてやっとその人のうなづいた声を聞き、若い男性であることを認識しました。無口なタイプで少しクールな感じです。

 「どこまで行くの?」と割と低い声で淡々と言われたものですから、僕は男性が怒っているのではとさらにドキドキしてしまい、一瞬声が出ませんでした。
 その問いかけに対する答えによってどんな結果がもたらされるのだろうと、漠然とした不安がこみ上げてきます。
 でも、素直に答えておこうと、「え、え、駅までです」と恐る恐る告げました。
 するとまたもや無言のまま車を発車させたのでした。
 駅までは僕の歩き方で15分ほどの距離ですから、車にすれば、さほどの時間はかかってはいませんが、その間に僕の脳裏にはいろんな人の思い出が駆け巡っていました。
 いやいや、「なんで思い出なんかが駆け巡るんやあ?」って笑わないでくださいよ。どんなところに連れて行かれて、どんな目に合うのかと恐怖心だけが沸き立ってくるんですよ。下手をしたら殺されるのではとか思いましたからね。
 まあ、冷静に考えれば、行き先を尋ねられているのですから、他のどこへも連れては行かないだろうって思えるんですが、その時の唐突さと、その人の不気味とも思える雰囲気に恐怖心だけがつのるのです。
 まあ、結局、無事に駅に届けられたのですが、僕は、歩く手間を省いてもらえた喜びよりも解放された安心感で、満面の笑みを浮かべ、「ありがとうございました」とお礼を言うのでした。
 目の悪い者はですねえ、不意に自分の腕をつかまれるだけで以外に唐突なことだから、びっくりするできごとなんですよ。身体がピクッと堅くなったりします。少しの言葉がけがどんなにか気持ちを楽にさせることか。
 だからその時の男性は親切のつもりだったでしょうが、僕には心臓に悪いできごとだったんですわ。
 「沈黙は金」も、時には、「沈黙は禁物」ですね。
 えっ?なぜ「ふらちな事件」かってえ?
 わははは、「拉致」ではなかったから頭に「不」をつけてみたんですよ。


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