〜30代の孤独な男女に捧げるフリー小説集〜
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パートナーによろしく その1

 僕は裸のステインの手を握り締めながら、ぼんやり天井を眺めていた。行為によって生み出された無数の塵が、かさの割れたスタンドライトの光に照らされながら「宇宙空間」に向かって立ち上っていた。太陽系を模した天井の絵には大小様々の星が無造作に散りばめられ、青い惑星の下を一機の宇宙船がこちらに向かって飛行していた。

 「上手な絵」と、ステインは言った。
 そうだね、と僕は上の空で答えた。絵の巧拙より、渋谷駅から最も離れた休憩2時間4000円のラブホテルの天井になぜこんな絵が必要なのか、ということを僕は考えていた。
 「ドクター・ススキ、あなた、絵は好き?」とステインが聞いた。
 「ステイン、ドクター、じゃなく、ミスター。それに、ス・ズ・キ、ね」と僕は丁寧に言った。
 「私、今CGを学習しているの。カンピター・グラヒクスね。カンピターって何でもできるのよ」
 「CGの前に英語を勉強した方がいいな」と僕は笑った。
 舌が上手く回らないの、ステインは口を大きく開けたり閉じたりした。「わざとよ、ドクター」

 会話の隙間を埋めるように有線が流れていた。流行のポップスからヴォーカルと毒気を抜いたインストゥルメンタル。スーパーで買い物をしてるみたい、とステインは頬を緩めた。 「あの宇宙船はない方がいいよね?」と僕が言うと、長くカールした睫毛を摘みながら彼女は留守宅を覗くように僕の顔を見た。「いいんじゃない? 宇宙らしくて」
 僕の興味は既に天井から離れ、再びステインの体を弄んでいた。掌にぴんと張り詰めたバストの緊張感が心音と共に伝わった。僕はステインの手を下腹へ導いた。下腹は先の汗と体液でまだ濡れていた。
 「あなた、ひょっとして結婚してる?」とステインは聞いた。
 「まさか」と僕は答えた。
 「ねえ、初めて私たちを利用した時の話、聞かせて?」
 ステインは僕の胸の中心に手を当てた。「必ず聞くことにしてるのよ。それを聞くと、その人のこと大体分かるの」
 体の向きを変え、小さな瞳を大きく見開いて、彼女は僕の顔を見た。左手は常に僕の陰毛に埋もれていた。僕は人差し指でステインの唇をゆっくりなぞった。
 「千沙と別れてからだから」
煙草に火を点けながら、5年前の自分が聴いていた音楽について思い出していた。

              *

ケイトお気に入りの椅子 足元に忍び寄る明け方の寒さが、僕の目覚まし時計だった。目が覚めると僕はいつも乾燥したはんぺんのような掛け布団を股に挟みながら壁際で丸まっていた。日焼けした若草色のカーテンから零れ落ちる朝日の断片が、殺風景で黴臭い僕の部屋になけなしの温もりを与えていた。
 事実、部屋にはろくな物がなかった。自慢できるものと言えば、リサイクルで買った漆塗りのロッキングチェア、イトーヨーカドーオリジナル中華鍋、アイワのCDプレーヤー、リンカーンの顔が側面に彫刻されたマグカップ程度だった。

 着の身着のままで千沙のアパートを出た。必要最低限の物と預金通帳を持って、すぐに入れるアパートを探した。千沙は僕との口論に憔悴していた。顔を合わすたび喧嘩ばかりしていた。僕の怠慢を彼女は糾弾した。非が自分にあることは事実だった。僕は彼女に食べさせてもらっているだけだった。それでも僕は千沙が好きだった。特に、彼女の腰のくびれから大腿にかけてのラインはいとおしかった。

 「あなた、才能なんてないのよ」と千沙は言った。「ただの自惚れで、だらしないだけじゃない」
 千沙は思い切りテーブルを叩いた。空のリンカーンが床に落ちたが、とても拾える雰囲気ではなかった。
 「いなくなって」という彼女の最後の言葉に、その夜、僕は彼女と3年暮らしたアパートを出た。未練がないといえば嘘になるが、彼女に捨てられても仕方のないことだった。大体、僕はもうその時30を過ぎていたのだ。
 それでも、今の一人暮らしで寂しいと思ったことはなかった。適度に愛着を感じるいくつかの物さえあればそれでいい、と僕は思った。

 ケイトのお気に入りはロッキングチェアだった。彼女はそれだけが人生だというように、静かな微笑を湛えていた。
 朝、僕が目覚めると、ケイトはいつも漫画のヒロインのような麗しい目で僕を見つめていた。嫌悪も憐憫も感じさせない、均整のとれたいい瞳だった。

 「おはよう。今日はずいぶんねぼすけさんね。ハローワークで職探し?」
 「失業保険、遥か昔に終わってる。あそこは仕事探すとこじゃなくて、金をもらうところ」
 僕は無理矢理体を起こして、小さなやかんを火にかけた。ニコチンの鬱積した寝起きの喉を正すには、リンカーンのマグカップで飲むインスタントのミネストローネがよく効く。

 「ケイトは眠らないの?」と僕は聞いた。
 「眠ってしまうのが怖いのよ。永遠に目覚めがこない気がして」
 人間は自然の摂理でどうしても眠らなければならないんだよ、と僕は付け足した。
「二つのタイプの生き方があると思うの。『目覚め』の人生と、『眠り』の人生。私はもちろん『目覚め』派よ。だってそうでしょう? この世界にある綺麗なもの、可愛いもの、気持ちいいもの、いっぱい知りたいじゃない。眠ってしまったら何も見えない。ただ深い海のような闇があるだけで。いいえ、闇を認識することすらできないわ。そんなつまらないことってある? 何のために生きているのよ」
 桜の花びらのような唇を忙しく上下させてケイトは言った。僕はコンロの火で煙草に火を付けた。
 「美しいものばかりとは限らないよ」と僕は言った。「時には生きていくのが嫌になるような、やるせなくなるものもあるよ。贈収賄とか、猫の礫死体とか」
 「確かにそういうこともあるわ。けれども世界は一秒ごとに変わってる。昨日汚く見えていたものだって、今日は綺麗に見えるかもしれない。次々に生まれてくる新しいことを、私は見逃したくない。全部、見ておきたい。同じ日っていうのは一度もないのよ。あなたと毎日こうして一緒にいるのだって。あなたには、自分が眠っている間の世界のことなんて何にも知らない」
「知ってたら怖いよ」
 そう言って僕は笑ったが、ケイトは何も聞こえなかったように視線を外に向けたまま眩しそうにカーテンを開けた。
 「いつもより一時間も早く朝刊が届いたり、もずがベランダの手すりでキスをしていたり、小さな地震が照明を揺らしたり、あなたが寝言で私の名前を呼んでくれたり。私は美しいと感じることにいつも貪欲でいたい。あなたのことだってもっともっと知りたいの。私には知らないことが余りにも多すぎる」
ケイトは口を閉じ、毛玉だらけのはんぺん布団に視線を落とした。


  僕はカップにお湯を注ぎ、赤い粉末が瞬く間にパセリとブロッコリーとトマトを浮かべた上質のスープに変わる様をぼんやり眺めていた。きっとケイトには、こんなことも美しく見えるのだろうなと思いながら。
 スープを啜りながら、現代文明から授かった等身大の奇跡を飽きずに眺めた。花柄のフリルのついた白いブラウスとタータンチェックのタイトスカートがぴったり彼女の体に貼りついていた。
  ずっと以前から彼女を知っていたような、どこか懐かしい気持ちがした。小さな両足に被せられたレースのソックス。それは無条件に温かく、秩序ある安らぎを僕に与えた。

 「ねえ、安っぽいセンチメンタリズムなんて思わずに聞いてくれる? 今度、外に出てみたいの。ここからの景色だってとっても素敵よ。けれどもずっと見続けてばかりいると触れてみたくなるの。コンビニの看板にも、給水塔の梯子にも、お母さんに連れられて歩く男の子の擦り切れたスニーカーにも」

 そんなことか、と僕は思った。

 「そういえば一緒に外出したことはなかったね。今度どこか遊びに行こう」
 「本当? 嬉しい。ありがとう!」
  彼女はチェアの上で小さく跳ねて喜んだ。僕はスウェットを脱ぎジーンズに足を通した。メンソールの微粒子が脳漿にしみ込み、だれていた神経をいくらか活性化した。
 「仕事、見つかりそう?」とケイトが聞いた。
 「選り好みをしなければね」
 あてもなく、僕は靴を履いた。貯蓄はそろそろ底を尽きてきていた。家賃を滞納しない程度にはアルバイトを探すほかなかった。

 近所の定食屋で食事をしてから、僕は最低区間の切符と週刊誌を買い電車に乗った。誌面の大半は育毛剤やピンクサロンや消費者ローンの広告で埋まっていた。胃がきりきりと痛み始めたので、週刊誌を網棚へ放り投げ、大学のある駅の一つ手前で降りてトイレに駆け込んだ。こんなことはしょっちゅうだった。胃が痙攣したように収縮し始めると、決まって僕は吐いた。その日は昼食時に飲んだアルコールのせいかもしれないけれど。
 
  大学は僕の母校だった。ついこの間まで通っていたはずなのに、校舎の位置や食事をした場所を忘れていた。窶れた胃を摩って、僕は適当な教室に入ってみた。「経済学史T」という講義だった。老教授が小さな声で過去の偉業者について語り、黒板には「見えざる手」とだけ書かれていた。僕はしばらく老教授の地味なスーツを眺め、女子学生を眺め、机に「アダム・スミス」と書いてから目立たぬように退室した。

 それから僕はゲームセンターに立ち寄った。客はまばらで、店員はカウンターで爪を切っていた。ミッフィーの小さなぬいぐるみを手に入れるのに僕は2千円も費やしてしまった。そして、街中を少しぶらぶらしてから、ケイトが一人ぼっちで待つ築25年の安アパートへと向かった。

  「ただいま」

 靴の紐を解きながら、僕は3時間ぶりに声を出した。自宅で自分の帰りを待つ人がいるというのは素晴らしいことだ。誰もいない家は冷たく老いる。人の体温で温められていた空気はたちまち熱を失い、ベクトルのない膠着した冷気となって次に扉を開ける者を否応なく鬱にする。
 800ワットの電気ストーブで温めた部屋の熱、整髪料の甘い香り、粗削りなジョン・フォガティの歌声、そして希望に満ちた陽の光。朝の五感を刺激するフラグメントの数々。
 しかし帰宅時までには、ストーブは色褪せ、匂いは湿気り、ジョンの唇は固く閉ざされる。千沙と一緒に暮らそうと思った理由の一つは、この窒息感を味わいたくなかったことだ。
 今はケイトがいる。朝をそのままに保っていてくれる。老いたアパートでも待つ者さえいてくれればそれだけで部屋は生きてくる。

 「ただいまあ」
 僕は語尾を間抜けなくらい間延びさせて、もう一度言った。
 「あら、おかえり。さっき出ていったと思ったら」
 椅子にもたれたまま、ケイトは手にしていた本を閉じた。
 「何かいいことあった?」
 「何もいいことなんてないよ。相変わらず校舎があって、学生がいて、アダム・スミスがいた。ケイトが言うほど、世界が変わっているなんて実感全然ないな」
 大きく歪んだ僕の顔をじっと見つめてケイトは何か思案していたが、やがて僕の口癖を真似ながらきっぱり言った。
 「長い人生、そんなこともある」
 余りにもそっくりだったので、僕らは顔を見合わせて大笑いした。

 ケイトは笑っている時の顔が一番素敵だった。彼女と他愛もない会話をしている時間が、千沙と別れた後の僕にとってこの上ない慰めであり、幸せだった。ケイトとは何の躊躇も打算もなく、現実的な生活の話から、後で考えれば赤面してしまうような話まで、心置きなく交わすことができた。
 僕はスウェットに着替えてウーロン茶を飲んだ。ざらざらした食道に、お馴染みの清涼感。ケイトは再び本に目を落として、フラゴナールの少女のように熱心に見入っていた。女の子が本を読んでいる姿は、暑さに参った時の眩暈のようなものを感じさせた。
 僕は彼女の空想を遮らないように、蚤の泣くほどの声で聞いた。「何を読んでるの?」
 「ううん、本棚にあった写真集よ。ねえ、綺麗な景色」と彼女は本から目を逸らさずに呟いた。

 それは、僕が中学生の頃、クラスメイトの女の子からもらったものだった。彼女は親の都合で急遽転校することになり、その送別会が終わった後、僕だけにくれたものだった。それは有名な写真家の写真集らしく、日本中で撮った「夕日」の姿ばかりがあった。北海道十勝に沈む夕日、能登の日本海に漂う物悲しい夕日、新宿の高層ビルを影絵のように浮かび上がらせ、中央アルプスの稜線を幻想的に歪めている、そんな日本各地の「夕日」ばかりを収録したものだった。

 僕はケイトを「富士山」へ連れていってあげようと、その時思った。

 彼女の世界を壊さないように、そっとシャワーを浴びて缶ビールを一本飲んでから、ケイトの頬にキスをして布団にもぐり込んだ。まだ眠る時間ではなかったが、胃を休めるための仮眠が必要だった。
 ケイトは何事もなかったようにページをめくっては、目を潤ませて本を見続けた。
 「閑話休題」と僕。
 「ゆっくり、おやすみ。可愛いベイブ」
 ケイトは本から久しぶりに目を離して、僕に微笑んだ。

 今日もケイトは眠らないのだろうと、僕は思った。

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