控訴理由書
2007年9月27日

一審判決全文   (判決要旨)
2007年6月15日

声  明
2007年6月15日

高尾山天狗裁判原告団   団長 吉山 寛
高尾山天狗裁判弁護団   団長 鈴木尭博


 東京地方裁判所八王子支部民事2部(押切瞳裁判長)は本日、圏央道八王子地域の工事差止請求裁判において、原告らの請求を棄却する判決を言渡しました。
 私たちは圏央道事業が明らかとなった1984年以降23年にわたり、地域住民とともに圏央道が高尾山や八王子城跡の豊かな自然環境を破壊する計画であることを明らかにして反対運動を続けてきました。
 そして裁判所においても圏央道工事による八王子城跡のオオタカの営巣放棄や地下水脈の破壊の事実を指摘し、裏高尾地域での騒音被害や大気汚染の被害発生を科学的に立証し、高尾山にトンネルを掘る工事は八王子城跡で起きている被害と同様の水脈破壊により世界遺産に匹敵する豊かな生態系が破壊される危険性を明らかにしてきました。
 また、圏央道は都心の渋滞解消や多摩地域の交通渋滞の解消と経済の発展に必要であるとの国土交通省の主張をことごとく論破してその主張が虚偽であることを完璧に明らかにしました。
 ところが裁判所は、オオタカの営巣放棄、御主殿の滝涸れなどの水脈破壊、景観破壊の事実を認めながら、これら被害の重大性を無視し、一方では国の主張する圏央道の公益性公共性をまるごと鵜呑みにして、多数の原告らの差し止め請求を棄却しました。判決は景観や自然生態系の被害につきゆゆしき事態であることを認めながら、環境権・景観権に基づく差し止め請求を認めず、司法救済の道を閉ざした不当な判決といわざるを得ません。
 国土交通省および道路公団は強制収用により無理やり反対する市民の土地を取り上げて工事を強行してきています。  既に裏高尾地域は中央自動車道と圏央道とのジャンクション工事が進み、豊かな自然が破壊され無残な高架道路が作られています。 また現在は、高尾山トンネル工事を強行するため、土地収用手続きを進めながら、南浅川地域からトンネルの掘削工事も強行しています。
  私たちは20年以上に及ぶ圏央道反対運動と7年に及ぶ工事差止め請求訴訟を通じて、圏央道により国定公園の高尾山にトンネルを掘りジャンクションを建設することは、豊かな自然環境を破壊するものであることを強く訴えてきました。圏央道が如何に無駄な公共事業であり豊かな自然環境を破壊するものであるかという認識は国民の間に広く広まっています。 私たちは、今回の不当な判決にもかかわらず、今後も世界遺産に匹敵し都民のオアシスになっている高尾山を護るために今後も断固闘うことを決意します

民事最終準備書面
2006年12月25日

陳  述  書
2004年7月12日

吉 山   寛
(樹木研究家・原告団団長)

1 研究歴など
  別紙の通り

2 高尾山の自然保護の歴史
  奈良時代中期に僧行基が高尾山薬王院有喜寺を開山以来,1200年以上にわたり,有喜寺の地所は,宗教上の立場から自然が護られてきた。
戦国時代になると,小田原北条氏は甲州武田軍団に対する緩衝地帯として,この寺を厚く保護した。
江戸時代になると高尾山一帯は幕府の天領として代官を置き森林を保護した。
 明治になってこの山林は皇室の御料林にされ,宮内省が厳しく管理した。
終戦後は国有林に編入され,林野庁の所管となり,東京営林署が直接管理することになった。
  一方,高尾山の山林は,各種の保安林・特別鳥獣保護区に指定され,昭和25年に都立神馬高尾自然公園,昭和42年に明治100年を記念して,明治の森高尾国定公園となった。
 以上のように,高尾山は,宗教上,戦略上の理由から保護されてき,それに引き続いて,現在は法律により厳しく保護され続けて,今の生態系が存在し得ているのである。高尾山の自然は偶然に残ったものではなく,先人達の努力により護られてきたものである。
それ故にこれは後世に引き継ぐべき自然遺産なのである。

3 薬王院の特殊性
 明治になって,神仏分離令のため,それまでの社寺は神社か寺院のいずれかを選択させられることとなり,多くの宗教的文化財が失われた。そうした中,高尾山の中腹にある薬王院は,有喜寺として寺院の形は取っているものの,内容的には神仏混合の様式が残っている極めて稀な例である。誰にもわかる外観上の特徴として,軒の2段の垂る木の先端を覆う金具は,上段はカエデの葉で寺の紋,下段は三つ巴で寺社の紋所が使われている。

4 高尾山の生物の多様性
 国定公園770ヘクタールに限定すると,そこに生育する高等植物の種数は1321種となり,面積あたりでは稀に見る高密度の種類で,まさに「種の多様性」の見本のような山である。大都会に近接する山で,これだけの種類の植物を擁するのは世界一を誇るべき存在である。「種の多様性」条約から言っても国には高尾山を護る責務がある。
高尾山が国定公園に指定されたのも,その自然の素晴らしさを国が認めた故ではないか。ずさんなアセスメントを行って,圏央道による「影響は少ない」とこじつけ,高尾山の腹にトンネルを掘るという国の態度は、国定公園に指定したことと明らかに矛盾する。この事実は,どう言いつくろっても国民を納得させることは出来ない。
  世界に誇ることの出来る高尾山の生態系は,トンネルで影響が出るかどうかなど議論する次元の山ではなく,影響が出る可能性がある限り,初めから道路を通すことを避けて計画すべき山であった。現在の計画は,自然保護の先進国では考えられない野蛮なものである。
私達は高尾山を世界遺産に登録させるための努力を積み重ねている。遠くない将来,実際に登録させ得るものと信じている。

5 高尾山の森林の特殊性
 高尾山の自然研究路の1号路を挟んで南斜面と北斜面と,林相が大きく異なっていることが見られる。南側はカシ類の多い常緑広葉樹林で冬でも暗く,北側はイヌブナを多く含む落葉広葉樹林で冬は見通しが良い。
このような林相の大きな違いは,南北斜面の冬の温度の違いが大きな原因で,それによる土質の差も起こってくる。このような暖温帯の主役であるカシ類と,冷温帯の主役であるブナ・イヌブナ類が尾根を挟んで1枚の写真におさまるところは極めて稀な存在である。
その貴重さを最も良く実感できる季節は,真冬か新緑の頃が最適である。

6 高尾山のブナの持つ意義
 私の調べでは,高尾山にはブナの大木は80本,イヌブナは約800本ある。
日本海側のブナは少なくなったと言っても,残っているブナ林は健康で種子の発芽も良好であるが,太平洋側のブナ林は衰退傾向にある。これについては多くの研究実績もあり,主原因は温暖と少雪にあるとされている。太平洋側のブナ林は海抜800m以上にあるのが普通だが,高尾山では海抜420mから見ることができる。ブナは低温を好む樹種なのに,このような低いところに生育しているのは奇跡に近い。
高尾山にあるブナの大木の樹齢は200〜300年である。これらのブナが生まれた時代は,地球規模で低温だったことが証明されていて,これは小氷期と呼ばれている。高尾山のブナは小氷期の生き証人として保護されるべきものである。現在の環境条件はブナにとって最適なものではなく,かろうじて生きているため,少しの環境悪化でも大きなダメージをうけることになる。そして,一度損なわれたら,再び生育させることは不可能に近いのである。

7 トンネルが開通するとどうなるか
  前項で指摘したように,高尾山の生態系は,トンネルを掘るとどうなるかなど議論するべき次元のものではないのだが,計画された以上は,トンネルの影響を考えなければならない。
(1)  トンネルを掘れば地下水脈に損傷を与えることは今までに多くの実例があり,最も近くには八王子城跡の例がある。
高尾山の地質は八王子城跡と同じ小仏層であるが,岩質は最も脆弱な粘板岩が多い。これは水平ボーリングの資料からも明らかになっている。地下水が抜けると地表で生育している植物は水不足になる。大木はすぐに枯れないで何とか生きるとしても,表面が乾くと種子から芽を出して生きていく若木にとって死活問題である。どんなに立派な森林であっても,次世代の若木が育たない林は一代限りで終わりである。これは国でも社会でも,同じことがいえる。次世代の育たないところに明日はないのである。
(2)  開通して1日に何万台もの車が通ったら,排気ガス,騒音,震動などは必ず襲ってくる(同じ圏央道の牛沼の事業認定取消訴訟について,先日出された藤山判決もこのことを支持している)。
排気ガスは住民にも動植物にとってもマイナスの生活条件である。排気ガスはトンネルの出入り口に集中する。計画では脱硝装置も付けない巨大な換気塔をつくることになっているが,周囲の山より高くは出来ないため,排出したガスは谷間に溜まる。特に気温の逆転層が起こっていると,その下には高濃度の有毒ガスが滞留する。
     逆転層に関して言えば,圏央道計画発表の翌年の1月26日,八王子の労政会館で開かれた,八王子自然友の会ほかの主催のシンポジウムの席上で私が提起したもので,これを調べようと言うことが,住民による自主アセスメントの発端になった。事業者側もラジオゾンデによる気温の垂直分布を観測せざるを得なくなった。逆転層の存在は,否定しようもない事実である。
騒音が人間にも動物にも影響を及ぼすことは言うまでもない。以前,赤い実を食べる鳥に種子散布を依存している樹木の繁殖に,騒音がマイナス効果をもたらすと私が主張したら,生態学者がこの論理を拾い上げてくれたことがある。これを証明することは難しいが,否定することも出来ないことは確かである。
 夜間照明は,夜行性動物にとって,繁殖行動の妨げになる。本線と違い,ジャンクションでは360度光の向きが変わるため,影響は特に大きい。
 振動は,既に中央道から摺差の民家に伝わって来ている。圏央道ができれば増悪することは必至である。特に低周波振動は健康に悪影響が出ることが指摘されている。現在進行しているトンネル工事による機械の振動さえ,動物達にとって住みにくい結果をもたらしている。
(3)  自然景観を破壊する。国立公園の目的の1つに自然景観の保護があり,建物の色まで規制されることがある。ジャンクションができたら,高尾山に登ってきて麓を眺めたとき,巨大なコンクリートの構築物が目に入って来てしまう。折角山に来ても,都心と同じようなものが見えたのではリクリエーションにはならない。人々は,自然の彩りや匂いや静けさや日差しや風の触感や,あるいは自然の中の季節の移ろいや,そのほか高尾山のいろいろなものによって,心を癒してもらい,活力を与えてもらうために高尾山を訪れているのである。巨大な人工物は,そのような景観には決して馴染まない。今の工事現場を見てみればわかることである。頭の上を圧する建造物は,醜悪以外の何ものでもない。
事業者側は,高架物は植樹で目隠しをすると言っているが,裏高尾町の頭上50m以上もの橋を見えなくする木が育つであろうか。

8 自然学習のフィールドとしての高尾山
 タカオスミレに代表されるように,植物名の頭にタカオと付く植物がいくつもある。これは,高尾山ではじめて発見された植物が多いことを示している。日本に西洋流の植物分類学が起こった頃は交通不便なところが多かった。高尾山や日光は調査者が行きやすいところであった上に,手つかずの森林が残っていたため,続々と新発見される植物が出た。小中学生の頃から高尾山で植物や昆虫を調べ,後に大成した学者も多い。次世代の研究者を育てるためのフィールドとしても,高尾山の生態系は護らなければならない。

9 何故多くの人々が高尾山に来るのか
  高尾山は都心から乗物を使えば1時間で登山口に到着できる程,大都会の近くにある山である。その日の天気を見定めてからでも登山に間に合うほどの身近な山である。
人々が高尾山に登る目的は沢山あげられる。家族連れで安心して登山を楽しむ人,都会の騒音を逃れ,静かな山で一日を過ごすことを好む人,鳥や昆虫や植物の観察や学習のために登る人,心身の傷を癒すために登る人,信仰のために来る人,高い山への足慣らしのつもりで登る人など,登山者は年間250万人と言われる。
おそらく世界一登山者の多い山であり,いわゆるリピーターの多い山でもある。

10 私が高尾山を護る運動を始めた理由
  私が学校を卒業した昭和24年頃は,アメリカの占領下にあった。インフレを抑えるため,ドッジラインという占領政策がなされ,不景気で,新規採用は殆ど行われなかった。私は研究者を志したが,どこも受け容れてくれなかった。そこで学校ならいくらか研究が出来るかと思い,高尾駅の1つ隣の駅近くの高校に勤務することにした。
  初めの頃は夜間部の専任で,昼間は高尾山や周辺の山に連日のように植物調査に行き,夕方から勤務する生活を続けていた。夜間部がなくなってからも休日には殆ど植物と付き合っていた。私を指導してくれたのは,当時高尾駅近くの農林省林業試験場浅川実験林長であった草下正夫氏で,植物採集の帰りに標本を見て頂くことが多かった。別紙に記したような著書や論文が書けるようになったのは,高尾山と草下氏のおかげと感謝している。
  その高尾山にトンネルが掘られると知ったとき,このまま見過ごすことは,自分を育ててくれた高尾山に申し訳がないとの思いで,反対運動の輪を広げて行った。
  私は元来がいわゆる運動家ではなかった。授業をするのと違い,人前で話をするのも得手ではない。しかし,活力に溢れた人々がだんだんにこの運動に参加してきてくれて,大きな輪が出来て,自主アセスメントから立木トラストとなり,結集した力で裁判まで起こせるようになった。
  この運動は,貴重な環境を次世代につなげる運動である。次世代につながる運動である。私を育ててくれた高尾山を,次世代,そのまた先の世代の研究者に,「未来人」に手渡したいと願っている。
  裁判所には,この裁判が,そういう歴史的な意味のある訴訟であることを十分認識していただいて,審理・判断していただきたいと思う。

以上


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陳  述  書

2004年6月8日

椚 國男
(国史跡八王子城とオオタカを守る会代表)

1.経歴と八王子城跡との出会い
私は国史跡八王子城跡の重要性と圏央道トンネル工事による荒廃状況について陳述する椚(くぬぎ)國男です。大正末年の1926年に八王子市に生まれ、ここで育って敗戦後の1949年から1987年まで38年間教職についていました。中学校に3年、都立高校に35年です。
 私は城郭の専門研究者ではありませんが、1961年に勤務校の生徒たちに頼まれて考古学部をつくり、多摩考古学研究会に入会したことから国史跡八王子城跡との関係が生じました。入会して4年後、開発の波がこの城跡まで及んで最初の破壊が行われた時、抗議と保存運動に立ち上がったのが私の考古学の恩師甲野勇先生(当時国立音楽学教授)だったからです。また、この運動の中で八王子城跡に1500回以上登っている八王子城研究の大先達小松敏盛さんを知り、親しい間柄になったからです。私もこの城跡に魅せられてすでに650回以上登っていますが、六興出版社から『戦国の終わりを告げた城−八王子城を探る−』(1991)を出してもらえたのは、小松さんから多くの教えを受けたからです。
 生徒たちに頼まれてつくった考古学部は、毎年夏休みなどを使って25年間川口川下流域で発掘をつづけました。この間、6世紀の竪穴住居の設計研究から前方後円墳の設計研究に入り、これが注目されて築地書館から『古墳の設計』(1975)、六興出版社から『古代の土木設計』(1983)を出してもらいました。『古墳の設計』は翌年第1回藤森栄一賞を受け、現在も研究をつづけています。

2.八王子城の築造と大改修
 城主北条氏照(1540?―1590)は小田原北条3代目当主北条氏康の次男で、一門の勢力発展のため席が暖まる暇がないほど軍司令官として戦場を駈けめぐった武将です。この地(元八王子町・下恩方まち)に新城を築いたのは、永禄12年(1569)に滝山城が甲斐の武田勢の猛攻を受けて揺らいだのが主原因と思われます。
 築造が始まったのは天正6年(1578)頃で、10年頃から安土城に倣って大改修工事を行い、現在の御主殿跡地やここに至る戦国時代最大幅の大手道、石垣群などはこの時につくられたものと思います。
 滝山城から本拠をここに移したのは15年頃で、それからわずか3、4年後の天正18年(1590)6月23日の朝、豊臣方の大軍によって落城しました。

3.城域・構成・出土遺物
〔城域〕城域の広さは防衛線の取り方によって異なります。私は防衛線11キロ、面積約500ヘクタールと考えていますが、防衛線を20キロと見る人もいます。いずれにしても戦国時代最大規模の城域をもつ山城です。
〔構成〕標高460.5メートルの深沢山を本体として周囲の山・丘陵・平地・川など取り込んでいます。大手側は深沢山の東側(元八王子町)、搦め手側は北側(下恩方町)で、城下町は大手口の東側に計画されましたが未完のまま終わりました。
 平時は山裾が生活、政治などの場で、東南の要衝山下・近藤両曲輪から西側の奥にアシダ曲輪、御主殿、奥殿とつづきます。
戦時は馬回り道から上の山上曲輪群が重要になり、ここには松木・中・小宮・無名の4曲輪と山頂曲輪があり、2箇所に井戸が掘られています。小宮曲輪の東側下に立つと180度の視界が開け、関東平野の大半を一望できます。また西方400メートルには石塁で固めた小さな砦があり、「大天主」と呼ばれています。
山腹には柵門台と山王台があり、その下の金子曲輪や搦め手側の滝の沢口曲輪とともに敵を防ぎ屠る場所です。また柵門台は大手側・搦め手側・御主殿側の道が集まる要所です。このほか特筆しなければならないものに大手道があります。御殿谷川(城山川)に沿う丘陵の腰につくられた1.5キロの道で、8メートルの基準幅は安土城や京都の主道よりも広く、戦国時代最大幅です。
〔出土遺物〕落城400年を機に八王子市教育委員会によって行われた御主殿跡地の発掘調査で夥しい量の遺物が出土しました。いずれも当時の生活や文化を示す貴重な資料ですが、中国産の青白磁や五彩皿は生活程度の高さを示し、珍しいものにベネチア製のきれいなレースガラスがあります。現在わが国唯一の出土例です。

4.落城の悲劇とその後
 前田利家、上杉景勝らに率いられた豊臣勢の実数は不明ですが、3万から5万と推定され、城主不在の城方は武士・農兵に番匠、鍛冶、人質などを合わせても10分の1に満たなかったと思われます。八王子城は前田利家が落城直後に国許に宛てた書状から当時「名城」の名があったことが分かりますが、この数では守れる筈がなく4時間前後で落城しました。城方の戦死者は1300人に近く、いかに凄惨を極めた戦いであったかを物語っています。
 八王子城の落城は小田原本城勢に大きな衝撃を与え、和戦をめぐる評定がくりかえされたあと、7月5日に5代目当主北条氏直が城を出て開城を申し入れ、ここに豊臣秀吉の天下統一が実現しました。
 このあと、北条氏照は兄氏政とともに秀吉から切腹を命じられ、関東の大部分と伊豆を5代約100年間支配した後北条氏は事実上滅びました。旧領は徳川家康の支配地になって関東は新しい時代を迎えましたが、屍が山を覆った八王子城跡は里人が恐れて足を踏み入れるのを嫌う “忌み山”になりました。

5.国史跡の指定
 八王子城跡が滝山城跡とともに国史跡に指定されたのは1951年6月9日で、「文化財保護法」が制定された翌年です。滝山城は早くからよく知られ3年前から選定されていましたが、八王子城は元八王子村の八木下松太郎村長が都知事に史跡指定を申請し、文部省史跡天然記念物課の調査が行われて実現しました。
 この史跡指定によって350年間不明の闇に覆われてきた八王子城跡にようやく光が当たりはじめ、小松敏盛さんの大きな研究業績の出発点もここにあります。また、史跡に指定されていなかったら、つぎに記す開発破壊よりはるかに酷い破壊を受けて見る影もない姿になったかも知れません。 

6.山裾の破壊と保存運動
 史跡に指定されても安全でなく、最初の開発破壊は14年後に起こりました。その後山裾の各所でつづき、その都度史跡や自然を大切にする人たちによって抗議や保存運動が行われました。
 最初の破壊は1965年5月に起こったアシダ曲輪の破壊です。ここに割烹旅館を建てるためで、這い登ったブルドーザーが表土を削って造成し、多くの遺物が掻き出され、押しつぶされました。この時抗議と保存のために立ち上がったのが前に書いた甲野勇先生です。この計画は現地を視察した天然記念物課長らが建築申請を退けましたが、この年の11月に2度目の破壊が近藤曲輪推定地で起こりました。東京造形大学のグラウンド造成工事によるもので、ブルドーザーが削ってできた赤土の崖に石を敷いた道・空堀・馬防柵などの断面が現れ、痛ましさと憤りを感じました。
 3度目は翌年5月に起こった山下曲輪から御主殿下にかけての石垣列の破壊です。林野庁東京営林署の林道拡幅工事によるもので、国による史跡破壊です。
 4度目は5年後の1971年8月に起こった大手門東側広場の整地工事による破壊です。ここは大手道の幅が25メートルぐらいに広がった場所で、世田谷区の寺がここに寺院と墓地をつくって移転しようとしたものです。これができると史跡の要所が一変しますので、市の文化財専門委員会も研究諸団体も一緒になって反対しました。その後市の教育長が墓地に限って認めましたが、この時色川大吉先生(東京経済大学教授)が寺側の意向も容れて都の副知事と交渉し、都がここを買い取り、寺に代替地を斡旋することで破壊と変貌をまぬかれました。

7.八王子市の保存管理計画書
 八王子城跡の破壊があいつぎその対応に迫られたためと思いますが、八王子市は1974年に「八王子城跡保存整備計画策定プロジェクト」を行政担当者19名でつくりました。また、これとともに学識経験者8名からなる協議会もでき、色川先生が会長に選出されました。
 両者の審議の結果は、1976年3月に『史跡八王子城跡・史跡小仏関跡保存管理計画書』として刊行されました。
 それには、<典型的な山城としての現況をそのまま保存することと、その根小屋としての諸遺構を極力保存することを原則とする。従って観光開発行為はこれを禁じ、史跡保存・緑地保存の精神を貫く。但し、歴史学習、自然観察および登山、レクリエーション等都民の憩い場としての活用を図る。>と記され、立派な内容です。それにもかかわらず3年半後の10月に5度目の破壊が大手門近くの北側で起こりました。区内の食肉業者が倉庫を建てようとしたものですが、このあとは起こらなくなりました。
ところが、『保存管理計画書』ができた8年5ヵ月後の1984年8月に、これをまったく無視した計画が建設省から発表されました。これが国定公園高尾山と国史跡八王子城跡の山腹をトンネルで貫く圏央道(首都圏連絡中央自動車道)で、今からちょうど20年前です。

8.八王子城跡の危機と対応
 八王子城跡を守る運動は主に多摩考古学研究会や八王子城山会の人たちによって行われてきましたが、その人数はわずか10数人で高尾山を守る運動に比べてあまりにも微弱でした。ところが、落城400年を記念して1990年4月15日に行った「八王子城みる、きく、あるく会」に233人の参加者があり、このことが運動が広がりはじめる転機になりました。
 その後分かったことですが、建設省がこの山にトンネルを掘る準備を開始したのもこの年のようです。翌年1月から山上にある当時の井戸「坎井」(かんせい)の水位測定を始めているからです。
 1994年の5,6月には「坎井」のすぐそばにボーリング孔が掘られ、翌年2月に井戸涸れが起こっています。私たちが気づいたのはその翌年2月4日ですが、これまで一度もなかったことですので強い危機感をもちました。以来1月に大雪が降った年をのぞいて毎年のように春先に涸れています。建設省相武国道工事事務所の水位測定グラフをみますとボーリング以前と比べて水量が3分の1減少していますので、その原因が井戸涸れの原因でもあるとおもいます。
 井戸涸れ発見の2、3ヵ月後、この山でオオタカの営巣が小池清さんによって発見されました。「八王子城跡トンネル」(仮称)の北側坑口付近で、2ヵ月後この二つの保存運動が結びついて、その年の12月1日に松木曲輪で「第T回国史跡八王子城跡とオオタカを守る山上のつどい」を開き、約140人参加しました。

9.トンネル工事の開始
 私たちは建設省と文化庁に行って史跡の重要性を訴え、工事の中止を求めました。各所に脆弱な地質がみられることと、1300人もの戦死者が眠っていることも伝えました。また、環境庁に行ってオオタカの営巣中心域であることを18ヵ月間の観察記録図を示して訴え、保護と工事中止を求めました。
 しかし、建設省は「文化財保護法」も[種の保存法]も私たちの保存要望も無視して、1999年10月初めにトンネル工事を開始しました。
 私たちは憤りとともに空しさをおぼえましたが、この年の夏頃から高尾山と裏高尾町の人たちの生活を守るためには法の裁きに訴える以外にはないという考え方が支配的になり、提訴の準備が始まりました。そのため私たちも裁判に加わるためには原告の資格が得られる組織でなければならないと考え、この年の12月5日に松木曲輪で開かれた第4回「国史跡八王子城跡とオオタカを守る山上のつどい」で提案し、賛同をえました。この時の参加者は約100人でしたが、その場で60数名の入会申し込みがあり、翌年1月8日に淺川市民センターで発足総会を開き、[国史跡八王子城とオオタカを守る会]が誕生しました。年会費1000円で会報の発行、見学会、学習会、ボランティアガイドなどを行い、現在の会員数は170名です。

10.高尾山天狗裁判
 高尾山は修験道の山で天狗は修験者の象徴ですので「高尾山天狗裁判」と名づけ、2000年10月25日に国と日本道路公団を相手取り、圏央道計画の差し止めを求める訴訟を東京地方裁判所八王子支部に起こしました。原告は高尾山・八王子城跡・オオタカ・ムササビ・ブナの5自然物と自然保護団体6団体と1060名の人間です。弁護団は全国から139人の弁護士が加わり、21世紀を迎えた1月29日に第1回口頭弁論が開かれました。

11.問題つづきのトンネル工事
 八王子城跡トンネルは全長2.4キロメートルで、3年間で完成の予定でしたが、4年半以上経った現在の進捗状況は約65パーセントです。工事開始から9ヵ月間は普通の工法(ナトム工法)で475メートル掘り進みましたが、そこから滝の沢川の下になって海底トンネルのようにセメントミルクを注入し、固まるのを待って掘る工法(シールド工法)になりました。
 1年後にはそこを抜けだして元の工法にもどりましたが、下恩方町松竹地区の民家の井戸涸れが発生し、42軒に被害がおよびました。つづいて翌2002年1月22日には城山(深沢山)の地下水位が急に下がって10日間で348メートから335メートルになり、工事が中断されました。
 その後これまでの遅れを一気に取り戻すためトンネル内で1基5億円の新機械が2基組み立てられ、昨年11月26日から「先進導坑」という新工法の掘削が始まりました。このため現在油断できない状況にあります。

12.山の乾きと荒廃化
 八王子城跡の山肌の乾きに気づいたのは2001年の秋頃からです。直径10メートルのトンネルを2本掘っているのですから当然のことといえます。11月の中頃、本丸(山頂曲輪)下の南急斜面につくられた「水路状敷石遺構」に東側の細尾根から崩れ落ちた岩が堆積し、みる影もなくなりました。使途は不明ですが他に例がないようであり、400年間の歳月に耐えてよく残ってきただけに惜しまれます。崩落の原因はこの遺構の上近くでもボーリング孔があけられていますのでそのためでしょう。
 落城の時、女性たちが懐剣で喉を突いて入水死したと伝えられる「御主殿の滝」
下の淵では、岩壁が何度も剥落し、2002年の秋には山腹の柵門台上の斜面が4メートル幅で30メートルも崩れ落ち、当時の道を埋めました。また、翌年4月には御主殿西北沢にある4段づくり石垣の2段目中央の石が崩れ落ちました。さらに柵門台下の石垣列も崩れ、史跡の荒廃が確実に進んでいます。

13.オオタカの生息環境の悪化
 小池清さんがこの山でオオタカを発見した1996年には、3羽孵化して3羽の雛が巣立っています。翌年も3羽孵化しましたが、台風で1羽が巣から落ちて死にました。
 小池さんは前記しました18ヵ月間の観察記録をもとに「飛翔頻度分布図」をつくり、トンネルの位置が環境庁のガイドライン『猛禽類保護の進め方』に記された<営巣中心域>であるため、工事の中止を建設省に求めました。しかし、建設省が委嘱した「圏央道オオタカ検討会」はこれを認めようとせず、「オオタカとの共生をはかる」という言葉でゴーサインを出しました。
 3年目は4羽孵化して3羽巣立ちましたが、この年の9月にトンネル坑口北側の北淺川橋の工事が始まると翌年には孵化も巣立ちも2羽になりました。このあとふたたび3羽になることはなく、2002年には前年使った巣の補強を始めておきながら地下から伝わる工事の震動に脅え、営巣を放棄しました。2003年も最初の営巣地付近には棲まず、のちに山頂をこえた元八王子町3丁目側の城山川左岸に営巣したことが分かりました。このように八王子城跡のオオタカは圏央道工事で生息環境が悪化し、ついに営巣放棄に追い込まれました。これは「種の保存法」違反であり、「圏央道オオタカ検討会」の委員にも責任があります。

14.新しい異変
 今年になって新しい異変がありました。搦め手側の滝の沢にある「青龍の滝」などの景観汚損と大手側の城山川の水質汚染です。「青龍の滝」は高さが30メートルもある形の美しい4段の滝ですが、岩が白い粉のような付着物で汚れているのが1月1日の朝発見されました。かつて一度もなかったことで、その後御主殿の滝なども汚れているのが分かりましたので、採取して「環境総合研究所」に化学分析を依頼しました。分析はカナダで行われましたが、その結果滝の沢川の河床に噴出したセメントミルクの凝固剤の成分によく似ていることが分かりました。これに対して国土交通省(元建設省)相武国道工事事務所では電子顕微鏡観察の結果珪藻であると記者発表しています。
 城山川の水質汚染は清流魚カジカの死によるものです。小池清さんが2月26日に御主殿の滝の上流約150メートルのところで発見したもので5匹です。この川に沿う城山林道にはハイカーたちの姿がみられ、口にすることもありますので心配です。

15.都民の宝を失わないために
 以上陳述しましたようにトンネル工事開始以来、国史跡八王子城跡(深沢山)の荒廃化が年ごとに進んでいます。このままでは取り返しのつかない事態になりかねません。国土交通省がつぎの目標にしている高尾山の地質はさらに脆弱ですので、一層ひどい崩落や植生変化が予想されます。
 20年間にわたって高尾山の自然と、裏高尾町の人たちの生活と、国史跡八王子城跡を守る圏央道反対運動がつづいていますのは、国が指定した国定公園や国史跡に同じ国がトンネルを計画し、環境と生活を破壊することにすべての原因があります。
 こうしたことが首都東京で行われているだけに全国各地に与える影響が大きく、地球環境を守って人類の生存を維持しようとしている世界的な流れにも反します。そのため身近かな自然の宝庫高尾山と国史跡八王子城跡守り、後世に引き継ぐ運動に30数年間かかわってきました。                          以上で終ります。


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陳 述 書

2004年7月12日
辰濃 和男

1、「高尾山は私の師匠」
 若いころから高尾山にはよく登りました。初めは子どもたちを連れて、歩いたり、サル園をのぞいたりしました。そのうち樹木や野草に興味をもちだし、高尾山だけでなく、南高尾にもしばしば行くようになりました。もう百回以上は訪ねています。高尾山を歩いたあとは、ふしぎなほど充実感があります。
 登山家の故植村直己さんはいっています。「高い山に登ったからといってすごいとか偉いとかいう考え方にはなれない。山登りを優劣でみてはいけない。どんな小さな山でも、登り終えた後に深く心に残る登山がほんとうの登山だと思う」と。
 高尾山は標高六百メートルのちっぽけな山ですが、歩いたあとの充実感は大きい。
 高尾山は私のお師匠さんです。山歩きの歓びを教えてくれたのも、野草や木々とつきあうことのたのしさを教えてくれたのも、木々が萌えるころの心浮き立つ風の色を教えてくれたのも、高尾山でした。
 第一に、高尾山には神々しさ、すがすがしさがあります。霊気といっていいものがあります。薬王院の浄心門には「霊気満山」(写真)という額がありますが、多くの人は霊気という隠された磁石にひきつけられて高尾山に足を運びます。その霊気には歴史の重みがあります。大晦日、除夜の鐘を聞いたあと中央線に乗り、連れ合いと一緒に、時には息子たちと一緒に薬王院の初詣でをするのがひところの習わしでした。深夜の高尾の森は、一層深い霊気に包まれていて、それは木々の発する気ともかかわりがあるのでしょう。今まであちこちの寺や神社に初詣でに行きましたが、高尾山ほど敬虔な気持ちになれるところを他に知りません。
 第二に、小さな山なのに、自然の多様性があります。命みなぎる世界があります。無数の命の仲間が、私たちの生気を呼び覚まし、鼓舞し、充ち足りた気分にしてくれます。歩いているうちに、私たちの情感は鋭敏になり、心が解き放たれます。
 私は、ひとけのない平日に4号路、6号路、いろはの森コースを歩くのが好きです。静かな山道を歩きながら、ふと原生林の奥深くを歩いている感じになります。NZには「世界一美しい散歩道」といわれるミルフォードトラックがあり、私も二回歩きました。若緑色の高尾の山道を歩きながら、ふと、この道はミルフォードトラックに比べても決して遜色がないぞと思う瞬間があります。そういうとき体内の奥深くに眠っている自然融和の感覚が岩清水のように湧き出てくるのです。虫の声、鳥の声もゆたかです。カンタンの声を聴く。サンコウチョウのホイホイホイという声を聴く。せせらぎの音を聴く。多様性に満ちた自然には、この山を守ってきた人びとの長い歴史があります。
 高尾は744年、高僧行基によって開かれたと伝えられています。以後、山岳仏教の中心地として、江戸庶民の信仰の場として親しまれてきました。そして「殺生禁断」の精神によって環境が守られ、自然の多様性を保つことができたのです。
 第三に、高尾山は、過密都市にはないものをたくさんもっています。
 仏教では、宇宙を表現するのに「空・風・火・水・地」といいます。この五つの要素が高尾にはあります。高尾の空には都心にはみられない透明感があり、くっきりとした富士の姿を拝むことができます(写真)。風の姿、風の声はさまざまな季節の移ろいを告げてくれます。火を飯縄権現に捧げられている?燭の光と思えば、そこには信仰の地のすがすがしさがあり、火を日の光と解釈すれば、高尾の若緑にはえる日の光のまばゆさに心が躍るのを感ずるのです。高尾はまた水のゆたかな山です。6号路にも、蛇滝口への道にも、いろはの道にも清らかな水の流れがあります。蛇滝口バス停前にはうまい湧き水があります。そして、高尾には土があります。いま、都会の地面はコンクリートで覆われ、土の道を歩くことはめったにありません。私は人間が人間であるためには、ときどき、土の上を歩くことが大切だと思っています。高尾では落ち葉や微生物が生んだ土の上を踏みしめることができます。
 第四に、高尾山は東京近郊にあって実に手軽に訪れることができます。身近なところに高尾山があるということは、東京に住むものにとって実に幸せなことです。
 高尾山が首郁圏の「宝物」だという理由は、第一は霊気、第二は自然の多様さ、第三に大都市にないものの存在、第四は、手軽さにあります。

2、「私と高尾山とのかかわり」
 高尾山や南高尾をよく歩くものですから、私が「天声人語」を書いていたころは、たびたび高尾の話を書きました。思い出すだけでも
 1979年4月25日は「南高尾の花々」の話。
 1985年1月18日は「高尾山の鳥」の話。
 1987年4月12日は「高尾山の山桜」の話などがあります。
 そして1986年8月1日には「高尾山をぶちぬいて圏央道を造る」という話に驚き、この計画に反対するコラムを書きました。「高尾山にトンネルを通すということは、京郁の竜安寺の石庭の真ん中にアスファルトの歩道を造るようなものだ」と書いたのはそのときのことです。
 圏央道が高尾山を貫くという話を聞いた時、初めは信じられませんでした。まさかと思いました。高尾山は国定公園です。かけがえのない宝物です。環境省の人がそれを知らないはずはない。その宝物を貫いてトンネルを造るほど、日本という国は非文化国家ではないと思っていました。
 1929年には高尾の森は風致保安林に指定されています。高尾山内には、こんな表示板があります。「国は、高尾山一帯の森林を昭和四年に風致保安林に指定して、その風致の維持と向上をはかっています。美しい風景は心を癒すための最大の恵みです。高尾の森林を大切にしましょう」(写真)
 この約束に従い、「最大の恵み」を守り抜くため国は力をつくすのが当然です。表示板が意味することを国の要衝にある人が知らないはずはない。知っているならば、高尾山に圏央道を通すというおろかなことをするはずがないと思いました。だが、そう思うほうがおろかだったのか、すでに圏央道工事は高尾山の山肌に迫ってきています。
 私はいま、老いた一ジャーナリストとして、一日一日、悔いの残らない人生を送りたいと思っています。高尾山を守るという仕事は、自分が今まで、およばずながら追ってきた環境の問題の延長線上にあります。微力なことは承知ですが、これからはこの仕事に正面から向き合わなければ安心して死ぬわけにはいかないと思い定めています。
 19世紀中ごろの話になりますが、ニューヨークに巨大なセントラル公園ができる前、是非論があって話が進まないことがありました。そのときニューヨーク・イブニングポストの編集長W.C.ブライヤントは、この街に巨大な公園がいかに必要かという論調の記事を新間に書きました。そして、市長選挙があって公園促進派の候補者が勝ったのです。ジャーナリストは時流に逆らっても信念を貫かねばならないときがあります。

3、「高尾山のゆたかな価値」
 @殺生禁断。
 高尾山は「殺生禁断」の山です。浄心門のそばには「殺生禁断」という立派な黒い石碑が立っています(写真)。この四文字はこの山の特徴を知るための鍵になる言葉です。
 高尾山には薬王院があります。薬王院には飯縄権現堂があり、わきには天狗の像があります。キツネの像に守られたお稲荷さんもあります。さらに奥の院があります。その裏には浅間神社があります。ここは、のびやかな神仏習合の地なのです。そして「殺生禁断」の思想がこの地の主調音になりました。
 日本には、一匹の虫、一本の草にも命があり、仏性がある。むやみに殺してはいけないというご先祖さまの教えがあります。やむをえず命を奪った場合は、霊を慰めるため、手あつく供養をするというのが先祖の生き方でした。それが日本の土着の信仰であり、仏教の教えでもありました。
 かつて高尾山主だった山本秀順老師は「生きる命を大切に」と訴えておられます。
 「たんなる我欲で動植物をつかまえたり殺したり折ったりする権利は、人間にはない。人間だけが偉いのではない。生きとし生けるものはみな平等なのだ。あたたかい心で、慈悲の心で生きものに接することが大切だ」と(薬王院発行『高尾山』)。
 この「殺生禁断」の教えをとくに重要だと思うのは、この教えがこれからの環境問題、エコロジーというものを考えるときの、中核の言葉になるからです。一粒のコメの命を大切にする思いを徹底させれば生ゴミは減ります。一滴の雨の命を大切にする思いを徹底させれば、水問題にゆたかな展望が開けます。何よりも、森は命あふれるところであり、エネルギーの宝庫です。森を失った文明は衰退します。郷土の森を食いつぶした文明はエジプトもギリシャも衰退しました。
 高尾山の「殺生禁断」の教えは約千年以上、守られてきました。そのために木の伐採は抑制され、小さな山なのに植物の種類が1300種類もあるという奇跡が起こりました。タカオスミレなど「タカオ」の名のつく植物も少なくありません。ゆたかな生態系がある証拠です。約5000種の昆虫がいるとか、137種類の野鳥の声を聴くことができるとか、そういう多様性が残されているのも「殺生禁断」のおかげです。
 トンネル工事は大地をくりぬきます。木、草、小動物を含め膨大な数の命を奪います。1000年の歴史は無残に踏みにじられることになります。高尾の山は大都市近郊に残された、きわめて原生林的な山として、世界文化遺産にふさわしいと私は思います。しかし圏央道のトンネルが通り、景観が破壊されれば、世界遺産の話は絶望でしょう。
 A郷土の森(鎮守の森)。
 高尾山は巨大な鎮守の森といってもいいでしょう。日本の自然を考えるとき、大切なのは「鎮守の森」「氏神様の森」といわれる森の存在です。戦後、近代技術文明による大規模開発が進み、「森」が急速に失われてゆく事実に世界中の植物生態学者は頭をかかえていました。1971年、世界20カ国の植物生態学者がドイツに集まり、その打開策を議論したことがありました。そのとき、ひとりの高名なドイツの学者がいったのです。
「日本に学ぼうではないか」と。
 学者はこう指摘しました。日本民族は二千年の長い時間をかけて各地に散在する神社の森を郷土の森として守ってきた。信心に裏づけられて、日本人は郷土の森との共存をはかってきた。そこには日本人の英知がある。環境破壊の時代を生き抜くためにこの日本人の生き方、日本人の英知に学ぼうではないか、と。
 これは私たち日本人を奮起させる発言です。
 高度成長期の激しい開発で多くの鎮守の森は次々に消えて行きました。ただ、私はこう思います。世界の各地で、緑の収奪がありました。それには日本人の責任もあります。しかし、どんなに鎮守の森を失っても、緑の収奪が進んでも、森と共に生きなければ人類の未来はないという日本人の英知は私たちの心の奥底に今も残っている、と。
 鎮守の森を残すということは、日本人の伝統的な生き方を残すことです。その一つが殺生禁断の思想です。多様な神仏にぬかづいて生きる日本人の知恵です。鎮守の森は自然遺産であり、同時に文化遺産なのです。
 高尾の山が高尾の山らしく存在するのは、そこに薬王院の歴史があるからです。日本人の原風景がいまも高尾山にあるのはそこに、神仏があるからです。
 昔の日本の田舎の風景には、こんな構造がありました。山の上には奥の宮(山宮)があります。奥の宮の背後には鬱蒼とした深い森があり、森は山の奥深くにつながります。その聖なる空間には天狗さんもいます。奥の宮の神は季節によって里に降りてきます。里には民家があり、里宮があります。里宮は氏神ともいわれます。里宮だけでなく、神様は田にも降りてきます。そこには田宮があります。
 この構造は高尾山にもあります。民家があり、田畑がある。山があり、山を登ると、飯縄権現堂があり、その上を登ると奥の院があり、奥の院の背後には高尾の森があります。民家も権現堂も奥の院も森も沢も、切り離せない一つの構造の中にあります。この空間を私は「高尾の風土生命体」といっています。山も沢も民家も奥の院もばらばらではなく、密接に結びつき、小宇宙をつくっています。(図1、2)
 戦後の歴史は、残念ながらこの小宇宙をこなごなに砕いてしまう方向に進みました。ドイツの学者があれほど賛嘆した日本人と緑との深いつきあいは、年を追ってあやふやなものになっていったのです。
 高尾山はしかし、そういう原風景を残しています。
 このかけがえのない「宝」を壊すことは私たちの生き方を壊すことです。
 Bやすらぎの場
 高尾山は「やすらぎの場」です。
 高尾山には年間250万人がくるといわれています(環境省統計では高尾国定公園の入園者は2002年度217万人)。人びとはなぜ、これほどまでに高尾山に集まるのか。ひとことでいえば、そこにすばらしい森があって、やすらぐことができるからです。もう一つの理由は高尾山が都心から遠くない、格好の所にあるからです。私の知人にはもう500回以上高尾に登った人もいるし、毎週のように高尾を歩いている知人もいます。
 私たちはここで、もう少し「なぜ」を考えなければなりません。なぜ、人びとは高尾にひかれるのか。東京という大都会がそれほど病んでいるからだともいえるでしょう。緑に恵まれない人ほど緑を求める力が強いといわれていますが、過密都市の東京と緑濃い高尾山との関係はそれに近いでしょう。
 ご承知の通り、東京は全国一の超過密都市です。人口密度の全国平均を100とすると東京は1605です。北海道の21.3に比べると、その過密のすごさがわかります。しかも、都市公園の一人あたりの面積は全国で下から数えて五番目です。住居の一人あたりの部屋面積は全国の下から数えて三番目だし、自動車の排ガス測定では達成率の数値が非常に低い。騒音もすごい。コンビニなどの便利な店は多いが、さまざまな点で東京は極めて住みにくい所なのです。だからこそ、旅に出たい、山を歩きたい、しかし遠くへは行けない、という思いの人びとが高尾山を「やすらぎの場」にするのではないでしょうか。
 高尾山は東京人の深呼吸の場です。ここは、東京の巨大な肺臓の役割を果してくれています。さきほどニューヨークのセントラル公園の話をしましたが、公園を造るという話が進んだ時点で、いくらなんでも300ヘクタールを超す規模は、このマンハッタンには広すぎる、もっと狭くたっていいという議論が出ました。
 このとき、公園建設の責任者、F.D.オルムステッドはこういいました。「このマンハッタンの土地は将来、道路やビルで埋めつくされるだろう。どんなに環境が悪くなっても、長い休暇をとって旅行に行けない労働者もたくさんでてくる。だからこそ公園が大事なんだ。公園は都市の環境から市民を隔離するものでなければならない。公園の風景は都市の風景と正反対のものでなければならない。広々とした空間こそが必要なのだ」と。日本でいえば江戸末期の話ですが、この見通しは正しかったのです。
 いま、セントラル公園を訪ねる人は、これだけの規模のものを造った創始者の見識と洞察力に敬意を払うことになるのです(佐藤昌『欧米公園緑地発達史』)。
 幸い、私たちは高尾山という空間を祖先から受け継いでいます。セントラル公園が1世紀半前に造られた人工の森であるのに対し、高尾山の森は原生林に近く、1000年も守られてきた森です。受け継いだ森を守り抜き、遺産を未来の人にひきつぐこと、そのことこそが今を生きるものの責務です。
 Cエネルギーの貯蔵庫
 人は、飼っていたヒヨコが大きくなり、都会で飼いきれなくなると捨てます。捨てられたノラトリ(野良鶏)の名所が多摩川河畔にあります。トリたちは河畔の雑木林の中で暮らします。その様子を見に行って驚いたことがあります。ノラトリたちは、野犬や野良猫がくると、集団で追い払い、夜になると、はるか頭上の木の枝まで飛び立ちます。ニワトリにこんな飛翔力があるかと思うほど、10メートルほどを軽々と飛び、木の枝で夜を過ごすのでした。野に放たれたことで、眠っていた野性が呼び覚まされ、力強い飛翔力をよみがえらせたのでしょう。
 私がいいたいのは、人間も大自然の中を歩くことで、自分の「内なる自然」が呼び覚まされ、ものすごいエネルギーを得ることができる、ということです。深い森は原生林に近ければ近いほど、私たちにたくさんのエネルギーを与えてくれます。
 高尾山は巨大なエネルギーの貯蔵庫でもあるのです。
 Dなぜ緑を。
 ここで、なぜ人は緑を必要とするのかということについてちょっと触れましょう。
 ある生態学者が日本人を対象にした調査をしました。それによると、当然のことかもしれませんが、人間が自然環境を求めるのは「やすらぎ感」を求めるからで、自分の周囲の緑の比率が三割を超えるとやすらぎ感がでてきて、緑の比率がませばますほど、比例してやすらぎ感もますそうです。縄文のころ、森と共に生きてきた人びとが、萌える緑や、木の実の多い緑の中でやすらぎを感じていたことは十分に理解することができます。その遺伝子が私たちの体内に残っているのでしょうか。
 ここで、生態学者、河合雅雄さんの説を紹介しておきます。
 哺乳類の中では猿だけが色が見え、犬も猫も他の哺乳類はみな色盲だといいます。猿が出現したのは約6500万年前で、以来ずっと木の上で緑に包まれて暮らしてきました。緑の中で彼らの生活は安定し、緑と共に暮らすことに適応していったのです。やがて五百万年ほど前に現れた霊長類の人類が、猿の性質を受け継ぎました。緑の中で暮らすと、心が休まり、落ち着くという性質が人間のDNAに組み込まれたのだろう、というのが河合さんの見解です。緑にひかれるのは私たちの「内なる自然」なのです。
 E高尾山の「文化的価値」
 高尾山をうたった歌や句は少なくありません。これも一つの文化遺産でしょう。
 中西悟堂の歌碑「富士までにおよぶ雲海ひらけつつ大見晴らしの朝鳥のこえ」。高尾の山頂から見る富士は端正な姿です。目の下にひろがる雲海と富士と鳥の声と。スケールの大きい絶唱です。
 北原白秋の歌碑「我が精進こもる高尾は夏雲の下谷うづみ波となづさふ」
 夏の雲が谷をうめてひろがり、波のように見えるという意味でしょう。白秋は1937年高尾山での短歌誌の大会に出席、薬王院に泊まって「高尾薬王院唱」を残しました。
 高尾に生まれた歌人、佐藤文男も数多くの高尾の歌を残しています。
「青葉せる楢の林を吹き渡る山の嵐に吹かれつつ行く」
「ふるさとの家より見たる杉の木はこの木にかあらむ高く茂れり」
 文章では、正岡子規の「高尾紀行」が有名です。
「高尾山を攀ぢ行けば都人に珍らしき山路の物凄き景色身にしみて面白く下闇にきらつく紅葉萎みて散りかかりたるが中にまだ半ば青きもたのもし。…山の頂に上ればうしろは甲州の峻嶺峨々として聳え前は八百里の平原眼の届かぬ迄広がりたり」
 昔の高尾山は、もっと「物凄き景色」だったのでしょう。

4、「風土生命体に融和して」
 高尾山や八王子城跡の主人公は、ムササビであり、オオタカです。ブナやカシも主人公だし、イタチやミミズも主人公です。新参者の人間はその末端にいます。生きものだけではない。生きものを育む水も、土も、光も、風土生命体の主人公です。
 要するに、生きものも土も水も光も、そのすべてが主人公なのです。高尾山のすべてを包み込む混沌たる実体を表現するのに、私は〈高尾の風土生命体〉という言葉を使っています。人間は、この生命体の中にいちばん遅れてやってきて、生命体の隅っこに溶け込ませてもらっている生きものにすぎないのです。このことを謙虚に受け止めましょう。
「人間だけが主人公だ」というのは思い上がりです。「人間の利益になる破壊は、実は文明の進歩なのだ」という人間中心の考え方が自然環境を破壊してきたのです。
 風土生命体は命に満ちた存在です。自然科学の思考では生物と無生物を区別します。しかし「すべてが混じりあう渾然一体の風土生命体」という考え方にたつと、生物・無生物の区別をいいたてるよりも、その一体性、融合性、有機性、循環性に目を向けたほうが実体をつかみやすい。岩は砕けて土砂になり、落ち葉は土になる。雨は土にしみこみ、土は木や草を育てる。生物とか無生物とか人間が勝手につくった分類などおかまいなしに風土生命体のすべてが一体となり、わかちがたくつながり、命のうたを歌っています。
 トンネルによる破壊は深刻です。たくさんの生きものの命が奪われます。しかも、生命体の場合は、その一部を傷つければ、傷は全体にひろがるのです。
 ここで、1973年の日光太郎杉裁判のことを思い起こしましょう。
 国道120線の拡張工事で太郎杉をはじめ十数本の杉の巨木が切り倒されそうになったとき、東照宮は訴えを起こしました。拡張工事は混雑緩和のためにやむをえないという国の主張に対して、生態学者として数多くの実践的な業績を残されている宮脇昭さん(当時横浜国大助教授)はこう証言しました(日光東照宮『太郎杉問題証言集』)。
「太郎杉や他の杉を伐った場合、復元はできません。世界中の生態学者が集まり、世界中のカネをつぎこんでも、百年、二百年の歳月をかけても復元はできない。それだけでなく、この十数本を伐ればその影響はほかの杉にも及ぶでしょう。日光の杉は、かけがえのない日本民族の遺産です。何をおいてもこれを残すのは当然です」
 この裁判では、原告、つまり東照宮側が勝ちました。歴史的、文化的、風致的、学術的に大切な太郎杉と十数本の杉は守られたのです。
 高尾山も同じです。生命体の一部を傷つければ、傷はさらにひろがる恐れがあります。ひろがってからあわてて、元通りにしようとしても、高尾の文化遺産、高尾の自然遺産は絶対に元通りにはなりません。
 風土生命体は、掘れば、削れば血が噴き出るものです。傷の影響は全体におよぶ恐れがあります。風土生命体をトンネルで貫くということは、きわめて残酷な行為です。生きている鳥が矢で貫かれた姿を想像してみてください。トンネル工事は生きている高尾山をくし刺しにするのです。

5、「天然無価の宝」
 風土生命体のことを、別の表現でいえば「天然無価の宝」になります。
 高尾山の価値や、高尾山が私たちひとりひとりに与えてくれるエネルギーの総量は、数値では計れません。値段もつけられません。数値や値段で計れないもの、どんなに巨額のカネを積んでも得られないもの、しかし、生きものが生きる上で必須のもの、それが天然無価の宝なのです。寒山に「貴ぶべし、天然無価の宝」という言葉があります。この言葉は技術文明が地球上に現れるよりもはるか昔の言葉ですが、近代文明に対する鋭い批評になっています。
 ムササビやミミズの存在を天然無価の宝と感じ、そういう仲間の世界に溶け込んで生きることこそが、まっとうな生き方ではないでしょうか。つまり自然に融和して生きる生き方です。生きるために本当に大切な宝とはなんでしょう。便利か。効率か。スピードか。そこにそれぞれの意味があることを否定はしませんが、それらの価値こそが至上だという視野の狭い発想が地球の危機を招いてきたのではないでしょうか。
 21世紀の価値観は何よりも天然無価の宝を貴ぶものでありたい。千年という歳月、先祖が守り続けてきた高尾の山、高尾の森はいま、黙して語りません。ですが、沈黙の世界のなかの山の言葉、森の言葉は、それに静かに耳を傾ける人の心には届きます。

6、「利用者の権利」
 公園を利用する人たちの権利について述べます。高尾の風土生命体の中には木や鳥や虫だけではなく、次のような人たちがいます、
 @生活圏人。高尾の山の周辺に住む人たちで、圏央道の影響を受けます。大気汚染、騒音、振動の影響をもろに受けることになります。
 A公園圏人(利用者)。高尾の国定公園を訪れる人びとのことです。主に首都圏の住民です。公園圏人は、風土生命体の外側にいるのではなくて、生命体の中に溶け込んでいるところが重要です。むろん圏央道の影響を受けます。
 B修行者、祈りの人。高尾山は信仰の地であり、山岳修行者の厳しい修行の場です。いまでも、蛇滝、琵琶滝では厳しい滝行が続けられています。
 高尾の風土生命体の特徴は、@ABの人びとが有機的にかかわっていることです。@がAになり、AがBになることもあるでしょう。共通しているのは、三者とも高尾の中核にある自然と深くかかわって生きていることです。高尾の自然を「魂のよりどころ」にしていることです。みな同じ生命体の一員で、国定公園を破壊から守ろうという点では土地の人も、公園利用者もまったく一体なのだということを何回も強調しておきましょう。
 たとえばの話ですが、富士山の形が決定的に変わる「開発」が実行されるとき、富士が好きで、富士をよく訪ねる東京や愛知、いや、全国の人に開発反対をいう権利がない、とあなたは思いますか。生活圏人はもちろん、公園圏人や修行者にも「いい自然環境を享受する権利」は十分にあります。「環境利用権」「景観権」「眺望権」「自然享有権」などさまざまな言い方がありますが、高尾を訪れる人に「環境を破壊する力に反対する権利」を認めるのは当然のことです。自然公園を愛し、しばしば訪れる利用者たちが公園の破壊者に対して「反対」を叫ぶ権利をもつのは当然のことではないでしょうか。

7、「なぜ高尾山にトンネルを通してはならないのか」
 @景観について。
 圏央道トンネルは、高尾山の景観を破壊します。薬王院を中心とした高尾の山は「聖なる空間」です。同時に「やすらぎの空間」です。この二つの特徴を損なうことのないよう配慮するのが国定公園、風致保安林を守る立場にある国の務めのはずです。
 景観には、@外から内への景観、A内から外への景観(見晴らし)、B内から内への景観の三つがあります。巨大なジャンクションと高尾の山肌を突き破る高架道は、もしそれが実現すれば、高尾の風土生命体にまったく異質の風景を持ち込むことになります。竜安寺の石庭にコンクリートの歩道を造ったり、法隆寺の五重塔のすぐわきにいくつもの自動販売機を並べたりすれば、人はその異質なものの存在に思わず目をそむけ、抗議をするでしょう。異質なモノの存在は、「聖なる空間」をめちゃめちゃに破壊してしまいます。
「高尾山の緑」と「圏央道のコンクリート」とは相容れないものなのです。高尾を歩いて、建設されつつあるジャンクションの風景を見るたびに、自分の血が噴き出すようなつらい思いをします。@の景観も、Aの景観も、ジャンクションと高架道路の実現によって大幅に壊されるでしょう。Bについていえば、小仏川の風景も、蛇滝から北に降りてくる道の風景も、一変することになります。蛇滝から北に降り、小仏川に沿ってゆっくりと散策し、風と遊び、野草と遊ぶという楽しみは完全に奪われます。
 江戸文化の華だった日本橋が、首都高速道路の実現で、その美しさ、その文化遺産の意味を完全に奪われてしまったことは、だれもが認めるところです。
 国土交通省が2003年にまとめた『美しい国づくり政策大綱』というパンフレットが私の手もとにあります。そこには「美しさへの配慮を欠いたという点では、公共事業をはじめ公共の営みも例外ではなかったと認識すべきである」という率直な反省があります。そして首都高速道に無残な形で覆われてしまったお江戸日本橋の写真が一例として掲載されています。一方で、国土交通省の内部にこのような厳しい反省があるのに、なぜ一方で、高尾をトンネルで貫くという「美しさへの配慮を欠いた」事業が押し進められるのでしょうか。蛇滝や小仏川の散策を楽しむ人の数は年間、5万や1O万ではないでしょう。4号路、2号路を歩くたくさんの人もみな、景観、静穏、清澄な風を奪われます。利用者の散策の楽しみを保証するのが「公益性」というものではないでしょうか。
 美しさへの配慮を欠き、貴重なやすらぎの場を奪おうとする公共事業が、国定公園内で起ころうとしていることに、魂がふるえる憤りを覚えます。
 A静かさについて。
 静かさについては、別の機会に専門家の陳述がありますので、簡潔に述べます。
 薬王院から1号路を歩き、さらに蛇滝に抜けるために2号路に入ると、中央高速の車の騒音が耳に響いてきます。万緑を吹き渡る風の声を楽しんでいるときだけに、無機的な車の騒音が耳に痛く突き刺ささります。4号路は私の好きな道ですが、ここから高尾山の頂上をめざすときも、中央高速の騒音が耳に響きます。
 公園内に響く車の騒音は、原則としてゼロが望ましい。都市が騒音に満ちているからこそ、自然公園内は静謐であるべきでしょう。いかにして「車騒音ゼロ」に近づける努力をするか。それがこれからの「公益性」の原則になるはずです。そして国はそのための努力をすべきです。それなのになぜ、新しい騒音のタネを高尾山をふりまこうとするのか。既設の中央高速の騒音だけでも怒りのもとになっていたのに、このうえ圏央道が実現すれば国定公園内のかなりの範囲で、風の声や鳥の声を楽しむことができなくなるでしょう。サンコウチョウの「ホイホイホイ」という可憐な声が車の騒音と競合する事態になったら、これはもう「悪い冗談」としかいいようがありません。
 自然公園に必要なのは、心にしみいる透明な静かさ、心のすみずみまでくつろいだ気分になれる静穏です。自然の音に溶け込むことができるのは、そういう静かさがあればこそです。高尾山を訪ねる人たちは、過密都市の騒々しさを逃れ、本当の静かさを求めてこの地にやってくるのです。時雨が木々の葉を濡らす音、たくさんの枯れ葉が道に舞う音、夕暮れどきのヒグラシの声、しのびやかに湧きでる泉の音を聴くためにここに来るのです。車の騒音にわずらわされるために来るのではありません。

 B地下水脈について。
 トンネルを掘れば地下水が打撃を受けるということは、残念ながらすでに八王子城跡で起こっていることでもわかります。高尾山をトンネルで貫き、そのために蛇滝や琵琶滝の水が涸れてしまえば、滝行をしている信者たちにとっては由々しきことになります。地下水脈に大きな変動が起こり、表層が乾き、植物の枯渇現象が起こることはないのか。そういう恐ろしいことが起こった場合だれが責任をとるのか。復元しようにも、どうやって復元するのか。取り返しのつかない荒廃だけが残るのではないでしょうか。
 私は静岡県掛川市の山奥にある農家を借りて、ときどき休養に行き、畑仕事をしています。その農家から4キロほど離れたところに粟ケ岳という霊山があります。その粟ケ岳に湧きでる名水が突然、出なくなりました。山麓の集落の水も出なくなりました。粟ケ岳の名水は近在の人がもらいに来るほどのうまい水でしたが、これがだめになったので困っていると茶店のおやじさんがこぼしていました。
 粟ケ岳のすぐそばで第二東名高速道路の工事があり、トンネル工事もありました。トンネル工事があって、水が出なくなったのです。道路公団は市内の浄水を粟ケ岳や集落に送り続けているという話です。私のいいたいのは、トンネルを掘るという仕事には、こういう予想もしなかったことが起こるということです。そして、地下水脈に大きな破壊があった場合、復元は絶望にひとしいのではないでしょうか。
 C大気の汚染その他の影響については、割愛します。

8、「裁判所への要望」
 高尾山を歩いていると、子ども連れの人によく出会います。のろまな親を置いてどんどん先を行く少年たちに「待ってえ」と親がどなっている。そんな微笑ましい光景にも出会います。ぜひたくさんの子どもたちに高尾山を歩いてもらいたいと思います。昔ながらの森とはこういう森なんだと全身で味わってもらいたい。雨の日の森の美しさを感じてもらいたいし、大きなミミズの姿に驚いてもらいたい。そして森の美しさ、森のぶきみさ、森の神々しさを体で味わってもらいたい。本来の「静穏」というもののこころよさを知ってもらいたい。できれば薬王院や奥の院におまいりし、天狗さんやお稲荷さんのキツネの姿を記憶に留めてもらいたい。高尾山は、学ぶべきことの宝庫です。
 東京の風景から「鎮守の森」や「きれいな水辺」が失せてゆく昨今だからこそ、高尾山を今の姿のまま、次の世代の人びと、さらにその次の世代の未来人に伝えることの意味は大きいのです。国も都も私たち利用者も、子どもを裏切らないために「優れた自然の風景地」を保護するという自然公園法の本来の精神に背く行為は、ただちに止めなければなりません。
 私たち大人は未来人に対して責任があります。百年後の高尾山が荒廃し、見る影もなく衰微している姿を未来人に見せたくはありません。私たちは、高尾山をよりすばらしい形で未来に引き継ぎたい。私たちのこの思いをぜひ受け止めていただきたい。
 五十年後、百年後の世の中がどうなるか。確実なことは今までのような自然との対決、自然の征服、という手法は行き詰まるということです。未来に責任をもつために、私たちは自然破壊の時代から自然融和の時代へという明確な哲学をもち、その方向へ世の中を変
えていかなければならないと思っています。この思いをぜひわかっていただきたい。

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陳 述 書

高尾山の自然の価値と保全の必要性
2004年10月18日 

小泉 武栄
(東京学芸大学教授:自然地理学・地生態学)

豊かな植物相
 高尾山は八王子市の西にある海抜600mほどのごく低い山ですが、植物の種類はきわめて多く、1598種類の植物の分布が報告されています(林ほか、1966)。また昆虫も種類が多く、5、6千種にも達するそうです。このため大阪の箕面山、京都の貴船山とともに、日本の昆虫の三大生息地として知られてきました。野鳥や哺乳類も予想をはるかに上回るたくさんの種類が生息していることがわかっています。
 上に述べたような自然の豊かさから、高尾山は1950年、都立の自然公園になり、1967年にはさらに「明治の森高尾国定公園」に指定されました。
 先にあげたおよそ1600種という植物の数は、寒冷な北海道から亜熱帯気候の琉球列島、小笠原諸島まで含めた日本全国に生育する植物約5300種の、30%に当たります。つまり日本列島の分布する植物の3分の1弱がここにあるということです。この低い山にこれほど多くの植物が分布しているということは、まさに奇跡的といえましょう。高尾山は日本でもっとも植物の種類の多い山なのです。
 比較のためにいくつか数字をあげてみましょう。イギリスに分布する植物は、国土全体でも約1400種にすぎません。これは氷河時代に国土の大半が氷河におおわれ、植物が次々に滅亡してしまったためなのですが、高尾山ではたった一つの山でイギリス全土をしのぐ数の植物を見ることができるのです。
 また山梨県には日本で一番高い富士山、二番目に高い南アルプスの北岳、鳳凰三山、あるいは八ヶ岳、金峰山などと、高峰が目白押しですが、それでも分布する植物の数は全部あわせても2000種にすぎません。山梨県では丘陵帯(照葉樹林帯)から山地帯(落葉広葉樹林帯、ブナ帯)、亜高山帯(針葉樹林帯)、高山帯(ハイマツ帯)までの垂直分布帯がよく発達しているのですが、それでも2000種しかないのです。
 神奈川県からは1944種の植物の分布が報告されています。あれだけの面積があって1944種なのです。このことからも、1つの低山に過ぎない高尾山に1600種もあるということがいかにたいへんなことか、理解されるでしょう。
 なお高尾山に次ぐ植物の多い山としては、鈴鹿山脈の藤原岳と伊吹山地の伊吹山があげられ、いずれも約1200種ほどの植物が分布することが知られています。

高尾山は自然界の法隆寺
 高尾山は海抜わずか600mにすぎません。垂直分布帯でいえば、丘陵帯にすべてが入ってしまう標高です。この低い山になぜこんなに植物の数が多いのかという点については、後で詳しく考察しますが、一言で言えば、高尾山には日本の植物の垂直分布帯が凝縮された形で存在しているのです。この点で高尾山は日本全体から見てもきわめて特異な山であり、まさに日本の、いや世界の宝物といってよいでしょう。
 法隆寺や姫路城は日本の国宝であり、世界遺産にも指定されましたが、私は、高尾山は自然界における法隆寺や姫路城のような存在であり、それに匹敵する価値をもっている山だと考えています。当然ながら世界自然遺産に推薦する価値がある山だということです。
 昨年(2003年)、環境省と林野庁の共催で、わが国から世界自然遺産に推薦する候補を決める委員会が開かれ、私も7人の委員の一人として会議に参加しました。世界遺産のねらいは「貴重な自然遺産や文化遺産を戦争や貧困、自然破壊などから守り、国際的な協力のもとに保全し、かけがえのない人類の宝として次世代に引き継ぐ」ということにあります。
 高尾山は上で述べた点から見て、十分に世界遺産に登録する資格があると考えます。実は高尾山は第一次の候補にはリストアップされていました。しかし候補をしぼっていく段階で、「面積が小さすぎる」という理由で外されました。これは高尾山がいかに特異な存在かを逆に示しているといえます。
 昨年の委員会では、最終的には知床、琉球列島、小笠原諸島の3か所を推薦候補地としたのですが、高尾山もいずれ世界遺産候補として推薦すべきだと私は考えています。

トンネル掘削は法隆寺の庭に道路を通すようなもの
 周知のように、現在、国土交通省が高尾山の真下にトンネルを掘って圏央道を通すことを計画しています。「トンネルが開通すれば、高尾山の自然は取り返しのつかない大きなダメージを受けることになるのではないか」と危惧された弁護団の方々が、私のところにも相談にみえましたが、高尾山の自然が素晴らしいことは国土交通省も認めているので裁判の争点にはならず、トンネルを掘ったときに被害がでるかどうかがもっぱら争点になっていると聞いて、私はたいへん驚きました。
 わが国の国家的財産、あるいは世界の宝とでもいうべき高尾山にトンネルを掘るというのは、いわば法隆寺の庭を貫いて大きな道路を作るようなものです。法隆寺の庭に道路を通しても建物に直接、被害はでないでしょう。でも、だから道路を作ってもいいだろうとは誰もいわないはずです。それは法隆寺がかけがえのない価値を持っているということを、日本国民の誰もがよく知っているからです。ですから、法隆寺の庭を貫いて道路を通そうと計画する人は、最初からまずいないでしょうし、逆に、もしいたとすれば、私たちはその人が正気かどうか疑わざるをえません。
 高尾山についても同じことがいえます。この山は法隆寺や姫路城と同様、日本が世界に誇るべき、他に例のない、かけがえのない山です。本来、トンネルを掘って影響がでるかどうかなどと議論すべきレベルの山ではありません。初めから、つまり道路計画をたてる段階で避けるべき山なのです。ですから、もしも計画段階で環境アセスメントがきっちりと行われていたとすれば、当然、この山を避ける形で路線計画が立てられていたはずです。
 高尾山は実は欧米の植生研究者にもよく知られています。それは欧米には存在しない照葉樹林が、東京に近い高尾山に典型的な形で残されているからです。ですからこの山にトンネルを掘るようなことをすれば、日本人は自分たちのもっている宝物を平気でこわす野蛮人だと、世界の物笑いになってしまうでしょう。
照葉樹林は世界的に見ても、日本列島から中国南部を経てブータンやネパールに至る地域にしか分布しません。アメリカなどでは氷期に滅亡してしまったのです。ですから欧米の研究者はその価値を良く理解しています。さきほど述べた世界遺産の候補地を決める委員会でも、九州の「綾の照葉樹林」は最後の段階まで残りました。わが国でも研究者にはその価値がよく理解されているのです。

自然教育の欠如が問題
 すでに述べたように、法隆寺の庭を貫いて道路を通そうと計画する人は、国土交通省にもまずいないと思います。ではなぜ高尾山の下にトンネルを作ろうと考えたか。それは自然に対する知識が、彼らに全く欠けているからに他なりません。法隆寺が世界最古の木造建築だということは、私たちは学校の教育で必ず習います。ですからそのことは日本国民なら皆知っています。しかし日本列島の植物分布の特色や自然の歴史などの項目は、学校教育のカリキュラムから欠如してしまっているために、大学で生物学か自然地理学でも専攻しない限り、教わることがありません。その結果、日本国民の大半は人間の作った文化財についてはよく知っているものの、自然が長い時間をかけて作り出した日本の自然や、その貴重さについてはほとんど何も知らないという状況が生じてしまいました。たとえば、「高山植物がなぜ貴重なのか」、と聞かれて、どれだけの人が正しく答えられるでしょうか。今、ここにおられる方々の中にも、きちんと答えられる人はほとんどいないはずです。自然史教育の欠如は、まさにわが国のカリキュラム上の大きな欠点といわざるをえません。
 環境先進国といわれるドイツやイギリスでは、自然環境や自然史についての教育が充実しており、国民は、初等中等教育の段階で自国の自然の成り立ちやその価値について詳しく学びます。それが現在見られる美しい自然景観の創出につながっていると言っていいでしょう。逆に、日本ではこれまで長年にわたってひどい自然破壊が行われてきました。その例を挙げれば、それこそきりがありませんが、私たちの子孫のことを考えるなら、これ以上の自然破壊はもはやするべきではないでしょう。そのためには土建中心の国家政策の見直しと自然教育の充実、そして国民みんなの自然学習が望まれます。高尾山については、まずなによりも環境アセスメントのやり直しが必要だと考えます。

南斜面と北斜面で異なる植生
 高尾山の植物についての話にもどりましょう。高尾山では表参道のある稜線をはさんで、南東側の斜面に常緑広葉樹林、北西側の斜面にブナ林を中心とする落葉広葉樹林が分布しています。このことが高尾山の植物の種類を多くしている原因の一つになっていることは、間違いないといっていいでしょう。
 まず南斜面の森を見てみます。アカガシ、アラカシ、ウラジロガシ、ツクバネガシなど常緑の広葉樹がうっそうとした森を作っています。森の中は暗く、曲りくねった木の枝がこみいっています。この森は照葉樹林とも呼ばれ、高尾山の気候にあった本来の植生です。林床にはカントウカンアオイなども見られます。
 ところが北側斜面に入ると、森林の様子は一変します。海抜は400m台にすぎないのに、イヌブナやブナと、イロハモミジ、オオモミジなどのカエデ類が優勢になり、沢筋にはサワシバ、ケヤキ、ホオノキ、イタヤカエデなどが現れます。また第4号の自然観察路沿いでは、海抜がやや高いせいか、アサダ、ヨグソミネバリ、ウワミズザクラ、フサザクラなど、さまざまの樹木を見ることができます。この森は本来ならもっと高い標高(海抜800mから1600mの山地帯)に現れる森林です。
 ではなぜこんなことが起こったのでしょうか。

これまでの説明
 これまでこの問題については2つの面から説明が行われてきました。1つは高尾山が744年の行基の開創以来、宗教上の理由から森が手つかずのまま保護されてきたため、植物の種類が多いというものです。これはおそらくこの通りでしょう。
 もう1つの説明は、高尾山が暖温帯と冷温帯のちょうど境目に位置しているために、両帯の植物が入り交じって生育し、このために種類が多いというものです。この説は植生図の上では確かにそのように見えますが、山の高さを考えると必ずしも説明がうまくいっているとは思えません。一年を通じての気温の推移から考えると、高尾山はやはり全域が照葉樹林の領域に含まれてしまうのです。山頂にあたる海抜600mにおける「暖かさの指数」は、推定で87.3ですので、照葉樹林帯に含まれる事は間違いないでしょう。
 ただ照葉樹林の領域に入っていても、冬とくに寒いところでは、寒さに弱い照葉樹林は分布できず、代わりにモミやツガなどが現れることが知られており、このような森林は「中間温帯林」と呼ばれてきました。高尾山の場合、標高の高い部分のなだらかな尾根筋を中心に、モミが広く分布していますので、この部分は中間温帯林にあたる可能性があります。しかしいずれにしても、本来もっと寒いところに分布するブナ林の植物が次々に現れることの説明は、気温からは困難といわざるをえません。
 ではいったい何が原因なのでしょうか。

地質・地形条件が大切
 私は高尾山の地質と地形、土壌が重要だと考えています。高尾山は小仏層群と呼ばれる地層からなり、この地層は粘板岩や、砂岩と粘板岩の互層からできています。この地層は70度くらいの角度で傾いており、それは登山道のところどころで見ることができます。
 この粘板岩や砂岩には風化によって細かいひびがたくさん入っており、冬場、ひびにしみこんだ水が凍ると岩石を細かく割ってしまいます。このはたらきを専門用語で「凍結破砕作用」といい、高尾山では冬場、寒い北西側の斜面でこの作用が活発に起こっています。北斜面のどこかで下をのぞいてみてください。斜面が予想をはるかに越える急傾斜になっていて、その先は崩壊地のようになっていることがわかると思います。また凍結破砕作用は水のある谷筋で活発にはたらきますので、そこだけが侵食されて、小さな谷と尾根が細かくくりかえす、険しい地形ができやすくなります。
 つまり北西側の斜面では冬場寒いことに加えて、凍結破砕作用による岩石の風化が活発に起こっており、表土が不安定化しています。このため私は、本来の植生である照葉樹がそこで生育することができず、代わりにブナ林を中心とする落葉広葉樹林が入り込み、そのまま残存しているのだと考えています。生育する木の樹齢から見て、ブナなどが広く育つようになったのは、16〜19世紀の小氷期と呼ばれる寒冷期だった可能性が高いようです。ちょうど江戸時代の天明の飢饉や天保の飢饉の起こった時期に当たります。私は当時、高尾山をはじめ東京周辺の山では、冬場も積雪が多く、一時的に日本海側の山地に近い気候となり、そのために本来日本海側の植物であるブナなどが発芽できたのだと考えています。当時発芽した木が現在、一抱えもある大木になっているわけです。
 これに対して南向き斜面ではよく日が当たりますので、凍結破砕作用はほとんどおこりません。このため表土は厚く安定しています。また粘板岩というのは、もともと海底に堆積した泥が固まって地層になり、それが圧力を受けてできた岩石ですから、風化するとまた元の泥に戻ります。このため南斜面では細かい泥や礫がよく混じり、水もちのよい、植物の生育にはとても都合のよい土壌ができています。このことが照葉樹林の成立に有利にはたらいたことは、間違いないところでしょう。

山の地下水について
 次に山の地下水についてふれておきましょう。今述べたように、粘板岩が風化してできた土壌はとても水もちがいいのですが、岩石そのものに割れ目がたくさん入っているために、雨水は割れ目を伝わって地下に浸透していきます。その結果、高尾山は山全体がしっとりとした状態になっており、地下水は琵琶滝や各地の湧水となって、再び地表に顔を出します。
 また浸透した地下水はたとえば北向き斜面の下部でしみだしますが、そうした湿った環境にはアズマイチゲやニリンソウなどの春植物が現れます。これらはもともと、雪国やブナ帯を本拠地とする植物で、氷期に南下してきたものが、その後も特別に涼しい場所で生き延びてきたものです。いわば氷期に由来する「生きた化石」といっていいでしょう。
 ところで私はしばらく前まで、東京都の自然環境保全審議会の臨時委員を勤めていたのですが、その際、八王子市美山町の採石場を何カ所か見学する機会がありました。採石場では石をとった跡に、高さ100mを越えるような巨大な壁ができていることがよくあります。
 ある採石場を訪ねたときのことです。その日は前日に200mmを越える集中豪雨があり、朝方、雨がようやく上がったのですが、私はそこで驚くべき光景を目にしました。採石場の壁のあちらこちらから、地下水が勢いよく噴出し、白い滝を作っていたのです。水がとびだしているのは、地下にある水道(みずみち)からでしょう。「なるほど山の地下水というのはこんな風に流れているのか」と、私はそのとき初めて実感しました。
 トンネル検討委員会は、 高尾山にトンネルを掘っても、地下水低下の実質的な被害はないと予測しているようですが、私は実際にトンネルが掘られれば、こうした水道が分断され、湧水や水のしみだしに大きな影響を与えると考えます。そしてこのことは滝や植物の分布にも何らかの影響をもたらすと予想されます。
高尾山の自然はすでに述べたように、きわめて微妙な環境条件の下で成立したものです。わずかな環境条件の変化でも取り返しのつかない打撃を受ける恐れがあります。いちど破壊した自然は二度と元にもどりません。北海道の東ヌプカウシ山では、トンネルの掘削がそこにある永久凍土を解かし、生育する植物に大きな影響をあたえる恐れがあるとして、トンネル計画は撤回されています。高尾山でも、東ヌプカウシ山の事例に学ぶべきでしょう。

豊かな生態系
 これまで見てきたように、高尾山には大きく分けて3種類の森があり、それぞれに膨大な種類の植物が生育しています。このような樹木の種類の多さは、さまざまの昆虫に餌を提供し、それがさらには豊かな鳥類や哺乳類を養うことを可能にしました。そしてそれを支える基盤環境として、粘板岩・砂岩という地質とそれが作り出す地形・土壌条件がありました。これらが一体となって、高尾山のかけがえのない自然を作っているといってよいでしょう。
 東京という大都市のすぐそばにあって、このような多彩な自然が保たれているというのは、まさに奇跡的なことといえます。私たちはこの素晴らしい財産を、そのままの姿で子孫に引き継ぐ義務があるといってよいでしょう。

高尾山の優れた自然と歴史・文化との関わり合い
 以上で述べた高尾山の優れた自然は、人間に大きな恩恵をあたえて来ました。高尾山は関東平野から見ると、大山や御岳山などとともに平野から急にそびえ、良く目立つ山であるため、まずはそれ自体が山岳信仰の対象となりました。また険しい地形と沢にかかる滝、それに鬱蒼とした森林は、かつての修験道に修行の場を提供しましたし、薬王院を始めとするいくつもの神社の成立する基盤となりました。

高尾山は優れた教育や憩いの場
 高尾山は教育の場としても重要な役割を果たして来ました。そこに生育する数多くの植物や昆虫、動物たちは、たくさんの研究者を育てるのに大きく貢献して来ました。私自身の体験でも、高尾山は植物を覚えるために何度も通いましたし、1990年頃は調査のために何回か山に入りました。また現在でも、大学の学生に対する植物や地形・地質の教育のために、しばしば高尾山を訪ねています。知り合いの生物学者は昆虫を採集するために、高尾山によく通ったそうです。このような高尾山の教育に対する機能は、開発などで自然のよく残された山がますます減ってきている現在、ますます重要になることはあっても、それが少なくなるということはないでしょう。
 高尾山はいうまでもなく、東京都民を始めとする市民のリクリエーションや行楽の面においても重要な役割を果たして来ました。年間250万人もの人が訪れるそうですし、その中には何回も登る人も少なくないようです。これだけたくさんの人たちがなぜ高尾山を訪ねるのでしょうか。東京に近いという交通の便の良さももちろん大切ですが、私は、それだけではなく、やはりそこで優れた自然に接することができるからだと考えます。また「癒し」の効果も大きいようです。
 何年か前、私のゼミの大学院生が、登山者に対して「あなたはなぜ山に登るのですか」というアンケートを取ったことがあります。それによれば、山頂に立ちたい、優れた自然を楽しみたい、などという回答のほかに、「普段の生活が厳しいので、山にでも登って気晴らしをしないとやっていけない」という答えが少なからずあり、「癒し」を求める人の多いことに驚いたことがあります。高尾山は都会に近い手頃な山として、今後も「癒しの山」としての役割を果たし続けるに違いありません。
 高尾山が、山らしい山に登る初めての体験になる子供も少なくありません。都内の小学校には、4年生くらいの遠足で高尾山に麓から歩いてのぼるという学校がかなりの数あるそうです。この場合、登山は一種の成人式のような役割をはたし、ちゃんと登ることができれば大きな自信につながるそうです。同じような役割の山は全国各地にあり、登る年齢も千差万別なようですが、このような高尾山の役割も軽視できないものだと考えます。
高尾山の役割が今後重要になる部門として、社会教育、生涯教育の面での貢献があります。
 私は現在NPO法人「山の自然学クラブ」の顧問をしていますが、このクラブでは年に何回か実際の山に登って自然観察を行う現地講座を開催しています。この講座では、山全体の成り立ちから植物の分布までを広く考察します。従前からの植物や昆虫などの名前を教えてくれる観察会とは異なり、この講座では参加者が自ら頭を使って考えることが特色になっていす。平均寿命が延び、退職後も元気な社会人が増えるにつれ、このようなレベルの高い社会人講座などはますます増えると予想されます。その場合、類まれな自然を持つ高尾山は、そうした人たちの教育の場として極めて重要な存在になるでしょう。

 以上、いろいろ述べて来ましたが、これまで長年にわたって維持されてきた高尾山の自然はこのまま保存すべきだと考えます。優れた自然を劣化させる恐れのあるトンネル計画には自然の研究者として反対せざるをえません。トンネル計画の撤回を求めます。


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陳 述 書

2004年10月18日

鳥越けい子
(聖心女子大学教授:サウンドスケープ研究)
 
職歴、専門分野ならびに業績
  別添。

はじめに:
 7月18日、私の勤務する聖心女子大学の学生たちが、桶や柄杓をもって、広尾の商店街に繰り出しました。ちょうど一ヵ月後に予定されている「2004年大江戸打ち水大作戦」のプレイベントでした。
 第1回目(昨年)のスローガンは、江戸庶民の生活の知恵「打ち水」を同じ日の同じ時刻にみんなで決行して「都心の気温を2℃下げよう」。それに今回、新たに加えられたのは、「真夏の東京に<春の小川の風>をふかせよう」という合言葉でした。
 「大江戸打ち水大作戦」の公式ホームページhttp://www.uchimizu.jp/ には、次のようにあります ─ 都会に「川」が復活すれば、それがヒートアイランド対策のいちばんの解決になると言われています。恒常的に風の抜ける道ができるからです。その昔は、日本の都市の至る所に小さな川が流れていました。戦後、ほとんどの川は道路で蓋をされて姿を消し、川の記憶も蓋をされてしまいました。唱歌<春の小川>の舞台が東京の渋谷だったという事実は象徴的です。ある意味で、打ち水大作戦とは、束の間みんなの手で川の道をつくりだそうという試みでもあります。
 その3日前、銀座ブロッサム大ホール(旧中央会館)で「水辺からの都市再生:取り戻そう川沿いの環境と賑わい」と題したシンポジウムが開催されました。私もパネルの一人として参加し、専門のサウンドスケープ論の立場から次のようなことを話しました:1)大学の授業で行っている「歌の現場を訪ねて」というプロジェクトで、<春の小川>(1912=大正元年、『尋常小学唱歌(四)』に発表)の歌詞がつくられた地点、宇田川の支流河骨川(こうぼねがわ)を訪ねたところ、かつての小川は暗渠となり、そこには何とゴミ置き場が設置されていた。2)日本橋のように、かつては美しかった橋の上を覆っている高速道路は、見た目の景観を破壊しているだけでなく、その音環境をも大きく損なっていることに気づいていただきたい。
 そして、このシンポジウムに招かれたメインの報告者、ソウル大学校環境大学院教授(ソウル特別市副市長)梁 在氏が報告したのは、長年暗渠となっていたソウルの川、チョンゲチョン(清渓川)の蓋が、川の上を走る高速道路と共に、今まさに取り外されつつある情況でした。梁教授の話しで特に印象的だったのは、次のようなことでした ─ 高速道路を撤去し、道路を川に戻すことに反対する人々は、地元の商店主をはじめ数多くいた。その人たちと、私たちは根気よく話し合った。そして、高速道路を取り払ったとき、彼等がまず言ったこと。それは、陽の光が入って明るくなり、南山が見えるようになった、ということだった。ソウルの母なる川の復元と共に、ソウル市民は自らのまちとの繋がり、自らのまちへの誇りをも取り戻しつつあるのだ。
 このシンポジウムがきっかけとなり、今月(8月)の16日から2泊3日で、私はソウル市を訪れました。チョンゲチョン(清渓川)復元工事の現場をこの目で確認し、工事に当たっている人々の話しを聞き、併せて同市で17日から開催された「第3回アジア土木技術国際会議(3rd CECAR:Civil Engineering Conference in Asian Region)」(アジア地域に留まらずアメリカやオーストラリア等も含め環太平洋諸国の土木関係者が参加。基調講演者は韓国政府の環境大臣)に出席しながら、私が改めて確認したのは次のことでした ─ 日本を含む世界の国々で日々の生活における価値観が今、確実に変わりつつある。道路建設を含めた「土木の世界」においてもそれは例外ではない。そうした情況のなかで高尾山トンネル計画を断行することは世界的にみたとき、今や「都市に自然を取り戻す」をスローガンとしている土木業界の常識からも「はるかに遅れた愚行」となる。
 今回のソウルで調べたことについては、最後に述べることにして以下、これまで述べてきたことと深く関わる「サウンドスケープ」という考え方について、またそれが都市や自然をめぐる計画論(における価値観の転換)とどのような関係をもつのかについて解説します。

1.今なぜサウンドスケープなのか?
 音を聴くという行為は、人間にとって最も基本的な営みのひとつです。音の世界は常に、日々の生活に欠くことのできない、私たちの「生」を支えるひとつの重要な次元です。けれども、学問や教育、その他の実践も含めた諸制度が細分化した現代社会においては、この音の世界はこれまで、あまり顧みられることなくないがしろにされてきました。たとえ問題にされたとしても、そのごく一部分が、西洋近代の学問部領域を中心とした既成の価値観から、バラバラに扱われるだけでした。
そのような情況のなかで、音の世界の存在を喚起し、その深遠な意味を探るための手掛りとして提唱されたのが、サウンドスケープという用語とその考え方です。「サウンドスケープ[soundscape]」は、「サウンド」と「?の眺め/景」を意味する接尾語「スケープ[-scape]」との複合語で、一般に「音の風景」と訳されます。この言葉が生み出され、提唱されたのは、ちょうど1960年代から70年代に移ろうとする頃のカナダでした。
 用語と研究の発祥地が英語圏であるため、日本に暮らす私たちにとって、「音の風景」という感覚や発想が「輸入もの」であり、元来そなわっていなかったのではないか、という疑問が生じるかもしれません。しかし、私たち日本人はむしろ、こうした感覚を古くから持っていました。それがあまりにも当然のことだったため、はっきりと意識することなく見過ごしてきた。さまざまな環境の危機を迎えた近年になって初めて、我国における「音の風景」の実態と感覚そのものが危機に直面していることに気づき、それを敢えて言語化することによって、その重要性を見直そうとしている。というのが、サウンドスケープをめぐる我国の情況だと言えるでしょう。
 江戸の名所を紹介する浮世絵に《道灌山虫聴きの図絵》があります。夏の夜、闇の中にすだく虫の声にじっと耳を傾ける人々を、地平線の向こうの大きな月が照らし出す風景を描いた、不思議な豊かさに満ちた浮世絵です。今日「名所」といえば「花見の名所」など、景色を視覚的に眺めて楽しむための地点がほとんどです。これに対し、当時の江戸のまちには「虫の音」という、いわば自然のコンサートを楽しむための特別な場所、「音の風景を楽しむための名所」があったこと─そうした都市や風景の楽しみ方があったということ─を、この浮世絵は見事に伝えています。(甲第91号証14頁)
 さらに、現代では「虫の音」と言うと、「自然科学の対象」にしがちです。しかし、この浮世絵に描かれている人々は、「科学する心」から虫の音に耳を傾けているのではありません。「風流」の一環として、虫の声を「愛でる美学」がそこにはあったのです。こうした「虫聴きの会」は、五感全体を通じた自然界との豊かな交流に支えられた、我国の文化を象徴するひとつの事例です。「自然と対峙」するのではなく「自然と融合」するこのような日本の文化は今、世界的にもその価値を認められています。最近新たに「世界遺産」に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」もまた、そうした我国の文化の特色を、世界に分りやすく伝えていると言えるでしょう。
 けれども、こうした「虫聴きの会」は、現代では一般に行われなくなりました。私たち個々人が、自分たちの身体の中で継承している、この感覚と美学もまた、確かに生き延びてはいるものの、それが確実に弱体化しているのもまた事実なのです。戦前のことになりますが、昭和14年、林学博士の川村多実二は当時、東京風景協会が発行していた雑誌『風景』に、「風景の香と聲」という文章を寄せ、「概して文化程度が進むにつれて、視覚依存の度を高めるのが通則で、音楽や香料として、嗜む場合は別であるが、自然の音響や香に封しては次第に不注意となる傾がある。短時間に成る可く廣くと駈け巡る風景観賞者に到っては、働かすものは唯眼ばかりである」と嘆いでいます(甲第91号証17頁)。川村のいう「文化程度の向上」とは、我が国における「近代化」の名のもとに推進された「西洋化」への過程でした。その西洋近代化が、「利便性」や「効率性」を追求する一方で、我々の感覚に及ぼした変化のひとつが、視覚の偏重、それに伴う全身感覚的思考の弱体化だったのです。
 西洋文明では、近代においてはとりわけ「視覚」を重視し、視覚中心の文明を形成したと言われています。同時に、西洋近代が確立した「近代科学」が基本としていたのは、対象の「客観的把握」や「要素還元・分析主義」といった発想法でした。科学の領域のみならず、西洋近代は、専門分野化した効率のよい発想と作業方法を得意とし、教育制度から職業に至るまで、細分化された多くの専門領域を生み出していったのです。
 この西洋近代化が、我が国においても、明治から戦後に至るまで一貫して推進され、それが、社会の諸制度のみならず、何をどのように見、聴くのか、という私たち個々人の感覚や感性にまで及んでいるのは言うまありません。都市や自然を対象とした計画論においては、とりわけ「風景」はその内容をより限定した「景観」という用語に置き換えられ、「景観」は、建築関連の辞書で「ある土地において自然と人間との交渉によって形成される可視的事象のすべて。すなわち視覚的環境のことをいう」と定義されるようになりました。こうした情況の中で、わが国ではごく最近まで、都市や自然をめぐる環境計画においては、形あるもの、視覚的なモノが重視され、いかに機能的で効率的なハードをつくるか、ということが最も重要な課題とされてきたのです。
 その結果もたらされたのが、冒頭に述べた「春の小川の暗渠化」の拡大であり、「高速道路に覆われた日本橋」に象徴される日本の都市景観なのです。また「高尾山トンネル計画」が、その延長線上にあるのは明らかです。

2.サウンドスケープがとらえる音の世界
「サウンドスケープ=音の風景」という考え方は今、世界の各地に広まり、現在は国際的にも「サウンドスケープ研究[soundscape studies]」といった研究領域が生まれています。そこでは、音楽のような音も、雨の音や鳥の鳴き声などの自然界の音も、街のざわめきも、あらゆる種類の音が研究対象となります。つまり、これまで「音楽」は「音楽学/芸術学」、自然界の音は「自然科学」、騒音は「騒音制御工学」というように、異なる学問領域でバラバラに扱われていた音の世界を、「サウンドスケープ研究」という同じ土俵の上で扱うことによって、今まで捉えることのできなかったそれらの音のジャンル相互の関係が見えてくる。さらには、そのような音の世界から、周囲の環境をとらえることによって、固定概念が打破し、別の考え方が可能になる(つまり、これまで問題にできなかった内容を議論の対象として取り上げることができるようになる)、という問題意識がそこにはあるのです。
 こうしたことを前提としながら、ここでは以下、サウンドスケープという考え方がとらえる音の世界の特徴を二つ述べます。

2.1 環境=文化資源としての音
 現代社会では、「音(サウンド)」と言うと一般には、CDで聴く音楽や、インターネットやラジオ等の放送文化も含めたメディア(あるいはスピーカー)を通じて聴くような音を連想しがちです。これは、どこに持ち運んでも、好きなところで好きなときに楽しめるタイプの音です。一方、「音の風景(サウンドスケープ)」が問題にするのは、生きた環境や暮らしのなかで育まれ、それと一体になっているようなタイプの音の世界です。
 この点を分りやすく示すプロジェクトのひとつは、長崎在住の吉岡宣孝氏が1990年より主宰する市民団体「長崎伝習所:長崎サウンドデザイン塾」が、1992年の7月から10月にかけて実施したプロジェクト、《ながさき・いい音の風景》です。そこでは「探してください、長崎の音」という呼び掛けのもと、長崎のまちのなかで「大切にしたい地域の音の聞こえる場所がどこか/そこではどのような音(の風景)が味わえるのか」を、市民に広く募集しました。その結果74件の応募があり、「静かな郊外の滝の音:醍醐の滝(三川町)」「早朝の漁港の賑わう音:茂木漁港(茂木町)」「失われた音の風景:中島川の桜橋?八幡橋(カルルス)(新中川町)」など、その一部が小冊子『ながさきの風景・音と耳と心:ながさき・いい音の風景20選』として発表されています。(甲第206の2の34頁)
 甲第206号証の2の35頁の図1は、その小冊子の「大きな楠のある境内の音:山王神社(坂本町)」を紹介する頁です。このプロジェクトに「特別アドバイザー」として参加した折、私も山王神社にこの大楠を訪れました。この山王神社は、長崎に原爆が落されたときの、爆心地の近く、爆風で鳥居の柱のひとつが爆風で破壊されたため、今では「片足鳥居」として知られる鳥居の奥の境内に、この楠は立っています。楠の木陰にたたずんで、軽やかなサワサワサワという響きに包まれたとき、私は言いようの無い安らぎを感じました。同時に地元の人の話しから、この「山王神社の大楠の音風景」には、そうした単なる「快適な音環境」をはるかに超えた深い奥行きがあることを知りました。つまり、原爆によって黒焦げになったこの「被爆の楠」は、数年後に新しい芽を吹き、地域の人々にこの地で再び生活をし、こどもたちを育てていく勇気を与えたということを知ったのです。
 甲第206号証の2の35頁の図1で示すように、山王神社大楠の音風景の構成要素としては、「木の葉のざわめき/風が梢を切る音/子らの遊ぶ声/夏の盆踊りの音」などが言及されています。これまで「環境保全」と言った場合、その「環境」とは「自然環境」を意味するのに対して、ここではその「環境」の内容が「自然環境」と「文化環境」の双方が含まれた内容となっているのです。つまり、一般には「楠の保全=自然環境の保全」と考えられがちですが、この推薦の言葉をよく読めば、楠のところに集まってくるのは、鳥や虫ばかりではない。こどもたちやお年寄りをはじめ、地域の人々が、何かというと集まってくるのが、この楠のある境内だということが明らかです。
 「山王神社の大楠」を守り伝えるということは、そこに集まってくるさまざまな生物の生活を守り伝えることだとすれば、その「生物」には、地域の人々がしっかりと含まれているのです。それはさらに、「盆踊り」をはじめとする地域の暮らしと文化そのものを守ること、また、「原爆/その後の復興」といった都市の記憶、歴史の記憶を守り伝えることにもつながる。「山王神社の大楠の音風景」には、こうしたことが、はっきりと示されているのです。(甲第206号証の2の35頁36頁)


2.1 土地の気配や雰囲気としての音
 サウンドスケープからとらえる音の世界のもうひとつの特徴としては、それが「耳で聴く音」に留まらない「全身感覚で感じる音の世界」を大切にするということがあります。
先に紹介した雑誌『風景』(昭和14年の号)に、林学博士の今田敬一が寄稿している文章のなかには、次のような森林風景の描写があります ─「耳を傾けて聴くべき幽寂な音の雰囲気が、實はその風景にとって非常に大切なこともある。たとへば、奥山に呼ぶ何か鳥の一聲二聲のこだまするのを聞くと、山の霊気の愈々身にせまるを覚へ、また、幽谷の底にせゝらぐ水の 音に谷は愈々深く、或はまた、しんゝといふ不思議な一種の低い音に、原始林の壮大さは愈々圧倒的に感じられ?」(甲第91号証22頁23頁)。
 ここに響く音は、単なる「空気の振動としての音響」ではありません。「しんしんという不思議な音」とは、深山の冷気、樹々の香、山の神秘などすべてを結合したひとつのトータルな感覚なのです。つまり、ここでの「音」とは、西洋近代文明の規定する「音響」をはるかに超えた、より幅の広い世界を意味しているのです。その音の世界は、単に耳で捉える「音」だけではない。空気の「張り」や「肌触り」等々を含め、全身で感じるその森林ならではの「気配」でありその「雰囲気」が重要なのです。ここに描写されている世界を五感に分けること、それ自体が不可能なのです。
 このように、少なくとも、約半世紀前の日本の風景論には、生き生きとした耳の思考が働いていました。その耳は、視覚も含め、嗅覚や触覚といったその他の感覚と有機的に結びつき、その世界を深く豊かなものにしていました。そうした世界はさらに、力強い「全身感覚」に支えられていたのです。同様に、サウンドスケープという考え方の根底には、「聴覚文化復権の試み」と同時に「西洋近代文明の細分化した諸制度の再統合への志向」といった考え方があります。
 この点は、サウンドスケープの考え方を理解するにあたって注意すべき、最も重要なことのひとつです。なぜなら、そのように捉えたときサウンドスケープの考え方は、単に「音の世界における新しい考え方」に留まらず、都市や環境をめぐる各種の専門家が自らの仕事に関わる問題としても、また、彼らも含めたさらに多くの人々が、自分たちの日々の生活をより豊かなものにする手掛かりとしても、ひとつの重要なコンセプトとなってくるからです。
 実際のところ、1995年から97年にかけて環境庁(当時)は、このサウンドスケープの考え方をもとに、《残したい「日本の音風景100選」》(甲第94号証)という事業を企画・実施しています。また私自身も現在「サウンドスケープの専門家」として、自治体(神奈川県藤沢市や東京都文京区)の景観審議会委員をつとめています。

3.サウンドスケープ論の展開
 高尾山は、鳥や虫の声、せせらぎの響き等、音の世界を通じても自然界を豊かに感じることのできる場所です。長崎市坂本町の人々が、日々の生活における安らぎや町の歴史との繋がりを求めて山王神社の大楠を訪れるように、首都圏に暮らす多くの人々が年間を通じて、高尾山を訪れるのです。
豊かな山の自然に癒された後、山の厳粛な気配に包み込まれるとき、私たちは、その地が古くから「修験の地」「信仰の山」だったことを改めて実感します。つまり高尾は、自然と融合する日本文化育む土地としても、極めて重要な土地。その意味で、以上に述べてきた「環境=文化資源としての音の世界」と「土地の気配や雰囲気としての音の世界」が、今なお豊かに息づいている「かけがえのない山」なのです。(別巻2日本の名山高尾山博品社・甲第206号証の7)
  その山にトンネルが掘り、自動車専用道路を通すということは、そうした土地の意味を根本から破壊することになります。「高尾山トンネル+ジャンクション計画」の問題の本質がそこにあるということを、サウンドスケープ論はさらに、「騒音」と「静寂」に関する次のような考え方から、明らかにしていきます。

3-1.新しい騒音問題の発見
  ある音の物理的な音量が、特定の地域における「環境基準値」を超えたとき、その音は「騒音」として規制の対象となる。これが、「騒音」についてのこれまでの基本的な考え方です。一方、サウンドスケープの考え方からは、その地域の音の風景に相応しくない音、あるいは、その風景の本質を損なうような性格の音は、たとえその物理量が環境基準の範囲内であっても、その土地本来の音風景を破壊する騒音である、という新しい考え方が生まれます。
 たとえば、先に紹介した《ながさき・いい音の風景》のプロジェクトで推薦された地点のひとつ「稲佐山の展望台」を訪れたときのことです。そこでは「展望台から聞こえる風の音、小鳥の鳴き声、街の音」が聞こえるとのことでしたが、実際には展望台のエリアに設置されたいくつかのスピーカーから常に音楽が流されていて、推薦された音の風景を味わうどころではありませんでした。この場合、スピーカーからの音楽は、その音量がさほど大きくなくても、その展望台で聴くべき本来の音風景をかき消しているという意味で、立派な騒音になるとするのが、サウンドスケープの考え方です。
 またこのような場合、スピーカーから流れている「音楽を止める」という、音そのものに対しては「マイナス」の行為が、その場の音環境のデザインとしては、むしろポジティブな意味をもつことになります。なぜなら、その音楽を止めることによって、その環境本来の音風景がより明確に立ち現われる。つまり、その場を訪れる人とその土地本来の音風景との間に、すみやかな環境を取り結ぶうえで障害となる音(スピーカーからの音楽)を取り除くことこそが、その場所のための望ましい音環境実現のために必要なデザイン活動となる。そのように考えるのがサウンドスケープの考え方なのです。
 このようにサウンドスケープの考え方を踏まえたとき、私たちはこれまでの考え方では把握することのできなかった「新しいタイプの騒音」の存在を明らかにすることができるようになりました。同時にまた、これまでの「プラスのデザイン」と並んで、大切なものを保存する(「ゼロのデザイン」と呼ぶ)手法や、不要なものを取り除く「マイナスのデザイン」の手法が現代社会においてもつ役割を明確に位置づけ、その重要性をはっきりと説明できるようになったのです。
 一方、サウンドスケープ論においては、近代化の過程における音環境の変容を<ハイファイな(環境騒音レベルが低く個々の音がはっきり聞き取れる)サウンドスケープ>から<ローファイな(個々の音響信号は環境騒音の高いレベルのなかに埋もれている)サウンドスケープ>への移行としてとらえます。そして、自動車による「交通騒音」に代表される「音高が高く、情報量の低い機械音」を、この現代社会の音環境の特徴とも言える「音風景のローファイ化」における最大の原因であると位置づけるのです。
 同じ「自動車の音」でも、たとえば自分の家(あるいは自分の町)に荷物を運んでくる車の音であれば、それなりの情報をもった音になります。しかし、単なる「通過交通の音」は、それが通過する特定の地域にとっては何の意味も持たない音であるばかりか、その地域の環境騒音レベルを上昇させることによって、その地域に暮らす人々、あるいはその地域を訪れる人々の聴力(その土地が発しているさまざまな音を聴き取る力)を減退させる。その意味で、高速道路等の自動車専用道路から、その周囲の地域に垂れ流される騒音ほど悪質な騒音は無い。サウンドスケープ論では、そのように考えるのです。

3-2. しずけさの意味
 「しずけさ」にもまた、これまで充分には論じられなかった重要な意味があることが、サウンドスケープの考え方を通じて確認されています。その基本的な考え方は、先に紹介した<ローファイ>に対してより「しずかな音環境」である<ハイファイなサウンドスケープ>の「環境騒音レベルが低く個々の音がはっきり聞き取れる」という解説に、既に明確に示されてます。つまり、一般には「音の無い状態」とされがちな「しずけさ」を、単に「音の無いネガティブな状態」としてではなく、私たちが音の世界を通じて環境との間に充実した関係を取結ぶことを可能にしてくれる「ポジティブな状態」として位置づける。これが、サウンドスケープという考え方における「しずけさ」の基本的な考え方なのです。
 このことを実証明したのが、練馬区がおこなった事業《ねりまを聴く、しずけさ10選》です。このプロジェクトは、東京都の練馬区が1990年に「ねりま・人・音・くらし‘90」と題して展開した一連の音の環境教育事業のひとつで、同年9月から11月末にかけ、練馬区内で実際に体験したしずけさを「『しずけさ』を感じられる場所の名前/その『しずけさ』をひと言であらわす言葉/その『しずけさ』の時期や時刻、および、その様子を説明する文章その他」という要領で募集するというものでした。
 応募された「しずけさの地点」とその説明文には「石神井公園の三宝寺池:水、鳥や虫たち、そして風の音が主役です」「清水山憩いの森:湧き水が森の中でサラサラと流れ、昼間でもしんと静まりかえった森の中で、小鳥たちのさえずり、深みのあるコケの匂いが心をなごませ、緑が私たちの力をみなぎらせてくれます」といったものがありました。そうしたコメントから、「しずけさ」とは単に「音のより少ない状態」ではなく、「小鳥のさえずり、虫の音、風、せせらぎの音」など、さまざまな微細な音との関係を豊かに確認できる状態であるという、しずけさの「豊かな実体」が明らかになったのです。練馬区の担当者大野嘉章はこの点を「現地調査の結果、静けさには多様な種類と価値があり、単一の尺度で測ることはできない(騒音レベルの高低で静けさの価値は表現できない)ことが明らかにされた」と述べています。
 <大野嘉章、「環境行政の新たな視点・音の環境教育」、『サウンドスケープとその各論への展開』、1991、土木学会関西支部共同研究グループ「サウンドスケープと計画論研究会」、p.61、 大野嘉章「ねりま・人・音・くらし’90の取り組みから」・環境技術NO4 1991年(甲第206号証の4) 大野嘉章「しずけさポイントの聴覚的世界」日本騒音制御工学会技術発表会講演論文集平成5年9月(甲第206号証の5)。>
 「騒音」と「しずけさ」に関する、サウンドスケープ論からのこうした新たな知見は、高尾山にトンネルを掘って自動車専用道路を通すということが、この土地で営まれてきた人間と自然との交流によって育まれてきた豊かな文化とそのシステムの根本的破壊に繋がることを、私たちにはっきりと示し出してくれます。
 日本サウンドスケープ協会の研究会においては、高尾山では現在、四季を通じて豊かな自然の音を体験できるということが、2003年の冬から秋にかけて、「1号路」「6号路」「稲荷山コース」という3つの登山道を実際に辿った人のコメントと共に報告されています(甲第206号証の3)。そのなかで、山の静けさが際立つ冬、国道20号線の付近を通る「稲荷山コース」からは、「途中で雪が降ってきて人々の話し声もすいこまれていくような心静かな時間が持てて嬉しかった」「途中ではたと立ち止まったとき、静寂があってよかった。本当に静かにしてみないと細やかな音はきこえないようだった」という報告がありました。一方、同じコースにおいて次のような報告をする人もいました─「他のコースを行った人たちは今日のサウンドウォークを結構楽しめたようだが、僕の行ったいなり山コースは音を聞こうとすればするほど、車の音やジェット機の音など耳ざわりな音ばかりが聞こえてきて山の印象そのものが悪くなりそう?」。さらに同じ冬、中央道および圏央道ジャンクション工事現場付近を通る1号路からは、「中央道からあがってくる車の騒音、林の中に吸い込まれる場所もあれば、もろに耳に飛び込んで、とても不愉快」というコメントも報告されています。
 既に述べたサウンドスケープ論における騒音の考え方に従えば、とりわけ「通過交通としての車の音」は、その音量がたとえ環境基準をクリアしていようとも、「その場に相応しくない音/その土地にとって不要な音」という意味では、それ自体が既に「排除すべき立派な騒音」なのです。登山中に聞こえた国道20号や中央道からの車の音に不快感を覚えたというコメントは、そのことをはっきりと証言しています。
 さらに、このような車の騒音に既に侵食されつつある高尾山の音風景に、圏央道ジャンクションからの通過交通の音がさらに加えられるとすれば、個々の車の騒音が気になるばかりではなく、周囲の環境騒音レベルも上昇し、山の音風景の透明度はさらに悪くなり、小さな虫の声や遠くの沢からの音などはそのなかに埋没してしまう。と同時に、本来は耳を澄ますべきその土地(=全身の感覚を開放すべきこの土地)で、そうすることによって逆に「聞きたくない音」が聞こえてしまう。そうしたことからも、この地を訪れる人々が無意識のうちに、自分たちの感覚を鈍化させてしまう可能性もある。サウンドスケープ論においては、こうしたより本質的な問題をはっきりと把握することができるのです。
 したがって私たちは、「高尾山トンネル+ジャンクション計画」が、本来は音の風景を通じて、その土地の気配と豊かな交流をもつべき高尾山、そのために人々が訪れる高尾の山のなかに、現代人の聴取活動の閉鎖性をもたらす車の通過騒音をまさに引き込み、その増加に拍車をかけるということを ─ 高尾の音風景に対するそうしたネガティブな効果には、文化的にもはかりしれないものがあることを ─ はっきりと意識し、説明できるようになるのです。また、もし仮に誤って「高尾山トンネル計画」が実施された場合、チョンゲチョン復元工事のように、近い将来道路やトンネルを取り壊すことになったとしても、それらの建設時に破壊されるであろう水系や生態系によって、生きた環境の実態をさまざまに反映する「高尾の音の世界」は言うまでもなく、文化拠点としての高尾山の機能も、取りかえしのつかない被害を受けることになるのです。

4.清渓川復元工事の現場から
 チョンゲチョン復元工事に話しを戻し、今回の視察を通じて学んだことを二つだけ紹介して、陳述を終えたいと思います。
 ひとつは、ソウル市におけるョンゲチョン(清渓川)の次のような変遷です。 ─ ソウル市は1394年に朝鮮王朝の都と定められ、約600年の歴史と文化を持つ古い都市。その都の誕生のときから、南山その他の山々から流れ出る小川などの流れを集める清渓川を挟んで都城が定められたことからも、この川はソウルの都の政治・経済・文化のシンボルであり、洗濯場や遊び場として市民と密接な関係を保ってきた。1600年頃までは清流だった川は、以後人工増加のため下水路として使われるようになり、20世紀に入ると急激な都市化のため川の汚染が進み、悪臭が生じるなど深刻な問題が生じた。そうした問題解決のため、また増加する交通需要をまかなうための最も簡単な方法として、1958年以降、川を蓋で覆う「清渓川覆蓋工事」が進められた。併せて、さらなる交通量の増加に対応すべく、1967年以降、覆蓋道路の上に往復4車線、幅員16mの清渓川高架道路(自動車専用道路)が建設された。しかし近年、高速道路の老朽化が問題となり、併せて環境重視の新たな価値観や、都市管理に関するパラダイムの変化から、人々の間に覆蓋道路や高架道路の存在を見直す気運が高まった。そうしたなか、2002年、現市長の李明博が市長選挙時に、清渓川の復元を公約し当選。以降、急ピッチで川の復元工事が進められている。(甲第206号証の6 の9頁から12頁)
 ソウル市の最大の繁華街実際の工事現場を目の前にして、あるいは川沿いに位置する「清渓川復元広報館」で各種の資料と共にこうした「都市における川の歴史」についての解説を受けたとき、冒頭で述べたこと(建設業界を含めて、都市計画をめぐるパラダイムは大きく変化しつつあり、そうした情況のなかで今、わがくにで「高尾山トンネル計画」を実施するとすれば、それは世界的常識から「はるかに遅れた愚行」となるということ)を、改めて深く確認したのです。
 視察旅行で印象的だったもうひとつのこと。それは、ずっと疑問に思っていたいくつかの質問をしたところ、現場の人々の回答から分った次のような事実です。─ 現市長が「清渓川復元」を公約に掲げて当選した際、「既に深刻な交通渋滞に悩まされていたその地域の道路を撤去することで、さらなる交通渋滞が生まれるのは確実」との理由から「復元反対」を唱えた対立候補との得票差は3%ほどのまさに「僅差」だった。が、復元工事真只中の今、地域の交通渋滞は少なくとも現時点では逆に緩和されている。というのも、「バス専用車線の設置」もあり、自家用車が利用できる道路が激減したため、その地域に自動車を乗り入れること自体を多くの人々が諦めるようになったから。
こうした回答を聞きながら私は、人間の叡智は「数式」を超えるということを、思わずにはいられませんでした。
 ソウル市は、「清渓川復元計画」の事業目的として、「構造物の安全と維持管理対策」「環境にやさしい都市環境の創造」と共に、「環境イメージの回復」や「歴史と文化の回復」といった項目を掲げています。同市が、清渓川の蓋を空けて、まさに回復しようしている自国の環境や文化を、高尾山では今まさに、そこにトンネルを空け道路を通すことによって、根本から破壊しようとしている。この滑稽なまでの構図がなぜ起ってしまうのでしょうか? 私たちが今真剣に考えなければならないのは、この点なのです。

 冒頭に紹介した「大江戸打ち水大作戦」も環境省と共に、国土交通省が後援する事業です。協力団体には、土木関連のさまざまな組織が名前を連ねています。また、「清渓川復元工事」の現場には今、日本の土木・建築関係の人々が、数多く視察に訪れています。
 こうした流れのなかで「高尾山トンネル+ジャンクション計画」に中止の英断が下される日が近いことを、信じずにはいられません。
(以上)

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陳 述 書

2004年2月25日

藤田敏夫
(大気汚染測定運動東京連絡会会長)

1.経歴及び役職
  私は、1947年3月、中央気象台附属気象技術官養成所本科(現気象大学校)を卒業して、気象研究所に勤務し、主任研究官を経て、86年3月定年で退職しました。
 気象研究所では、気象統計、気候変動や大気乱流などに関する研究に従事してきました。退職後は、埼玉大学講師(86年〜94年)、武蔵大学講師(94年〜96年)をいずれも非常勤で勤め、気象学、環境問題の講義を担当しました。
 現在は、NO2・酸性雨・SPM全国一斉測定実行委員会の代表委員、大気汚染測定運動東京連絡会の会長の役職を務めております。いずれの組織も環境市民団体(環境NGO)です。このほかに環境省登録の環境カウンセラー(市民部門)も務めています。業績などは末尾のプロフィールの通りです。

2.圏央道建設計画を現地で見て感じたこと
 1984年7月に、初めて圏央道建設計画を知って、現地視察をしました。先ず感じたことは、このような狭いV字型の谷間に圏央道が通って、新たに1日4万数千台の自動車が集中した場合、現在の中央道だけでも1日5万台自動車交通があるのだから、裏高尾の大気汚染はどうなってしまうのだろうかという危惧の念でした。何故ならこのようなV字型谷間地形では秋口から春先にかけて、強い接地逆転層が形成され、大気汚染が悪化することは気象学では常識になっていたからです。

3.接地逆転層の観測を始める
 私は地元の方々と相談して、接地逆転層の形成を確認するため、裏高尾地区で高度別に気温の連続測定を行うことを提案しました。裏高尾圏央道反対同盟の30人以上の方々が交替で観測に当たりました。高尾山側に5カ所、八王子城跡側に3カ所と小仏川が流れる一番低い梅林内に1カ所、計9カ所に1週間巻きのバイメタル自記温度計を小型百葉箱内に設置しました。図1に設置高度を示しました。
 観測期間は一部を除いて、1985年10月から88年9月の3年間でした。観測は週1回自記温度計(温度を自動的に記録する温度計)の記録紙を交換します。その際、アスマン通風乾湿計という精密な温度計で気温を測定し、もし自記温度計の値と差があれば、それを補正しましたので、相当正確に記録されました。記録を読み取る際、それぞれの自記温度計の器差を補正しました。図2がその原記録の1例です。
 図1は新井二郎さんが作ったものです。上半分の図は縦方向に時刻を取ってあります。一番下が2月25日の12時で上方向に15時、夜に入って18時、21時、24時、26日午前3時、6時、9時と時刻が進みます。
 横方向は、観測場所の位置を示してあります。こういう場所で観測した気温の等温線を描いたもので、1986年2月25日の例です。2月26日午前3時から6時頃に5の地点で、マイナス7と記入してありますが、これは氷点下7度℃を示しています。すなわち一番標高が低い梅林で、氷点下7度です。一方、梅林より標高が高い南斜面の10番の観測点では、氷点下2度以上ですから、高度が高いところの方が気温は高くなっています。
 普通は山に登れば分かるとおり、高いところの方が気温は低くなりますが逆の現象が現れています。これが典型的な接地逆転現象です。
 図3は裏高尾の人たちが、圏央道八王子ジャンクション予定地付近で、1988年1月に49地点で測定したNO2(二酸化窒素)の濃度分布図です。私が作りました。この時は中央道しか自動車が走っていないのですが、0.08ppm以上という高濃度汚染が斜線を施した各所で測定されています。特に注目したいのは梅林のところです。図1で最低気温が観測された場所です。ここでは環境基準値の1.5倍の0.089ppmという高い濃度です。
 中央道と圏央道のジャンクションが東西方向に長く建設されると、裏高尾町全体が基準値を超すNO2汚染にすっぽり覆われてしまうでしょう。この予想は環境総合研究所が行った三次元流体モデルによるシュミレーションでも証明されています。
 大気汚染測定は、現在でも毎年6月と12月に同じ場所で継続して行われています。この測定結果の信憑性ですが、測定時にカプセルを5個八王子市の片倉測定局(由井中学)と館町測定局(館中学)に取り付けて、精密測定結果と比較して、カプセルの測定値から濃度(ppm)を求めています。(図2の測定当時は、都立南多摩高校の測定と比較)
このような比較測定をすれば、東京都や八王子市の測定を補完したことになりますので、相当精度が高い値が得られます。
 図4は、裏高尾町に住む角田義治さんが1987年1月に、旧駒木野橋付近で、測定したディーゼル排気微粒子、DEPの写真です。左側は87年1月20日午後8時から21日の午前8時まで、山風といって、風が山から吹き下ろしていた時間帯に採取したものです。中央高速から飛んできた微粒子を採取したものです。
 右側は21日の午前8時から午後8時までに採取したものです。この時は山から吹いてくる風が三分の二で、谷から山へ吹き上げる風が三分の一程度でした。空気の吸入装置の能力は、毎分3.4リットルの空気を吸引してろ紙上にDEPを採取しました。
 写真が少し悪いのですが、矢張り山風時の方が真っ黒くなっています。このように裏高尾町は、現在でも健康に悪影響があるNO2やDEPでこんなに汚染されているのです。
 図5で、接地逆転層を目で見て頂きます。空高く舞い上がると思われていた焚き火の煙が、逆転面で上昇がさえぎられて、町の中に棚引きながら流れています。先程、梅林付近でNO2濃度が高い値になったのはこの現象のためです。

4.裏高尾の接地逆転層の強さは関東地方の平野部では見られない
 1974年に気象庁は南関東各地で地上及び上空の風や気温を観測しました。その中から関東南部各地の逆転層を比較してみました。気象庁データーから図6にその結果を示します。一番左は、東京郊外の町田市での観測結果です。74年11月25日午前6時10分に観測したものです。地上から1000mまで観測されています。地上から100mまでは次第に気温が下がっていて、普通の状態ですが、100mから200mまでは、5℃から7℃へ上昇しています。この層が逆転層です。つぎは都心部の大手町での11月25日午前6時5分の観測です。大手町はビル街ですが、一寸下がって、また上がっています。上がり方は町田より小さくなっています。つぎのグラフは現在では筑波研究学園都市になっていますが、74年当時は全くの荒野でした。そこにあります館野高層気象台で午前8時30分に観測した結果です。地上から250mまで気温が上がっていって、そこから上は下がっています。いわゆる接地逆転層です。一番右側が裏高尾での観測結果です。環境アセスメントで、日本気象協会が観測しました。標高220mで観測しています。地上がー4℃ですが、僅か150mの間に10.7℃も上昇しています。こんな強い接地逆転層はほかでは見られません。これが裏高尾の接地逆転層の強さ、恐ろしさなのです。

5.接地逆転層の年間出現率
 はじめに述べた裏高尾での気温の鉛直分布観測のデータをまとめて、逆転層の出現率と
NO2濃度の年変化を月ごとにまとめたのが図7です。逆転層の出現率は、一番低い梅林の気温と6番から10番の高さの気温の逆転が出現した割合を言います。
 11月、12月、1月は一カ月のうち大体70%くらい出現しています。春になって、4月でも30%くらい出現しています。驚いたことに、8月になっても20%もあります。
 裏高尾の逆転層は、多い少ないという変化はあっても、1年中発生しています。こんな事は普通の平野では決して起こりえません。
 ちなみに、平野部である埼玉県の上福岡市で気象庁が同じ11月下旬から12月上旬に観測した結果がありますが、そこでの出現率は46%くらいです。

6.接地逆転層の継続時間
 図8は逆転層生成時と解消時の気温の鉛直分布です。17時から翌朝8時までの図は省略しましたが、いずれも強い逆転分布を示しています。16時から翌朝10まで18時間も継続していることが分かります。図9は山腹での気温観測データを用いて、85年10月から86年2月の4ヶ月間の逆転層の出現時刻と終了時刻を調べたものです。11月は15時から翌朝9時までの間に80%以上の割合で逆転層が発生しています。24時間の内、18時間も強い接地逆転層が裏高尾の谷間に存在する確率が大きいことをこの図は示しています。
 以上のように、裏高尾での住民による気温やNO2の観測は貴重なものです。おそらく気象学会でも誰もこういうことは知らないでしょう。こういう住民団体のデータを国土交通省はどのように利用したのでしょうか。アセスの説明会や公聴会で、国土交通省は聞く耳持たないという態度でした。

7.NO2濃度は接地逆転層の発生割合に比例している
 図10は各月毎の接地逆転層の発生割合と49地点平均のNO2濃度の関係を見たものです。両者が比例関係にあることが分かります。NO2やDEPは逆転層の発生頻度に比例して高くなることが分かります。
 東京都環境局は東京タワーで気温、風向、風速などの気象要素や窒素酸化物(NOX)と浮遊粒子状物質(SPM)などの大気汚染物質を高度別に連続測定しています。
1997年11月29日と1998年11月14,15日に顕著な接地逆転層が現れました。図11はこれらの日の接地逆転層の形成とともに、NOX濃度が上昇していることを明瞭に示しています。
 裏高尾地区ではNO2は殆ど自動車から排出されているでしょう。勿論一般家庭からも数%くらい排出されています。このガスを長年吸い続けると、慢性気管支炎、気管支ぜんそく、肺気腫そして肺ガンの危険性が指摘されています。最近の一連の大気汚染公害裁判の判決はこのような健康影響をすべて認めています。
 本件では(株)環境総合研究所の鷹取敦氏が、三次元流体モデルを使って、圏央道ができたときの裏高尾のNO2とSPMの汚染予測を行っています。その結果NO2、SPMともに環境基準をオーバーする高濃度の汚染の危険があることがわかりました。しかし残念ながらこのシュミレーションでは接地逆転層は考慮されていません。年平均地の直せば、確かに接地逆転層を考慮した場合としない場合では、それほどの差はないかもしれません。しかし、接地逆転層が起きているときには、汚染物質の拡散が進まないのですから、より高濃度の汚染が起きているわけです。高濃度の汚染物質にさらされれば人体には確実に有害です。大変強い接地逆転層が認められる裏高尾では、年平均値だけでは評価できない人体被害への危険性があるといえます。

8.環境影響評価における風洞実験について
 建設省(当時)は、環境影響評価の見解書において、評判の悪い拡散式(プリューム・パフモデル)による予測を補強するためと称して、新たに風洞拡散実験を実施して、定量的な予測を行いました。しかし当時の風洞模型実験の技術では、拡散式によって予測したNO2の年平均値に対する補正係数を求めるなどと言うことは、実験上の制約から到底無理でした。
 当時、工業技術院の公害資源研究所の研究室長であった横山長之氏は、著書「環境アセスメント手法入門(1975,オーム社)」の中で、次のように述べています。
 『風洞模型実験が現実の大気中の拡散現象を再現するためには次の相似条件が成り立っていなければならない。
 (1)平均気流の相似性
 (2)乱れの状態の相似性
 これらはレイノルズ数を現実大気に合わせることが必要になる。しかし大気境界層の場合、レイノルズ数における流体の動粘性係数の代わりに乱流状態における渦動拡散係数を用いて現実大気との相似を成立させている。温度成層のない中立条件では、風上側に乱流発生装置を置くことによって、(1)と(2)の条件をほぼ満足させているのが現状である。』
 また、当時、風洞拡散実験の第一人者であった北林興二氏は、公害資源研究所の研究誌
「公害」21号(1986)の中で、次のように述べています。
『地形、地物の拡散への直接的影響を取り入れる方法として、風洞実験も行われているが、余り一般的ではない。また風洞実験にしても、現在までのところ、中立条件時(鉛直方向に温度差がない状態)だけを対象としており、山谷風や斜面風、よどみ域などの生じる強い安定や不安定条件では取り扱っていない。』
事業者はこのような専門家の警告を無視して実験を強行したのです。
以上のように、相似条件も成り立たず、しかも強い接地逆転層という安定成層で実施した風洞実験結果は無意味です。しかもこれらの実験からの推定値を用いて、拡散式による予測結果を補正するに至っては手法が無茶苦茶です。従って、結論は極めて恣意的で全く信頼出来ません。

9.この地域に高速道路を造ってはならない
 国土交通省は、以上に示したような住民が実施した大気環境調査結果に真摯に耳を傾けて、これらの情報をもっと大事に取り扱うことが必要です。
したがって、圏央道を建設した際の経済的なメリットのみを大きく宣伝するのではなく、地元の住民が被るであろう健康被害―先程の病気は回復不可能な健康障害であり―は大損害です。建設のメリットに比べられない大損害なのです。この観点をもっと重要に考慮すべきだと思います。
裏高尾の谷間に、高さ30mの換気塔を建設しています。この換気塔には高尾山トンネルと八王子城跡トンネルの約2kmのトンネル内で排出された排ガスを全部吸引して、換気塔から裏高尾町に排出します。圏央道が中央道と連結したら、中央道の一日3万5千台から5万台の自動車交通に加えて、新たに約4万5千台の通過交通の増加が予測されています。これらの自動車から排出される窒素酸化物は一日当たり380kg、1年間では146トンに及びます。中央道と圏央道から排出された窒素酸化物が谷間に降り注ぎ、逆転層によって谷の上に暖かい空気で蓋がかけられると、大気汚染は一層激しくなります。換気塔から排出される濃度が高い窒素酸化物は強い逆転層を突き抜けられず、山の斜面に沿って下降します。逆転層が解消すれば、排ガスは谷風で山頂の方へ運ばれます。山腹の植物への影響は樹木の種類によって異なりますが、針葉樹はとりわけ排ガスに弱く、東京都の天然記念物に指定されている参道沿いのスギの大木への影響は避けられないでしょう。また、高尾山に見られるブナやイヌブナそしてモミ等の自然林への影響が心配されます。
最後に、こんな気象条件の悪い地域に高速道路を造ってはならないと思います。
むしろ中央高速道にもシェルターをかけて、脱硝装置を設置して、排ガスを浄化して外に出すようにしなければいけないと思います。

                   以上

/プロフィール/ 藤田 敏夫 (ふじたとしお)中央気象台気象技術官養成所本科(現在の気象大学校)卒業 理学博士気象研究所主任研究官を経て、埼玉大学、共立女子大学、武蔵大学で気象学、環境問題を講義。97年〜99年には一ッ橋大学経済学部の「現代環境学」講座で、大気汚染―自動車排ガス汚染を中心にーを講義。大気汚染測定運動東京連絡会 会長NO2・酸性雨・SPM全国測定実行委員会 代表委員環境アセスメント問題都民連絡会(アセス都民連)代表幹事環境カウンセラー(環境省登録・市民部門)主な著書:新汚れた空気(新草出版)、恐るべき自動車排ガス汚染(合同出版)、クルマ依存社会(実教出版)など    



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