| 陳 述 書
2004年6月8日
椚 國男
(国史跡八王子城とオオタカを守る会代表)
1.経歴と八王子城跡との出会い
私は国史跡八王子城跡の重要性と圏央道トンネル工事による荒廃状況について陳述する椚(くぬぎ)國男です。大正末年の1926年に八王子市に生まれ、ここで育って敗戦後の1949年から1987年まで38年間教職についていました。中学校に3年、都立高校に35年です。
私は城郭の専門研究者ではありませんが、1961年に勤務校の生徒たちに頼まれて考古学部をつくり、多摩考古学研究会に入会したことから国史跡八王子城跡との関係が生じました。入会して4年後、開発の波がこの城跡まで及んで最初の破壊が行われた時、抗議と保存運動に立ち上がったのが私の考古学の恩師甲野勇先生(当時国立音楽学教授)だったからです。また、この運動の中で八王子城跡に1500回以上登っている八王子城研究の大先達小松敏盛さんを知り、親しい間柄になったからです。私もこの城跡に魅せられてすでに650回以上登っていますが、六興出版社から『戦国の終わりを告げた城−八王子城を探る−』(1991)を出してもらえたのは、小松さんから多くの教えを受けたからです。
生徒たちに頼まれてつくった考古学部は、毎年夏休みなどを使って25年間川口川下流域で発掘をつづけました。この間、6世紀の竪穴住居の設計研究から前方後円墳の設計研究に入り、これが注目されて築地書館から『古墳の設計』(1975)、六興出版社から『古代の土木設計』(1983)を出してもらいました。『古墳の設計』は翌年第1回藤森栄一賞を受け、現在も研究をつづけています。
2.八王子城の築造と大改修
城主北条氏照(1540?―1590)は小田原北条3代目当主北条氏康の次男で、一門の勢力発展のため席が暖まる暇がないほど軍司令官として戦場を駈けめぐった武将です。この地(元八王子町・下恩方まち)に新城を築いたのは、永禄12年(1569)に滝山城が甲斐の武田勢の猛攻を受けて揺らいだのが主原因と思われます。
築造が始まったのは天正6年(1578)頃で、10年頃から安土城に倣って大改修工事を行い、現在の御主殿跡地やここに至る戦国時代最大幅の大手道、石垣群などはこの時につくられたものと思います。
滝山城から本拠をここに移したのは15年頃で、それからわずか3、4年後の天正18年(1590)6月23日の朝、豊臣方の大軍によって落城しました。
3.城域・構成・出土遺物
〔城域〕城域の広さは防衛線の取り方によって異なります。私は防衛線11キロ、面積約500ヘクタールと考えていますが、防衛線を20キロと見る人もいます。いずれにしても戦国時代最大規模の城域をもつ山城です。
〔構成〕標高460.5メートルの深沢山を本体として周囲の山・丘陵・平地・川など取り込んでいます。大手側は深沢山の東側(元八王子町)、搦め手側は北側(下恩方町)で、城下町は大手口の東側に計画されましたが未完のまま終わりました。
平時は山裾が生活、政治などの場で、東南の要衝山下・近藤両曲輪から西側の奥にアシダ曲輪、御主殿、奥殿とつづきます。
戦時は馬回り道から上の山上曲輪群が重要になり、ここには松木・中・小宮・無名の4曲輪と山頂曲輪があり、2箇所に井戸が掘られています。小宮曲輪の東側下に立つと180度の視界が開け、関東平野の大半を一望できます。また西方400メートルには石塁で固めた小さな砦があり、「大天主」と呼ばれています。
山腹には柵門台と山王台があり、その下の金子曲輪や搦め手側の滝の沢口曲輪とともに敵を防ぎ屠る場所です。また柵門台は大手側・搦め手側・御主殿側の道が集まる要所です。このほか特筆しなければならないものに大手道があります。御殿谷川(城山川)に沿う丘陵の腰につくられた1.5キロの道で、8メートルの基準幅は安土城や京都の主道よりも広く、戦国時代最大幅です。
〔出土遺物〕落城400年を機に八王子市教育委員会によって行われた御主殿跡地の発掘調査で夥しい量の遺物が出土しました。いずれも当時の生活や文化を示す貴重な資料ですが、中国産の青白磁や五彩皿は生活程度の高さを示し、珍しいものにベネチア製のきれいなレースガラスがあります。現在わが国唯一の出土例です。
4.落城の悲劇とその後
前田利家、上杉景勝らに率いられた豊臣勢の実数は不明ですが、3万から5万と推定され、城主不在の城方は武士・農兵に番匠、鍛冶、人質などを合わせても10分の1に満たなかったと思われます。八王子城は前田利家が落城直後に国許に宛てた書状から当時「名城」の名があったことが分かりますが、この数では守れる筈がなく4時間前後で落城しました。城方の戦死者は1300人に近く、いかに凄惨を極めた戦いであったかを物語っています。
八王子城の落城は小田原本城勢に大きな衝撃を与え、和戦をめぐる評定がくりかえされたあと、7月5日に5代目当主北条氏直が城を出て開城を申し入れ、ここに豊臣秀吉の天下統一が実現しました。
このあと、北条氏照は兄氏政とともに秀吉から切腹を命じられ、関東の大部分と伊豆を5代約100年間支配した後北条氏は事実上滅びました。旧領は徳川家康の支配地になって関東は新しい時代を迎えましたが、屍が山を覆った八王子城跡は里人が恐れて足を踏み入れるのを嫌う
“忌み山”になりました。
5.国史跡の指定
八王子城跡が滝山城跡とともに国史跡に指定されたのは1951年6月9日で、「文化財保護法」が制定された翌年です。滝山城は早くからよく知られ3年前から選定されていましたが、八王子城は元八王子村の八木下松太郎村長が都知事に史跡指定を申請し、文部省史跡天然記念物課の調査が行われて実現しました。
この史跡指定によって350年間不明の闇に覆われてきた八王子城跡にようやく光が当たりはじめ、小松敏盛さんの大きな研究業績の出発点もここにあります。また、史跡に指定されていなかったら、つぎに記す開発破壊よりはるかに酷い破壊を受けて見る影もない姿になったかも知れません。
6.山裾の破壊と保存運動
史跡に指定されても安全でなく、最初の開発破壊は14年後に起こりました。その後山裾の各所でつづき、その都度史跡や自然を大切にする人たちによって抗議や保存運動が行われました。
最初の破壊は1965年5月に起こったアシダ曲輪の破壊です。ここに割烹旅館を建てるためで、這い登ったブルドーザーが表土を削って造成し、多くの遺物が掻き出され、押しつぶされました。この時抗議と保存のために立ち上がったのが前に書いた甲野勇先生です。この計画は現地を視察した天然記念物課長らが建築申請を退けましたが、この年の11月に2度目の破壊が近藤曲輪推定地で起こりました。東京造形大学のグラウンド造成工事によるもので、ブルドーザーが削ってできた赤土の崖に石を敷いた道・空堀・馬防柵などの断面が現れ、痛ましさと憤りを感じました。
3度目は翌年5月に起こった山下曲輪から御主殿下にかけての石垣列の破壊です。林野庁東京営林署の林道拡幅工事によるもので、国による史跡破壊です。
4度目は5年後の1971年8月に起こった大手門東側広場の整地工事による破壊です。ここは大手道の幅が25メートルぐらいに広がった場所で、世田谷区の寺がここに寺院と墓地をつくって移転しようとしたものです。これができると史跡の要所が一変しますので、市の文化財専門委員会も研究諸団体も一緒になって反対しました。その後市の教育長が墓地に限って認めましたが、この時色川大吉先生(東京経済大学教授)が寺側の意向も容れて都の副知事と交渉し、都がここを買い取り、寺に代替地を斡旋することで破壊と変貌をまぬかれました。
7.八王子市の保存管理計画書
八王子城跡の破壊があいつぎその対応に迫られたためと思いますが、八王子市は1974年に「八王子城跡保存整備計画策定プロジェクト」を行政担当者19名でつくりました。また、これとともに学識経験者8名からなる協議会もでき、色川先生が会長に選出されました。
両者の審議の結果は、1976年3月に『史跡八王子城跡・史跡小仏関跡保存管理計画書』として刊行されました。
それには、<典型的な山城としての現況をそのまま保存することと、その根小屋としての諸遺構を極力保存することを原則とする。従って観光開発行為はこれを禁じ、史跡保存・緑地保存の精神を貫く。但し、歴史学習、自然観察および登山、レクリエーション等都民の憩い場としての活用を図る。>と記され、立派な内容です。それにもかかわらず3年半後の10月に5度目の破壊が大手門近くの北側で起こりました。区内の食肉業者が倉庫を建てようとしたものですが、このあとは起こらなくなりました。
ところが、『保存管理計画書』ができた8年5ヵ月後の1984年8月に、これをまったく無視した計画が建設省から発表されました。これが国定公園高尾山と国史跡八王子城跡の山腹をトンネルで貫く圏央道(首都圏連絡中央自動車道)で、今からちょうど20年前です。
8.八王子城跡の危機と対応
八王子城跡を守る運動は主に多摩考古学研究会や八王子城山会の人たちによって行われてきましたが、その人数はわずか10数人で高尾山を守る運動に比べてあまりにも微弱でした。ところが、落城400年を記念して1990年4月15日に行った「八王子城みる、きく、あるく会」に233人の参加者があり、このことが運動が広がりはじめる転機になりました。
その後分かったことですが、建設省がこの山にトンネルを掘る準備を開始したのもこの年のようです。翌年1月から山上にある当時の井戸「坎井」(かんせい)の水位測定を始めているからです。
1994年の5,6月には「坎井」のすぐそばにボーリング孔が掘られ、翌年2月に井戸涸れが起こっています。私たちが気づいたのはその翌年2月4日ですが、これまで一度もなかったことですので強い危機感をもちました。以来1月に大雪が降った年をのぞいて毎年のように春先に涸れています。建設省相武国道工事事務所の水位測定グラフをみますとボーリング以前と比べて水量が3分の1減少していますので、その原因が井戸涸れの原因でもあるとおもいます。
井戸涸れ発見の2、3ヵ月後、この山でオオタカの営巣が小池清さんによって発見されました。「八王子城跡トンネル」(仮称)の北側坑口付近で、2ヵ月後この二つの保存運動が結びついて、その年の12月1日に松木曲輪で「第T回国史跡八王子城跡とオオタカを守る山上のつどい」を開き、約140人参加しました。
9.トンネル工事の開始
私たちは建設省と文化庁に行って史跡の重要性を訴え、工事の中止を求めました。各所に脆弱な地質がみられることと、1300人もの戦死者が眠っていることも伝えました。また、環境庁に行ってオオタカの営巣中心域であることを18ヵ月間の観察記録図を示して訴え、保護と工事中止を求めました。
しかし、建設省は「文化財保護法」も[種の保存法]も私たちの保存要望も無視して、1999年10月初めにトンネル工事を開始しました。
私たちは憤りとともに空しさをおぼえましたが、この年の夏頃から高尾山と裏高尾町の人たちの生活を守るためには法の裁きに訴える以外にはないという考え方が支配的になり、提訴の準備が始まりました。そのため私たちも裁判に加わるためには原告の資格が得られる組織でなければならないと考え、この年の12月5日に松木曲輪で開かれた第4回「国史跡八王子城跡とオオタカを守る山上のつどい」で提案し、賛同をえました。この時の参加者は約100人でしたが、その場で60数名の入会申し込みがあり、翌年1月8日に淺川市民センターで発足総会を開き、[国史跡八王子城とオオタカを守る会]が誕生しました。年会費1000円で会報の発行、見学会、学習会、ボランティアガイドなどを行い、現在の会員数は170名です。
10.高尾山天狗裁判
高尾山は修験道の山で天狗は修験者の象徴ですので「高尾山天狗裁判」と名づけ、2000年10月25日に国と日本道路公団を相手取り、圏央道計画の差し止めを求める訴訟を東京地方裁判所八王子支部に起こしました。原告は高尾山・八王子城跡・オオタカ・ムササビ・ブナの5自然物と自然保護団体6団体と1060名の人間です。弁護団は全国から139人の弁護士が加わり、21世紀を迎えた1月29日に第1回口頭弁論が開かれました。
11.問題つづきのトンネル工事
八王子城跡トンネルは全長2.4キロメートルで、3年間で完成の予定でしたが、4年半以上経った現在の進捗状況は約65パーセントです。工事開始から9ヵ月間は普通の工法(ナトム工法)で475メートル掘り進みましたが、そこから滝の沢川の下になって海底トンネルのようにセメントミルクを注入し、固まるのを待って掘る工法(シールド工法)になりました。
1年後にはそこを抜けだして元の工法にもどりましたが、下恩方町松竹地区の民家の井戸涸れが発生し、42軒に被害がおよびました。つづいて翌2002年1月22日には城山(深沢山)の地下水位が急に下がって10日間で348メートから335メートルになり、工事が中断されました。
その後これまでの遅れを一気に取り戻すためトンネル内で1基5億円の新機械が2基組み立てられ、昨年11月26日から「先進導坑」という新工法の掘削が始まりました。このため現在油断できない状況にあります。
12.山の乾きと荒廃化
八王子城跡の山肌の乾きに気づいたのは2001年の秋頃からです。直径10メートルのトンネルを2本掘っているのですから当然のことといえます。11月の中頃、本丸(山頂曲輪)下の南急斜面につくられた「水路状敷石遺構」に東側の細尾根から崩れ落ちた岩が堆積し、みる影もなくなりました。使途は不明ですが他に例がないようであり、400年間の歳月に耐えてよく残ってきただけに惜しまれます。崩落の原因はこの遺構の上近くでもボーリング孔があけられていますのでそのためでしょう。
落城の時、女性たちが懐剣で喉を突いて入水死したと伝えられる「御主殿の滝」
下の淵では、岩壁が何度も剥落し、2002年の秋には山腹の柵門台上の斜面が4メートル幅で30メートルも崩れ落ち、当時の道を埋めました。また、翌年4月には御主殿西北沢にある4段づくり石垣の2段目中央の石が崩れ落ちました。さらに柵門台下の石垣列も崩れ、史跡の荒廃が確実に進んでいます。
13.オオタカの生息環境の悪化
小池清さんがこの山でオオタカを発見した1996年には、3羽孵化して3羽の雛が巣立っています。翌年も3羽孵化しましたが、台風で1羽が巣から落ちて死にました。
小池さんは前記しました18ヵ月間の観察記録をもとに「飛翔頻度分布図」をつくり、トンネルの位置が環境庁のガイドライン『猛禽類保護の進め方』に記された<営巣中心域>であるため、工事の中止を建設省に求めました。しかし、建設省が委嘱した「圏央道オオタカ検討会」はこれを認めようとせず、「オオタカとの共生をはかる」という言葉でゴーサインを出しました。
3年目は4羽孵化して3羽巣立ちましたが、この年の9月にトンネル坑口北側の北淺川橋の工事が始まると翌年には孵化も巣立ちも2羽になりました。このあとふたたび3羽になることはなく、2002年には前年使った巣の補強を始めておきながら地下から伝わる工事の震動に脅え、営巣を放棄しました。2003年も最初の営巣地付近には棲まず、のちに山頂をこえた元八王子町3丁目側の城山川左岸に営巣したことが分かりました。このように八王子城跡のオオタカは圏央道工事で生息環境が悪化し、ついに営巣放棄に追い込まれました。これは「種の保存法」違反であり、「圏央道オオタカ検討会」の委員にも責任があります。
14.新しい異変
今年になって新しい異変がありました。搦め手側の滝の沢にある「青龍の滝」などの景観汚損と大手側の城山川の水質汚染です。「青龍の滝」は高さが30メートルもある形の美しい4段の滝ですが、岩が白い粉のような付着物で汚れているのが1月1日の朝発見されました。かつて一度もなかったことで、その後御主殿の滝なども汚れているのが分かりましたので、採取して「環境総合研究所」に化学分析を依頼しました。分析はカナダで行われましたが、その結果滝の沢川の河床に噴出したセメントミルクの凝固剤の成分によく似ていることが分かりました。これに対して国土交通省(元建設省)相武国道工事事務所では電子顕微鏡観察の結果珪藻であると記者発表しています。
城山川の水質汚染は清流魚カジカの死によるものです。小池清さんが2月26日に御主殿の滝の上流約150メートルのところで発見したもので5匹です。この川に沿う城山林道にはハイカーたちの姿がみられ、口にすることもありますので心配です。
15.都民の宝を失わないために
以上陳述しましたようにトンネル工事開始以来、国史跡八王子城跡(深沢山)の荒廃化が年ごとに進んでいます。このままでは取り返しのつかない事態になりかねません。国土交通省がつぎの目標にしている高尾山の地質はさらに脆弱ですので、一層ひどい崩落や植生変化が予想されます。
20年間にわたって高尾山の自然と、裏高尾町の人たちの生活と、国史跡八王子城跡を守る圏央道反対運動がつづいていますのは、国が指定した国定公園や国史跡に同じ国がトンネルを計画し、環境と生活を破壊することにすべての原因があります。
こうしたことが首都東京で行われているだけに全国各地に与える影響が大きく、地球環境を守って人類の生存を維持しようとしている世界的な流れにも反します。そのため身近かな自然の宝庫高尾山と国史跡八王子城跡守り、後世に引き継ぐ運動に30数年間かかわってきました。 以上で終ります。
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