女 優
すやまたけし
○
いらっしゃい、さあ、そちらへおかけになって。
マリーに、ミントに、……あなたはセイジだったわね。他の子たちは、あとからくると思うわ。
あなたたちも、どうぞ好きなように召しあがって。お飲みになって。ごちそうを用意してあるから。
あなたたちは、いいわ。まだ、若いし、自由だし、未来は希望に満ちている。そう、わたしだって、若いころは夢を両手にいっぱい抱えていた。そして、その夢を実現させるために頑張ったわ。
ええ、わたしの舞台「真夏の夜の嵐」は、批評家から絶賛を浴びたわ。あれが、わたしの一番いい時代だったかもしれない。輝いていた、あのころ。ヒロインの激しく熱い心の揺れ動きを、わたしは、見事に演じ、表現したと賞賛されたわ。あの舞台のカーテン・コールの興奮はいつまでも忘れないわ。スポット・ライトを浴びて、観客の拍手と喝采をひとり、わたしは受けとめていた。
ほおは紅潮して、体全体がどうしようもなく震えているのがわかった。女優になってよかった。わたしの夢を笑った人たちを、これで見返すことができたと思った。
あら、いらっしゃい。ローズに、タイム。遅かったのね。今、わたしの古き良き時代の話をさせていただいたのよ。あなたたちも、どうぞ、召しあがって。
そう、わたしだって、はじめから、何もかも順調に女優への道を歩みだせたわけではないわ。苦難と、苦悩の時代が長かった。何度あきらめようと思ったかわからない。でも、わたしは挫けなかった。信念と、希望を持ち、目標に向かって前進しつづけた。
才能とは、素質を努力によって開花させること。だけど、自分にその素質があるかどうかはわからないものなのよ。やってみなければわからない。自分にはないかもしれない。
でも、途中であきらめたら、それはわからないままで終わってしまう。だから、自分を信じて、願いつづけること、祈りつづけること、そして、チャンスが目の前に現れたら、迷わずに飛びつくこと。
わたしのチャンスは、突然、思いもかけないところからやってきたわ。
あのころ、わたしは無名で、ろくな役もなく、小さなアパートの一室で、幸運の女神が訪れるのを待っていた。そのころよ、「炎の悲劇」という舞台のヒロイン役の新人オーディションがあったのは。わたしも受けにいったわ。でも、他の子が選ばれて、わたしは次点で、彼女の代役ということになったの。わたしのほうが、役に対する理解力も、表現力もあると思っていたのだけれど、でも、確かに彼女のほうが愛らしく、魅力もあったわね。
演技力よりも、パーソナリティーが重視される場合もあるのよ。演出家の好みということもあるし、それはそれでいいの。わたしは、自分の立場で精一杯に頑張ることにした。
彼女とわたしは、同じ台本、同じ稽古をこなしていった。わたしのほうが努力をしたし、せりふ覚えも、ヒロインへの感情移入も、彼女より優れていると自負していたわ。
その日、わたしは自分の部屋で、夜遅くまで台本を読んでいた。その時、マーゴが訪ねてきたのよ。彼女は、よく遊びに来てくれて、寂しいわたしの話し相手になってくれていた。わたしは、彼女に、心にたまっていた不満をうちあけたの。そうしたら、彼女は真剣にわたしに聞くのよ。
「そんなに、あなたは、ヒロインの役をやりたい?」
「ええ、やりたいわ。この役をうまく演じることができれば、認められて、スターになれるかもしれない。でも、代役じゃ駄目。楽屋で、あの子の成功物語の証人に名をつらねることになるだけだわ」
「でも、あなたは彼女の代役なんでしょう? ヒロインの。まったく、可能性がないわけではないわ」
「それは、そうだけれど」
「たとえば、彼女が病気になったり……」
「まさか。あの子は健康優良児の賞状を、何枚もためこんでいそうな子だわ」
「けがをしたりすれば……」
「えっ? それは……、万にひとつ、あるかないかだわ」
マーゴの宝石のような美しい瞳が、怪しくきらりと光った。
「もう一度、聞くけれど、あなたは、どうしても、ヒロインを演じたい?」
マーゴには、それ以前から神秘的なところがあった。でも、この時の彼女の真剣な瞳の輝きには、それだけでなく、恐ろしい予感のようなものを感じたのよ。
「……えっ?……」
わたしは何と答えていいかわからなかった。わたしは、あの役をやりたかった。でも、どうしても、と言われて、たとえば、彼女がけがをしても、とまでは思いたくなかった。
本当はどうだったか。わたしにもわからない。人の不幸を願ってまでも、自分がスターになりたかったかどうか。わからないわ。でも、マーゴは、わたしの目をじっと見ていた。
わたしの心の中を見すかすようにね。わたしは、怖くなって、すぐに話題を変えたわ。それで、その話は終わったと思っていたの。
数日後、あの子が入院したことを聞いたときには、驚くだけでなく、不吉なものを感じたわ。背すじを冷たいものが走った。複雑な思いが心の中をかけめぐったわ。
わたしはすぐに、病院に見舞いに行った。本心から、かわいそうに思って。
彼女は、右足を骨折していて、痛々しかった。でも、それ以上にヒロインを演じられなくなったことのほうが、彼女にはつらそうだった。彼女は、悔しさをこらえて、わたしには明るくふるまっていた。
「残念だわ。でも、あなたが、わたしの代役をしてくれるのだから……わたしの分も頑張ってね。あなたなら、うまくいくわ」
そして、彼女は、そのけがのことを話してくれたのよ。
「きのうの夜、バス・ルームでころんだのよ。ついていないわ、わたしもばかよ。たった一匹の猫に驚いて、自分のチャンスを逃がしてしまうんだから。窓を開けていたからいけなかったのよ。猫が、飛びこんできて……えっ、そうよ。黒い猫だったわ」
黒い猫? わたしは、思わず言葉をのみこんだわ。やはり不吉な予感は当たったのよ。
その黒い猫は、マーゴに違いないと思った。マーゴは、あの子とわたしの運命を入れ換えてしまったのよ。恐ろしいことだけれど、本当に運命というものは、誰にもわからないものなのよ。
○
舞台の上で、昔、スターだった彼女が、五匹の猫を相手に熱演している。猫たちは、彼女をとりまいて、黙って彼女の話を聞いていた。彼女が話していたのが、自分の半生だったのか、それとも劇の台本だったのかどうかはわからない。しかし、彼女は確かに昔、この大劇場の舞台の上で、満員の観客から、拍手と喝采を浴びたことがあったのだ。その時の興奮が、今、彼女の脳裏によみがえってくる。
彼女は、客席のほうを向くと、両手を広げて、陶酔するように、思い出の中の満場の拍手を受けとめた。彼女の耳には、あの時の拍手の音と、歓声が、鳴りつづけていた。
数週間後には、取り壊され、解体される予定のこの古い劇場の壊れかかった客席は、がらんと静まりかえっていた。そして、この廃墟のような劇場に棲みついているのだろう、十数匹の猫が、薄暗い客席からじっと舞台の上の彼女を見つめていた。
[ おわり ]
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